「無じる真√N75」  徐州の下邳が些細な幸せで充ち満ちている頃、一度耐性を整えるために退陣してきた曹操軍は彭城の玉座の間にて、曹操を前にするように集まっていた。  集っているのは、西涼に残してきた者たちと、許都を任せた者を覗いた諸将や文官達である。  文官の中でも主君への忠誠と貢献が大きい少女、荀彧が曹操の顔色を見ながらしずしずと言葉を発する。 「あの、華琳さま……?」 「何かしら?」  一本の書簡に眼を落としたまま、曹操は声だけで応じる。ここに記された内容を彼女は半ば愉快な、また半ば不愉快な気持ちで見つめていた。  荀彧を覗いた周囲の臣下たちが彼女の発する空気に触れて口を閉ざしたまま開けず、沈黙を貫いている。ただ曹操の影響、というわけではなく、この書簡の意味を彼女たちもまたよく理解しているため、というのもあるのだろう。 「……ここに著述されていることが気になるのかしら?」 「はい。我々一同の思いは大同小異。公孫賛の返答が知りたく思っております」 「そう。そうよね……」  荀彧の返答に微笑を浮かべながら、曹操は長いまつげが目立つ瞼を下ろす。  曹孟徳自身もまた、気にはなっていたのだ。  先頃、やむを得ず下邳を前にして軍を退いた折りに朝廷が出した使者。後から聞けば、その使者の持つ書状にはこう託しておいたそうだ。 『汝、公孫賛。朝廷の臣たる曹操の領地を侵すとは不届き千万なり。だが、此度の事の真意を晒し、即座に曹操に降るというのならば、間を取り持つこともあたうであろう』  要するに、投降勧告ということだ。おそらくは曹操に気を利かせた者が行ったことなのだろう。もっとも、曹操も勧告を出すことは考えとしてはあった。 「しかし、朝廷もここぞとばかりによくもまあ……動いたものね」 「袁紹と公孫賛の戦争には干渉しなかったときと違い、華琳さまという強大な力を持ったから、かと」 「そうね。そして、本日公孫賛より、朝廷ではなくこの曹孟徳へ直々に返答が着いた」 「華琳さま、あまりもったいぶるような真似はせず我々にもお教えください」  口を閉ざしていた夏侯淵が待ちあぐねたのか、庶幾する。  曹操はふっと笑みを浮かべ、眼を真開くと荀彧へ書簡を託す。 「桂花、皆に読み聞かせなさい」 「はっ。えー…………はぁ!?」 「どうした、桂花?」 「桂花さん……なんだか、凄く驚いてますね」  夏侯淵や典韋を初めとした諸将や文官達が不思議そうに荀彧を見る。  曹操は、彼女たちの反応に吹き出しそうになるのを抑えつつ固まったままの荀彧に声をかける。 「桂花。読み上げなさい」 「は、はい。いい、あなたたち、よく聞きなさい」  そう前置きをすると、荀彧は思いきり息を吸い込み、深く吐き出すと共にたった一言を放つ。 「燕雀安んぞ、鴻鵠の志を知らんや」 「…………ほう」 「え、それだけなんですか」  荀彧の読み上げた書簡の内容に夏侯淵と典韋が異なる反応を見せる。それと同様に諸将や文官の間に騒き出す。  曹操は、わなわなと震えている荀彧と一見すると落ち着いたまま変化ないように見えるが、内心機嫌が悪くなっている夏侯淵に苦笑しつつも全員を見渡しながら開口する。 「静まりなさい。この言葉が意味するところを分かる者はいるかしら?」 「華琳さま! 恐れながら申し上げますが、何故、そのように平成でおられるのですか。このような侮辱……」 「私も桂花に同感です。このような返答……否、返答とすら呼ぶに値しないでしょう」 「え? え? お二人とも、どうしたんですか……」 「桂花でも秋蘭でも良いわ。説明なさい」 「華琳さま!」 「桂花。軍議にはすぐにとりかかるわ。そのためにも、補説なさい」 「は。全員いい、よく聞きなさい」  荀彧は曹操の申し出に渋々頷くと、諸将達の方へと向き直り、咳払いをして説明を始める。 「ここに書かれた燕雀安んぞ、鴻鵠の志を知らんや。に込められた意図を簡単に言うと。華琳さまには公孫賛の抱く考えなどわかることはない、と言っているのよ」 「なるほど……」 「それだけじゃないわ。この言葉はある種の侮蔑とも取れるの。燕や雀などの小鳥には鴻や鵠のような大鳥の志すところなど理解できない……要するに、華琳さまを小物、公孫賛自身を大物と例えているのよ!」  鼻息荒く、今にも書簡をたたきつけそうな勢いで荀彧がまくし立てるように述べた内容に一同の表情が険しくなる。このような言われ方をすればそれも致し方ないだろう。  曹操も半分むっと顔をしかめそうになったのだ。しかし、それ以上に彼女の心は躍っており不快感は相殺されてしまっていた。 「随分、失礼ですね。でも、それなら確かに桂花さんの仰った通り、どうして華琳さまは落ち着いて……いえ、それどころか微笑んでおられるのですか?」 「ふふ。だって面白いじゃない」 「華琳さま。面白いなどと……おふざけが過ぎます」 「あら秋蘭、あなたはそうは思わない? この曹操に刃を向け、それを納める機会を第三者から提示されようと折れず、何より曹操及び朝廷に降ることをよしとしない。中々に強固な意志じゃないかしら?」 「ですが、このように見縊られるというのはやはり看過できません」 「桂花。あなたは、この曹孟徳が如何にして覇道を歩んできたかを忘れたのかしら?」  腹を立て、頭から湯気が立ち上りそうな荀彧を窘めるように語り続ける。 「私が歩む道は険しい道だと既に承知している。そして、目の前に立ちふさがる敵は弱いよりは強い方が良いわ。実際、この曹操にあのような言葉を送りつけるに値する力を公孫賛軍は持っている。ならば、それを如何に降すか……楽しみじゃない」 「……わかりました。華琳さまが公孫賛という壁を打ち崩すために、この荀文若、煮えくり立つ腸の熱を注ぐことにします」 「ええ、そうしてちょうだい。期待しているわよ」 「はい。お任せください」 「というわけだけど、秋蘭も納得したかしら?」 「華琳さまの歩みを支えるのが至上の喜びです。如何なる異論がありましょう」 「よろしい。他の者も異論はないわね?」  そう言って全員の顔を見渡すが、特に異を唱えようという意志の見られる者はいなかった。  曹操はそれを確認すると、カッと表情を引き締める。 「それでは、これより軍議に入る!」  †  曹操軍も絡み不穏な動きが見え始める徐州、その最たるものと言える一件があった場所に一人の女性がいた。  逢瀬に出たままいつまでも戻ってこない二人に痺れを切らせ、護衛の兵を連れて迎えに来た周公瑾その人だった。  辺りは日が沈み、天上には鏡が貼り付けられたように月の光りで明るみに満ちている。そして広がる静寂。その静かな空間が彼女の心を嫌と言うほどざわつかせている。  なぜなら、さらさらと流れる風の好きなように髪を靡かせている彼女は、眼前に広がる光景を前にして、その頭の中を雪景色のように真っ白に染めていたからだ。  血の滴った剣、刃、鎧、旗……それらが積み重ねられ、散らばり、そして、崖の傍に落ちている孫策のものと思しき髪の毛。  周瑜は一通り、現場の様子を見回したまま言葉が出てこない。 (なんだ、これは……)  どう見ても、それはただごとではない何かがあったことを示唆している。周瑜は動揺する顔を覆うように手を添えると左右に分けた前髪をかき上げるようにして頭を抑えながら天を仰ぐ。 「雪蓮よ……よもや……このようなことがあろうとは」  止めどなく溢れる絶望に満ちた吐息と共にはき出される嘆きの言葉。  後悔の念、そんなものでは生ぬるい程に周瑜の心は張り裂けんばかりに痛み続ける。 「周将軍、これをご覧になってください!」 「どうした」 「この崖の壁面に突き刺さっているものを」  兵士の一人に促されるようにして周瑜は崖をのぞき込む。奥底には清流から激流へと変わりゆく変化の姿を晒している川面。  そこから、更に視線を引いていくと小さな華が目にとまる。それは深紅の薔薇、このような場所に何故、と思いながらよく見ると……それは周瑜も持っている、良く知るものだった。  本物の薔薇ではなく、作り物であり、それが岩の根元から生えた木の枝に引っかかっているようだ。 「あれはまさか……誰か、すぐに手を貸せ」 「は!」  兵士たちを省みて、数人を集めるとその薔薇を確保させる。 「雪蓮……大喬……」  手に取ってみれば、本当にこぶしの中に収まってしまいそうな小ささである。それを緩慢な指の動きでそっと握りしめる。 (この髪飾り……半分に割れた片割れか?)  自分が買い出しに行かされたものと比べると二分の一と見える。周瑜は、それを暫し観察すると、ああ……と頷く。 「髪飾りは元々そういう仕組みだったな。そう言えば」  確か購入後に孫策に手渡す際に教えたことだった。今の周瑜はそんなことすら忘れてしまっている程に惚けてしまっていたらしい。  その時だった。森の方が騒がしくなる。 「おい、これ!」 「どうした、な……これは」  何かを見つけたらしい兵士と、それに釣られた者たちが何やら声を上げて驚きを表しているようだ。  何かと思い、周瑜もそちらへ赴いてみる。少し、木々の向こうへ入った所に一本の剣があった。それは先ほどの地点にあったものとは比べものにならないような大層な剣。  周瑜は、その剣を知っている。 「…………南海覇王」 「周将軍。この惨状からすると」 「わかっている。皆まで言う必要はない」  どう考えても、孫策が自分を狙う刺客と争った形跡以外の何物でもない。それは彼女の……孫呉の王の得物である南海覇王を覆うようにべっとりとこびりついている血糊が優に物語っている。  そして、その孫呉の剣がここに突き刺さっていると言うことは……つまりはそういうことなのだろう。 「く……このようなことならば、許可など出すべきではなかったか。せめて……せめて、護衛さえ付けていれば」  悔やんでも悔やみきれない。大丈夫だろうと高をくくっていたのがいけなかったのだ。周瑜は自らの人生最大の過ち。 「……襲撃者の特定に繋がる者がないか探せ。そして、しかる後にその身をもって償わせてくれよう」 「は!」 「それから、すぐに建業の孫権さまの元に使いを出せ。私も予定を繰り上げ、すぐにでも向かう」  兵達に一通りの指示を出すと、周瑜はその場を他の者に任せて淮陰へと戻るのだった。 「くそ……こうなることは……わかっていたような気がする……」  ギリと歯を食いしばると、口端から血が滴り流れて闇夜へ染まった暗き大地へと落ちていく。  何か、忘れている何かを思い出しそうになるような、なんともいえない感覚がしていた。落ちている血ぬれの南海覇王が反射する月の灯りのように鈍重な感覚が周瑜に走り続けている。  †  盛大な祝福を受けた青年は、ほくほく顔に朱を交えた顔で邸宅へと戻ってきていた。  多少の装飾はしていていも、共に居た少女ほどではなく、また基本となる服は普段着ている白い学生服であるため、少女より先に帰えることになっていた。 「先に戻って来てよかったのかな」  一刀は、最初少女の事を待っていようかとも思ったが、時間がかかるという言葉と、そう言った鳳統自身が街の住人たちに囲まれて積もる話もあるだろうと思ったため、仕方なく先に戻ることにした。  一日を振り返りながら、墨汁をぶちまけたような黒に点在する星々を眺めながら廊下を歩いていると、公孫賛が背後から肩を揉みながら声をかけてくる。 「一刀、今日は一日お疲れさん」 「ああ、ありがとうな。何か、色々と仕事を押しつけちゃってなかったか?」 「大丈夫だ。雛里も言っていたんじゃないか? 調整はしっかり取れてると」 「ああ……どうだったかなぁ」 「とはいえ、仕事は尽きることはないわけだからな」 「違いない。ところで、その仕事だけど、白蓮はもう終わったのか?」 「ん? どうしてだ」  急な切り返しに公孫賛が瞳を瞬かせながら小首を傾げる。それに対して、一刀はいやぁ、と前置きをして答える。 「もし残ってるようなら俺も今から手伝おうかなってさ」 「なるほど、実にお前らしい考えだな。大丈夫だ、ちゃんと済ませたさ」 「そうか、さすがは白蓮だな」 「当たり前だろ。伊達に君主を務めてきたわけじゃないさ」  愉快そうに笑みを浮かべながら公孫賛はポン、と手を打つ。 「ああ、そうだ。そうそう、郯の方のことも一応、お前に話しておこうと思ってたんだ」 「郯? あっちで何かあったのか?」  急な言葉にあっけにとられがちな一刀に対して公孫賛は複雑な笑みを浮かべながら驚くべきことを口にする。 「いやな。その……公演があったらしい。数え役萬☆姉妹の」 「えっ」 「まあ、動転するのもしかたないよな。私も寝耳に水で魂消たからなぁ」 「俺、何も聞いてないんだけど」 「私もだよ。はぁ……まあ、貂蝉と応援団の中から選抜された連中が付き添ってるらしいから危険とかはないようだが」 「にしても、ちょっと無茶だよな」  そう良いながらも、一刀は頭の片隅でことの流れが安易に想像出来ることに頭を抱えそうになる。  そもそも一刀が下邳入りするために使ったパイプラインとして経由したのが青州黄巾党のネットワークである。  つまりは、彼らと密接な関係である張三姉妹には割と簡単に情報が通りやすいわけであり、その上公孫賛が動いたのを知れば、無論、どういう道順が無難であるか。そして、大義名分を得ることが可能なこともすぐにわかったことだろう。 「はぁ……とはいえ、この徐州において点在する村落やら郯やらの人心掌握を見事にこなしているからなぁ。私たちの役に大いに立っているわけで」 「一概に、注意もできないわけか。まあ……非常に助かってるっていう揺るがし難い事実があるからな」 「うむ。実際、取りあえず届いた書簡には徐州の民の安定には歌が一番だろうとな」 「間違いではないだろうけど。ちなみに、それを書いて送ってきたのは」 「人和だ」 「だよなぁ……本当にそういう面でも頭回るな」  三姉妹で旅芸人をしている昔から末妹の張梁が会計などを担当していたということで、今もしているのを一刀は何度か見たことあるが、やはりしっかり者らしく事務関係全般も含めて彼女がきっちりこないしている。 「…………」 「白蓮?」 「…………」 「どうしたんだ?」  急にむすっとした顔をする公孫賛に一刀は首を捻りながら声を幾度かかけてみるが、何故か答えてくれない。困惑する一刀にようやく公孫賛が口を開く。 「……よかったなぁ」 「え?」 「随分と、好かれてるようでよかったなっ!」 「はいっ!?」 「ふん……」 「あ、いや……え?」  数え役萬☆姉妹が動いてくれたことには感謝しているようだが、その反面、ちょっぴり不満も感じているようだ。 「お前というやつは、ホント色んな女に手を出して……今日だって雛里と仲良くしてたっていうのに」 「待て待て、雛里の件はまあ、その通りとしか癒え泣けど。でも、なんで、人和達の方までそうなるんだよ……」 「手紙の最後に……ええい、自分で読め!」  そう怒鳴りつけながら、公孫賛が書簡を一刀の顔にたたきつける。材質が竹であるため非常に痛かったりする。  一刀はうずくまりかけながらも、書簡に眼を通す。 「何々……働きの報酬の一つとして、三姉妹のそれぞれ一人ごとに一日中俺を連れ回すことを許可してくれってことか」 「そういうことだ。まったく……あの三人が動いたのがどういう感情からかもわかるから余計に……」  一刀の言葉に首を縦に振ったかと思うと、公孫賛はそのまま引き継ぐようにぶつぶつと何やら愚痴をこぼし始めている。  やれやれと肩をすくめると、一刀は恨みがましいと言うような、はたまた羨ましいというような複雑な雰囲気を漂わせている公孫賛の頭に手を置く。 「ふえ!?」 「大丈夫だよ、白蓮には……本当に感謝してる。いつも影で支える役目をしてくれてありがとうな」 「うゆぅ……ずるいぞぉ……」  つややかな髪の感触が心地よい頭を撫でると公孫賛が真っ赤になる。様子が変わった彼女を見ながら一刀は微笑ましい気持ちになる。  可愛らしい反応に頬を緩めながら一刀は頭をなで続ける。 「白蓮ってさ。普通にかわいいよな……可愛さが普通、なんじゃなくてさ」 「うわ、何恥ずかしいことをさらっと!」 「はは、そういうところが可愛いよ」 「…………あーうー、やめろって。髪が」 「偶にはいいじゃないか。ふふ」  文句を言うが特に手を払ったりはしない公孫賛に心底和む。  最近は一刀も彼女との時間を取れるようになってはいると思うものの、これまで彼女をほったらかしにしてきた分には及ばないだろう。  そういう感情もあって、ついつい構ってしまう。  そんな一刀の心情など露知らぬ公孫賛は、うーうーと唸り続ける。 「ああもう、いい加減にしろー」 「うわっ」 「お前は私をからかって楽しいか!」 「からかってないさ。ちょっと愛でただけで」 「――――っ」  公孫賛の顔がみるみる紅みを増量させていき、彼女はぷいっと顔を逸らしてしまう。 「白蓮?」 「お前はなんなんだ……ことあるごとに、色んな意味で私の心をぐらつかせて」  どうやら、今回のことだけでなく一刀が色々と公孫賛の気を揉ませたことも含めて不満が噴出し始めているらしい。  ガス漏れから始まり、いつ着火して爆発するかわからない。一刀は公孫賛の視界に苦笑い混じりに入り込む。 「まあまあ、俺も今日はもうこのくらにしておくから。な?」 「まったく……」 「だけど、かわいい白蓮を堪能させてもらったよ。それじゃ、また」 「ぐっ……ま、まあ……悪い気はしなかったがな。それじゃあ」  互いに背を向けてすれ違い、歩み始め、一刀は伸びをしながら歩を進めていく。 「あ、そうだ。おい、一刀」 「ん?」  呼び止められて、一刀は顔だけを公孫賛の方へと向ける。つい寸前までの愛嬌のある表情はどこへやら、彼女は真剣な顔つきで一刀を見つめている。 「これから、また大変な日々を迎えることになるだろうが……よろしくな」 「ああ、これからもよろしく」  †  妙な様子の公孫賛に疑問を持ちながらも彼女と別れると、一刀は自室へと向かった。  今日は、朝は鳳統の一件があり、それが終わって戻って見れば、今度は張三姉妹が近くまで来ていることを知らされて驚きばかりだった。  一刀は廊下を歩きながら、今日は驚愕に彩られた日ということなのだろうか、と思い、そんなくだらない自らの考えに苦笑しながら扉を開く。  扉が少しだけ古きを伝える音を醸し出しながら開いていく。  夜の静寂と相まって辺りはしんと静まりかえり、他の音がしない。  そんな中、一刀のすぐ後ろから足音が聞こえる。それは微かな小さな足音。天を舞う天女のごとき軽い足取りを思わせる程に微細な音。 「……あ、あの。ご主人様」 「ん? 雛里か、十分話はできたのか?」 「はい……みんさんに沢山祝福して頂きました」 「そっか。良かったな、雛里」  頬を薄桃色にしている鳳統に振り返りながら、一刀は笑みを零す。少し前までは彼女のこのような少し照れが入りながらも、幸せそうな笑みを見ることもできるとは思ってもいなかった。  色んな事があって、目の前の少女と巡り会い。そして、今はこうして傍にいる。  そんな感慨に耽る一刀に鳳統はもじもじとした様子で赤みを帯びた顔を上げ、上目を向けてくる。 「……ご主人様。」 「どうかした?」 「……あの、その」  しおらしい態度でちらちらと一刀の顔を見ながら鳳統がもじもじとする。何か言いたいことはあるようだが、中々切り出せないようだ。 「んー……まあ、中に入りなよ。中でゆっくり聞くよ」 「は……はいぃ」 「そんなガチガチにならなくてもいいのに」 「……あわわ。その……すみません」 「別に責めてるわけじゃないよ」  ぽんぽんと頭を撫でて鳳統が落ち着けるよう微笑みかける。それで、少しでも安堵してくれればと思ったのだが、鳳統の様子はやはりおかしい。  熱の籠もった吐息混じりに少し潤みを帯びた瞳を向けてくる。 「…………雛里」 「……はい」 「その、昼にも交わした言葉だったと思うけど……俺と一緒に……」 「はい……ずっと、おそばに――っ!?」 「ん……ちゅ……」  鳳統の意図をそれとなく考えた一刀は自分から動いた。愛らしい声を発している可愛らしい唇へと口づけをした。  間違っていたら、とも思ったが。鳳統は最初こそ驚いた様子を見せたものの、すぐに一刀に身を預けてきた。 「……ん……んぅ……」 「……あぅ……ごひゅじんふぁま……っ」  昼の人前での接吻と違い、今宵の口づけは濃厚なものへと転じさせていく。一刀の舌が少しずつ鳳統の口腔内へと入って行くのに併せて彼女の肩が小刻みに揺れる。  舌先で鳳統の舌をなぞると、ぶるりと震えるのがわかる。だが、嫌がるわけではなく、むしろ辿々しくも一刀の舌とじゃれつくように少女は自分の舌を蠢かしていく。  鳳統もまた、一刀の記憶に残っている少女と仲が良いだけにそういうのに関する知識はあるのだろうか、なんて疑問が脳裏を過ぎったが今は甘美な感覚に酔いしれていくことにする。 「ん……ぷはっ……どう?」 「……あぅ」 「雛里?」 「…………はッ!? あわわ、あの、その……ご主人様をお口の中で凄く感じました。あうぅ……」 「そっか。俺も雛里を堪能出来て幸せだよ……でも、もっと雛里を知りたいな」  蕩けきった表情でうつむく鳳統の顎に手をやって顔を自分の方へと向けると、一刀は微笑みかけ、彼女の躰を抱き寄せる。  そのまま、腰元や太股の辺りをまさぐりながら頬、耳元へとついばむような口づけを繰り返す。 「ひゃっ、あぅ……くすぐったいです。んっ、やぁん……」 「ふふ、かわいいよ……ちゅっ……れろ……」  躰をくねらせて悶える鳳統の吐息が跳ね上がるのを感じながら、一刀は彼女の首筋へと舌を這わせていく。  そして、良いポイントの目処を立てると甘噛みするように歯をそっと宛がい、強く吸い込む。 「はうっ……あ、あぁん……んぅ……」 「ちゅぅぅぅぅ……ぷはっ、ふう……うん。うまくついたな」 「……なにが……はぁ、はぁ……ですか?」  自分を刻みつけるように鳳統の首元へと付けた、共にあるという証をなぞりながら囁く。 「雛里が、俺のものになったっていう印をね……ちょっと」 「あわわ、な、なんですか……それ」 「俺のいた世界ではキスマーク……えっと、接吻の跡……かな」 「……あぅ。じゃ、じゃあ……ご主人様が口づけしたあとが、その」 「ああ、バッチリだ!」  眼を丸くしてあわあわしている鳳統に、一刀は親指を立てながら、微笑む。 「……あわわ。他の方に見られちゃったらどうするんですかぁ」 「特に考えてなかった。あはは……」 「……あぅぅ」 「それはそれ、今は……後の事は気にしない気にしない」 「ひゃっ……あぅぅ……ご主人様……」  太股に添えていた手を腰布の中へと忍ばせて、ゆっくりと下着の縁に指を這わせ、少しずつ手を進めていく。  腰回りを包む布地は上等なものを使用しているのか感触がとてもよく。また、少女の体温が布越しでもよく伝わってくる。 「んぅ……はぅ……」 「やっぱり、こっちもかわいいものだな」  下着越しに臀部を撫で回す。体型に即した小ぶりなお尻だが、触り心地は大いに素晴らしいと言える。  ぷるんとした尻朶を堪能しながらも、一刀は鳳統を抱きかかえて寝台へと運び、ゆっくりと寝かせる。 「あの……ご主人様」 「ん?」 「……そ、その……やさしく、お願いしましゅ」 「ふ、ああ……任せてくれて大丈夫だよ」  顔を深紅に染め上げんがらの鳳統の嘆願に、一刀は微笑みで返すと、そっと頬に手を添える。  そして、軽く口づけをすると鳳統の服へと手をかける。 「おい! 一刀ー!」  外から、ドンドンと扉を叩く音が聞こえてくる。何やら騒がしい女性の声に、一刀と鳳統は顔を見合わせる。  鳳統は驚いたのか息を呑んだまま硬直している。  一刀は頭を軽くかきむしると、寝台を降りてため息混じりに扉へと向かう。深呼吸をすると、静かに扉を開く。 「こんな夜中にどうかしたのか?」 「ああ、悪いな。実はだな、先ほど早馬が届いてな」 「どうしたんだ……まさか、曹操軍が動いたか!」 「あーいや……南方の村からの救援要請があってな。緊急で軍議となった」 「え、軍議!?」 「そうだ。だから、貴様もさっさと来るのだ。さあ、さあ!」 「あ、ちょ、華雄! 待てって、準備くらいさせてくれ」 「む。それもそうだな、それと雛里を見なかったか。あやつも呼びに行ったのだがいなくてな」 「あーその。まあ、雛里には俺から伝えておくから」  困ったような表情の華雄に若干の気まずさを感じつつ、一刀がそう答えると、華雄は「そうか」と小さく頷いた。 「まあ、何にしても。華雄は先に行っててくれよ。俺もすぐ行くからさ」 「ああ、わかった。それじゃあ、雛里のことも頼んだぞ」  そう言うと、華雄は片手を挙げて部屋を後にして廊下の奥へと早足で消えていった。  彼女の後ろ姿が完全に見えなくなったところで、一刀は振り返り、鳳統へと歩み寄る。 「まあ、そういうわけみたいだから。行こうか」 「……は、はい」  鳳統は服を正しながら頷き、静かに寝台から降りる。その顔は若干優れない用にも見える。 「………………雛里」 「……ふぇ? ……んっ……」  気のない返事をしかけた鳳統に一刀は強引に口づけをし、耳元で小声で語りかける。 「続きは、また今度……な」 「……あわわわわ」  ぷしゅうという音と共に湯気が立ちこめる鳳統にニコニコと笑みを浮かべながら一刀は彼女の手を取る。  そして、未だ瘴気に戻らぬ鳳統を連れて玉座の間へと向かうのだった。  †  一刀と鳳統がそろって軍議の間へと赴くと、すでに文官武官が揃っていた。  どうやら、二人が最後だったらしい。一同は一刀達を一瞥するとすぐに前方へと視線を戻した。 「あわわ……恥ずかしいです……」  首筋をやたらと気にして手で隠している鳳統が頬を林檎のようにしている。  一刀はその反応を愛おしく思いながらも、自席へと着いて、やはり他に倣うようにして前方――公孫賛へと顔を向ける。 「これで、全員だな」 「遅れてすまん」 「いや、いいさ。お前は今日は大変だったしな」 「しょうがないわね。大方、寝ようとしてたんでしょうし」 「違いないな。主のことですからなぁ……ふふ」 「あーまあ、気遣いありがとな」  公孫賛だけでなく、賈駆や趙雲からも言葉があり、若干の引っかかりを覚えつつも一刀は素直に礼を言う。 「気にするな。それでだ、先刻届いた使いによると南方にある村が盗賊に襲われて非常に危険な状態らしい」 「危険な状態?」 「ああ。有志で自衛団を組んで防衛はしているそうだが。重病人などが居て長期戦は困るようだ」 「……確かに、重病人がいるとなると、薬を取り扱う行商の行き来が滞ると危険ですね」 「なるほどな……それは確かに死活問題になるな」  村に薬などが、残りどれほどあるのかはわからないが。この時代で、それも一つの村単位で言うと、恐らくそう多くはないだろう。  そうなると、行商人の通行が不可能となり外から取り寄せられなくなり、治療の手段が失われてしまうだろう。  そうなれば、間違いなく助かるはずの人が助からない。  そのことを考えて、一刀は腕組みして大いに頷く。確かに、要救助であり緊急性を伴うことだった。 「そういうわけで、悪いが一刀。星と雛里、それに兵を連れて今すぐに向かってくれないか?」 「俺が?」 「ああ。曹操軍とのこともあるし、私も不用意に外すわけにいかないからな」 「それもそうか。わかったよ、それじゃあ、行ってくる」 「うむ。星と雛里も、構わないか?」 「……あ、はい。構いません、ご主人様をしっかり補佐しましゅ」 「噛んでおるぞ……ふふ。白蓮殿、私も構いませぬよ」  きりっと返答しようとするが、最後を噛み、ちょっと可愛らしいことになった鳳統。それを見て微笑を浮かべる趙雲も共に公孫賛の軍令に頷いた。 「それでは、その三名に歩騎三千ほど預けるとする。よろしく頼む」 「はっ!」 「では、解散。各自、準備に取りかかってくれ」  公孫賛の号令によって、諸将はすぐに動きだし、文官たちも自分たちのすることへと考えを巡らせていく。  そんな中、一刀は趙雲、鳳統の二人に近づき共に軍議の間を出て行く。  それから出立の準備を迅速に整えると、すぐに城を跡にすることとなった。 「それじゃあ、行こうか」 「はい……民を助けに参りましょう」 「うむ。そうですな、しかし焦りは禁物ですぞ、主」 「ああ、わかってるさ。ありがとう。そじゃあ、星。号令、頼む」 「は、皆の者、曹操との激突で動くことになると思っていたかもしれぬ。だが、民を救うことも我らにとっては同様に大事なことであることを忘れるな!」 「応!」 「それでは、北郷隊。参るぞ!」 「おーーっ!」  喊声と共に、一刀の率いる部隊は出陣した。  趙雲の言う通り、大きな戦争でないからと行って気を抜いてはいけない。そう自分に気合いを入れている一刀の元に趙雲が寄ってくる。 「主……主……」 「ん? どうしたんだよ、声を潜めて」 「賊の鎮圧が出来たら、後は私に任せるがいいですぞ」 「はあ? それはだめだろう」 「いえ。それよりも、主はやはり……続きをして差し上げた方がよろしいかと」 「ぶっ!」  趙雲が嫌らしい笑みを浮かべながら放った一言に一刀は吹き出す。後ろの鳳統も咳き込んでいるのが聞こえる。 「な、何を……ていうか、知ってるのかよ」 「今日のこと……そして雛里の様子を見れば一目瞭然ですぞ」 「マジか……ははは」 「まじ、ですぞ。おそらく、空気を読まずに妨害したあやつくらいでしょう……わからぬのは」 「…………そ、そうか」  ということは公孫賛もわかっていたのだろうか。  もしかしたら、一刀と鳳統をセットにしたのも、そして華雄でなく趙雲をつけたのもひょっとすると……そんな考えが一刀の脳裏に過ぎる。 (ま、まさかな……)  変な気遣いをさせたとしたら、それはそれで恥ずかしいものだった。 「というわけで、主よ……神速の張遼も驚愕の速さで賊軍を鎮圧してお楽しみにありついては如何かな」 「お楽しみ……」 「ええ……雛里も、その方がよかろう?」 「……あわわ、その……どちらかと言ったら……はぅ」  急に話を振られた鳳統は顔を赤らめてうつむいています。結局どっちなのかはわからないが。態度でなんとなくわからないこともない。 「まあ、そういうわけで、主」 「ああ、よーし! ……って、焦りは禁物って言った当人が焦らそうとするんじゃないーーーっ!」  一刀のツッコミが宵闇へと吸い込まれていく。その闇は気のせいか、どこまでも遠く、果てしなく広がっているように感じられた。  その深淵に引きずり込まれそうな子供の頃に暗闇に抱いたような恐怖心が僅かに一刀の胸をざわつかせる。 「どうかなされましたか、主?」 「いや、なんでもないよ。うん……それじゃあ、気を取り直して、速度は落とさずこのまま向かおう」  そう、気のせいに決まっているのだ。闇が怖いなど幼子や童子じゃないのだからと自らに苦笑して一刀は馬を走らせるのだった。