『還って来た種馬』 その12      幕間:十人十色     もしくは       「別に乳だけが魅力だとは思っていない」by天の御遣い(仮名)   ここは魏のそして漢の首都でもある洛陽。数年後には魏の首都は業へと移る事になるのだが、今は試案として魏の上層部の内々  で話されているだけで表立ってはいない。それが実行に移される時に一悶着起こるのだが、今は別の話である。   そんな洛陽でのある日の昼下がり、城の大浴場に曹孟徳こと華琳と袁本初こと麗羽の姿があった。   一刀の発案と李曼成こと真桜の技術のおかげで以前に比べると費用も手間も格段に掛らなくなり、大浴場の常設とまではいかな  いが用意される頻度はずっと多くなっていた。そして、大戦の後は真桜の工房に有った炉が真桜の工房ごと移設がなされ、炉の熱  の二次利用により洛陽の城の大浴場は常設される事となる。だが本来ならば上層部の武将達には各々に屋敷が用意されており各人  自分の屋敷の風呂を使うのが筋ではあるものの、それにより何かと理由を付け彼女達は城の大浴場を利用している。確かに大浴場  としては三国髄一の規模と設備であることは言うまでも無いが、彼女達にとっては以前の様な城内での皆と一緒に生活していた頃  を思い出しているのかもしれない。   この洛陽の大浴場の設備を応用して魏国内の各都市の市街に公衆浴場が多数建設されている。衛生面や防火の観点からも(真桜  の発明により個人の家に風呂が普及し始めた頃、品質のバラつきによる設備の不良から火災が多発した。設置費用も庶民的にとっ  ては高額であった)公衆浴場が推奨され、しかもそこは庶民の憩いの場や社交場としても好評であった。 「ああ〜、御屋敷のお風呂も落ち着けて心地良いのですが、こういうだだっ広いのもまた違う心地良さがありますわね」   そう麗羽は言うと、両手を挙げ胸を反らし伸びをする。すると麗羽の形の良い豊満な乳房が湯の中から顔を覘かせた。その声で  麗羽の方に眼を向けた華琳がその豊満な乳房をちらりと見た後、自分の胸に目をやる。じっと自分の胸を見詰めていた華琳がおも  むろにそれを上げたり寄せたりするものの、手を離せば当たり前の様に元に戻ってしまう。一つ大きな溜息を落とすと、華琳はジ  トっとした目付きで麗羽を見ていた。 「華琳さん、人には其々個性と言う……」 「ああっ!五月蠅いわよ」   麗羽を見る事無く話す麗羽の話を遮って華琳はそう言い放つ。そして華琳は同じ目付きのまま口を開いた。 「全く……、急に陛下の下に連れて行けと言うから何事かと思えば、あんな事を言い出すとはね」 「やはりけじめはつけませんと」   この日の早朝、いきなり華琳の私邸を訪れた麗羽は華琳に帝への謁見の取次ぎを頼んだ。内容は陛下の御前で話すと言う麗羽を  華琳は訝しがった面持ちで見ていたが、麗羽の表情はいたって真面目なものであり華琳が折れる形で麗羽を伴い宮へと向かった。   一方の訪ねられた側も、華琳が麗羽を伴ってのいきなりの来訪に何事であるかと上に下にと大騒ぎになっていた。慌てる臣下達  をよそに、かえって帝の方が落ち着いていると言う有様である。支度を済ませ謁見の間に現れた帝はそこに華琳だけではなく麗羽  の顔を見つけた時、懐かしさからか帝の方から麗羽に話し掛けていた。   そして麗羽は帝の御前で大将軍の冠位の返上と董仲穎こと月の名誉の回復を上申したのであった。 「誰も気にしていないのだからあなたが持っておけばいいのに。邪魔になるものでもないでしょう」   そんな華琳の言葉に麗羽は華琳の方に視線を移す事無く口を開く。 「参内すらしない大将軍では意味がありませんわ。邪魔になるものではないのなら、どなたかその役職を全うできる方にお任せした  方が有意義と言うものでしょう」   そうさばさばと話す麗羽を見ながら、華琳は相変わらず麗羽らしいと思う。大将軍の地位などなりたくてもなれない人間が大半  であるのに、麗羽にとってそれは装飾品の一つ位にしか今は感じていないのだろう。いや、麗羽にとって一刀の前ではそれすら既  に輝きを失っているのかもしれない。 「でも大将軍の職を辞したとなると俸給が……ああ、何か人を集めてゴソゴソしてたわね」 「ゴソゴソだなんて人聞きの悪い言い方は止めてくれませんこと。ちゃんと正規の手続きで、法の下に全うな商売ですわよ」 「ふ〜ん……」   そんな華琳の指摘に麗羽はあっさりと悪びれもせず答える。麗羽の言う商売とは言葉通り様々な物の取引で、それは未だ始めて  から短期間であるにも拘らずかなりの利益を上げていた。   以前から一刀の屋敷の改装などにかなりの金銭を麗羽が投入しているのは華琳も心得ていたが、その総額は麗羽の大将軍の俸給  や顔良こと斗詩が爪に火を灯す様に蓄えたへそくり以上のものであった。普段の生活も以前の麗羽を知る華琳から見れば無駄に華  美なものではなく随分堅実な生活であるが、周りから見れば十分に派手な生活である。しかも最近は魏から支払われている一刀や  斗詩達の俸給には手を付けていないと言う。それを不思議に思った華琳が探りを入れてみると、それは直ぐに判明した。   その真相とは、以前麗羽の元に居た一部の臣下達が麗羽が一刀の元に身を寄せているのを聞きつけ集まっていたのである。そう  言われてみれば、最近一刀の屋敷で華琳が送り込んだ女官長と共に屋敷内を取り仕切っている翁に華琳は見覚えがあった。そして  麗羽はそんな彼等を使って商売をしているのである。一国の軍師や太守そして県令として十分やっていける者達が商売と言う経済  活動のみに専念しているのだから短時間でかなりの利益を上げていてもおかしな事ではない。彼等が袁家の名や過去の人脈を使え  ば尚更である。しかも、麗羽の無駄に幸運を齎す指示も加わるのである。   その者達の商売の手腕には郭奉孝こと稟は賞賛しかつ興味を持っていたが、荀文若こと桂花はかなりのお冠であった。それは未  だ魏の経済について悪い影響などは起こしてはいないが、既に無視出来る程の規模ではなくなり始めている。しかも不正な活動で  はない為に桂花達が手を出す訳にもいかない。(限りなく黒に近い灰色な取引もあるものの、明らかに法を犯してはいない)しか  も税制面や地方の情報収集等では魏に貢献している面もあり、痛し痒しであった。そして、人材の無駄遣いと言うのが三軍師達の  一致した意見でもある。 「まぁ、余り派手にするのは止めておきなさい。桂花が気にしてたわよ」 「その辺りはあの者達も心得ていますでしょう」   そう言う麗羽からは彼等の手綱はちゃんと握っていると言う自信の様なものを華琳は感じとれた。以前の麗羽ならば直に手に負  えなくなり自滅する可能性も有ったが、今の麗羽ならその可能性は小さいと華琳は思える。今の麗羽は良い意味で部下に自由にや  らせており、以前の様にただ部下達に全て丸投げの状態ではない。   此処からは余談であるが、この事が切欠となりこの後元袁家の一派は魏国内で有力な勢力となる。膨大な財力を後ろ盾にし魏の  分裂を懸念される事も屡々であったが、その様な事態に陥る事は無く杞憂に終わる。この後、魏の宗主家である曹家を頂点とし、  曹家の派閥と袁家の派閥そして新興勢力である北郷家の三つの勢力が将来の魏の主軸となり魏を盛り立てていくのであった。ちな  みに、北郷家は後に[業の宗家][洛陽の京家][呉の南家][蜀の西家]の四家に分かれ、世間では[北郷四家]と呼ばれた。  各家は朝廷や其々の国で多大な影響力を持つ厄介な一族となる。後世「三国と朝廷は北郷蔓に絡め盗られた」と揶揄される事もあっ  たが、その後の治世は北郷家抜きには語る事は出来無い。だがこれは今は別の話である。 「ふんっ、まぁいいわ。で、月の件は一刀の差し金?」   そんな華琳の言葉に麗羽は一度華琳の顔を見て暫く間を置いてから口を開いた。 「まぁ、切欠が一刀様なのは確かですわ。ですが此方の諍いに董卓さんを巻き込んだ事は事実ですから」   麗羽の言葉を聞いた華琳の表情が為政者曹孟徳のものに変わる。 「あの子が色々な意味で被害者な側面はわたしも認めるけれど……」 「今更元には戻りはしませんが、……私なりのけじめですわ」   そう言った麗羽も、そして聞いていた華琳もお互い黙り込んでしまった。   だが、そんな重苦しい雰囲気はある乱入者達によって打ち破られる。 「孟ちゃん!お邪魔するでぇ!」 「しっ霞さま、待って下さい!」   そこに現れたのは張文遠こと霞と楽文謙こと凪の二人。霞は身体を隠す事も無く、右手で掴んだ凪を引き摺る様に従えて大股で  湯船へと近付いて来る。   そんな霞に華琳は今までの表情とは打って変わって呆れた様な顔を見せながら口を開いた。 「霞、今日はもう上がりなの?」 「そうや。今日はもう仕舞いにしよ思たら孟ちゃん達がお風呂入ってるって聞いてな。これはご相伴に預からなと思て」   霞はそう言いながら乱暴に湯賭けを始める。そして身体を洗い粗方の汚れを落とすと湯船へと滑り込んだ。 「はぁ〜、ええ気持ちや……」   そう言って顎まで湯船に浸かりながら霞は眼を閉じ至福の表情を浮かべていた。だが、そんな霞に麗羽は渋い表情で口を開く。 「ちょっと霞さん。もう少しお行儀良く入りなさいな。凪さんを見習いなさい」   そんな麗羽の小言にも霞は表情を変える事無く答える。 「まぁ、ええやないの。いくら仕事が早上がりやったからって、結構大変やったんよ」 「で、幽州の馬はどうなの?」   華琳の質問にも霞は片目を開けるものの体勢は変える事無く答える。 「躾はよう出来てるええ子達やよ。せやけど、こっちの流儀に合わせるのは少し手間が掛りそうやな……。まっ、目鼻は付いてるけ  ど……」   そう霞は答えながら視線を麗羽に向けた。瞑っていたもう片方の眼も開け、じっと麗羽を見詰めている。 「なっ、何ですの?」   霞に見詰められている事に気が付いた麗羽が怪訝な顔でそう口にした。それを耳にした霞はおもむろに湯船の中を麗羽に向かっ  て近付いて行く。そして麗羽の直ぐ側まで近付いた霞はじっと麗羽の胸を見ていた。 「ウチもおっぱいには少し自信が有るんやけど、麗羽のも大きいなぁ」 「全く……、何を言い出すかと思えば……きゃぁぁ!」   いきなり霞に乳首を指でつつかれ声を上げる麗羽。そんな麗羽の声にもお構いなく霞は話を続ける。 「斗詩や真桜のも大きいけど、これもええ勝負やなぁ。感度も悪うないみたいやし……。一刀は大きいのも小さいのも満遍なく食い  付くけど、これは……」   そう言いながら霞は湯船の仲で麗羽の胸を下から持ち上げたり、その弾力を確かめたりしていた。そんな霞の手の甲を麗羽はぴ  しゃりと叩くと誇ったような表情で話し始めた。 「当たり前ですわ。一刀様はそれはもう愛おしむ様に私の胸を……」   霞と麗羽の乳談議が続いていく。そしてそんな二人の会話を無視する様に我関せずを決め込む華琳。しかし、その頬が小さく引  き攣っているのを凪は見逃さなかった。 「かっ華琳さま……、霞さまも麗羽さんもその辺で……」   凪の言葉に霞が振り向く。 「何や凪?凪も気になるんなら……ああ……。孟ちゃんあんま気にせんでもええで、結構歳いってから大きゅうなるのもおるからな、  ……稀にやけど」   霞の言葉にも動じない姿を見せる華琳であったが、側に居る凪のうろたえ様を見れば内心は穏やかではない様だ。凪の氣を操る  能力の為か他人の氣にも敏感なのはこんな時には良し悪しである。 「はっ、別に気になどして無いわよ。それに後々垂れるのが判っているものなど欲しいとは思わないわよ」 「まぁ、流琉の成長具合を見てるとこの先少数派っぽくなりそうやし……、かえってそっちの方が希少価値が……」   霞の言葉を聞いた華琳はおもむろに空を見上げ呟く様に口を開いた。 「そう言えば、稟が西涼の駐屯軍の長を決め兼ねてたわね……。霞……行く?」   華琳はそう口にすると視線だけを霞の方に向ける。そんな華琳の表情を見た霞はそこから何やら嫌な雰囲気を感じ取ったのか、  一瞬顔を歪めると身体を華琳の方に向け口を開いた。 「あ〜、華琳さま……、謹んで辞退申し上げます。てか、ホンマやったら今頃は一刀とキャッキャウフフやったのに……、幽州くん  だりまで行かされるし……、休暇も先送りにされるし……」   そう恨めしそうな目付きで華琳を見る霞と、そんな事は意に介さず涼しい顔をしている華琳。話題が乳の事から離れたのを好機  と感じた凪が霞の話に乗る。 「霞さま、休暇は襄陽で取ると聞きましたが?」 「そうや。襄陽の仕事が一段落したらまとめて取ろ思てるんよ。それに色々考えてる事もあるし」 「そうなのですか?」 「せや」   そう歯を見せながら凪に笑顔で答える霞の顔を見た華琳もその顔に毒気を抜かれたのか溜息を一つ付いて口を開く。 「それで向こうに向かう日取りは決まったの?凪も沙和と入れ替わりだったわね」 「んっ?ああ、今の仕事が一区切り付くんが十日……かかっても十五日程かなぁ。まぁ、出立はその後やなぁ」   そう答えた霞に麗羽が話し掛ける。 「でしたら一刀様に届けて頂きたい物が有るのですが、お願いできます」 「かまへんよ。孟ちゃんも何かある?」 「ええ、お願いするわ」 「んっ、了解や。せや、ほかの連中にも聞いとかんとな」   そう言って霞は手を頭の後ろで組み上機嫌な顔で空を見上げていた。   一方、今は主の不在な華琳の執務室に荀文若こと桂花が居た。桂花は机の上に広げた図面と手元の書類を交互に見詰めている。 「華琳さま、宜しいですか」 「もうお帰りになりましたか〜?」   そう声を掛けながら部屋に入ってきたのは稟と程仲徳こと風の二人。二人は執務室に華琳が不在であるのを確認すると、視線を  桂花の方へ移した。 「華琳さまなら袁紹と大浴場に行かれたわよ」   そう桂花は二人を見る事無く答える。そんな桂花の元に二人は近付き、風が口を開いた。 「おや?華琳さまとお風呂なんて好機に桂花ちゃんが何でまたこんな所に?これは何か天変地異の前触れでしょうか〜」   風の軽口にも反応しない桂花を見た稟が口を開く。 「風、おやめなさい。桂花殿、それは襄陽の?」 「ええ、アイツが送ってきた襄陽の再開発の図面や現地の地図よ……。図面には最終案ではないと書かれてるけどね」   桂花の言葉に促される様に二人も図面の方に目を向ける。 「華琳さまが好きにして良いと言われていましたが、ここまで……」 「ええ……」   稟の言葉に図面から未だ眼を離さず答える桂花。そこに新たな訪問者が現れる。 「おお、桂花、稟と風も居るのか。華琳さまは未だお戻りになってないのか?」 「ああ、秋蘭ちゃん。宮からは戻ってきてますけど、今は麗羽さんとお風呂です」 「うむ、そうか。んっ、それは?」 「お兄さんが送ってきた襄陽改造計画の図面なのですよ〜」   風の答えを聞いた夏侯妙才こと秋蘭も三人の元に近付きそれを眺める。 「これは……、此処等は綺麗に城壁を取り払っているが……」 「そこはこの堀と土塁で防ぐのでしょう。道路も軍を進めるのには狭く、普段の生活には問題の無い程度の幅になっています。しか  も所々直角に曲げられている為に進軍の速度は上がらないでしょうね。そしてその曲がり角は四方から狙い撃ちし易くしています」 「そしてこの堀か……。掛っている橋を落とせば容易には越えられん」 「逆に城外の道は効率優先になってますね〜。お兄さんは街の人達を囲って守るよりも逃がす方を優先するのでしょう」 「郊外の田畑は区画が成されてますね。これなら税収の予測が立ちやすい。どちらも誤魔化しがし難いですし」   等と其々が思い付く事を話しているが、桂花がそれに乗ってこない。ただ黙って図面を見ている桂花に風が声を掛ける。 「如何したのです桂花ちゃん」   なおも三人に顔を向ける事無く桂花は口を開いた。 「これが天の……今のアイツの持つ知識なのね……」   桂花がまるで独り言の様に呟いた言葉に稟が反応した。 「桂花殿、何が言いたいのです?」 「アイツが消える前……、確かにアイツは私達が知らない知識や私達が知っているものよりずっと進んだ知識を持っていた。その際  たるものが未来の歴史よね」 「ええ」   桂花の真意を図りかねた稟はただ肯定の言葉を返す。そんな稟に構う事無く桂花は言葉を続ける。 「歴史は別にしても、知識については本人は概念を理解している心算でも私達にそれを上手く伝えられないものも多くあったわよね」 「確かに……」 「三年前、アイツに築城の知識なんてあった?個別の知識はあっても、こんな都市の総合的な開発を指揮する能力なんてあった?」 「桂花殿……」   桂花の熱くなるでもなく淡々と話す普段とは異なった姿に、稟達三人は声を出す訳でもなくただ見詰めていた。 「三年前勝手に居なくなって、いきなりひょっこり帰ってきて……。そして襄陽の再開発を華琳さまに命じられて弱音の一つでも吐  けば可愛げもあったのに、こんな現地と寸分違わぬ地図を作ったり、職人なら誰が見てもちゃんと理解出来て同じ物が作れる図面  を作ったり……」 「一刀殿も向こうの世界で三年間頑張ったんですよ」 「お兄さんに言わせれば六年間だそうですけどね〜」 「そうだったわね……。悔しいのですか?桂花殿」   稟のワザと挑発する様な言葉を聞いた桂花が稟のほうに顔を向け、そして口を開く。 「ええ、悔しいわよ。例え天に此方より進んだ知識や学問があったとしても、アイツがわたしの知らない事を知っている事が悔しい」   そう言った桂花の顔は案外さばさばとしたものであった。てっきり一刀に対して悪態の一つでもつくのかと考えていた稟達は拍  子抜けしている。 「わたしは仕事に戻るわ。アイツにわたしとの格の違いを身に沁みて思い込ませないと……」   そう言って腰を上げ部屋を後にする桂花の顔は先程の言葉とは裏腹に足取りも軽くかなり機嫌が良い様に三人には見えた。そん  な桂花を見送った後、秋蘭が口を開く。 「うむ……、相変わらず一刀に関してだけはアレは素直ではないな」   そんな秋蘭の顔を向ける事もなく稟は愁眉を下げため息をつきながら口を開いた。 「本当に……。一刀殿の事はちゃんと認めているのに、絶対に口にしない」 「いや〜、桂花ちゃんのアレはお兄さんの世界では『つんでれ』と言う高等技術だそうですよ〜。今はああですが、二人きりの夜何  かはそれはもう……稟ちゃん、そんな顔で見ないで下さい。……ああっそうそう、今はそれよりも此処なんですけどね……」   残った三人は桂花の感想を口にしたその後も暫くの間、一刀の送ってきた図面や地図について話を続けていくのであった。   その頃一刀は……。 「隊長!!ええ大人が女子更衣室を覗くなんて何考えとんねん!」 「まっ、待て。話せば判る!」   一刀の返答をよそに真桜の螺旋槍が唸りを上げ今すぐにも飛び掛らんばかりに体勢を整えている。 「覗き魔なんて糞虫以下の下の下なの!その腐った性根を沙和が叩き直してやるの……」   同様に沙和も二天を構え、戦場でも見せない様な気迫を一刀に向けて浴びせ続けていた。 「待ってくれ、俺の話も……」   二人の気迫に押されながらも冷や汗を掻きながら一刀は何とか口を開いた。 「ええやろ。今際の際の最後の情けや……、言うてみ」   真桜はそう言うとすうっと目を細め貫くような視線を一刀に向ける。それを見た一刀はカラカラに乾いた口の中から無理やり生  唾を搾り出すとそれを飲み込み口を開いた。 「仕事上がりにここの裏通りの工事の事を思い出して確認に来たんだよ。ここって路地の割りに案外人通りが多いだろ、だから早く  終わらせないと危ないと思って……」 「で……」 「そうしたら何やら街の若い連中の一団が居てゴソゴソしてるから何してるんだって声を掛けたらここ見てくれって言われて……」 「ふ〜ん……」   一刀の話した事に嘘偽りは無かった。路地の工事の進捗が気になったのは紛れも無い事実であり、ここに来たのもそれ以外の目  的は無い。それに一刀にしてみればこの建物が何であるかまでは辛うじて知ってはいたが、この場所が女子更衣室の裏手に当たる  等は知る由も無かった。一刀は何か不具合でもあるのかと純粋に親切心と職務の一環として言われた所を覗いただけなのだが、今  の二人には通じそうも無い。これも一刀の日頃の行いの賜物ではあるが、今更それを悔いても致し方ない事である。 「んで、そのガキんちょ共は?」   真桜の言葉に周りを見渡す一刀であるが、勿論彼らは真桜と沙和が近づいて来るのに気付き、蜘蛛の子を散らすように消えてし  まいその場に残っていたのは一刀一人である。 「え〜とっ……、何処だろう……ねぇ?」   そう力無く首を傾げる一刀を見た二人は脱力し「はぁ〜」と溜息を付いた。それを見た一刀が「此処は何とか納まったか?」等  と考えた瞬間、一刀にでもはっきりと判る程に真桜と沙和の氣が膨れ上がった。 「このだぁぁぁほうがぁぁぁ!!」 「毛虱からやり直せなのぉぉぉぉ!!」   この日、襄陽の市街全体に響き渡る程の絶叫がこだましたが、誰一人気に掛けた者は居なかったと言う。          〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜   孫仲謀こと蓮華、陸伯言こと穏、甘興覇こと思春、周幼平こと明命の四人を乗せた呉の船が今正に江夏の港に接岸しようとして  いた。当初の予定を大幅に過ぎ、倍以上遅れての帰還である。   その接岸作業の最中、蓮華は江の水面に映る自分の顔を眺めながらそっと額に指を触れさせていた。 「(額とは言え、口付けてくれたと言う事は一刀もわたしに好意を持ってくれているって事よね……)」   そんな事を想っている蓮華は無意識に笑顔を浮かべている。そしてそんな蓮華を思春は接岸の指示を出しながら時折横目で見詰  めていた。襄陽を出立して以来、あの様な蓮華の行動をかなりの回数に亘り見掛けてはいるが、それについて思春はあえて口にし  ない。それは他の二人も同様であった。 「何だかこの景色を久しぶりに見た〜って感じですねぇ」 「ええ……」   そう穏に話し掛けられ、思春も穏と同じ様に江夏の街に顔を向ける。襄陽での滞在予定をかなり超過したとは言え、二十日程度  の間此処を留守にしただけだと言うのに二人にはやけにこの江夏の景色が懐かしく感じられた。そして目の前の江夏の景色が、少々  古臭く色褪せた様にも感じ取れる。それだけ襄陽で経験したものが新鮮であり強烈だったのだろうと思春と穏は思う。そんな事を  思っている二人に着岸を知らせる振動が伝わっていた。   各々がその振動を感じて蓮華の元に集まってくる。そして船から降りる為に桟橋に向かっている蓮華達に声を掛ける者が居た。 「おかえりー!お姉ちゃん!」   それは孫尚香こと小蓮。両手を挙げて手を振っている小蓮に蓮華が返事を返そうとした時、その横に立つ者を見て蓮華は硬直し  ていた。 「おかえり蓮華」   呉の国主たる孫伯符こと雪蓮がそう言いながら不自然な程穏やかな表情で手を振っている。何故此処に雪蓮が居るのかと言う顔  の蓮華と、驚いてはいるのであろうが表情には見せない思春と明命。穏は予想していたのか、はたまたこの程度では動じていない  のか雪蓮達を見ながらニコニコと笑みを浮かべている。   露骨に引き攣った笑顔のまま岸壁に降り立った蓮華はぎこちなく雪蓮に近付いて行った。 「襄陽への陣中見舞いご苦労さま」 「何で……いっいえ、ありがとうございます姉様……」   満面の笑みで蓮華を迎える雪蓮であるが、蓮華は何故か違うモノを感じていた。確かに雪蓮は満面の笑みであるのに、その身体  から醸し出される雰囲気は全く異質なものである。先程から蓮華の額や背中を流れる汗は、決して今の日差しや陽気からくるもの  ではない。 「姉様……、何故此処に?」 「そんな事……どうでもいいじゃない。さぁ早く襄陽の街の事や、[天の御遣い]の事を聞かせてちょうだい」   雪蓮はそう言うと蓮華の腕を鷲掴み江夏の城へと向かおうとする。 「ねっ姉様!いっ、痛いです」 「さぁ早くっ!」   そして終始笑顔の雪蓮に引き摺られる様にして迎えの馬車に乗せられると、そのまま城に向かう蓮華であった。その道中は今迄  味わった事の無い居心地の悪さであったと後に蓮華は語ったと言う。   城に着いた雪蓮達は謁見の間ではなく、別の大き目の応接用の広間へと向かった。「あそこでは呑みにくい」と言う雪蓮の訳の  判らない発案からであるが、今は誰も異論を口にしない。来客用の椅子にどっかと座り、その対面に蓮華を座らせると雪蓮は早速  襄陽の事についての話を切り出した。勿論、襄陽の開発について等は二の次で、主な話題は天の御遣い北郷一刀の事である。   そんな雪蓮達を横目に、周公謹こと冥琳は呂子明こと亞莎と共に穏達の方に近付いて来た。 「穏、明命ご苦労だったな」 「いえいえ……。あんな苦労でしたら幾らでも」   そう笑顔で答える穏を見て冥琳も表情を変える。穏からは一仕事終えたと言う満足感以外の何かを冥琳は感じていた。 「ほう……。で、どうだったのだ襄陽と御遣い殿は」 「はいぃ、襄陽については全てが驚きであったと言っても過言ではありません。以前の襄陽の趣を残しながらも大きく変わったもの  になりつつあります。冥琳さまももし機会が有れば襄陽に一度行かれるべきですぅ」 「それ程か……」   そんな穏の手放しの賞賛を聞いた冥琳と亞莎は驚いた表情を見せた。二人は穏のものを見る眼をいささかも疑う心算はないが、  穏の軍師らしからぬ手放しの評価に幾ばくかの違和感を感じた。普段の穏であれば物事の両面からの評価を下すのが普通で、今の  様にただ絶賛する様な事は無い。 「ええ、それはもう。もし穏に権限が有れば、一刀さんには一から街づくりをお願いしたいです。襄陽の様なある程度出来上がった  街では一刀さんの持つ知識を全て使うには適していないかもしれません。後で帰りの船内でわたしや明命ちゃんで作った襄陽の絵  図と、一刀さんから頂いた天の知識を利用した絡繰の図面をお持ちします」 「絡繰の図面だと……。そんな物をよくも……」   穏の言葉を聞いた冥琳が表情を変えた。上着の裾で顔を隠している亞莎も見辛くはあるが同様である。全てではなくとも魏の絡  繰の一部は機密扱いされていてもおかしくは無いと言うのに、それを他国の軍師に見せるだけではなくその図面を渡すなどと言う  事が冥琳達はにわかに信じられなかった。   まさか何かの罠では無かろうかと訝しげな渋い顔に変わった冥琳に穏は笑顔を変える事無く言葉を返す。 「それは一刀さんの性格と言うか考え方ですねぇ。わたし達とはかなり違うものの見方をしています」 「そうなのか?」   そう言葉を返す冥琳であったが、表情が変わる事は無い。 「はい。魏の為と言うよりもこの大陸の為と言う考え方が強い様です。一刀さんは曹孟徳の臣下と言う自覚は勿論有りますけど、自  分の持つ知識が大陸の為になるなら魏が独占する必要は無いと言う考えがあるみたいですねぇ」 「よくそんな事を曹孟徳が許しているな……」   穏の言葉を聞いた冥琳がそう呟いた。そしてその秀麗な顔の眉間に皺を寄せ考え込むような仕草を見せる。これは何かの罠かと  も、それとも我々を試しているのかとも冥琳は未だ考え倦んでいる。   確かにこの大陸の安定を考えれば、魏だけではなく呉や蜀の発展も重要であるとも言える。互いが切磋琢磨し其々の国がが豊か  になりその国の民達もその豊かさを享受する事が出来れば黄巾の様な大陸を揺るがすような乱れも起こりにくくなるだろう。そし  てそれは周辺の五胡にまで波及しえる。俗に言う「金持ち喧嘩せず」である。現に魏による周辺異民族に対する融和政策(異民族  との友好だけではなく、異民族同士の連帯の解消も狙っている)は着実に成果を上げており、眼に見えて五胡との諍いは激減して  いた。 「でも一応は華琳さんや三軍師と言う篩には掛けているみたいですけど……。一刀さんの知識や思考の中にはこの世界では到底受け  入れられないものも多く有るそうですから」 「ふむ……、明命はどう見る?」   冥琳の問いかけに今までニコニコと笑顔で話を聞いていた明命の顔が武将の顔へと変わる。 「はい、私も大筋では穏さまと同じです。そして私が見るに一刀様は情報を重要視されています」   明命の「一刀様」という言葉に少々引っかかりを感じた冥琳であるが、今は表情に出す事は無く口を開いた。 「と言うと?」 「はい、襄陽の再開発ですと最初に現地を視察するのは当たり前として、一刀様はその後測量して現地と寸分違わぬ地図を作ります。  そしてそれを元に施設の配置や港湾の設計を行います。その地図も用途によって縮尺が決まっているようです。勿論、施設の設計  図等も同様です。その為に魏では長さや重さの基準や単位の統一が行われているそうです」   明命の言葉を聞いた冥琳の表情が先程とは随分柔らかなものへと変わる。同様に側で話を聞いていた亞莎も興味をそそられたと  いう風なものへと変わっていった。 「なる程……。そうすれば設計図が在りさえすれば何処でも誰でも同じ物が作れる様になる訳か……」 「そうすれば真桜さんの様な人に頼り切る事がなくなりますし、職人達も情報の共有によって真桜さんの意図が伝わり易くなり質の  均一化や職人の技術の底上げが出来ます」   明命の話を補足する様に穏が口を開く。 「その事で一刀さんから暗に打診されました。全てとはいかなくても、呉と魏の間でそれを共用出来ないかと」 「二国間での取引を考えればそれは有意義ではあるな……。此方の想像以上に魏の発展は加速している……、魏は益々強く大きくな  ると言うことか。穏よ、御遣い殿を取り込む事可能だと思うか?」   冥琳の言葉を聞いた穏が笑顔で答える。 「あはっ、冥琳さま。そんな事しなくても聞きに行けばいいんですよ。それに頼めば来てくれると思いますよ、一刀さんお刺身が食  べたいって言ってましたからぁ」 「何だその[おさしみ]とは?」   冥琳の疑問に明命が答える。そして刺身について説明をした。 「何だと……、天の国では魚を生で食べるのか?」   明命の説明を聞いた冥琳の顔が今迄以上に渋い顔へと変わった。 「まぁ、そう言う料理の一つがあちらには在るそうですよ。穏は一応止めたんですが、一刀さん諦め切れてない様でしたしぃ。酒呑  みは絶対気に入るとも言ってましたねぇ……。雪蓮さまや祭さまは喜ぶんじゃないでしょうか」   穏の言葉を聞いた冥琳は眉間に皺を寄せチラリと今だ蓮華相手に恨み言を言い続ける雪蓮を見た後、溜息を一つ吐くと愁眉を開  いていた。 「やはり直接会って話をせねばならんな……、御遣い殿と」 「はいぃ〜、絶対その方が良いですよ。それに襄陽の街は必ず見るべきです。洛陽とは違う驚きが詰ってますからぁ」 「はい、その折はこの明命もお供します」 「んっ?何だ穏だけではなく明命も御遣い殿が気に入ったのだな。で、普段の御遣い殿はどうなのだ?」   冥琳の言葉に明命は顔の前でパンっと両の手を合わせると満面の笑みで話し始めた。 「はい!一刀様はそれはもうお優しくて格好良くて、そして南蛮の皆様やお猫様にも好かれている素晴しい御方なのです!それから  それから……」 「ああ、それは後で聞こう」   明命の口からネコの話が出たとたんこれは長くなると感じた冥琳は明命の話を遮ると、雪蓮に絡まれ続けている蓮華に助け舟を  出すべく二人の方へ向かっていくのだった。            江夏に到着早々雪蓮に絡まれていた蓮華はやっとそれから開放され自分の私室へと戻っていた。正確には一時中断しただけで、  完全に開放されたわけではない。 「姉様が此処に現れるとは……」   そう言って蓮華は部屋に入ると心身ともに疲れた身体を寝台に横たえた。 「あの方の行動は冥琳さまでも全て読みきる事等不可能です」   続いて部屋に入ってきた思春がそう口にする。蓮華のだらしの無い姿に思春は眉を顰めるが、あんな事があった後なので今は口  には出さなかった。 「でも何で姉様が……、南部へ視察に行っていたのではなかったの?」   蓮華の言葉を聞いた思春は頭を捻りながら呟いた。 「雪蓮さまの勘……ではないかと」   思春の言葉を聞いた蓮華は、渋い顔で天井を見詰めていた。そして上半身を起こし口を開く。 「ああ……。でも、それだけで此処まで来る?ちょっとした予定変更って程度ではないわよ。まぁ、姉様らしいと言えば姉様らしい  けれど……。それよりも、冥琳まで此処に来ちゃったら建業には祭一人だけ?大丈夫なのかしら」 「祭様であれば問題は無い……と思われますが。そろそろ危ない時期ではあるかもしれません」 「そうね……、初めは小言を言う人間が居なくなったと祭も羽を伸ばしてたかもしれないけど……。思春、お土産の中のお酒を何本  か祭に送ってあげて」 「承知しました。その様に手配しておきます」   思春の言葉を聞いた蓮華は立ち上がり着替えを侍女達に伝える。侍女達に囲まれ着替えをしている蓮華に思春が話し掛けた。 「何でしたら雪蓮さまにはわたしの方から蓮華さまは過労の為自室で休まれる旨をお伝えしますが」   そんな思春の言葉に蓮華は苦笑いを浮かべながら答える。 「いいえ、今夜は姉様に付き合うわ。わたしはそんな心算ではなかったけれど、姉様を出し抜いた事には変わりは無いから」 「ではこの甘興覇もお付き合いいたします」 「ええ、穏や明命もね」   そう言って笑い合う蓮華と思春であった。   一方の雪蓮は自分に宛がわれている部屋に戻り椅子に座ると大きな溜息を吐いていた。 「どうした雪蓮、溜息など吐いて……。それに先程蓮華さまと話している時、途中から少しおかしかったが?」   冥琳の問いに雪蓮は一度冥琳の方に視線を向けるが、すぐに眼を逸らし壁をぼんやりと眺めている。 「ん〜、初めは蓮華に先を越された事に腹が立ってたんだけど……、途中からはね……」 「途中からは?」 「途中からは話を聞いている蓮華の顔を見てると何だか変わったなぁ……って思って」   そんな何やら弱気とも取れる雪蓮の言葉に、冥琳は何時もとは違うものを感じて雪蓮に近付き彼女の肩に手を置いた。 「先程までと違ってやけにしおらしいな。……確かに以前に比べて蓮華さまには落ち着きと言うか、何か切羽詰った焦っている様な  感じは無くなっているな。喜ばしい事ではないか」 「良い方向に変わってるってのはわたしも感じているけど……。何だかわたしだけ置いて行かれてる様な気がして……」   そう言って雪蓮は椅子の上で足を抱え込む。そして肩に置かれている冥琳の手に頭を乗せた。   それは先程雪蓮を出し抜いた形で蓮華が一刀に会いに行った事を問い詰めていた時の事である。初めは少しの怒りや大部分を占  める悔しさからの勢いでまくし立てていた雪蓮であったが、それを聞いている蓮華の顔を見ていて色々な事を考えていた。以前の  蓮華なら雪蓮の多少理不尽な言い分を聞かされて暫くは黙って聞いていても、ある程度過ぎたところで反論をしてきた。自分の言っ  ている事が八つ当たり的な愚痴の様なものであると判っている雪蓮は当然蓮華がそれについて反論するだろうと思っていた。   だがそんな雪蓮の予想は違っていた。   蓮華は一方的にまくし立てる雪蓮の言葉を苦笑いを浮かべつつもずっと聞いていた。それは雪蓮の言葉をただ受け流しているの  ではなく、蓮華はちゃんと雪蓮の言い分を聞き、それに対して丁寧に受け答えしていた。そして言うだけ言って多少落ち着いた雪  蓮が襄陽や一刀について質問を始めるとそれに逐一丁寧に答える。当初とは逆の次第に蓮華が話す割合が多くなり、雪蓮が聞き役  になる事が増えていく。   その時、雪蓮はある事を思い出す。それは自分が未だ幼い頃、つまらない理由で癇癪を起こした雪蓮が母である孫文台にまくし  立てた事があった。その時の母は怒るでもなく、呆れるでもなく、ただ今の蓮華の様に苦笑いを浮かべていた。   蓮華にまくし立てた後、そんな事を思い出した雪蓮は自分の中にあった熱が急速に冷めていくのを感じる。そしてあの頃と何ら  変わらない様に思える自分と、ひどく大人びた様に思える蓮華をあの時の自分と母とに重ね合わせていた。 「雪蓮……」 「戦が終わって……、わたしみたいな戦争屋はもう……」   寂しげにそう呟いた雪蓮に冥琳はわざと明るい声で言葉を返した。 「孫伯符ともあろう者が何を弱気な事を言っている。お前もわたしもまだまだやる事は残っているだろう。次代の国主たる蓮華さま  の為にも古い柵は終らせておくのはわたし達の役目だぞ」   確かに今の役どころは雪蓮には向いていないかもしれないと冥琳は思う。そして呉国内の開発の名目で近しい者達が各地に赴い  ている今の状態を雪蓮は寂しく感じているのかもしれない。戦が終わった今が雪蓮が望んでいた事とズレが有るのだろう。   皆が離れ離れの今は袁術の元で呉の再興を目指していた頃と似た状態であるが、あの頃とは状況も各人の想いも違う。   冥琳の言葉を雪蓮は冥琳の顔を見上げながら聞いていた。そしてその言葉を聞いた雪蓮に苦笑とは言え笑顔が戻る。 「そうか……、そうね……。じゃぁ、もう一頑張りしますか」 「ああ、もう一頑張りも二頑張りもしてもらわないとな」 「え〜、何か増えてる」 「そうか?……ああ、やはり我等も御遣い殿に会いに行くか、我等だけが御遣い殿に会っていないのも癪だしな。どうにかやり繰り  すれば年明け頃には時間を作れるか……」   冥琳は話しながら「我ながら甘いな」と心で思う。そして冥琳の言葉を聞いた雪蓮がいきなり冥琳に抱き付いてきた。いきなり  な事にふらついた冥琳は雪蓮と共に寝台に倒れ込む。 「冥琳愛してるわ!……あっ……でも、ねぇ冥琳……その頃って御遣いは何処に居るのかしら?襄陽ならまだしも、洛陽だったら寒  いわよね」   そう言った雪蓮と二人笑い合う冥琳であった。   その後も再び襄陽と天の御遣いの話題が続いたが、前回とは打って変わって和気あいあいとした雰囲気で終始した。そんな雰囲  気に少々拍子抜けした蓮華であったが、かえってそれが雪蓮の際どい指摘を呼んだり等して夜遅くまで盛り上がる事となる。途中、  一刀から譲り受けた本の事で穏が怪しい雰囲気を醸し出す事もあったが、それもご愛嬌であった。   その頃一刀は……。 「北郷様……。御遣い様!」   市街視察と言う名のさぼりを行っていた一刀は街角でそう声を掛けられた。その声の方に顔を向けると見覚えのある顔が手招き  をしている。それは以前街の路地で此処を覗けと言っていた者達であった。彼等は一刀と眼が合うと一度頷き、そして再び手招き  を始めていた。   一刀は立ち止まり少し考えると彼等の方に近付いて行こうとする。 「どうされたのです?」   一刀の警備に付いている若い警備隊の隊員が一団から離れて行こうとする一刀に声を掛けた。 「いや、ちょっと……。ああ、お前達はここで暫く待っていてくれるか」 「いいえ、そんなわけにはいきません。于将軍から片時も離れるなと厳命されております」   隊員の言葉を聞いた一刀は大きく溜息を吐いた。以前の覗き騒ぎ以降こうして一刀の側には外出する時は必ず誰かが同道してい  た。名目は一刀の警備であるが、実際は一刀の監視の為である。   そんなお目付け役の存在に一刀も当初は多少の堅苦しさを感じてはいたが、今では切り替えて中々楽しくやっている。隊員も天  の御遣い北郷一刀の警備と聞き当初はかなり緊張していたが、一刀の人垂らしの能力かはたまた男同士の気さくさも有ってか今は  多少砕けた良い関係を築いていた。   そんな彼等が一緒に近付いてはまた彼等が逃げてしまうかと思った一刀であったが、そんな事は無く彼等は一刀達が側まで近付  くのをじっと待っていた。 「お前等この間の」 「あはは、この間はすいません。流石に魏の三羽烏于将軍と李将軍を前にすると……」   そう恐縮している彼等に一刀は言葉を続けた。 「で、今日は何なんだ?謝りにでも来たのか?あの後俺はえらい目に……」 「はい、北郷様に御迷惑を掛けたお詫びに……、宜しければ御耳を拝借できますか?」   耳元でゴニョゴニョと何やら呟かれ、それを聞いた一刀は表情を変えた。それは側で漏れ聞いた警備隊の隊員達も同様である。 「お前達……」 「いやいや、皆まで申されますな北郷様……。お嫌いですか?」 「お好きです」   一刀は彼とがっちりと握手を交わす。彼等との間に友情が芽生えた瞬間であった。          〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜   蜀の首都である成都の城門前に蜀南部の慰撫の為に派遣されていた厳顔こと桔梗と魏文長こと焔耶の帰還を出迎える為に劉玄徳  こと桃香をはじめとする蜀の面々が出迎えに出ていた。そして程なく桔梗達の隊列が視界に入る。此処までは何時も通りのありふ  れた展開であるが、今回は少々違っていた。   隊列の中から桃香達の方へ突出してくる騎馬が確認出来た。桃香の姿を見付けた焔耶あたりが先走ったのかと皆は思ったが、そ  の馬上の人物は焔耶ではなかった。 「……様〜!!」   見慣れぬ何やら大声を上げながら近付いて来る者を確認しようと皆が眼を細める中、董仲穎こと月と賈文和こと詠が表情を変え  その者に近付いて行く。勿論、嬉しさと安堵の表情である。 「董卓様!!」 「華雄!」   華雄は乱暴に馬を止めるとそのまま馬を飛び降り、月の眼前にひれ伏した。 「董卓様。この華雄、今日までの不義理をお詫びしたく恥を承知で御目文字いたしました」 「華雄……」   数年ぶりの再会であった。      桃香の計らいで月達は城内の広間へと場所を移されていた。勿論、蜀の武将の面々も同席している。今でこそ落ち着いて話をし  ているが、此処に至るまでに一騒動あった。城門で華雄が董卓様に詫びる為にと何処から取り出したのか短刀で喉を突こうとした  のを趙子龍こと星と桔梗に蹴りで止められたり。それにより気を失った華雄を見た月が事に至ったと勘違いし泣き出したのを詠が  宥めたり等と散々であった。 「ではその北郷某殿とやらの計らいで董卓様はここに?」 「はい。北郷様がわたしと詠ちゃんを桃香さまに預けてくださったので今こうして生きていられるのです」   月が桃香の下に居る経緯の説明を受けた華雄の問いに月がそう笑顔で答えた。 「では北郷殿には是非にもお会いして礼を申さねば……」   そう思案顔で話す華雄に詠が少し冷めた目付きで口を開く。 「まぁ、アイツはわたし達が董卓と賈駆だとはあの時は気が付いて無かったみたいだけどね」 「そうなのか?」   詠の言葉に驚きの表情で華雄が答える。そんな華雄に側で話を聞いていた星が口を開いた。 「ああ、詠の言っている事に間違いは無い。つい最近わたしが話すまであの御仁はいい感じに忘れておられた。わたしの話を聞いて  洛陽での二人の事は辛うじて思い出したが、正体を明かした時のあの驚き様は……嘘偽りではあるまい」   星の言葉を聞いた華雄がしみじみと口を開く。 「その北郷殿とやらは余程の大物なのか……、それともただの馬鹿なのか?」 「ふっ……、勿論前者であろうな」   間髪入れずそう答えた星の顔を見ながら華雄は口を開いた。 「ほう、趙子龍ともあろう者がそうまで言うとは……。うん、早く会ってみたいものだな」   華雄の言葉に今まで口を開かず話を聞いていた桃香が口を開く。 「ああ、それなら華雄さん、秋口には会う事が出来るよ」   桃香の言葉に桔梗と焔耶そして華雄の三人が彼女の方に視線を向けた。 「そうなのか?……いや、なのですか?」 「うん。この秋に陛下の長安行幸に北郷さんが随員として同行するんだよ。そしてその行幸に私達が長安にお呼ばれしてね……」   そう答えていた桃香の言葉を遮る様に焔耶が声を上げた。 「そんな話自分は聞いてはおりません!」   突然の焔耶の大声に怯みながらも桃香は口を開いた。 「えっえっと、焔耶ちゃんが視察に行ってる時に連絡が届いたんだよ……」 「なんと!わたしが留守の間にこの様な謀を企てるとは卑怯千万!あんな獣と桃香さまがお会いになる等この魏文長承服いたしかね  ます。断固として断るべきです!」   そんな焔耶の言葉を聴いて今度は諸葛孔明こと朱里が口を開いた。 「焔耶さん、これは正式に朝廷から頂いたお話なのですからそんな事は出来ませんよ」 「それをどうにかするのが軍師の務めだろう!」 「はわわ!無茶言わないで下さい!」   断れ、無理だと言い合う焔耶と朱里の言い合いを醒めた表情で眺めていた馬岱こと蒲公英がぼそりと呟いた。 「全く……、これだから全身筋肉は……」 「何だと……」   蒲公英の言葉を聞いた焔耶が動きを止め、首から上だけをゆっくりと声の主に向けた。 「個人的なお誘いならまだしも、今回の件でそんな事出来る訳ないでしょ……。少しは立場ってものを考えなさいよって言ってるの  よこの脳筋」   そんな蒲公英の言葉に焔耶は嘲笑交じりの表情で言葉を返した。 「はんっ、どこぞの尻軽女の様にころっと誑かされた様な者よりよほど立場を心得ている心算だが……」   今度は焔耶の言葉を聞いた蒲公英がゆっくりと立ち上がり焔耶を睨み付けている。 「何ですって……」 「んっ、聞こえなかったのか?まぁ、頭の中までお花畑なお前では……なっ」   そして二人は鼻が触れ合いそうになる程に顔を近付けて睨み合いを始める。それを見かねた桃香と馬孟起こと翠が口を開いた。 「焔耶ちゃんもたんぽぽちゃんも止めてよ。ほっほらっ、皆見てるし」 「そうだぞ、こんな所で何やってるんだよ。止めろ蒲公英。ほらっ、焔耶も」   そう言って二人が間に入り止め様とするが、睨み合っている二人はかなり頭に血が上っているのか既にお互いの手には鈍砕骨と  影閃が握られている。そして二人がお互いの獲物を持つ手に力を込めた瞬間、二人は首根っこを掴まれ窓から表へと放り出されて  いた。 「お主等、暴れるなら表でやれ!」   そう言って二人をつまみ出したのは桔梗であった。そしてまるで何事も無かった様に元居た椅子に腰を掛けると桔梗は口を開い  た。 「お騒がせしました桃香さま。ではお話の続きを」 「あっ、ありがとう桔梗さん……。でもここ三階だよ……」   そう言って心配そうな顔で外を見た桃香であったが、落ちたであろう場所には既に二人の姿は無く、言い合いをしながら鍛錬場  に向かう二人の姿があった。それを見て安堵した桃香であったが、二人が数歩進んだ先で悲鳴と共に木に逆さまで宙吊りになって  いる焔耶の姿が目に入ってきた。   それを見た桃香は溜息をつきながら視線を部屋の中へと移す。するとケラケラと笑っている華雄が目に入った。 「どうかしたの華雄さん」 「いや、仲の良い二人だと思いまして」   桃香の問いにそう答えた華雄を星が訝しがった顔付きで口を開く。 「貴殿にはそう見えたのか?」 「んっ?ああ、あれは単にじゃれ合っているだけだろう。ん〜、何と言うか……、そう、子供が好きな相手にワザと突っかかってい  く様なものだ」 「ほう……」 「わたしにも思い当たる節があってな、以前文遠に何かと言うとよく突っかかられたのだ……。今考えればあれも文遠のわたしへの  愛情の裏返しだったのかもしれん……。そう思うとな」 「………」   星は無言で華雄の顔を見詰めていた。勿論、星の表情は芳しいものではない。そして星と華雄の話を聞いていた公孫伯珪こと白  蓮が隣に座っている詠にぼそりと呟いた。 「大変だったんだなお前達も……」 「言わないで……」   詠はそれだけを言うと横を向いてしまう。月はただニコニコと微笑を湛え華雄達を見ていた。   華雄達との話が終わり、華雄は焔耶達をもんでやろうと桃香の許可を取り部屋を後にした。そんな華雄を見送った後、桔梗が桃  香の元に近づいて来た。 「桃香さま」 「何?桔梗さん」 「桃香さまや朱里達の判断を仰がず華雄を伴った事を……」   桔梗の言いたい事を察した桃香が桔梗の手を取り笑顔で答えた。 「ううん、気にしないでいいよ桔梗さん。月ちゃんもあんなに喜んでたし、詠ちゃんも表には出さないけど同じ気持ちだろうし。  それに仲間が増える事は良い事だよ」   桃香の言葉を聞いた桔梗が表情を緩ませた。 「そう言って頂けますとこちらも肩の荷を降ろせまする」 「あっ、そうだ。恋ちゃんやねねちゃんにも知らせたほうが良いよね。それと霞ちゃんにも」 「ですな。あれらも安堵いたしましょう」 「うん」   そう笑顔で答えた桃香につられて桔梗も笑顔に変わる。だが、桔梗はその表情を直ぐに戻し再び口を開いた。 「それと桃香さま、袁術の事はいかがいたしましょうか?」 「う〜ん……。あっ、朱里ちゃん、チョッといいかな?」   桔梗の言葉に首を捻るような仕草を取る桃香の目に鳳士元こと雛里と話している朱里の姿が見えた。そして桃香に呼ばれた朱里  がトテトテと近づいて来る。 「何でしょう桃香さま」   そう小首を傾げて答える朱里を見て「ああ、可愛いなぁもうっ」等と考えながら桃香は口を開いた。 「袁術ちゃんの事なんだけど、どうしようか?」 「はい、わたしの方も桃香さまにお聞きしようと思っていました」 「袁術自身は雪蓮殿や袁紹殿に知らされる事を余り喜んではおらぬ様ではありましたが……」   桔梗の言葉に頷きながら朱里が答える。 「気持ちは判らなくも無いですが、雪蓮さんはともかく袁紹さんには流石に知らせないと。今はあんな有様ですが、元は一国の国主  ですし袁家の一員でもあります」 「だよね〜」   そう答えた桃香と共に、桔梗も朱里の言葉に頷いている。二人の反応を見た朱里が再び口を開いた。 「はい、戦の最中なら存在を秘匿する意味も有るかもしれませんが、今はもう……。それに袁紹さんはどうか判りませんが、雪蓮さ  んに至っては今はもう余り袁術さんとの過去については気にしてないかと。今更袁術さんの存在が明らかになっても呉には何の影  響力も無いでしょうし、恐らく袁術さんの今までの困窮した生活は呉も把握していると思います。それに仇敵である袁術さんを宥  恕する事で呉や孫家の風評が上がる事はあっても下がる事は有りません。もし本当に袁術さんの存在が目障りなら呉なら内々のう  ちに……」 「あ〜……。なら雪蓮さんはともかく、袁紹さんには知らせておいた方がいいね」 「でしたら、わたしの方から送っておきます。袁紹さんに直接ではなく、斗詩さんに。一刀さんが居られれば一刀さんに話を通して  華琳さんの意向も容易く内々に知る事も出来たでしょうけど、一刀さんは今は襄陽ですから」 「華琳さん何か言ってくるかな?」 「恐らくは静観と言うか何の頓着も示さないと思います。この後に袁術さんが魏の脅威になり得るとは考えられませんし。ですが一  筆取って置くか置かないかでは……、まぁ保険の様なものです。少々大袈裟かも知れませんが……」 「なら朱里ちゃんお願い出来るかな」 「はい、承りました」   そう答えた朱里がペコりと頭を下げ桃香達の下を後にする。その後姿を見送りながら桃香は口を開いた。 「ほんの少しだけど話した感じは袁術ちゃん良い子だと思うけどなぁ」   そんな桃香の独り言のような呟きに桔梗が言葉を返す。 「まぁ、少々癖は有りますが、名家の……良くも悪くも甘やかされ放題に育てられた子としてはあんなものでしょう。躾さえすれば  十分矯正は可能であると見受けられます。それよりも傍に居る張勲の方が曲者かと……」 「ん〜……」   桔梗の言葉に眉間に皺を寄せ渋い顔になる桃香であった。   朱里が斗詩に書簡を送った数日後、大量の服飾や家財道具そして多額の金子が袁紹の詫び状と共に成都の城に届けられ、その品  物の山を目にした桃香達が言葉を失っていた。   その頃一刀は……。 「御遣いの旦那こっちです」   仲良くなった襄陽の若者達にそう促され、一刀とその警備に付いている隊員達は辺りを警戒しながら彼等の後を付いていく。 「首尾は?」 「上々です。遂に見付けました」   一刀の問い掛けに若者達の一人がそう答えた。言葉遣いとは裏腹に天の御遣いと一市民としてはかなり砕けた接し方ではあるが  お互いに気にはしていない様だ。 「丁度今時分から人が増える良い時間帯です。急いで下さい」 「了解だ」   若者の言葉にそう一刀は答えると、一層辺りを注意深く警戒しながら他に誰も居ないと判断し路地の奥へと姿を消した。   だが、そんな一刀達を見るもの全てを凍り付かす程の冷たい視線で見詰める三対の瞳が有った。 「隊長……、あん人の頭の中には「懲りる」って単語は存在せえへんみたいやな」 「最近かめ虫共の様子がおかしいと思ったらこういう事だったの〜」 「みたいやな……。悪かったなぁ明命はん、戻って早々変な事お願いして」 「いえ、お役に立てて幸いです」   そう真桜の言葉に手短に返答した明命には何時もの朗らかな雰囲気は影を潜め、ネコ好きの明命ではなく呉の周幼平……正に狩  る側の者の表情であった。 「ほな行こか……」   普段の真桜からは考えられない、低く、抑揚の無い、冷たい口調の言葉に黙って頷く沙和と明命であった。   一刀達はある施設の裏手に集まっていた。すると見張りの若者を数人残して一刀達は小さな小屋の中へと入って行く。そして壁  に立てかけていた板を外すとその隙間から中を覗き込んだ。 「(おおっ……!)」   思わず声を上げそうになるのを皆は必死に堪える。そして皆はその隙間の先に広がる光景を見詰め続けていた。   そう、ここは襄陽の市街に造られた公衆浴場。そこの女湯の裏手にある物置の中から中を覗いているのであった。 「旦那!今噂の後家さんが入って行きました」   表に居た見張り役からの小声の報告に一同の興奮が高まる。見張り役のいった『後家』とは襄陽では有名人で一刀も通りで何度  か見掛けた事があった。   その彼女は美しく聡明で評判であった。数年前商家に嫁入りしたものの、男の子を主人との間に儲けるも二年前流行り病で主人  を亡くしたと言う。その後も女手一つで子育てと商家を切り盛りする女性として母親として、そして商売人としても非の打ちどこ  ろが無い女性であった。彼女はその後も所帯じみる事は無く、美しさと子持ちとは思えぬ色気を醸し出し、益々女を磨き上げてい  る。そんな彼女に一刀はある女性を重ね合わせていた。   その後家さんを今や遅しと待ち構えていると、湯気の向こうにそれらしき女性が見えてきた。その姿に目を向け様とした瞬間、  一刀や警備隊の面々はある気配に気付く。   それは例えるなら、遮蔽物の何も無い荒野で捕食者である鷹に狙われた被食者である野ねずみの気分であった。一刀達は今迄湯  殿からの蒸気もあり少々蒸していたこの場所が一気に冷え切った感覚に襲われる。その感覚に後ろを振り返ることも出来ず顔を唯  強張らせていると、一刀達の横に居た若者達が声を上げる事も無くその場に崩れ落ちていく。 「隊長……、楽しそうなの〜……」   その声を聞いた一刀達は全身から汗が噴出すのを感じた。勿論それは熱気からくるものではない。 「へぇ〜、あれが噂の後家さんか……。ええ乳してるなぁ〜。何や、言うてくれたら乳ぐらいウチがなんぼでも見せたげるのに……」   ボカッ、ガスッとの連続音に続いて隊員達が崩れ落ちた。 「一刀様……、やはり乳なのですか……。穏さまや祭さまの様な乳ではないと存在価値は無いのですか?!」 「えっ、明命?何で此処に?」   そう言って一刀が振り向こうとした瞬間、一刀は意識を刈り取られたのであった。   その日、襄陽の街の広場に後ろ手に縛り上げられ身動きの出来ない一刀達が正座されてていた。首からは「私達は女湯を覗いた  変態です」と書かれた札が掛けられており、尚且つ顔には明命の手による決して口には出せない様な罵詈雑言が落書きされている。   彼等は朝までその場に放置され、その後一刀以外は沙和の手により心が磨り減り人格が変わる程の訓練を受けさせられたと言う。  勿論一刀も例外ではなく、沙和や真桜によるお仕置きと言う名の様々な行為や明命を含めた三人の為に一刀の数ヶ月分の小遣いに  相当する散財を強いられたのは言うまでもない。          〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜   襄陽に新たに霞と凪が赴任し沙和が洛陽へと戻ってから二十日程が経っていた。霞と共に襄陽に到着した騎馬隊の配備が一段落  すると一刀達は帝の長安行幸に随員する為に洛陽へと向かわなければならない。そしてその間に真桜は部下の一部を連れて炉の整  備と新設の為に呉に赴く。一刀達洛陽から派遣されていた者達が一時的に皆襄陽を留守にする為、その間の引継ぎや各方面への指  示の為に案外とバタバタとしていた。 「凪ぃ〜!姐さん見いへんかった?」 「いや、今日は未だ見て無いがどうかしたのか?」   城の廊下で真桜から声を掛けられた凪がそう答えた。 「いやな、姐さん洛陽に帰る前に休暇取るって言うてたやろ、せやからどないすんかなぁって思てん。凪はたいちょのとこ?」 「ああ。引継ぎは一段落したから洛陽に戻るまでの打ち合わせをしておこうと思って。……霞さまは部屋には居なかったのか?」 「せやねん。せやからたいちょのとこかな思たんやけど……。あっそっか、そう言うたら昨夜は凪さんとお励みやったんやな」 「なっ、何をこんな所で!」 「まあまあ、何を今更照れる程のネンネちゃうやろ。何時にも増して肌艶が上々やん」 「うっ五月蠅い!!」   顔を赤く染めながら言い返す凪に真桜が茶々を入れている内に二人は何時もの執務室に到着する。そして何時も通り勢い良く部  屋の扉を開けながら真桜が口を開いた。 「たいちょ、姐さん居る……って、何や隊長も居らへんがな」   そう口にした真桜と共に誰も居ないやけに片付けられた執務室を見渡していた凪が一刀の机の上に置かれた二通の書簡を見付け  た。 「何だ?」   書簡に気が付いた凪がそれを手に取る。 「どないしたん?」   そんな凪を眼にした真桜が近づいて来た。そして二通の書簡を見詰めている凪の脇から顔を覗かせる。 「いやこれが隊長の机の上に……」   そう言って手に取った書簡を凪が真桜の方に向ける。一通は[休暇願]と書かれた霞の名も書かれたもの。そしてもう一通は表  にも裏にも何も書かれておらず、名も記されていない。 「なんやこれ?」   そう言った真桜と顔を見合わせた凪が中を確認する為に書簡を開いた。   そこには……   「探さないで下さい                 北郷一刀」   と書かれた紙が一枚。   どう見てもそれは霞の字で書かれたものであった。     幕間 了