玄朝秘史  第四部第二十二回『吉凶禍福』  1.巡幸  全面戦争というものは、そうそう起きることはないものだ。  亞莎は、馬の背に揺られながら、そんなことを考える。  国力の全てをかけてつぶし合うような戦争をすれば、勝利した国もただでは済まない。それに、そもそも隔絶した地域に二国があるというような地理的状況でもなければ、他の国に漁夫の利を狙われる。  この大陸で、そのような環境は、まずあり得ないだろう。  だが、と彼女は顔をあげる。  その目には、船から続々と下りてくる兵たちの姿が映り、また、接岸を待つ呉の軍船の数々が見える。  これらの兵は、けして、決戦に赴く者たちではない。  けれど、大きな戦の尖兵とはなり得る存在なのだ。  どうして、こんなことに……と、呉における軍師として、忸怩たる思いを抱きながら、彼女はいまここに至る出来事を思い返していた。  そもそもが、北郷一刀の登極に端を発するのは間違いない。  三国の動乱が魏の勝利という形で解決した後、あいまいな形で三国の統治が認められ、そして、数年の時を経て、それが覆される事態となった。  天の御遣いと呼ばれる人物、北郷一刀を帝につけるという覇王たる華琳の選択。それが成された時に、全ては変化した。  それでも、一刀を中心とした朝廷を形式的には頂点として、魏、呉、蜀がその下にこれまで通り存在し続けるゆるやかな連合体制であったなら、そう問題はなかっただろう。  だが、そのような体制では帝権は大幅に弱まる。実質的なお飾りに終わるようなことを、華琳はもちろんのこと、一刀自身も選択しなかった。  ただし、彼も全ての権限を各国から奪うようなことはしていない。いや、これまでの国家に比べても、地方統治の在地権限は強化されている。実際、孫呉は孫呉のまま、呉の領土を統治するという方針ですらあったのだ。  問題は軍権を中央が握るという大方針であった。  徴税も、人事も全て任せておきながら、軍事については中央が統御するもの以外は認めないとするこの考えは、実に革新的であった。  そして、到底受け入れがたいものであった。  蜀は漢朝の帝を受け入れることで蜀漢として独立し、残された呉もなんとか国をまとめあげて、蓮華が帝として即位した。  ただし、孫呉に限れば、一刀の側についた孫呉の英雄、雪蓮の存在があったが故の建国であったとも言えるのだが……。  ともあれ、蓮華が呉の帝として即位した時点で、三国の緊張は頂点に達していたと言えよう。それぞれの勢力における幹部勢にどのような思惑があろうとも、それは覆しようのない事実であった。  一刀も、蓮華も戦となることを望まなくとも、やはり、どうしようもない流れというのは存在するのだ。  本来天子とは天地に唯一人しか居ないはずという理念的な部分も含め、帝国の建国を宣言することが、他の二国に対する宣戦布告に等しい。中華という文化領域においては、帝国を称するのは、つまり、『統一』を志向していると受け止められるためだ。  故に、三国はお互いを敵視せざるを得なかった。  それでも、三つの勢力がある故に、そうそう簡単には事は起きない……そのはずであった。  だが、蓬莱の帝、北郷一刀の巡幸の計画が発表され、事態は加速する。  帝の巡幸と言えば大規模で有名なものは、秦の始皇帝のものであろう。  秦という最初の統一国家が、まさに統一されていると示す為に、始皇帝は各地を巡った。天地を祀り、祖霊に統一を報告し、そして、各地に赴く皇帝のための道を整備した。  後世から見れば馬鹿馬鹿しいとも思える大がかりな事業は、しかし、いまだに、単一の権力による統一という事象を経験していなかった中華にとって、あるいは必要なことであったのかもしれない。  それに比べると、一刀が行うこととした今回の巡幸は、宗教的な色彩は薄く、道路の整備や、それに伴う各地の調査も伴っていない。  あるのは、より直接的な行為――即ち軍事的圧迫。  巡幸に随伴すると公表された人々は以下の通りだ。  大将軍、袁紹。  驃騎将軍、孫策。  左車騎将軍、華雄。  右車騎将軍、呂布。  衛将軍、黄蓋。  左征東将軍、顔良。  右征東将軍、文醜。  そうそうたる軍部の面々に加えて、  相邦、賈駆。  大司農、周瑜。  尚書左僕射、董卓。  尚書右僕射、陳宮。  太僕、袁術。  少府、張勲。  と文官とは名ばかりの、軍師勢。  この中で、戦に役立たぬ者など、数えるほどだ。  これらの者たちに兵を指揮させれば、どれほどのことになるか、三国の動乱を生き抜いた者たちは戦慄と共に悟るであろう。  そして、同時に気づくであろう。  この巡幸に伴う面々には、魏に属する武将が唯の一人もいないことに。  三国を平定するだけの実力を持つ魏勢は本国に腰を据え、巡幸の後方の無事を担う。  遠征中に本拠地において政治的な弛緩が生まれようのない体制で、自由に力をふるえる武将が、いかに強いか。  呉、蜀の幹部たちは、そのことを考えて、身震いした。  唯一救いであったのは、巡幸に伴って中原地域から引き抜かれた兵が五万程度に過ぎないことだろう。  ただし、同時に発表されている巡幸の順路を考えると、そこにさらに兵が合流するであろう事は想像に難くない。  巡幸の道筋は詳細は伏せられたものの、経由地と目的地の二つが公表されている。  すなわち、荊州襄陽、樊城を経て、益州漢中へ。  前者が孫呉への圧力を意図しているのは間違いなく、そして、現在、襄樊地域では漢中から脱出した五斗米道信者数万を含めた十万程度の人員が、城作りに従事している。  その全てが兵として用いられれば、総数十五万。いかに急作りの兵士が混じっているとはいえ、十五万は大きい。さらに言えば五万の精鋭が混じっており、歴戦の将が指揮するとなれば、十万の兵がそれほど損なわれることなく古参兵と化すことも考えられる。  これらのことは、最終的な目的として設定されている漢中に腰を据える蜀漢政府以上に、孫呉にとって大問題であった。  蜀漢にとってみればもはや迷う必要はないのだ。  十万から十五万の兵という少ない――そう、これはかつての魏軍全軍や、蓬莱の全戦力に比べれば十分に少ない数なのだ――兵力で攻め寄せられることを奇貨とし、北郷軍と一戦して、勝利を収める。  これだけが蜀漢の希望であろう。  いや、勝てぬまでも守りきれば、彼らの道は開けるのだから。  けれど、とそこで、亞莎は回想から現在対処するべきことへと意識を変化させる。  孫呉の軍師である亞莎にしてみても、一刀の巡幸――という名の遠征――に対してどう対処するかは悩ましいところであった。  襄陽、樊城地域は、荊州の中心と言っていい。そこをがっちりと押さえられると、孫呉は身動きが取れなくなる。  揚州と荊州、それに交州を主な領地としている孫呉にとって、揚州は根拠地、交州は辺境――つまりは開拓の最前線である。そして、荊州は孫呉にとっては中原に出るための通路であり、富を生み出す経済中心地であった。  襄樊地域を塞がれると、経済も、そして、軍事的にも孫呉は手足を縛られた状況で何ごとかをなさなくてはいけないような事態に陥るのだ。  つまり、巡幸の前段階、襄樊に城を築かれている時点で、困ったことにはなっていたのだ。  だからといって、襄樊地域を襲い、戦を始めるだけの準備は、まだ建国間もない孫呉には出来ていなかった。  しかし、蓬莱の帝率いる軍が襄樊に入るとなれば、また話は変わってくる。  襄陽、樊城付近に城を数多く築いているという事実だけでも脅威であるというのに、そこに皇帝を擁する五万の軍が入ればどうなるか。  いかに巡幸の経路が公表されているとはいえ、そのまま居座ったり、南下して孫呉を討たない保障はない。いや、むしろ漢中という最終目的地の公表こそが欺瞞ではないか。  一刀の性格を良く知る蓮華や、亞莎たちにとって、その恐れは杞憂に思えるのだが、民や兵がそう考えるのは当然のことだ。  なによりも、もし何ごともなく通過するだけだったとしても、それをさせてしまっていいのか、という問題が出て来る。  襄樊にわざわざ一刀が出て来るのは明らかに孫呉への圧力と挑発のためであり、それを看過することは、孫呉の面子に関わる。  できたての国であるだけに、国家の威信が傷つけられることは、その経営の根幹に関わってきてしまうのだ。  はっきり言えば、ここで蓮華がなにもせず、一刀が蜀漢に向かうのをただ見ているだけというような態度を取れば、江東の民の反感が爆発する可能性すらある。  それに加え、蓮華個人の感情としても、何もせず建業で座っているだけなどということは出来そうになかった。 「そうして、我らはここにいるのですよね……」  結局のところ、蓮華は兵を出した。  ただし、最初から戦を想定したものではなく、巡幸に訪れる夫からの誘いに応じて、『歓迎』のために彼女は出張ることにしたのだ。  孫呉の軍、五万を率いて。  一刀の対応、そして、蓮華の反応。  そのどちらかがおかしくても、すぐに戦と変じるであろう両者の会合。  兵たちは、そして、亞莎はそのためにここにいる。  いや、こうして兵の上陸を見回っている亞莎だけではない。  軍船を統括している思春も、既に襄樊近くに進み、諜報活動にいそしんでいる明命も、蓮華の側で全体を仕切っている穏も。  国元を任されている小蓮を除いた孫呉の首脳陣は皆、その瞬間のために動いているのだ。  そう、数日後に待つ、一刀との対面のその時のために。  2.天軍 「董仲穎を打ち破ったとき、そこにいたのは誰か!」  黄金の甲冑に黄金の髪を振り立てて、彼女は声高らかに問う。 「我が強大なる袁家を討ち滅ぼした、官渡での勝利者は誰であったか! その側にいたのは誰であったか!」  自らの敗北をも満面の笑みで語りながら、彼女はその功績を称揚する。 「曹孟徳が追い詰められたとき、勝利に導いたのは誰であったか!」  悲痛な響きを込め、彼女は訴える。 「赤壁の勝利を、成都での戦の終焉を、彼の人は見た!」  腕を開き、抜けるように青い空に対するようにして、彼女は告げる。 「常に勝利し、常に生き残った人こそ、我らが天の御遣い」  まだ鎧も着慣れていない兵たちを見据えながら、蓬莱の大将軍、袁本初は語る。 「全ての勝利は我が君、我等が帝の下にあり!」  びっと突き立てられた指が、天空を指す。ともすればひきずりかねないような金の髪を背に揺らし、天を示すその姿は、居並ぶ兵たちからは、まさにまばゆく見えた。 「いまより、我等は天兵となる。天意は我等と共にあり! 天子様が見ておられるぞ、進め、天軍よ!」  彼女の腕が下ろされる。その方向へ全ての視線が向き、そして、同時に一歩が踏み出された。 「全軍進め! 前へ……いや、明日へ!」  麗羽の号令で、その軍団は猛然と駆け出した。 「おつかれさま、麗羽」  実際的な――あるいは、彼女自身の言葉を借りれば地味な――訓練を猪々子と斗詩の二人に任せて襄陽の城壁近くに戻って来た麗羽に、一刀が布を手渡す。 「ありがとうございます、我が君」  言いながら、麗羽は長い金の髪を振り、夫から受け取った布で、首筋の汗を拭った。 「いやあ、すごいね。気合いの入った練兵だ」 「ふふ。数え役萬☆姉妹のお三人だけ目立たせるわけにはいきませんわ」  満足げに呟く一刀に、麗羽は満更でもない様子で応じる。周囲でそれを見守っている人間は、呆れている者あり、素直に感心している者ありと様々であった。 「別に対抗しなくてもいいでしょうに」  などと言っているねねは呆れを露わにしている方に含まれた。一方で、その隣で翡翠色の髪をいじっていた詠は、平静な調子で言う。 「でも、なんか、こう……。そのままどっか進軍しそうな演説よね?」 「ええ、もちろん、漢中に進むときは、ああして活を入れるつもりですわよ?」 「ふうん? まあ、そうね、古くさい漢の天子と対するには悪くないか……」  彼女にしては賞賛に近い言葉に、麗羽が得意げに高笑いを始める。それをうるさげにしながら、詠は横の一刀を見た。 「さ、行くわよ。忙しいんだから」 「ん……」 「なに?」  なにか含むような声で応じた男の様子に眉を顰める詠。彼女の忙しいという言葉には何の誇張も嘘も含まれていないので、あまりだらだらしている暇はないのだ。 「もう少し見てたらだめか?」  おずおずと、いっそ申し訳なさそうに言い出す最高権力者の顔を詠はじっと見つめていたが、仕方ないというようにため息を吐いた。 「ねね、しばらくしたら引っ張ってきなさい。恋も頼むわ」 「了解ですよ」 「ん」  二人が頷くのを見て、詠はぱんぱんと手をはたく。 「ほらほら、他の連中は行くわよ。もう、いくらでも仕事は出て来るんだから」  そうして、一刀についてきていた面々と麗羽は、詠を先頭に城内へと戻っていくのだった。 「天軍、か」  猪々子隊と斗詩隊の二部隊に分かれて模擬戦闘を行っている様子を眺めながら、一刀はぽつりとそんなことを呟く。麗羽が人々を鼓舞していた様を思い出していたらしい。 「俺にはそんな力はない」  腕を組んでいっそ寂しげな顔をしながら、彼は続ける。 「一人一人を守ってあげられるような術もなにもないし、加護なんてあるわけもない」  彼は、異世界からやってきたという――とんでもない――点を除けば、普通の人間である。この時代の英傑たちと比べても、身体的能力だけ見れば、それほど特筆すべきものがあるわけでもない。  性豪であることは、また別として。 「……そんなことない」  だが、おそらくは、この世界でも『特別』という言葉に最も近いであろう人物はふるふると首を振って彼の言葉を否定した。 「ご主人様が一緒にいるだけで、恋は力が出る。きっと、あそこにいる二人も、そう」 「兵たちだってそうですよ。帝が最前線に出ているというだけで士気は上がるものです」  猪々子と斗詩を指す恋に同調するように、ねねは大きく頷いてみせる。小さな体で胸を張ってそんな風にする仕草がとても可愛らしくて、一刀はそれだけで勇気づけられるような気がした。 「いまだってそうです。兵たちは、お前がいることを知ってます」 「え? そうなの?」 「ん。わかる」  恋に保障されてしまうと、なんとも言えない一刀。さすがに、一軍の将として兵の感覚を捉える技倆では彼女に敵わないことを彼はよくわかっていた。 「だからこそ、詠は残ることに賛成したのです。緊張感のある状態での訓練のほうが身につきますからね」 「……訓練ですこしあがるくらいが、いい」 「ふうむ」  納得して、それ以上に熱心に兵たちの動きを眺めやる一刀の横で、恋はしばし考え込むようにする。彼女がそうする時は内心の動きをなんとか言葉にしようとしているのだとよくわかっているねねは、余計な口を挟まぬよう、きゅっと唇を閉じていた。 「戦になれば、人は死ぬ」 「ん?」 「ご主人様がそれを避けたいと思ってるのは、わかる」  急にかけられた言葉に、一刀は彼女に視線をやる。赤い髪が印象的な女性は内側からわき出るものを懸命に言葉へと変化させ、彼に伝えていた。 「でも」 「うん」 「ご主人様は、もっと大きなものも見てる」 「……そうだな。そのつもりではあるよ」  なんとなく恋の言いたいことを察して、一刀は微笑む。力づけようとしてくれていることはなによりも伝わってきていた。  戦で人は死ぬ。それは紛れもない事実。  その上で、一刀は戦がこれからも起こり続ける道を選んだ。  より大きな犠牲を防ぐため。  それが正しいかどうかはまだ結論づけられるものではない。だが、それを選び取った以上は……。  そんなことを考えている彼に、音々音はふんと鼻を鳴らして指摘する。 「ま、天軍云々はともかく、あのきんきらきんが言ってた通り、北郷一刀という人間が負け知らずなのは事実です」 「いや、それは華琳の側にいたからだろう?」 「そうかもしれません。でも、嘘ではないですよ?」 「そりゃ……まあ、嘘ではない、な」  追い詰められたり、危機に陥ったりしたことは多々あるが、大敗を喫したということはない。それは、最終的な勝者となる華琳の陣営にあったから、という理由が大きいものの、けして嘘というわけではない。  そして、そんな経歴を持つ者は、実は稀なのだ。 「戦場の兵というのは、心細いものです。当たり前ですよ。これから死にに行くようなものなのですから。そんな兵があてにするのは、ほんの小さな事です。自分たちの将軍は強いでも、この軍は国の中でも強いと言われてるでも、まあ、なんでもいいのです。そんな中で、常勝無敗、と聞かされて、心が沸き立たない兵はいません」  そもそも、一刀は歴戦の武将として名が売れているわけではない。だからこそ、彼が負けを知らないという事実を知らない者も数多いだろう。言われてようやく気づくという場合も多いだろう。  だが、それを認識すれば、強みとなる。  ましてや、口上を述べるのは名家という箔だけで生き抜いてきた麗羽である。一刀に箔をつけるのもお手の物であった。 「そういうはったりも、力になる以上、それでいいのではないですか?」 「ふむ……」 「帝の位も、無敗の名も、天の御遣いっていうのも、思う存分頼らせてやればいいです」  納得し始めた一刀に、ねねは、にかっと笑ってだめ押しをする。 「それで負けなければ文句は出ません」 「そうだな」  複雑な笑みで、一刀は頷く。負けなければ良いというのは厳然たる事実であるだけに、重いものであった。 「ま、そのためにねねたちが頑張るのですけどね」 「頼りにしているよ」  一層胸を張るねねと、それを楽しげに見ている恋に向けて、今度は屈託無い笑顔で笑いかける一刀。 「ん」 「任せろですよ!」  二人はそんな彼に、より晴れやかな笑顔で応じるのだった。  3.城砦  名目上は夫の招きに応じたということになっている以上、呉軍は江水を遡って軍船を進めることをせず、途中で船を下り、江水河畔を進んでいた。  水上での戦いを得意とする軍が陸上を進むことで、直接的な敵対の意思はないことを示したのである。  実際には、五万も軍を引き連れている時点で、かなりの示威行為なのだが、そこはお互い様と言うしかない。  そんな呉軍が目にしたのは、襄樊地区に建築された、城砦の数々であった。 「これは……」  初めてそれを直に目にした蓮華が目を見張る。 「城砦、というのは似合いませんね〜」  彼女の横で馬を進めていた穏が、穏やかな、しかし、少々固い声でそう呟く。  通常、砦と言えば、戦時に人が籠もる見張り塔と、平時の詰め所が組み合わさったものが想像される。辺境の砦ならば、さらにもう少し広い部分を囲んだ小型の城市のようにもなるだろう。  だが、彼女たちが目にしているのは、それとは全く違う。 「城壁ですね」  眼を細めて観察していた亞莎が結論づけたように、それは城砦に非ず、都市を囲うための城壁と門であった。  一般的な城壁に比べれば、なんだか短い寸詰まりの存在のように見える。だが、それは余りに分厚く作られているからで、けしてそれ自体が短いというわけではない。  なによりも、それは、彼女たちの進行方向だけではなく、右にも左にも存在する。よく眺めやれば、さらに向こうにも、それはあるのだ。  いずれはそれらをつなぎ合わせ、長大な一個の城壁と成すであろう事は容易に想像出来た。 「どれだけ大きな城を作る気なのでしょうか……」  明命の呟きも、力ない。軍本体に先んじて、様々な情報を集めていた彼女は余計にその実態を把握しているため、あまりに壮大な計画に、圧倒されているのだ。  襄陽と樊城、江水を境に向かい合う双子の都市をつなぎ合わせ、大陸交通の要とする。  その話を一刀から聞いていた蓮華でさえ、実際に目にするまでは、本気でそれを成し遂げようとするとは思ってもみなかった。  しかも、こんな短期間に。  だが、彼女は帝である。  いつまでも心を驚きで満たしているわけには行かなかった。 「勝てるか、穏」  一つ息を吸って心を落ち着けた彼女は、そう鋭く訊ねた。 「これに、勝てるか、亞莎」  静かな、しかし、とてつもなく重い問いかけ。  それに、軍師たちはすぐには答えられなかった。  常は笑みをたたえている穏の口元が引き締まる。亞莎の目が瞑られる。  二人の額が、同じように細かい汗を吹き出し始めた。  猛然と回転する二人の思考が、熱を発するかのような錯覚を、思春は覚えた。 「時間を……」  掠れた声が穏の口から漏れる。かつてどれほどの窮地に陥ったときでも、聞いたことのない声であった。 「一晩」 「時間を下さい」  亞莎と穏の言葉は、実に悲痛なものであった。      (玄朝秘史 第四部第二十二回『吉凶禍福』終/第四部第二十三回に続く)