玄朝秘史  第四部第三十回『漢中決戦 その三』  1.負傷 「まったく、あのままいけば勝っていたというに……」  蓬莱軍の将全員が集められたその場所に、華雄はそんなことを呟きながら入ってきた。  御料車『玄武』を一方の壁として、残る三方を陣幕で囲んだその場には、既に彼女以外の皇妃及び一刀が揃っている。  華雄の入場により、入り口として開かれていた隙間も幕で覆われ、一応は外部と隔絶されることになった。  ただし、天幕の内側というわけではないので、外の音――自軍の兵たちの移動する音や喋り声――もわずかに聞こえてくる。 「まあまあ」 「飛将軍が負傷となれば、全軍の士気に関わるからな。私の判断で軍を退いた」  一刀がなだめ、冥琳が責任は自分にあると明示するのに、華雄は鼻を鳴らした。 「愚痴だ、許せ」  その視線は、腕に包帯を巻いた恋に向いている。華雄が小さく頭を下げたところで、赤毛の女も頷いていた。  星との一騎打ちにおいて恋が負傷したことは、恋自身よりも、むしろ周囲に影響をもたらした。  恋が手傷を負ったところで親衛赤龍隊の部下たちが一騎打ちに割り込んだことも異例であるし、内烏桓からの兵たちが、恋を守るようにして撤退しようとするのも異様なことであった。  それを忠烈というのは容易い。  だが、いかに傷ついたといえど、一騎打ちを邪魔し、さらには将自身の指示を待たずに退こうとするなど、許されることではない。  下手をすれば、恋自身に皆殺しにされかねない恐ろしい行為である。  だが、彼らはそれすら覚悟で恋を守ろうとした。  それをさせるほど、呂奉先という威名は凄まじいものであった。  たとえ、兵が皆殺しにされようと、それ以上傷つけられるのを防ごうと考えるほどに。  結局の所、いち早く事態を察した冥琳が全軍を退く決断をしたため、兵の行為は不問に付されることとなる。  そのことを、当の恋本人がどう考えているのか、それはよくわからない。  彼女の表情の乏しい顔から内心を察することが出来る者は、常からそれほど多くない上に、戦場という環境下でそれを出来るのはねねか一刀くらいのものであるからだ。  そして、一刀もねねも恋の内心をあえて明らかにする性質でもない。  とはいえ、この場では、最高責任者である一刀が理解していればいいことであろう。 「ところで、恋の具合はどうなのじゃ?」  祭が訊ねるのに、皆の視線は恋に向く。彼女の右腕は肩口から手首に至るまで包帯に覆われていた。  一部には副え木が当てられているようで、包帯が示す輪郭が腕より随分太いものになっている。 「……大丈夫。いざとなったら、動く」 「無理ですよ! ぽっきり折れてますから」  普段通りの声で恋が応じるのに、真っ青な顔で斗詩が反論する。そして、音々音の反応はさらに強烈だった。 「そうですぞ! お、恐ろしい事に、ほ、骨が肉を突き破っていたのですぞ! ああ、恋どのの麗しい腕が、腕が!」 「ねねちゃん、落ち着いて、ね? ね?」  ひきつけでも起こしそうなねねを、優しく月があやす。 「とはいえ、まだ腕一本折られるだけでよかった……とは言えますかしら?」  その様子を痛ましげに眺めながら、麗羽が問いかけた。  肩をすくめつつ応じるのは雪蓮。 「恋が腕を折られるってことは、他だと切り落とされてたでしょうしね」  場を支配した無言の問いかけに、雪蓮は苦笑して答える。 「もちろん、私でも、よ。たぶん、今日の星は武の神に愛されてたんでしょうから。武人には、やっぱり最高の時というものがあるものよ。まあ、明日もそうかどうかは……わからないけれどね」 「そうでないことを祈るよ」 「恋は……今日の星と同じがいい」  一刀が言うのに被せるように――この人物にしては実に珍しく――早口で言い切ったのは、恋。  彼女の瞳は燃えている。それは、明らかに、星との再戦を期待してのものだ。 「あら」  その様子を、慎重な顔つきでねめつけて、雪蓮は試すように問う。 「あちらが、今日と同じ布陣とは限らないわよ?」 「……それは、戦場での運」 「そりゃそうね」  恋と雪蓮の視線が絡み合う。両者共に静かな顔つきだと言うのに、火花が散るような緊張感があった。  そんな空気を笑い飛ばすように、乾いた声で割り込むのは、詠。彼女は戦場の推移を描いた図を一通り眺めてから、こう結論づけた。 「まあ、一応今日の所は兵を退けただけ、ましね。損害もそれほど無いわ」 「あ、ああ、そうだな。愛紗たちが追撃してこなかったからな」 「出来ないようにボクたちが陣形を整えたのよ。それに華雄は完全に鈴々を釘付けにしてたし、あそこで追撃に来れば横っ腹から食い破られることを懸念したんでしょう」  呂布隊が潰走しはじめた時、その背後では、雪蓮の指揮によって分厚い兵の壁が作られようとしていた。さらにその背後では一刀の本陣自体も傾斜した配置を行おうと動いていた。  それらの目に見える対処とは別に、鈴々と華雄の一騎打ちで停滞した側に少数とは言え兵を割き、突破を計ることも、当然考えられる。  愛紗たち蜀漢の中央軍から見れば、自軍の張飛隊と敵の華雄隊が壁となるため、常に横合いから飛び出してくる兵を警戒し続けなければならなくなる。  その危険を避けたのであろうと、詠は言っているのだ。  だが、別の見方もある。 「呂布を倒したと、一晩かけて皆に周知するためではないのかや?」 「……実際、すごい勢いで宴会してるみたいだしなあ。酒はふるまってないかもしんないけどさ」  美羽の指摘に、猪々子が彼方を見るようにする。陣幕で覆われているためにその場では見えないが、遥か向こう、蜀漢軍の陣地では、たしかに宴が開かれている。  補給の不利から言って食糧が潤沢にはないであろう蓬莱軍に対する誇示であると共に、初日の撃退と、恋の負傷を祝う宴なのは間違いない。 「明日の士気は、とんでもない、か?」 「でしょうねー」  七乃の笑顔も、曇りがちだ。そもそも、戦場でにこにこしているのがおかしいというのはこの際置いておこう。 「対策は?」  恋が手傷を負ったということで、蓬莱側の士気が落ちているのは間違いない。  幸い、恋が戻ってくるのは多くの兵が目撃しており、生きていることは知れ渡っているので、最悪というほどの状況ではない。だが、戦を始める前に比べれば消沈していると言えるだろう。  それを立て直す策を、一刀は皆に問いかけた。 「同じことをしてみせて、かつ優勢になることだな」  こう述べたのは、冥琳。 「総掛かりね」  対して、詠はこう提案する。 「ふむ……。乱戦にしてごまかすか、今日と同じことで勝ってみせるか、か」 「技巧に凝れば、それだけ臆したと見られるからのう。出来る限り突っ張ってみせねばなるまいな」  そこを逆手にとって……いや、二日目でそれは急き過ぎかのう……と古強者の武将はぶつぶつ呟く。  それを横目に、麗羽はふと思いついたように口を開く。 「華雄さんと恋さんに替えて、うちの二人あたりを押し出す手も、あるのではありません?」 「その分兵を増やして? まあ、ありかもね」 「あたいらは構わないけどさー。そっちの二人が爆発しそうだからなあ」  頭をかきかき言う猪々子の視線の先で、にぃと口元に笑みを刻む華雄。 「軍議で定まってまで文句は言わんぞ?」  言葉とは裏腹に、その笑みは獰猛そのものだ。一刀は苦笑して、彼女に手を振った。押さえてとでも言うように。 「実際、どうなんだろう。今日と同じ布陣で攻めて」 「私は当然問題ない。恋もその気のようだぞ?」 「まあ、それはわかってるんだが……」  男は、怪我をした妻の方をちらと見やる。恋はぼんやりとした表情をたたえて立っているばかり。  しかし、その奥で燃えている闘志を思うと、彼は彼女を止めるべきか否か、悩んでしまうのだった。  腕が動かなくとも、指揮にはなんら問題は生じない。部隊を任せることに不安はない。だが、恋はなによりも武人である。  片腕が折れている状況で、星と再び対峙したとしたら……。  そこまで考えたところで、一刀はふっと微笑みを漏らした。 「恋」 「……ん」 「無理はしないって約束できるか?」 「……がんばる」  一刀がくすくすと笑い、それに遅れていくつか笑い声が起きた。  その場を、呆れたような、それでいて暖かな空気が覆う。 「よし、今日と同じ方針でいこう。ただし、中軍も本陣も今日よりは前に出す」 「……まあ、しかたないわね」  一刀の決定に詠が肩をすくめ、翌日の方針は決定された。  だが、二日目は、蓬莱軍の意気込みも空しく、大きな動きもなく終わってしまう。  親衛赤龍隊、親衛黒龍隊、二つの部隊の突撃を、蜀漢軍が分厚い陣形で迎え撃ったため、一騎打ちに持ち込むほど切り込めなかったのが大きかったろう。  最終的には二部隊が退くのを援護するための蓬莱側の行動から、矢の打ち合いに移行し、被害は出しつつも大きな直接的衝突を経ず、一日が終了した。  蓬莱にとっては不完全燃焼、蜀漢にとっては二日続けての完封。  そうして迎えた三日目。  事態は予想もしていなかった推移を遂げる。  2.参戦  その二つの部隊は、誰にも気づかれず、漢水を遡上した。  その集団は、得意の隠密行動をもって、二つの軍がぶつかり合う戦場から少し離れた場所に潜んでいた。  全ては、絶好の機を得るために。  目指すは、誰も予期しない不意打ち。  目指すは、己の力の誇示。  大地に伏せ、岩陰に隠れ、冷たい糧食をかじりながら、彼らは待った。  そして、三日目。ついに大軍同士が激突しようとするとき、彼らは立ち上がり、かけ始めた。  その数、たったの、千。  わずか五百の隊二つが、万を超える軍のぶつかりあう戦場へとなだれ込む。  だが、誰しもが、度肝を抜かれていた。  だが、誰しもが、目を疑った。  それは、完璧なる奇襲であった。 「な、なんだ、あの部隊は!」  中軍を指揮し、待ち構える愛紗の軍に対して総攻撃をかけようとしていた雪蓮たちの動きが止まり、冥琳が素っ頓狂な声をあげた。  次いで、祭が仮面の下で目をむき、声を震わせる。  それは、そのわずかばかりの人の塊が掲げた旗を見た故であった。 「見て下され、あの旗を!」 「あの旗は……!」  雪蓮の背筋に電撃が走る。  見覚えがある。  いや、忘れるわけがない。  かつて共に戦い、同じ軍で轡を並べた。  旗に描かれた文字を見るまでもない。  自らの命に従い、どこまでも戦い抜いた、その旗の持ち主たちを、彼女は知っている。 「亞莎に明命……。密かに船をとばしてきたか」 「おそらく、後ろに思春か穏がいる。……あやつらめ、本国はどうしているのだ?」  冥琳さえも、その場で論じるべきではない言葉を吐く。  本来であれば、そのような小勢など気にせず軍を動かすべき三人が、ここに動きを止めていた。  一方、一刀の本陣は、少し遅れてその事態に気づいていた。 「参ったな。呉の参陣なんて予想外すぎるぞ」  ぱちんと額に手をあてて、一刀が漏らした。周囲では将校たちが事態を把握しようと右往左往している。 「これは……今日の主役をかっさらわれてしまいましたぞ!」  あわあわと警告を発するのはねね。言い方は微妙なものだが、唐突に現れた孫呉の部隊に主導権を握られてしまったのは確かだ。 「蓮華には、臣従の意志さえ示してもらえば十分だったのに……。愛されてるわねえ」 「……そうだな」 「ったく」  皮肉な口調で言ったのをあっさりと肯定され、詠はいらだたしげに眼鏡を押し上げる。 「ともかく、あの部隊の邪魔をしちゃだめよ。触れないのが一番だと、周知しなさい!」  詠の命に、伝令が駆ける。  それらの背を見ながら、いずれにしても、こちらの動きは後手に回る、と詠はため息を吐くのだった。  そして、孫呉からやってきた二部隊は、蓬莱の本陣に使者を送っただけで、そのまま戦場へと突き進む。  対陣する二つの軍の中央部に、間隙が出来ていた。  それもそのはず、蜀漢軍は蓬莱軍の突撃を受け止めようと動きを止めていたし、蓬莱軍は、その中枢がかつて孫呉に所属した雪蓮たちであったために動揺激しく、しばしの間、動きが止まったのだ。  孫呉の二隊は、その隙を、見事に突いた。  ある意味で、この時、まともな判断能力を持っていたのは、この二隊だけだったと言えるかもしれない。  事態を把握している者がいても、それらは周・呂の二隊の動きに干渉できるほど近場にいなかったか、別の敵軍を相手にしていた。  そして、なんということだろう。  孫呉のわずか千の手勢は、その数の少なさを利して、蜀漢中央軍のそのまさに中央へと到達してしまった。  そして、ついに、一刀が以前より怖れていた事態が引き起こされる。  即ち、関雲長と呂子明の対峙が。  3.阿蒙 「なぜ来た、亞莎よ」  そう問いかけたのは、実質二十五万の全軍を率いる人物のほうであった。  名馬と呼ばれること間違いない馬にまたがり、青龍偃月刀を掲げ、長い黒髪を垂らす美髪公こと愛紗。  その威風堂々たる姿に似つかわしくなく、彼女は困惑の表情を浮かべている。  それはそうだろう。  孫呉が蓬莱に恭順の意を示すなら、普通に合流すればいいだけだ。わずかな兵力ならば、前面にだされることもなく儀礼的なものとして扱われるだろう。  逆に本気で攻めようとするならば、千はいかにも少ない。両軍の隙を突いて対峙するところまでは成功しても、すぐにすりつぶされるのがおちだ。  まして、将は愛紗である。  多少手間はかかるかもしれないが、亞莎と明命の二人を相手にして、後れを取るつもりはない。  果たして、こやつらはなにをしに来たのだと疑問に思うのも当然であろう。  さらにつけくわえれば、軍師である亞莎の方が前に出て、明命の方が周囲を警戒するようにしているのが解せない。  不思議なことばかりであった。  しかし、亞莎はその問いかけに反応しない。  馬にも乗らず、長い袖を垂らして、彼女はじっと愛紗のことを見つめていた。片眼鏡が日の光にきらきらと輝く。 「おい、亞莎」  そう愛紗が焦れて声をかけた時。 「一刀様、いえ陛下から聞いたことがあります。天の国では、私があなたを討ち取ったと。しかし、私もあなたの恨みで呪われ、体中から血を噴き出して死んだとか」  凛とした声が、戦場で響いた。 「ああ、なんとあさましや、未練がましや、関雲長」  歌うように、彼女は呼びかける。嘲り笑いと共に投げかけられたその声に、愛紗よりもむしろ周囲がざわついた。 「いっぱしの武人なら、戦で首をとれずに、呪いで奪うなど考えられませぬでしょうに。天の国のあなたは、よほど性根が腐っておられたようで。いえ、こちらでも、でしょうか?」  白皙の美貌に浮かんでいた困惑が、そこに至って憤怒に取って代わられた。  首筋まで赤く染まるほど、愛紗の頭の血が上る。  天の国に同じ名前の人物がいようと、その人物がどんなことをしようと気にもならないが、それにかこつけて己の武を穢されるなど、許せることではなかった。 「阿蒙ごときがさえずるか! 望み通り、この場でそっ首打ち落としてくれん」 「ほう。ならば、早々にかかっておいでませ。美髪公殿。この呂子明の力、刮目して見るがよろしい!」  もはや言葉で応じることもなく、愛紗は馬を進めた。  もちろん、彼女はそこで正々堂々の一騎打ちを繰り広げるつもりであった。彼女の部下は、主の思いをくみ取って、円陣を作るべく、その位置を移動させ始めている。  だが、その場に立ち尽くす亞莎は、愛紗側のその動きを正直に受け止めるつもりはないようであった。 「戦略ならばともかく、戦術で鳳士元に勝ることは難しい。なにより、一刀様のお側には、冥琳様がおられる。ならば……」  彼女の手があがり、その袖が顔の前を通過した。  再び現れた彼女の顔に、さっきまであったものがない。 「ここで必要とされるは阿蒙の力」  ぱりん。  それは、亞莎の足が片眼鏡を踏み割った音。 「亞莎!」  その動作を目にしたのだろう明命の声がかかる。友の声を受けて、亞莎はうっすらと笑った後、厳しい顔つきになった。 「明命。悪たれ顔、見せますよ」 「はいっ! 亞莎は、前だけを」 「おうさっ」  彼女には珍しい野太い声。進んでくる愛紗すら眉を顰めるほどの声が弾ける。 「我が部隊に告ぐ。兵を止めよ。関雲長の動きには一切構わず、兵を足止めせよ」  そこまで伝えた亞莎の顔が歪む。  ああ、そこに浮かぶのは、笑みではないか。  だが、これほど凶悪な表情を、果たして笑いと認識していいものだろうか。  そして、あきらかに彼女の纏う空気は変化しているではないか。 「仕上げは……オレがやるっ」  ざわり、と兵たちが声にならぬ声をたてた。  中でも古参の兵たちが、恐れを込めて、囁く。 「帰ってきた」 「戻ってきた」 「死神が、帰ってきた」 「蚩尤が下りた」  彼らのざわめきの中、明命の声が響く。 「周泰隊、これより退避します。少しでも呂将軍から離れるように。逃げます! 急いで!」  そして、なんということだろう。その言葉通り、周泰隊を構成する五百名は、蜀漢軍に対しながらも、静かに静かに後退し始めたのだ。 「……なにをするつもりだ?」  異様な雰囲気に、青龍偃月刀を構え直した時であった。  亞莎の体が跳ねた。  まるでなにか上空の存在にひっかけられ、ひっぱられたかのような、奇妙な跳躍であった。 「くくくく、かーっかかかかかかか!」 「な、なんだっ?」  奇怪な笑い声とも吼え声ともつかぬものと一緒に、なにかが飛んで来る。  本能的に偃月刀を頭上に掲げ、それをはね除けながら、愛紗の背筋を冷たいものが走った。 「見えない? この私が動きを追えないだと!?」  声と殺気に体が反応するために、なんとか防いではいるものの、その武器の軌跡が、亞莎の動きが、見えない。 「くっ。まるで獣のような……。亞莎がこれほどの動きをするなど!」  見えるのは、空を飛ぶ、赤い塊。  まるで羽虫か何かのように、それは視界を横切り、唐突に方向を転換し、急激な勢いで彼女を襲う。 「この袖かっ!」  己の視界を眩惑しているのが、ひらひらとなびく長い袖であると考えた愛紗は、攻撃を加えられる度に、それを切り裂くべく何度も攻撃を繰り出した。  そして、その中の一振りが、亞莎の衣服をびりびりと破った。  二度ほど跳ねて距離を取った彼女は、無惨な姿になった袖を見つめ、次いで、無造作に肩から破り取った。もう一方もはぎ取ると、そこには無骨な手甲をつけた亞莎の姿が現れる。 「あれか……」  鋼鉄を組み合わせて肘まで覆っている手甲の姿を見て取り、愛紗はそこから繰り出される攻撃を予想する。  手甲というのは、その外見に比して、不自由な武器だ。  一見、生身の腕を守り、その衝撃を強めてくれるものに見えるが、実際には生身の手の繊細さを奪い、指での攻撃やつかみ、ひねるというような動作を制限する。  要は打撃だけを避ければよくなるのだ。  これまでは長い袖に隠してその動きを見せずにいたが、こうなってはそうもいかない。 「あの棘や爪のようなものが少し注意だな……」  手甲の各部に生える棘や、刀などを受けるためだろう、腕の背部分につけられた金属の爪に少々留意しながら、改めて愛紗は偃月刀を構えた。 「まずい!」  その声は、愛紗には届かなかった。当然であろう。それを発したのは、明命であるから。  彼女は亞莎の姿を……腰を低く落とし、両手を前に突き出した上で、まるで老婆のように背を屈めた奇妙な構えを見て取って、顔を青ざめさせた。 「人解が、開く!」  くけ、と亞莎が啼いた。  途端に、普段は刀止めとして手甲の背につけられている金属の三本爪が跳ね上がる。  拳から突き出たような、その長い爪は、一本一本が剣呑な光を放っていた。 「もっと! もっと離れて下さい!」  明命の血を吐くような叫びは間に合わなかった。 「さくよ、さく、さく、あかいはな」  亞莎が跳ねた。  愛紗が見失うのも道理、彼女はけして、愛紗に向けて跳ねたわけはない。 「ちるよ、ちる、ちる、あかいはな」  そこに巻き起こるのは赤い旋風。 「ちすい、たますい、いのちをすって」  喉を、顔を、腹を切り裂かれ、ある者は倒れ、ある者はよろよろと後ずさる。 「ごかのあもうにきれぬものなし」  敵と言わず、味方と言わず、暴風が吹きすぎた後に現れるのは、血まみれの姿。 「こ、こやつ、味方の兵まで……!」  信じられぬものを見るように、愛紗は目をむく。それはそうであろう。自分を攻撃してくるはずの敵が、いきなり周囲全体を無差別に襲い始めたなら。 「愛紗さん!」  明命の声は、もはや遠く聞こえる。だが、彼女は声を振り絞って伝えた。 「そうなった亞莎は手がつけられません! どうかご注意を!」 「くっ。それが敵にかける言葉か。しかし……これは……」  血と臓物が溢れる嵐の中で、愛紗は自らを守るので精一杯であった。  周囲を跳ね回る魔物は、愛紗であろうと、兵であろうと構わず、とにかくめくらめっぽう攻撃してきているのだった。  その少女は武術の才には恵まれていなかった。  背はそれほど高くない。線も細い。実戦に出るまで、人を殺すようなことに遭遇もしなかった。  そんな彼女を戦場で生き延びさせたのは、そのたぐいまれなる集中力に他ならなかった。後に信じられないような勢いで学問を修めていくのに貢献したその愚直なまでの集中が、彼女の命を救った。  だが当人にそんな自覚を求めても無理というものだ。無我夢中で戦って、いつの間にか戦が終わり、周囲には死が溢れている。そんな状況を彼女は何度も経験した。  そうして乏しい経験と知識の中で、彼女は結論づける。 『自分は敵の血に濡れれば濡れるほど強くなるらしい』  と。  もちろん、それは誤りである。そんなことが起きようはずもない。  だが、彼女に特有の集中力――思い込みがそれを真実へと変えた。  彼女は信じる。  己の体は敵の血によって鍛えられ、鋼と成ると。  彼女は信じる。  己の腕は友の血によって研ぎ上げられ、刃と成ると。  その思いは彼女の中に眠る力を十二分に引き出し、まがまがしい武器へと変じる。  狂喜と狂気が彼女を包み、そして、戦場に鬼が生まれる。  彼女の赴くところ、通常の数倍の血が流れた。敵も味方も大損害を被り、しかし、彼女は帰ってくる。  いかなる激戦地からも。  どんな罠からも。  絶対的な死地からも。  いつしか、彼女はこう呼ばれ始める。  蚩尤、と。  大悪神、蚩尤。  味方殺しの蚩尤。  血まみれ蚩尤。  その凶悪な渾名は、彼女の思い込みをますます強化する。  自分が血によって神を下ろすとまで彼女が思ったかどうか、それは怪しい。しかし、少なくとも古き戦の神と称されるほどの強さと恐怖を手に入れた彼女は、戦場においてはまさに大悪神であった。  敵にとって、そして、味方にとっても。  それは、彼女の才を見抜いた蓮華たちが、彼女を信頼できる仲間として引き入れるその日まで続いた。  だから、古強者たちは呟く。 「帰ってきた」 「戻って来た」 「みなごろし蚩尤がまた現れた」  と。 「……しゅう……」  吐息であったのか、名であったのか。  いずれともつかぬ声が、彼女の口から漏れた。 「ねえ、冥琳」 「なんだ、雪蓮。いまは……」  袖を引く雪蓮を振り払おうとして、冥琳はその声の震えにはっと顔をあげた。亞莎と明命に割り込まれた軍をまとめなおすことを瞬時忘れるほどの衝撃がそこにある。 「鬼が出たわよ……」 「……なんだと?」 「戦う相手は、関雲長じゃ。これで、間違いなく中央は動けまい。少なくともしばらくの間は」  祭の冷静な声に、冥琳は拳をぐっと握り締める。その顔は、どこか青ざめて見える。 「莫迦な! あの亞莎が、一刀殿のいる戦場で……」 「だからこそ、でしょ」  誇らしげに、雪蓮は言ってのける。 「この戦こそが、一刀ののるかそるかの大勝負。一番見られたくない相手に、あの姿を見せてでも勝たせたい。いじらしいと思わない?」 「あの莫迦弟子が……。莫迦弟子めがっ!」  一方、冥琳の叫びは、あまりに悲痛だ。  それは、武人として彼女を見るか、軍師の後継者として見るか、その違いであったろうか。  ただ、祭は首を振り振りこう言うしかなかった。 「……我らが陛下も業の深い事よのう」 「愛されてるのよ」 「そうじゃな」  冥琳は一度目を瞑ると、全てを振り払うように、かっと目を見開いた。 「よし、張飛は華雄が、関羽は呉軍が、趙雲は呂布がおさえている。残るは弓将二人と魏延、そして本陣のみ。我らは……」 「本陣へ吶喊、でしょ?」 「ふっ」  打てば響くような友の声に、冥琳は会心の笑みを見せる。 「その通りだ、雪蓮。祭殿、参りましょう! これより、中央を迂回し、左右両翼より、本陣を急襲します!」 「おうおう、燃えておるのう」 「そりゃあ、冥琳も一刀を愛しちゃってるもの」 「ええい、行くぞ!」  己をからかってくる二人の尻を叩くように、冥琳は強い視線を向ける。それを受けて、ようやく雪蓮は顔をひきしめた。  一度だけ、愛紗と亞莎が戦う場所へ目を向けた後、ふっと力強い笑みを見せる。 「兵達よ!」  どこまでも通る声が、配下の者たちに向けられる。一声かけられるだけで、自然と背筋が伸び、血が沸き立つ、彼女の声。 「我らが陛下の露払い、相務めようぞ!」  その声が、これから始まる激戦を予感させた。 (玄朝秘史 第四部第三十回『漢中決戦 その三』終 /第四部第三十一回に続く)