玄朝秘史  第四部第十九回『雲蒸竜変』  1.早朝  澄んだ朝の光が窓から指す時間。目をこすりこすり金城の城内を歩く小柄な人影があった。  幅の広い帯を背中側で大きな蝶のように結び、歩く度にそれがふわふわと揺れる。全体的にもひらひらとした印象を与える可愛らしい服を彼女は身につけている。それは北郷一刀がこの世界に持ち込んだものの一つで、『めいど服』と呼ばれるものだ。  『めいど服』には幾種類かあって、それぞれに細かな意匠や全体の構成が異なっている。  雪蓮や冥琳、思春が着たものはすらっと落ち着いた雰囲気の黒系統のもので、細部に美しい刺繍や縁取りがなされていても、一見しては目立たないように配慮されたものであった。  稟が着たものは彼女にあわせて青の色合いで、あえて飾りを排し、侍女としての役割をひきたたせたものであった。  そして、いま歩く娘が着ているふりふりとした白基調のものは、動きやすさよりも、それを着る者の可憐さを引き出すことを主眼に置いているようにすら思える。  この系統のものを着るのは三人。蜀で身を隠していた折から纏っていた月と詠、そして、つい最近加わったのがいまここにいる音々音である。  彼女が金城に着いたのは、昨夜遅くのことだ。  そもそも、公になっていた一刀の長安視察に同道したのは月、音々音、霞、華雄、恋の五人。そのうち月と華雄を長安に残し、密かに一刀たちは金城に馬を走らせることとなったわけだが、結局は霞と一刀が先行、残された随行部隊の大半は恋と音々音が率いることとなった。その中で本隊を恋が引き連れ、後から音々音が疲弊した馬や兵を回収するという形をとったために彼女の到着は遅くなったのである。  そんな状況でも朝からめいど業を果たそうとするのは、彼女の責任感が故か、あるいは詠や月から重々言い聞かされているためか。 「んー、話によるとこのあたりのはずなのですが……」  ねねは慣れない場所のため、扉や曲がり角にあたる度に辺りを見回し、確認しながら進んでいく。そうして一刀の部屋までもう少しというところで、彼女は耳慣れた声を聞いた。 「ほら、さっさと歩け。蒲公英」 「うー。眠いってばお姉様。それに起き抜けは一刀兄様といちゃいちゃしようと思ってたのにー」 「そんなことしてるといつまで経っても寝床から出られないだろ。あたしたちもそうだけど、一刀殿にも準備の時間をあげないと。遊ぶのはまた今度にしておけ」 「むーっ!」  どうやら角を曲がった向こうで言い合っているらしい従姉妹の声に、ねねはとてとてと足を速める。 「おはようですよ、二人とも」 「お、おはよう」 「おはよー! もう着いてたんだね」  気配は察していたのだろうが、実際に声をかけられると翠のほうは視線をそらしてどぎまぎと応じ、蒲公英のほうは屈託なく笑って手を振った。 「ええ、まあ。夜のうちに」  『夜』という部分を強調した言い方に翠の視線の動きが激しくなる。彼女は誤魔化すように早口で問いかけた。 「ちょ、長安のほうは大丈夫なのか?」 「月と華雄が残っていますからね。そもそも今回あいつが長安まで出張ったのは、ここに来るためもありますが董家のためが主ですし、それが済んでいるのですから、後のことは些事です」  その言葉に翠はようやく落ち着いたようで、なにか思い出したような表情で頷く。 「ああ、そのことは一刀殿にも聞いてた」 「えー? なになにー?」  一方、蒲公英は初耳なのか、興味深げに身を乗り出してくる。ねねは小さく肩をすくめて答えた。 「月のご両親を長安に住まわせるために招いたのですよ。だから、まあ、いまは親子水入らずというわけで」 「へー。元の土地には戻らないんだね」  月は元来、東部涼州の地方領主である。反董卓連合に敗れたことで当人は死を偽装して身を隠し、本拠地に残っていた親族の大半は難を逃れるため、辺境に忍んだ。  反董卓連合を主導した袁家も没落し、月たちも蜀から出たことで、故郷に戻った面々もあったが、やはり災難を恐れて避難場所から出てこなかった者たちもいる。月の両親がそうであった。  だが、いまや月はその名を復し、皇妃として生きている。親兄弟が元の土地に戻るのになんの差し障りもないはずであった。  だが、そんな蒲公英の予想はねねのなんだか困ったような苦笑で否定される。 「一応は外戚ってことになりますからね。色々と配慮しないといけないのですよ」  いかに家督を譲って隠居した人物とはいえ、元来の根拠地に外戚の肩書きを伴って帰還すれば、その周辺の力関係は変化せざるを得ない。当人たちがそうと望まなくとも、その立場を利用しようとする人間が現れないとも限らないからだ。  それらの弊害を予想し、月自身の進言もあって、両親は元の土地に戻すのではなく長安に邸を与えて静かに暮らせるように取りはからったのであった。 「まあ、涼州もこれからだからな……。なるべくごたごたは少なめにって月や詠、一刀殿の配慮だよ」  翠は申し訳なさそうに言って肩をすくめる。月にしてもこれまで苦労してきた両親を故郷に戻してやりたいだろうにという同情がその表情に表れていた。だが、いかに東部涼州のこととはいえ、西涼の支配域にまで影響が出ないとも限らない。一刀たちのやりようもわかる翠であった。 「余生を悠々自適で暮らせるのですから、まあ、よいのではないですかね」 「そこはな」  なだめるようにねねが言うのに、翠が小さく頷く。二人の顔を見比べていた蒲公英が大仰に腕を組んだ。 「たいへんだねー、いろいろと。他になにか問題ありそうな親戚とかいる人はいないのかな?」 「そうですね。ある程度地力もある人間というと……せいぜい華琳の父親くらいですか。ただ、これは魏国時代に大人しくしていましたからね、今更です。他はもう亡くなっているか、いまの世代で成り上がってますから」  代々力持つ家といえば、やはりまず挙がるのは袁家であろう。だが、袁家は麗羽、美羽の世代となっていて、前世代の影響力はない。  英傑と呼ばれるにふさわしい人物である馬騰、孫堅は既に亡く、ある意味で化け物と言える老獪な政治家、曹騰もとうに鬼籍に入っており、その養子である曹嵩は隠居して久しい。  縁戚に警戒すべき人間は少ない。実際の所、これは一刀にとって幸運なことであった。  ただし、裏を返せば、妻たちが累代の力や地盤などもともとなくとも国を動かせるだけの実力者となれる大器揃いであるということでもあるのだが。 「ともあれ、その辺りはひとまず今回でおさまるはずですよ。あとは、夫婦喧嘩くらいですか」 「夫婦喧嘩って……ああ、うん、そうも言えるけどねー……」  ねねの言葉に翠は思わず苦笑いし、蒲公英も疲れたように応じる。現在の政治情勢を一言で説明できる表現ではあるが、そう要約してしまうのもなにか違うような気がした。  そんな二人には構わず、ねねは彼女たちが出てきた扉の方を見やる。 「渦中の夫殿は、ここに?」 「あ、うん」  その台詞に、再び翠がそわそわしはじめる。その様子に忍び笑いを漏らす蒲公英。 「じゃ、じゃあ、あたしたちは行くから。うん。あとはよろしくな?」  最後に一つ手をあげて、大股で歩き始める翠。その後を、蒲公英がいししと笑いながら続く。だが、ねねは彼女たちを呼び止めた。 「待つですよ」 「な、なんだ?」 「鍵を下さい」 「あ、ああ。ええと、蒲公英渡してやってくれ」 「はいはい。じゃあ、一刀兄様によろしくね。あ、待ってよー」  ひょいっと戻って来た蒲公英がねねの広げた掌の上に鍵を落とす。そうして、さっさと立ち去ろうとする翠を追いかけて、彼女もまた消えた。 「やれやれ」  この城の主であるはずの二人がそそくさと退散するのを見届けて、めいど姿の音々音はそう嘆息するのであった。  2.奉仕 「さて……と」  音々音は一刀の部屋に入ると腰に手を当て、胸を張るようにして何ごとか考え始めた。毎日習慣的に行っていることもあってめいどとしてやってきたものの、食事の用意はもちろん、掃除などもこの城の人間がやるだろう。あまり部外者が勝手をするべきものではない。ねねは月と共に一刀の身の回りの世話をするようになり、特にそういう風に感じるようになっていた。  実際、彼女も月も、そして、詠も一刀の身近にいる時に他の者が勝手に一刀の部屋を掃除したり食事を持ってきたりしたら、なにか自分のやるべきことを奪われたような気分になるだろう。あえて滞在先の人間の領分を侵すべきではない。  そうなると、残るは毎朝しているように一刀のその日の予定を確認したり、その時点で抱えている問題について軽く議論を交わしたり……といった秘書としての業務なのだが、それとて一刀が起きてからの話だ。  普段は細々としたことをしているうちに一刀が目を醒ますのだが、今日は彼の注意を惹く食事を持ってきているわけでもない。起こしにいかねば起きないだろう。 「むむー……」  そんなうなり声をあげて、彼女は躊躇う。  金城にやってくるために馬を操るだけでもそれなりの体力を使うのに、一刀は到着後に紫苑や翠たちを相手にせねばならなかったはずだ。精神的な疲労も蓄積していることだろう。  そのあたりを勘案して、自然と起きるまで寝かせてやろうか、と考えたのだ。  だが、すぐに彼女は意地の悪い笑みを浮かべる。 「ふん。二人を相手にする元気があれば問題ないですね」  翠と蒲公英が朝早くにこの部屋から出て行った意味くらいはねねにもわかる。だが、そのことがかえって彼の元気を取り戻しているのではないかと彼女は考えるのだ。なにしろ、閨の中は彼の独擅場。女を抱けば抱くほど力を増すのが性欲魔神の性というものだろう。  そんなわけで己の中の葛藤に決着をつけた彼女は、いそいそと寝室に向かった。歩く度にふりふりと可愛らしく帯を揺らめかせながら。  そして、ある光景を目にして憤然と鼻を鳴らすのであった。 「……やっぱり。このちん皇帝め」  寝台の脇でそんな風に顔を赤くして呟くのには理由がある。  彼女の目の前では夫でもある北郷一刀が実に気持ちよさそうに寝息を立てている。だが、彼は昨晩、翠と蒲公英を相手に汗を流したまま眠った。つまりは裸身なのである。  体のほとんどには掛け布がかかっているのだが、翠たちが出て行ったためなのか、あるいは彼自身の寝相のせいか、片足が丸々布の外に出てしまっている。  そして、その付け根には、掛け布を大きく持ち上げているものがある。  隆々と立ち上がった男の肉棒だ。 「めいっぱい抱いた後でしょうに、満足するということを知らないのですかね、この男は」  ぶつぶつと文句を言うねねであるが、その視線は一刀の股間から外れない。  男性の生理として朝に勃起状態となることは知識としても、めいどとしての経験からも知っているものの、やはりその張り詰めた肉の塊を見る度に顔を赤らめ、固まってしまうねねなのである。  毒づいているのは、そうすればなんとか行動を起こせると、自分でわかっているからに他ならない。  そして、同時にそれを見る度に、彼女はなんとも説明できぬものが体の中を駆け巡るのを知っている。自分をえぐるそれの記憶、圧倒的なその偉容。それが引き起こすのは、彼女の肢体に刻み込まれたものだ。それは、常に信じられないほどの快楽と共にあったことを、音々音の頭も、そして、体も理解している。  だからこそ、掠れた吐息のような声を、彼女は絞り出す。 「め、めいどの務めを果たしますかね。う、うん。これは……その、めいどとしての務め……そ、そう、義務なのですよ!」  誰が聞いているわけでもない、誰が弁明を求めているわけでもない状況で、彼女はそんなことを低く囁きながら、ふらふらと寝台に近づき、這い上がる。  掛け布の間に半ば体をもぐりこませながら、彼女は男の脚と脚の間を這い進み、両足の間に体を落ち着ける。その視線は相変わらず男のものに釘付けだ。 「えっと……」  ぴくぴくと蠢く赤黒い肉の棒。それに彼女が指を伸ばし、わずかに触れた途端、大きく跳ねた。思わず腕を引き、男の顔を見直す音々音。  だが、彼はいまだ夢の国にいるようで、規則正しい寝息をたてている。これまでの経験から、狸寝入りでないことは判断できた。  ごくりと唾を飲み込み、ねねは再び指を伸ばす。彼女の指が絡んだ途端、また大きく跳ねたが、今度はそれが自分の小さな掌から飛び出ないよう気をつけて包み込む。熱い彼の熱を感じながら、もう片方の手も伸ばし、両側から押し包むように、男のものを掴んだ。  そこで彼女は長い長い息を吐く。それは興奮からのものではない。薄く目を細めた彼女の意識が集中し、それまで見えていなかったものを映し出す。  彼女の視界を黄金の光が満たした。よくよく観察すれば、その光の奔流は、彼女の握るものから吹き出している。その根源を探ってみれば、彼の体の奥底。下腹のあたり……へその下に行き当たる。  それこそが丹田であり、彼女が見ているものこそ氣の流れである。大きく吹き出しているように見える氣の光は実際にはすぐに彼の体に還流している。各所からあふれ出しつつ、全体では大きな巡廻路を作り出し、巡り巡っているのだ。 「さすがですね」  ほうと息を吐き、意識を切り替えた途端、光は消える。恋ほどの達人になるとなにも意識を向けずとも氣を感じ取れるらしいが、音々音の場合、感じ取り続けるには極度の集中を要する。  そして、これこそが彼女なりの一刀の健康確認法なのだ。  氣の流れに変化がなければ問題ないと判断できるというわけなのだが、わざわざ逸物を握ってからする必要はもちろんない。  あくまで先程言った様に『めいどの務め』を果たし続けているという方便に過ぎないのだろう。  その証拠に、氣を確認した後の彼女はさらに積極的に動き始めていた。ゆっくりと手を上下させ、いきりたつものをこすりあげ、怒張のさらなる硬化を招く。その間、もじもじと体を動かしながら、口の中に唾を溜め続ける。  口中一杯に唾が溜まったところで彼のものの上に顔を持っていく。わずかに開いた口から垂れゆく唾。先走りと混じったそれによって滑りの良くなった竿を、彼女は無心でこすり上げる。  それは彼女にとってはかなり速い動きであったのだろうが、なにしろ小さな体の小さな手である。一刀の陽根に快楽を送り込むにはちょうどいい動きであった。 「ん……んぅ……」  男の喉から、うめきのような喘ぎのようなものが漏れる。顔を上げて眠りから覚めていないのを確認し、音々音は改めて口を開いた。  既に開いただけで溢れるだけの唾は出ていってしまっている。彼女の唾液と男自身の分泌した液でぐちゃぐちゃになっているそれを、彼女は一気にくわえ込んだ。 「うぅっ」  ぐじゅぐじゅと泡立てられた唾の中に突き入れられ、そして、彼女の熱い口内を感じ取り、男が呻く。おそらくは、房事の最中の夢でも見ているのだろう。彼の頬に喜悦の笑みが浮かんでいた。 「むう……。これは翠や蒲公英の味ですかね」  彼のものの表面を流れる液をじゅるじゅるとすすっていた音々音が不機嫌そうに顔をしかめ、口を離す。思わず握っている手に力がこもったのか、男が快楽と苦痛のまざった唸りを上げた。 「まったく……!」  不機嫌顔のまま、しかし、彼女は再びそれに挑みかかる。今度はくわえるのではなく、呑み込もうとするかのように口を大きく広げる。じわじわと彼女の口に侵入する男根。それは、ついに喉に行き当たる。えぐ、とえづきあげながらも音々音はそれを吐き出そうとしない。  亀頭が喉をこする強い刺激、口内の肉に締め付けられるかり首、頬の肉で吸われる竿。それらがもたらす快楽は、一刀を眠りから醒まさずにはいられない。 「ねね……ね?」  唐突に覚醒させられた意識の中、なんとか身を起こしかけ、彼は彼女の姿を認める。かわいらしいめいど服に身を包み、一心不乱に彼に奉仕するその姿を。  そして、その光景がもたらす征服感は、物理的な刺激と相まって、彼の脳髄を強く刺激する。 「ん、じゅっ、んんっ、んんんんっ!」  懸命に彼のものを吸っていたねねが、びっくりしたように声をあげる。それは、一刀の陽根が大きく跳ね上がると共に熱い精を放ったためであった。 「けほっ! かふっ」  突然の射精に、彼女は咳き込み、身を退く。まだまだ吐き出され続ける精液が、彼女の顔にびしゃりと広がった。 「ううう……」 「ごめん! 大丈夫か?」 「だ、大丈夫ですよ! 当たり前ですよ!」  口内に残ったものを一気に飲み干し、身を屈めてくる一刀に精一杯の笑顔を向ける。男の精に汚された顔は、涙と唾液にもまみれていたが、実に晴れやかな笑みを浮かべていた。 「そうだな。ありがとうな、うん」  そんな顔を向けられては、それ以上なにも言えない。一刀は彼女を気遣う代わりに礼を言うと、その小さな頭をゆっくり、優しくなで始めた。 「うみゅうぅ、そんなに頭を撫でるなです……」  そう言いながらも、彼女はもっともっととねだるように、彼がなでやすい位置に頭を突き出すのだった。  3.討議  扉が小さく音を立てたのは、閨での一戦――当然のように一刀が精を吐き出すだけでは終わるわけもなく、音々音も存分に可愛がられる結果となった――の後、二人で食事を摂り終えゆっくりとしている頃であった。 「おや。事前になにかあるのですか?」  現れたのは紫苑。彼女を見上げ、めいど姿の音々音は首を傾げた。既に情交の雰囲気はぬぐい去られている。可憐なその姿に、紫苑は微笑まずにはいられなかった。 「いえ。そうではないわ」  ともあれ招き入れられて、紫苑は一刀の前に至る。彼はちょうど卓の上から朝食を片付けたところだった。  薦められた椅子に座り、紫苑はしばし躊躇った後、なんだか申し訳なさそうに口を開いた。 「ええと、実はいまは蜀漢の使者としてでもなく、桃香様に仕える武将としてでもなく、一人の母親として来たんです」  その言葉に彼女の横に座っていたねねが椅子から飛び降り、とてとてと歩き出す。 「では、ねねは席を外しますよ」 「ごめんなさいね。すぐ終わるから」  空いた食器を持って部屋を出る音々音の姿を見送って、二人は改めて向き直る。一刀は困ったように微笑んでいる彼女に首を傾げて訊ねかけた。 「母親って?」 「璃々からですわ」  紫苑が取り出したのは、一通の書状であった。丁寧に畳まれ、絹に包まれたそれを彼女は一刀に手渡す。 「璃々ちゃんから? 俺に?」 「ええ。なにやら伝えたいと。ただ……実はわたくしにも内容を教えてくれないんですのよ。字を書いたのも、世話をしてくれている女官の一人でして」  紫苑は娘の行動を成長の証と見ているのだろう。その様子は誇らしげでもあり、少々寂しげでもあった。だが、もちろん、だからといって一刀に宛てられた秘密の書簡を、彼女はのぞき見たりしない。  男がそれを広げ、読み進める様子を、紫苑はにこにこと眺めていた。 「……これは、俺に、というより阿喜たちと俺に、だな」 「ああ。自分より幼い子にはあまり会わないもので、本当に可愛く思っているようですわ」 「うん……」  得心したような紫苑の明るい声に対して、一刀の声は複雑な色を帯びる。その真剣な様子に内心訝しんでいた紫苑に対して、彼は顔を上げて告げた。 「これ、ちょっとよく読ませてもらって良いかな」 「ええ、もちろんですわ」 「返事はまた後で」 「はい。では……」  そう言って立ち上がり、部屋から出て行く紫苑。彼女がふと振り返ったとき、一刀の視線は既に璃々からの書簡に落ち、その真剣きわまりない横顔に、紫苑はうれしさと共に、なにか不思議なものを感じるのであった。  その日の昼食後、蜀漢、蓬莱の代表は翠と蒲公英の前に集った。だが、この時、一刀は霞や恋はもちろん、あえて音々音まで退けて、一人でやってきている。  それは一人だけの紫苑に対して慮った故のことであったか、意思決定を担う帝としての立場を考えてのことであったか、紫苑も翠たちもよくわからなかった。  いずれにせよ、両国の対決は、まずは紫苑と一刀という二者の対峙によって始まることとなる。 「最初に二人に諒承してもらいたいんだけど、あたしは今回、口を出さないことにする」  円卓についた翠は、右手に座る一刀と左手に座る紫苑に向けてそう告げた。彼女の正面には蒲公英が座っている。 「その……あたしは頭もそんなに良くないし、弁がたつほうでもないから、黙って聞いて、しっかり考える方がいいんじゃないかって、うちの軍師殿とも相談して結論づけたんだ」  二人が軽く頷くのに、翠は唇を湿らせて続ける。 「その代わり、聞き役として、蒲公英が二人の間に入って質問したりする。あたしはなにか疑問が出たら、直に二人に訊く代わりに蒲公英に色々と指示を出させてもらうことになる。いいかな?」 「そのほうが翠ちゃんがいいっていうなら」 「了解」  紫苑と一刀がそれぞれに理解を示すと、翠は大きく頷き、そして、照れくさそうに笑って頭をかいた。 「それと、さっきも言ったとおり、頭がいいわけでもないから、出来る限り、わかりやすく……な?」 「ええ」 「うん」 「じゃあ、ここから先は蒲公英に任せた」  そう言って翠は腕を組み、唇を強く引き結んだ。一方、蒲公英は大きく手を振って笑みを浮かべる。 「はいはーい。任されちゃうよー。えっとね、たんぽぽも軍師の人から言われたんだけどー。どっちの国がどんな風な条件をうちに出すかってのは今回なしにしようって」 「ふむ」 「所領の安堵とか、交易の権利とか、色々と条件をつけようと思えばつけられるだろうけど、そういうのは後回しだって。それよりも、お姉様がどう考え、決断するか。それを考える材料を与えて欲しいんだ」  一刀と紫苑は視線を交わし、同意の仕草を示す。目の前で勧誘合戦を繰り広げるのはたしかに少々あさましい。そのようなことは合意が出来てから詰めればいい話だ。 「だから、えっと……」  蒲公英は手元の竹簡――おそらくは徐庶の助言が書き留められているのだろう――を見直してから、改めて二人に言った。 「両国が、この大陸をどうしたいか、どういう風にしていくつもりか。それを話して欲しいんだ」  蒲公英の言葉は穏やかなものであるが、瞳に輝く光は実に真摯だ。口を真一文字に引き結んだ翠と共に、熱っぽい視線を感じながら、一刀と紫苑の両者は大きく頷く。  そうして、討論が始まった。 「ごく単純に申し上げれば、我が国が望んでいるのは平穏です」  まず立ち上がったのは紫苑であった。一刀は彼女に先を譲り、その言葉をじっと聞いている。 「かつての黄巾の乱より後、我々は幾多の血を流し、そして、三国による平和な統治の時代が訪れたはず。しかし、いまや蓬莱は……いえ、一刀さんはそれを覆そうとしている」  非難する一刀にぺこりと礼を示してから、彼女は鋭い声で言った。 「漢朝の帝を我々が漢中にお連れせねばならなかったのはなぜでしょう。一方的に漢を滅ぼし、蓬莱を建てようとする動きがあったからに他なりません。そうした行動は反発を招きます。わたくしたちだけではなく、漢に仕えていた人士が蜀漢へと続々やってきているのがその証左」  苦笑する男に小さく肩をすくめて、紫苑はぐるりと皆の顔を見回す。 「正直なところを言わせてもらえば、わたくしはじめ桃香様に付き従ってきた人間たちは、漢の滅びはいたしかたないと思っている部分もないではありません。でも、一刀さんたちとは決定的に違うところがある」  そこで一度言葉を切り、彼女はゆっくりと言葉を押し出す。 「それは、わたくしたちは一刀さんのようにそれを急ぎすぎるつもりはないということ」  皆の意識に自分の言葉が染みいったのを確認するようにしばらく彼女は待ち、子らに諭す師のような口調になった。 「王朝を代替わりさせるならば、それにしかるべき時機というものがあります。また、準備も必要なもの。魏を引き継ぐだけならば、新王朝を開く意味はないのだから」  それは彼女の言うとおりであったろう。華琳はじめ一刀を帝に推した面々にしても、魏をそのまま一刀が引き継ぐことを望んでいるわけではない。  だが、実状はどうであろうか。  果たして、北郷一刀率いる蓬莱は、新たな国と言われるだけの独自性を有しているのだろうか。  建国直後の国にするには厳しい注文であるかも知れないが、事実、国を建てることを優先した以上、それを証明する責務は一刀たちの側にある。 「わたくしたちは、これまでの秩序を保つこと、そして、それを今後に引き継ぐことを目指します。変更が必要だというのならば、反発を受けることなく、ゆるやかに行うべきでしょう」  紫苑の言葉は穏やかで、けして感情的なものではないが故に、聞く者たちにとっては説得力のあるものであった。  一刀の国作りが、蜀漢のみならず、孫呉の反発を受けているのは事実だ。それを急ぎすぎであるという主張も――少なくともある面から見れば――正しいものであった。  果たして、誰からも反発を受けずに物事を進められるのか、という疑問は抱かされるものではあったけれど。  しかし、そのような細かい部分は、この議論では必要とされない。  民を安んじ、国を確固としたものとするためにはなによりも乱に疲れた人々を癒やす時間と平穏が必要であるという主張こそ肝要であったのだから。 「一刀さんの理想を漏れ聞くに、わたくしたちの主張は狭い世界のものと思われるかもしれません。西方にも北方にも大陸は続いている。いえ、南方にも。いずれにも我々とは考え方の異なる民がいて、それらと衝突することもあるだろうと」  大まかな話を聞いた後で、蒲公英は紫苑に三国の平和だけを目指すのかと訊ねた。  外には鮮卑をはじめとした五胡がおり、さらに向こうには客胡たちが存在する。あるいは、恒常的に異民族と接してきた翠や蒲公英たちですら知らない民や国もはるか彼方には存在するだろう。それらに対してはどうするのか、という回答がこれであった。  長城を築いて引きこもる、とはさすがに紫苑は主張しない。実際に北伐が行われ、東北方面では烏桓の取り込みが行われるなど、物事は動いている。かつてのように長城を築いてそれで知らぬふりをするわけにもいくまい。 「それでも、わたくしたちは南蛮を仲間としました。たしかに手段としては征服であったかもしれませんが、仲間となることは出来ました。まずはそれを確実にするのが先決でしょう。南蛮や烏桓の人たちまでを我々の知る『大陸』とし、徐々にそれを広げて行けばよろしいことですわ。なにも先走ることはありません」  そこで改めて紫苑は語る。 「わたくしたちに必要なのは穏やかな時間ですわ。外に向かうにせよ、内を充実させるにせよ、まずは力を蓄え……いえ、力を蓄えるための民と富を育成するのが先決。たとえば一刀さんや華琳さんの下で一丸となるにせよ、それを成し遂げるまでの時間をしっかりと考えるべきです」  漢朝に従わせるという形式論を述べることなく、紫苑は蜀の理想を語る。  この時、彼女は蜀漢の使者ではなく、あくまでも桃香の使者として振る舞っていることに、翠はようやくに気がついた。 「一刀さんが間違っているとは言いませんが、極端な部分があるのも事実。このまま任せておくわけにはいかないので、一度冷静になっていただきたいというのが我が方からの主張ですわね」  冗談めかして、しかし、おそらくは本気の忠告を与えるように夫に向けて告げ、紫苑はその主張を終えた。  彼女は確かめるように小首をかしげ、その豊かな胸を揺らす。 「直接、涼州に関わる事を語ったわけではないけれど、これでよろしかったかしら?」 「うん。参考になったよね、お姉様?」 「ああ」  蒲公英が明るく言い、翠が重々しく頷くのに、実に艶やかな仕草で、安心したように手を胸に当てる紫苑であった。  4.宣言  紫苑が一礼して席に着くと、入れ替わるように一刀が立ち上がる。彼は落ち着かなげにかつかつと音を鳴らして円卓の周囲を巡り、それを追って、三人の視線がぐるぐる回った。 「か、一刀兄様?」  目を回しそうになった蒲公英が声をかけると、はっと顔をあげる一刀。思考に沈んでいたらしい彼にもう一度蒲公英が声をかけようとしたところで、男は口を開いた。 「俺がどうするか」  とん、と彼は卓に指をつく。拳から一本突き立てた人差し指で、卓を叩く。 「これまで俺は色々とそれを美辞麗句で飾ってきた気がするけれど、今日ははっきりと言わせてもらうことにする」  彼は一つ息を吸い、 「俺は、この星を獲る」  それは、ある意味で既に成された宣言だ。星という言葉は使わずとも、大陸を獲るという宣言は既にしている。それは人が知る限りの世界を征服するということだ。  つまりは、あまねく天下を。  だが、それに続く言葉は、これまでたしかに幾重にも慎重な言葉に包んで伝えてきたことだ。 「戦をする。西へ、南へ、北へ向かう。そして、いずれは海を越えて東にも向かう」  鉄錆びのような気配を含んだ声。それは、かつて彼女たちが聞いたことがないほどの苦悩と覚悟にまみれていた。 「民を殺すだろう。異郷の民を殺し、そのためにこの土地の民を駆り立ててて殺すだろう」  とん、ともう一度彼は卓を叩いた。 「一人殺したならば、それを恨む者が出る。親、兄弟、親族、恋人、友人。今度は彼らが殺しに来る。ならばどうするか。  一番いいのは、もちろん、殺さないことだ。殺さずに、平和を保つこと。これが最善。たしかに、その点では桃香たちに賛同する。でも、駄目なんだ。俺が始めるべきなんだ。この俺が」  自分が始めるべきだと、彼は言う。皆の意見を集め、ゆっくりと国をまとめるのではなく、自らの野望として、天下を一統するのだと。 「そして、一度始めたなら、 一人殺してしまったならば、どうすればよいか」  小さく、彼は肩をすくめる。 「それは、全てを殺すことだ」  しかたないとでも言うかのように。  だが、それはなんと残酷で重い言葉か。 「殺して殺して殺し尽くし、全てをあきらめた民を俺のものとする。そこで築く血みどろの平和こそが、俺の道となるだろう」  そは王道にあらず。  そは覇道にあらず。  北郷一刀の道は、魔道なり。      (玄朝秘史 第四部第十九回『雲蒸竜変』終/第四部第二十回に続く)