大陸を覆う混乱の渦は次第に、そして確実に大きくなっていた 小規模な炎は次第に大火へと変化を遂げ、更に巨大化する恐れもある 枯れた草原に走る野火さながらに、戦乱は広がりつつあった 「今のところ、目立った被害は無いか」 「とは言え、襲われる回数は確実に増えているのです」 漢中の<流星屋>の執務室で、一刀は机に積まれた竹簡に視線を落とした その傍らでは、音々音が目を通していた紙片から顔を上げた 実際に<流星屋>が主導する大規模商隊は、既に何度も盗賊や暴徒によって襲われている ただ、その周囲を固める護衛総隊により、目立つような損害は今のところ発生していない 「現状で済めばいいけど……そうもいかないだろうしな」 少しばかり疲れた表情で一刀が溜息を吐き出す 一刀の――というか史実の――知識通りであれば、この混乱は更に加速する筈だ それに応じてこちらも対応策を検討してはいるが、頭の痛い事に変わりは無い 「全く……困ったもんだ」 「その通りなのです」 心底疲れた様子で呟く一刀に、音々音が同意の声を上げる やはり、商いにとっては現状は好ましいものではない 今後の事を考えれば溜息が出るのも仕方があるまい 文字通り頭を痛める一刀だったが、その耳がノックの音を捕らえた 「申し訳ありません、若旦那」 「どうした?」 見れば扉の隙間から、番頭がこちらを覗き込んでいる その顔にやや困惑の色が浮かんでいるのを、一刀は見て取った 「お客様が、見えられております」 「客?」 「はい、趙雲殿のご紹介だと」 「星の……」 星の悪戯っぽい笑顔を思い出した一刀は、背骨を鳴らしながら立ち上がった 星の事を良く知らない音々音が、不思議そうな顔で見上げる そんな音々音に軽く笑みを返すと、番頭に向き直る 「で、名前は?」 「何でも――劉備玄徳殿、と」 異説恋姫・05 The IdolSister 「初めまして、北郷一刀です」 「劉備玄徳です」 「鈴々は鈴々なのだー」 「こら、鈴々……失礼、私は関羽雲長と申します。この子は義妹である張飛翼徳です」 屋敷の中の応接室で、一刀と音々音は三人と対峙していた 優しげな雰囲気をまとう劉備に、一刀は妙な所で納得していた (確か人徳に秀でてたんだっけ……知恵と武勇は人並みなのかな) その内、武勇を担当するのがその両隣に座る二人だろう 黒髪で意志の強そうな瞳をしているのが関羽、小柄で元気いっぱいなのが張飛 どちらもある意味では後世のイメージに近い(男女の差異はあるが) ここに孔明や趙雲が加われば、一般の人が描く蜀のイメージになるだろう 「……星、じゃなくって、趙雲さんからのご紹介という事でしたが」 「はい。先ずはこれを」 関羽が取り出した紙片を音々音が受け取り、一刀に手渡す 小さく頷いてその紙片に目を走らせれば、そこには星が書いたと思われる一文があった 『一刀殿、この三人は信頼に値する。蒼空の名の下、彼女達への助力をお願いしたい』 ふむ、と小さく息を吐いて背もたれに身体を預ける 星の悪戯っぽい笑顔を思い出しつつ、視線を目の前の三人に向ける 「失礼ですが、三人は趙雲さんの真名を?」 「あ、はい、星さんからは許してもらってます」 「左様で」 何処か嬉しそうに答える劉備に、一刀は優しげな表情を浮かべる あの星が真名を許しているという事は、本当に信頼に足る人物なのだろう もっともそれ以前に、かの英雄・劉備であるという時点でかなり一刀の好感度は高い 「星は、一緒ではないんですね」 「暫く一緒にはいたのですが……また何処ぞへ行ってしまいました」 何とも言えない表情で関羽が答える 真面目そうなだけに、星の行動には振り回された事もあるのだろう 心の奥で同情しながら、一刀は紙片を三人に返した 「星の紹介であれば歓迎します。どうぞ、ご用件を仰ってください」 「あ、有難う御座います」 「おぉ、やったのだ、本当に上手くいったのだ」 「こら、失礼だろう!……北郷殿、失礼した」 目に見えて嬉しそうな劉備に、分かりやすくはしゃぐ張飛、それを叱る関羽 まるで本当に姉妹のように見えて、一刀は思わず目を細めた (天然でおっとりした長女に、気苦労の耐えない次女、わが道を行く三女ってトコかな……) 何となく暖かな雰囲気になった一刀だったが、商売人としての仕事はせねばならない 真剣な表情になると、改めて口を開いた 「それで、ご入用のものは?」 「えっと、ですね……」 何処か遠慮がちに劉備が口を開く 三人が求めてきたのは(予想通りというか)資金と武器の援助だ 義勇軍を立ち上げつつあるものの、やはり元手が無くて困っていたらしい 「困っている人達がいて、それを黙って見ているなんて、出来ないんです」 おっとりした表情が似合う劉備が、表情を改めて呟く 恐らく、根は優しくてお世辞にも戦に向いているとは言えない人物なのだろう だが、それ以上に誰かが傷付いていくこの混乱に心を痛めているに違いない だからこそ自身が旗を振って義勇軍を立ち上げようとしているのだ 「きっと平和な世が来ます。その為に、私が出来る事は何でもしたいんです」 そうきっぱりと言い切った劉備の瞳には、決して折れる事の無い意思の光が輝いていた 「どう見る?」 「お人好しではありますが、意思は強そうですぞ」 援助を確約し、喜色満面の三人を見送ってから、執務室で一刀は音々音と向かい合っていた 音々音に対して劉備の印象を聞いたのは、同じ時代の人間の意見を聞きたかったからだ 時代が離れれば、それだけ多くのフィルターがかかってしまう 英雄・劉備を知る一刀と、人間・劉備を見た音々音との間のギャップをどうしても知りたかったのだ 「それに関羽殿、張飛殿と言えば音に聞こえた武勇の士」 「何でも義姉妹の契りを交わしたそうだしな」 「人徳と言うべきなのです……」 どうやら概ね音々音の劉備に対する評価は良いようだ 理想主義者の傾向はあるものの、理想を追って悪いという事は無い 性格的に上に立つには不向きな部分もあるが、そこは周囲がフォローするだろう 「どちらかと言えば、周囲との信頼関係で立つタイプの人か」 「乱世には不向きかもしれませんぞ?」 「それを周囲が補うんだろ、あの人の周りには優秀で信頼に足る人が集まる気がするし」 少なくとも『一刀の世界』の劉備はそうだった この世界の劉備がどうかは知らないが、少なくとも個人としては好ましい人物のようだ もしも歴史通りならば、何時かは星も彼女の元に集まる事になるのだろう 「……一刀殿、少し提案があるのですが」 「ん、何?」 少しだけ遠慮がちに音々音が口を開く 音々音の『提案』には万全の信頼を置いている一刀としては、聞かない訳にはいかない 「各地の義勇軍に対して、何か援助をしたいのです」 「……それは単純な支援って訳じゃないんだろ?」 「ご明察です、見返りとして商隊の保護を求めるのです」 ふむ、と一刀が小さく呟く 確かに各地の義勇軍の中には、様々な物が不足している所もある筈だ それこそ先程の劉備達のように、援助を欲しているに違いない そこに対して援助を行い、見返りとして各地の商隊の保護を依頼する 「アイデアとして悪くは無いな」 先ず、各地の有力諸侯とのコネクションが出来る いずれ混乱が収まった時に、このコネクションは必ず役に立つ筈だ 次に、商業路の更なる安定化が望める 護衛総隊は奮戦しているが、護衛の為の戦力が多くて困る事は無い 援助を受ける義勇軍側としても、スポンサーを護る為なら気合を入れてくれるだろう それに援助とは言え、混乱の収束後には回収も期待できる まったく、悪くない話だ 「向こうがどう受け止めるか、だけど……悪くない提案だな」 「無論、中には保護まで手の回らない小さな勢力もあるとは思いますが……」 「それでもいいさ、縁を通じておけば何かの役に立つかもしれない」 商売人としての笑みを浮かべる一刀の頭の中では、既に計算が始まっていた どれほどの勢力に、どれほどの援助を行うのか、掛かる経費はどの程度か どうやら音々音の提案は、一刀の商魂を大きく刺激したらしい そのことが嬉かったのか、音々音は僅かに笑みを浮かべていた 「このままじゃ駄目よ、姉さん達」 「分かってるわ、でもここまで来ちゃったのよ?」 「今更、元の生活には戻れないと思うの」 「けど……知ってるでしょ、狙われている事」 「それは……そうだけど」 「でも、どうしようもないじゃない」 「……少し、考えがあるの」 「考え?」 「私に、任せてくれる?」 「人和ちゃん……」 「天和姉さん、地和姉さん、私に任せて」 近頃、一刀は機嫌がいい日が続いている 理由は言わずもがな、商業路の物理的安定化に成功した為だ 音々音の提案した各地の義勇軍への援助という方策は見事に成功し、各地で商隊は護られている 相応の費えは払ったが、それを差し引いても十分すぎる成果だ 勿論全土に渡って安全という訳ではないので、護衛総隊も忙しいが負担は少しはマシになっている 「このまま混乱が収束してくれればいいなぁ」 「黄巾党の本隊を叩ければ楽ですが、中々そうもいかないようなのです」 「早く収まって欲しいですね」 執務室の中、今は音々音と流琉を呼んでお茶の時間だ 常に気を張っていては疲れて仕方が無い、時にはリラックスも大切な仕事である 「劉備さん達も頑張ってるようだし、混乱も長くは続かないとおもうけどなぁ」 「ねねとしては、その後の方が心配なのです」 「兄さまとしては、どうするおつもりなのですか?」 僅かな危惧を持って呟く音々音の言葉を聴いて、流琉は一刀に問いかける 音々音には劣るとはいえ、流琉にも先を読む力はある 今後の一刀の考えが気になるのだろう 「そうだなぁ……とりあえず大きく変える部分はないかな」 「趨勢を見極めるまでは動かない、と?」 「俺達は商家だよ、天下に関わるつもりはないさ」 そう言いながらも、一刀の瞳の奥には油断ならない光も潜んでいる もしも、後に天下を統一する勢力の有力なスポンサーになれば、その影響力は計り知れない 『一刀の世界』とこの世界の流れは、今の所は一致している そうであれば投資すべきは劉備、曹操、孫権の三人という事になる しかしながら、この先も同じ歴史を辿ると言う保障は何処にも無い 今は、とりあえず様子を見ながら商売を続けていく他はないだろう 「まぁ、先を見越して色々考えてはいるけど」 「今は混乱が収まってくれるのを待つだけですね」 流琉が切実にそう呟くと、音々音も同意するかのように小さく頷いた 確かにそれが現状では一番の願いだ その為にも早く黄巾党の本隊が―― 「若旦那、失礼します」 控えめなノックの音と共に、執務室の扉が開く 顔を覗かせた番頭が、小さく折り畳まれた一片の紙片を差し出す それを受け取った音々音が一刀に手渡し、一刀は顔を番頭に向ける 「これは?」 「洛陽から。何でも至急の文との事ですが」 「ふむ」 流星屋の情報網は最近、更に大きくなってきている 今では商業情報だけではなく、ある程度の軍事情報さえも扱っている状態だ その情報網が至急というからには、本当に至急なのだろう 番頭に下がるように命じてから、一刀は折り畳まれた紙片を開き、文面を読み進める その顔が次第に強張るのを見て、音々音と流琉が顔を見合わせる 数回、紙片を読み返した一刀が大きく息を吐いて、天井を見上げた 何時になく緊張した面持ちに、音々音と流琉が何も言えずにいると、おもむろに一刀が立ち上がった 「二人とも、準備してくれ。直ぐに出立する」 「ど、どちらに?」 「とりあえずは……洛陽だ」 こうと決めれば一刀の行動は早い その日の内に漢中を出発し、護衛総隊の一部隊を率いて洛陽へと向かった 流琉を連れて行ったのは、彼女の戦闘能力が非常に高い為だ 一刀個人としてはあまり気が進まないが、実質的に一刀のボディーガードのようなものである まぁ、流琉本人としては一刀の為に働けるので、非常に張り切っている 街道を整備していた事もあり、僅かな日数で洛陽に入ると、洛陽の支店へと入った 「一刀殿、そろそろ話して頂きたいのです」 「そうです、兄さま」 支店の一室、人払いをした部屋に一刀と音々音、流琉の姿があった ここでの会話を聞いているのは三人だけだ それを確認すると、一刀は慎重に言葉を選んで話し始めた 「いいかい、これからの事は他言無用だ」 「……わかったのです」 「は、はい」 何時に無く真剣な表情に、気圧されたかのような二人は揃って首を縦に振る 小さく息を吐き出すと、一刀は再び口を開いた 「これから、とある人物と交渉に入る」 「交渉……ですか」 流琉が不可解そうな表情で呟くが、それも仕方が無いだろう 単なる交渉であれば一刀がここまで緊張する事は無い それに、わざわざ洛陽まで出向かなくともいい筈だ 忘れがちだが、一刀は大陸最大の大店、<流星屋>の主人なのだから 「問題は相手方さ、正直どうしたもんかと思ってる」 「相手方……とは?」 音々音が不安と困惑をない交ぜにした顔で一刀に問う その顔を見ながら小さく息を吐き出して、一刀が口を開く 自分達の主の口から出た名前に、二人は驚きを隠せなかった 日も落ち、月夜が空を支配する時間 そこは洛陽から僅かに外れた、人影も消えた廃墟だった その廃墟の中、周囲を護衛総隊に囲まれた一刀達の姿があった 自分達の主に危害が及ばぬよう、しかし目立たぬよう 護衛総隊の隊員達は細心の注意を払って周囲の警戒を行っていた それだけ見ても今、ここへやってくる相手が重要な人物であるという事がわかるだろう 「本当に来るでしょうか?」 「向こうが嘘をつく必要性はないからな」 不安げな音々音に、一刀はぎこちないながらも笑みを浮かべて見せる 流琉も何処か落ち着かない様子で、周囲を見渡す 今のところ、周囲には怪しい人影などは見あたらない しかし、刻限はそろそろ向こうの指定した頃になる筈だ ふぅ、と小さく息を吐いた一刀の耳に、周囲を固める隊員達の僅かなざわめきが聞こえた 更に耳をすませば数名の足音が聞こえ、いよいよ待ち人が来たらしかった 「来たか」 先ほどまでの表情が嘘であるかのように凛々しい表情へと変わった一刀が呟く 両隣に控える音々音と流琉がその声に導かれるかのように視線を巡らせた 見れば月明かりだけが照らし出す廃墟の陰から、何人かの陰が現れ、ゆっくりと近付いてくる 体感的には非常に長い時間をかけて、人影達は一刀達の元へと歩み寄った 「お待たせしてしまったでしょうか?」 「いえ、問題ありません」 頭からすっぽりとフードのような物を被った人影からの声は、予想に反して少女のものだった だが、一刀は動揺した様子も見せずに首を振った 人影は相変わらず緊張した面持ちの音々音と流琉の方に少しだけ向き直り、次いで周囲に視線を巡らせた 「ご心配なく、ウチの店の者です。この件に関しても口外はしません」 「……好意に感謝します」 小さく頭を下げると、その人影はゆっくりとフードを取り払った 月明かりに照らし出されたその素顔は、紛れもなく少女のものだった 理性的な瞳に強い決意の色を秘めた少女は、しっかりと一刀を真正面から見据えた 「先ずは……信じて下さった事を感謝します、流星屋さん」 「商談となれば何処へでも出向くのが俺の流儀ですからね、張梁さん」 黄巾の乱の首謀者の一人と目される張梁を名乗る少女の後を、一刀達は歩いていた 少し離れた位置では護衛総隊の隊員達が油断なく警戒していてくれている この警戒は、何も一刀達を守るためだけではない この極秘の商談を誰にも見つからないようにするのも、彼らの仕事である 「こちらへ」 少女に先導された先は、既に廃棄された砦だった 昼でさえ人影も疎らな廃墟は、月明かりの中ではより一層不気味な雰囲気を醸し出していた 流石に不安な表情を消せない音々音と流琉に笑いかけ、一刀はその廃墟の中に足を踏み入れる この時点で、周囲を警戒している護衛隊員達は外で待機する事になっている 朽ちかけた砦の中には、外へ明かりが漏れない程度に篝火が焚かれ、奥へ奥へと続いている 永遠にも思える時間を歩き続けた一刀達だったが、やがて広間へと出た 「まさか、洛陽に近いこんな所に身を潜めていたとは思いもしなかったのです」 「灯台もと暗し、とはこの事か」 本心から感心した様子の音々音の傍らで、一刀も小さく声を漏らす 三人を先導をしていた少女は歩みを止め、周囲に何か合図を送る ほんの僅かな時間差をおいて、周辺の物陰から何人かが立ち上がり、その中の二人が歩きだした フードを被った二人は、張梁を名乗った少女の傍らで歩みを止めると、そのフードを取っ払った 「人和ちゃん、こちらが?」 「えぇ、そうよ姉さん」 姉さん、と呼ばれた髪の長い少女が、何処か不安そうな顔で一刀の方に視線を向ける それに軽く会釈をすると、もう一人の何処か勝気そうな雰囲気を醸し出す少女も一刀の方を向いた 「流星屋さん、ご紹介します。私の姉の張角、張宝です」 「初めまして、流星屋の主人、北郷一刀です。こっちは首席補佐官の陳宮と護衛官の典韋」 お互いに奇妙な緊張感を持ったままに、顔を向き合わせる 長女と思しき張角は何処か困惑した表情のまま笑みを見せ、張宝は僅かに頷いた 「まぁ、世間話もしたい所ですが……お互いに時間もありません。早速、商談に入りましょうか」 「……えぇ、始めましょう」 ぎこちない雰囲気を察してか、一刀が殊更明るい口調で提案する その言葉に救われたかのように、再び張梁が口を開く 彼女の口から語られたのは、嘘偽りのない彼女達の現状だった 太平要術の書をいう本を手に入れてから、一躍人気者になったというこれまでの経緯 何時の間にか自分達が、この黄巾の乱の主犯格となってしまっている事 そして――どうやら自分達が追い詰められてしまいつつある事も 「成る程……」 「この乱の遠因が私達であるという事は……一概には否定出来ません」 張梁が何処か悔恨を滲ませて唇を噛む 確かに一部暴動化した彼女達のファンの行動が、この乱の引き金となったのは事実かもしれない しかし、それは彼女達に全て責任があるという訳ではない 勿論、ある程度の責任はあるだろうが、全てを引っ被る程ではないだろう それにこういった事案は規模こそ違え、一刀の世界でもあった事だ 時代や場所は違えども、この手の問題は変わらないらしい それよりも、問題なのは別の部分だ 「つまりは、それだけ現状に対して不満や怒りがたまっている、という事か」 「漢王朝に対する鬱積した不満が爆発した結果という事なのです」 何処か納得した様子の一刀と音々音 三姉妹が導火線代わりになったのは否定出来ないが、いずれ結果は同じだっただろう それだけの不満や不信が今、大陸中に渦巻いている訳だ (……漢王朝に対する資本の引き上げ時かな) 実際にこれまで流星屋として、漢王朝に対しては少なくない資本を投下してきた いずれは回収出来る筈だと判断しての事だか、そろそろ潮時かもしれない 早速、その手立てを考えねばならないが、今は目の前の問題を解決せねばいけない 「それで……私共に、どうしろと?」 「ちぃ達の事を買って欲しいのよ」 「……姉さん、その発言は誤解を招くわ」 つまりは雇って欲しいという事か その提案に、一刀は心の中で素早く計算を始めた 彼女達の――アイドルとしての価値は計り知れない 関連商品を作れば確実に売れるだろうし、店の広告塔としても文句はない 懸念があるとすれば経費だが、そこは十分に元が取れるという予感があった こちらとしてはメリットが大きな話だ、しかしそれだけではないだろう 「こちらが求めるのは、仕事を続けられる事と……身柄の保護です」 「仕事に関してはこちらも望む所だけど」 身柄の保護、これが恐らくは本当の要求だろう 遅かれ早かれ彼女達は乱の首謀者として捕らえられ、罰せられる その罰がどんな形になるかは分からないが、碌な事にはなるまい だったら、誰かに保護を頼んだ方がまだマシという事だろう 「しかし、何故私共に?」 「流星屋さんは、様々な方面にツテがあると聞きました」 聞けば親しくしていた行商人から流星屋の事を聞き、一種の賭けで連絡を取ったのだという 行商人から洛陽の支店へ、そして一刀の元へと、こうして報せは届けられた訳だ それに、商売人であればまだまだ商業価値のある自分達を無碍にはしないだろうという思いもあった それを聞かされると、流石に一刀の顔にも苦笑が浮かぶ 「否定はしませんがね――とはいえ、簡単な話ではないですよ?」 「わかってます、それでも尚お願いしたいのです」 苦渋に満ちた張梁の顔を眺めながら、思案に入る 確かに彼女達を雇う事のメリットは大きいが、果たして保護し切れるのか、という思いもある 各地の諸侯は彼女達を追うだろうし、漢王朝も黙ってはいないだろう 黙らせる自信はあるが、出来れば強権発動的な事はしたくない と、ここまでは商人としての一刀の思考だ 「俺個人、北郷一刀としては――仕事云々とは別として、君達は助けたいと思ってる」 「北郷一刀として?」 「あぁ、女の子の頼みを素気無く断るのもアレだし」 「そうなの?えへへ、嬉しいなぁ」 張角が緊張感の抜けた顔で微笑む 思わず一刀も頬が緩みそうになるが、そこは何とか耐える だが、彼女達の身柄の保護をどうするかという根本的問題が解決しなければ、助ける事もままならない どうしたもんかと腕組みをする一刀だが、それまで静かに何事かと考えていた音々音が口を開いた 「お聞きしたいのですが……張梁殿達の顔と名前を知っているのはどの程度の者達ですかな」 「そうですね……私達の身近で働いていてくれている方々ですから……」 「多くても二十人くらいじゃない?」 「……それならば何とかなりそうですぞ、一刀殿」 何か策を思いついたらしく、音々音が一刀の方に向き直る 腰を屈めて口元に耳を寄せると、音々音がその策の説明を始める 吐息がかかってくすぐったいな、等と下らない考えをしていた一刀だったが、次第に真剣な表情になる 興味深そうにこちらをみる流琉と不安そうな三姉妹の視線の中、一刀はゆっくりと姿勢を正した 「ウチの筆頭補佐官がいい策を考えてくれました」 「――では?」 「えぇ。商談成立といきましょう」 その言葉を聴いた瞬間に、三姉妹の顔に笑みが浮かんだ 元々断られる前提での商談とはいえ、期待をしていたもの事実だ 特に張梁は提案者としてかなり気負っていたに違いない 思わず砕けそうになる足に力を入れて、しっかりと一刀を見据えた 「感謝します、流星屋さん」 「いえ、貴女達にはこれから少し大変な事をしてもらわなければなりませんから」 「大変な事?」 きょとんした表情の張角が首を傾げる 周囲にいた彼女達の側近も、不思議そうな顔でこちらを見てくる その視線を一身に受け、一刀はゆっくりと口を開いた 「とりあえず――皆さんには死んでもらいます」 各地の商業情報に目を通す生活にも大分慣れたものだ 漢中の執務室で竹簡に目を通しながら、一刀はぼんやりとそんな事を考えていた 黄巾の乱はすでに収束に向かっている 首謀者であった張角ら一向が崖から転落死したという情報は既に大陸中に広まっていた その多くは流星屋の商業ネットワークによって流布された物だが、噂が広まるのは早い 官軍の一団が崖下でそれらと思しき死体を発見したという話も瞬時に広まった お陰でここ最近は目立った混乱もなく、商業路は元に戻りつつあった 「やはり平和が一番だなぁ……」 しみじみと呟く一刀を見て、音々音が忍び笑いを漏らす 彼女の計略は見事にその役目を果たした事になる 幾らかの費えは払ったが、それも些細な事だ 「さてと……彼女達の舞台は明日からだっけ?」 「はい、今から待ち切れない者達もいるそうですぞ」 「成功させたいなぇ、数え役満姉妹の公式初舞台だ」 にこやかに笑う一刀の机の上には、既に見慣れた彼女達の宣伝用広告が置かれていた 「人相が割れていないのをいい事に、死を偽装する、か」 「他に方法はありませんでしたので」 音々音が考えた方法は単純なものだ 三姉妹の顔と名前を知っている者を含めて、彼女達を殺す――ただし名目上の事だ 適当な死体を用意してそれを張角ら一向だという噂を流して、大陸中に広める 後は、死体を発見する筈の官軍に少しばかり金を握らせればどうにかなる 幸いな事に、張角ら一向の人相は誇張されて広まっていた為、疑う者はいなかった 今後は三姉妹合わせて『数え役満姉妹』の名前で、主に漢中周辺でコンサートを企画している 既に人気は高く、熱心なファンも増えてきている 「思った通り、彼女達の商業価値は計り知れないな」 「売り上げも上場ですぞ」 既に公式グッズを一部先行発売しているが、予想以上の売り上げだ これであれば明日のステージも成功間違いなしだろう 嬉しそうに笑う音々音に、一刀も笑顔を向ける だが、一刀の心の奥では、魚の骨のように引っかかるモノがあった それは、数ヶ月ぶりに開いた『世界史』の資料集の一文だった <董卓仲穎、都にて専横を極める> 天水の月達が洛陽へと向かったという知らせが入る、ほんの半年前の事だった