玄朝秘史  第四部第二十一回『気炎万丈』  1.期待  金城のど真ん中を割って滔々と流れる河水の水面に払暁の朝日が煌めく頃、紫苑たち蜀漢からの一行は、昨晩の一刀への予告通り、早々に金城を出た。  翠から与えられた涼州馬に引かせた馬車の中で、紫苑は眼を細めて外の様子を眺めやる。  そのまま蓬莱の野営地の側を冷やかすように通ってみても、反応は無かった。余裕か、あるいは殺気もない相手に姿を見せる必要もないか。  その両方であろうと紫苑は思う。なにしろあちらの陣中には恋がいるのだ。戦の気配がすれば先回りされているだろうし、今日のように冗談でやったくらいでは反応が無いのが普通だろう。 「一手御指南、とはいかないわね」  普段より熱っぽい口調でそう呟くのは、彼女の中でうねくる熱がいまだ冷めていないからであろう。昨晩……いや、今朝まで夫たる人物と交わっていた肢体は、その余韻をずっと響かせていた。  思い返してみれば、実際に彼に触れられるより前、璃々の書簡によって発憤した――結果としては少々無様なことになったと当人は主張していたが――という彼の話を聞いてより、そのうずきは内在していたように思う。  己が抱かれるにふさわしい人物であるという認識はあったし、関係を結ぶことはそれまでも彼女の意思から生じたものであった。  しかし、昨夜はこれまでとはなにか違った、と艶やかな所作で下腹を撫でながら、彼女は思う。  娘を大事に思ってくれている男の姿になにを感じたのか、彼女自身もよくはわかっていない。だが、それはある意味で画期であった。そのことだけは把握している。 「わたくしは……」  何ごとか言いかけて、彼女は口をつぐむ。その脳裏でこれまでの人生で印象的な光景が次々と展開されていくのを、紫苑は不思議な心持ちで感じていた。  最初の婚姻――それは、一族の血を保つための義務感から生じたようなものであったが、しかし、それでも若い娘にとっては晴れの舞台であった。  そして、璃々を身籠もり、この世に産み落とした。その日のなんと幸せであったことか。  夫を亡くし、領地経営に苦労した日々も、璃々が一日一日大きくなっていく過程であることを意識すれば、なんでもないものであった。否、多少の苦労などものともせぬほど幸福な日々であった。  乱世に至り、桃香たちに城を明け渡し、それを皮切りに負け続けたのもたいしたことではない。彼女の横には娘がいたし、娘のために平和な世を作ることを目指せたのだから。仕える主の大望が果たされなかったのは残念ではあったけれど。  そして、二度目の結婚。  婚儀の時期も、それ自体も最初のそれとは比べものにならないくらいに政治的色彩を帯びたものではあったが、璃々に花嫁衣装を見せられたことは、素直に嬉しかった。『お母さん、きれい』という単純ながら気持ちのこもった言葉に感激したのを覚えている。  その後、帝を連れて都を脱出し、既に予定されていた敵対の状況へと入って……結局は、彼女の思考は前日のことへと戻る。  蒲公英という人物の成長、北郷一刀という人間の覚悟、そして、自分に託された任務の失敗。  考えるべきことはたくさんあるはずなのだが、思い返されるのは、男の指の動きや彼女の膚に口づけるその唇の熱さや、彼女の真名を呼ぶ声だけだ。 「これはまずい、かしらね」  ふふ、と皮肉っぽく微笑んでみるものの、それすら虚勢のように思えて、彼女は困ってしまう。  人間、色々と経験を重ね、察しがよくなってくると、自分を騙すのさえ一苦労になってしまうようだ。  紫苑は諦めたように息を吐いて、座席に深く腰掛けた。その視線がさまよい、そして、馬車とすれ違おうとする隊商の一つに向かった。  そこに見える一団は、その様子から、蜀、いや、漢中からの一行ではないかと見受けられた。  もちろん、金城に至る道は南方から続いており、その辿る道からだけでは関中――長安や洛陽からの商隊と見分けが付くわけではない。だが、彼らの身に纏う着物の特徴のいくつかが、南方、益州のものであるように、紫苑には思えた。  蜀漢にしろ蓬莱にしろ、商人たちの往来を妨げるつもりはない。緊張関係があることを認めつつも、一刀も桃香も人や物の行き来を奨励していた。  たとえ国同士が敵対しようと、そこに住む人々全てが反発し、憎み合う必要はない。あくまでも、北郷と劉家の政権間抗争であり、そうでなくてはいけなかった。  その実例をしっかり観察できたことは、一つの収穫だ、と彼女はぼんやりとした頭で考える。  たとえ彼女の任務が失敗しようとも、漢中と金城、そして、大陸西方へと繋がる大動脈が生きてさえいれば、民の生活は潤うことだろうから。 「あとは星ちゃんのほうに期待するしか……ないわね」  涼州の武力と政治力を期待することは、実際の所、もはや難しいものがある。それよりは、いますれ違ったような商人たちによる、民間の交流を強め、国としての根本部分、経済の活性化を推し進めることのほうが利はあるだろう。  蓬莱の本土である中原との交易よりは、涼州、そして西方へとその交易路を延ばすのが、政治的にも反発を生まない方策であるはずだ。  そんなことを表面で考えつつ、しかし、はあふと息を吐く紫苑の様はあまりに艶めいている。  まるで恋に浮かれる小娘じゃないの、と己を叱咤しつつ、それでも、彼女の脳裏では、北郷一刀の声が響く。 『世界を守る』  守るというその中に、この大陸という大きなものだけではなく、彼が大事に思う一人の女の子も入っていることに、彼女は気づいたのだ。  どれだけ対立していようと、どれだけ道を違えようと、彼は璃々を守ってくれることだろう。その確信が、彼女にはあった。  もう一度、彼にたっぷりと精を注がれた腹をなで、紫苑は小さく笑った。 「困ったわねえ」  と。  その体に新しい命を宿したと彼女が知るのはしばらく後のことであった。  2.虜  さて、紫苑が期待を寄せた星はどこにいただろうか。  常山の昇り龍、趙雲子龍の姿は、その頃、はるか東方にあった。  大陸の東北のどん詰まり――と思われている土地――幽州である。  普段の派手派手しい着物を隠すこともなくふらりと幽州の治所、つまりは白蓮の居城に姿を現した彼女は、待たされることもなく、白蓮のいる場所まで通された。  だが、問題はそこにいる先客であった。  白蓮は星が部屋に入る前から自分の机に向かって書類と格闘していた様子であったが、それを補佐するかのように、横に小さな机を寄せていくつもの竹簡を処理している人物があった。  たおやかな指をぴったりとした黒手袋で包み、すらすらと筆を滑らせるその姿を、星は見慣れている。  なにしろ、彼女とは共に大陸中を旅して回った仲なのだから。 「おや、稟ではないか」  びっくり仰天というように大げさに身を仰け反らせながら星が言うのを、稟は横目で見て、それから顔をあげた。 「出遅れましたね」  大仰な動作には振れず、ずばりとそれだけ言う。星はしかたないというように肩をすくめるばかりであった。 「少々遠くてな」  蜀漢と幽州では中原を挟んで反対である。ましてや間には一刀たちの本拠地があるのだから、往来するにしても注意が必要となってしまう。今回このように訪問できたのも、その足で実際に歩き、大陸をよく知る星だからこそであった。 「私のことではありませんよ。私より前に張子布殿が来ておられたと聞きますから」 「子布……?」  いぶかしげに首をひねる星。そもそも距離の近い蓬莱に先んじるような勢力があるというのだろうか。 「孫呉の張昭殿ですよ」 「なんと」  孫呉の文官筆頭の名には純粋に驚いたのか、目を丸くする星。彼女は、そのままの表情で視線を横に動かした。 「いやあ、伯珪殿はもてもてですな」 「うるさい」  それまで歓待の声もかけず、黙々と仕事をこなしていた白蓮は怒ったような表情で顔をあげ、ばんっと大きな音を立てて筆を置いた。  その様子に、おおこわいこわいとでも台詞がつきそうな動作をする星。どちらに呆れたものか、稟は苦笑を浮かべていた。 「だいたい、お前たち、私が一刀殿を裏切るなどと本気で思っているのか」 「まさか」  苦虫をかみつぶしたような表情で切り出す白蓮に、星はさすがに真剣な声で応じた。公孫伯珪という人物の気性からすれば、裏切りをほのめかされるだけで気分がいいものではないだろう。  星や稟、張昭が果たすべき役割――各国が各国とも白蓮を取り込みたいという希望は理解していても不満なものは不満なのだ。  そもそも、ひょんな巡り合わせから本来の根拠地に帰り、幽王などという地位に就いた彼女からすると幽州経営だけで手一杯で、他に煩わされるのはたまったものではないのだろう。 「おそらくは、孫呉もそうは考えておりますまい。ただ……」  それらをわかった上で、星は軽い調子で続ける。 「ただ?」 「こう、ちょいと手心を加えていただくだけで」  あまりな物言いに、ぽかんと口を開けて言葉を無くす白蓮。くっくと喉にかかる笑いがその脇で起こっていた。 「私がいる前で話すことですか」 「いるからこそではないか」  肩を震わせる稟ににやりと微笑む星の表情のなんと邪悪なことか。  こういう誘いがあったと報告が入れば、蓬莱側としては、蜀漢との戦が生じた場合、白馬義従への参戦要請を躊躇わざるを得ない。  白蓮側が積極的に蓬莱を攻めるとまではいかずとも、昔なじみでもあり、かつては共に戦った仲間でもある蜀軍に対して一歩引いた立場となってしまうことがあり得ないとは誰にも言い切れないであろう。  その可能性を戦略に組み入れたとき、幽州は味方ではなく潜在的な敵対者となりうる。そこまではいかずとも、戦力からはさっ引いて考えなければならない。  この露骨な働きかけは、その布石である。  たとえ実際に蜀漢に味方しなくとも、そう思わせるだけでいい。それだけで蓬莱の動きは制限されるのだから。  もちろん、その程度のことは、軍師ならずともお見通しであろう。それが蜀漢側の策であることも理解出来よう。  だが、戦場において疑いを持たずにいられるものであろうか。否、その前に慎重策を取るのが大国の考えというものではないだろうか。  それら全てを踏まえた上で、稟はふんと鼻を鳴らした。 「そのあたり、私相手なら効くかもしれませんが」  眼鏡を押し上げ、表情を消して、彼女は告げる。 「我らが夫君は、底抜けの莫迦ですよ」 「むう、たしかに」 「それで納得するのかよ!」  ぽんと手を叩いて同意する星に思わず怒鳴ってしまう白蓮。いっそ不思議そうに、星は彼女のほうを見やった。 「いけませんか?」 「いや、私が言うのもなんだけどさー……」  疲れたように呟き、そして、何ごともなかったように仕事を再開した稟を見つめて、白蓮は深く息を吐いた。 「ああ、まあ、いいや」  食わせ物の二人にこれ以上言ってもしかたないと考えたのか、白蓮はそれ以上言葉を続けず、しばし星の顔を見つめていた。だが、相手がまるで表情を変えないのに再び口を開く。いざとなればどこまでも鉄面皮になれる人物であると良く知っているからだろう。 「で、桃香はなんて?」 「いえ、桃香様はなにも」 「そっか」  実に軽いやりとりではあるものの、白蓮の声にはどこか安心するような響きがあった。  桃香と彼女は実に長いつきあいである。しかも、同じく同門の間柄である華琳と麗羽のようにお互いの政治的立場から険悪になることもなかった。  いかに幽州のことを考え、一刀への義理や情があったとしても、桃香の言があれば何ごとか考えずにはいられないのが白蓮という人物であった。 「ほう?」  稟が面白そうに口を挟むのに、星は軽く肩をすくめて見せる。 「『だって、白蓮ちゃんだしー、無理無理』だそうで。まあ、そこは同意なのですが、やはりそれなりに足掻くことも必要であろうと、我々で説得した次第」  桃香からの個人的な頼みとあれば、白蓮は揺らぐ。  だが、揺らいで揺らいで、その果ての最終的な判断で北郷一刀を裏切る決断を下せるわけがない。いや、桃香と一刀とどちらも裏切ることなど出来ず、自滅する道を辿りかねない。  そのことを、桃香は熟知していたし、星もまたなんとなくはわかっていた。  白蓮に心労をかけたくない個人的な感情は尊重したいところだが、一方で、国としてそうはいかない立場というものがある。 「そんなわけで公的な書簡はありますが、読まれますかな?」  結局、桃香は個人的な言葉ではなく、蜀漢の大将軍として白蓮に協力を要請したのであった。 「うん、そうだな。……置いといてくれ」  星が懐から取り出した包みにちらりと目をやって、白蓮は指で示す。星はそれに応じて劉玄徳からの書簡を置き、さっと身を翻した。 「では、用件は済みましたので、これにて」 「いや、待て」 「歓待の宴などはご無用に。酒を酌み交わす機会を失うのは惜しいですが……」  さっさと立ち去ろうとした――それは漢中との距離を考えれば無理からぬ事であろう――星を呼び止める白蓮。それに星が楽しげに答えるのに、白蓮はぴしゃりと言った。 「そんなわけがあるか。お前も手伝っていけ」 「はあ?」 「仕事。烏桓との関係とか、色々と細かい事が山積しててさ。稟だけじゃとても足りん」  振り返る星に、文字通り山と積まれている竹簡や紙の束を示してみせる白蓮。 「はは、ご冗談を」  体ごと向き直り、星は笑い飛ばす。  それはそうであろう。白蓮が処理する物事は、幽州の政治の根幹に関わる。宗主国に属する稟にならばともかく、敵対する蜀漢の将にそれを任せられるわけがない。  そこまでいかずとも、蓬莱と幽との連携など、様々な情報を抜き取られかねないというのに。 「いや?」  だが、白蓮は真顔で首を振る。  その常ならぬ迫力に、星の笑みが強張った。よくよく見れば、白蓮の瞳はわずかに血走り、目元にもうっすらくまが出来ていた。 「だから言ったでしょう。出遅れた、と」 「なに?」  小声で警告するように告げる稟に、星は鋭く訊ねかける。大陸を代表する頭脳の持ち主の一人である郭奉孝は、それに対して弱々しく微笑んでこう告げるのだった。 「私も足止めされているのですよ」  と。  3.中華 「私は中原を志向しない」  江南に伝わる異端の史書、韋昭の『呉書』における『大帝紀』即位の詔はそんな一節から始まる。  この書は長い間、史料としての価値を認められなかった。後世に作られた偽書であり、有り体に言えば小説の類であると考えられていたためであった。  あるいは、華北中原を中華の根源と考える世相からしてみれば過激としか言いようのないこの文言も、人々をして、この書物を想像で書かれたものだと思わせる一端を担ったのかもしれない。  だが、呉大帝孫権即位より千七百八十年余り後、江南の地において一つの墓が出土する。  その墓に納められていた『呉書』は丹念な調査によって、いかに下っても孫権存命の時代より四、五十年が下限――つまりはほぼ同時代の文献であると確認されたのである。  これにより史料的価値が大幅に上がった『呉書』によれば、詔はこう続く。 「華北、中原は大陸の華である。人は多く、文物は溢れ、技も智も優れている。それに比べれば、江水より南のこの地は鄙びた土地である。あるいは、中華本道の人間からすれば、化外の地であろう。  諸君、認めようではないか。我らは、辺地に生きている。人は少なく、土地は手が入らず、馬は育たず、山にはまつろわぬ者が住む。  だが、だからこそ、私は中原を求めようとは思わない。中原に憧れ、華北を恋するのはいい。だが、それらに恋々として、我らの本分を忘れることは許されない。  いまこそ言おう。  中原はもはや後れを取っていると。  我らは中華の最前線にある。華北中原より始まった中華の精髄を広める、その先頭に立つ。  我らが切りひらくのは、あらたな世界である。あらたな地平である。あらたな国である。  あらたな精華は江南より出て、胡地をも覆うであろう。  諸君、心せよ。  我らこそ、中華である。  中原でぬくぬくと過ごす者でなく、華北で古くさい書物を繰る者でもなく、新たな土地を拓き、耕し、実りを得る我らこそが、中華の尖兵にして中華の担い手である。  山に入り斧を振る者よ、誇れ。その一振りこそ歴史を開く一手である。  湿地を埋め、土を掘り起こす者よ、誇れ。そうして流す汗こそ、中華を広げる一歩である。  江南の土地を見よ。  江水の恵みを見よ。  深き山々を見よ。  はるか大海を見つめよ。  この豊かな土地に生き、それを広げて行く自らの姿を見よ。  私は中原を求めない。  中原が我ら江南に跪き、頭を下げて和を乞うことこそを望む。  いまこそ高らかに天に叫ぼう。  いまこそ心の奥底より吐き出そう。  いまこそ己の全てをかけて名乗ろう。  我らこそが、中華の先頭に立つ者。  中つ国を押し広げる原動力である」  異色である。  いかに立国の精神を謳う時に雄々しい言葉を用いるとは言っても、華北中原が自ら和睦を希う状況を想定するなど、尋常の発想ではあり得ない。  この時点での現状を鑑みるに、人口比、物量比、いずれをとるとしても華北中原と南方とでは、どうひいき目に見積もっても五対四で負けている。もちろん四とは呉蜀をあわせての話で、孫呉一国ではとても華北中原に抗しうるものではない。  ましてや自らをして中華と位置づけるとは。  だが、それはこれまで江南に生きてきた者たちの本音を吐露したものであったのかもしれない。  中原の政治情勢とは切り離され、独自の文化を創り上げてきた彼らは、しかし、知識人たちからしてみれば、やはり蛮族と同じように見なされてきた。  否、見下されてきた。  周代、春秋、戦国と中原勢力に対抗しうる大国――楚――として存在しながら、結局は覇権を握ることはなく、なにか置いて行かれたような感覚を抱き続けていた者たちも多かったのではないか。  そんな中で、この地こそが中心であると宣言されることの、なんと頼もしいことか。  それは、孫呉三代が蒙った屈従と飛躍という背景とも相まって、人々に強烈な印象を与えたことであろう。  だからこそ、彼女は大帝と呼ばれ、そして、結局は蓬莱に屈した後も孫呉の地を守り抜く存在となったのであろう。  呉大帝、孫権。  後の歴史においてその登極の事実は隠されるようになるものの、紛れもなく、彼女は南方の土地を代表する帝であった。  そして、彼女が即位したその日。  大陸に三人の皇帝が並び立つ、真の三国時代が幕を開けるのである。  4.外交 「ようやく、だな」  漢朝の儀礼や、蓬莱における登極の儀式よりははるかに簡素ながら、群臣たちの歓呼に応えて帝となる儀式を終えた蓮華は、宴を開くより前に、まず重臣たちを集めていた。 「はい」  一同は公的に示したのとはまた違う態度でそれぞれの忠節や思いを示すように頭を垂れる。それに頷きを示し、蓮華は皆の顔を見渡した。 「だが、やはり時間がかかった。いかに円満に国内をまとめるためとはいえ、一刀や桃香に時間を与えたことは確かだ」 「ですねー」  主の言葉に、穏が同意する。  蓮華が帝となる今日までの間、孫呉は内向きの行動が主になっていた。幽州に張昭を派遣するなど、それなりの行動はとっているものの、積極的に外に働きかけているとまではいかない。  外部に関しては既存の戦略をなぞっていただけで、新たな動きを付け加えられなかったというほうが正しいだろうか。  時間も人的資源も無尽蔵にあるわけではないから、注力する物事を選択するというのは実に重要だが、やはり、蓬莱や蜀漢に対しては多少後手に回っているという危機感が蓮華にはあった。 「この間、しばらくは皆に任せていたが……動きは?」  だからこそ、彼女はこうして近習を集めたのであった。 「あるといえばありますし、ないといえばないんですよねー」 「ふむ?」  歯切れの悪い穏に首をひねる蓮華。それを補うように、亞莎が片眼鏡を煌めかせて口を開いた。 「蜀漢に関しては、我が方に祝賀の使者を出してきたくらいですから、その、敵対するつもりはないものかと。しかし、あくまでも『呉王』へ向けてのものですから……」 「まあ、そこはしかたあるまい」  亞莎の言葉に蓮華は苦笑する。  漢の帝が漢中にある以上、呉の帝の即位を祝うわけにはいくまい。すでに即位しているはずの呉王への祝辞を送ってくるのがせいぜいというものだ。それでも、友好の意を示すものにはなる。 「ともあれ、積極的に我々と敵対するつもりはないと」 「我らと組んで荊州から蓬莱を追い出そうという申し出があるくらいですからね」  明命が指摘したこの提案に関しては、実は公的なものではない。兄妹の縁から、密かに諸葛瑾を通じてもたらされたものであった。手応えが良ければ、公的な段階に話を持っていく予定なのであろう。  そのやり方を見るに、実質的には以前からの蜀軍が優勢とはいえ、漢朝の帝がいることで桃香たちも苦労しているようだ、と孫呉側は解釈していた。  ただし、その内容については以下の思春の発言に象徴されるような受け取り方が大勢を占めていたが。 「ふん。我らに南から攻めさせて、その間に漁夫の利を狙うつもりであろうが」 「そりゃ、桃香たちだって、それほど手はないだろうしねー」  蜀漢が己に有利になるよう話を持っていくのは当然のことだし、実際、小蓮が言うとおり、それ以外にやりようはないだろう。地力で勝る蓬莱に対して、孫呉との連携を探るのは妥当だとかいう以前に必須のことなのだから。  孫呉にとってもそれは同じことなのだが、果たして飛びついていいものか……。 「で、肝心の一刀の方はどうなのだ?」 「城づくり……ですね」  蓮華の言葉に、皆が目配せを交わす。結局、亞莎が代表するようにそう答えた。 「なに?」 「襄陽と樊城の間に、城を建てております」 「拠点を作っているということか……」  襄陽と樊城を中心とする襄樊地区は、大陸の、まさに中心にある。南方からの攻勢を受け止めるにせよ、蓬莱の側から討って出るにせよ、この地域を強化するのは実に重要なことだ。  また、同時に襄陽と樊城は大陸の流通網の巨大な結節点の一つでもある。  民間の活動を阻害することなく軍事的な影響力を増すことを目的とするなら、兵たちが駐屯するための城や砦を新設することは理にかなっていた。既存の城内に多数の兵を入れることは、かえって混乱を招きかねないからだ。 「ただですねー……」 「なにか気にかかるのか?」  してやられたというわけでもなく、なんだか困ったような表情を浮かべる筆頭軍師の姿に、蓮華はすっと眼を細める。決定的な何ごとかが起きているというわけではなくとも、穏が先を読み切れない事態が生じているのならば、それは警戒に値する。 「いえ、ただの砦なら、なんとでもなるんですが、実は、いくつも作ってるんです」 「数は?」 「十五」 「多いねー」  小蓮が思わず漏らした言葉に、蓮華も同意の唸りを漏らす。いかに拠点を増やすにしても、十を超えるというのは少々おかしくはないか。 「さらに、新たなものに着手しつつあります」  そこまでいくと、なにやら不気味なものを感じる。いかに城を作ろうとも、そこに入れる兵には限りがある。兵力を無駄に分散させてどうするというのだろうか。 「見張り台程度ではないのだな?」 「はい、立派な城壁が立ちつつあります」  明命がそう報告するのだから、それは実際に荊州で探っている者からの根拠ある報せなのだろう。  だが、そんなにいくつも城砦を建ててどうするというのだろうか。たしかに城は防衛機構としては重要なものだが、あまりに多くあると連携が難しくなるし、守りきれなければ敵に奪われてせっかく作った施設を利用されるというようなことにもなりかねない。  蓬莱の兵力全てを注ぎ込めば守りきることも可能であろうが、荊州に五十万を揃えるわけにもいかないだろう。  そもそも、そんなことが出来るなら、城を作る必要もないのだ。 「……あやつがおかしなことをし始めるときは、なにかあると思うべきでしょうな」 「最大級の賛辞ですね、思春ちゃん」 「茶化すな、阿呆」  部下の遣り取りに苦笑しつつ、しかし、蓮華も同意であった。北郷一刀という人間、あるいはその周囲にある智者の集合を侮ってはならない。  これまでの常識では容易には理解できない手も打ってくるだろう。  そこで、彼女はふと思いついた。 「その作っているという城の場所を、地図に示してみてくれるか」 「はっ」  指示に従い、襄樊地区の地図が用意され、城砦を示す木の塊がぽんぽんと置かれていく。 「えーと、ここと、ここと、ここ……そして、こうですかね」  その数が五、十、十五と増え、さらに色を変えて建築中のものが示されて行くに従って、皆の顔に不審げな、次いで驚きの表情が広がっていく。 「これは……!」  襄陽と樊城を中心として、全体として円を描くように、各城砦が展開されているのはわかる。襄樊を守るというのだから当然だ。  だが、あまりに密ではないか。  そして、新たに作り始められているという城のいずれもが、既にあるものをつなぐような位置に作られているのはなぜか。  あるいは、最初から全てを繋ぐために作られているのではなかろうか。  そう、それは城砦にあらず、襄樊地区そのものを囲う一個の巨大な城壁であった。  5.狩場  襄樊地区で続けられている土木作業現場の一つ。  そこに、ぞろぞろと儀仗兵を連れて現れたのは、蓬莱において軍事の権の全てを握る――という建前上の地位に就く――女性、大将軍袁本初。  彼女は視察の任に訪れたその現場で、思っても見なかった顔を見つけた。黙々と土を突き固めている壮年の男の姿をよくよく観察した後で、彼女はその名を呼ぶ。  たくましいとまではいかずとも、よく絞られたすらっとした体のその男は日焼けした顔を振り上げ、そして、すぐに興味を失ったかのように目線を落とし、作業に戻った。  もう一度麗羽が声をかけるのにめんどくさそうに顔をあげ、ぶっきらぼうに口を開く。 「なんだ。無駄に齢をくった方の袁家のぼんくら」 「貴様、皇妃様に!」  あまりな物言いに、ついていた兵の幾人かが怒声を上げる。いかに麗羽の悪名が轟いても、面と向かって悪罵を放てば当然予想される反応であった。  だが、いきり立つ兵たちを、暢気な声が押さえる。 「あー、その程度流しとこー」 「そう私たちが言っちゃうのもどうなのかなあ……」 「そりゃ、姫が気にしてりゃ別だけどさー」  猪々子と斗詩はそんなことを言い合って、その場の空気を弛緩させてしまう。彼女たちもまたそこにいる人物を知っていたがための言葉であった。  二人は戸惑う兵たちを脇に寄せ、麗羽と男が話を出来るように周りを囲む。結果として他の作業員たちはそれに圧せられて他所へ散っていった。  そんな周囲の状況を理解しているのかいないのか、泰然とした様子で麗羽は男に話しかけ続ける。悪態をつかれたことなど、まるで気にした風もなかった。 「お久しぶりですわね、張譲さん」  その挨拶が、まさに男の正体を示している。彼こそ、かつて宦官の頂点に立ち、漢朝の国政を牛耳っていた人物であった。 「思わぬところで会う」  もはや諦めたのか、作業の手を止め、彼はようやく麗羽のほうへ顔を向けた。汗を袖口でぬぐい、ほうと息を吐いて座り込む張譲。 「たしかに。しかし、この工事の資金のほとんどはわたくし由来のものですしね」 「ふん。金の出所なぞ一介の人夫に関係あるものか」  胸を張って自慢する麗羽を見上げながら、張譲は吐き捨てる。  実際、襄樊地区における工事については麗羽が一刀に渡した袁家の財産が大きくものをいっている。その金品がなければ、これほど大規模な工事が行われることはなかったかもしれない。  だが、宮廷を放逐され、大陸各地の土木作業現場を転々としている張譲にとって、誰の主導で工事が行われているかなどもはや意味はなかった。  彼にとって重要なのは仲間の宦官たちの無事と、己の生活なのだから。  蓬莱の成立によって、彼をはじめとする宦官勢が政界に復帰する見込みはさらに減った。なにしろ皇妃には宦官を敵視する袁家の二人がおり、行政の頂点にはかつて洛陽に引き込みつつ対立した賈文和がいるのだ。出世の目などあるわけがない。  といって都落ちした漢朝に義理立てする気もない。仲間のうち幾人かは脱走して漢中に走ったが、果たしてそれでなにかよい結果がでたものかどうか。  本音を言えば、張譲にはもはや政界での汚濁に身を沈める気力がない。毎日土を掘り、運び、酒を喰らう。そんな生活が気に入ってしまっている。  麗羽はしばらく無言で彼の事を見つめていたが、何ごとか言おうとしてそれを呑み込んだ。そして、その代わりに、穏やかな表情でこう言った。 「その様子では、お健やかだったようですわね」 「まあな。牢で一生を終えるよりはよほどましだ」  あるいは、飼い殺しにされて、毎日愚痴を言っているよりは、体を動かす方がまだ気が紛れる。そのあたり、本心であった。  彼は金の髪を揺らす皇妃の姿を見上げ、訊ねかける。 「ところで、蓬莱の後宮では宦官を完全に廃したそうだな?」 「ええ。女官しかおりませんわね」 「お主たちの趣味か? それとも、天の御遣いとやらの欲か」 「どうでしょう」  たしかに華やかなほうがよろしいですわよね、などと言って小首を傾げる麗羽に呆れたようになりながら、張譲は先を続ける。 「まあ、いい。それより、これからどうするつもりだ。女官ばかりでは、後が面倒だぞ」 「そうですかしら? 宦官の害悪よりも?」 「考えても見ろ。いや、いまの代はいい。天の御遣いには既に明らかな子らがおるようだからな。だが、蓬莱がうまく続いたとして、子を成せる帝ばかり続くまい。その時、皇妃となってもいない女官たちが、実はお手つきで……と言ってきたら?」  当然のように宦官を悪と称することには色々と思うところあったもの、それには触れず、張譲は警告するように言葉を紡ぐ。もはや一国の政治に関わるつもりはないものの、後宮のこととなれば口を出したくなるあたり、やはり宦官としての性がしみついているのだろう。 「なにが問題ですの?」 「本当に手が付いているならな。正式に皇妃となった女より、女官は外との接触が容易になる。そういう仕組みにならざるを得まい。そうなると、どこの馬の骨ともわからぬ血が入るぞ」  きょとんとした表情の麗羽。自分の言葉を理解出来ていないのか、と張譲が再び口を開こうとした時、彼女はいかにもおかしげに、くすくすと笑い始めた。 「なにを笑う」 「いえ、今更ではないかと」 「今更?」  張譲が聞き返すのに、麗羽は大きく手を広げ、笑みを顔に張り付けながら答える。 「我が君は天の御遣いと言われますが、それはいずこから来たか知れぬ故でしょう。誰とも知れぬ者から始まった王朝に、多少の外の血が入ったとて……」  ついにおなじみの高笑いを始める麗羽の姿を、張譲は信じられぬものを見る目で見つめた。袁家という代々の血統を誇るはずの人間が、そのような発言をするなど、彼が生きてきた常識からすれば到底あり得ぬことであった。  これまで何度も壊れてきた彼の世界が、さらなる破壊の時を迎えていることを、張譲は恐怖と共に感じ取り始めていた。 「それに、あなたが考える程度のことは、軍師勢なら当然に考えているとは思いませんこと?」 「そ、それはそうだろう。そ、そうでなくては……」  もつれる舌を叱咤して、張譲は言う。そうだ、この程度予想しているからこそ笑えるのだ。そうでなくてはならない。心の中で、彼は自分を安心させようとする。  だが、その後に続いた麗羽の言葉は、彼の想像を遥かに超えていた。 「我が君は、生きている間に帝位を譲るおつもりですわよ」  途端、男の顔から表情が消えた。のり付けでもされたかのように固まった彼の顔を、麗羽が不思議そうに覗き込む。  それに構わずぎくしゃくと立ち上がり、彼は彼女に背を向けた。 「どうなさいました?」 「作業に戻る」 「はあ」  なにやら機嫌を損ねたようだ、ということは麗羽にもわかった。だが、男が受けた衝撃の程度を、彼女は理解していない。 「もはや、世は変わった」  その麗羽には聞こえなかった小さな呟きは哀悼のようでもあり、自分に言い聞かせる言葉のようでもあった。 「さらばだ、蓬莱の皇妃」  にべもなく言い切られては麗羽も会話の続けようがない。彼女は脇に控える形になっていた斗詩たちのほうへ歩み出しながら、こんなことを考えていた。 「そういえば、張譲さんは美羽さんのことは何と呼ぶのでしょうかね?」  小さいほうのぼんくらさんですかしら? 今度会った時に訊いてみることにしましょうなどと、当の張譲が知ったらどういう顔をしていいのかわからぬようなことを、彼女は思い描いていたのだった。 「なにやってんのかしらね、あれ」  麗羽と張譲が話を始めたその場面を見下ろしながら、雪蓮は楽しげに笑う。彼女は既に出来上がった城壁の上に立ち、作業の様子を見守っているのだった。 「知らん。どうせお飾りの視察だ。余計な騒ぎさえ起こさねばいいさ」  横で広げた紙を覗き込んでいるのは冥琳。彼女はこの襄樊地区全体の工事の工程を管理するため、いくつもの現場を行き来しては指示を出し続けているのだった。 「まあねー」 「お飾りという意味では、私とお前もそう変わらんぞ」 「まあねー」  同じ言葉を繰り返す雪蓮は、しかしその頬に獰猛な笑みを刻んでいる。麗羽たちと雪蓮たちとでは、お飾りでも意味合いが違う。  麗羽たちは本当に儀礼的なもので、一方、彼女たちはいわば釣り餌だ。  孫呉という獲物を釣り上げるための。 「結局は、一刀が出てきてからだしね」 「狩りでもしよう、か?」 「そうそう」  なにか舌なめずりでも始めそうな友の言葉に、呆れたように顔をあげる冥琳。だが、その瞳には、雪蓮と同質の光が浮かんでいる。  強敵を前にした時の武人の気迫、あるいは、獲物を前にした時の猛獣の持つ欲望。 「さて、蓮華様は果たしてこの狩り場をお気に召して下さるかな」  その呟きは、まさに挑みかかるかのような響きを帯びていた。      (玄朝秘史 第四部第二十一回『気炎万丈』終/第四部第二十二回に続く)