『還って来た種馬』 その11  取り合う手と手     もしくは       お姉ちゃん'S 怒る。   この日、天気も良い郊外の街道を一刀達一行は農業関係の視察の為にとある邑を目指して進んでいた。蓮華等の他国の重要人物  も含まれている事もあり、魏だけでなく呉の軍も警備として同道している為にそれなりの人数の行軍となっている。行軍といえば  仰々しく聞えるが、同行している面々の顔ぶれからすると規模としてはかなり小さいとも言える。   しかし、間違っても彼等を襲撃しよう等と言う命知らずの愚か者はこの辺りには存在しない。なぜなら、その一行にはためく旗  を見れば一目瞭然であった。『魏』『呉』『蜀』の旗を筆頭に、『十』『孫』『甘』『関』そして『呂』の旗が立っていればそれ  に盾突こう等と言う気は毛頭起きないだろう。   しかし、その中で異形を放っているのは、美以達が乗っているガネーシャであった。城の文官や武官達そして各地に商売に赴く  商人達は実際に見た事が有る者や知識として知っている者も居るが、この辺りの郊外に住む者達は象を見た事の無い者が殆どであ  る為にその大きさや異形に驚愕の眼差しでそれを眺めていた。   邑への道程の最中にも一刀は穏や音々音の質問を受けていた。整然と区画された田畑やそれに付随している灌漑設備。それらは  まだ開発が始められて日も浅い事から全体から見れば極一部ではあるものの、今までの三国の農業から見れば異彩を放っている事  に間違いはなかった。特に風車や水車を用いた給水の施設は今後の農地の拡大に多いに役立つであろう事は穏達にも容易に理解出  来る。しかも風車や水車はそれらを動力源とした二次的な応用も可能である事も興味をそそられる一因であった。   道中暫くすると比較的小さな邑が見えてきた。しかし、その邑の雰囲気が普段のものとは違う事に一刀達が違和感を感じる。一  刀達一行が邑の側を通る為にバタバタしているのかとも一刀は思ったがどうやら違う様である。その差し迫った様なある種異様な  雰囲気は初めてこの邑を目にした愛紗達も何やら感じている様であった。   邑にかなり近付いた所で邑の入り口辺りに居た若者達に一刀が部下に声を掛けさせる。すると部下達と何やら話した邑の若者達  が一刀の方に近付いて来た。 「北郷様、この度のご視察ご苦労様で御座います。少々慌しくしておりますが、北郷様にご足労頂く事では……」 「いやそんな小事では無いでしょう……。何があったのです?」   一刀にそう言われた邑の若者達は顔を見合わせ渋い表情で言葉を返した。それを見ただけで邑で何事か有った事は容易に想像出  来る。 「はい、邑で怪我人が出ました。詳しい事は長の方から……。ですがこの様な所では何ですので先ずは皆様邑にお入り下さい」   そう言われ一刀達は邑の若者達に先導され邑に入って行く。邑に入った一刀達の第一印象は混乱していると言うものであった。  そして一刀は騒然としている邑の中央辺りに出来ている人だかりの中に見覚えのある顔を見つけた。 「華佗!」   一刀の呼び掛けに気付いた華佗が一刀達に近付いてきた。華佗の服や身体に血の痕が付いているのが一刀にも見て取れる。 「ああ、北郷!良い所に来た、城に使いを出そうと思っていたんだ」   馬を降りた一刀は先ず再会の握手を交わす。だが今はお互い笑顔で再会を喜ぶ前にこの騒然とした邑の訳を一刀は華佗に尋ねる。 「華佗、何があった?」   一刀の言葉を聞いた華佗の顔が険しいものに変わった。 「虎が出た……」 「虎?」   華佗の答えが意外であったのか思わず一刀は聞き返していた。一刀の感覚では大陸に虎が居る事は承知しているが、もっと南方  か或はもっと北方に居るものたど言う感覚が強い。 「ああ、虎だ。山に入った邑人が襲われたそうだ。山に入った七名の内三名が手傷を追いながらも邑に報せに戻って来た。一人は山  で犠牲に、後の三名は逃げる途中はぐれたそうだ。戻ってきた者も一人は先程……」   そう悔しげに握った拳を振るわせる華佗を労う様に一刀は肩に手を置いた。 「いや、華佗が居てくれたからこそ二人は助かったんだ。ありがとう華佗」   一刀の言葉にもただ首を横に振る華佗に、励ましの心算か一刀はポンと一回背中を叩くと人だかりに近付いて行く。 「邑長はおられるか?詳しい話が聞きたい」   そんな一刀の声に一人の初老の男性が慌てて建物から飛び出して来た。 「これは北郷様。お迎えにも参上せず失礼致しました」 「いや、時が時だ気になさるな。詳しい話をお願い出来るか?」 「承知しました。この様な所では何ですのであばら家では御座いますが此方に」   邑長に促された一刀達は一際大きな民家へと案内された。恐らくは邑長の家だろう。一刀は幕舎の設営と邑の周囲の警戒を部下  に命じて民家の中へと入って行った。   民家の中へと入って行った一刀達は直ぐに邑長に事情を聞き始めた。   邑長の話では、虎が出没したのは間違い無い様だ。数日前虎を見たと言う者が居たのだが、何かの見間違いであろうと高を括っ  ていたらしい。かなり以前には虎の話を聞いた事があるが、ここ数年は虎の事等聞いた事も見た事も無いと邑長は話していた。そ  して今朝山に獣用の罠を見に言った邑の者達が襲われたとの事であった。虎も手傷を負っているらしい。   一刀は邑長にこの近辺の地図を見せ虎を見た場所と今回襲われた場所の確認をすると、幕舎の設営をしている兵達の元に向かい  沙和や真桜を交え何やら話していた。そこに蓮華や愛紗達も集まってくる。 「一刀、話は聞いた。山狩りをするのか?」   蓮華の言葉に一刀は頷く。 「ああ、人を襲った虎をこのままにはしておけないし、何より山に残っている三人が心配だ」   一刀の言葉に一同が頷いた。 「ならば呉の兵も参加させよう。かまわねな、穏、思春」 「勿論ですぅ」 「はい」   穏と思春は同意の言葉を口にするとすぐさま呉の兵に指示を出し始める。 「北郷殿、我等もお手伝いを」   愛紗の言葉に一刀は頷く。 「お願い致します関羽殿。恋も頼むな」 「…………うん」 「兄!美以も手伝うニャ!」 「ああ、当てにしてるぞ美以。虎狩りと言えば象だもんな」 「おお!兄は何でも良く知っているのニャ!ガネーシャが居れば虎なんか怖くないニャ!」   美以の屈託の無い笑顔で場の雰囲気が幾分和む。そして矢継ぎ早に他の指示を出している一刀の元に思春が近付いてきた。 「北郷殿、山狩りは直ぐに?」 「いや、先程城に応援を頼みました。増援が追っ付け到着するでしょう。作戦はそれからになります」 「では先程の地図を今一度見せて頂きたい。時間が有るなら私と明命で物見に出てくる」 「それは有り難いが、くれぐれも無理だけはなさらぬ様」 「承知している」   一刀は広げた地図の上を指差しながら数日前に虎が目撃された場所、今回虎に遭遇した場所、虎に襲われた邑人が邑に戻った経  路、邑人がはぐれたであろう地点、そして邑長から聞いた地図には載っていない沢や尾根等の現地の情報を思春達に伝える。それ  を聞いた思春と明命は其々どの方向から山に入るか、落ち合う場所と時間、それに連れて行く部下の人数等を打ち合わせていく。 「シャムも行くにゃ!」   一刀や思春が話をしているところに、そうシャムが声を掛けてきた。それを聞いた思春が一刀の方に顔を向ければ、一刀はじっ  とシャムの顔を見ているのが目に入る。そして一刀はシャムの前で膝を付き、目線をシャムに合わせた。 「シャム、これは今までの様な周泰ちゃんとの鬼ごっことは違う。判っているな」   シャムは今まで見た事の無い一刀の真剣なそして怒っている様な顔を見て表情を変える。そしてシャム自身も今まで見せた事の  無い真剣な表情で一刀を見詰めながら返事を返す。 「うん」   一刀は自分を見詰めるシャムの真剣な眼差しを見て表情を崩す。 「判った。ならシャムは途中ではぐれた邑人を頼む」 「うん、判ったにゃ」   そして一刀はシャムに地図で邑人がはぐれた辺りを教え、一刀は再びシャムの顔を見る。 「シャム、もし虎を見つけても絶対自分で何とかしようって思っちゃダメだからな」 「うん」 「もし見つけたら俺に一番に言いに来るんだぞ」 「うん」 「なら頼む」   シャムは大きくそして力強く頷くと山に向かって走って行く。その姿が見えなくなるまで一刀はずっと見詰めていた。気が付け  ば思春が一刀の横に立っている。 「甘いな」 「自分でもそう思います」   そう自嘲ぎみの笑い顔の一刀を思春は顔を向ける事無く目線だけで見ている。 「もし、アレが怪我でもしたらどうする。アレはお前に褒められたいと言う一念だけで行動しているぞ」 「ですね……、だと思います。ですがその辺りはシャムを信用しています。それに……」 「それに?」 「あの子の実力は、周泰殿や彼女から話を聞いたり実際にシャムを見た甘興覇殿の方が良くご存知だと思いますが」   一刀の答えを聞いた思春は今までの硬い表情が柔らかいものへと変わっていた。 「確かに……、アレなら虎相手に大立ち回りとまではいかなくとも、遅れは取るまい」   そう言った思春は一刀の右手が忙しなく開いたり閉じたりしている事に気が付いた。それを見た思春は思わず呆れた様な顔付き  に変わる。 「やはりお前は甘いな……。だが私はそういうのは嫌いではない……」 「えっ?」   思春の言葉の後半がが上手く聞き取れなかった一刀が思春の顔を見詰める。一刀と眼が合った思春は小声で思わず呟いた言葉を  聞かれてしまったかと思い、少し照れたような顔を逸らしてしまった。 「何でもない」 「はぁ……、ですか」   そんな思春を一刀は不思議そうな顔で見詰めている。拗ねた様な思春の顔を見ている一刀の顔が柔らかいものへと変わっていく。  今の思春との微妙ではあるが思った以上に心地良い雰囲気も嫌いではないが、今は時が時なので一刀は表情を引き締め思春へと切  り出した。 「では甘興覇殿、手筈通りお願いします」 「思春でいい。……か……北郷」   そう一刀に顔を向ける事無く切り出した思春。一刀はそんな思春の顔をみて一呼吸置いてから口を開いた。 「なら頼む思春」 「承った」   そう言い残して思春は歩き始める。その表情はこれから虎相手に山狩りをするとは思えぬ、実に晴れ晴れとしたものであった。   そんな二人の会話を手を合わせ赤い惚けた顔で見ていた明命も先に行く思春に気が付き我に返る。そして一刀の前まで進むと口  を開いた。 「私の事は明命とお呼び下さい」   そう言った明命を見ている一刀の表情がほころぶ。 「ありがとう明命。明命も無理や無茶は駄目だよ」 「ハイ!一刀様!」   そう言って明命は思春の後を追いかける。それを見送った一刀は兵達に指示を出している蓮華や沙和達の居る方へ向かって行っ  た。   思春と明命そしてシャムと言うある意味情報収集にかけてはこの大陸の三強とも言える面々が動けば、現在の虎の潜伏地域やは  ぐれた三人の居場所や安否は程なく判明した。思春と明命からは、虎は足跡やその他の痕跡から判断するに未だ邑人と遭遇した辺  りから大して移動していないとの報告が、シャムからははぐれた邑人の正確な位置と三人の現在の容態が其々報告された。   一刀は先ず邑人の保護を優先し、それに合わせて兵の配置を変更そして兵を進めていった。そして邑人を確保する為に手勢と華  佗を送り込む。邑人はシャムの正確な報告通りの地点で無事保護と相成った。一人深手を負った者が居たが、華佗から命に別状は  無いとの報告を受け胸を撫で下ろす一刀であった。   邑人の保護が完了すれば残る問題は虎だけである。思春や明命は一刀達の居る本隊の正面に虎を誘導すべく包囲を縮めていった。   虎が何時現れてもいい様にと警戒している最中、恋が一刀の元に近付いて来る。 「……一刀、やっぱり虎を……」   恋は俯いたまま一刀にそう話し掛けて来た。言葉を最後まで言わず暈した恋であったが、一刀はその表情を見て恋が口にしなかっ  た言葉を容易に想像する事が出来る。その時一刀は趙子龍こと星が話した恋の人物評を思い出した。 「戦場では正に戦鬼のごとき呂奉先、飛将軍の二つ名は伊達ではござらん。されど一歩その場を離れると、ただの動物好きの心優し  き恋でござる」   星の言葉を思い出しながら、一刀は俯いたままの恋の頭を優しく撫ぜる。そしてゆっくりと口を開いた。 「恋。今回はただの人里に現れた虎とは違う」 「…………」   恋は俯いたまま一刀の話を聞いている。一刀の言葉に答えなかった恋ではあるが、一刀は今は話し続けた。 「ただ人里に現れた虎なら一寸怖い思いをしてもらって元の住処に戻してやればいいけど、今回は人を襲ってしまった。あの虎にとっ  てもう人間は獲物だと思っているかもしれない。……だから今回は見逃がせない、邑の人達が安心して暮らしたり山に入れなくな  るからね」 「……うん」   そう弱弱しく呟く様に恋は答えた。それを確認してから一刀は再び口を開いた。 「だから、もし恋がそれを見たく無いと思うなら後方に下がってもいい。だけど恋があの虎を可哀想だと思うなら……、一撃で……  一息に死なせてやって欲しい」   一刀の言葉に恋が一瞬身体を強張らせたのが恋の頭を撫ぜている一刀の腕から伝わった。 「……うん」   そう終始俯いたまま答えていた恋。そして恋はそのまま一刀の胸に頭を預けもたれ掛かる。一刀はそんな恋の背中をまるで子供  をあやす様にポンポンと叩いていた。 「……恋は下がらない」 「……うん、ごめんな恋」   一刀の答えを聞いて恋が頭を上げる。その顔は不思議そうに一刀を見詰めていた。 「……何で一刀が謝るの?これは恋が決めた事、一刀が謝る事はない。……きっとあの虎はもう恋達とは仲良くなれない、だけど放っ  て置くのもダメ。だったら恋が……」 「そうか……、ありがとう恋」 「……うん」   そして気丈にも一刀に笑顔を見せる恋。その笑顔の隅に寂しげなものを感じる一刀。   そして恋は虎が居るであろう山を暫く見詰めると、虎を誘き出す場所へとゆっくりと向かって行った。 「今回だけは勘弁してやるです」   声のした方に一刀が顔を向けると、そこには口を尖らせ不機嫌そうな音々音と困った様な笑顔を浮かべ会釈をする愛紗が居た。 「やぁ、ねね。手筈はどう?」   沈みがちな表情で話す一刀の言葉に、音々音は拗ねた様な顔から軍師の面持ちに変わる。 「さほどの時を置かずに予定の地点に誘導され目標は姿を現すのですよ。呉の兵達の中には今回の様な経験を積んでいる者も居るの  か手際が良いのです。魏の兵も良く訓練されてはいますが、今回の様な経験が無い分呉の兵が一枚上手と言うところなのです」 「そうか……、なら怪我人等が無く事が済みそうだな……」 「それについては問題無いかと思うですよ。皆程好い緊張感ですし、呉の甘興覇と周幼平二人の直接指導なのですから。今回犠牲に  為った邑人には悪いと思うですが、他国の兵があの二人の指導を直接受けられるなど滅多に無い良い経験と成る筈なのです」   音々音の話を聞いて納得した様な表情で頷く一刀。だが、表情が冴える事はない。そんな一刀を見た音々音は顔を顰め一刀の向  う脛に蹴りを入れた。 「痛!……何を……ねね?」   急に蹴りを入れられ、思わず蹴られた所を押さえながらしゃがみ込んだ一刀は音々音の顔を見る。そこには眉間に皺を寄せ怒り  顔の音々音の姿があった。 「お前がそんな顔をしていて如何するのですか!」   音々音にそう言われた一刀はじっと音々音の顔を見ていた。ふと見れば、音々音の向こうに居る愛紗も頷いている。音々音の心  遣いを感じ取った一刀は、一度眼を閉じてからゆっくりと立ち上がった。 「……そうだな。心配掛けたな、ねね」   そうして一刀は笑顔でポンと音々音の頭に手を乗せる。 「ああっ!もうっ!馴れ馴れしいのです!それに子ども扱いするななのです!……いいですか!シャキッとしてから来るのです。い  いですな!」   そう言い放って音々音は回れ右をして先に言ってしまう。その顔が赤くなっていたのは怒りからだろうか、それとも……。 「ねねにあんな心配をさせている様じゃダメだな……」   音々音の後姿を見ながら苦笑いで呟く一刀。そんな一刀に愛紗が口を開く。 「余り褒められたやり方ではありませんが、ねねの言い分が正しいですね……。ですが如何したのです?あんな顔をして」   愛紗の言葉に一刀は一つ息を吐いてから話し始めた。 「何だか恋を誘導した様な……、上手く丸め込んだ様な気がして……」 「北郷殿……、そんな事はありませんよ」   そんな苦笑いで話す一刀に愛紗は笑顔で答えた。愛紗は一刀が恋をただの戦力の一つとは考えていない事を嬉しく思う。 「恋はよく誤解されるのですが、ただ言われた事を何でも鵜呑みにしたり、言われた通り従う様な事は有りません。相手によって多  少の程度の違いは有るでしょうが、自分が納得出来なければ私やねねそして桃香さまの言う事でも簡単に首を縦に振ったりはしま  せん」 「そうか……」 「はい、今の行動は恋自身が納得してのものです。それを北郷殿が気に病む事はありません。ですからそんな顔をしないで下さい。  あなたがそんな顔をしていると下の者や周りの者達の士気に関わります」 「そうだな……、ねねの言う通りシャキッとしないと」   そう言って一刀は大きく息を吐いてから両手で自分の頬を叩く。そんな気合を入れ直し影の取れた一刀の横顔を見ながら愛紗は  何か決心したかの様に頷いた。 「では関雲長殿……」 「北郷殿……、わたしの事は愛紗とお呼び下さい」   一刀の言葉を遮る様に発せられた愛紗の言葉に思わず一刀は愛紗の方に顔を向けた。そこには頬を赤く染め直立不動で一刀を見  詰める愛紗が居た。   そんな愛紗に一刀は力強く頷いて口を開いた。 「では愛紗、予定の場所に向おう。そろそろのはずだ」 「はい!一刀殿!」   そして一刀は愛紗と一緒に予定の場所に向って行くのであった。   虎を誘き出す予定の場所では沙和の指揮の下既に兵の配置が終っていた。勿論そこには蓮華や穏や音々音、そして恋と愛紗を背  中に従えた様な形の一刀の姿もある。 「一刀様、間もなくです」   そんな明命の報告を聞いて頷いた一刀がおもむろに口を開いた。 「では恋、愛紗、頼む」 「……うん」 「拝命いたしました」   恋と愛紗はそう答えると二人歩を進めていく。   それを遠眼で見ていた真桜と沙和がぼそぼそと話し始めた。 「何や……、遂に陥落かいな。それにしても愛紗はん気合はいっとんなぁ」 「ホントなの〜。今の二人なら黄巾どころか五胡が束になっても負けそうに無いの〜」 「せやな。何かオチも見えたしウチ等は撤収の用意始めよか」 「了解なの〜」   真桜の言葉通り、予定の場所に誘き出された虎は恋の一刀の下に切り伏せられた。これで虎の一件は落着を見たのであった。   虎の一件の顛末を邑長に伝え、犠牲になった邑人の弔問を行う一刀。それに平行して本来の宿営地へと向かうべく沙和の指揮の  下撤収作業が手際良く行われていた。山狩りを終えた兵達の労いも兼ねて酒や料理を振舞う心算の一刀であったが、流石に虎の犠  牲になった者達の邑の側で騒ぐわけにはいかない。それを察した沙和や真桜により、呉や蜀の面々も目を見張る手際の良さで撤収  作業は進められ、一刀の弔問が終る頃には部隊の一部は本来の宿営地へと先発していた。宴の開始時間は少々遅くはなるが、翌日  は休日とし予定を一日ずらす事は蓮華や愛紗達にも了解を得た為問題は無い。怪我人の治療の為に邑に残る華佗と一刀は二言三言  言葉を交わした後、本来の宿営地へと向かって邑を離れるのであった。   本来の視察を行う邑の宿営地に到着した一刀達はその邑の長と数名の邑人に出迎えられていた。天の御遣いの一刀が視察に来る  と言うだけで大事であるのに、そこに呉の国主の妹孫仲謀や蜀の美髪公関雲長そして飛将軍呂奉先までが同道しているので、邑人  達は緊張の余りぎこちない程に畏まっていた。 「御遣い様、よく御出で下さいました」   そう言って礼を取る邑人達に一刀は言葉を返す。 「邑長殿、到着が予定より大幅に遅れたこと真に申し訳ない」   一刀のいきなりの謝罪の言葉に邑人達は畏れ入る。この辺りの支配が魏に変わってからはかなり改善されているが、以前なら城  の役人だけではなく領主の予定が公な理由だけでは無く私事の都合でコロコロと変わる事等当たり前であった。来ると言っていた  領主が二三日待った挙句結局来ない等と言う事もザラである。そしてその事の理由の説明やましてや謝罪等有りはしない。それが  当たり前だと思っている邑人達にしてみれば、やむを得ない事情で到着が遅れそれに付いて頭を下げる一刀を見た邑の者達は益々  畏れ入った。   そんな一刀に邑長は深々と礼を取った後口を開いた。 「御遣い様どうか頭をお挙げ下さい。遅れたと言われてもたかが半日程度、しかも聞けば虎が出たとか。虎が出た場所は当方の邑に  も程近く、もし其の侭なら我々も安心してなどはおられませんでした。それをこの様に手早く退治して頂き此方としては御礼申し  上げる事があっても、何ら不満になど思う事がありましょうか」   そう言って再び深々と礼を取る邑長。そんな邑長に合わせて邑の者達も頭を下げている。 「そう言ってもらえると此方も有り難い。それと予定が丸一日繰り下がる事に成るのだがよろしいか?」 「はい、それは先に到着された兵の方に御聞きしております。勿論それで結構で御座います。それと今宵は兵の方々の慰撫の為に宴  を模様されると聞き及び、此方でも瑣末ながら獣の肉と酒を御用意させて頂きました。なにとぞご笑納下されば幸いに存じます」 「重ね重ねの配慮痛み入ります」 「もったいない御言葉で御座います。ではこれにて失礼をばいたします」   そう言って邑長は何やら邑の者達に指図をした後、もう一度一刀に礼を取ってから邑の方に引き揚げて行く。それを見送った一  刀は宿営地の設営を指示している真桜達の下に向かう。この後宴を模様す事を聞き及んでいる兵達は疲れた顔一つ見せず手際良く  宿営地の設営を行っていた。   相変わらずの本当に短い一刀の挨拶の後、兵達の慰労の宴が始まる。邑長の言葉とは裏腹にかなりの量の肉と酒が用意されてい  た事に驚く一刀であったが、今回は邑長の好意に甘える事にした。   尤も、邑にしてみれば魏の行っている政策や税制の改革そして真桜の絡繰等で以前に比べると随分暮らしが向上し生活に余裕が  出てきているのも事実である。しかも視察に訪れているのが下っ端役人などではなく天の御遣いこと北郷一刀なのだから、邑長と  してもけちな事は出来ないしする気も無い。今日までの事や今後の事を考えても、これらを振舞う事を惜しい等とは到底考えては  いなかった。   一刀は兵達の間を今日の事で労いの声を掛けながら回っているとある事に気付く。今までは魏の兵と呉の兵で別々に固まってい  たのだが、今は良い感じに交じり合っている。今日の山狩りを通じてお互い連帯感の様なものが生まれたのかもしれないと一刀は  思う。大戦が終わって早三年。今迄とは違った人同士の付き合いが生まれる事にある種の感慨を覚える一刀であった。   暫くの間は兵達の労いも兼ねて一緒に飲み食いをしていた一刀。余り気兼ねする事無く一刀と話をする魏の兵達に比べ始めは距  離を置いていた呉の兵達であったが、酒の力も加わってか次第に呉の兵達とも一刀は打ち解けていた。始めは恐る恐る話し掛けて  いた呉の兵達も一刀の天の国の話や魏の将軍達の裏話などで今は多いに盛り上がっている。すると今度は呉の兵士達も自分達の話  を積極的に話す様になったのだが、最近現れた江夏の華蝶仮面やその時同時に現れた化物に話が及んだ時は流石に一刀も渋い顔を  していた。   そんな雰囲気が伝播したのか、側で真桜の絡繰簡易講座等も開かれている。軍師でなくてもそう言った物に興味が有る者は居る  様で、既に多少酒が回っているのか真桜の少々大袈裟な身振り手振りを交えながらの話に皆耳を傾けていた。   こうした一刀達との語らいが後日呉の軍内部や上層部での一刀に対する肯定的な意見形成に繋がる事に成るのだが、この時はそ  の様な事は露程も考えていない一刀達であった。   兵達との歓談を一段落させた一刀は愛紗や蓮華が居る所へと戻って来た。蓮華や思春達も兵達に労いの言葉を掛けに赴いていた  為、武将の面々が皆揃ったのはつい先程の事であった。   勿論そんな事はお構い無しに振舞われている料理に舌鼓を打っている面々も居たのだが、その筆頭が今日の功労者の一人である  恋なのだからいたし方の無い事である。そんな恋も現れた一刀に気が付くと一旦食べる手を止め、こっちに来いと手招きをしてい  る。そしてここに座れと言わんばかりに自分の隣に場所を設ける。促されるままに一刀がその場所に座ると恋も満足したのか再び  食べる手を動かし始めていた。   余談ではあるが、この宿営地に一刀達が到着した直後にちょっとした騒動が起きていた。それは一刀達の旗の場所についての事  であった。   正式の場合は別にして、今回の様な時は一刀の旗の両脇を囲むように三羽烏の旗が立てられている事が多いのだが、気が付けば  一刀の旗が恋の真紅の呂旗の横に立てられていた。当初は『魏』『呉』『蜀』と陣営別に立てられていた筈なのだが、何時の間に  かそうなっていたのである。宿営の最中に一度旗の場所を移動させた為にそうなったのではと思った真桜により元の順に戻されて  いたのだが、気が付けば再び一刀の旗は恋の旗の横に立っていた。   怪訝な面持ちで再び元の位置に直す真桜であったが、暫くすると又恋の旗の横に一刀の旗が立っている。それが直せど直せどそ  の後も二度三度と続いていた。そんなイタチごっこに遂に切れた真桜が「誰やねんっ!勝手に動かしとんのは!」と大声を宿営地  に響かせていた。   そして何度も直せど旗を動かされる為、頭に来た真桜によりくじで選ばれた魏の兵が旗の警備をされられたいた。これから宴会  が始まる矢先の正に言葉通りの貧乏くじであった。   結局犯人は見つけられるには至らなかったが、食べ物が宴の場に運ばれ始めると不思議な事にそれはピタリと止んだと言う事を  申し添えておく。   宴もそろそろお開きと言う雰囲気になった頃、一刀は思春に話し掛けていた。 「思春、今いいかな?」 「ああ」   思春は先日までとは違い身構える事もましてや表情を変える事無く一刀に答える。 「江賊の事で聞きたい事が……」 「ふむ……、まぁ座れ。今のままでは人目に付く」   そう思春に促され一刀は思春から近過ぎず、かと言って遠過ぎない位置に腰を下ろす。そんな一刀を思春は眼で追いながら、魏  から江賊対策について呉に話が来ていた事を思い出していた。 「洛陽から江賊対策についての話が来ているのは自分も聞いている。……で、魏としては……いや、北郷は如何したいんだ?」   思春の言葉に一刀は思春の顔を真っ直ぐ見ながら口を開いた。 「俺はこの際彼等を取り込みたいと思っている。全てをと言うのは無理だろうけれど、探りを入れた感触では話が出来そうな連中も  居る。それに今から魏の水軍を鍛える様では本格的に取り締まれる様に成るのには時間が掛りすぎる。例え鍛えられたとしても相  手になるかどうかも未知数だし……。何しろ彼等とは年季が違う」   最期は自分の話しに呆れている様な苦笑いで話す一刀に思春は言葉を返す。 「それはそうだ。我等呉の水軍を持ってしても江賊の被害を全て無くする事は出来ない。普段は真っ当な水運業を営んでいる連中も  居れば、義賊を語って江賊相手にしか仕事をしない様な連中も居る。中には我等と一戦交える事を生甲斐にしている様な厄介な連  中も居るしな。それに我々の眼の届かない所では奴等が秩序の維持の一役を担っている事も有る……。我々が出来るのは、大多数  の船の往来の安全を担保すると言う事か……、全てではないのが悔しいがな」   そう言うと思春は手元にあった杯の中の酒を一気に煽った。今までと違いやけに饒舌な思春を見ながら、これは真名も預けられ  思春との距離が近付いた結果なのかそれともただ単に酒の所為なのか判断に苦しんでいる一刀であるが、思春とまともに顔を合わ  せそして話をしたのはここ襄陽からである為、付き合いが短過ぎる一刀にとってこれを判断するのはどだい無理な話であった。そ  の為、今は聞き役に徹している一刀である。 「私は北郷の言う江賊を取り込むと言うやり方は悪い方法ではないと思う。短時間で水軍の錬度を上げる事にもなるし、何よりきち  んとした身分が与えられ人の役に立つとなれば、江賊になる可能性の有る連中を軍に引き込める事にもなる。それが将来の江賊の  数を増やさない事にもなる。それは今後に結果として必ず現れるだろう……」   思春の熱い語りは続いていく。だが思春が一方的に話しているのだけではなく、一刀が話し易い様に持っていっているのも一因  である。要所要所で思春の話に相槌をしたり、途中新たな疑問を追加したり等で気分良く思春が話しやすい様に誘導していた。し  かもこれを微塵の悪意も無く一刀が無意識に行っているのも厄介な事実である。一刀としては元江賊である思春の経験や意見が聞  きたいと言う一心であり他意は無い。   一方の思春も不思議な心持で話をしていた。普段の思春ならこの様な一方的に話をする事等は蓮華相手にすら行う事は稀である。  明命や部下相手に長時間説教する事は有っても、自分の信条や経験を素直に口に出している自分が不思議であった。しかもそれを  不快に等とは感じていない。 「……まぁ、江賊と言うのは軍と良く似た縦社会でもある。序列に拘る所もあるが、ただ打ちのめせばいいと言うものでもない。面  子を重視もする。難しいのはその頃合だな」 「なる程……、参考になったよ思春。ありがとう」   思春の話が一段落した時、一刀が笑顔でそう口にした。それを聞いた思春は急に我に返ったのか顔を逸らせてしまう。そんな思  春に声を掛けようとした一刀に声を掛ける者が居た。 「あら?一刀に思春、見えないと思ったらこんな所に居たの?」   それは蓮華であった。誰が見ても酔っていると容易に見て取れる。ただし、顔は赤いが足元が覚束ないと言う程では無い。そし  て左手は明命の腕を掴んでいた。泥酔しているとまではいかないが、酒自体はかなり回っており普段より気が大きくそして陽気に  なっている様に見受けられる。悪い酔い方ではないと一刀は思ったが、孫呉の姫としては十分醜態を晒しているとも言える。 「蓮華殿、その様に歩き回ると……」   後を追いかけて来た愛紗に蓮華は手のひらをひらひらと動かし何やら合図の様な事をしている。大丈夫だとの意味合いではない  かと想像できるが、何しろ酔っ払いのする事であるから愛紗は信用等していない。 「折角明命の話を一刀にしようと思っていたのに……」   そう拗ねた様な口調で話しながら蓮華は一刀のすぐ隣に腰を下ろす。そして一刀の肩に頭を預ける様にもたれ掛かった。 「蓮華さまかなりお飲みに……」   そう言って思春は蓮華に腕を掴まれたままの明命を睨みつける。明命は蓮華に腕を掴まれたまま何とか顔の前で手を合わせると  何度も頭を下げていた。一瞬で普段の思春に戻った事に一刀は感心している。 「酔ってなんか無いわよぉ〜」   そして蓮華は酔っ払いの定番の返事をする。そして上目使いに思春を見詰める蓮華。 「そう言えば思春……、何時の間に一刀に真名を許したの〜?それに〜何だか二人で……二人だけで話をしてたみたいだけど、何の  話をしてたの〜?」 「蓮華さま……、幕舎に戻りましょう。お送りしますので」   そう言った思春が立ち上がろうとした時、蓮華は予想外の行動に出る。 「いや!今夜はここで寝る」   そう言うと蓮華は一刀の太ももを枕代わりにして寝転んでしまう。俗に言う膝枕の状態である。しかも一刀の上着の裾を握って  いると言うおまけ付であった。   いきなりの展開に面食らったのは一刀であり、そして手の持って行き場を探して困っていると思春と眼が合った。その眼は「不  埒な事は考えるなよ」と雄弁に物語っている。   そんな眼を見た一刀は思わず両の手を高々と上げ、万歳の格好のまま小刻みに頷いていた。   そのまま本当に眠ってしまった蓮華を幕舎に運ぼうとする思春であったが、蓮華は一刀の上着の裾を離そうとしない。「では自  分が」と愛紗が持ち上げ様としても同様であり、「う〜んっ」と蓮華は明らかに不機嫌な否定の声を上げる。起こしては可哀想だ  と思春の許可を取り、思春と愛紗の監視の下で一刀が蓮華を抱きかかえ幕舎へと運んでいく。今迄とは打って変わって素直に抱き  上げられる蓮華。そしてそんな二人を思春と愛紗がジトっとした眼差しで見詰めている。そしてこのまま今宵の宴はお開きとなっ  た。   蓮華が一刀に抱えられ幕舎に運ばれている姿を見ていた愛紗がぽつりと呟いた。 「蓮華殿が……」 「ん?」 「いや、蓮華殿が酔いが回っているとは言え、あの様に人に甘える姿を見たのは初めてだと思ってな」   愛紗の言葉を聞いた思春は一度蓮華の方に視線を戻し、そちらの方を向いたまま少し間を空けてから口を開いた。 「……確かに。雪蓮さまや小蓮さまが側に居られるなら有り得る事かもしれんが、お二人が居られぬ所でしかもそれを我等に見せる  のは……稀だな」   そう話す思春の顔は穏やかなものであり、それを見た愛紗も穏やかな顔になる。そして前を歩く一刀達に視線を移した。 「やはり一刀殿は人を引き付ける何かが有るのだろうな。だが、酒の勢いが有るとしても、あの様に素直に甘えられるのは……羨ま  しいかな」   側に居るのが思春だけだと言う安心感からか思わず本音を口にした愛紗に思春が言葉を返す。思春ならこんな事を他の者に漏ら  したりしないと言う信頼感の様なものが愛紗にはあるようだ。 「何だ、天下の関雲長も酔っているのか?本音が漏れているぞ」 「かもしれん。蓮華殿を見ていたら素直にそう思った」   あっさりと思春の言葉を認めた愛紗に思春は少々拍子抜けしていた。そして前を歩く二人を眩しそうに見ている愛紗を見ながら、  思春は己の中にも愛紗と同じ様な気持ちがある事に気付く。だがそれを思春が口に出す事はない。ただ思春は満足気な顔で一刀の  腕の中で眠っている蓮華を見ながら一つ小さく息を吐く。確かに思春は一刀には何かしらの力と言うか魅力の様なものが有ると感  じる。一刀に見詰められ続けていたのも思春が一人内心舞い上がりながら熱く語った事の一因だろう。色々な意味で厄介な男だと  思う思春であった。   翌朝目が覚めた蓮華は自分の上に一刀の上着が掛けてある事に仰天する。思わず自分の下着を確認した後、一刀の上着を抱き締  めながら安堵とも落胆とも区別の付かない溜息を一つ落としていた蓮華であった。          〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜   邑の視察は予定通り淡々と進んでいた。穏や音々音の質問攻めについては一刀も想定内であった為に今更怯みはしない。それよ  りも毎晩宴会が続く事が悩みの種であった。   それは一刀達が視察に訪れている事を聞きつけた近隣の邑々の者達が毎晩の様に食べ物や酒を競う様に差し入れるのが原因であ  る。しかもそれ等は賄賂的な物では無く、一刀達に対しての純粋に好意であるので断りにくい。   これ等が自分達が行った政策に対する成果の表れだと思えば悪い気はしない一刀であった。だが恋や美以達そして兵達等のそれ  を喜んでいる面々の顔を見るのは嬉しいが、流石に毎晩ともなると流石に対処に苦慮する一刀。   しかし、そんな一刀の思いをよそにそれは視察の最終日まで続くのであった。   この視察中の困った出来事の一つに朝目が覚めた時、美以やシャム以外に恋が一刀の寝台で眠っている事が多々あった事である。  美以達については蜀でもよくあった事なのか特に何も無かったのだが、それが恋となれば話は別であった。朝も早くから陳宮キッ  クをお見舞いされ、愛紗や蓮華そして思春からは身も凍る様な視線で見詰められる。  「言ってくれれば何時でも添い寝ぐらいするのに」と真桜や沙和にこれ見よがしに言われるものの、かえってそれが蓮華達の何か  しらに火に油を注ぐ結果になっていた。何故か明命からは羨望の眼差しで見られていたのだが、今はそれが慰めにはならない。   ちゃんと自分の寝台で寝る様に恋に言って聞かせるものの、その折見せる恋のシュンとした表情にいたたまれなくなりこれ以上  強くは言えない一刀であった。   視察が一段落したある晩、一刀の幕舎に穏が訪れていた。何時もの追加の質問かと思った一刀であったが、今回は世間話が主で  ある。しかし、穏の話す話題にはこれと言った一貫性が無い。友人同士の雑談に近くそれはそれで一刀としては楽しかったのだが、  何やら穏がそわそわしている風が一刀には感じられ違和感があった。   そうこう話している内に一刀はある事を思い出しそれを切り出した。 「そう言えば陸遜さん、襄陽に置いていた本はどうでした?向こうの世界の孫子は一部が散逸しているので全てでは……」   そう切り出した一刀に穏が反応した。 「そうです。これは素晴しいものです!」   今までの雑談とは打って変わって、穏のほわんとした雰囲気が一変した。そして何処に隠していたのか襄陽の城の客間に置いて  いた本を穏が手に持っている。   これについては何時も一刀は不思議に思うのだが、彼女達は一体何処に隠しているのだろうと思う。華琳や春蘭達もそうなのだ  が、確かに今まで手ぶらだったはずなのに何時の間にか自分の得物を手にしている。穏の本ぐらいならば着物の袂に入れておくの  も可能だろうけれども、華琳の絶や春蘭の七星餓狼は絶対に無理があると思う。此方の世界の不思議の一つであった。   話を戻せば、本を手にしている穏の雰囲気が今迄とは明らかに違っている事に一刀は気付く。 「確かにこの孫子には全てが書かれてはいません。ですがそれを差し引いてもここに書かれている量の孫子がこんな大きさや薄さに  なる事は重大な事なのです」 「はっ、はい……」   穏の迫力に押され気味の一刀はとりあえず相槌を打っていた。 「この寸法なら何時でも何処へでも孫子を持ち運べしかも読むことが出来ます」 「ですね……」 「しかもこれに書かれている文字はこんなに小さいのにはっきりと読む事が出来ます。そして特筆すべきはこの孫子に使われている  紙です。この白さ、肌触り、そして紙の強さ……。この様な紙を穏は産まれて初めて眼にしました」 「でしょうね……」 「そして一番重要な事はこの本に書かれている孫子の注釈です。穏や華琳さんとは違う思考や思想によって書かれた注釈は注目すべ  き重要な点です。穏達の解釈とほぼ変わらない箇所もここは間違っていると思う箇所も有りますが、穏達とは全く違う視点で書か  れた箇所も多く見受けられます。時代や立場が違うとこれほどに解釈が変わるというのを思い知らされました。これは素晴しい経  験です!」   そう話す穏は顔こそ一刀に向いているが、その瞳は上手く焦点が有っている様には一刀には見えない。そして熱く語りながらも  時より上擦った様な語尾になったり、話す穏の表情は頬を赤く上気させている。   それらは真剣さ以上に色っぽい艶かしさを一刀に感じさせていた。 「北郷さん!お願いが有ります」 「はい!」   穏の再び急に変わった口調につられる様に一刀も声が大きくなった。 「宜しければこの本を穏に譲って頂けませんか?」 「いや、それは……」 「勿論、ただで譲って頂く心算はありません。それ相応の対価を望まれるならご用意いたします。金銭でしたら穏の全財産をお渡し  しても構いません。もしそれでも足りなければ雪蓮さまや冥琳さまに無心してでもお払いします」 「じゃなくて……」 「もっ……、もし金銭や物ではなく……他のもの……もしも女性をお希望でしたら……、この穏を……」   差し向かいに座って話をしていた穏がそう言いながら一刀ににじり寄っていく。 「りっ陸遜さん……、何を?」   後ずさりしながら穏から距離を取ろうとしていた一刀であったが、一気に穏に距離を詰められ今は穏の吐息を直に感じられる程  の位置に穏の顔が近付いていた。 「何でしたら手付け代わりに穏を所望されますぅ?」 「はっ?」 「孫子の事を考えたら……、もう我慢できなくて……。今までは天の知識の吸収に気が向いていたのか何とか抑える事が出来ていた  んですけどぉ……、今はそれも一段落したのでぇ……」 「いやいやいや……」   そう言った穏の瞳がとろんとしたものに変化した瞬間、一刀は穏に唇を奪われる。そのまま穏は一刀の首に手を回し頭を固定す  ると一刀と濃厚な口付けを交わし始めていた。すると程無く穏が一刀の口内に舌をねじ込んでくる。それを一刀が受け入れると穏  の眼は一度大きく見開かれ、その瞳には喜色と共に妖艶な色が浮かび上がる。そしてそれは次第に焦点の合っていない虚ろなもの  へと変わっていった。それが合図となったのか、幕舎の外にまで聞えるのではないかと思われるほどの淫猥な音を立てながら一層  熱い口付けが続いていく。   始めは穏が持っていた主導権も、既にそれは穏から一刀にへと移っていた。今は一刀の腕が穏の身体と首を支えており、しっか  りと穏を抱き絞めている様な形になっている。一刀の首に回していた穏の腕は一度解けかけたのだが、穏は力が抜けかけているの  か何度か空をかいた両腕は今は必死に一刀の身体にしがみ付いていた。   暫く続いた口付けを堪能したのかそれとも息が続かなくなったのか穏は唇を一刀から離す。唇を離した後も穏の熱く潤んだ瞳は  一刀を見詰め続けていた。 「あはぁ……、やっぱり百戦錬磨の方の口付けは凄いですぅ……。穏、口付けだけでいっちゃいましたぁ……」 「陸遜さん……」 「ああん……、穏と呼んで下さい」   そう言った穏が服の胸の部分をはだけ、その豊かで形の良い乳房を露出させた。その瞬間「麗羽よりも大きい?」等と考えた一  刀であるが、一刀の性格かはたまた男の性かそれを眼にした一刀は思わず穏の胸に釘付けになる。それを見た穏は妖艶な笑みを浮  かべると一刀の左手を掴みそのまま自分の乳房に押し付ける。 「穏はもう我慢の限界です……。最後までお願いしますぅ……」 「のっ穏……」   噂とは違いどこか煮え切らない一刀に痺れを切らしたのか穏は一刀の左手を自分の乳房に押し付けたまま空いている一刀の右手  を手に取る。一刀が煮え切らないのはそれなりの理由が有ったのだが……。 「穏は男の方とのこんな事は初めてなんですけどぉ……、初めては一刀さんがいいかなぁって……。そう思ってましたからぁ……一  刀さん……最後まで……。もう……穏は頭の中が……沸騰してるみたいですぅ」   穏は潤んだ瞳でそう一刀に懇願する。そして穏は一刀の右手を自分の下腹部へと自ら導いていく。そして一刀の手を自分の秘所  に触れさせた瞬間「ああっ……」と小さく歓喜の声を漏らした。その熱く濡れているものが一刀の本能を容赦なく刺激する。 「どうですか一刀さん……。穏のここ……もうこんなになってるんですぅ。……ですから一刀さんのおち○ぽで……、穏を一刀さん  の……ものに……して……下さい……」   しかし、そう甘い濡れた声で懇願する穏に答えたのは別の人間であった。 「穏!こんな所で何をしているの!!」 「かっ一刀殿!何を破廉恥な!!」   それに答えたのは蓮華と愛紗の二人。幕舎の入り口で怒りの表情で立っている二人を見た一刀は思わず東大寺南大門の仁王像を  思い出していた。ちなみにその二人の後ろには思春と言う名の阿修羅像も見える。   流石の一刀も穏との口付けが始まった頃からの幕舎の外から伝わってくる異様な怒気を含んだ様な雰囲気には気付いていた。そ  の為に穏との口付けを早く終らそうと本気を出した一刀であったが、かえってそれが穏や外の三人に色々な意味で色々と火を付け  る結果と相成った。一刀の中の煩悩を完全に消し去る事無く作戦を立案し遂行したのがそもそもの間違いである。   だが、そんな三人の乱入にもお構い無しに事を続けようとする穏。どうやら三人の乱入程度では穏に一度付いた炎は微動だにし  ない様だ。下腹部を一刀の足に擦り付けながら一刀の腕を持っていた手を離し、喜色を浮かべながら恍惚とした瞳でその両の手は  一刀の下腹部へと向かって行く。   それを見た蓮華は声を荒げる。 「思春!!」   その瞬間一刀は今まで確かにその場所にいた思春が霞む様に消えるのを見た。そして次の瞬間穏の背後に現れると思春は無表情  のまま無言で容赦無く穏の首筋に手刀を落とす。手刀を受けた穏は一瞬大きく眼を見開いた後、そのまま力無く一刀の上に倒れこ  んだ。   思春の手刀により気を失った穏を見届けると、安堵からか一刀は眼を閉じ大きく息を吐いた。確かに一刀は結果的に一つの山は  越えたかもしれないが、その先には難攻不落の山が連なって存在している事に変わりは無い。   そしてそんな重い気持ちで眼を開いた一刀の眼前には、燃える様な憤怒の表情で一刀を見詰める蓮華と愛紗、凍る様な無表情な  視線で一刀を見詰める思春が居る。それらの視線に耐えながらの一晩中かかるであろう説教を覚悟する一刀であった。          〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜   邑での視察を終え襄陽の城に戻った一刀達面々。予定していた座学も終え、今回の全ての日定を終えた面々は二三日後には皆国  許への帰還の途につくばかりとなっていた。それに備えて、のんびりと英気を養う者、国許で待つ者への土産を買い求める者、今  回の視察の要点をまとめている者等様々である。   国許への帰還の日が近付くにつれ、一刀はある事に気が付く。それはシャムの様子が少しおかしいという事であった。天気の良  い日などは居心地の良い場所でゴロゴロしたり昼寝を楽しんだりしているのは変わりないが、時折ぼんやりと空を眺めているシャ  ムが見受けられた。   それは蜀や南蛮の面々も多かれ少なかれ気が付いている。その為に愛紗や恋が話し掛けるが、シャムには似つかわしくない曖昧  な笑顔と返事を返すだけであった。   この日もシャムが一人襄陽の城壁の上に居るのを一刀が見つけた。それが気になった一刀はシャムの元に近付いて行く。そして  一刀はシャムに声を掛けた。 「如何したんだシャム。こんな所に一人で……」 「にい様……」   一刀の声に答えるが、今は以前の様な元気が無いシャムを見て心配になる一刀。一刀は城壁の上にしゃがんでいるシャムの横に  立つと何時もの様に頭を撫ぜてやろうと右腕を伸ばす。するとシャムはその腕にしがみ付く様に抱きついた。 「最近おかしいぞシャム。何か有るなら俺に話してみろ」   そう言われたシャムがゆっくりと顔を上げる。その眼には涙が浮かんでいた。 「シャムはずっとにい様の側にいたいにゃ……」 「シャム……」   そんなシャムの告白に一刀は思わず返事に窮した。 「でも、みぃさま達や蜀のみんなと離れるのも……いやにゃ」   そう言うとシャムは再び下を向いてしまう。 「どうしよう……、にい様」   震えながら搾り出す様にそう言ったシャムの頭を一刀は空いている左手で優しく撫ぜていた。暫くの間そうされる事で少しは落  ち着いたのかシャムが震えているのが収まってくる。それを確認した一刀がゆっくりと落ち着いた優しい口調で話し始める。 「シャムは俺が暫くの間この世界から居なくなってたのは聞いてる?」   一刀の問い掛けにシャムは俯いたまま答えた。 「うん……、そんな事をとーか様やせい様が話してるのを聞いた気がするにゃ。……よく覚えてにゃいけど」 「居なくなってた間、俺はシャム達が言う『天の国』俺が元居た世界に帰ってたんだよ」 「…………」   シャムは一刀の言葉に何も答えなっかたが、一刀はそののまま話し続けた。 「そして此方の世界に戻ってきたんだけど、その時の条件が向こうの世界か此方の世界かどちらかを選ぶ事だったんだ。それで俺は  此方の世界を選んだ。それで戻って来れたんだ。だからもう『天の国』向こうの世界には戻れない」 「……そうなのにゃ?」   一刀の話を聞いたシャムが顔を上げてそう口にした。そんなシャムの顔を一刀は笑顔で見ながら言葉を続ける。 「そんな俺が言うのも何だけど……、シャムはどちらかを選ぶなんてしなくてもいいんだよ。もう三国で戦争していた昔とは違う。  今は会いたくなったら何時でも会えるんだし。それに俺だってもし何時でも自由に此方の世界に来られるとしたら、向こうの世界  を選んでたかもしれない。向こうには俺の父さんや母さんそれに友達や仲間がいっぱい居たからね」 「……にい様」 「だから会いたくなったら何時でも会いにおいで」 「……うん」   一刀が伝えたかった事がシャムに伝わったのか、シャムの顔に笑顔が戻る。それを確認した一刀はクシャクシャと何時もより荒っ  ぽくシャムの頭を撫ぜた。   シャムの中でも導き出した答えに納得したのか、話し始めた時の様な影は今は消え失せている。その顔を見た一刀が安堵の表情  で口を開いた。 「ほら、皆心配してるぞ」   そう言って一刀が指差す先には、物陰に隠れている心算の白黒の耳がピコピコと動いている。 「だいおー様……、トラ……ミケ……」   そう呟いたシャムが美以達の方に近付いて行く。だが、一二歩近付いた所でシャムは一刀の方に振り返った。 「にい様、またにい様に会いにくるにゃ!」   そう言ったシャムに一刀は笑顔で答える。 「ああっ。だけど今度は黙って来ちゃダメだぞ!」 「うん!あっ……でも、黙って来た訳じゃないにゃ」 「ああ、そうだったな。なら今度は皆で一緒においで」 「うん!」   そして美以達の方へ向きを変えようとしたシャムに再び一刀が声を掛けた。 「シャム!一緒に居たいって言ってくれてありがとう。嬉しかったよ」   一刀の言葉を聞いたシャムが満面の笑みを浮かべる。そして美以達の元へ駆けて行った。シャムが美以達の元に着くと四人は代  わる代わる抱き合いながら何か話している。一刀にはその話は聞き取れなかったが、四人の表情からは皆喜んでいる笑顔が見て取  れた。   暫く何やら話していた四人が一刀に向かって手を振っている。それに答える様に一刀も手を振る。それを確認した四人は再び何  やら話し始め、そして中庭の方へと向かってじゃれ合いながら歩き始めた。   そんな四人を見送りながら、一刀はこの長い様で短く賑やかで楽しかったお祭り騒ぎが終るのを感じていた。   蜀の面々が襄陽を発つ朝、一刀達は皆総出で城門に見送りに集まっていた。勿論その中には愛紗達に一日遅れて襄陽を出立する  蓮華達の姿もある。呉の方が使節の規模が大きいだけに何事にも時間が掛かり出立が一日遅れとなっていた。 「一刀殿、今回は本当にありがとうございました。関雲長改めて御礼申し上げます」   そう言って礼を取る愛紗。そんな生真面目な愛紗に一刀は笑顔で話し掛ける。 「愛紗……、もう気にしないで。シャムの事があったからこそ、こうして愛紗達と知り合えたんだから」 「一刀殿……」   そう言って見詰め合う一刀と愛紗。暫く見詰め合っている二人を真桜が冷やかそうとした瞬間、城門前に蓮華の咳払いが響き渡  る。それで二人共我に返ったのか、愛紗は頬を染めて俯いてしまい一刀は恋と音々音の方に向きを変えた。 「何を慌ててやがるのです、このヘッポコ監察官は……」   そんな一刀への音々音の嫌味に一刀は苦笑いを返す。そして音々音の隣に居た恋と一刀が顔を合わせると、恋は然も当たり前の  様に一刀に抱き付いた。 「恋?」 「れっ、恋殿!何を!」   恋の突然の行動に慌てる愛紗と音々音。しかし、恋は不思議そうな顔で二人を見ると口を開いた。 「……桃香から聞いた感謝のしかた。……何か間違ってる?」   恋の言葉を聞いた愛紗と音々音ががっくりと肩を落とした。 「義姉上……」 「何て事教えてくれやがるですか、……あの人は」   脱力している二人から恋は視線を一刀の方へと戻す。 「恋、今回は御苦労さま。助かったよ」   一刀の言葉に首を横に振る恋。 「……ううん。恋は一刀や邑の人達の役に立てたのが嬉しい」 「そうか……、ありがとう恋」   一刀の言葉を聞いた恋は嬉しそうな笑顔になる。そしてそんな恋が再び口を開く。 「……恋また一刀に会いたい。……遊びに来てもいい?」 「ああ、歓迎するよ」   そんな一刀と恋の会話に音々音が加わる。 「と言うか、今度はお前が来やがれなのです。……今度は成都でゆっくりしていけばいいのです」   音々音の最期は小さな声で照れた様な言葉に一刀は笑顔で答える。 「そうだな……。あの時は成都の街をゆっくり見る暇も無かったからなぁ。そうするよ」 「……うん、それがいい。恋が街を案内する。……それに月も一刀に会いたがってる」   恋の言葉を聞いて「月とは董卓の真名だったな」と思い返す一刀。星からその話は聞いてはいたが、一刀は未だにあの儚げな少  女が董卓であると言うのが頭の中で上手く結び付かない。此方の世界に来て三国志の有名人達の性別が違う事に此方に来た当初な  らまだしも今更驚くべき事ではないのだが、流石に董卓とあの少女を結び付けるのには抵抗があった。一刀の頭の中の知識の董卓  とあの少女は余りに違い過ぎる。 「ああ、必ず」   恋に言葉を返した一刀は次に既にガネーシャの背に乗り込んでいる美以達に視線を移す。 「美以!気を付けて帰れよ」 「わかってるニャ!兄また来るニャ!」 「トラもミケも元気でな!」 「にぃにぃも!」 「あにしゃまも元気でにゃ!」 「シャム!またな!」 「うん!にい様!」   美以達と一通り声を掛け合うと一刀は愛紗に向き直す。 「では愛紗、道中気を付けて。劉備様にも良しなに伝えて欲しい」 「はい、義姉上も一刀殿に会って話したいと常々申しておりました。来年の三国会談を楽しみにしていると思います」   愛紗の言葉を聞いた一刀は何かを思い出したのか表情を変える。そして笑顔で口を開いた。 「いや、劉備殿にお会いするのはそう遠い事ではないよ」   今度は一刀の話を聞いた愛紗が不思議そうな顔付きになる。 「そうなのですか?ではその時を楽しみにしておきます。一刀殿、名残は尽きませんが今はこれで」 「ああ、愛紗も元気で」   愛紗は頷くと別れの握手を一刀と交わした後に颯爽と馬に跨る。恋達の準備が整うのを確認した後、愛紗の合図で蜀の面々は襄  陽を出立した。   何度も後ろを振り返り手を振る美以達に一刀達も手を振り返す。そして蜀の面々が見えなくなるまで一刀達はその場でずっと見  送り続けるのであった。   蜀の面々が襄陽を出立した夜、夕食を済ませた一刀は一人中庭の四阿に居た。少し前までは呉の面々の出立の準備で多少賑やか  であったのだが、今は一段落したのか今までの喧騒が嘘のように静まり返っている。ついこの間まではこれが普通であったのだが、  今はこの静けさに違和感すら感じていた。その思いはあの賑やかだった南蛮の面々が居なくなった事が一因であるのかもしれない。  そんな事を思いながら一刀はシャムがよく昼寝をしていた場所を眺めていた。 「随分静かになったわね」   そう声を掛けてきたのは蓮華であった。 「やぁ蓮華、一人?」 「ええ、穏はあなたに貰った本を手に部屋で悶えているし、思春は船に積み込んだ荷物の確認に港に向かってるわ。明命は何処なの  かしら……、先程から姿が見えないけど」   そう話しながら蓮華は一刀の隣に腰を掛ける。 「まぁ、明命にしてみればここに美以達が居なくなっちゃたからなぁ……、明命の中ではここは重要度が下がったのかな」 「それは如何なのかしらね」   少し困った様な笑顔でそう答える蓮華。確かに明命のネコ好きに関しては呉内外に知られている事であり蓮華もそう認識してい  るが、それが明命の全てではない。ここ襄陽で見せる一刀に対しての明命の接し方は、呉で自分達に見せるそれとは少し違う様に  蓮華は感じていた。   仕事柄か本人の性格なのか常に相手に対して一歩引いた立ち位置の多い明命なのだが、一刀の側に居る時はその距離が他の者と  比べて近い様に感じる。それは呉で歳も近く一番仲が良い呂子明こと亞莎と一緒に居る時に近いと蓮華は思う。   そして蓮華は以前程仲徳こと風から聞いた話を思い出した。 「お兄さんは女性に対してマメなくせに、肝心な所が鈍感なのですよ〜。でもそんなところにイライラするって事は風達の負けって  事なんでしょうけどね〜」   そんな言葉とは裏腹に、嬉しそうに話す風の言葉を思い出した蓮華は一刀の顔に視線を移す。その顔はどう見ても明命は南蛮の  面々にしか興味が無いと思っている顔である。   一刀の側に明命が居る時はまるで子犬の様に付いて歩く姿を見れば多少なりとも何か気付くだろうにと思う蓮華。そんな事を考  えていると何かもやもやする様な、何かざわつく様なものを蓮華は感じる。   そして風の言った言葉はこういう事なのかと一人納得する蓮華であった。 「蓮華はもう支度は終ったの?」 「ええ、粗方終ってるわ。後は私物が殆どね。大体の物は船に積み込んだわ」 「寂しくなるな……」   そう漏らした一刀の顔を蓮華がじっと見詰める。その視線を変えぬまま蓮華は口を開いた。 「本当に……?」   そんな蓮華の言葉を聞いた一刀がそちらに視線を移す。当然そうなれば二人の視線が交わる事になる。一刀をじっと見詰める蓮  華の大きな青い瞳を見た一刀は引き込まれる様な錯覚を感じた。 「勿論だよ……」 「なら離れている間寂しくない様に……、お土産が欲しいな」   蓮華はぐっと一刀に顔を近づけると、おもむろに眼を閉じた。そんな蓮華の姿を見て、蓮華が何を要求しているか判らない初心  な一刀ではない。一刀もゆっくりと蓮華に顔を近付ける。   こんな積極的な行動に何故自分が出たのか自分でも不思議に思う蓮華。こんな行動に出て一刀にはしたないと思われるかもしれ  ないと言う思いが一瞬頭を過ぎったのも事実であった。だがあの邑で見た恍惚とした表情で口付けを交わす穏と一刀を見た時、羨  ましいとも悔しいとも思った事もまた事実である。   一刀の顔が近付いて来る気配を感じるにつれ、胸の鼓動が早く大きくなるのを蓮華は感じる。自分の心臓の音が一刀に聞えるの  ではないかと心配もしたが、今は一刀の近付いて来る気配にのみ集中する。   一刀の吐息を直ぐ側に感じ唇同士が触れると思った瞬間、それは唇に触れる事無く額に触れていた。 「なっ……!」   蓮華が想像していたものと違う結末に思わず声を上げる。そして眼を開け一刀の顔を見るが、一刀の視線は自分ではなく自分の  後ろに注がれている事に気が付いた。その強張った一刀の顔を見た時、蓮華は自分の後ろに人の気配を感じる。 「蓮華さま……」 「ひゃいっ!」   その低く抑揚の抑えられた思春の声に思わず背筋を伸ばす蓮華。それにつられたのか一刀も姿勢を正している。そして今更なが  ら、二人は当たり障りの無い世間話を始めた。 「そっそう言えば蓮華、こんどウチの真桜が建業にお邪魔するって聞いたんだけど?」 「えっええ、以前に真桜が建業に造った工房の整備と修理そして新しい炉の製造もお願いするのよ」 「そうなんだ」 「ええ、普段使う分には我国の職人でも扱えられるんだけど、流石に大掛かりな整備とかましてや新造となると未だ真桜と魏の工作  隊の力を借りないとね……。その頃は一刀も襄陽を離れるのよね?」 「ああ、陛下の長安行幸の随員を仰せつかってるからね」   二人の汗をかきながら不自然に正しい姿勢での世間話が続いていた。そして二人のどこか芝居じみた会話が途絶えた時、それを  黙って眺めていた思春が口を開いた。 「では蓮華さまそろそろ部屋に戻りましょう。暖かくなってきたとは言え夜風に当たり過ぎるのも……」 「ええ、そうね……。じゃあ一刀」   そう言って立ち上がる蓮華を一刀は眼で追っている。そして四阿から蓮華が足を踏み出した所で一刀は声を掛けた。 「蓮華!」 「何?」 「また会える時を楽しみにしてるよ」   一刀の言葉に振り向いた蓮華が満面の笑みを浮かべる。 「ええ、わたしもよ。次は呉で会いたいわ」   そんな蓮華に続いて思春が口を開いた。 「次は堂々と来い。忍び込んだりせずにな」 「ああ」 「その時はちゃんと案内してやる」   そう素っ気無い口調で話すと、思春はプイっと一刀に背を向けてしまう。そんな思春を見た一刀と蓮華は顔を見合わせ笑い合う  のだった。   翌朝、蓮華達一行の出立を見送った一刀達三人はすっかり寂しくなった城内をしみじみと眺めていた。 「なぁ〜んか急に寂しなってもうたなぁ……。ついこないだまではこれが普通やったんやけど」 「だね〜、美以ちゃん達が居たから余計に落差が激し過ぎるの〜」 「まぁ、何時も通りに戻っただけさ。今まで通り俺達は俺達のやるべき事を進めないと……。沙和は直に霞と入れ替わりだし、真桜  は建業に行かなきゃならないし」   そう真顔で正論を話す一刀の顔を見ていた真桜と沙和は、お互い顔を見合わせると同時に一刀の方に向き直しニヤリと笑った。  正直、二人がこんな顔をする時はろくな事を考えていない。 「まぁ、とりあえずたいちょは昨日まで割り喰ってたウチ等に埋め合わせやな」 「うんうん。昨日までは愛紗さんや蓮華さんの目が有ったし、夜は美以ちゃん達が隊長の寝台を占領してたから……。沙和達寂しい  一人寝の夜が続いてたの〜」   そう言って真桜は一刀の右腕に沙和は左腕に抱き付き、そして甘える様に一刀に自分達の身体を押し付ける。 「とりあえず今夜は三人でやな」 「そうそう、沙和達も頑張ったんだからご褒美欲しいなの〜」   見た通りの両手に花な状態で城内の廊下を歩く一刀は然も他人事の様な口調で話し始める。 「はっはっはっ。君達一体何の話をしているのかボクにはサッパリ判らないなぁ」   そんな一刀にもお構い無しに真桜と沙和は話を続ける。 「まぁ、今晩のお楽しみって事やなぁ」 「全軍突撃なの〜」 「だから君達、一体何の話を……」   そんな寂しくなった襄陽の城の雰囲気を紛らわす様に話しながら、三人は今はやけに広く感じる城内の廊下を歩く一刀達であっ  た。   ちなみに宣言通りその夜一刀の元に突撃した真桜と沙和であったが、一刀の返り討ちに合ったのは言うまでない。          〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜 〜〜〜☆〜〜★〜〜☆〜〜〜   場所は移り、ここは江夏。蓮華達の留守を預かる呂子明こと亞莎と亞莎に泣き付かれ手伝う事になった孫尚香こと小蓮は疲れ切っ  た表情で執務室の机の上に身体を投げ出していた。   穏の残していたかなり大雑把な引継ぎの文面からは亞莎は文字通り大雑把な事しか把握する事が出来ず、現在の江夏の現状そし  て開発の進捗具合を把握する為に着任当初は正に寝る間を惜しんで動き回っていた。   引継ぎの文面に細かい指示が無いという事は亞莎なりに破綻しない範囲で変更も構わないとの穏の思惑を感じ取った亞莎は、開  発の進捗状況を把握している時に見つけた問題が有ると感じた箇所等を最善であると考える方向に、時には最低限にそして時には  大胆に修正していく。これについては江夏に戻ってこれを見た穏や確認した周公謹こと冥琳から高評価を得ていた。   しかし小蓮の途中参加と言う嬉しい誤算が有ったものの、基本は亞莎が一人で江夏の運営を回す事に変わりは無い。慣れぬ立場  とその責任の大きさから発せられる重圧に亞莎はかなり疲弊していた。   今の亞莎は短距離走の走り方のままでマラソンをしているようなものだ。しかもそのマラソンはゴールまでの距離が決まってい  ないと言う状態である。 「亞莎、そろそろ休日を入れた方がいいよ。シャオが此処に着てから休み入れてないでしょ。どうせその前も休んでないんだろうし」 「ですが小蓮様、私は蓮華様や穏様からここ江夏を預かる身、その信頼を裏切る訳には……」   そう自らの決意を述べる亞莎に小蓮は困った様な顔を返す。 「でもそれで亞莎が倒れでもしたら本末転倒じゃない。シャオが言うのも何だけど、亞莎は良くやってるって」 「でしょうか……。いえ、もっと頑張ってもっと勉強して早く一人前の軍師として認められるようにならないと……」   そんな亞莎の言葉を聞きながら、小蓮はこの亞莎の自信の無さは何なのだろうと思う。確かに周公謹と陸伯言と言う名軍師を前  にすれば多少自分を卑下するのも判らないでもないが、ここまで自分を下に見る事は無いとも思う。   そんな事を思いながら小蓮は渦高く積み上げられた書類や竹簡を恨めしそうに見上げていると、亞莎が身体を起き上がらせてい  るのが眼に入る。溜息混じりに小蓮も身体を起こした時、バタバタと誰かが廊下を騒がしく走る音が聞えた。   その足音がこの部屋に近付いて来ていることに気が付いた小蓮と亞莎が何事だろうかと部屋の入り口に目をやった時、城の文官  が駆け込んで来る。 「呂軍師様、たった今……きゃあぁぁぁ!」   そんな文官を押し退ける様に部屋に入ってくる人物が居た。 「はぁい!蓮華!亞莎!二人共頑張ってると思って優しいお姉ちゃんが南の果物を差し入れに着たわよ!」   何の前触れも無く現れた呉の国主たる孫伯符こと雪蓮を見た小蓮と亞莎は眼を見開いたまま唖然として固まっていた。 「何だシャオも来てたんだ。んっ?!蓮華は何処?」   蓮華を探して部屋の中をキョロキョロと雪蓮が首を振っていると、そこに遅れてもう一人の人物が現れた。 「雪蓮!皆を振り切って一人先行などして如何するの?!」 「だってあんなチンタラ行軍なんかしてたら何時までたっても着かないじゃない」   そう一点の曇りも悪びれもせず言い切る雪蓮の言葉を聞いた冥琳は眉間に手を当て溜息をついた。 「だからと言って前触れも無しにいきなり国主が現れたりしたら城の者達も何事かと驚くだろう」 「ぶーぶー、だって果物が傷まない内に蓮華達に届けたかったんだもん……。でっ亞莎、蓮華は?」 「おお、亞莎。穏の代役ご苦労だな。どうだ蓮華様とは上手くやっているか?」   二人の言葉を聞いた小蓮と亞莎はただ笑うしかなかった。 「なっ!!蓮華は天の御遣いに会いに穏達と襄陽に行ったですって!!」   事の詳細を聞いた雪蓮はそう声を上げていた。雪蓮が手に持っていた果物の入っていた籠はメキメキと音を立てながら形を変え  ている。 「では亞莎が此処に着いた時には」 「はい、皆様出立した後で執務室はもぬけの殻でした」   雪蓮とは対照的に冷静に話す冥琳と、雪蓮の姿と発する気配に怯えて着物の袖で顔を隠しながら話す亞莎。 「ふむ……。蓮華様がそんな行動に出るとは思いも依らなかったな。良い傾向なのか?」   冥琳がそう話していると、ポトリと何かが床に落ちる音がした。それは雪蓮が持っていた籠と言われた物の残骸。既にそれは原  形を留めてはおらず、如何すればあの大きさの物がこうなるのかと思うほど圧縮され小さくなっていた。 「良い傾向よ……。あの蓮華が呉以外の人間、しかも男性に興味を持つなんて……」 「雪蓮?」   ボソボソと俯きながら話す雪蓮に冥琳は怪訝そうな顔で声を掛けた。 「あの胸騒ぎはこの事だったのね……」   そう言って顔を上げた雪蓮の顔は確かに笑っているはずなのに、それを見た亞莎は背中に一筋冷たい汗が流れるのを感じていた。 「あはっ、これは色々と蓮華には聞くことが出来たわ……。亞莎、蓮華何時戻ってくるの?」 「すっ既に先触れは届いていますので一両日中には……」 「ならそれまで此処で待たせてもらうわね」 「どっどうぞ!心行くまで此処でお待ち下さい!!」   満面の笑顔しかし眼は決して笑っていない雪蓮とテンパッている亞莎を眺めながら「お姉ちゃんも大変だなぁ」等と考えながら  差し入れの果物を口に運ぶ小蓮であった。   一方、此方は蜀の首都成都。この日、洛陽の曹孟徳こと華琳からから届いた書簡を読んだ劉玄徳こと桃香は上機嫌である。どの  位上機嫌かと言うと、城内を無意識の内にスキップで歩き、ついでに鼻歌まで歌う程であった。勿論それを城の者に見られ様と気  にする事等しない。   それにはこの秋に執り行われる帝の長安への行幸についての事が書かれていた。そして桃香はその中に書かれていた随員の中に  北郷一刀の名を見つけたのが上機嫌の第一の理由である。   その内容は、この秋陛下の長安行幸の折に桃香にも長安に来て欲しいと言うものである。帝に叔母上と呼ばれている桃香に帝も  久しぶりに会いたがっているとも書かれていた。   久しぶりの陛下への拝謁、しかもそこに一刀まで居るとなれば桃香が喜ばないはずは無い。しかし、それに続く一文が桃香は気  になっていた。その相談をする為に諸葛孔明こと朱里と鳳士元こと雛里の所に向かって行く。 「朱里ちゃん、雛里ちゃん今いいかな?」 「はい、大丈夫ですよ」 「桃香さまどうされたんです?」   桃香の突然の来訪を笑顔で迎え入れる朱里と雛里。そして桃香は洛陽からの書簡を二人に手渡しながら口を開いた。 「華琳さんからこれが届いたんだけど、この一文を二人はどう思う?」   渡された書簡に眼を通す二人。そして桃香の指差したところには「月と詠も長安行幸の折に同行させる云々」と書かれていた。   実は二人の元にも荀文若こと桂花の名で同じ内容の物(桃香宛の物より余程詳しい内容の物)が届けられていた。その為にその  内容を読んでも顔色一つ変える事は無い。 「これについては裏を読んだりする必要はありません。文字通りの意味です」   あっさりと答えた朱里に桃香は首を捻りながら口を開く。 「どう言う事?」 「はい、どうやら麗羽さんが陛下に冠位の返上を申し出た時に、月さんの名誉の回復を上申されたそうです」 「そうなの?」 「はい、年明け早々にそう洛陽で宣言されるとの事です。今回の一件は本人の意思の確認と、それについての陛下から御言葉がある  そうです」 「そっか……。これは良い事なんだよね?」 「勿論です。月さんの人となりについては三国の上層部は判っていますし、三国の鼎立でとりあえずは安定している現状で今更独立  して勢力を興す様な事さえなければ異論は無いと思います」 「まぁ、月ちゃんなら……」 「その辺りは心配ないかと。詠さんは一家言有るかもしれませんが」   朱里の言葉を聞いた桃香は「うん」と頷くと口を開いた。 「ならこれから月ちゃん達にこの事を伝えに行ってくるよ」   そう言い残し、桃香は月達の元に向かって行くのであった。   ここ数日は洛陽からの報せで上機嫌であった桃香なのだが、そんな桃香を一変させる報せが桃香の元に届く。   それはシャムの一件の顛末や、それに伴った襄陽の視察に関しての愛紗からの報告書であった。それは愛紗の性格がよく出た事  細かに記された報告書である。   報告書の前半部分であるシャムの一件に関しての部分では「何事も無くてよかったぁ」等と桃香は感想を漏らしながら終始和や  かに進んでいたのだが、後半部分である襄陽視察に差し掛かると雲行きが怪しくなってきた。それは同じ執務室で仕事をしていた  黄漢升こと紫苑や仕事の事でお伺いを立てに来ていた公孫伯珪こと白蓮も感じ取っている。   そんな桃香に白蓮は恐る恐る声を掛けた。 「桃香如何したんだ?愛紗は何て……」   白蓮の問い掛けに顔を上げる桃香であったが、白蓮の顔を見る事無く口を開く。 「あはっ、あはははははは……」   誰にと言うでもなく、前を見ながら無表情で笑い続ける桃香。 「とっ桃香さん……、一体如何なされたので……?」   桃香の異様な雰囲気に圧され、思わず何時もとは違う口調で話す白蓮。久方笑い続けていた桃香が笑うのを止めると、今度は不  敵な笑みを浮かべながら話し始めた。 「愛紗ちゃんはやるやるとは聞いていたけど……、ここまでやるとは……。正直愛紗ちゃんを侮っていたよ……わたし」   そう口にすると桃香は手に持っていた報告書を机の上に置いた。そして不敵な笑みを湛えたまま窓辺に歩み寄る。   後からその報告書を見た白蓮に言わせると、それは一刀の考え方や思想そして行動まで詳しく記された出来の良い報告書であっ  た。それを見た誰もが白蓮と同じ事を基本的には思うのだが、それをどう解釈したのか桃香にはそれが愛紗が一刀に対して書き綴っ  た惚気として受け取った様だ。確かに二人で話した時抱き締められた事等は報告する必要は無かったのではないかと思う白蓮であっ  た。   そして桃香は窓を開けると力強く両の手を握り締め言い放つ。 「わたしだって負けないんだからね!!」   そんな桃香を顎に手を当て困った様な顔で見ながら「あらあら」と漏らす紫苑であった。     取り合う手と手 了 おまけ   仕事が終わり自室でくつろいでいる朱里と雛里の元に突然に桃香が訪れた。 「朱里ちゃん!雛里ちゃん!お願いがあるんだけど」   二人の部屋に顔を出した桃香は開口一番そう口にした。 「如何されたのです桃香さま」 「本を貸して欲しいの!」   変な勢いの桃香を不思議がりながらも朱里は答える。 「お勉強ですか?何の本を……」 「そう!お勉強するから……。朱里ちゃんが持ってる、寝台の横の引き出しの二重底になっているトコロにしまってある薄い本を貸  して欲しいの!」 「はわわ!なっ何で桃香さまがそれを……、いや!なんの事ですかそれは!!」 「雛里ちゃんには、何故か同じ物が二冊ある軍学書の背表紙に小さな印が付いてる方を貸して欲しいの!図解入りの詳しいヤツ!!」 「あわわ!何で知ってるんですか?!」   困惑している二人に桃香はケロッとした顔で答える。 「だって詠ちゃんが紫苑さんにチクってるの聞いちゃったもん」   桃香の言葉を聞いた朱里と雛里は力なく床にへたり込んでいた。 「そんな……、詠さんに見つかってたなんて……」 「しかも……紫苑さんにも知られてるなんて……」   へたり込んだままそう漏らす二人の肩に手を置きながら桃香は口を開く。 「お願い貸して!わたしは愛紗ちゃんに負ける訳にはいかないの!!」   そう言われ身体を揺さぶられている朱里と雛里の二人の口からは、乾いた力無い笑い声だけが漏れ続けていた。   今日も蜀は平和であった。