玄朝秘史  第四部第十八回『金城湯池』  1.悋気  金城は涼州最大の都市ではない――最も賑わう都市は州の名前そのもので呼ばれることさえある武威である――が、馬家の帰還とその後の西涼国成立により、都としての体裁を整えつつあった。  その象徴とも言えるのが城壁の拡張工事で、今後の都市の発展を予想してか、かなりの空間的余裕をとって行われている。これは、西方の長城建設が遅れている要因の一つでもあった。  そんな工事現場を眺められるなだらかな丘の上に、いくつかの天幕が広がる。西方からの商人たちが集う場所にはつきものの天幕であるが、それにしては華やかさが足りない。  長距離を移動する商人たちは、実に過ごしやすく、そして、美しい天幕を持参する。彼らにとってそれは自宅なのであるから、手入れするのも飾るのも当然であろう。  だが、そこにある天幕は、余計なものを排除した、実用本位の物だ。夜に体を休めるにはいいが、中で居心地良く過ごすことまでは考えられていない。  そんなものを使うのは、公的な組織――即ち軍である。  その一つから少し離れた所に座るのは、その部隊を指揮する女性。彼女は草の生い茂る地面にどっかと座り、大ぶりの杯を抱えるようにして持ち、手酌で酒を楽しんでいた。  酒をたしなむには少々早い時間であることなどまるで感じさせないほどいい飲みっぷりのその姿こそ、大陸が誇る騎将の一人、張文遠こと霞である。 「霞」  その彼女に近づく影が一つ。背後から聞こえた声に霞は背をのけぞらせて応じた。さかさまになった彼女の視界に、赤毛の友人とそれに連れられた一頭の馬の姿が入ってくる。 「おー、恋。お疲れー」 「ん」  霞の声に頷く恋の顔に、霞や一刀をはじめとする近しい人間にしかわからないほどわずかな笑みが乗る。だが、彼女が連れている乳色の牡馬のほうはいらだつようないななきをあげ、霞からも恋からも顔を背けるようにしていた。 「なんや黄龍、機嫌悪いな。なんか踏んだ?」 「ん……。ご主人様」  ふるふるを首を横に振って答える恋の言葉はあまりに簡潔で、その意味を捉えづらいほどだ。だが、霞には十分伝わったようで、彼女は皮肉っぽく唇を歪めると、一声あげて立ち上がり、改めて黄龍のほうに向かった。 「なんや拗ねとるんかいな。ったく、ちょっと急ぐのにうちと絶影使っただけやんか」  ぽんぽんと美しい毛並みの首筋を叩く。主人においていかれたと思っているらしい黄龍は霞の慰めにも抗議するように鼻を鳴らして見せたが、霞の手がその首筋をなでるうちにいななきは大人しいものに変わっていった。 「ほら、あっちに絶影もおるから、遊んでき」  霞に言われ、恋にも手綱を放されて、しかたないというように動き始める黄龍。だが、離れたところで草を食んでいた絶影に近づくに連れ、その足取りは軽やかになっていった。 「ったく」  楽しげに戯れる二頭の姿に苦笑する霞。  一刀一行はそれぞれの愛馬のみならず各地に配されている駅で替え馬を受け取りながらここまでやってきている。馬を潰さないためには当然の手配りだ。  霞の言葉通り最後は絶影に一刀と霞が乗って走ったわけだが、それは全体で見ればわずかな距離のこと。  それでもまるで一刀に見捨てられたかのようにいじける黄龍の姿を見るに、一人と一頭の絆の強さを思わずにはいられない霞であった。 「……ご主人様は?」  同じように二頭の姿を見ていた恋が、ふと問いかける。 「なんか紫苑と一緒におるらしけど。探す?」 「んー……。いい」  しばらく無言でいた恋はそう言ってふるふると頭を振る。 「そか」  座り直し、ちょいちょいと手招きする霞。彼女は恋が側に腰を下ろしたところで、懐からつまみを取り出して手渡した。乾燥棗や乾燥肉をもぐもぐと頬張る恋の姿を眺めながら、霞は酒杯を傾けるのを再開する。 「ま、恋もわかっとるやろけど、いま一刀の身の安全をいっちゃん考えなあかんのは紫苑やからな」 「……一番?」 「せや。いまこの金城で一刀になにかあってみ? 疑われるんは第一に紫苑、まあ、あとはちょい厳しいけど翠やな」 「……うん」  こくり、と頷く恋。 「どっちにしろ翠の顔は潰れるわな。そうなったら桃香んとこはどうあっても涼州の助力は望めんし、なにより一刀を傷つけたーって恨みを買う。不利になるばっかりや」  現時点で暗殺によって一刀が失われた場合、蓬莱は動揺はしても混乱するところまでいかないだろう。なぜなら、華琳がいるからだ。  これが十年後、十五年後といった子供たちが半端に育っている頃ならまた別かもしれない。諸勢力がそれぞれに後継者を担ぎ上げるために。  だが、現状では誰もが華琳を選ぶだろう。少なくとも一刀の弔い合戦を終え、いずれ本格的に後継を決めるまでは。  そうなると、一刀暗殺はかえって蓬莱をまとめあげ、依怙地にさせかねない。  まして西涼まで明確に敵に回してしまうようなことを、紫苑がするはずもなかった。だからこそ、当の紫苑が最も彼の安全に気を配ると霞は主張しているのだった。  だが、恋はふるふると首を振る。 「紫苑は……ご主人様を守る。それは霞の言うとおり」  恋は淡々と告げる。それでもその無表情の中にどこか満足げな色が窺えるのは、霞のつまみを平らげたからか、あるいは他の理由があるからか。 「でも、それは紫苑がご主人様のこと、好きだから」  その言葉を受ける霞は、一瞬呆気にとられたような表情を浮かべ、しかし、すぐに破顔する。 「ああ、せやな」 「……それに、ここは戦場じゃないから」 「……せやな」  付け加えられた言葉に返すのは、少々遅れた。  霞は杯を口元に寄せながら、恋から視線を外し、金城の町を見つめる。その瞳は実に鋭い光をたたえていた。  2.北賊 「全く、驚かされましたわ」  言いながら雑踏の中をすいすいと進んでいくのは、色の薄い髪をたおやかに揺らす紫苑。その横で彼女よりは苦労しつつ人をかきわけて進んでいるのは、その夫である一刀だ。  二人の側を通り過ぎる通行人たちは、まさか彼が蓬莱の帝であり、彼女が蜀漢の使者であるとは思いもしないことだろう。  いや、中には紫苑や一刀の顔を知っている人間もいるだろうが、そういった者たちはあえて彼らに近づこうとしないのだ。下手に耳をそばだてたりすれば、後でどんなことに巻きこまれるか、多少想像力のある者ならわかろうというものだ。 「はは」  だから、一刀は忙しそうに動き回る人々の合間を何食わぬ顔をして通り過ぎることができるのだし、紫苑も穏やかな笑みを浮かべ続けていられるのだ。 「蓬莱からも人が来るのは当然と思っていましたが、それが一刀さんで、しかもわたくしと直に顔を合わせることになるとは」  大げさに嘆息してみせる紫苑。それに対して一刀は宥めるように手を振って笑った。 「俺も紫苑が来ているとは知らなかったよ」 「あら、そうですの?」 「うん。この町に入るときに紫苑のとこの兵を霞が見つけてね。それでわかったけど、来るまでは知らなかった」  その言葉に、紫苑は眉を顰め、ついでおかしそうに笑みを浮かべた。蓬莱も蜀漢も翠に一杯食わされたことに気づいたのだ。  翠や蒲公英自身が当然だと考えているように、蜀漢にせよ蓬莱にせよ西涼を味方としておきたい。そう思わせるだけの力を、西涼騎馬軍団と馬家は擁している。そして、両国とも相手側が西涼を引き込もうとしていることを予測している。  それでも普通は極秘裏に話が進められるものである。  だが、両者が同時に呼ばれてしまえば、余計に相手を意識せざるを得ない。場合によっては西涼に提示する条件をさらに良いものに変えなければならない。なにしろ目の前に競争相手がいるのだから。  両者を焚きつけるにはぴったりのやり口であるといえよう。 「でも、翠ちゃんがそこまで悪辣なことを考えるかしら?」  思わずそんなことを口にして小首を傾げる紫苑。彼女の言いたいことは一刀にも理解出来た。なにも言わずに両者とも招き、競わせて好条件を引き出そうというのはわかる。だが、一刀が現れた折の翠の態度などからして、そこまでの意図があったようには思えないのだろう。 「最初は翠の思い付きだったようだけど、こういう風な趣向にしたのは元直さんだってさ」 「徐元直殿が……」 「翠は単に両方から申し出があるし、はっきり聞いておこうっていう感じだったんだろうけどね……」  一刀の口から出た名前に、紫苑は納得の表情を浮かべる。蜀を支える朱里、雛里と同門の徐庶ならば、この程度のことは仕掛けてくるだろうと。  だが、紫苑は小骨がひっかかったような顔つきになって声を落とした。 「そのことは、どうやって?」  西涼の軍師である徐庶が事に関わっているというのは予想できることだが、いま目の前の男は確信を持って言葉を発している。だが、金城に来るまでこのような事が起きるとは思っていなかったならば、いつの間にそれを探り当てたというのか。  一刀が現れて紫苑がひどく驚かされてからまだ半日も経っていないというのに。  あるいは西涼に入れている間諜と接触したとでもいうのだろうか。  彼女ははぐらかされるのも覚悟の上で、問いかけた。だが、男は特に動揺した風もなく答える。 「翠に訊いてみた」 「あ、ああ、そうですの……」  あまりにもあっさりと言う男に彼女は思わず額を手で押さえる。答えるほうも答える方だが、そもそもそんなことを訊くほうも訊くほうだ。  政治上の駆け引きは駆け引きとして触れないのが当然であろうに。  やはり、この人相手に普通の感覚で対するのは危ない、と思う紫苑であった。 「あら? でしたら、わたくしが……あるいは蜀の重鎮勢の誰かが来ると知らないうちから、一刀さんが直々に?」  彼女は気を取り直し、他に気にかかった事を訊いてみる。自分が来るとわかっているならば、帝自らが現れることで蜀漢に対して有利に立つという方策を採るのもわかるが、そういう事情を予測もしていないのに、わざわざ一刀が来るとは。  西涼を重視しているにしてもやりすぎな気がした。 「うん、まあ、長安の視察は予定にあったから」 「……それだけですかしら?」  歯切れの悪い一刀をからかうように問いかけてみる。動転させられたお返しに、これくらいはいいだろうという思いも彼女の中にはあった。  一刀はしばし躊躇い、人通りが少なめになったところで歩調を緩め、彼女の耳元に口を近づけた。  囁きを聞き逃さぬよう注意を寄せる紫苑の耳に、あまりに予想外な男の言葉が飛び込んでくる。 「だって、奥さんに会う機会は多いほうがいいだろ?」 「……はあ」  再び額を抑える紫苑。その様子に気づかず、一刀は拳を握って力説する。 「紫苑や桃香たちもそうだけど、翠や蒲公英も会いに来るのはなかなか大変そうなんだ。翠たちは洛陽や長安で会う機会もまだあるとは思うけど、でも、それでも、俺は……」 「ええ、まあ、よいことだと思いますわ」  あきれが声に出ていないだろうか、と紫苑は心配になりながら呟く。  妻の一人である紫苑としては男の態度は実に好もしいものだが、洛陽の官僚たちにとってはたまったものではないだろう。彼が留守の間に仕事を任されているであろう詠たちにしてみても。  とはいえ、こうは言っているものの、別に色欲だけで来ているわけでもないだろう。政治的な効果は間違いなくあるのだから。  いかに先代馬騰と親交があったり、翠を蜀に誘ったりと縁はあったにせよ紫苑は一武将。相手は国の頂点だ。  今回に限っていえば一歩先んじられた感はある。けして取り返せないほどではないにしても、してやられたのは事実だ。  そんな忸怩たる気分を、一刀の爽やかな声が吹き払う。 「紫苑にも会えてよかったよ。そのあたりは翠に感謝だな」 「あら」  まっすぐと見つめられてそう言われれば、気分を悪くするわけもない。彼女は悪戯っぽく微笑んで、彼に身を寄せた。 「そんなことでは懐柔されませんわよ?」 「はは、わかってるさ」  腕の間に手を差し入れてくる紫苑が腕を組みやすいように腕を持ち上げながら、一刀は笑う。二人はぴったり寄り添って歩き出した。  そう出来るのは先程までの人波がずいぶんとひいたからであり、それをもたらしたのは、空の青の濃さだ。しばらくすれば夕暮れの光が辺りを覆うであろう。 「しかし、変な気分だよな。一応は敵国同士の二人なわけだし」  澄んだ空に朱色が混じり始めるのを眺めながら、一刀はそんなことを言う。だが、紫苑はそれを聞いて、少し体を離した。 「あら、わたくしたちを敵国などと言ってしまってよろしいんですの?」 「え?」  いまだ腕をつかんだままながらわずかに体を引き、まじまじと彼の顔を見つめてくる彼女の態度に、一刀は背筋に冷たいものが走るのを感じた。  なにかひどくまずいことを言ってしまったのかと彼は恐れた。  紫苑はそんな彼に言い聞かせるように、静かに言葉を押し出す。 「かつて司馬遷は『史記』の中で匈奴を『敵国』と称しました。しかし、その匈奴は分裂し、漢の工作で隷属化されていきましたわよね? そうなった彼らを敵国と言えるものでしょうか」 「まあ、言えないよね」  匈奴が盛強であり、漢を凌いでいた時代は既に遥かに遠い。いまや彼らは漢土の内で細々と自治を許されているに過ぎない。形式的に王に封じられている状況ですらないのだ。  たしかにそんな状態の相手を敵国とは言わないだろう。だが、紫苑がなにを言いたいのか、一刀にはまだよくわかっていない。  彼女は囁くような声で続けた。 「敵国というのは、敵対する国、という意味だけではありません。元来は『匹敵する国』という意味ですのよ」  さらに言えば、唯一の天子が地上の全てを治めるという理念の下に作られた国で、敵国が認められるはずがない。それは存在してはいけないものなのだ。  匈奴は無視できぬほどの勢いを持ち、かつ、蛮夷の地にあったからこそ『匹敵する』と称された。  だが、漢土と認識される中にある国に、これは適用されない。たとえば蓬莱と蜀漢の間には。  そう紫苑は主張するのだった。 「じゃあ、その、なんて言うんだい? たとえば俺たちのことをそっちは?」  思いも寄らなかった指摘に目を白黒させながら、一刀は問い返す。紫苑は一つ小さく息を吸い、 「賊」  と一言告げた。  そして、教え諭すようにこう続けるのだった。 「北郷と北方をあわせて、北賊と」  3.覚悟 「たんぽぽとしては、もうお姉様にずばりと言って欲しいんだよね」 「え?」  紫苑との金城散策から戻ったその夜、一刀に割り当てられた一室には、蒲公英が訪れていた。彼女は部屋に招き入れられるなり、ぽんぽんと言葉を投げつける。 「『俺に味方しろ』って言っちゃえばいいってこと。一刀兄様から」 「いや、それは……」  いつもの意地悪い悪戯顔ではない。本気で苛ついているような表情に、一刀はたじろいだ。蒲公英はそんな男の様子にぷうと頬をふくらませた。 「勘違いしてる。『蓬莱』にじゃないよ。『一刀兄様』に味方しろって意味だよ」 「余計にだめだろ?」 「なんでー? もうめんどくさいんだよー!」 「それもわからないでもないけどな」  じたばたと手足を振り回す蒲公英に苦笑しながらも、一刀は一理あると思わざるを得ない。実際、翠が早く態度を決めた方が西涼にとってはいいのかもしれない。早い内から協力し、勝利に貢献すれば、蓬莱にしても蜀漢にしても恩義を感じ、後々の関係も良好になるだろう。  なによりついた側を負けさせないためにはそれなりの準備が必要となる。さっさと決まってしまえば戦の備えもそれだけしっかりと出来るというものだ。  さらに言えば、決まるまでに意見が分かれ、内部対立など生じたら禍根が残りかねない。仮に翠が決めても反対意見はあるかもしれないが、曖昧な状況でこじれていくより深刻ではないだろう。  さすがにもう面倒だから決めてしまえという表現は乱暴であるが。  ぶーぶー言いながら、蒲公英は一刀が薦めるままに椅子に座り、調子を変えた。 「実際、たんぽぽやお姉様だけじゃなくて、一刀兄様に恩義を感じている連中はそれなりにいるんだよ。北伐で涼州を取り戻せたから」 「でも、元はと言えば華琳が追い出したわけだし、恨みも買ってるだろ?」 「お姉様が乗り越えてるのに、他が納得してないと思う?」 「う、うーん」  肩をすくめて言われるのに、一刀も黙ってしまう。たしかに馬騰を殺す結果になった涼州侵攻を翠がもはや気にかけていないとしたら、他の者たちもそこまでひきずってはいないのだろう。  もちろん、華琳や一刀に積極的に協力したいという程でもないだろうが、わざわざ蜀漢に、と思う程度には打ち解けていると見てもいいのかも知れない。 「だいたい、うちの国って一刀兄様のところの属国じゃないの?」 「それは……そうだな」 「だったら、一刀兄様は命じる立場じゃないの?」  形式論から言えば、蒲公英の言は正しい。そもそも西涼は蓬莱の一部であり、魏はもちろん、仲や幽も同様である。  魏や仲に命じられるなら、西涼にも命じられるだろう、というのは論としては実に正しいのだ。  ただし、形式的に見れば、建国当初から蜀や呉の領土もまた蓬莱の一部であることを忘れてはならないが。 「そりゃそうだが、公的な立場からの要請と、俺に味方しろって翠に言うのはなんか違うだろう。それに……正直、辛いだろ?」  一刀の言葉に蒲公英は肩をすくめる。彼が懸念していることくらいは承知の上であった。 「そりゃ、たんぽぽだって桃香さまたちと敵対したいとは思わないけど、でもさ、ぐずぐずするのはもっとだめだと思うんだよね」 「いや、わかる。それはわかるが……」 「そうじゃなくて。桃香さまたちに失礼でしょ、ってこと」  内部的な問題だけではなく、外に向けて曖昧な態度をとることそのものが問題だ、と蒲公英は主張する。 「中途半端なことし続けるのはね、無理だと思う。それが外交なのかもしれないけど、たんぽぽやお姉様だよ?」 「む……」  一刀は腕を組み、椅子に深く座り直して考え込む。蒲公英の主張は間違っていないだけに、どう反応するべきか迷うものであった。  彼自身、翠たちには気持ちよく味方して欲しいところだが、建国してわずかしか経たない国の主として示せるものは実に少ない。  彼個人を信じろと言ってしまうほうが、この時点では正しいことなのかもしれないのだ。 「ねえ、一刀兄様」 「うん?……って、わっ!」  妙に近くから聞こえる声に、一刀は顔を上げる。いつの間に近づいていたのか、彼の顔の間近に蒲公英の胸があった。 「やんっ」  一刀の鼻先が胸の頂をかすめるのにそんなふざけた声をあげ、しかし、蒲公英は退かない。かえって身を屈め、彼を下から覗き込むようにして来た。  その距離が実に近い。額と額がこすりあわされそうなほどのその状況で彼女の香りを感じ、吐息を膚に受け、一刀はどぎまぎしてしまう。 「一刀兄様は天子様なんでしょ?」 「ま、まあ、うん」  蒲公英の大きな瞳に見つめられ、一刀は狼狽した声をあげる。それは彼女が間近にいるからか、あるいはその内容が為であったか。  だが、その次の言葉で、彼の体は凍りついた。 「だったら、それなりの覚悟って必要だと思う」 「蒲公英……」  男のかすれた声に、彼女は困ったように眉間に皺を寄せ、一言一言押し出すように囁いた。 「お姉様の好きにしろって言うのはわかる。一刀兄様だもん。でもね、だからこそ、言ってくれないと困る」  彼女の瞳が彼を見つめる。  一刀は視線を逸らすことも、喉から声を絞り出すことも出来ない。  そのあまりの真摯さが故に。 「一刀兄様が本当に何を望んでいるのか、言ってくれないと」  そこで彼女はにっと笑って見せた。 「それに、お姉様が言うこと聞くとはかぎらないよ?」  きゃらきゃらと華やかな笑い声をたてて彼女は身を起こし、一刀から離れる。ぱんぱんと手を叩き、愉快そうにくるくる回転しながら。 「ま、難しい話は終わり終わり」 「え?」  唐突に陽気な態度に変わった蒲公英についていけず、一刀は目を丸くする。 「そういうのは昼間にしっかりやってね。ね?」  扉の前でくるくる回り踊る蒲公英。それに応じて彼女の服が、片側でだけ結った髪が回る。 「夜は、楽しもう!」  目を回さないのか心配になるくらいの回転。それだけ回っているのに同じ場所からまるで動いていないのに、一刀は感心した。足で床を蹴って回転しているのだから少しは動いてしまいそうだが、まるで軸もぶれずその場だけで回転を続けている。 「ああ、そうだな」  蒲公英の見事な動きとその笑い声の陽気さに、ようやく一刀はそう言った。  彼女にもらった言葉は大事なもので、彼が考えなければならないことだが、この場で――蒲公英の前で答えを出すことではなく、これから彼女を含めた皆に示すべきものだ。  彼が承諾するのに、彼女はその笑みをさらに深くする。そうしてぴたっと止まった彼女は扉に手をかけた。 「蒲公英?」  当初、彼は彼女が反動でよろけて扉によりかかったのかと思った。立ち上がり、駆け寄ろうとしたのはそのためだ。 「じゃーん!」  だが、蒲公英は倒れ込むようなこともなく、明るい声をあげて扉を開く。その向こうを見た一刀は中腰の姿勢のままに固まった。 「翠!?」 「よ、よお」  そこにいたのはこの西涼の主、錦馬超こと翠その人であった。  4.寝物語 「ここからは政治の話はなしにしよ? そのためにお姉様には外で待っててもらったんだから」  おずおずと翠が部屋に入ってくると、蒲公英はにんまりと満足げな笑みを浮かべながら、一刀にそう提案した。 「あー、まあ、それはいいけど……」  蒲公英の意図は一刀にもよくわかった。翠と一刀が顔を合わせれば、当然今後の成り行きや大陸の情勢の話になりかねない。その前に蒲公英が成り代わって言うべき事を告げて切り上げ、後はただの男と女として対する時間を作ろうというのだろう。  その気遣いは非常にありがたく、嬉しいものであるが、改めてそんな風に時間を作られると気恥ずかしくなるのも事実だ。翠が照れているのか顔を真っ赤にしているせいでよけいに。  とはいえせっかくの配慮だ。それを生かさない手はない。酒を酌み交わそうと用意を始める翠と一刀であったが、 「そんなのまたできるよー! せっかくなんだからさ!」  とぐいぐい引っ張る蒲公英に押し切られ、早々に閨にもつれこんだ。 「なあ……」  ふんふふーんと鼻歌を歌いながら楽しそうに寝台を整えている蒲公英をよそに、一刀はもじもじしている翠に耳打ちした。当初は赤面しながら怒ったような顔で聞いていた翠であったが、男の言葉が進むにつれ、興味深そうな表情がそれに取って代わる。 「ま、まあ、せ、せ、せっかくだしな!」 「そうそう」  裏返った声で言う翠と楽しそうに頷く一刀を不思議そうに振り返る蒲公英。だが、彼女はすぐに妖しい笑みを浮かべると寝台を下りてとてとてと歩み寄ってきた。おそらく、これから繰り広げられる予定の営みについての話をしていると想像して混じりに来たのだろう。  彼女の想像はそれほど外れてはいなかった。  ただし、まさか自分がその話の中心になっているとは思っていなかっただけで。 「蒲公英?」  顔を赤らめながらも手招きする従姉に、蒲公英はさらに身を寄せる。その途端、翠はその体を一気に抱き寄せ、持ち上げた。 「ちょっ!」  いかに蒲公英が武人といえど、その武をたたき込んだのは翠である。彼女がどう暴れようとその腕から抜け出るのは難しい。ましてこれから一刀に抱かれるという気分でいた彼女が迅速に対応できるはずがない。 「なにするのお姉様?」  そう悲鳴のように訊く頃には既に彼女は翠にすっかり絡め取られている。 「ん、ちょっと蒲公英を可愛がってあげる前準備」 「恨むなよな」 「あれー、ここは、こう、一刀兄様と二人でお姉様をいじめようって流れ……じゃないのかな?」  一刀と翠にそう告げられ、蒲公英はなにかわざとらしい声でそう問いかける。だが、その問いは一刀の会心の笑みでばっさりと切り捨てられた。 「残念。今日は蒲公英をいじめる日だ」 「え、え? えー? で、でもでも、ほら、たんぽぽよりお姉様のほうが反応がいい……やっ、ぬ、脱がすの!?」  翠は彼女を抱えたまま、器用にその服をはぎ取り始める。蒲公英は慌てて抜け出ようとするが、従姉を傷つけるわけにもいかず、一刀も目の前で見ているしでまるで力が入らない。 「そりゃ、脱がないとだめだろ?」 「そりゃ、そうだけど、そうだけど!」  そんな風に抗議する間にも蒲公英は剥かれていく。なぜだかやたらと翠の手際が良く、一刀は内心舌を巻いた。おそらくそう出来るのは蒲公英相手だけの話であろうが。 「それに、俺が脱がすことはあったろう? なにを狼狽えてるんだい?」 「だ、だって、脱がしてるの一刀兄様じゃないじゃん! お姉様だよ!」 「そうだな」 「わー、なんか恥ずかしい! なんで? なんで?」  もはやほとんど下着だけの姿になって、翠に抱え上げられている蒲公英。一刀に蒲公英の服を渡し、まだ逃れようとする蒲公英を抑えつけながら、ふと翠はなにかを懐かしがるような表情を浮かべた。 「あー、思い出した。昔、こうやっておむつをさー」 「わー! わーーーっ!」  普段彼女にからかわれている時の翠よりも顔を真っ赤にして、蒲公英は翠の言葉をかき消そうと叫ぶ。  その様子は、これから始まる痴態をまさに象徴しているかのようであった。 「結局はのりのりだったな、蒲公英」  すーすーと寝息をたてて眠りこける蒲公英を挟んで寝転がりながら、一刀は翠にそう話しかける。 「ふふっ。でも、すごい恥ずかしがってたよ」  一刀が言うように最終的に蒲公英は積極的に楽しんでいたが、それは翠の膝の上で二人に見られながら何度も絶頂を迎え、羞恥の極みを味合わされた後のことだ。それまでは翠に責められるというとても考えられぬ状況に身動きもとれずただただ喘ぎをあげていたのだ。 「ところで、さ」 「ん?」 「せっかく蒲公英が気兼ねしないで過ごせる時間を作ってくれたのにこういうこと言うのはあれなんだけどさ」  しばし躊躇ってから、翠はそう切り出した。 「なんだい?」  相手が蒲公英とはいえ、閨で積極的に相手を責めるなど慣れぬ事をして疲れ切っているのだろう。翠は随分と眠そうなぼんやりした声である。  その様子に、明日の朝でもいいだろうに、と思いながらも一刀は耳を傾ける。あえていま告げるということは、そうしなければ、という思いがあるのだろうから。 「明日、あたしと蒲公英の前で、一刀殿と紫苑の二人で討論をしてもらえないかな」 「ほう?」  翠の提案に彼は眉をはねあげる。 「今日、二人それぞれに話を聞いたけど、やっぱりまだ足りない気がして。軍師殿に相談したら、目の前で意見を戦わせてもらえばいいって。紫苑も軍師殿相手に議論するくらいの用意はしているはずだって言ってた。朱里たちとね」 「ふむ。それはそうだろうね」 「一刀殿はもちろん出来るだろうし……ってことで。どうかな?」  しばらく考えて、一刀は頷く。たしかに徐庶が翠に言ったとおり、紫苑も使者としてやってくるからには桃香はもとより朱里や雛里の考えも十分に聞いて来ているはずだ。一刀のほうは意思決定を担う当人なのだから準備云々の話ではない。 「うん。そうだな。考えてみれば、俺から頼みたいくらいだ」  せっかく紫苑もいるのだ。翠たちも交えて議論を交わせるならその機会は逃したくない。 「そっか、よかった……」  それを告げて一安心したせいか、ますます翠の声は途切れ途切れの怪しいものになっていく。一刀は手を伸ばし彼女の髪をなでると優しく声をかけた。 「もう寝なよ」 「ん……わかった……」  もぞもぞと体を動かし、彼女は一刀の腕に頭を乗せる。ちょうどいいところに来るように彼も腕を動かしてやった。  そうして消え入るような声で、彼女は呟き、眠りへと落ちていくのだった。 「おやすみ、一刀さん……」  そう囁かれた男に戸惑うような嬉しいような不思議な感情を抱かせながら。      (玄朝秘史 第四部第十八回『金城湯池』終/第四部第十九回に続く)