玄朝秘史  第四部第二十四回『決戦前夜 その一』  1.予兆  襄陽城内にある庭の一つ。  そこに四人の人影があった。  木組みにつるされた、鹿とおぼしき獣の骸を小刀で解体している女が二人、切り取った肉を調理用に小さく切り分けている女が一人、そして、その近くに座って、すでに絞められた鶏の羽をむしる男が一人。 「我々はなにをしているのですか」  自分が押さえている鹿の肉を器用に切り取っていく姉に、彼女は訊ねる。  その名を孫仲謀。つい先頃までは大陸を三分する国家の主であった人物である。  否、蓬莱に恭順する道を取ったとはいえ、いまだ彼女は孫呉の帝である。孫呉一国をまとめ、蓬莱に服するように道筋を着けるまでは、帝の権威を手放せないのだ。  その蓮華が、訊ねる相手は、もちろん雪蓮だ。 「料理の下ごしらえ」  滑らせるように小刀を動かすだけで鹿肉の部位を次々と切り出していく雪蓮は、あっさりとそんなことを言う。 「いえ、なぜそんなことを……と」 「料理に毒とか入れられると困るでしょ?」 「ええ、まあ、それはそうですが……」  しかし、この四人ですることか、と蓮華は思う。  雪蓮から肉の塊を受け取って、それを整形し、料理に使う具材にしていっているのは雪蓮の盟友にして大陸に並び無き軍師、冥琳その人だし、近くで鶏の羽を毟っているのは、蓬莱の帝にして蓮華の夫でもある一刀なのだ。  降伏してきた人間を貶めるためにあえて血の穢れ多き仕事をさせている、などと誤解することもできないような顔ぶれであった。 「まあ、はっきり言うとですな」  庭に据えられた台の上で肉を切り分けていた冥琳がしばし手を休め、顔をあげる。 「我々三人は比較的暇なのですよ」 「そうなの?」 「う、俺を見るな」  じっと見つめられ、一刀が照れたような顔つきになる。彼は、痛くなったのか、しきりと手を振っていた。 「だって、蓮華ったら、戦、やめちゃったじゃない。仕事なくなっちゃったわ」 「我ら二人は主に孫呉対策でしたからな。蜀に関しては詠らに任せて、せいぜい一武将として働くのがいいところ」 「意見を求められれば答えるけど、いまはそういう段階じゃないみたいだしね」  ふむ、と蓮華は頷く。たしかに、自分たちが引き起こすかもしれない衝突に備えていたのだとしたら、雪蓮と冥琳の役は一時的にせよ無くなるのだろう。  蜀漢対策は以前から他の人間がしていたとしたら、手隙になるのも頷ける。だが、もう一人はどうだろう? 「一刀は?」 「色んな部署からの上申待ち。大きな流れについては考えることもあるけど、それはこうやって手を動かしてても出来るから」  鶏の羽を毟りながら国家の大計について思いを巡らせる帝もそうはいないだろうと蓮華は思うが、一方で、そんなものかなとも思う。  頂点に立つ者が細かい仕事にまでいちいち首を突っ込んでいては、物事はうまく回らないものだ。  重臣たちが蓮華の降伏を受けて方針を考えている間は、暇そうにしているのが一番なのだろう。実際にはそうでなかったとしても。 「まあ、でんと構えておけばいいのよ。一刀はね」 「書類仕事自体はあるのですがな」 「それは一生つきまとうから、自分の調子でやるよ」  きゃらきゃら笑う雪蓮の言葉に苦笑いし、釘を刺す冥琳に飄々と答えて、一刀は再び羽をむしる作業に戻る。綺麗に除こうとすればなかなかに根気の要る作業であった。 「しかし、我らが暇なくらいはいいのですが」  こちらも切り分け作業に戻った冥琳が、少々声をひそめて呟く。 「なにかあるの?」 「ここまで蓮華さまがすっぱり判断するとは思ってもいなかったもので、兵の気勢が問題となりますな」 「ある程度はここに残さないといけないし、爆発されると困るのよねー」  冥琳の言葉に同意するように、雪蓮も頷いている。その一見上機嫌に見える口調が、少し困ったような響きを帯びていることに、蓮華は気づいた。 「はあ……」  いまひとつわからないというように首を傾げる彼女に、一刀が苦笑する。 「三姉妹が煽りに煽ってくれているから、どうも、みんなやる気だけが先走っててね」 「でも、なだめるのも天和たち頼りなのよ、これが」 「そこが困りどころ……いや、頼りにはなるのだがな……」  兵を鼓舞するのは蓮華も理解出来るし、それ以前の問題として、民の気持ちを盛り上げるという事の意味も理解している。だが、三人が共有しているらしい危機感をはっきり感じ取るまでには至らない。  黄巾の勢いと数え役萬☆姉妹の煽動を、知識としては知っていても、実感として結びつけられないのだろう。 「孫呉への対抗心が植え付けられているということでしょうか?」 「いや、そういうのはないよ」  一刀がぱたぱたと手を振る。手にくっついていた羽毛が、ふわふわとまき散らされた。 「ここにいる兵は、洛陽から連れてきた兵、漢中を脱出したり、荊州各地から集まったりした五斗米道の信者、現地で雇った兵、と三種類に分かれるわけだけど」  指折り数えながら、彼は説明していく。 「五斗米道の民に孫呉への敵対心はないし、ましてや荊州の民に孫呉への敵対心なんて刷りこもうとしたら、後が大変だからな」  そこで一つ肩をすくめて、彼は笑った。 「結局の所、彼らは純粋に俺の役に立とうと思ってくれてるんだよ。まあ、正確には、数え役萬☆姉妹の旦那の役に、かもしれないけど」 「純粋な善意だからこそ恐ろしいわけですよ。せっかくやる気になったのに……と拗ねるような心理が働きかねない」 「といって、全員を連れてくのはね。蓮華たちを信用するしないに関わらず、ここでの労働力を残さないといけないから」  一刀を補うような冥琳、雪蓮の言葉に、蓮華はふうむと感心したような声を漏らす。そこで、一刀がいいことを思いついたというような顔をして冥琳に話しかけた。 「いっそ洛陽からの連中を置いていくのは?」 「さすがにそれは……」  洛陽から一刀たちが連れてきた兵は、曹魏から受け継いだ精兵。荊州で訓練を始めた人間と比べれば、戦闘経験も練度もまるで違う。彼らを失う事は、蜀漢に対する行動を著しく制限するし、そもそも詠たちが現在進めている計画を最初から考え直さねばならなくなるだろう。  いまはほとんど冗談のようなものだが、これが本気で言い出していたら、きっと冥琳はなんとしても止めようとしていただろう。  彼女の雰囲気を感じ取り、一刀も腕を組んでむうと唸る。  その間に雪蓮は鹿肉のほとんどを切り出し終えている。皮だけになった鹿から手を放し、汚れた手を拭いながら、蓮華はぶつぶつとなにごとか呟いていた。  それから俯いていた顔をあげ、一刀に話しかける。 「ねえ」 「ん?」 「国元の状勢次第ではあるのだけど、小蓮をここに派遣しましょうか。親善の意味を兼ねて……」 「いいの?」  一刀の顔が明るくなる。巡幸の随員は発表済みのため、樊城地域に誰かを置いていくというのは難しい。孫呉の将とはいえ、人の気持ちを掴むのが上手い小蓮ならば、なにかあってもうまく事をまとめてくれるだろうと期待出来た。 「ええ、あれでも多少なりとも抑えになるでしょうし……人質にもなるわ」 「人質って」 「恭順の意を示すために王子や姫を預けるのは通例だもんねー。蓬莱としてみれば、皇妃として遇するんだから、シャオにも別に害はないし、いいんじゃないの」 「周囲に対する宣伝にもなるでしょうからな。孫家と蓬莱皇家は共にやっていくのだという」 「ふむ」  その言い分にも納得できるものがあった。人質と言っても小蓮自身も皇妃であるから、ぞんざいな扱いはできるわけもない。そして、孫家との一体化を示すことは、蓬莱にとっても実に利のある話であった。 「うん。現状の領地内をなんとかまとめるのにも時間がかかるだろうし、その間はシャオを人質っていう名目で置いておいてくれれば、私も安心だから」  蓮華はそこまで言って、一拍おいた。鋭い眼光で夫を見つめる。 「万が一の時にも」 「蓮華……」  一刀の呼びかけは、曖昧に消えていく。あるいは何ごとか続けるつもりで、それを呑み込んだのかもしれない。  もしそうであれば、彼女の決意になにか傷をつけるようなことを言いたくなかったのであろう。  彼女はこう言っているのだから。  蓬莱への国譲りを果たす過程で、自らが斃れることもある、と。  結局、彼は立ち上がり、一言だけ言った。 「ありがとう」  後にこの約束は果たされ、実際に小蓮が本国を離れて襄陽に入ることになる。  その結果として、玄武の大西進と呼ばれる、大踊狂現象――一面から見ると単なる民衆の暴走――を呼び起こすことになるのだが、もちろん、この時の彼らにそんなことは予想出来るはずもないのであった。  2.漢中  時は遡り、一刀たちが大々的に宣伝しながら洛陽を発った頃。  漢中の城内、その一室では、蜀の首脳陣が大陸の地図が置かれた卓を中心に難しい顔で集っていた。 「偽帝は、漢中に向けて『巡幸』に出たそうです」  朱里がそう告げるが、驚きの声は出ない。皆、散々聞いた話なのであろう。蓬莱は、その意図を隠すこともしなかったし、かえって巡幸先の地――樊城と漢中――に出発の日程をふれ回っていたためだ。  とはいえ、蜀漢側がはっきりと確認した情報としてはこれが初となる。本格的に検討する必要があった。  もちろん、巡幸などという言葉を字義通り受け止めている者など一人もいない。漢中に攻め寄せてくるのだということは、皆よく理解していた。 「巡幸、というのは、我等をなめているのか、それとも刺激したくないのか。どちらだろうな」 「でもでも、いい機会なのだ。こんなこと、普通ないのだ」  星が疲れたように呟き、鈴々は気炎をあげる。 「そうですね、好機と言えるでしょう。なにしろ連れている兵は現在五万。おそらくは襄陽で最大となり、十三から十五万。ただし、我が方にまで至るのはせいぜい十万というところでしょうから……」 「少ないとは言えませんが、打ち破れない数ではありません。まして地の利があれば」  雛里の予測も、朱里の言葉もまた力強い。彼女たちには、これが最後の好機であるとわかっているのだ。今回の巡幸がもしうまくいかなかければ、蓬莱は改めて力で向かってくるだろう。その前に、決定的な勝利をもぎ取る必要があった。  たとえば、この戦で一刀を虜にするというような。 「陣容はどんなものなの?」  それまで黙っていた桃香が訊ねる。彼女は漢中で過ごす内に、随分と物静かになっていた。  落ち込んだりしているのではなく、忙殺されているのでもない。ただ、思慮深く、注意深くなっているように思えた。  その一方で、町の人間たちに見せるあけすけな笑顔は変わっていない。  不思議な成長を見せておられる、と義妹の愛紗などは考えていた。 「先鋒に呂布、華雄がそれぞれわずか二千の兵を。中軍に孫策、黄蓋、もちろん、この二人がいるのですから、周瑜さんもいます。この三人で三万。そして、本陣が、大将軍袁紹以下、顔良、文醜、董卓、賈駆、陳宮。さらに、後詰めで袁術、張勲となりますね」 「……先鋒の恐ろしいほどの武者振り、往時の江東軍を思わせる中軍はともかく、本陣と後詰めがあまりにも……」 「……確かにそうですが、本陣と後詰めは、か……偽帝を守ればいいと割り切っているのかもしれません」  愛紗が何とも言い様のない口調で言うのに、雛里が途中から帽子を引っ張って表情を隠しながら答える。一刀と言いかけたせいで、顔が赤くなっているのを隠したかったのだろう。  残念ながら、皆わかっていて、そんな雛里を見て微笑んでいたのだが。 「袁家の二人も、一部隊の将としてはなかなかに使えようからな」 「ことに攻める戦では、ですね」  桔梗と紫苑の言いように、全員が頷く。複雑な戦術を使う必要のない力押しであれば、斗詩も猪々子もそれなりの強敵であった。 「しかし、先鋒を釣れたとしても、中軍を突破するのは……。雪蓮殿、祭殿にあの美周郎がつき、詠、音々音の後押しを受けるとなれば……」  星が首を振り振り呟く。それだけの言葉で、その難しさがまざまざと想像出来るのは、ここに集う全員が既に歴戦の将と言っていい存在だからだろう。 「まず、先鋒を釣って、それを抑えていられるか、だな。兵が少ないならば戦場全体には影響しないよう留めておけるかもしれんが、なにしろあの恋と華雄だ。相手をするにしても、鈴々か私か……」 「華雄さん恋さんのお相手は、鈴々ちゃんと星さんを予定しています」 「ほう」 「望むところなのだ」  愛紗が言うのに雛里が割り込む。それを聞いて、目を輝かせる将が二人。  鈴々と星は具体的に相手が判明して、俄然やる気になったようであった。  雛里ちゃんのみんなの操り方もうまくなってきたものね、と紫苑は心の中だけで呟く。  鈴々や星のような気性の人間には余計なことを考えさせず、目の前の目的を与える方が意気を上げることが出来ると理解しているのだ。  難しいことを考えるのが苦手な鈴々はもちろんとして、このところ、漢朝との折衝や幽州との往復など、面倒な仕事ばかり担ってきた星にもこの辺りで明快な活躍場所を与える。実にうまいやり方だ。  一方、愛紗には朱里がこう言って納得させていた。 「愛紗さんには本軍を率いてもらわねばなりませんから」 「まあ……そうだな」  全軍を率いるのは、やはり自分か、と愛紗は長い髪を揺らして頷く。そこで、彼女はふと気づいた。  これまで一言も発していない者がいると。彼女は腕を組み、俯いているその女性に声をかける。 「焔耶。黙りこくってどうした」 「いや、十万か……とな」 「どうしたの、焔耶ちゃん?」  桃香に訊ねかけられ、焔耶は顔を上げ、言葉を改めた。 「十万というのは、いかに建国直後とはいえ少なすぎます。北から魏勢、あるいは涼州勢がやってくる手筈になっているのではないか、と」  その言葉に、桃香は淡く笑った。  実に美しい笑みであった。 「それはないよ」 「いえ、桃香様。十分考えられる話だと思いますが……」 「ああ、うん。まるで来ないと言ってるわけじゃないよ。翠ちゃんは来るのかもしれない。あー、もしかしたら白蓮ちゃんもかな」  即断した桃香に、雛里が注意を促すように小さな声をなんとか張る。だが、慌てたように桃香は手を振った。 「でも、最初から連携してたりはしないと思う」 「どういうことなのだ?」 「一刀さんは、余計な被害を出すつもりはないってことだよ」  鈴々がかわいらしく小首を傾げるのに、桃香は微笑んで言葉を続ける。 「だから、連れてくるのも兵より、将を厳選してきたんじゃないかな」 「将を……」 「恋ちゃん、華雄さん、雪蓮さん、祭さん。誰をとっても一人で本陣まで抜けちゃうんだもん」  皆の前で手を広げ、指を一本ずつ折りつつ、彼女は猛将たちの名を呼んだ。たしかに、皆、とんでもない力の持ち主だ。 「そうやって、さっさと戦を終わらせるつもりだと思う」  将たちは、黙って主の言葉を聞いていた。彼女が主だからというだけではない。その言葉には、確かな重みがあった。  皆が信じるに足るものが。 「たぶん、待ってたら翠ちゃんも、白蓮ちゃんも来ちゃうと思うんだよね。華琳さんはわからないけど」  赤ちゃん生まれる頃だしなあ、と桃香は呟いた。そう、もし一刀が順調に巡幸を進めるならば――樊城地区で孫呉となにがしかの対立をしたとしても――漢中にたどり着くのは秋頃となる。  その頃には華琳は子を産んでいるはずだ。当人は動けないし、配下の将も、果たして彼女の側を離れるかどうか。  そんな予想を彼女は開陳した。 「でも、一刀さんは後から来る人を待つつもりはないと思う。そうしたら、総力戦になっちゃうから」 「少数で我らを討ち、涼州勢がやってきたあたりで手打ちにする。そんな算段ですかな」 「うん。そうだと思う」  桔梗が先回りしてくれたのに頷いて、桃香は破顔した。それから、二人の小さな軍師に顔を向ける。 「だから、そういう想定で対抗策を考えてくれないかな」 「こちらも早期決着を?」 「うん、だって」  そして、彼女は困ったような顔でこう言うのだった。 「翠ちゃんたちが一刀さんに助力するためにやって来たら、私たち、どうやっても負けちゃうもん」  と。  3.青龍  北方、幽州と冀州との境。  ひたすらに続く荒野を走り抜ける美しい白馬と、それを操る赤毛の女性の姿があった。 「お前達、東方騎馬の実力を見せてみろ!」  公孫伯珪、真名は白蓮。  白馬長史とうたわれる女性は、砂ぼこりを巻き上げて走り続ける大集団の先頭に立ち、後続の騎兵に向けて叱咤する。  その後ろに続くのは、揃って白馬を駆る白馬義従。  そして、光武帝の時代より恐れられ続けた烏桓突騎。  生まれてからずっと馬と共に暮らし続けてきた遊牧民たる烏桓族が、馬の扱いで漢人に負けるはずもない。大陸随一とも恐れられる白馬義従に、彼らは楽々ついてきていた。  そんな精鋭騎兵たちが、白蓮に導かれ、ひたすらに駆けに駆ける。 「目指すは漢中! 西涼の連中に負けるなよ!」  待っていろ、一刀殿。  待っていろ、桃香。  白蓮は万感の思いを込めて、その名を呼んだ。 「白蓮が動いたか」  華北からの連絡を受けた秋蘭が、大きな地図の広げられた卓を覗き込む。その卓は彼女たちが普段使っているものと変わり無いように見えたが、実は、その脚が床につなぎ止められていた。  まるで船の中の家具のように。  その場所は、曹魏時代の城中、玉座の間のように見える。ただし、細かい部分がわずかに異なっている。  たとえば調度は全て卓と同じように床や壁に固定されていたし、飾り柱もなく、全体的な単純な作りになっている。ただし、床や壁の美しい彫刻や頑丈そうな天井などはまるで変わらない。  全体として見ればかつての玉座の間にそっくりな部屋であった。 「ふん。予想通りだな」  秋蘭の後ろで壁にもたれかかっていた春蘭がつまらなさそうに呟く。 「幽州からだとそろそろ動かないと間に合わないのー」 「そうなると、涼州はまだまだでしょうか」  沙和が言うのに、凪が地図の西北方を指さす。涼州は幽州に比べれば、洛陽にも、そして、一刀たちが目指している漢中にもずっと近い。 「まあ、孫呉との諍いには首を突っ込むつもりは無かろうからな」  この時、既に蓮華は一刀に恭順の意を伝えているが、彼女たちのいる洛陽まで確実な情報は伝わっていない。烽火による伝達でも、少なくとも近いうちに大規模な交戦がないことがわかっているくらいである。  一刀たちにせよ、洛陽に残った人間たちにせよ、蓮華がそれほど果断な行為に出るとは予想出来ていなかったのだ。  だが、いずれにせよ、孫呉との戦はあってもまずは小競り合いだろうと考えられていた。あるいは襄樊を守り切れればいいと。  そして、それらの問題が生じている間には翠たちも白蓮も介入してこないだろうと考えられていた。  故に、騎馬勢が介入してくるならば、蜀漢との問題であろうと思われていた。つまりは、どちらも漢中を目指すであろうと。 「さて、陛下のお考え通り運ぶものかどうかだが……」  秋蘭は地図を睨むようにして考え込む。だが、その思考を、彼女の姉の言葉が吹き飛ばした。 「あやつの浅知恵はともかく、雪蓮たちの実力は間違いない。なんとでもなるさ」 「それもそうだな」  秋蘭は、春蘭の予想に淡い笑みを見せる。その楽観的過ぎるとも言える言葉に、たしかに宿っている信頼と確信を感じ取って。  春秋姉妹と凪、沙和が語り合う玉座の間の、遥か上方。  優美な部屋から大きく張り出した露台の上で、周囲を見渡している面々があった。猫耳型の頭巾、頭の上に乗せた人形のようなもの、それに光を反射して表情を隠している眼鏡。  それぞれに特徴的な三人こそ、大陸が誇る頭脳集団である。 「どうでっしゃろ?」  そして、その三人の一歩後ろ、緊張を顔にたたえて控えている人物が、大きな胸を揺らしながら訊ねる。真桜は、いつもは顔に浮かべている笑みさえ見せず、実に真剣に三軍師に対していた。 「試運転も三回目ですしねー。問題ないんじゃないでしょうかー」 「安全性は確認されたと判断できるでしょう。何ごとかあっても、対処できると証明してもらいましたし」  風がのんびりと、稟がはきはきと答え、全員の視線が残る猫耳軍師へと向かう。桂花はしばらく渋面を作っていたが、はあと大きくため息を吐いた。 「ま、いいんじゃない?」  まだ疑わしげな顔つきながら、彼女はそう認める。 「あとは、華琳様にお移りいただいて、それでなにも言われなければ、合格よ」  それから、桂花は少し厳しい目つきで、こう真桜に言いつけたのだった。  数日の後。  真桜の姿は部屋中が機械に覆われているような、そんな場所にあった。  ここはしばらく前に三軍師と対した場所からすればかなりの下層、そして、秋蘭たちが集っていた玉座の間よりもさらに下方の空間である。  むっとするような熱気の籠もる部屋で、それぞれの配置につく部下たちの姿をじっと見つめている真桜。  部下たちは、様々な場所から引かれているらしい伝声管の声を聞き取り、確認し、なにやら複雑な機械を覗き込み、彼女に最終報告を上げる。 「第一号炉、第三号炉、共に第一伝導螺旋に接続!」 「第二号炉、第四号炉、第二伝導螺旋、接続確認!」  がくん、と部屋が揺れた。まるで、この建物全体が揺れているかのように。 「よっしゃ。さぁて、本番いくでーっ」  その揺れに気をよくしたように、彼女は声を張る。 「主要炉、炎色確認!」  ぐっと真桜の拳が握られる。 「伝導大螺旋、接続!」  時の経つのが遅い。  伝声管から漏れ聞こえる報告が、気になってしかたない。  間違いはないか。  失敗はしていないか。  つう、と彼女の背を冷たい汗が流れ落ちた。  そして、ついにその時が来る。 「回転、確認しました!」 「おっしゃ! ようやった!」  握り拳に隠していた汗を振り払い、彼女はばっと腕を広げ、喜びいっぱいの声をあげた。 「回転、上げぇ!」 「回転、上げます!」  ごうんとどこかで音がする。 「回転、最大!」 「いけぇ!」  そして、先程の揺れが、再び部屋全体を揺らす。そして、今度は止まらなかった。  小さくなりながらも、揺れは続いている。 「移動宮『青龍』発進や!」  世界の発明史に燦然と名を刻まれる李曼成の――再現不可能なために、後の世ではけして信じられることのない――最大の発明品。  王から臣下、使用人に至るまで、政府機能を丸ごと抱えて移動可能な移動宮殿。  味方からは『陸を行く船』『動く仙山』と崇めるように言われ、敵には『大巨怪』とまで恐れられたその名は、青龍。  いま、青龍は、その巨体をゆっくりと南へ進め始める。  漢中を目指して。 (玄朝秘史 第四部第二十四回『決戦前夜 その一』終    /第四部第二十五回『決戦前夜 その二』に続く)