玄朝秘史  第四部第三十三回『漢中決戦 その六』  1.潜入 「おお、お主が朕の終焉か」  にたにたとしまりのない笑みを浮かべる男を、蜀漢軍の鎧をつけた女性が無表情に見下ろしている。  洛陽の宮殿ほどの豪奢なたたずまいはないものの、綺麗に整えられ、過ごしやすそうな小さな部屋。  誰一人相手をする者もないその部屋の中央に座り込んで、男は酒を呷っていたようであった。  女は入り口に立ったまま彼を見下ろし、しばし後で、なにかに気づいたのか不思議そうな表情を浮かべ始めた。  その背に、どこからか声が聞こえてくる。 「文ちゃーん。どこいったのー?」 「おお、斗詩ー、こっちこっち」  ぱっと顔を輝かせ、彼女は振り向き、手に持った斬山刀をぶんぶんと振った。おかげで、屋根や壁の一部ががりがりと削られているが、彼女は気にしない。  そんな細かい性格ではないのだ。かつての袁家の二枚看板、文将軍は。 「もう、敵中で突出しないでよ。いくら変装してるからって……。あ、もう、顔出しちゃだめでしょ」 「だって、息苦しくてさー」  蜀漢軍の鎧をつけ、兜代わりに布で頭と顔を覆った人物が近づいてくる。  彼女は相棒の猪々子をしかった後で、ちらっと部屋の中を見る。そして、露出している目の周りだけでもわかるほど、顔をひきつらせた。 「あれ、斗詩も取るの?」  慌てて顔の布を外す斗詩に、猪々子はのんびりとそんなことを言う。だが、そんなことに構わず、残る袁家の二枚看板の一人、顔良こと斗詩は男に向けて、頭を下げた。短く切りそろえられた髪が、ゆっくりと揺れる。 「陛下、お久しぶりです」  その様子を見て、ぽんと手を打つ猪々子。 「あ、やっぱ、こいつ帝? どっかで見たことあるなーって思ってたんだよね」 「もう。一刀さんと違って、たしかにあんまり近くでは会ってないけどさー」  いつも通り過ぎるのんきな様子に、斗詩は苦笑いするしかない。 「まあ、とりあえず、居場所は確認できたけど……。んー」  気を取り直して、周囲を見回す。  元々南鄭内部に侵入されることを想定していないのか、あるいはそのときは別の場所へ移すつもりであったのか、この場所は防御に適しているとは言い難い。  ただし、逃げるのはそれほど難しくなさそうだった。  そんなことを考えていると、ごほんと大きな咳払いが聞こえる。 「さあ、主たちのやるべきことを成すがいい」  自分から明らかに注目が外れたとわかったのだろう。漢朝の帝こと劉伯和が空咳で二人を振り向かせた後で、そんなことを言う。  だが、その言葉に、猪々子は困ったようにぽりぽりと頭をかく。 「んー。そう言われてもなあ……」 「朕はもはやこのようなかりそめの世に未練はないぞ」 「あのー、なにか誤解なさってると思うんですが……」  猪々子の態度をどう受け取ったのか、まじめな顔で続ける男に、斗詩が申し訳なさそうに告げた。 「なに?」 「私たちは、陛下を殺したり、誘拐したりする為に来た訳じゃありませんよ」 「……なにを言う。貴様たちは、北郷の……」 「うん。アニキたちに言われては来たんだけどさ」  こいつは、困ったな、と猪々子は呟く。彼女は、この南鄭に突入する前に一刀たちと交わした言葉を思い出していた。  七乃についてこいと大見得を切ってみたものの、一刀にはまだ説得せねばならない相手が残っていた。 「本陣じゃなくてあんたが前に出る……ねえ」 「ご承知のこととは思いますが、危険ですよ?」  詠の鋭い視線と、月の彼を案じる表情に、一刀は内心たじろいだ。だが、なんとか顔に出さずに言葉を続けることができた。  いま、ここには本陣に属する彼とその皇妃が全員集まっている。詠や月、音々音はもちろん、麗羽や斗詩も納得させねば、彼が動くことはできないだろう。 「俺が見る限り、戦場の局面は大きく動こうとしている。殲滅戦なら……いや、普通の戦でも、ここはたたみかけるところだ。でも、今回はそういう戦じゃない。そうであってはいけない。この戦を終わらせるのは俺の仕事だろう」 「あんたの……いえ、ボクたちの仕事は、本来、戦が終わった後なんだけどね」  ふうと小さく息を吐く詠に、音々音が腕を振り上げて、一刀を擁護する。 「とはいえ、こいつの言うことにも一理あるとは思いますよ」 「そうなんだけどねえ……」  あごに手を当てた詠と、複雑そうな表情を浮かべる月が目配せを交わし、小さくうなずきあう。 「じゃあ……」 「その前に、別のことを決めさせてもらうわ。こっちのほうが急ぐの。いい?」 「ああ、うん」  どうやらうまくいきそうな雰囲気を見て取った一刀が勢い込んで前に出るのに、詠はさっと強い視線を向けて制した。  そのまま、戦術を考えるための卓へと向かい、そこに描かれた地図の上に指を走らせる。 「いま、戦場では焔耶の部隊が大きく下がり、桔梗、紫苑の部隊もその中核は一歩引いている。さらには、敵本陣にもなんだか動きがあったとも報告が来てる。これらを考え合わせると、焔耶はもちろん、桔梗と紫苑のどちらか、あるいは両方が戦場を離れているものと推察できるわ」 「桔梗と紫苑が焔耶の後を追っているということか」 「あるいは、先回りするつもりかもしれません」 「いずれにせよ、南鄭は混乱するはず。そこで」  一刀と音々音の推測のどちらにもうなずいて、詠は、皇妃たちの中から二人を差し招く。  それに応じて一歩前に出てきたのは、おかっぱ頭の女性と、闘志が押さえきれないといった様子の女の二人だ。  ある意味、この戦場でずっと待機させられていた二人と言えるかもしれない。 「こいつらを送り込みたいのよ」 「斗詩と猪々子を?」 「やらせたいことから考えれば明命を使えればいいんだけど、さすがに……」  最後まで続けず肩をすくめる詠に、一刀も苦笑する。明命をいま戦場から呼び戻してなにかやらせるというのはほとんど不可能に近いだろう。  明命のことであるから――蓮華が許したであろう範囲内で――一刀たちの言うことは聞いてくれるだろうが……。 「あたいらがいなくても、本陣の指揮はできるだろ?」 「本来は一刀さんの護衛につきたいんですけど……」  指名された二人がそんなことを告げる。当人たちはやる気満々のようであった。いや、猪々子のやる気に斗詩がつきあっている、いつもの構図というべきか。 「まあ、俺の護衛はなんとでもなるよ。というよりも、蜀の武将たちが俺の命を狙うようなら、その時点で俺が前に出た意味がなくなってるってことだから。すたこらさっさと逃げ出すさ」  武将ならずとも兵が抵抗した場合も戦を徹底的にやることになり面倒ではあるのだが、そこはいま考えてもしかたない。  少なくとも、退くべき時は退くと彼は決意していたのだから。 「それで、二人にはなにを?」 「不測の事態を防ぐことですわ」  それまで黙っていた麗羽が金髪を振り立てて、誇らしげに言う。彼女にとっては子飼いの部下であった二人に役目が言い渡されることが、それなりに誇らしいのであろう。 「不測の事態?」 「帝の謀殺よの」  一方で、椅子に腰掛け、つまらなさそうに足をぶらつかせているのは美羽。  彼女は戦闘が終わった後に兵を癒やすために歌ったり踊ったりしてみせる時以外はやることもなく過ごしている。その暇な時間を一緒に過ごしてくれるはずの七乃が彼女を放って一刀の元へ行ってしまったためか、どうも機嫌を損ねているようだった。  一刀は自分の後ろに控えている七乃をちらと見てから、美羽の言葉を考えてみる。 「なるほど。特に皇妃たる武将勢が関わっていれば、後々の禍根となる、か」 「そうです。ですから、お二人に蜀の軍に紛れて南鄭に入っていただき……」 「まあ、なにもなければよし。あれば、ちょっと手を出してきてほしい、とそういうことよ。暴走するやつがいれば、戦が終わるまで押さえておいてもらいたいところね」 「だが、危険だぞ? 俺よりもっと」  月と詠の説明に、一刀が斗詩たちに顔を向ける。 「南鄭の城内は、一度見てますし、それに……」 「一暴れするくらいでちょうどいいさ。なにがあったって帰ってくるから安心しときなよ」  そんな風に言って、彼女たちを思いやる視線をよこす男に、斗詩は明るい笑顔で返し、猪々子はそれよりももっと獰猛な笑みで応じるのだった。  2.到着 「まあ、そういうわけだから、ついでっていうか、確認っていうか……。まあ、念のためだな、念のため」  うんうん、と猪々子はうなずく。その横で斗詩もしかたないというような複雑な笑みを浮かべている。  それから、斗詩は心配そうに男に声をかけた。  おそらくは猪々子の話に怒るであろうと思われた男は、意外にもおもしろそうな笑みを浮かべていたからだ。  おかしくなっちゃったのかな、と彼女が心配するのも無理はないだろう。 「あの……」 「はっ!」  猪々子の話を聞き終えた男が大きく息を吐く。己の中のすべてを吐き出すかのような、強い息吹であった。 「念のためか。漢の帝がついで止まりか!」 「あたりまえだろー。どうせあんたなにもしてないじゃん。領土だって、蜀にのっかってるだけだしさー」 「文ちゃん」  猪々子をたしなめて黙らせ、斗詩は柔らかな、しかし、心はまるでこもっていないよそ行きの笑顔をその顔に乗せた。 「私たちは見届けにきただけですよ。かつて袁家の臣として生きてきた、その時代が終わることを」  斗詩の言い様は、言葉とは裏腹に、その時代がすでに終わっていることを示している。  後は、儀礼的、象徴的な問題に過ぎないのだろう。そして、彼がそれをなすことになっていると暗に彼女は言っているのだった。  男は、それに平板な声で応じた。怒りや恥辱といった感情をどこかに捨て去ったかのような声であった。 「ならばなおさら朕の首を欲するのではないか。貴様らが首を持ち帰れば、蜀の者どもや、臣下どもがそうするより、よほどすっきりするではないか」 「いやー、そうもいかないんだよね」  ぱたぱたと手を振って猪々子は帝の言葉を否定する。 「だって、あんたには、生き延びて、国が滅びた怨みを一身に背負ってもらわないと。ひでぇ話だけど、まあ、しかたないよね。そういう生まれなんだし。姫だってさんざん言われてたもんな」 「死んで逃げられても困るんですよね」  うちらみたいなのは気楽でいいよなー、と猪々子が笑い、斗詩も否定しない。 「ふん……生き延びる、か。愚かしい話よ……」  男は嘲るようにそう漏らす。その様子は、実に疲れ果てたもののように見える。  だが、二人はそれに構っている暇がない。 「おっと、来ちまった」 「ありゃー……」  片方は楽しげに、片方は困ったように言いながら、共に巨大な武器を構える二人。  掲げられた斬山刀と金光鉄槌を見て取って、廊下を進んできた女の足が一瞬鈍り、すぐにそれまでに倍する速度に早まった。 「貴様ら、なぜ、ここにいるっ!」  そう叫びながらこれまた巨大な金棒をふるうのは焔耶である。走った勢いそのままに、彼女は鈍砕骨をたたきつける。 「いやー、そっちのおかげだよ」  鈍砕骨の一撃を斬山刀でしっかりと受けとめ、横合いから斗詩が巨大な鉄槌をふるうのに体をひねって場所を空ける猪々子。 「なに?」  鈍砕骨に絡まってこようとする斬山刀を弾いて外し、金光鉄槌の一撃を避けるため、彼女は後ろへ飛び退いた。そこで武器を構えたまま、二人の姿を観察する。 「その鎧……」 「実は、途中まで一緒だったんですよ、私たち」 「焔耶の部隊はでっかい得物持ってるやつ多いから、紛れやすかったよ」  こちらも武器を構え直し、猪々子と斗詩は静かに焔耶に告げる。焔耶の顔が、怒りか恥辱か、いずれにせよ燃え上がるように赤くなった。 「くっ、貴様ら!」  兵をまとめ、余計な狼藉を働かぬよう、そして、彼女がしようとしていることを邪魔されぬよう随所に信用できる者を置き、市中を騒がせない努力を続けながら進んできた焔耶。  それに対し、門を抜けた時点で紛れ込んでいた隊列を抜けだし、一心不乱に城内の、それも高貴な人間が隠れていそうな場所を探っていた斗詩たち。  この条件では、帝のもとへたどり着くまでの素早さがどうしても違ってしまう。  焔耶が出し抜かれてしまうのもしかたのないところであった。  それよりも、戦場の混乱が味方したとはいえ、焔耶の部隊に追いつき紛れ込んだ二人の技量を褒めるべきか。  もちろん、それでさえ、焔耶が南鄭に向けて下がるという予定外の行動を取ったのが原因なのであるが。 「なんのつもりだ!」 「いや、それはこっちが聞きたいんだけどさー」 「なんだと?」  じりじりと間合いを取り合う三人。  いかに焔耶でも、息のあった二人を即座に蹴散らせると思うほど楽天家ではない。  それでもできる限りはやく相手を片付けるためには、間合いをつかみ、しっかりと攻撃を通す必要があった。  そして、猪々子と斗詩のほうは、焔耶を打ち倒すのではなく、疲れさせ、二人で押さえつけようと考えている。おかしなことをさせないためにはそれが手っ取り早いと。  故に相手に打ち込ませてこようとしていた。  こうした思惑から、三人はにらみ合いながら、攻撃の機をうかがい、じりじりと移動し続けている。 「そもそも、なんで控えの部隊が南鄭に入っちゃったんですか? そのせいもあって、いろいろおかしくなってますよ。戦場が」  斗詩には珍しい、挑発するような物言い。焔耶はそれに顔を紅潮させるが、打ちかかってはこなかった。 「お前たちには関係ない!」 「いや、あるだろ。戦ってるんだから」 「ワタシはワタシの信じる道を行っているまでだ」  予備動作を感じさせず、鈍砕骨が振られる。振り下ろしたのを避けられたところで、すくいあげるように足を絡め取ろうとするのを、斗詩が飛び跳ねて避けた。 「そうなんでしょうけど……っと」 「あんまり変なことされると、アニキが迷惑するからさ」  斗詩が空中で不安定な姿勢になるのを焔耶が狙う。猪々子がそこに割って入って、大きく斬山刀を振った。 「それこそ、戦っている敵の首魁ではないか。なぜワタシがあやつの迷惑を気にせねばならん!」  距離を取らせる目的だとわかっていながら、焔耶は猪々子の剣を避けて下がるしかない。二人の目線すら合わせることのない連携に彼女は舌打ちした。 「そりゃあ……」 「ねえ?」 「そもそも!」  妻だ夫だと言われるとそれはそれで面倒なので、焔耶は大声をあげて話を逸らそうとする。 「変なこととはなんだ!」 「え? こいつ殺しに来たんじゃないの?」  首を傾げて部屋の中を示される。そこでは、武将たちの争いにはまるで無関心に再び酒を呷り始めた男の姿があった。  焔耶の眉が跳ね上がり、あきれたようにくにゃりと下がる。 「……お前たちはワタシをなんだと思っているんだ」  まとっていた闘気さえうすれさせて呟くのに、猪々子も斗詩も驚きの表情で尋ねざるを得なかった。 「じゃあ、なにを?」  見事にそろった言葉に焔耶が言いにくそうに口をつぐみ、そして、再び開こうとしたとき、そこに新たな声が加わった。 「わしらにも聞かせて欲しいものだな」  角を曲がってやってくるのは巨大な刃と弩が組み合わさった豪天砲を構える女傑。師匠たる女の声を聞き、焔耶の体が震えた。  そちらに振り向く間もなく、彼女の視界――斗詩や猪々子のさらに向こう、廊下の隅から現れた人影がある。 「焔耶ちゃんがいったい何をしに来ているのか、ね」  愛用の弓に矢をつがえ、危なげない足取りで近づいてくるのは紫苑。すでにその矢の射程に、斗詩も猪々子も、そして焔耶も入っている。  廊下の角を曲がってきた桔梗はともかく、紫苑の側には焔耶自身目を向けていたはずだというのに、いまこのときになるまで気づかないとは。  そして、なによりも、最後に聞こえてきた声が焔耶の度肝を抜いた。 「うん、私も……聞きたい」  桔梗の背に隠れるようにしてやってきた女性の柔らかな声が、彼女の耳朶を打った。  3.終焉 「と、桃香様……」  ぎこちない動作で首だけを後ろに向けようとする焔耶。  その前に立つ二人は、事態を把握し、かすかに冷や汗をかいていた。 「ありゃ……」 「これは……まずい、かなあ……」  焔耶一人なら二人の連携をもってすれば、取り押さえることも、それが無理ならば二人で逃げ出すこともできる。  それに桔梗と紫苑が加わっても、いなして逃げ出すのは可能であると、二人は踏んでいた。  だが、挟み撃ち、しかも、相手が矢をつがえた状態でとなると……。  いや、それよりもまずいのはここに桃香がいることだ。  彼女を守るためなら、三人とも、それまでの経緯など構わず、なんでもするだろう。  自分たちの前に一刀がいれば自分たちもそうするように。  彼女がいなければ逃げられたかもしれない相手が、いまや絶対にそれを許さない存在と化している。  狭い廊下で弓将が十全に力を発揮できないという一縷の望みに賭けようと思うほど、斗詩も猪々子も莫迦ではなかった。  後ろを向くまでもなく紫苑の矢はぴたりと二人を向いているとわかるし、豪天砲はいつでも発射できるように構えられている。  桔梗のほうはその構え方から、ことによっては焔耶ごと二人を撃つつもりだとすぐにわかった。 「そこの二人。できれば動かないでくださる? いま無駄な血を流している暇はないの」 「うー……」 「ま、しゃあないな」  紫苑の警告に、渋々武器を下ろす二人。彼女たちは機をうかがうため、その存在を消すように口を閉じた。 「それで? 焔耶ちゃん」 「ええと、その、ですね……」  桃香が桔梗の横まで出て尋ねかけるのに、焔耶は小さな声で反応する。そこに、彼女の師匠の怒号が飛んだ。 「もごもご言うな! しゃんと話さんか!」 「わ、わかりました!」  ぱっと体ごと向き直り、焔耶は口を開く。 「ワタシはこいつを……帝を、本陣に連れて行くつもりだったのです」 「連れて行ってどうするの?」 「監視します」 「監視?」 「はい。おかしなことをしないように。それに、あちらの帝は戦場にいる。こちらは安全な城の中にこもりきり。これでは、兵たちの士気にも影響が出ましょう」  そこで一拍おいて、なにか桃香が言おうとしたところで桔梗が口を挟んだ。 「だから、帝を引きずり出そうとしたと?」 「はい」 「……無断で持ち場を離れて、そんな理由とは。いや……最悪の暴走をせんだけましか、いやいやいや……」 「しかし、桔梗さま」 「黙っておれ! 自分のしでかしたことの意味もわからんか!」  苦虫をかみつぶしたような顔でぶつぶつ言う桔梗になにごとか言おうとする焔耶を、彼女はしかり飛ばす。  そこに、とても穏やかな声がかかった。 「ううん、待って」  桃香は桔梗の腕に優しく触れると、次いで焔耶へとこれも柔和な笑みを向けた。 「焔耶ちゃん。言いたいことは言っちゃおうか。私、聞くよ」 「しかし、桃香様、はよう戦場に戻らねば……」 「桔梗」 「む……」  紫苑に名を呼ばれ、出過ぎたまねと思ったか、桔梗は口をつぐむ。 「ね、焔耶ちゃん」 「はい。正直なところ、蜀の兵は、こやつに……いえ、こやつに象徴される漢朝の者どもに不信感を抱いております」  再び桃香に促され、焔耶は自らの中にある熱を言葉に代えて話し始める。 「さらには、蓬莱の帝は戦場にある。巡幸ならばそれが当然とも言えますが、しかし、改めて戦場にあることの意味を考えれば、自陣にはそれがないのが不自然と思えてしまう」  ぐっと拳を握って、彼女は訴える。 「はっきり申し上げます。我らは、誇りをもって桃香様にお仕えしてきた。その上に乗っかる形でやってきたこやつらが戦いもせず、兵を鼓舞することもせず、ただただ城でのほほんと暮らしている様は、許し難いものがあります」  そこで焔耶は首を振り、桔梗と紫苑にそれぞれ視線を飛ばした。 「あるいは、そんなことを考えたのは、ワタシの部隊が、最初から戦っていない部隊であったからかもしれません。しかし、それ故に戦場に倒れる友を見てきた皆の不信と怒りがたまっていくのが、ワタシにはわかったのです」  そうして、彼女は吐息を吐くよう結ぶのだった。 「ですから、ワタシはこやつを連れに来なければならなかった」  沈黙。  あきれたような、しかし、どこか同意する雰囲気も持った、冷たいとも暖かいとも言い難い沈黙が彼女たちの間に落ちる。  それを打ち破るのは、本来は桃香の役割であったろう。  だが、まさか、別の声がかかるとは。 「愚かよのう」 「なにっ!」 「愚か極まりないわ」  誰もがその存在を知っていながら、そこにあることを忘れていた男が、そう呟いていた。  荒れ果てた地を吹きすぎるほこりっぽい北風を思わせるかすれた声が、その喉から漏れ出る。 「すべてが意味などないと言うのに」  男は戸口の向こうにいるすべての存在を嘲弄するかのような目つきで、彼女たちを見ていた。 「救いがたい貴様らに教えてやろうではないか。この世の真実というやつをな」  そうして、けく、と笑いのようなため息のような声を漏らしながら、彼はこう言ってのけたのだった。 「この世は、北郷一刀の見る夢のようなものなのだぞ」  と。 (玄朝秘史 第四部第三十三回『漢中決戦 その六』終 /第四部第三十四回に続く)