玄朝秘史  第四部第二十六回『決戦前夜 その三』  1.策動  よく知られているように、北郷一刀は――この時点では――五十人の妻を持つ男性である。  さて、その中で、夫の巡幸に同道するのは十三人。ほぼそれに合流するようにしながら、襄樊地区を巡り、人心の安定に努める数え役萬☆姉妹を合わせれば、荊州に十六人が集まっている。  新たな覚悟を決めた蓮華に率いられ、江東、江南の新秩序形成に奔走する呉勢が、六人。  移動宮『青龍』に乗り込み、ゆっくりと南下しつつある魏勢が十一人。  烏桓を引き連れ、華北を縦断中の白蓮、いまだ動きを見せない涼州の馬家の二人、それに、はるか南方でなにやらしているらしい南蛮勢が四人。  そして、漢中において一刀たちを待ち受ける、蜀漢勢、九人。  全てを足し合わせると、四十九人となる。  さて、そうなると、誰か一人足りないこととなる。  その最後の一人、霞の姿は、北辺にあった。  張文遠、蓬莱朝における官位は執金吾。  かつて光武帝が若い時分に『仕官するなら執金吾』と望んだ官職である。漢朝において、執金吾は京師の警備隊長として、よく統率された衛士を率い、きらびやかな官服を纏っていた。いわば、都の顔である故に、後の光武帝こと劉秀も憧れたのであろう。  だが、蓬莱朝において執金吾は、別の意味を持つ。後にその意味は薄れていくが、この時代の人間ならば、誰もがわかっていた。  かつて一刀が勤め、凪が継いでいた――当人はあくまでも一時的に預かっていたと主張する――『都の警備隊長』の地位に籠められた栄誉を。  それは、ただ一人、中央の騒乱から遠ざけられ、北方の地に置かれていることが、けして左遷や降格の類ではないことを示している。  後に霞は征西大将軍、西域都護を兼ねて、帝国の西方拡大の頂点に立つ。  そんな人物を、いま、執金吾という肩書きのまま、北方へ送る意味とは何か。 「……ま、うちの出番が無ければ、それはそれでええねんけどなあ」  当の霞は、鞍を外した絶影の背中にごろんと横になり、空を眺めている。北方の夏の空はどこまでも青く、ひたすらに高かった。  絶影は草を食み、時折、草原を歩き出す。その間も、その背に寝転がる霞は落ちそうになることもなく、泰然としていた。  その彼女をめがけて、一騎の騎馬が駆け寄ってくる。馬に乗っているのは、彼女の部下の一人。  だが、実は霞当人もその顔をよく覚えていない。それほど、他人の印象に残らぬその男の任は、当たり前のように間諜であった。 「隊長」  気配と、あえて声色を使わぬ時の声はさすがに覚えている。霞はそれを確認してから、小さく、ん、と頷いた。 「どや、北は?」 「『山』が『熊』に喰われました」 「ほう……?」  華琳直々の北伐、そして、一刀による大返しによる罠の破綻からの単于殺害。これらの打撃によって、鮮卑をはじめとする北方の民は四分五裂し、それぞれの部族の中でも氏族単位での争いが続いていた。  単于を自称する者が十人以上出現。一部地域では鮮卑族の影響を覆し、配下の部族が支配を主張したり、それを近隣の部族がさらに討ち取ったりというような混乱が続いていた。  大規模な略奪行や南進を引き起こすことを妨げるために、中原国家たる魏、及びその後継である蓬莱は、そういった混乱状態を歓迎すべきものとして放置していた。  だが、昨今、その情勢が少々怪しいものとなってきている。  孫呉、蜀漢との決戦で主力が南方に傾いてしまう今、北方で騒ぎが起こるのは好ましくない。  そう考えた結果の霞の配置であった。  さて、間諜である男性が報告した内容は、北方部族の間での状勢変化を如実に表していた。  結局の所、単于を自称した面々のほとんどは没落し、一部はさらに北に逃げたり、西に逃げ去った部族もあると聞く。これらは中原に関わる事はないだろうから、問題はない。  だが、残りの大部分は四つほどの集団にまとまりつつあった。  『熊』『山』『狼』『鷹』と霞たちが呼んでいるのは、それぞれの代表氏族の祖先神や崇めるものを示している。故郷の霊山を崇拝したり、自らの祖先は熊であると言ったり、などだ。  その中で、『山』の部族が『熊』の一族に吸収された、と、間諜の男性は言っているのだった。 「三つになってもうたか」 「はい」  霞は表情を変えることもなく、そう呟く。  勢力がまとまりつつあるというだけでも霞たちにとっては歓迎すべからざることであるというのに、鼎立となれば、事はもっと悪い。  外から見る限りで言えば、両立の状況よりも、鼎立の状況のほうが好ましくない。  なぜなら、両立状態ならば、相手のことを一番に敵視するため、中原の国家に対してはちょっかいを出してくることが無くなる可能性が高いからだ。  どちらか、あるいは両者が共に蓬莱側に助力を願い出てくる可能性すらある。北方部族を二分する相手憎し、の意識が強まるために。  だが、鼎立となると難しい。  鼎立は膠着を生み出すため、長期的ににらみ合いになって、外への被害が減るかに、一見思える。  しかし、それは誤りである。  鼎立して勢力が拮抗してしまった場合、彼らは無駄に敵を攻撃することをやめる。一つに攻め入れば、そこで力が偏り、他の一つから攻められるためだ。  すると、勢力を広げるのが難しくなった彼らは、手っ取り早く伝統的な策を取る。  つまりは、中原国家への略奪行だ。  侵攻というほど大がかりなものではない。しかし、それなりの兵力を持って、何度も攻め寄せられれば、霞たちとしては困ってしまう。  かつての長城全てを防備できるほどの兵は、いま北方に配されていないのだから。 「『熊』が『山』ぁ奪った勢いに乗るっちゅうんは?」 「少々難しいでしょうな。『狼』も『鷹』も粘り強い」 「せやなあ」  三者の中で、『熊』の単于は血統は良く、多くの部族から支持を得るものの戦には弱い。  『狼』の単于は血統的には無視できるような存在だが、彼と彼の弟が滅法戦に強いらしい。  『鷹』は父方の血統はまあまあだが、母の部族の地位が低く、全体的なまとまりも弱い。ただし、どこかから攻められれば途端にまとまりを強める、つかみ所の無さを持つ。  『山』を呑み込んだ余勢をかって他の二つのどちらかを攻め滅ぼしてくれれば、霞としては実にありがたかったのであるが……。 「こっちに来るやろな」 「おそらくは。それも共に」 「やろなあ」  どこか一勢力が蓬莱の北辺を侵せば、当然のように他の二つもそれに倣う。面子の上でも、実利の上でもそれはせねばならないことなのだ。  そして、それを成功させるため、そして、他の勢力が自勢力を攻められぬ時を狙うには、ほぼ同じ時期に動くのが得策だ。 「まずどこから動く思う?」 「『狼』でしょうな。次に『熊』、最後に『鷹』」  強さはあるものの、それ以外のものを補うために名を上げたい『狼』が初手で動くというのは霞も納得であった。  そして、強大な部族が動けば、他も安心して南下することだろう。 「……あんたは、次どこに潜るん?」 「これまで通り、『鷹』に。目先は効きますから」 「そか。あんがとな。もう行ってええで」 「はっ」  ふるふると手を振ると、それだけで、男は馬首を巡らし去っていく。  果たして言葉通り『鷹』に潜り込むつもりかどうか、霞にはわからない。大事なのは彼が信用に足る情報を持って来ることだ。 「さあて……」  唇の端だけを持ち上げる笑みを浮かべつつ、霞は空を見上げるのに戻るのだった。  2.約束  霞は相変わらず絶影の背で寝そべっていた。  それは既に、間諜の男から情報を受け取ってより数日が経った後のことである。  だが、霞の姿は、まるで変わらない。  まるで、ずっとその草原で青空を見上げていたかの如くに。  そんな彼女の元に、再び近づく馬の影がある。しかし、今度は二騎であった。 「やー、やー」  霞は寝そべったままでぶんぶんと手を振る。彼女と愛馬のもとに近づこうとしていた男二人はそれを見て揃って苦笑を浮かべざるを得なかった。  彼らは共に、生まれた時から馬と共に育つ北方の民の一員である。その彼らでさえ、馬とこれほど一体感をかもしだせる人物を見るのは稀であった。 「悪いな。呼び出してもうて」 「いえ」 「構わんよ」  彼らは内烏桓と匈奴のそれぞれの代表であった。  北伐の結果、北方でも蓬莱が支配する地域には、内烏桓と魏に降った匈奴による共同統治状態が形成されている。  実質的には、匈奴はそれまでの支配地をそのまま、そして、内烏桓は鮮卑の北上によって空いた土地を、というわけだが、二つの民は、蓬莱からの監督もあって、それなりにうまくやっていた。 「んー、あんたらのことやから北の方が騒がしいいうんは聞いてるやろ?」 「それは、もう」  匈奴の長老が、福々しい顔に笑顔を浮かべて頷く。匈奴は元々鮮卑からすれば主筋とも言えるし、かつて頭を押さえつけていた憎らしい部族とも言える。  だが、繋がりがあるのは確かで、北方が揺れ動く中では、かつての匈奴の名を利用しようと接触してくる一派も多くあったのであった。  故に、長老は多くを知っている。おそらくは、霞の知らぬようなことも。だが、それを霞は訊かない。  訊いても意味はないからだ。  彼が言わぬこともわかっているし、それを生かす場面もない。  張文遠は北方に複雑な外交をしに来ているのではないのだから。 「で、あんたら、どないする? どっかにつくんなら、しばらく目つぶっておくで」  言いながら、霞は片眼を瞑って見せる。それがお茶目であるのか、本気であるのか、対する二人にはどちらとも取れなかった。 「まさか」  今度は内烏桓の代表である若い男が体を震わせて応じる。 「我々に、孟徳様や、奉先様のお相手をしろと? そのような恐ろしいこと……」 「うむ。しばしの間、はしゃいでみても、いずれは南方より、恐ろしい方々がやってこられましょうからな。剣呑剣呑」  二人の台詞に、にやりと意地の悪そうな笑みを浮かべる霞。 「そか。せやったら、ありがたいわ」  よっ、と声をあげて、霞は絶影の背を下りる。二人の代表も馬を下り、肩にひっかけた着物を揺らしながら歩く霞の後に続いた。 「実はなあ、うち、『狼』を叩こうと思うんよ」  北方を睨みつけるようにしながら、霞が言う。 「先手必勝、というわけで?」 「んー? まあ、そうとも言うわな。でも、そんな難しいことやないで」  けらけら笑いつつ、彼女は続けた。 「単に、お痛するような子には、きちんと痛い目見せたらなあかんやろ、と思てな」 「ははあ」  感心したような、呆れたような、どちらとも取れぬ声を、内烏桓の代表はあげた。 「うちなあ、一刀に言われてん」 「帝に……?」  唐突に遠いどこかを見やるような瞳で呟かれた言葉に、二人はどう反応して良いのかわからない。 「漢朝を討つまでは、北を鎮めておいてくれってな」  それは、いま、霞を北方に置いておくことの意味としては至極当然のものであろう。一刀が期待し、それを口にするのもまた当然である。 「うちはもちろん、こう答えたで。任しとき、ってな」  だが、霞の口調に籠められた決意や覚悟は、単に指令を受けた軍人に留まるものではない。  彼女が皇妃であることを加味しても、それは、実に強く、重い。 「約束は守らんと。せやろ?」  事実、彼女の瞳は爛々と燃え上がっていた。 「え、ええ」 「我らは全面的に協力いたしますぞ」  霞の勢いに押されたか、あるいはその奥にさらなる何かを見たか。二人の代表は、強張った笑顔でそう応じていた。  わずかながら声に震えがあるのは、恐怖に近い感情を抱いているからか。 「よっしゃ」  にっこりと、なんのわだかまりもない笑顔で、霞は振り向く。そして、己の愛馬に向けて、大股で戻っていった。 「んじゃ、いこか」  実に、この軽い声で、後に全ての騎馬の民に、張文遠恐るべしとの念を刻み込む、『三部の役』は始まったのであった。  この後、北方匈奴、鮮卑以下の部族の間で、張遼が来ると聞けば、大人でさえ震え上がり、子に至っては失神しかねないほどの恐怖を与えることとなる血みどろの戦は、すぐそこに迫っていた。  3.離反 「いやあ、なかなか意見をまとめるというのもですなあ」 「ふむ」  細面の男が、壷を持ち上げ、酒杯に注ぐ。その杯を持つのは、孫仲謀。一刀との対面の後に呉に戻った蓮華である。  彼女たちは、都周辺で混乱が生じないことを確認した後、南方の各地を巡っていた。ことに、蓬莱への帰順に異を唱えそうな豪族たちの所を。  この相手も、ある都市の太守であり、蓬莱への参加を渋るであろう人物であった。  いまは、彼の城の大広間で、彼の食客たちと蓮華一行で大宴会の真っ最中という次第。 「蓮華様」 「ん。わかってるわ」  横に座り、彼女に耳打ちするのは、蓮華に常に寄り添う思春。彼女に向ける表情と、目の前の男に向ける顔ではまるで違う蓮華である。 「ところで、太守殿よ」 「なんでしょう?」 「結局の所、交渉決裂と見てよいのだな?」 「おやおや、結論をお急ぎなされて。我らはけしてそのような……」  のらりくらりと言い抜けようとするのは、この手の相手にはよくあることだ。だが、蓮華はそのような相手ともまた違った態度を取っていた。  即ち、冷たい侮蔑をその瞳に浮かべて。  彼女はちらと思春に目を向ける。  その途端、思春の両腕が跳ね上がった。翼のように広げられた腕の先から、銀色の光が飛ぶ。  それは、部屋の壁際に立つ柱の裏に飛んでいき、短い苦鳴とどさりと人の倒れる音を生じさせた。 「ふむ。そうか。では、あれは、貴君らも狙っていたということか?」  からん、と音を立てるのは、首筋に小刀を打ち込まれた男たちがそれぞれに落とした刃だ。それを手放した男たちが、すでに絶命しているのは一目でわかる。  広間を沈黙が支配する。  誰も、動けなかった。  一撃で二人の刺客を殺してのけた思春の技の見事さ。姉に比べればはるかに穏やかな調子で知られる蓮華の嘲るような口調。  そして、二人が発する、とてつもない殺気。  そのいずれもが、人々を縛り付けていた。  大陸を代表する武将たちの中では、彼女たちすら凡庸のそしりを免れないなどと、その場にいる者たちはとても認められなかったに違いない。  それだけの圧力を、二人は発していた。 「さあ、返答やいかに」  そう訊ねるまでもなく、もはや太守は爆発寸前であった。それまで白く怜悧な表情を浮かべていたつもりであったろう顔は真っ赤に染まり、歯を食いしばった口元は無惨に歪んでいる。 「お前たち!」  ついに、金切り声が、太守の口から迸る。  その途端、彼を守る様に男たちが集まり、それを避けて、思春と蓮華は飛んだ。既に思春の部下たちはその背後に集まり、周囲へ強い視線を向けている。  だが、数ではとてもかなわない。こちらが二十ほどに比べて、太守側は百を越え、そして、さらに人を呼ぶことだろう。  そんな状態でも、蓮華は余裕を失う事はない。  彼女ほど横に立つ思春の腕を信じている者はいなかった。  あるいはそれは、当人が自分に対して思っている以上の信頼であったろう。 「では行きましょうか、孫皇妃」 「そうね、行きましょう、甘皇妃」  緊張をほぐすように言ってから、思春は顔をしかめる。 「……自分で言っておいてなんですか、ぞわぞわしますな」 「あら」  じゃあ、仕切り直しましょうか、と呟いて、蓮華は腰の剣を抜いた。それと同時に、思春とその部下たちが無骨な刀を抜く。 「では、教育してやるか」  南海覇王を構え、蓮華はそんなことを呟く。その横顔をはっと見つめて、思春は複雑な表情を浮かべた。  蓮華が長姉たる人物にますます似てきていると、思春は認めざるを得なかったからだ。  相手側の食客の一人が緊張に耐えかねたのだろう。奇声をあげて、蓮華に切り込んでこようとする。  だが、もちろんそれは思春の鈴音に一発で跳ね返され、体勢を崩したところを、思春の部下たちと切り結ぶことになった。  それがきっかけになったのだろう。次々と食客たちが襲いかかってきた。 「あなたたち、一つだけ教えてあげましょう」  ほとんどの刃を部下たちに任せ、たまに自分に届きそうな剣を南海覇王で鬱陶しげに払いながら、蓮華は進む。  広間の隅に逃げ去った太守に向けて。 「この身はすでに、蓬莱の帝、北郷一刀の妻」  その歩みを一歩でも止めぬよう、思春たちは道を切りひらく。彼女たちの周囲で血しぶきが舞い、悲鳴がこだました。  だが、蓮華の静かな口調を冒せるものは何一つ存在しない。 「その私がいるこの場所は、既にして、孫呉にあらず、江南にあらず、揚州にあらず」  何人を斬ったろう。  食器や食事がひっくり返され、貴重な織物は引き裂かれ、酒はこぼれて、床を濡らした。  そのほとんどは、人の多い食客側のしたことだ。なにしろ、思春たちはまっすぐ道を切りひらいただけで、右往左往したのはあちらが勝手にやったことだ。  そして、明らかに人数で勝っていたはずの太守側は、じりじりと後退していた。もはや戦意を無くしたのか、壁にはりつくようにして、剣を揺らしているだけの者もいる。 「その地の名は、蓬莱。その国の名は、蓬莱」  あまりのことに怯えて歯の根も合わぬ太守の顔をまっすぐ見つめ、蓮華は続ける。 「甘興覇とこの孫仲謀のある場所こそ、蓬莱である!」  そう彼女が宣言した時、既に太守の首は飛んでいた。 (玄朝秘史 第四部第二十六回『決戦前夜 その三』終 /第四部第二十七回に続く)