玄朝秘史  第四部第二十回『一念通天』  1.視察  蓬莱の都、洛陽の周辺には多くの練兵場が点在している。それは華琳が群雄たちの中でも飛び抜けて兵の調練に熱心であったことが直接の理由であったが、根本の原因は別にある。  そもそも練兵場として用いられるのは荒れ地である。田畑や住居を潰して練兵場とするなど無駄なことこの上ない。  華琳が洛陽に入った時点で、都の近辺には練兵場に転用してもいいような荒廃した土地がいくつも存在していた。それは、黄巾の乱に端を発する混乱、反董卓連合による被害といった近い時期の事情はもとより、以前から漢朝の政がうまくいってなかったためだ。  都のすぐ近くに遺棄された土地があったというわけであるから、漢朝の失政については議論の余地がない。実際に、人がいなくなったのを補うために辺境から異民族を強制移住させるというような行為にも出て、国の中枢部に烏桓をはじめとした異民族が雑居するような状況を作り出している。  漢朝の失策そのものは間違いないとして、しかし、これらの事態には漢土、特に華北、中原部の特質が大きく関わっている。  華北の多くは、黄土と呼ばれる土に覆われている。これは大陸の奥深くから風によって運ばれてきたものが堆積したものだ。風に乗るくらいであるから、その粒子は細かく、均質なものだ。一般的な砂よりは大きい程度、と考えればいい。  この何が問題かといえば、あまりに均質であることで、特有の事態を引き起こすためだ。微細な粒子の合間を縫う毛細管が形成され、地下の水分を吸い上げ、土壌に宿るべき水分を空気中に排出してしまうのである。  土壌に常に水分が供給されたり、地下から上がってきた水分を引き受けるほど空気が乾燥していないというような湿潤な気候であれば、この現象はそれほど気にしなくてよかったかもしれない。  だが、華北、中原において、水分を土壌に、そして、空気中につなぎ止める役目を果たす森林が維持されていたのは、秦の統一よりはるか以前までである。戦国、春秋、さらにそれ以前の周代においてすら、もはや森林は破壊されはじめていた。  それは、農業というものの発達と、それによって養われる人口の圧力によるものであり、あるいは、中華という文化を重視するあまり、狩猟採集という活動を下に見て、森林の有用性を認めてこなかった、当時の『常識』によるものであった。  これらの事情により、華北、中原において、土地が廃棄された場合、すぐさまその土地は荒廃する。  それを蘇らせるためには、人の手によって、土中の毛細管を断ち切らなければいけない。つまり、大規模に土壌を掘り返し、塊をほぐして、新たに埋め戻す手間がかかる。  渇き切り、何年も鋤の入っていない土地を耕すだけでも大変だというのに、普段よりさらに深くまで掘り下げ、土の塊を丹念に破壊していく作業は、実に労力を必要とするものである。  あるいは、その後の農業活動を支えるために、新たな灌漑工事を行う必要も出て来るかもしれない。  それらの手間を、洛陽近辺の荒れ地に施すだけの力を、漢朝は持ち得なかった。ただ、離散した村人を引き戻すだけでは到底なし得ない難事である。  そうした状況を引き継いだ華琳もまた、その解決に着手することはなかった。以前から放置されている場所よりも黄巾の乱以後に――つまりは最近――廃棄された邑に人を入れるほうがよほど効率的であったし、兵を置いて農業にも従事させる軍屯は都周辺よりも、辺境で推し進められるものであった。  結局、洛陽近辺の整備は後回しとなり、ひとまず三国の争乱の中で膨れあがる兵を鍛えるための練兵場を作るという判断に至ったのは、魏としては至極当然な流れであったろう。  しかし、考えてみると、このように魏、それを受け継いだ蓬莱が都の周辺に多くの練兵場を抱えるのは、まずは魏の政策、そして、それを生み出した漢朝の失政、さらにはそれを助長する漢土自身の特性、その特性を生み出した森林の減少……と、次々たどれるのである。 「結局の所、洛陽の近くに練兵場が多数ある根本原因は、突き詰めてみれば、便利な農具の普及に行き着くわけ」 「は、はあ……?」  とある練兵場の一つに向かう道すがら、そんな話を滔々とまくしたてられた凪は、どんな表情を浮かべるべきかわからないというような困惑した態度でなんとか相づちを打っていた。 「わかんない?」 「む、難しいですね」  眼鏡を押し上げながら詠がそう訊ねるのに、凪は素直に吐露する。 「要するに、農地を確保するために、考え無しに木を切りすぎたおかげで、乾きやすくなって……という話なわけだけど……」  自分で言っておきながら、話を聞かされている凪に同情するように詠は肩をすくめる。 「理屈はともかく、意味はわかんないわよねえ。ボクも最初考えてみてくれって言われたとき、わけわかんなかったわ」  はあ、と小さくため息をつく相邦閣下の様子を、凪はさらなる困惑を込めた瞳で見つめる。練兵場までの案内の間の雑談で周の時代まで遡られて、話し出した方にため息を吐かれてはそうもなるだろう。  だが、凪はそれで不機嫌になる性質でもない。おそらくは詠に、そして、ひいては一刀になんらかの意図があるのだろうと考えた。 「しかし、隊長……じゃない、陛下が言うからには、なにか意味があるのです……よね?」 「あいつの場合、自分でわかってない思い付きをこっちに放り投げてくることもあるけどね。それはそれで刺激になるけど……。まあ、今回は違うわね」  詠は凪の言葉に賛同してもう一度肩をすくめる。 「あいつの故郷の感覚からすると、どうもこの土地は乾きすぎているらしいわ」 「乾きすぎている、ですか」  歩きながら、凪は周囲を見回す。乾きすぎているというのはどういうことだろうと訝しみながら。  詠もそれにつられたように辺りを見る。二人が辿る道の脇には――これは放棄されなかった――耕地が広がっていて、彼女の感覚からしても『乾いて』はいない。 「うん。あいつってば、水に頓着しないでしょ。風呂もばんばん入りたがるし」 「ああ、そういうところはあるかもしれませんね」 「元々、あいつの住んでたところは湿潤で、荒れ地なんてほとんどなかったんですって。空き地があれば、そこにはすぐに雑草が生えて、何年も放っておいたら、うっそうとした林になっててもおかしくないとか。……さすがにこれは大げさなんじゃないかと思ってるんだけど」 「はあ……。信じられない光景ですね」  凪は詠と同じように疑わしげな表情で小首を傾げる。一刀の言葉を疑うわけではないだろうが、半乾燥地帯に生きる人間に、湿潤な地域の情景を想像しろという方が無理だ。 「だから、あいつの住んでたところでは、しばらく放っておいたところでも、ここよりも苦労なく再生できるんだそうよ。言葉で言う程に簡単だとはボクには思えないけどね」 「天の国の事ですしね」 「ま、ひとまず、そのあたりの違いはともかくとして」  凪の台詞に、どうも魏の面々は『天』の一言で思考停止しているのではないかと心配になったりする詠であったが、いまはそれは置いて先を進めた。 「この土地の特性を当たり前だと考えるのは危険だということね。そして、通用するやり方も場所や時代によって異なる。あいつが持ち込んだ農法がここでも通じると考えるのも、華北でのやり方を……そう、たとえば江南の地に押しつけたりするのも、危ないってわけ。少なくとも、考えなしにやってたら悲劇的な結末しか生み出さない」  詠は歩みを進めながら、ぴんと背筋を伸ばし、ずっと向こう……おそらくは練兵場まで続くであろう風景を眺めやった。すくすくと育つ麦の間で人々が働いている景色を。 「そもそも、華北の気候や風土だって、長い目で見れば変化していくだろうしね。農業っていう国の根本に関わる政策一つとっても、これまでの常識や知識だけではなく、いろんな見方をしていく必要がある。幸い、あいつ……天の御遣いという、ボクたちとは違うものの見方が出来る人間がいるんだから」 「ふむ……」 「っと、まあ、これが、ボクがあいつにこの問題を考えてみてくれって言われて得た教訓」  そこまで言って、彼女は皮肉っぽい笑みを浮かべて見せた。 「あいつがそこまで考えて、言ったのかどうか、そこらへんはわからないわ。あるいは、まるきり別の思惑があったのかもしれない。でも、少なくとも、ボクはこうして考えることでいくつかの新しい考え方をみつけられた。そこは、感謝してる」 「さすが、たい……陛下ですね!」  内容をどこまで理解しているかはともかく、詠が一刀と一刀の行動を認めていることは伝わったのだろう。凪は我が事のように喜びの表情を浮かべ、どんを己の胸を拳で叩いた。  凪の相変わらずの心酔具合に苦笑する詠。 「ええ、まあ……。で、それで色々考えたんだけれど、練兵場のいくつかはいずれ潰して、その後に植林事業を進めようかと思うのだけど、軍部の反発はあるかしら?」 「ああ。それで、こんな話をされたんですね」 「いえ、それだけじゃ……」  ようやく納得がいった、と言いたげにうんうん頷く凪に対して詠は小さく手を振って否定しようとした。だが、その前に彼女の視界に入ってきたものがある。 「ああ、あれね……」  河水に向かってなだらかに下る地形に隠れてこれまで見えていなかったその巨大な建造物を目にして、詠はなんとも言えない表情になる。 「はい。あれが、『青龍』です」  一方で凪の方はなにか誇らしげな顔つきで、それを指さした。そもそも彼女が詠を連れてきたのは、これを見せるためであったし、青龍を作っている――正確にはそれを指揮している――のは、彼女の親友でもある真桜なのだから。  詠は足を止め、じっくりとそれを見つめる。視察であるのだから全景を見渡すのも当然であろうと凪は彼女の行動につきあった。  詠はひとしきりそれを眺めた後、腰に手を当て、その顔から表情を消した。 「さっきも言ったとおり、ボクとしてはこれまでの常識に囚われて新しいものを拒絶すべきではないと考えるんだけど」 「はい」 「あれが金食い虫なのは間違いないわけ」 「え?」  詠の声に込められた不穏な響きに、思わず凪は驚きの声を上げる。司空府に属し、軍部とも良好な関係を築きつつも一歩離れた関係を保っていた凪は、この時期、政府内の事情に詳しくなかったが、実は、青龍に関しては当初の予算を既に超過し、追加予算の要求が二度も出されている始末なのであった。  そのことを説明して、詠はふふんと鼻を鳴らして見せる。その顔に、いつもの勝ち気な表情が戻って来ていた。 「あいつが指示して、真桜が心血を注いでいるのはわかるけど、相邦として、行きすぎじゃないかどうか、見定めさせてもらうことにするわ」 「お、お手柔らかに……」  詠の勢いに、友の無事を祈らずにはいられない凪なのであった。  2.論陣 「ぷっ」  部屋の中を覆った壮絶なまでの緊張を解いたのは、蒲公英が堪えきれずに吹き出した音であった。  他の三人が呆れるよりも前に驚いたように彼女を見つめる中、蒲公英は軽やかな笑い声を立て、そして、こう言ってのけた。 「似合わないなあ、一刀兄様」  と。 「こーいうのなんて言うんだっけ。ああ、そうそう、露悪趣味?」  彼女は、三人が予想外の言葉に固まっている間にさらに続ける。笑いを含んだ口調で。 「そんな風に自分を責めるのが、本当に一刀兄様の道なの?」  最後だけは真剣な調子で、挑みかかるように瞳に気迫を込めて見つめてくる蒲公英の姿に、ようやく一刀は己を奮い立たせて口を開く。 「俺は、事実を言ったまでだ」  その声が掠れていたのは、蒲公英の態度への驚きを示していたのか、あるいは、彼自身の緊張を示していたのか。 「自分で起こしたこと、これから起こすことの責任は取ると言っているだけだよ」  舌が動く度に、声は少しずつ力を増す。それは、きっと何度も何度も己に言い聞かせていたことなのだろう。 「そう、俺は既に道を開いてしまったんだから」  その言葉の重みに、紫苑と翠、黙って聞いていた二人は内心首を傾げた。帝となって、国を建て、孫呉、蜀漢と対立する現状を重く見ているであろうことはもちろん理解出来るが、それにしても少々込められる物が激しすぎるように思ったのだ。  二人は貂蝉や卑弥呼と彼が交わした言葉を知らないし、もし知っていたとしてもその意味を理解するのは難しかったろう。  だが、そんなことは意に介さない人物が一人いた。 「なーんか、それも自己陶酔って感じで好きじゃないなー」  一刀の態度をばっさり切って、蒲公英は眉を顰める。さすがに自己陶酔と言われては、一刀も苦笑せざるを得なかった。 「蒲公英もお姉様も武人だよ。一族の人間や土地の仲間を死なせることだってある。ううん、これまでだって死なせてきたよ。それこそ、代々ね」  馬家の人間なんだからね、と彼女は続ける。 「でも、一刀兄様が言ったみたいにわざわざ言わないよ」  だってさ、と蒲公英は肩をすくめた。 「それが目的じゃないでしょ、一刀兄様」  しん、と部屋が静かになった。  その指摘に、翠はなにかに気づいたかのように大きく目を見開き、紫苑は卓の下で拳を握りしめた。  男の言葉は強烈であり、また、ついつい反論や疑問をぶつけたくなるような言葉でもあった。だが、その皮相な部分に目を奪われて、本質を追究するのを忘れてはいなかったか。 「人を殺すのが目的? 戦をするのが目的? ええと、この星だっけ? それを獲ることが目的? 違うよね。それって、ただの……」  蒲公英は一刀から視線を外し、言葉を選ぼうとどこか斜め上を見やる。 「そう、手段だよね?」  そうして思いついたのか、元気にそう言った。 「たんぽぽ言ったよね。『この大陸をどうしたいか、どういう風にしていくつもりか。それを話して欲しい』って。一刀兄様のは、過程の説明であって、全然話して欲しいことと違ってるよ」  そこで、彼女はうへー、と舌を突き出す。 「だいたい、そういうの、曹魏相手で聞き飽きてるよ。華琳が大陸統一したかったのって、覇王になりたかったから? 違うよね? ま、本心を隠して口ではそういうこと言っちゃうところは、なんていうか、魏の気質なんだろうけどねー。一刀兄様ってば毒されてるよ?」 そこまで一気に話し、そして、彼女はその人なつっこい顔に、真剣な表情を乗せた。 「たんぽぽとお姉様は、一刀兄様がどうしたいかを聞きたい」  手段ではなく、目標。  どうやってそれをやり遂げるかではなく、なにを目指すのか。  血の流れる量など聞いていないと、これは、ある意味で冷徹な突き放し方であった。 「……そうか」  一刀は己の手で顔を覆い、まるで汗をぬぐうような仕草をした。それから、さっぱりとした顔になって三人に向けて話し始める。 「さっき言ったのも本当のことだよ。とても一代では終わらないことだからこそ、俺が始めたいと思ってる。いまの勢いのままね。……でも、そうだな」  そこで、彼はしばし躊躇うように言葉を探し、こう告げた。 「最終的な目標は、大陸を、そして、世界を守ることだな」 「守る……」  ぽつりと出たのは、それまでずっと黙っていた翠のものだ。 「うん。変えるでも、良くするでもなく、守る、が正しいだろうね。俺は、この大陸を守りたい。だから、俺の手で大陸を獲りたい」  ある意味で、それは未来への展望の一部を放棄した物言いである。  群雄たちの大半は――己の権勢欲もあるにせよ――漢朝の腐敗と黄巾の混乱が引き起こした乱世を静め、平和で公正な政を欲して大陸制覇を目指した。  だが、一刀の主張では、その政の中身を、まるで頓着していない。  平和は当然のこととしても、いかに民を導き、いかに人々を安んじるかではなく、ただ、その全てを守ると彼は言うのだ。  まるで、どこかから敵がやってくるとでもいうように。  もちろん、翠と紫苑は彼が帝位につくまでに一度この話を聞いている。天の御遣いと呼ばれる存在が、一刀の他にも現れるかもしれないという情報についても――半信半疑ではあるが――受け止めている。  だが、そこで聞いていたことは、やはり壮語であり、大言であった。  翠が、大陸を獲るというそのものにではなく、守るという言葉に反応したのは、あるいはそれが一刀という人物の奥底からひょいと出てきた本音に近かったからではなかったろうか。  男はそこで一度唾を飲み込んで、己の言葉に頷くようにしてこう言った。 「そして、それまでは、止まるつもりはない」  それは、紫苑に、そして、桃香に向けられた言葉だったろう。  急ぐことで切り捨てられる者がいる。そのことに対して、桃香たちはその者たちの側に立つことに決め、一刀はそれをわかった上で進むことを選んだ。  そして、いま、再び彼は止まらないことを桃香たちに告げたのだ。  紫苑がぎゅっと唇を噛みしめたのは、そのことを十分以上にわかっていたからだったろう。 「でもさー、一刀兄様」  蒲公英は疑問というよりは文句をつけるような口調で彼に訊ねかけた。 「守るためには、それなりの現実味っていうか、そういうの必要だよね?」  一刀には一国の主としての経験は実に乏しい。領主としての経験を積むことなく、彼は帝となったのだから。  そのことを、蒲公英は指摘したのだった。  いかに魏から受け継いだ兵が精強で数が多くても、それだけを頼りに、大陸中を巻きこむ戦についてこいというのは無茶というものだ。  桃香は既に蜀を築き、いまや漢を招いて国の基を強めている。それに対するなにかを質すのは至極当然ではあった。 「まあ、それは……うん」 「魏の実績を信用しろってこと?」  蒲公英がそう訊ねた時、紫苑がはっと腰を浮かしかけた。それに翠が不思議そうな目を向ける。  だが、すぐに彼女の注意は一刀の方へ向かった。そもそも、この場は、一刀と紫苑の意見を翠が聞くためにあるのだから。 「うん、まあ、それもあるけど、最終的には……」  もちろん、ここで、華琳たちがやってきたことを己の政の根拠にできるような一刀ではない。訊ねられれば、こう答えるのが北郷一刀という人間であった。 「俺を信じて欲しい」  と。  3.未来 「してやられましたわ」  その夜招かれた二人きりの酒席で、そう唐突に切り出したのは紫苑であった。 「え?」  一方、杯に酒を注がれながら彼女の言葉を聞いた男のほうは、その言葉が理解出来ず、ぽかんと口を開けている。  一刀は議論を終えた後でどうなることかと心配して待ち構えていた音々音や霞、恋たちに質問攻めに遭い、その後で恋の空腹を満たすため食べ歩きに連れ出されたため、疲れもあって、少々頭が回っていなかった。  ただし、それがよくわからなかった理由のほとんどは、彼自身は紫苑の論に対して優勢であったとは思っていなかったためである。  なにしろ一刀の主張はそのほとんどが蒲公英によって論破……というよりは無意味なものだと切り捨てられている。その上で改めて求められたものを提示したとはいえ、論の張り方としては無様なものであったことは間違いない。蒲公英や翠が彼の目的を理解してくれたとは思っているが、国を任せるにあたって確信を持てる振る舞いでなかったのは事実だ。  だからこそ、まるで自分が明らかな劣勢であるかのように語る紫苑の言をすぐには理解出来なかったのだろう。 「わたくしは、明日にはここを発ちます。本国で戦略の練り直しを急がないと」  だが、紫苑のほうはそんなことにはお構いなしに話を先に進めている。その顔に浮かんだ切迫感は、紛れもなく本物であった。 「え? え?」 「ですから、今回は蜀の負けです」  言い聞かせるような口調になる紫苑に、一刀はますます困惑した表情になる。 「どういうこと?」  そこではじめて紫苑は笑った。悔しいが、どこか痛快と感じているかのような微笑みであった。 「今回の議論の勝者は、わたくしでも一刀さんでもない、蒲公英ちゃんですもの」  彼女は笑みを深くしながら、そんなことを言う。一刀はもはや声もなくそれを聞いていた。 「そもそも一刀さんの発言を、蒲公英ちゃんはずっと誘導していたとは思いません?」 「あ、ああ、まあ……。ずいぶんと助けてもらったとは思ってるよ。だからこそ、分が悪いというか……。要は蒲公英の力を借りなければ自分の主張ができなかったわけだから」  くすくす笑いと共に発せられた問いに、一刀はなんとか答える。 「そんなことは関係ありませんわ」  けれど、紫苑は彼と自分の顔の間でぱたぱたと手を振った。 「もちろん、これが学者を前にした考査かなにかでしたら、一刀さんの点数は実にひどいものであったと思いますわよ。論の中身以前の話で」 「だろ?」 「でも、判断するのは翠ちゃんですわ。そして、それを蒲公英ちゃんも知っていた」  翠はなにもどちらかが相手を議論で言い負かすのを見たかったわけではない。ましてや美しい理論の流れを聞きたかったわけでもない。 「そりゃ、そうだが……。結局は蓬莱と蜀の話だろう? 蒲公英の勝ちっていうのは……?」  杯を乾し、唇を湿らせてから一刀が問う。紫苑もまた酒杯を呷って、二人はお互いの杯を再び満たした。 「ですから、翠ちゃんが判断するというのが肝なんですの」 「ふむ……」 「最後の質問。あれこそが蒲公英ちゃんの狙い」 「最後……?」  一刀は首をひねる。最後といえば、最も情けない答えであると彼自身は考えていたからだ。  なにしろ国を治めるその保障として、実績でも理想でもなく、ただ己を信じてくれと言うしかなかったのだから。  しかし、紫苑は艶やかな笑みを浮かべ、彼の混乱を当たり前のように受け止めている。 「夫とするほど惚れた相手に『俺を信じろ』と言われて心を決めないような女ではありませんわよ、翠ちゃんは」 「い、いや、それと西涼全体とは……待てよ?」  そこで、彼は前夜のことを思い出した。そもそも、蒲公英は西涼のためには翠が早々に結論を出すのがいいという方針ではなかったか。  そして、いっそのこと、翠に対して『俺についてこい』と言ってしまえとけしかけていたのではなかったか。  一刀が議論の場で発した言葉は、蒲公英の思惑に実に近いところにはなかっただろうか?  男の顔に理解の色が広がっていくのを見て、紫苑はもう一杯杯を空ける。一刀がほとんど無意識のうちに酒を注ぐのを、彼女は楽しげに見つめていた。 「なんとなく……わからないではないが……。だけど、やっぱり、俺と翠の個人的関係は……。いや、だからこそ翠は慎重になるんじゃないだろうか?」  実のところ、この場にいる二人もまた夫婦なのだ。  しかし、一刀は一つの勢力の長であり、紫苑は別勢力の有力武将の一人である。二人の間に個人的な感情は当然にあるが、それでもお互いの立場を混同したりはしない。  ましてや翠は王である。  個人的感情を優先させるとは一刀にはどうしても考えられなかった。 「王というのは人ですもの」  しかし、紫苑は、彼の考え違いを正すかのように穏やかな調子で告げる。 「公正さや度量は求められますけれど、結局はその人物の判断こそが重視されるものですわ。個人的な好き嫌いすら、その中に含まれます。それが全てではありませんけれど」  ふふっ、と彼女は一刀に笑いかける。見る者がつられて笑みをもらさずにはいられないような魅力的な表情で。 「いえ、時に感情に任せて判断できる人というものだからこそ、人々は従うのです。怒りも悲しみもしない王に、命は預けられませんわ」 「それは……」  理解出来る、と一刀は頷く。  感情だけで動く人間を王と戴くのは不幸だが、といって、感情を全て殺した人間を王とするのは閉塞感を生むだろう。積極的に従う相手ではない。 「西涼の民は、錦馬超という人物に従っています。であるならば、その人物を動かすのが手っ取り早い。蒲公英ちゃんはそれを狙ったのでしょう」  曹魏の民が華琳に従うように、西涼の民は馬家の棟梁に従う。それは血筋だけではなく、五胡に対して戦い続けてきた翠のことを、蜀に移った後も涼州に戻ることを望んだ翠のことを、彼らが良く知っているからだ。  その判断ならば、西涼の騎馬軍団は間違いなく支持する。  へそ曲がりの韓遂という不安要素があるにはあったが。 「そんなわけで、わたくしたちは負けということで、さっさと退散しますわ」  そこでぐいと身を乗り出して、彼女は一刀との距離を一気に詰めた。 「ただし、今回は」  近くで聞こえる囁き声に、一刀は苦笑する。当然だとは思っても、これを契機に引いてくれはしないかと思う部分もあったのだろう。 「ところで、一つお訊ねしても?」  紫苑が体を戻し、しばらくの間二人で酒を酌み交わした後、彼女はそんな風に切り出した。それまでとは少々調子の違う、打ち解けた様子であった。つまりは、使者としての立場を外れた個人的な感心ということであろう。 「ああ、うん。答えられることなら」 「今日のことですが……。璃々からの書簡がなにか影響していたのではありませんこと?」 「……さすがに隠せないか」  しばし躊躇って、一刀はそんな風に言う。 「あんなに強い言葉を使うというのは、一刀さんにしては珍しいことですし」 「まあ……ね」  見破られた照れくささもあるのか、一刀は頭を掻きながら首肯した。 「ご迷惑をおかけして……」 「ああ、いやいや!」  頭を下げようとする紫苑に、一刀は慌てて声をかける。その勢いに、彼女の動きもぴたりと止まった。  中途半端な態勢のまま、彼女は一刀を上目遣いに見つめる。 「璃々ちゃんの言葉はとてもありがたかったし、考えさせられるものだったよ! だから、そんな紫苑が謝ったりするものじゃないし、ましてや、璃々ちゃんを叱ったりしたら駄目からね、絶対!」 「え、ええ……」  紫苑は体を戻し、自分の出した大声にびっくりしているような一刀の顔を見つめる。璃々を叱ろうとまでは考えていなかった紫苑だが、実際に一刀の論調を変えるような影響を直前に与えていたのであれば、何ごとか考えなければいけなかっただろう。  ただし、一刀の調子を見れば、璃々の書簡を迷惑がるどころか、感謝しているように思える。  彼女は複雑な感情を込めて、おずおずと問いを発した。 「なんと……?」  それは、明らかに、母としての問いであった。  蜀漢の使者どころか、桃香の部下としての立場すら関係のない。 「またみんなで遊ぼうって」  一刀ははにかみながら、そう答える。酒杯を片手で振り、酒をゆったりと鳴らしながら、彼は実に嬉しそうに、そう漏らした。 「みんなで……」 「ああ」  一刀は破顔する。一人の男の顔で。  あるいはそれは、父親としての顔であったのかもしれない。 「そのみんなの中に……。その、阿喜たち……子供たちだけじゃなくて……」 「だけではなく?」  そうして、大国の帝は告白する。まるで親友が誘いに来たときに子供が浮かべるような笑顔で。 「俺の名前も入っていたのさ」      (玄朝秘史 第四部第二十回『一念通天』終/第四部第二十一回に続く)