玄朝秘史  第四部第三十一回『漢中決戦 その四』  1.昏迷  焔耶は、呉軍の乱入によって小さな混乱が巻き起こっている戦場を、少し離れた所から超然と眺めていた。  彼女の部隊は、蜀漢軍の中で、予備として位置づけられている。  戦場の帰趨が定まりつつあるときに投入されるべく、ひたすら耐え続けることを要求される、地味な役割だ。  だからこそ最後の切り札として、あるいは戦場の混乱を収拾する手立てとして使う事ができる。そんな重要な役目でもある。  そうした立場である彼女にとって、愛紗と亞莎の一騎打ちで引き起こされる程度の混乱は、まだ自分の出番であると知らせるものではない。  万が一愛紗が討ち死にでもすれば焔耶の部隊がほうぼうに火消しに回らねばならないだろうが、さすがにそのような事態は想定しがたかった。  故に彼女は、戦場の成り行きを冷静に観察しながら、別の事にも思考の一部を割り振っていた。 『漢の大将軍をとるか、蜀の王をとるか』  師である桔梗から突きつけられた問いが、焔耶の頭の中で響いている。  二つの役割は、いずれも桃香という唯一人の人物――焔耶の愛らしき主が背負うものだ。  だが、その意味合いは大きく異なる。 「そもそも、漢のやつらが……」  苦々しげに、彼女はその顔を歪ませる。  都を追われた漢朝の帝を迎え、国としての大義名分を得る。そこまではよかった。  だが、その後の動きに関しては、焔耶をはじめとする、桃香が作り上げた『蜀』を愛する者たちにとっては腹立たしいことも、また起こっていたのだった。  彼女は思い起こす。彼女自身が経験したこと、桔梗から、あるいは他の武将たちから聞いた話の数々、そして、部下が漏らす愚痴のいくつかを。  思うに、当初から、意識のずれはあったのだろう。  蜀にとって、漢の帝を受け入れるのは、正統性という強い裏付けを持つためのものだった。  そもそも、桃香たちが立ち上がったのは、乱れる世を正すためである。  そこに、孫呉のような地域支配の強化を望む姿勢や、曹魏のような大陸制覇の野望は存在しない。  手段として勢力拡大、地域の支配といったことを行っていたとしても、それはあくまで手段であって、目的ではないのだ。  少なくとも名目上では。  勢力を形作る根本を見つめ直しても、孫呉及び曹魏を引き継ぐ蓬莱にとって、帝国となることは容易である。  孫呉にとって、孫文台が成し遂げられなかった呉の保持を行うことは悲願であり、それを拡張することは、彼らの野望となる。  既に蓬莱に呑み込まれることが確定しているとはいえ、蓮華の登極は、不自然な事とは言えない。  もちろん、実際の効果としては、江東江南の豪族たちへの支配力強化という目論見があったのだが。  蓬莱については、いまさら長々と言うまでもない。  曹孟徳という一代の英雄が夢見た大陸制覇の野望を、その夫である北郷一刀が実現する。  そのために帝を名乗るのも、漢朝を滅ぼそうとするのも、至極当然のことである。  だが、蜀に、たとえば桃香を帝と仰ぐ大義名分はあるだろうか?  繰り返すが、桃香をはじめとする義勇軍は、黄巾の乱に象徴される世情の混乱を鎮めるために立ち上がり、民と大陸の安寧を求めた。  そこに、大陸制覇だとか、国を打ち立てるだとかの目的は含まれない。  むしろ、それらの手段は、なにを使っても良いのだ。  さて、そうなると、最も穏当な手段は、既にある国を守り立てることであろう。  漢朝が大陸を支配する体制を再構築し、その名目上の支配下で、それぞれの理想を追求する。それが、蜀にとっての目指すべき状況であった。  それを選ばずに桃香を帝とした場合、蜀は、漢朝の滅亡をあえて座視しなければならなくなる。あるいは、積極的に漢朝の滅亡を後押しする結果となる。  そんな選択を、蜀は取ることが出来たろうか?  答えは否であろう。  理想を守るためには、現状では理想とは食い違う漢朝集団を受け入れざるを得ない。  蓬莱、孫呉、蜀漢の三国体制が形作られる直前、蜀はそんな状況にあったと言える。  もちろん、実利の面だけを考えても、蜀にはあまり取り得る道は多くなかった。  三国の中では国力に劣り、人は少なく、自ら中原を襲うには地形も良いとは言い難い。他国に対抗するにしても、余裕があるとはとても言えない状況である。  何かが、必要だった。  他国に負けない、何かが。  そして、遅かれ早かれ譲位を迫られるか、洛陽を追われるであろう漢朝の帝を迎え入れることは、蜀の影響力の強化には確かに役立ったのだ。  だが。  だが、やはり、異質な集団を迎え入れることでの弊害もある。  漢朝から流れてきた者たちが、自分たちの官位を認めろと主張し、あるいは、新たな官位を欲しがる。  この程度はいい。  また、指揮系統の混乱を防ぐため、漢朝の通例に倣って官位の整理を行い、これまでの人員の配置を変更する。  これも致し方ないことであろう。  だが、一部の高級官僚たちが売官を画策するなどという事態は、蜀側としては受け入れられない。  この時代、官位を金で売り、裕福な者が官位を独占するといった腐敗は、当たり前に横行していた。皇帝自ら似たようなことをやろうとした例もあるくらいだ。  だが、だからこそ、正さねばならない。  幸い、実行に移される前にそれらの腐敗官僚は罰せられ、みせしめとしての意味もこめてかなり重い罪を言い渡された。  とはいえ、意識の違いは、そう簡単には埋まらないものだ。  蜀は蜀で漢を大歓迎しているというわけでもないし、漢に古くから仕えてきた知識人たちは、蜀のような田舎に落ち延びなければならなかったことを嘆いている。  そして、洛陽から、あるいは、漢朝に与えられた任地から漢中に赴いた知識人たちは、総じて蜀勢を見下す態度が目立った。  それは殊に農夫や兵士といった、直接的な活動に携わる者に対して強く出るようで、警備の兵を邪険に扱った、などという話は幾度も聞いたものだ。  そのくせ焔耶たち桃香の側近の将たちには実に卑屈な態度を取る。  いかに書類仕事が出来ようと、そのような新参の官僚たちを、これまで必死で国を切りひらいてきた蜀の人間が信用できるものだろうか。  もちろん、官僚たちとて言い分はあるだろう。洛陽の暮らしとは違うこともあるだろう。  それらの亀裂を埋めるには、時間が必要であった。  だが、蓬莱の『巡幸』はその時間を奪っていた。  その中で、帝とその側近は、新たな策動を始めていると、専らの噂であった。  実際の動きは、明らかになっていない。  あるいは、朱里や雛里などはその動きを掴んでいるのかも知れないが、蜀勢が集まる中で報告されていないということは、確実な証拠を得るには至っていないということだ。  実際にはなにもしておらず、ただ企みがあると漏らすことで、蜀勢の動揺を誘う策だという説もある。  だが、そんな無意味なことをするだろうか、という疑念が蜀側には根強い。  たとえ名目の上であろうと、いまは桃香たちが主導する『蜀漢』という一つの国であるはずなのだ。  その中でそのように足を引っ張るためだけのことをやらかすだろうか?  そうした疑心暗鬼の中、なにか恐ろしい企てが――特に桃香を標的として――動いているという噂だけが先走りしている。 『自分たちが優先させるべきはなにか』  図らずも、蜀勢はいま漢朝側の動きによってそのような問いを突きつけられている。  焔耶は、そして、彼女に問いを投げかけた桔梗や、その友紫苑は、そうした迷いを抱え、複雑な心境のままに、蓬莱の中軍の突撃を受け止めることとなっているのだった。  二派に分かれた中軍が押し寄せる様を――その迎撃にいますぐ駆けつけたい衝動を抑えつつ――見つめながら、焔耶はなにをするのが正しく、そして、桃香のためになるのかを、ずっと考え続けていた。  2.対峙 「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」  荒い息が漏れる。  肩で息をすることくらい、戦場ではけして珍しいことではないが、それでも、この人物がするとなれば、それは驚きの目で見られることだろう。  馬上で青龍偃月刀を重たげに構えるのは美髪公こと愛紗。  その美しい顔を見れば、頬には切り傷がつけられ、いまも淡く血をしたたらせている。さらには額は汗に濡れ、常は整えられている髪が数本はりついていた。  彼女の体が唐突に崩れ落ちた……と、そう見えたのは実際には、彼女の愛馬が膝を折ったため。 「よるなっ!」  愛紗は慌てて走り寄ってこようとする兵たちに怒号を飛ばす。  疲れ切り、傷を負っている馬から下りながら、その視線は揺るぎなく動かない。彼女の見つめる先、敵はいまだ倒れていなかった。 「亞莎がここまでやるとは……な」  彼女の視界の中で、亞莎は体中血にまみれている。だが、その中に、亞莎本人の血潮はどれほど混ざっているであろうか。  愛紗自身が感じている手応えからして、相手とて無傷とはいかないと思うが、戦うのに支障が出るほどの手傷を与えたとは思えない。 「どちらかといえば、あちらのほうが疲弊はしていようが……」  馬を操り、敵が飛びかかってくるのに対応していた愛紗に較べ、縦横無尽に飛び回りながら自軍の兵士まで切り裂き続けていた亞莎の方が、より体力は使っていることだろう。  だが、あの狂乱ぶりを見る限り、体が限界を迎えても立ち向かってくるのではないかとそう思えてならないのだ。  少なくとも、こうしてお互い息を整えながらにらみ合いの状態が終われば、また飛びかかってくることだろう。  それがいつまで続くかはわからないが、まだしばらくは、愛紗はここに拘束されてしまう。  愛紗の視線はいまも常に亞莎の動きをとらえているが、それだけではない。間近の敵を視界に留めつつ、大きく視野を保って、戦場全体の動きをも、彼女は見ている。  亞莎が愛紗との戦闘、あるいはもっと突き詰めれば足止めにだけ集中すればいいのに対して、愛紗は戦場全体の動きを考えねばならない。  この差は大きかった。 「この辺りのことも計算済みだろうな。呉の軍師殿よ」  皮肉っぽく笑って見ても、事態は好転しない。愛紗は近くに控えている副官の一人を呼びつけた。 「よいか」 「はっ」  彼は一騎打ちを侮辱しない程度に慎重に距離を取りつつ、愛紗の声が聞こえる範囲を保つ。 「お前たちは下がって、孔明殿、士元殿の指揮の下に入れ」 「しかし……」  副官がなにか言おうとするのを遮って、愛紗は告げる。 「ここには直衛二〇〇〇を残す」 「わかりました」  副官は周囲に命を飛ばしつつ、去っていく。  愛紗が統率する中央軍のうち、後ろに控えていた部隊は、彼女が一騎打ちに入った後で自動的に朱里、雛里、紫苑、桔梗の指揮下に移っているはずだ。  これで残りの部隊も朱里と雛里の指揮下に入り、蓬莱軍の動きに対応できる。 「さて……」  愛紗と亞莎が戦っている限りは、中央からのごり押しはありえない。まして、彼女の鋭い目は蓬莱軍の中軍が二手に分かれて迂回行動をはじめようとしていることを見抜いていた。  それを見抜いていながら、ここにはりつけになっている己が歯がゆいが、かといって亞莎に背を向けて逃げるなどしたら、もっとひどいことになるのは目に見えていた。 「さっさと決着は……つけさせてくれんだろうなあ」  愛紗は疲れたような、しかし、どこか喜びを込めた表情で青龍偃月刀を構え直すのだった。  さて、亞莎の方は亞莎の方で、獣じみた息を漏らしながら、愛紗を見つめていた。  馬から下ろしたのは悪くないと思いつつ、しかし、自らの食らった打撃も、彼女はしっかりと把握している。  蚩尤の狂乱とは別に、冷たく硬い鋼のような意思が、彼女の行動の全てを決めていた。いかに蚩尤の手綱を操り、それを開放するかも、その奥底に潜む冷徹な意識が定めている。  その意識が、もうしばらく愛紗はかかってくるまい、と読んでいた。  息を整えるため、周囲を観察するため、そして、なによりも亞莎と愛紗の間には、呉軍の兵が幾人もいるためだ。  それを、愛紗は卑怯とは言うまい。  なにしろ、その『呉兵』たちは、全て体の何処かに傷を負い、内臓をはみ出させ、虫の息で倒れ伏している者たちばかりだからだ。  いや、既に骸となった者も多数いる。  それは、愛紗の手に寄らず、彼らの将たる亞莎その人によって成されたことだ。  亞莎はくっく、と喉を鳴らす。  その凶悪さを心の底から知りながら、しかし、その血がもたらす愉悦を、彼女は否定することが出来ない。  ついに、亞莎は近くでうずくまる兵に声をかけてみた。  まるでからかうような口調で。 「おい、そこの。生きてるか?」 「……はい。しかし、間もなく死にましょう」  もぞりと体を起こし、そう答えた男は、腹に手をあてている。その掌からこぼれるのは黒に近い色をした血と、灰色がかった腸の一部。  その腹を切り裂いたのは、他ならぬ亞莎の人解……その巨大な爪刃だ。 「ったく、貧乏くじひいたな? 呉の領地を守るためでもねえ、こんな戦でよ」  くくくく、と彼女は笑った。 「しかも、てめえんとこの将軍の戦闘の余波とくらあ」  男は――見れば、ほとんど老人と言っていいような皺のある顔を持つ彼は、よろよろと亞莎の方を向いた。  じっと、ただじっと彼女を見つめる視線に、亞莎が言い様のない居心地の悪さを感じ始めた頃、彼は小さく、しかしはっきりと言った。 「……無駄とは思いません」 「なに?」 「我らの死は、孫呉のためのもの。違いますか?」 「だからよぉ……」  亞莎はしかたないというように顔を歪めて、伝法な口調で説明しようとする。しかし、老兵はそれを気にせず話を続けた。  そして、亞莎は気づくのだ。先程の居心地の悪さの理由を。  この男は既に目が見えていない。 「新帝国を築く、乾坤一擲の大戦。その中で武官筆頭関雲長を押しとどめたとあれば、呉の功績は必ずや高く評価される。それは、その後の待遇に大きく関わるでしょう。そして」  ああ、言わせてはいけない。  その先を、死に行く男に言わせてはいけない。そう思うのに、亞莎は口を挟めない。 「孫呉の死者が多ければ多いほど、蓬莱は孫呉に恩義を感じざるを得ない」 「そんな簡単なもんじゃ……」 「たしかにそうでしょう。私ごときがわかるようなことではありません。しかし、私もまた、孫呉の兵(つわもの)」  死ぬべき場所は知っているのだと、彼は続けた。  責めるのではなく、まるで喜ぶように。  亞莎に殺されるために江水を遡り、孫呉のために生贄にされたと知っても、その老人はけして恨み言を言わなかった。 「なにを、言って、やがんだか……な」  声が震える。  いけない、いけない、いけない。亞莎の冷静な部分が警鐘を打ち鳴らす。 「……この部隊に身寄りのない老兵のみを集めたことも、違うと仰るか? お優しい子明さま」  ぐっと亞莎は息を呑んだ。その頬を、音もなく涙が流れ落ちる。 「ったく、ほんと莫迦だなあ、おまえら」  亞莎は苦労して老兵から視線を引きはがし、愛紗を見つめる。おそらくは自分より強い敵の姿を。  兵の数は劣る。将の地力でも劣る。  それでも、それでも、勝つ道はあるか。  ある。  なぜならば、いかに敵が万を超えようと、いかに敵が彼女より強かろうと、それを倒し尽くす必要などありはしないのだから。  彼女が目指す勝利のために必要なことをすればいいのだから。  たとえそれが、どれほど残酷で、どれほどおぞましいことであっても。  そして、いずれにせよ、愛紗の部隊の大半は、戦場の別の場所へ移るだろう。ここに留め置いても意味がないために。  ほら、いま、その指示を下している。  亞莎は背を伸ばし立ち上がりながら、自らの拳で自らの腿を打った。  まだ、崩れ落ちてはいけなかった。 「まあ、あれだ。そんだけ死に花咲かせたきゃ、存分に咲かせてやるぜ。おい、てめえら、起きろ! 起きやがれ!」  一人二人と兵達は立ち上がる。その動きは緩慢で、その足取りはぎこちない。  彼らが立ち上がり、集まってくるのを、亞莎は待った。愛紗も自らの部隊が動き出すまで、静観するだろうと踏んで。 「てめえらに最後の命をくれてやる。武器なんか全部棄てて、あの関雲長にすがりつきやがれ。動きを肉の壁で止めりゃあ、大金星だ!」  あはは、と誰かが笑った。足を引きずるようにしている先程の兵だったかもしれないし、その横で、同輩の兵に肩を借りているずたぼろの男だったかもしれない。 「すばらしく卑怯で泥臭いですな」 「あったりめえよ。こちとら江東の田舎者。卑怯結構、勝ちが大事よ!」  呵呵と亞莎は笑う。その笑みを、周囲の兵たちは――いずれも年老いた歴戦の強者たちは、愛しいものでも眺めるように見つめていた。 「行け!」  亞莎は命じる。愛紗が想像もしていないようなことを。  義を重んじる蜀軍の考えが及ばぬような卑怯な手を。  そして、動き出した兵たちの群れの中、誰かが漏らした。 「我らは皆、あなたを娘のように思っておりましたよ」  その言葉を聞いた途端、亞莎の被っていた仮面が、割れた。  かつての悪童阿蒙としての顔は崩れ去り、ついにその奥から、優しい少女の感情があふれ出る。  頬をひたすらに流れる涙を拭おうとして、刃のついた手甲をつけているために、彼女はそれをあきらめた。  涙はただただこぼれ落ち続ける。  彼女は彼らの誇りに応じるために、傲然と顔をあげ、大音声を発した。 「呂蒙隊、全員に告ぐ!」  その時、ようやく愛紗と、その部下は異変に気づいた。  相手が、一騎打ちの再開ではなく、全く別の事をしでかそうとしていることを。 「我が名は呂蒙、字は子明。孫呉のために戦い続けてきた兵(つわもの)どもよ! 私は、貴様たち全てを誇りに思う!」  だが、もはや遅い。  兵たちは歩き出している。たとえ、その歩みはのろく、その手に武器などなかったとしても。  彼らは進む。  彼らは行く。  逃れようのない死の待つその場所へ。  そして、その背になによりの餞別が届けられた。 「死に行く者ら全てに、授けよう! 我が真名は亞莎!」  しん、と戦場が凍りついたのように思えた。  まさか、一兵卒に。  まさか、このような場所で。  命に等しき真名を授けようとは。 「この二文字を胸に……我が信と、我が希望と共に!」  ついに全ての感情を乗せた絶叫で、亞莎は命じる。 「死に行けぃっ!」  孫呉、最後にして最強の死兵たちの進軍が、いま、始まった。  3.戦歌  武器は邪魔だ。棄ててしまえ。  鎧は邪魔だ、脱いでしまえ。  はみでた腸は、ひっかけるのにちょうどいい。  流れ出る血は、目つぶしにちょうどいい。  ただ、進め。  俺たちの娘が泣いている。  我らの将軍が泣いている。  俺たちのために泣いている。  ああ、なんて、幸せなのだろう。  あの世で自慢してやるぜ。  俺の娘はこんなにすごいって。  綺麗な真名をくれたんだって。  さあ、声をあげ、進め。 「孫呉万歳!」  江東の大地は厳しく、そして優しい。  実る稲穂に沈む夕陽のなんと温かきか。 「亞莎さま、万歳!」  いつまでも水の抜けてくれぬ湿地のいかに惨きか。  山越に脅かされ、中原の民に蛮夷も同じと嘲られる。古の楚は遥か遠く、北方の光の中で南方は暗く陰る。 「亞莎さま! 亞莎さま! 亞莎さま!」  しかし、そんな江東に咲く華がある。  孫家という華がある。  我らは皆それに魅了され、文台様に、伯符様に、仲謀様に従った。  弓腰姫様を愛し、彼女らに従う将たちを敬った。 「江東万歳!」  それは我らの夢、我らの希望。  けれど、時代が変わり、北も南も無いというのなら。 「呂皇妃、万歳!」  我ら孫呉に殉じよう。  次代のために死に行こう。  我らの娘のために死に行こう。 「我ら、新しき孫呉の礎とならん!」  さあ、聞け、これぞ孫呉最後の戦歌(いくさうた)。 「おさらば!」 「おさらば!」  ああ、俺たちは、まるで。  ああ、俺たちは、まるで、おっかあのもとへ帰る子供のようだ。 「おさらば!」 「おさらば!」 「おさらば!」  ほら、見えた。  黄金の稲穂と、江水の青。 (玄朝秘史 第四部第三十一回『漢中決戦 その四』終 /第四部第三十二回に続く)