玄朝秘史  第四部第三十二回『漢中決戦 その五』  1.始動  御料車玄武の見晴台の上――北郷一刀の姿はそこにあった。  巡幸の間は、帝である彼が見世物のように鎮座するはずの場所であるそこで、一刀は戦場の動きを眺めている。  高くなっている上に狙いやすい場所ではあるが、戦場から矢が飛んでくる心配をするには少々遠い。  それでも矢避けの天蓋が取り付けられた見晴台から、彼とその前に立つ音々音は真剣な表情で戦場を見つめていた。 「呉軍は、愛紗と当たっているみたいだな」 「ですな。おそらくは、一騎打ちでもやっているのでしょう。あの動きの無さから見て」 「そうか……。しかし、そうなると一騎打ちが三ヶ所か……」  蓬莱本陣から見て右翼では恋と星が、左翼では華雄と鈴々が一騎打ちに及んでいる。そして、中央では愛紗との一騎打ちが行われているというわけだ。  ただし、この時点で、愛紗と対しているのが亞莎であるなどということは蓬莱側からはわからない。武将という点でも明命であると判断するのが当たり前であろう。  いずれにせよ、孫呉の介入という事態そのものを想定していなかった一刀としては内心動揺甚だしい。もちろん、それを表に出さないだけの胆力を彼は備えているが。  厳しい表情で、彼は戦場を見つめ続ける。  一騎打ちが行われている以上、戦場の一部は動きが止まる。その停滞を利用して中軍が二派に分かれて行こうとするのを、一刀はうなりながら見守っていた。  多数の兵を二つに割って導いていく雪蓮たちの手腕に感心する一方、その行為が危険を伴うと理解するが故のうなり声であった。  一騎打ちで止まってはいるが、愛紗の率いる部隊のすべてが動かないわけではない。まして、紫苑や桔梗たちは、左右に割れることで、集団自体の数を減らしたそれぞれの兵たちをここぞとばかりに叩くだろう。  本陣をさらに前に出すべきだろうか。  そんな考えも浮かぶが、それをすればかえって雪蓮たちの行動を制約しかねない。  中軍がうまく進撃したのに本陣を落とされていましたではどうしようもないからだ。  それに、その機となれば、詠がきちんと言ってくれるだろうとも一刀は思っている。  そのために、彼は様々な感情を押し殺して、戦の推移を見届け続ける。  音々音と様々なことを語り合いながら。  そして、一刀はそれに気づく。  彼はその時、戦場で実際に切り結んでいる部隊より、その後ろや横に控える部隊を主に観察していた。  戦場全体の大きな動きを認識するには、そうするほうがいいと考えていたからだ。 「なあ、あれ、焔耶の部隊じゃないか?」 「え? ああ……たしかに。しかし、どこに向かっているのでしょう……?」  それまで戦場全体を背後から伺うようにして控えていた魏延の部隊が動き始めている。  だが、それは戦場の中心へ向かう動きではない。  むしろ、戦場を離れ、背後の都市へと向かう機動に見えた。 「南鄭に向かっているように見えるなあ」 「後退ですね。しかし、なぜ……。あの部隊は予備に置かれているとはいえ、撤退していいものではありません」  現状、戦場の大きな流れに関わっている部隊ではない。だが、抜けてしまえば蜀漢軍の圧力は確実に減じる。  果たして何を意図したものであるか、音々音も戸惑っているようであった。 「迂回するためとか?」 「いえ、それなら、あそこまでは……」 「南鄭で何事か起きたのか?」 「そう考えるのが妥当でしょうな。いえ、しかし……」  そこで、こう言えたのは、音々音の軍師としての鋭い感受性が故であったろうか。 「……あるいは、起こすつもりかも」 「……起こす、か」  二人が見守る間に、魏延隊はさらに後退し、南鄭へと向かっていく。明らかに迂回その他の行動ではなかった。 「ここから、どう読む? ねね」 「……そうですね。まず、あの後退に合わせて動く部隊があるかどうかによります。なければ、単なる予定通りの行動でしょう」  だが、その予想は、一刀がすっと指さした先の動きで覆る。 「両翼に動きが」 「桔梗に紫苑。……動きましたか」  実際にはまだ大きな動きにはなっていない。ただ、厳の旗と黄の旗のあたりで乱れが見えただけだ。  だが、それが今後の大きな動きの前段階だということは、二人ともによく理解していた。 「……となると?」 「やはり、なにか、異変が起きたのでしょう。あるいは、これから起きます」 「そうか」  そこで音々音は体をひねって一刀を見上げた。その瞳の真剣さよ。 「すいません。ねねは詠のところに行かねば」 「ああ、わかった」  彼が大きくうなずくのに、小さな体で元気よく御料車の側面を滑り降りていく音々音。  俺がやったら、踏み抜くか転がり落ちるだろうなと、その様子を眺めながら、一刀は思う。  そこで首を振り振り、もう一度戦場に目をやると、男は小さく呟いた。 「潮時……か?」  その疑問に答える者はいない。  彼は自らの発した問いに答えを得るまでその場に立ち続けていた。  2.出陣  玄武から降り立った一刀は、そこに意外な姿を見つけた。  てっきり詠たちと今後の策を練っているか、美羽の世話をしているだろうと思い込んでいたのだ。 「……七乃さん」  黝い髪の妻に、小さくそう呼びかける。その幼くも見える顔に常に張り付いている笑みは、今は影も形もなかった。 「行かれるんですか。口説きに」 「はは、そういう言い方されるとあれだけど……まあ、そうかな」  改めて言われてみて、自分がしようとしていることを把握する一刀。  孫呉の参戦に、焔耶の不可解な行動。すでに、戦場は、『蓬莱と蜀漢の決戦』という本来の枠組みを大きく外れようとしている。  この事態を収拾する必要があった。  そのために、力押しではなく、自らが出て行こうとしていることを、口説くと称するのは、実に正しいことのように思えた。 「ひどい男ですね。こーんなに可愛い奥さんがいるのに、まだ足りませんか」 「ん……。ごめん」  素直に頭を下げる一刀。足りないというのは少々違うが、いま、命をかけて戦っている妻たちを止めるためには、自分もなにかをしなければ、と思うところもやはりあるのだった。 「否定しないってすごいですよねー」 「うん。でもね、俺にとっては一人だって欠けちゃだめなんだ。国を建てるから、それもあるけど、それだけじゃなくて……。一人一人が、かけがえのない俺の大切な人なんだ。俺が……」  そこから先は言葉にならない。ちらと七乃の顔を見て、それ以上言う必要がないことを一刀は悟る。  わざとらしいほどの大きなため息を、彼女は吐く。 「だからって、ご自分が出なくても。ここで一刀さんが死んだら、なんの意味もないんですよ? 将たちはともかく、兵たちは本気で偽物だと思ってるんですから」 「ここで俺が出れば、死者が一万は減る」 「でも、失敗すれば、全滅させなくちゃいけなくなりますよ。帝の言に逆らう立場になっちゃうんですから」 「……ああ」  わかっていた。  わかっているからこそ、出なければいけない。  彼が戦を始めたのだから、それを終わらせることができるなら、やらねばならない。  男の暗い顔つきを見て、七乃はなにか悔しそうな表情になる。 「私、知ってるんですよ」  なにを、と一刀が問う前に、七乃は決然と言い放った。 「一刀さんが大事な決断を思い出して、げーげー吐いたりしてること」 「……そうか」 「ある程度勘が鋭くて、政治の世界を垣間見たことのある人間はみんな知ってます。でも、言えない。言っちゃいけないことも知っている」 「それでも七乃さんは言うんだね」 「ええ、だって、私は悪人ですから」  実に愉快そうに、一刀は笑う。悪人だと宣言した女のことを嘲るでもなく、否定するでもなく、ただ、優しく、彼は笑う。 「優しいね、七乃さん」 「ええ。もちろん。でも残酷ですよ。そうして吐いたり、悪夢にうなされたり、夜、一人眠れずに亡霊たちに責め立てられたって、私はなにもしません。出来ません。ただ、その後で、抱きしめて眠ってあげるくらいならしてあげてもいいですよ。美羽様と一緒に」 「はは、たしかに残酷だ。でも、本当に優しい」  一気に言葉を吐いた七乃は、一刀の反応に、ふうと小さく息を吐く。 「……行かれるんですね」  彼女の確認するような問いに、一刀はうん、とうなずいた。 「ああ、行く。決断を後悔することはある。それを下す重圧に負けそうになることもある。だが、決断を下した以上は事を成し遂げる。それが俺の仕事だ」 「そうですか。では、参りましょうか」  恭しく差し出される手。  白い手袋をつけたその手を一刀はじっと見た。  それは、帝を先導する手つきではなく、むしろ彼と共に歩くために差し出されているように見えたから。 「行くの?」 「もちろんお供しますよ。我が良人の晴れ舞台。美羽様も、麗羽様もここを譲る気はないでしょう」 「まあ……そうか。猪々子たちには悪いけど退いてもらわないとだめだね」 「相手を警戒させますからね。その点、私たちなら……。それでも、肉の盾にはなれますけどね」 「……させないよ」  死ぬつもりはなかった。  まして、彼の妻を、一人足りとて欠かすつもりはなかった。  北郷一刀は欲張りなのだ。 「信じてます」  その言葉に、ぐっと身が引き締まる。丹田に熱い火が入ったような気さえした。 「行くぞ、七乃」  初めて、彼は彼女の真名を呼び捨てる。  これまで常に七乃さんと呼び続けたその名を。  無意識などではない。きちんとわかっていて、彼はそうした。  このときにこそ、そうすることが正しいと、彼は感じていたから。 「はいっ」  その呼びかけに、女は、実にうれしそうに返すのだった。  3.困惑  両翼から紫苑と桔梗が本陣に戻ってきたと聞かされて、桃香は何事が起きたかとびっくりするばかりであった。  まして、二人から人払いを頼まれるとなると、さらにその動揺は増した。 「ええと、どういうこと……かな?」  二人を招き入れた小天幕で、桃香はおずおずと尋ねる。 「焔耶めが動きました」 「ああ、うん。それは聞いたけど。どこに行くつもりかな?」  桔梗に言われるまでもなく、魏延隊が動いたことはさすがに本陣でも把握している。問題は、なぜこの機にということと、どこへ向かうかが明確にはわからないことだ。  少なくとも本陣は命を下していないのだから。 「南鄭の城壁内に向かっているようです」 「え? なんで?」  紫苑の言葉に、桃香は素っ頓狂な声を上げてしまった。  日が暮れて、お互いに戦闘を停止するという段にでもならない限り、城壁内に用はない。  むしろ、民への被害を避けるため、できる限り南鄭からは離れているようにと皆には言ってある。  そのことの意味を焔耶が理解していないわけはないし、彼女は桃香の頼みをあえて破るような人間でもない。  焔耶に限っては、怯懦におそわれて逃げ去ったなどとは想像もできない。  では、いったいなにを目的として?  その答えを、紫苑と桔梗は持っているようであったが、二人で目配せを交わしあうだけで、言葉にしようとしない。  この二人が恐れためらうようなこととはいったい何か、と桃香は背筋が冷えるのを感じた。 「えっと……」  なんとか声を出し、促そうとしたところで、紫苑が観念したように呟く。 「おそらくは……帝を除くためではないでしょうか」 「はい?」  あまりのことに思考が止まろうとする桃香に、桔梗の追い打ちのような言葉が放たれる。 「ワシのせいでしょう。漢の大将軍たる桃香様と、蜀の主である桃香様、いずれに従うかと迫ったのはワシですからな」  もはや、桃香には声も出ない。  桃香自身は一人であるから、そんな分け方をされても困るという感覚と、そんなことを皆に考えさせてしまっていたのだという苦い感情が入り交じる。 「しかし、まさか戦の真っ最中にことをなそうとは……」 「物事を簡単にするにはいい機だと思ったのかもしれませんわ」 「ええっと、ちょっと待って、ちょっと待って!」  桃香はぶんぶんと手を振って、二人を制す。彼女はそのかわいらしい顔に苦悩の表情を浮かべながら、二人に問いかけた。 「帝をって……それでどうなるっていうの?」 「漢朝の勢力をすべて取り除けば、風通しはよくなりますわ」 「そんな……。だいたい、そんなことしたら、焔耶ちゃんは……」  たしかに、漢朝勢を除けば、かつての蜀の状況に戻れるかもしれない。いや、それは実際には難しいところなのだが、少なくとも焔耶にとっては、それが最善に思えたのだろう。  しかし、帝を弑逆するとなれば、焔耶もただではすまない。 「覚悟の上でしょう」 「それが……私のためだと信じて?」 「おそらくは」  焔耶の行動原理を考えれば、私欲や、大義に酔ってなどということは考えにくい。  彼女は彼女なりに、桃香のため、桃香にとって最良の状況を求めて行動に出たのだろう。  眼前の蓬莱軍を伐つことよりも。 「止められるとしたら……」 「はい」  あえて口に出さない言葉を、紫苑は即座に肯定した。  焔耶の行動を止められる者がいるとしたら、それは桃香に他ならない。それを理解するからこそ、桔梗も紫苑もここにいるのだ。  桃香は戦場の方向に顔を向け、しばし考え込むようにした。それから、顔をあげ、二人をまっすぐに見つめる。 「わかった。私、行くよ」  ほっとした雰囲気が紫苑と桔梗を包む。  焔耶の暴走を止めるために桃香が動いてくれなければ、二人で焔耶を始末するしか無くなる。それは師である桔梗としても、その友である紫苑としても避けたい事態であったのだ。 「では、お供しましょう」 「わたくしも」 「え、でも……指揮は……」  驚く桃香に、紫苑が体を寄せ、密やかにささやく。 「このようなこと、兵を多く連れていくわけにはいきませんわ」 「あ、そっか……」  それに、と桔梗が低い声で付け加えた。 「どうしようもない時は、二人がかりにて」 「……そうはさせないよ」 「わかっております。なれど……」  あくまで強い口調で言おうとする桔梗の言葉を桃香は遮る。 「まずは朱里ちゃんと雛里ちゃんに連絡。それから……すぐに行くから。焔耶ちゃんのところへ」 「はっ」  もはやそれ以上語るべき言葉はなかった。  桃香の命に従い、二人は動き出すのだった。  4.対峙 「そんな……なんてこと……」  本陣からの急使が携えてきた桃香からの伝言を読み終えて、雛里は呆然と呟くしかなかった。  焔耶の暴走、そして、それを止めるために桃香、桔梗、紫苑が戦場を離れること。  いずれも、蜀漢にとってはとんでもない痛手であった。  もちろん、桃香たちの選択を責めるわけにはいかない。  焔耶が――おそらくは追い詰められた結果として――なそうとしていることは、止めなくてはいけないし、そのために桃香が、そして、その護衛と焔耶への抑えとして紫苑と桔梗が抜けざるを得ないことは理解できる。  だが、よりにもよって、この時に……と思わざるを得ないのだ。  彼女の目には、近づきつつある部隊の旗が見えている。  その掲げる旗は、黄。  祭が率いる蓬莱軍が攻め寄せつつあった。  本来、雛里が連携すべき部隊はすべて、いまのところあてにならない。  星の部隊は恋を抑えるのに回っている。  愛紗の部隊は、一部が雛里の指揮下に入ったとはいえ、自由に動かせるとは言い難い。  桔梗の部隊は、その将を欠いている。  祭を押さえるのに、兵の数ですら十分とは言い難い。  いまでさえ、桔梗がいれば激しい射撃が繰り出されているであろうに……。  目の前が暗くなるような感覚を、雛里は得た。  終わるのか。  かりそめの平和を破り捨て、大好きな人にあらがってまで始めたこの歩みを、ここで止めねばならないのか。 「いえ……まだです」  いや、まだだ。そう、まだ、終わっていない。  まだ、潰えていない。  我らの戦は終わっていない。 「私が、出ます」  ここで、終わっては、いけない。 「し、士元様」 「私の輿を!」  常には出さない大声を、彼女は懸命に振り絞る。  一人でも多く、少しでも遠く、彼女の声を伝えるために。 「忘れるな! この蜀漢に、大徳の劉備様あり! それを支える龍あり! そして、我、鳳あり!」  用意された輿に担ぎ上げられ、雛里はその小さな体全体を使って叫ぶ。 「偽帝軍ごときにひるむでないぞ! たとえなにがあろうと、天意は我らにあり!」  兵たちが聞いたこともないような強く張りのある声が、戦場を流れた。 「見よ! 諸葛亮の軍も動いている! 答えるは我らぞ。竜と鳳はいま、ここに飛び立たん!」  見える必要などない。戦場の端と端にある部隊同士で、その存在がわかる必要はない。  ただ、朱里ならば、彼女の無二の親友ならば動いているはずだ。そう確信していた。 「蜀漢……万歳!」  その声に応じるように、兵たちの間から、雄叫びが上がった。 「蜀漢万歳」 「劉備様万歳」 「鳳令万歳」 「丞相万歳」 「蜀漢万歳」 「蜀漢万歳」 「蜀漢万歳」  その叫びはさらに加速し、突撃のかけ声となって、戦場にとどろく。 「蜀漢……万歳」  応じるように漏れる雛里の呟きもまた、熱っぽいものであった。  一方、その動きを見つめる瞳は、楽しそうに、実におもしろそうにきらめく。 「奇しき縁よのお。かつて赤壁の戦を作り上げたのは、儂と主じゃった。その主がこの戦もつくらんとするか」  紅の仮面をかぶる女は体の中でたぎる血の熱を込めるように、そう漏らす。  その手が、仮面にかかり、一気にはぎ取る。 「ゆくぞっ、小娘! 目なぞ見えぬでも、揉みに揉んでくれようぞ!」  黄公覆の吶喊の雄叫びが、戦場にとどろいた。  そして、南鄭の城の奥深く。 「おお、お主が朕の終焉か」  漢朝の血脈を保つ男が、巨大な武器を持つ女を見上げて、いやらしい笑みを浮かべていた。 (玄朝秘史 第四部第三十二回『漢中決戦 その五』終 /第四部第三十三回に続く)