玄朝秘史  第四部第十七回『胡馬北風』  1.期待  北郷一刀という人物を伝えるに、当時の文書はそのほとんど全てが出自について『天人』であるとか、『天より降る』と記す。  これは魏が大陸を制覇するより前からのことで、敵対していた各群雄の支配地域でも共通しており、数少ない例外にしても『どこから現れたのか不明である』とか『身分卑しき出であろう』などと書くのみで、実際にどの地方の出身であるとか、詳しい経歴を明らかにしたものはない。憶測すらないということは、その種となるわずかな事実すら知られていなかったということである。  その素姓について後世の人間にわずかなりとも手がかりを与えてくれるのは、漢籍に非ず、遥か西方、康国――サマルカンド、あるいはマラカンダ――において出土することになる書簡の中にある。  この書簡に関しては受取人――貴族階級に属し、大規模商人を兼ねる――の経歴共々、実に面白いものではあるが、ここでは、それが受け手と共に墓に納められ、それが故に千年以上の間保存され、後世に伝わったことだけがわかればいい。  その手紙は、当時蓬莱本土では客胡と呼ばれていた類の人間が郷里の親族に宛てたもので、細かな政治情勢や商売の機微、何が売れて、何が出物であるかなど事細かに記されている。彼はいわば一族の中で東方との通商の先遣隊として派遣された人物であったから、後に続く一族のために積極的に情報収集を行ったのであろう。  とあるお披露目の儀式に際しての一節に、それはある。 『その日、皇帝は輝かんばかりの乳色の馬に乗って現れた。漢土の馬は我が郷土の馬より一回りは小さく、貧弱な体躯のものが多いが、さすがに著名な将軍や、皇帝の乗る馬は目を見張るすばらしさである。漢人も馬を見る目があるという証左であり、我々の誇る名馬を売りつけることも考えに入れるべきであろう。  ところで、この日、皇帝がわざわざ馬に乗って城市の外にまで赴いたのは、彼が乗るべき覆いのついた車が城外にあったからである。この日皆にお披露目されたその車はあまりに巨大で、門をくぐることが出来なかったのだ。  この驚嘆すべき車については後に書くことになるが、その価値を考えれば門をくぐれないことなどなんでもないことだ。否、そのために門を作り直すべきであろう。  ともあれ、私はこの日、皇帝となった若者を初めて間近に見た。  かつてはこの都の警備隊長として、市井の人間と親しく交わっていたという話であるが、私はもちろん、同郷の者で当時漢土にいた者は少なく、その印象はあくまで噂に聞いたものが主であった。  噂通りに穏やかな印象の人物である。それにとても若い。  漢土における現在の支配者層は、戦乱の中で台頭してきたこともあり、全体的に若い者が多いが、その中でも特に目立つ。  年齢的には彼の周囲とそう変わり無いはずだが、目立つ印象を与えるのは、おそらく有力者層に女性が多い中で、彼が青年であるためであろう。郷土と同じく、女性は化粧をすると、派手やかになり、ある一定の年齢以下には見えないものだ。  統治の上で若さは弱点ともなるが、利も多い。彼が道を誤ることがなければ、体力がある時期に国の基礎を固められるかもしれない。  堂々たる馬に乗った彼は、にこやかな表情で人々を眺めやり、様々な言葉を放った。私は内容よりもその声に注目した。  彼の声は落ち着いた調子の豊かな声で、実によく通る。私と同じく見物に来ていた群衆が通りという通りにひしめいて、それぞれに声を交わしていたというのに、彼が口を開いた途端、その言葉が耳にしっかりと飛び込んできたのだ。  これは、指導者として非常に重要な資質だ。人々に命令を聞かせられる者でなければ、どうして国を治められようか。  それから、これは一番大事なことだが、今日、皇帝を間近に見ることができたことで、私は確信した。  皇帝は漢人ではない。  当の漢人たちは気づいていない様子だが、我々のような外部の人間だからこそわかる。彼は明らかに非漢人である。  天から来たという話は、我々の予想通り、漢土の影響の及ばぬ遠方から来たということに間違いないようだ。  これは我々にとって実に大きな利となり得る。知っての通り、漢人は我々を夷人と称し、存在自体を侮っているところがあるが、彼ならばその偏見から自由であるかもしれない。  そも、蓬莱という二字国号からして、漢人の発想とはほど遠い。彼は、漢人とは違う考えを持っているのだろう。  事実、涼州討伐においては我々のような商人と取引を行っていることから考えても、その可能性は高い。  期待のしすぎは禁物であるが、現状の関税軽減、商業重視の政策を推し進めてくれるならば、我々も蓬莱を支援することに前向きになってもよいのではないかと個人的に考えている。  さて、黒き亀と名付けられた車のほうだが、これは先にも書いたが、まさに驚かされるもので……』  このように、『漢人ではない』と主張するものは、外部の人間からの目で記されたものしかない。  だが、少なくとも彼らはそう感じ、信じた。そして、この書簡からも読み取れるように、非漢人集団にとっては、非漢人が漢土の帝となった意義は実に大きかった。  これまでも北郷一刀という人物は、異民族と言われる存在と関わる事が多かった。 たとえば内烏桓の叛乱を鎮めて、それを取り込んだこと。北伐において涼州を鎮め、一方で鮮卑を討ったこと。客胡といわれる西方商業集団――その多くはソグド人である――と連携し、彼らを保護したこと等々だ。  それらの実績を見て、もちろん彼を憎み恐れる一派もあったが、他方で彼に強く望みをかける集団もあった。  ことに根拠地がその支配域とは遠く離れている集団は直接的な利害関係の衝突がないため、希望を持ってみても損はないという意識が強かった。  彼ら――故郷を遠く離れてまで益を求めて活動している人間たちにしてみると、漢人優遇の雰囲気がわずかに和らぎ、通行の安全が保障され、関ごとに落とす金が減るだけでも十分に効果的なのであった。  故に、西方商人たちの大半は北郷一刀という人物の成功に期待を寄せていた。たとえ保険として蜀漢や孫呉にも一族の別の部分が近寄っていたとしても、なお。  そして、そういった空気を蓬莱朝の方もまた感じ取っていくこととなるのである。  2.情報  しかしながら、この時点では、当の一刀はまだ明確にはその空気を読み取っていない。否、その存在そのものは感じていても、正体を悟っていなかった。  だから、結果としてこんな発言となる。 「んー、なんだか都の雰囲気が変わったような気がするんだけど、華琳はどう思う?」  浴室の外から聞こえる声。華琳はその身を浴槽に沈め、体にかかる重みが減るのを楽しみながら、それを聞いていた。  彼女とて体を鍛えていないわけではないが、なにしろ自分とは別の重みが腹に生じているのである。腰をはじめとした各所への負担から多少なりとも解放される水中は心地好かった。  しかも、適温に温められた湯の中となれば。 「桂花の案を採用してよかったわね」  完全に湯に身を委ね、体が浮き上がるのに任せながら、彼女は呟く。  華琳が懐妊したという事実が明らかにされてすぐ、桂花は天宝舎に浴室を増築することを提案し、許可を得てさっそく実現している。妊婦や幼児を抱えた母親がすぐに湯浴みできる環境を整えるべきだという強い主張は、当人の経験からも来ているのだろうが、華琳のためを考えて、というのが最も大きかったろう。  それは確かに――華琳以外の面々も含めて――役に立っているし、彼女自身も助かっている、と華琳は感じていた。  皆で入れる大浴場や蒸し風呂、個人でゆっくり入るためや、桂花や春蘭、秋蘭をはじめとした愛人たちや一刀と戯れるための小浴室とは違い、ここは完全に母親と幼児のために設計されている。  浴槽は地面を掘り下げられ、段差に躓くことなく入浴できるようになっているし、万が一にも子供が溺れたりしないよう、幼児専用の小型浴槽が横に作られている念の入り用だ。  各所につけられた手すりなどを利用すれば、臨月でも苦労することなく体を清められるはずだ。 「聞こえてるかい?」 「聞こえてるわよ」  もう一ついいのは、控えの間と声をかけあえることだ。まるで同じ部屋にいるかのように声が届くくせに、こちらの湯気は侵入しないよう工夫されているのだ。おかげで、一刀は仕事をこなしながら、入浴する妻と会話が出来る。  元々天宝舎にあった伝声管を応用したもののようだが、真桜が忙しくてそれらの改良に専念出来ない分、三軍師が随分がんばってくれたようだ。 「俺への態度とかそういうのじゃないんだよ。いや、もちろん、それはそれで変わっちゃった人もいるけど、まあ、しかたないんだろうし……。そうじゃなくて、なんというか……」  一刀は華琳が答えないために、ぶつぶつと詳細を語り始めている。今日の御料車お披露目の儀に華琳が出られなかったために、その様子を語るのが務めだと感じている部分もあるのだろう。そう、華琳は夫の心情を予想する。  だが、そろそろ話が横道にそれそうなほど細かい部分に入り始めたので、華琳は声をかけた。 「変わるのは当然よ」 「そうかい?」  彼が首を傾げるのが目に浮かぶような声に、華琳はくすっと笑って水面を揺らして応じる。 「そういうものよ。私が洛陽に入った時にも、きっと、この都は変わったはずよ。そのあたりは月にでも訊いてみれば詳細もわかるでしょうけれど」 「ふむ?」 「支配者が変われば、そこに住む人間もある程度は変わるわ。もちろん、変わらない者も多いけれど。地についているか、国についているか。それぞれの立場が明らかになる時でもあるわね」  言ってから、彼女は自分の言葉に感心したような顔で続ける。明確には考えていなかったことがぽろりと口から出て形を成す事はたまにある。いま、それが起きていた。 「漢という組織に食い込んでいた人間のある程度は漢中に走ったし、それとよしみを通じていた人間のうちで、洛陽から撤退した者もいるはずよ。そして、逆に新しく入ってきた人間もいることでしょう。そういうものよ」 「ふむ、それもそうか……」  月と華琳の場合はあくまで漢王朝があった上で補弼する人間が変わっただけであるが、今回は代々連綿と玉座を温めてきた劉漢の帝が逃亡したのだ。なにも変わらないほうがおかしいというものだ。ただし、それだけでもなかろう、と華琳は考えている。 「それに、北伐の成果もそろそろ出て来る頃でしょう。長安までやってきていた西方の商人たちは洛陽まで足を伸ばすようになっているはずよ」 「長安まで来てたなら、洛陽まで来ればいいのにな」 「住んでいる人間ではないのですもの。物見遊山ならともかく、取引をするなら長安で十分でしょう。洛陽までの短距離で利が出ない限りは意味はないわ」 「まあ、そうなんだが……。ん? じゃあ、いまは長安からの距離で利が出ているのかな?」  一刀が不思議そうに言うのに、華琳はちゃぽんと音をたてて返事する。 「利が出るものを見つけた、というべきでしょうね。あるいは、元々洛陽まで来ていた人間から情報が知れ渡ったとか」  もちろんそれだけではなく、新王朝の樹立を受けて洛陽の様子を探りに来ている者も多いだろうが、それは言わないでおく。一刀とて、それくらいは気づいているだろう。もし彼が気づいていなくても、詠たちが見落とさない。 「ふむ……。宝石商人とかはいたよな、たしか」 「軽くて持ち歩きやすい高級品は、短距離でも利が出る可能性はあるわね。単純に言えば、洛陽に買い手がいればいいんですもの。それこそ、新しい宮廷に食い込めれば、十分な利ね」  ふむふむ、と頷く声が聞こえる。彼は何ごとか思考の中に落ちていった様子なので、華琳はしばらく声もかけず、湯の中でゆったりと体を揺らしていた。時折彼女が己の膚にかける湯の音だけが、空間を満たす。 「そういえば、客胡たちからいくつか情報が来てるんだけどさ」  そうして再開した会話は、それまでと繋がっているようないないようなものであった。西方商人たちの話から想起したのは事実であろうが、一刀の言う客胡は、実際は客胡と呼ばれる集団――五胡よりさらに遠方の異民族――の中でも特定の氏族に限られているのだから。 「なにかあった?」 「いや、新情報……というよりは、予想の範囲外のものはなかったよ。桃香たちが本格的に漢中に腰を据えるつもりが明確になっただとか、涼州での長城建設は遅れ気味だとか」 「ふうん。たしかに目新しいことはないわね」  既知でないとしても、予測されていたことばかりであり、驚くようなことはない。一歩引いた立場で一刀の統治に関わっている華琳であったが、彼女でもそうであろうと考えていたようなことばかりだ。 「うん。でも、多方面から情報が入るのはありがたいよ。つきあわせれば伝聞の間違いなんかも浮かび上がる」 「ええ、そうね」 「それでちょっと疑問に思ったことがあるんだけどさ」 「ん?」  なにかおずおずと言ってくるような様子に、彼女は一刀がいるはずの方向に目をやった。もちろんそちらは壁があるばかりで彼の顔は見えないのだが。 「俺の世界での話なんだけど」 「ええ」 「この先の出来事に関わる事じゃないはずだから、話しても問題ないと思うんだよ」 「別にいいわよ。もう」  男の言い訳じみた口調にわずかな間呆気にとられていた華琳は、次いで実におかしそうに笑った。 「え?」 「いまはあなたが帝なのよ。私は自分自身が統治をしていく上であなたの世界の歴史の流れを聞くことが判断の邪魔になると考えたけれど、あなたはもうそれを知っているんだから、遠慮しても意味ないでしょ」 「……あー……」 「いいから続けなさいよ」  なんだか得心したという意味と、それとは裏腹な恐怖の籠もった声に、華琳はわずかに同情するように眉を顰め、しかし、声には感情を乗せずに促した。  突き放すようなことをするのは個人の感情としては避けたいが、為政者の座を彼に託した曹孟徳として、甘やかしてばかりもいられないのだ。 「あ、うん」  一つ咳払いして、一刀は説明を始める。 「ええと、俺の世界でも……というか、俺の世界の過去でも、というべきか。ともかく、群雄の一人だった劉備が漢を継ぐんだけど、桃香みたいに補佐する立場じゃなくて、帝になるんだよね」 「ふうん?」 「それまでも益州で国を保っていたのに登極したのは、漢を滅ぼして、魏が帝国になったからなんだ。直接的には、魏が取って代わる時に、漢の皇帝が殺された……っていう噂が流れたからってことらしい。実際には帝は帝位を譲って生きてたんだけど」 「ありそうな話ね」  桃香たちの蜀漢が生まれたのも、蓬莱が帝国として生まれたからだし、蓮華たちの対応もそこから出てきたものだ。さらに国が替わる時に前代の頂点に立つ者が処分されるのも当然にあり得ることだろう。  実際にそれが成されなくとも、きっとそうしたはずだという憶測が流れても不思議ではない。 「うん。まあ、噂自体は自然に発生すると思うんだよね。実際、今回も色々と噂は出てるようだし。それはともかく、国の中枢がその噂を真に受けるってあり得るのかな、と思って」  言いながら、一刀がばさばさと書類をめくっている音が聞こえてくる。彼が生真面目な顔でいくつもの書簡を見比べている光景が、華琳の脳裏にまざまざと描き出された。 「いろんな情報を集めてると、不自然な点が出て来ると思うんだけどなあ」 「知っていてもあえて乗ったのかもしれないわ。政略としてね。でも、それよりは……」  そこで華琳は言葉を切り、男の注意をよりひきつける。 「そう、信じたかったんじゃないかしら」 「ふむ……」  一刀の返事は一拍遅れた。しみじみとした頷きの声が聞こえてくる 「帝が殺され、その遺志を継ぐために国を建てる。美しい筋書きだもの。たとえ噂に流されたとしても、その志は保障される」  だが、桃香はそれを選ばなかった。一刀はさらに困難な道を選び、蓮華もまた己で立つことを決めた。  華琳はそのことを誇りに思う。  だが、その称賛を口にすることはせず、華琳は厳しい声で警告を発した。 「あなたも気をつけなさい。自分が望むとおりの情報が与えられれば、人間ころっとそれを信じてしまうものよ。まして真実を織り交ぜて来られれば」 「肝に銘じるよ」 「そんな罠に陥らないためには、さっきあなたが言った様に、多数の源からの情報を比べてみる事、それに……」 「それに?」 「直に見る事よ。たとえば顔を合わせて」 「ふむ」  そこで、言葉は途切れた。そして、次の言葉が発せられるまで、しばらくの間があった。 「たしかにそれが一番だ」  声が聞こえる。  まるで同じ部屋にいるかのような声が。  だが、湯気の向こうに揺らめく影はなんだろうか。  華琳はその気配に向けてにっと悪戯っぽい笑みを浮かべて見せるのだった。  3.涼州 「お姉様、なに見てるの」  都で御料車『玄武』がお披露目されている頃、金城の執務室では、大まじめな顔で涼州の主が竹簡を睨みつけていた。たまたま部屋の前を通りかかった蒲公英は従姉の鬼気迫る表情に思わずそう声をかけてしまう。 「ん、手紙をな」 「誰から?」  執務室に入ってきた従妹を追い払うでもなく、西涼王は栗色の髪を振りながら、机の上の竹簡を指さした。まずは左を、次いで右を。 「こっちが桃香さま、こっちが一刀さんだ」  その台詞に、蒲公英の頬がひくひくと蠢く。  婚儀を挙げて以来、翠は無意識なのかどうか、一刀のことを『一刀さん』と呼ぶことがあった。普段は蒲公英の前でも『一刀殿』と呼んでいるし、馬家の親族以外がいるところで『さん』と呼んでいるのは聞いたことがないことからして、親しい相手に対して気が緩んだ時に出てしまう癖なのだろう。  あるいは、実は翠は心の中では一刀さんと呼んでいるのかも知れない。  蒲公英だけではなく一族である馬鉄や馬休もそれに気づいているが、礼儀正しい二人はそれを丁重に無視している。いつ当人が気づくかとわくわくしながら見守っているのは蒲公英だけであった。  蒲公英としてはこのまま翠自身は気づかずにいてほしいと願っている。  当の一刀を皆の前でそう呼んでしまった時が見物だからだ。  その時のために、彼女はこのところずっと、その呼称を聞いても表情に出さぬよう我慢しているのだった。  実際、いまはそんなことを言っている場合ではない。 「……どっちもうちに協力しろって?」 「まあ、手っ取り早く言えばな」  言いながら、翠はふるふると頭を振った。くくられた長い髪がゆったりと揺れた。 「当たり前と言えば当たり前なんだ」 「そりゃあ、うちが桃香さまたちに協力したら、一刀兄様を討つのには好都合だよねえ……」  蜀漢と協力すれば蓬莱の中心、魏本土を挟撃し、長安を窺うことも可能な涼州の位置、そして、馬家を頂点とする涼州騎兵の実力。  これらを鑑みれば、蜀漢が西涼を取り込もうとしないはずない。まして翠も蒲公英も桃香に仕える武将として過ごしてきたのだ。 「蓬莱にしてみりゃ、とんでもない不都合だ」  蓬莱側から見れば、魏時代に西方からの進撃を阻むために征服した土地を返還した途端に背かれたではたまったものではないだろう。  涼州侵攻については未だに恨みが燻っているところもあるにしても、北伐などを行って涼州全体の安定に尽力したのも事実なのだから。  それだけ手をかけた相手が敵に回れば実際的な脅威に加えて精神的な打撃もあることだろう。 「でも、一刀殿だからさあ……」  つんつんと翠は一刀からの書簡をつつく。そのなにか拗ねているような仕草は蒲公英から見ても実にかわいらしかった。 「お姉様の好きにしろって?」  彼女は従姉の態度から予想して問いかけてみる。 「うん」 「……だよねー」  はあ、と蒲公英はため息を吐く。一刀兄様も、ずばりと言っておけば、お姉様も悩まずにそっちにつくだろうに、と思うのであった。  だが、一刀は翠自身、そして、涼州そのものの選択を尊重するだろうことも彼女にはわかっている。 「まあ、あたしの、というよりは涼州のいいように、だけど」 「でも、結局はお姉様の決定でしょ?」 「うん」  こくりと頷く翠に、蒲公英は困ったような顔をする。どうやったら力を貸すことが出来るのか、彼女自身よくわからないためであった。  翠はその表情をどう受け止めたのか、ゆっくりと蒲公英に語りかける。 「一刀さんは、動かなくてもいいって言ってるんだよな」 「え?」  さすがに呼称について構っている場合ではなく、蒲公英はいつの間にか俯いていた顔をはね上げる。 「最初は動かないでおいて、有利不利が決まったらそっちにつけばいいんじゃないか、って」 「えー……」 「卑怯だって思うよな。だけど、それが涼州のために必要ならあたし個人の考えは抑えつけてでも選ぶべきだろうって」  小さく肩をすくめる翠。一刀の考えをそのまま述べているのだろうが、納得はいっていないのだろう。だが、反発しているというわけでもないのは、その平静な様子からわかる。 「とはいえ、うちの軍師殿は、馬家の気性あってこそ涼州は従ってるって言うんだよな。あたしとしてはそっちも正しいと思うんだよ」 「つまり……うーんと?」 「あたしはあたしらしく選ばなきゃいけないってこと」 「そっかー」  結局は翠次第というところにたどり着くのか、と蒲公英はがっくりと肩を落とす。  たとえ少々軽率なところがあるとしても、蒲公英は翠の判断を疑ったりはしない。本当にどちらかに肩入れすると決まれば当然に従うつもりだ。  だが、そこに至るまでの道筋をどうつければいいのか、いまひとつ思いつかなかった。西涼の軍師である徐庶がその役を担うのだろうが、蒲公英は蒲公英なりに力になりたいと思っているのだった。  なにしろ、事は故郷とそこに生きる人々……彼女が大事に思う人々に直接に関わるのだ。  そして、どちらに味方するにしても、大事な人を敵とすることになる。 「ねえ、お姉様」  蒲公英はしばらく考えた後で、翠のほうを向いた。見つめる相手とよく似た、だが年長の翠よりは丸みの強い顔が、真剣な表情をたたえている。 「ん?」 「これからの話は、あくまで、『もし』ってことで聞いてね?」  そう前置きした後で、従姉が頷くのを見届けて、蒲公英はこう訊ねるのだった。 「桃香さまたちについた場合、みんなついてくるかな? 逆に一刀兄様のほうの場合はどうなの?」  4.特使 「……わたくしにそれを?」  翠と蒲公英が、二つの国からの書簡を前に語り合ったその半月後。  同じ執務室に、そう問い返す女性の姿があった。  豊かな胸を揺らすその人物こそ、かつて曹孟徳に敗れ、一人死に花を咲かせようとしていた錦馬超を押しとどめ、蜀へと導いた女――紫苑であった。 「ん。あたしたちも色々考えてみたんだけどさ。そっちはどう思ってるのか聞かせてもらおうと思って」  蜀漢に対して使者を要求したのは翠であるが、誰が来るかまでは考えていなかった。  しかし、紫苑が現れてみれば、それはそうだろうなと得心してしまった。彼女は紫苑を迎え入れ、そして、かつて蒲公英が彼女に問いかけたのと同じ質問をしたのだった。  即ち、西涼が蜀漢に協力した場合、どれほどの動きを予想し、そして、期待しているのか。あるいは逆に蓬莱についた場合はどんな事態を見込んでいるのか。  翠はそれを直接に蜀漢側から聞き出すつもりであった。 「涼州が一体だと考えているなら、桃香さまたちは甘いよ。北伐の様子を見てもわかるだろ? あくまで、涼州はいろんな勢力がまとまってできてるんだ。いまのところはあたしの意向に従ってくれてるけど、自分たちが損をしてまでついてくるって奴らは少ない」  黙っている紫苑に、翠はさらに言葉を重ねる。 「実際、蜀はどう考えてるんだ? それを聞かせてもらわなきゃ、協力なんて話は出来ないだろ?」 「ええ。その通りね」  ようやく、紫苑は顎を引き、軽く頷いた。実際、翠の言うことは尤もなものだ。  紫苑にしてみても、そして、蜀漢の頭脳たる雛里や朱里にしても、翠が昔の仲間であるというだけで協力を期待しているわけではない。  蜀漢側の意向を説明できるこの機会は非常にありがたいものであった。 「もちろん、一番理想的なのは、涼州がまとまって動いてくれることよ。けれど、わたくしたちもそこまでは楽観的じゃない。西涼は建国間もないし、なによりそれ以前は魏の影響が強かったのですもの」  紫苑はいつも通りの優しい声でゆっくりと翠に語りかける。彼女はそこまで言ったところで艶やかに微笑んだ。 「はっきり言うと、牽制してくれれば十分だわ」 「牽制?」 「ええ。動くと見せかけてくれるだけでいい。いえ、多少は動いてくれても構わないけれど、一緒に長安や洛陽まで攻め上がって欲しいとまでは言わないわ」 「んー……」  翠が紫苑の言葉を吟味するように間をあける。その間、紫苑は翠の真っ直ぐな視線をじっと受け止めていた。 「つまり、あたしたちが『動くかもしれない』って一刀殿に思わせるだけでいいって?」 「ええ。その通りよ。それだけでも十分に軍事的な効果が得られることは、翠ちゃんもおわかりでしょう?」  ひらひらと手を揺らしてみせる紫苑。それに対して翠は小さく頷いた。どこか釈然としないような顔つきではあったが、紫苑が言うやり方の効果に関しては認めている様子であった。 「まあ……それなりの兵を割かなきゃいけなくなるしな。蜀との決戦があるとして、その時にうちのほうに割く兵が出てくれたらそれでいい、か……」  涼州が敵に回るというそれだけでも十分な衝撃である。その上にいつやってくるかもわからないとなれば、長安及びその西方、北方に数多くの兵を張り付けて置かざるを得なくなる。たとえ実際に動かないとしても、蓬莱にしてみれば、とてつもない脅威であろう。  いっそ、兵を動かし、敵陣前に対陣させておくだけでもいい。実際の戦闘をせずとも足止めには十分だ。 「翠ちゃんたちにとって大事なのは涼州よね?」  不意の質問にびっくりしたように翠は体をのけぞらせる。 「そりゃそうだよ」 「でも、一刀さんも大事よね?」 「そ、そりゃ、大事さが違うだろ!」  顔を赤くして腕を突き上げる翠の勢いを一切気にかけず、紫苑は静かな調子で言葉を続けている。 「わたくしたちは、一刀さんたちを攻め滅ぼそうとまでは考えていない。これまでの……ああ、いえ、涼州と幽州を除いたこれまでの魏の領土に収まってくれているならそれでいいの」 「涼州はあたしが、蜀は桃香さまたちが、魏は一刀殿が、ってわけ?」 「そう。それに白蓮さんが幽州、孫家の人たちが呉、南蛮は美以ちゃんたちね」  つまりは、これまでの三国体制に多少の変更を加えた形というわけだ。 「そううまくいくのかな?」 「これまではそれでうまくいっていたわよ? 新しく涼州、幽州が加わるまでだわ」  紫苑はあえて軽い調子で答える。  だが、翠は首をひねっていた。そうせずにはいられないというように。紫苑にはそのことが気にかかる。 「うん。まあ、わかった。一刀殿たちを攻め滅ぼすまではいかないから、うちはそこまで強力にまとまってなくても大丈夫ってわけだな。それに、そこまで直接的に動かなくても、見返りは用意されると」  見返りは、涼州の完全なる自治というところであろう。さらには蜀との積極的な交易なども将来的にはあるだろう。 「ええ」  紫苑はこれも深くは踏み込まずに流す。詳細な条件にまで踏み込むならば、それなりの言質を取る必要があった。翠がまだ心を決めていない時点で軽々に深い話をするわけにはいかない。 「じゃあ、もう一方の道はどうなんだ?」 「翠ちゃんたちが一刀さんの側に立つ場合?」 「ああ」  訊ねかける翠に対して、紫苑は口元に手をやり、困ったような顔つきになった。 「残念だけど、それは明らかに出来ないわ」 「え?」 「だって、わたくしたちにとって大事な予想であり、それに対する策ですもの」 「……それもそうか」  言われて初めて気づいた、というような表情で翠は腕を組んだ。これは困ったぞ、と呟きながら何ごとか考え込む翠の姿に思わず微笑んで紫苑は補足する。 「ただ、もちろんそれくらいのことは想定しているわよ。できることなら起きて欲しくないことも、わたくしたちは考えているわ。それでも予想外のことなんていくらでも起きるものだけれど」 「起きて欲しくないこと……か」  紫苑の言葉を微妙な顔つきで繰り返す翠。それを聞く紫苑もまた複雑な表情を浮かべている。そもそも、現状そのものが起きて欲しくなかったことではないだろうか。  かつての三国の戦乱が再び怒りかねないこの緊迫した状況が。 「ところで翠ちゃん。わたくしのほうからもいくつか訊いていいかしら? 桃香様からも、朱里ちゃんたちからも色々とことづかっているのよ」 「ああ、うん。でも、それは少し待ってもらって……」  そこまで言ったところで、翠が不意に立ち上がった。そのまま弾かれるように席を飛び出し、部屋の扉を開ける。 「翠ちゃん?」  紫苑が不思議そうに問いかけ、体をそちらに向ける。  その時、彼女は見た。  何ごとか叫んで扉の外の男に抱きつくように近寄る翠と、それをふわりと受け止める男の姿を。  その腕の感触を、彼女は知っている。  その男の香りを、彼女はよく知っている。 「一刀殿!」  翠の嬉しそうな声が、その正体をまさに明らかにする。  そう、そこに立つ男こそ、紫苑の、そして翠の夫たる人物。 「いやあ、すまん。霞と絶影に頑張ってもらったんだが、やっぱりそれなりにかかっちゃってね」 「か、一刀さん!?」  思わず椅子を倒しながら、紫苑が立ち上がる。 「やあ」  暢気な声をあげながら、男が片手をあげた。 「す、翠ちゃん、こ、これはどういうこと?」 「だって、両方から話を聞かなきゃいけないだろ?」  動揺しきりの紫苑に対していっそ不思議そうに、翠はそう問い返すのだった。      (玄朝秘史 第四部第十七回『胡馬北風』終/第四部第十八回に続く)