玄朝秘史  第四部第二十七回『漢中決戦 その一』  1.進軍 「夏の日差しだな。暦の上では秋だっていうのに」  どこまでも澄んで大きく広がる青空を見上げながら、青年はそんな言葉を漏らした。  まだ太陽は真上まで上がっていない時間帯だというのに、空を見ようとするには手でひさしを作らないと目が眩んでしまう。  深秋や冬の遠い空とは違う、圧倒的な存在を感じさせる蒼穹であり、日輪であった。  そんな陽光に照らされ、彼の纏う服は白く輝いている。懐かしい学園の制服であり、この地では、天の御遣いの証拠として知られるそれを見下ろして、一刀は少し気恥ずかしげに微笑んだ。  彼からしてみれば、いまだに制服を着ているということ自体照れくさいものであったし、ましてやそれが仰々しい呼び名の象徴として認識されていることを思うと、余計に恥ずかしいような気分になってしまうのであった。  とはいえ、それが彼を『天の御遣い』と認めさせる一助となり、この世界で彼と関わることになる人々と出会うきっかけになってくれたことについては、感謝もしている。  なんとも複雑な気分で、彼は自分の制服姿を検分していたのだった。 「そういえば、これ、オリジナルだっけ? 凪が作ってくれた奴だっけ?」  見下ろしている内に気になったのか、ほうぼうを触ってみる一刀。  しかし、凪や真桜、それに華琳などがそれぞれに仕立ててくれた制服の替えは、どれも最初に彼がこの世界にやって来た時に着ていたものを実によく再現していて、簡単には区別がつかなかった。 「どうだったかな。うーん……」  帝という立場を持つ彼は、自分が着る服の管理も自分では出来ない。安全上の点検も必要だし、儀礼的に短時間に何度も着替えなければいけない場合もある。  とても彼自身では把握できないのだ。  一刀としても、大げさすぎる、あるいは不要と思える儀礼に関しては――服装のことに限らず――いずれは周囲に諮って縮小あるいは廃止していくつもりではあるが、いまのところは、月や音々音を長とする秘書たちに、準備を任せっきりである。  故に、いま着ている制服が本当の『ぽりえすてる』なのか、それを模したどれかなのか、彼には判断がつかなかった。 「うむむ……」 「なに唸ってるのよ、こんなところで」  不意にかかった声に振り返ると、翡翠色の髪をおさげにした女性が立っていた。不機嫌そうに眼鏡を押し上げるその姿は、誰あろう詠だ。 「そろそろ時間なんだけど?」 「ああ、わかってる」 「ほんとにわかってるのかしら?」  実に疑わしげな視線を向ける詠。その表情に苦笑を浮かべる一刀。  その、険があるようで、実際にはとても親しみを感じさせるやりとりを傍で見ている者がいれば、思わず温かな感情を抱いていたであろう。  だが、彼らは愛を交わす男女であると同時に、大帝国の帝と、人臣極める相邦の位にある人物でもある。二人の会話がただの戯れあいで終わる事は――二人が望んでいるより遥かに――少なかった。 「わかってるさ」  もう一度そう請け合ってから、一刀は腰に手を当て、空を見上げる。先程ののんきな様子とは違い、空を見ているというよりは、その先に続くどこかを見つめているような視線であった。 「詠、俺たちはなんで戦をしているんだっけな」 「あんたはあんたのやりたいことを通し、桃香は桃香の望むものを手に入れたいからでしょ」 「ふむ」  打てば響くように返ってきた答えに、一刀は視線を彼女のほうに向けた。詠の不機嫌そうな表情は引っ込み、その代わりに、どこか感情を押し殺したような、張り詰めた顔つきになっていた。 「誰もが同じよ。自らが望むものを手に入れるために力を尽くしている。あんたや桃香や華琳や……まあ、そのあたりは、望むものが大きくて、押し通すには抵抗も大きい。それだけよ」  詠の言葉は、その表情と比すれば淡々としたものだ。  実際に一刀の望みを実現するために動いている彼女は、それを叶えるために、金銭、労働力、人命に至るまで、ありとあらゆるものが必要であることを知っている。  だが、そのことをあえてつらつらと述べる必要はなかった。彼女以上に彼もまたそのことをよく理解しているはずだから。  それでも、彼が訊ねずにいられないのなら、彼女はそれに応じるだけだった。 「やるしかないか」 「ないわね」 「そうか」  会話が途切れる。一刀は詠の顔を見つめながら、何ごとか考えている様子であった。 「戦を止めたい?」  妙に優しい声で、彼女は訊ねた。青年は、びっくりしたように目を見開き、そして、小さく笑った。自分を責めるような笑顔で。 「どうだろうな。そう思うこともないじゃないけど、一度動き出したものを止めるのは、難しいだろ。それに、一度こじれた以上、ぶつかっておくほうがいい。……少なくとも、そういう場合もある」  問いかけたほうの詠は、しばらく黙っていたが、ふと長々と息を吐き出した。そして、いつも通りの皮肉っぽい態度で肩をすくめる。 「そうね。蓮華にはしてやられたけど」 「詠は、蓮華の判断は正しいと思うんだ?」 「正しいかどうかじゃなくて、損得で言えば得ね。あちらから進んで降ってきた以上、ボクたちは……蓬莱の中央は蓮華たち、ひいては呉の領域を厚遇せざるをえない。戦をしてその待遇を引き出すよりは、よほど簡単に彼女はそれを成し遂げたと言えるわ」  そこで詠は腕を組み、指を顎にあてる。 「まあ、それを理解しないで彼女を責める輩も多くいるだろうことは間違いないけれど。でも、そいつらだって……」 「ある意味では蓮華のお陰で生き延びたわけだからな」 「そう」  こくん、と彼女は頷いた。 「対呉は雪蓮たちに任せてたわけだけど……。それに乗じて呉の豪族を一掃する予定だった、とボクは思ってる」  孫呉が本格的に蓬莱と干戈を交えると決めた場合、一刀も留まって最初の一戦を受け止めるつもりであったが、その後、戦が長期化した場合は雪蓮を対呉の総大将として襄樊地区に置き、一刀一行は巡幸を続ける、というのが大まかな予定であった。  もちろん、成り行きによってその行動は変化するし、実際、蓮華は戦を選ばず、自ら降ることを選んだため、その予定は破棄された。  だが、対呉戦が雪蓮を総大将として続いていた場合、呉の有力者層を取り除く方向で戦が動いていたに違いない、と詠は主張しているのだった。 「あの地域は豪族勢力が強いからな。集権体制を作るには邪魔ではあるな」 「でも、同時に豪族は領地支配にはなくてはならないものでもある。孫呉の王権にとっても、協力者という立場よね。彼らがそこにいる間は」 「だが、いなくなれば……」 「ええ、より直接的にまとまりをつくれる。そして、もはや孫呉の代表ではない雪蓮がそれを除くのには、なんの支障もなかった」  大元を辿れば、孫呉とは、孫堅、孫策と続く、孫家二代の破天荒な魅力だけで作り上げられた国である。  その孫家にとって、最大の協力者は呉の在地領主たち、即ち、土地の農民を束ねる豪族たちであった。  だが、最大の敵もまた、その豪族たちである。  七乃の煽動によって孫家に背いた豪族たちによって、母からの承継が邪魔され、長きにわたる屈従の時を過ごすに至った経緯を、雪蓮はけして忘れていない。  そして、冥琳は、豪族たちの性根と実力を、友以上によく理解していた。南方諸州に響き渡る名家の生まれたるその血に刻まれているが故に。  彼女たち二人は、蓬莱と孫呉の戦があれば、それを利用して孫呉地域の豪族を根こそぎ叩き、少なくともその力を殺ぐつもりであったろう。  詠はそう推測している。  そして、それはけして見当外れの推察ではないのだった。 「まあ、彼女が誰のためにそれをやるつもりだったかは、ボクにもわからないけど」 「俺のためか、孫呉のためか、いずれにせよ言い分は立つし、実益も得られる、か」  そう、必要以上に強い在地権力を弱めることは、蓬莱のためにも役立つ。そのこと自体は責められることではないのだ。 「実際は、呉の地域や孫家のためだけでもないし、あんたのためだけでもないんでしょうね。彼女にとって大事なものを見据えたとき、それが後々いいことであると思って計画していただけでしょう。それこそ、本能でかぎ取ってね」 「雪蓮なら、そうだろうな」  くすくすと一刀は笑った。実に嬉しそうに。  その様子を見て、詠はすうと息を吸った。そして、一気に言葉を放つ。 「雪蓮にせよ、蓮華にせよ……それに、月やボクにせよ。自分にとって目指すものがあるのは事実よ。でも、ボクたちはあんたの臣なの。あんたに仕えているの」  まるですがりつくような態度で、彼女は言葉を続ける。 「だから、もし、あんたが本気で戦を……」 「いや」  詠の言葉を遮って、一刀は首を振る。きっぱりとしたその態度に、一瞬だけ、詠はほっとしたような、なんだか寂しいような複雑な表情を浮かべる。  だが、そんな感情は眼鏡の奥に封じ込め、彼女は蓬莱の臣の頂点に立つ者としての顔で、こう言った。 「じゃあ、行きましょう」 「ああ、行こう」  二人は歩き出す。彼らを待つ十万の兵のもとへ。 「漢中へ」  この日、蓬莱の帝は襄陽を発ち、巡幸の予定に従って、その目的地、漢中へと向かった。  2.秘密 「ふう」  漢中郊外に設けられた練兵場の端に、将士のために作られた小屋がある。  将軍やその側近たちが休憩をしたり、その日の練兵について検討したり、翌日の予定や演習についての打ち合わせをしたりするために設けられた場所で、二十人以上が一度に入れるような施設である。  だが、いま、そこにいるのは唯一人。  長い髪を背に垂らし、疲れ切った様子で椅子に座り込むのは、黄漢升こと紫苑。さらに豊かになったように思われる胸が、大きく息をする度に揺れる。 「やはり、普段とは違うわね……」  呟きながら、その手が無意識に自らの腹を撫でる。彼女を悩ませる存在が、その奥にあった。  懐妊に気づいたのは、そう遅いことではなかった。  既に経験のあることでもあり、対処はそう難しくなかった。璃々を身籠もった時よりもつわりも重くもなく、だが、それ故に周囲に知らせる機会を逸した。  なにしろ、その身に宿るのは、一刀の子である。  いかに他の面々も一刀の妻であり、桔梗なども子を成していることとはいえ、戦争のまっただ中で、相手の帝の子を宿したと打ち明けるには、やはり覚悟が必要であった。  そして、皆に告げる時機を計っている内に、偽帝一行が襄陽を発つとの報せが届き、蜀漢は完全に戦時体制に入ってしまった。  こうなると、紫苑としても口をつぐまざるを得なくなる。一刀との子であるから、ということ以上に妊娠中であるという事実をもって、前線から遠ざけられるかもしれなかったためである。  蜀漢の将軍としての責任感から、彼女は戦が終わるまで、懐妊を自分だけの秘事とすると決めたのであった。  だが、やはり体調に影響は出る。なにしろ、いまの彼女の体は彼女一人のものではなく、もう一人も養っているのだから。 「無理をしているつもりはないけれど……」  元々大きく体を動かす性質の将ではない。  だが、弓を扱うには集中力が必要であり、それを支えるのは、やはり体力である。普段以上に疲れを感じるのは致し方ないところであろう。 「いまからでも将を誰かに……いえ、でも……」  これから申し出た場合でも、彼女が完全に戦から遠ざけられるとは考えにくい。蜀漢の人材を冷静に評価すると、彼女を戦場から閉め出すほどの余裕はないからだ。  もし、妊娠を明らかにした場合、たとえば、桃香の直近で本陣を動かす本陣付きなどに回されるだろう。  それでも、仲間の役に立つことは間違いないが、やはり、武将が一人最前線から抜けることに変わりはない。  いかに部隊を鍛えていようと、自分が抜ける穴は他の者たちへの負担となる。これまでの戦の経験から彼女はそう理解していた。  しかし、妊娠を隠したままでいざという時に自分が動けなかったらどうなるか。そのことを考えれば、やはり桃香や軍師たちには告げるべきではないか。  彼女は練兵が終わって疲れた体を休めながら、さっきからそうやってずっと悩んでいるのだった。  そんな彼女の思考を、一つの声が止めた。 「黄将軍」 「はい?」  見れば、側近の一人が部屋の入り口に立っている。先程までこの部屋で図上演習を続けていた一人だ。  しかし、もう今日は用がないはずだが、と彼女は首を傾げる。 「なにか忘れ物?」 「いえ、軍師様がおいででして」 「あら?」  彼女は言いながら顔に浮かんだ汗を拭う。 「すぐに行くわ」  そうして、そう答え、すっと立ち上がった時の紫苑の姿は普段とまるで変わらない。部下も思わず見とれるような流麗な立ち姿であった。 「す、すいません。急に」  部下に案内され、外に出ると、大きな帽子で顔を隠すようにしながら立つ少女の姿があった。  彼女の姿を認め、部下に去るように手で合図する紫苑。 「どうしたの、雛里ちゃん」 「あ、あの……」  部下が遠ざかったところで、声をかける。雛里は少し口ごもった後で、細い声で続ける。 「朱里ちゃんとも話して、これを紫苑さんに……」 「あら?」  雛里が指さす方を向けば、なにやら布がかぶさっているものがある。高さは人の肩ほどであろうか。  うんしょ、うんしょと布を外そうとする雛里を手伝い、布をはがすと、そこに出てきたものは……。 「輿?」  それを輿というのは正確ではないかもしれない。なぜなら、それには肩に担ぐ用の棒以外にも足がついていて、その足には車輪がついてるのだ。  あるいは山車というほうがいいのかもしれないが、人が乗れる場所はせいぜい一人用というところで、印象としては輿のほうがやはり近い。 「はい。あの、私、背が小さくて馬にも乗りにくいんです」 「ええ、そうね」 「朱里ちゃんもそうで、だから、その、こういう乗り物を作ってみました。戦闘を指揮する必要がある時、これを使おうって思って」  たしかに、これを数人の兵で動かせば、他の兵の動きにもついて行けるだろう。そして、馬に乗るのと同様に高い場所から戦場を見渡すことが可能となり、戦闘の指示を出すこともやりやすくなるだろう。 「でも、危なくはないかしら?」  高い場所に位置することには当然欠点もある。部隊を率いる将がそこにいると周囲からわかりやすくなり、かつ、狙いやすくもなるのだ。それこそ、相手に紫苑や桔梗なみの弓の使い手がいれば、間違いなくそこを狙うことだろう。 「四方に竿を立てたりできるので、布を巻いたり、鉄線を張ったり出来ます。それで、矢は防げるのではないかと」 「そうねえ」  紫苑はいまだに疑わしげな視線を輿に向けていたが、欠点を補うに足る利点もあることを考えれば安易に否定するわけにもいかなかった。  他の将のように馬に乗って自由に動けないのだから、別の策を考えようとするのは正しいことなのだ。 「ただ、紫苑さんに引き渡すものは、まず素の状態で……と思ったので……」 「わたくしにこれに乗れと?」 「はい」  紫苑はその答えに首をひねる。それから、思い当たったことを口にした。 「ええと、それは、弓を射る時の台ということかしら?」  たしかにこの上に立って弓を射るならば、馬に乗って射るのより安定して、さらに高所を取れる。弓将としての利点は確かにあった。  彼女は馬に乗れるわけだが、馬と併用するのも悪くはないかもしれない。  だが、予想以上の反応を、雛里は返してきた。 「はい。でも、それだけじゃなくて、こちらのほうが、赤ちゃんに悪いようにはならないと、その、思います」  絶句する紫苑。 「……いつから?」  しばらく後、いまだひきつった表情ながらも、紫苑は、静かな声でそう問いかける。雛里は顔を真っ赤にしながら、彼女を見上げて答えた。 「ええと、いつからっていうのははっきりしないんですけど、桃香様が絶対そうだって」 「あらあら……」  かなわないわね、と思わず紫苑は呟いていた。経産婦である桔梗あたりに見抜かれているならともかく、まさか桃香に気づかれているとは。  だが、不思議と納得でもあった。  そして、なぜか、無性に嬉しくもあった。 「すいません。本当は、紫苑さんには休んでいてもらってもいい、と言いたいんですが……」 「雛里ちゃん」  弾むような紫苑の内心に対して、雛里は実に申し訳なさそうで、その視線もおどおどと下を向いている。そんな彼女の顔をあげさせるような優しい声を、紫苑は発していた。 「わたくしだって蜀漢の将。乾坤一擲の大戦で成すべきことくらいわかっているわ」 「はい……。でも、どうぞ無理だけは……」 「ええ、わかっていますとも。もし、皆に迷惑をかけるようなら、ちゃんと言うから。……ね?」  その言葉に雛里が慌ててなにか言いかけ、そして、力が抜けたように口を閉じる。  そうして、結局、蜀漢の大軍師たる少女は力なく、こう呟くのだった。 「はい。……すいません」  と。  そして、それに対して、紫苑は元気づけるようにこう言うのだ。 「さあ、あの人を迎えてあげましょう。……きっと、驚くわ」  そう、不敵な笑みを浮かべて。  3.決戦 「さて、ついに来ますか」  誰かが酒杯を傾けながら、そう呟いた。 「十字の旗の御遣い様は  落とした将は五十人  漢の将軍、魏の将軍、三四がなくて呉の将軍  はー、ちゃかぽこちゃかぽこ」  誰かが、鼓を打ちながら、そんな戯れ歌を歌った。 「馬旗を下げろ」  疾駆する馬の背で、新しい旗を掲げるように指示を下した誰かがいた。 「流れ続ける水は腐らない……か」  兵の進む姿を見つめ、老将は楽しげに嘯いた。 「一刀さん……」  折れた剣を見つめて、彼女は彼の名を呼んだ。 「北に戻るにゃー!」  元気な号令が、南の森で響いた。  後の世に言う帝国暦元年。  あるいは、羅馬建国紀元九百六十六年。  蜀漢の暦で言えば建安十八年。  その八月。  三国最後の戦が始まる。  決戦の地は――漢中。 (玄朝秘史 第四部第二十七回『決戦前夜 その四』終 /第四部第二十八回に続く)