玄朝秘史  第四部第十六回『独立自存』  1.襄陽  北郷一刀登極より一ヶ月。  いかに噂が駆け巡るのが早くとも、大陸は広い。情報通と言われる人間であっても、実際に実力者層に食い込んででもいなければ、この頃になってようやく全体の事態を把握した、という者も多かったであろう。  漢朝の帝が都を捨て、漢中に走り、蜀と結びついて蜀漢となったこと。  残された洛陽において曹孟徳が漢朝の終焉を宣言し、北郷一刀が帝となり、蓬莱が成立したこと。  江東の地において、孫呉が独自の動きをしていること。  これらについて人々はそれぞれの立場に応じて様々な意見を持ち、そして、町のそこかしこでは議論が戦わされた。 「しっかし、あれだね。漢の天子様ってのも情けないね。黄巾には負けっぱなし、董卓にはいいようにされて、最後に入ってきた宦官の孫になんもかんも取りあげられちまった」 「おい。曹司徒を莫迦にするもんじゃねえぞ。あの方は立派な方だ。俺の従弟が洛陽で面倒に巻きこまれた時……」 「ああ、ああ、その話はもういいって。だけどな、曹操様がどんだけ立派でも、帝を追い出すとなれば、こりゃあ大層な事じゃねえか? 逃げっちまうのも情けねえが、そうなるまでにかなりいびられてたんじゃねえかとも思うぜ」 「いや、しかしなあ……」  数人の男たちが酒屋の一角でそんな話をしているかと思えば、店の別の席では、三人の身なりのいい男たちがひそひそと囁き交わしている。 「聞いたか、孫呉の噂」 「ああ。なんと帝を称するとか。帝が三人とはな……」 「この辺りにも影響はあるな」 「しかし、ここはこれまで曹魏が握っていた土地だ。そうやすやすと孫呉に渡すまい」 「当たり前だろう。だが、そこまで早々と手が回るかどうか」 「……保険は必要だろうな」 「伝手は?」  囁き声はさらに抑えられ、余人の耳には聞こえなくなっていく。さらに別の一角では、若い男女が二派に分かれて白熱した議論を交わしている。 「つまりは、忠を重んじるか、実利を重んじるか、ということだ」 「忠というが、忠を尽くすべき相手がそれにふさわしい器を持たぬのならば、かえってそれに盲従するのは守るべき民への不忠ではないか」 「そうやって疑って下が勝手をすれば、行き着くところは乱であろう。そこで迷惑するのは民ではないか」 「そんなことは皆、わかっている。それでも貫くべき義と理があるのだ」 「ほう。それはいかなるものだ。蓬莱の義はいかに。孫呉の理はどこにある」 「漢には出来ぬ事をやるだけでも価値はあろう」 「いやいや、待て、まずは落ち着いて現状を考えるべきで……」 「そうやっていつまでもぐずぐず……」  そんな喧騒に包まれた酒屋の出口のすぐ近く。夜風が吹き付けて余人が座りたがらぬ席で一人酒を飲み続けていた男が、ふらりと立ち上がった。店主に声をかけ、金を置いてそのまま店を出る。  楽しげな酔いを感じさせるふわふわとした足取りは、彼の姿が裏道に入った途端に消え失せた。急ぐでもなく、さらに数歩進んで夜の闇に身を隠し、声をかける。 「出てきなよ」  それを受ける者はいないかに見えた。彼を尾行している者がいたとしても表通りまでは遠すぎる。だが、答える者はいた。 「なんだ、ばれてたか」  道の先、彼がたまたま入り込んだとしか思えない裏道の奥で、闇が蠢いた。人影と認めるのも難しいおぼろげな影が、男とも女ともつかない声を発している。 「わざとらしいぞ、牛」 「そうだな、馬」  男の目には相手が見えているのかどうか。距離を保ったまま、二人はお互いの姓を呼んだ。それが生まれついてのものであるか、彼らはお互いに知らない。  ただ、牛の前で馬は馬を名乗っていたし、馬の知る限り、牛は牛であった。ただし、名前は偽名が多すぎて、お互いに覚えていない。 「こんなところでなにをしている、牛」 「それはこっちの台詞だな。ここは蓬莱の領土だぞ、馬」  牛の言葉に、男は唇を歪める。おかしな言葉を聞いたとでも言いたげに、彼は嘲りの言葉を放った。 「蓬莱? はて、聞き覚えのない名前だな」 「ほう? 孫呉は蓬莱『王』を認めているはずだがな」  蜀漢と蓬莱は対立する国家として存在する。それは、お互いが帝国を名乗り、帝を抱えている以上は自明の理だ。  その中である意味取り残された形となった孫呉は狡猾な動きをしていた。呉主孫仲謀は、帝位につく準備を続けながら、蓬莱の建国を認めたのだ。  魏と西涼、仲に幽と四国をその領内に呑み込んだ蓬莱『王国』の建国を。  彼らは劉協の脱出と北郷一刀の登極を認めず、漢朝の下に存在する『蓬莱王』北郷一刀に、これまで魏王に対して示してきたのと同じ協力の姿勢を表した。  蓬莱から下される官位、宝物、全てを受け取りつつも、それらは全て漢からのものであると称したのだ。  その一方で、呉は蜀漢の建国について認めなかった。  帝位につく者が都を捨て、民を捨て逃げるなどありえないことであり、すなわち蜀漢にいるという今上帝は偽物であると断じたのである。  蓬莱側を漢の窓口であると規定している以上、それは当然の成り行きであったろう。  もちろん、全てが戯れ言である。だが、他の二国はその態度にも儀礼的な非難を行うのみで、実際には行動に出ることはなかった。  少なくとも、いまは。  これらの状況を鑑みるに、孫権が帝を名乗る以前から三国鼎立は事実上復活していたと言えよう。 「最近、世間に疎いんだよ、牛」 「だから、情報集めか。精の出ることだ、馬」 「ああ、そうだな」  二人はくっくと喉にかかる笑い声をたてる。たとえいまのように混迷した状況でなくとも、情報を集めるのが二人の仕事であった。  何度も同じ任務をこなしたし、共に同じ主に仕えた。  だが、二人の道は分かれた。  馬は建業に残り、孫家を継いだ蓮華――直接的には明命――に仕え、牛は姿を隠した冥琳に応じてその足跡を消した。  そして、今日、ここ――襄陽の裏道で行き会うまで、生死すらお互い知り得なかった。それが闇に潜む者の生き様であった。 「さ、それでなんの話だ、牛」  二人はお互いの仕事をよく知っている。  今日も馬は襄陽で噂される人々の言葉から蓬莱側の動きに関する情報を探り当てようとしていたのだろうし、牛はそんな馬を監視していたか、あるいは南方の動きを探っていたのかだろう。  どこを相手にするにせよ、人と物の行き交う襄陽は探りを入れるにはもってこいの場所であり、牛や馬以外にも幾多の間諜が放たれているはずだ。  だが、お互いに不干渉であるのがこの稼業の鉄則である。  関わり合いになるとすれば、相手が持っているはずの情報を得る為に捕縛するか、あるいは邪魔と見て排除するか。いずれにせよ物騒な話が待っている。  だから、馬はさりげなく脇に垂らした腕で暗器を握りこんでいるし、彼の脚はいつでも動けるように適度に緊張を与えられている。  だが、彼はもう一つの可能性を忘れていたのだった。 「伝言だよ」 「伝言?」  そう、彼らを使う人間がお互いに直接的に情報を伝えあえない状況で、使者として用いられることもあることを。  だが、もちろん、死という形で伝言が示されることもある。馬は緊張を解かず、先を促した。 「言ってみな」 「いや、簡単なことなんだ」  なぜだか、ばつが悪そうに、声は続ける。高くなったり低くなったりして、年齢も性別も判別できないような声であったが、長いつきあいの馬はその感情をなんとなく察していた。 「うちの大将がそっちに送った手紙だけどな、馬」  手紙のことは知っている。殿中で披露され、文武百官の怒りを買ったと噂の代物だ。実際、馬のような生業の者だけではなく、建業の一般人にも漏れ伝わったそれは、たしかに呉人の怒りをかきたてずにはいられないものであった。  蓬莱の皇帝というのは色々と噂を聞くが、妻に対する手紙の書き方はへたくその極みだと、馬たちは思ったものだ。  なにしろ、賛否両論渦巻いていた孫呉帝国の成立を、まず間違いないものとしてしまったのだから。 「江水の畔と書いてあったのは、ありゃ、ちょっとした勘違いだ」 「勘違い?」 「ああ、うちの大将はほとんど洛陽住まいだからな。南の地理には疎い。それはわかるだろ?」  しばし考え、馬は頷く。彼や牛のように大陸中を行き来し、どこに行ってもまるでその土地の人間であるかのように振る舞える者たちはどこの出身だろうと関係ない。だが、普通の北方出の人間が持つ南方に対する理解は実にお粗末だ。経験上、彼もそれはよくわかっていた。 「まあ……そもそも天から来たって言うしな」 「ああ、ありゃ、本物だ。いろんな意味でな」 「……おい。お前」  牛の感心するような声に馬は息を呑み、そして、震え声を上げた。それは、とてつもない疑惑を秘めたものであったが、かえってそれを受けたほうの声がひっくり返った。 「ちょっと! そんなことしたら、公謹様にどんな目にあわされるか。いえ、いえいえいえ、伯符様に……。本当に勘弁して!」  それまでの不気味な抑揚を持つ声に取って代わって、若々しい女性の声が、悲鳴のように放たれる。その事の意味に男は身を震わせた。 「あ、ああ、悪い」 「ともかく、だ」  元通りの妖しい声に戻り、牛は話を再開する。 「江水ってのはちょっと大きなくくりなのさ。漢水も含んでるわけだ」  漢水は江水の支流にあたり、この襄陽の北を流れる。しかし、その両者の間はかなりの距離を持つ。場所にもよるが百里、二百里離れるのは当たり前だ。  もちろん、合流する地点となればその両者の差異はあまりなくなるし、洛陽やその周辺に住んでいる人間からすれば、南方の大河の総称として江水と言う名前を使ってもおかしくはない。事実、襄陽に住む人間だとて、黄河と言えばあまたの支流まで含んで指してしまうだろう。 「……そりゃあ、大違いだ」 「ま、信じるかどうかはそちら次第だがな」  孫呉の側にしてみれば、警戒する区域が増えることになる。そうやって注意を分散させるために仕組まれた欺瞞情報である可能性ももちろんある。  だが、それは馬の判断することではない。 「わかった。伝えるよ」  そう頷くのに、応じる声はない。馬自身も、暗がりの中から気配が消えていることに気づいていた。 「さて、さて……」  呟いて、彼は表通りに取って返す。その足取りはまるで酔っ払った男のもののようで、実に自然なものであった。  ただ、男の瞳だけがなにかに追い立てられるような感情に燃えていた。  2.緊張  蓮華はいまだ帝位にあらざるとはいえ、事実上、三国が鼎立することは確実となった。  だが、この状況が長くは続かないことを、誰もが知っていた。  諸葛亮は上奏する。 「必ず、あと一年のうちに、蓬莱は南下を始めるでしょう。そうするよう仕向けます。その時こそ、我らの好機」  陸遜は言上する。 「一刀さんの側はもちろん、蜀に対しての態度も決めなければいけません。そうしなければ、どちらからも攻められることになりかねませんから。そうですね、猶予は半年もないでしょう」  郭嘉は宣言する。 「いつでも」  と。  大陸は、危うい緊張の中に包まれていた。 「伯言」  会議を終え、解散する呉の重鎮たちの中で、穏のことを呼び止める声が一つ。 「はいー?」  部屋を出て行こうとしていた穏はゆったりと返事をし、つかつかと寄ってきた思春が横に並ぶのを見て、止めかけていた足を再び動かした。 「珍しいですねぇ、思春ちゃんが声かけてくるなんて」  並んで歩きながら、穏はにこやかに笑った。彼女は筆頭軍師という立場上、様々な人間から相談を持ちかけられ、あるいは議論の時間を求められる。  蓮華はもちろんのこと、同じ軍師である亞莎、あるいは情報を探ってきた明命から会議の前後に話しかけられることはよくあったが、思春は用がない限り蓮華の側を離れないこともあり、あまりこういった機会はなかった。言いたいことがあれば、会議の席上で口にする性質でもある。  だから、余計に穏の顔は朗らかであったかもしれない。  思春はそれに対し、無表情を保ったまま一つ頷いた。 「別にあの場で言ってもよかったのだが」  と思春は前置きして話し始める。 「穏。おまえは、本当に半年もあの北郷が待つと思っているのか?」 「いくら二十万の兵を送ると豪語しても、それはせいぜいが襄陽まで」  馬に託された伝言だけにとどまらない。明命や亞莎、穏の調べ上げたところでは、荊州北部に動きは確かにあるものの、それが一気に南下するとは思えない。そう、彼女は結論づけていた。  たとえば漢中から脱出した五斗米道教団は、間違いなく蓬莱が取り込み、孫呉、あるいは蜀漢対策にあてられるだろう。  だが、それらの兵がどれほどのものとなるかといえば怪しいものだ。予告通り数は揃っても、戦力となるかはまた別なのだ。  まずはある程度支配力の及ぶ襄陽に漢中からの民を送り込む。それに数は少なくとも精兵である正規兵を加え、襄樊地域の支配を盤石とする。しかる後に荊州で得た民を鍛え上げ、南方を窺う。こんな計画であろうと穏たちは考えていた。  だからこその半年という読みだ。あるいは一年を見積もってもいいかもしれないが、あまりのんびりしすぎて手遅れとなるのは避けねばならない。蓮華の帝位の保障を兼ねて、ある程度の国家的緊張は必要であった。 「襄陽までは、まあ、三ヶ月。そこから先、江水にまでたどり着くのに半年はかかると見てるんですよね」  相手の兵が整わぬうちに江陵あたりから北上するか、漢水を遡って襄陽を襲うというのは、帝国としての体を成すのに出遅れている孫呉にとってはなかなかに厳しい。  だが、弱兵が南下するのを防ぐくらいは難しくない。下手をすればこちらが練兵に使われてしまう羽目になるが、そこは崩せるだけの兵を投入すればいいだけだ。  いっそ蓬莱の力が及びにくい地域まで引きずり込み、一気に包囲するという手もある。地の利はこちらにあるのだ。  だが、穏の予測を、思春は一言の元に切り捨てた。 「無理だ」 「なぜです? 一刀さんの性格からして、一か八かの突破をさせるとは思いませんけど」 「それを、する。少なくとも一度は」  さすがの穏もその断言に目を白黒させた。 「根拠はなんですか?」 「なぜ? 簡単だ。曹操が子を産むからさ」 「……それは知ってますけどー……」  実に淡々と告げる思春の言葉に、穏は首をひねる。華琳に子が出来ているのは知っている。その事実が一刀の登極を早めたであろうことも彼女たちは知っている。だが、子が出来るからといって、無謀な事をするようになるという理屈は飛躍が過ぎるように穏には思えた。  まさか自分が死んでも華琳との子がいれば蓬莱は盤石だ、などと考えるような一刀ではあるまい。  思春は穏の疑わしげな反応にも落ち着いた様子で言葉を続けた。 「いいか? 曹魏がまとまって北郷についているのは、曹孟徳がやつの子を孕んでいるからだ。その子が北郷の後を継ぐと、皆が考えている。いや、考えずともなんとなくは望んでいるだろう。だからこそ、曹魏は崩れぬ。崩れぬまま、蓬莱となっている」  一理ある、と穏は思った。  おそらく曹魏の人間であれば誰もが、一刀の後を継ぐのならば華琳との子を、と自然と考えるはずだ。そうであるならば、しばらくの間一刀に力を貸すのにも抵抗はあるまい。華琳自身が裏に控えているのだし、次はその子がいるとなれば、曹氏に仕えていると認識していた者たちにとって北郷の名前は仮のものでしかなくなる。  しかし――。 「だが、曹操たちがそれを望むか?」  穏自身も考えたことを、思春はきっぱりと問いかけ、そして、決然と首を横に振った。 「いや、望むまい。奴らは本気で北郷に国を率いさせたいのだからな」 「ですねー」  そうだろう。  そうでなくては意味がない。  華琳が自ら帝となるのではなく、一刀をつけたそのことの意味を本当に理解しているのは、一刀や華琳に近しい者たちだけだろう。たとえば穏や思春を含む、彼の妻たちといった。 「では、どうすればよいか。北郷に国を任せるだけの器量があると証明すればいい。最低でも子が物心つく前に。だが、もちろん、もっとも良いのは……」 「生まれる前に、ですか」 「うむ」  その論の行き着くところを理解した穏が彼女自身の言葉に先んじて言うと、思春はこくりと頷いた。 「最後までというのは難しいかもしれん。だが、生まれる前にある程度の道筋をつけておけば、奴のことを疑う者も減る」  最後というのは、蜀漢、孫呉を呑み込み、全土――それはあくまで穏たちの感覚で、一刀が言う場合は全く違うのだが――を統一するということだろう。それは無理でも、最初の一歩を踏み出しておけば、彼の功績となる。  思春はそう主張した上で、こう言い切った。 「つまり、緒戦はこの夏の間」 「……うーん。そのために一刀さんが出て来ると踏んでいるわけですね」  否定するでもなく、穏は言う。その瞳のきらめきを見るに、思春の指摘が的外れだとは考えていないようであった。 「ああ。必ずな」  北郷一刀はその政治手法を、戦のやり方を曹孟徳に学んだ。であるならば、自ら陣頭に立たないなどあり得ない。部下を使いこなすのはもっと後、落ち着いてからで十分なのだ。 「そして、そうと決めれば、あやつは決して手を抜かん。もっと我らは焦るべきなのかもしれんぞ」  沈黙。いつの間にか、穏は足を止めていた。考え込む彼女を、思春はじっと見つめている。 「そう……かもしれません」  しばらく後、彼女はなにか吹っ切れたような明るい表情でそう呟いた。長い袖をくるりんと自分の腕に巻き付けるように振り、ふふ、と笑みを漏らす。  その上機嫌は、もちろん、知的な刺激を受けたが故だ。 「ま、軍師に向かって余計な事かもしれんが、言っておきたかったのでな。許せ」 「いえ、参考になります。ただ……」  わずかに言いよどみ、次に述べた言葉にはさすがの思春も口をすぼめて驚きの表情を作った。 「そうであってもいいような気はします」 「ほう」 「正直なところ、蜀漢にせよ蓬莱にせよ、いつまでも対立を続けることを蓮華様が望んでおられるとは思えません。大事なのは、誰が帝かではなく、呉が呉であること、でしょう」  かつて群雄の割拠は曹魏の全土征服という形で一つの決着を見た。再び鼎立した三国がどのような結末を迎えるか、穏でさえ全てを予見することは出来ないが、戦が長引くことを蓮華も一刀も、そして桃香も望んではいまい。  さらに言えば、戦に勝つことそのものよりも、その後のほうがより重要だ。  なにしろ、蜀も呉も一度は負けているのだ。ただがむしゃらに勝つことだけではなく、いかにうまく勝つか、あるいはうまく負けるかを考えられるようになっているはずだ。そう、孫呉の筆頭軍師は自負していた。 「そうであるならば、早くともそれほどの問題とはなりません。いえ、かえって良い機会をつくってくれるかもしれませんよー」  不思議そうに自分を見つめる思春の視線を感じながら、くねくねと穏は体をくねらせる。彼女の頭の中で駆け巡る思考が、興奮となって体を刺激していた。 「……我が呉が、孫呉として生き続けるための機会を」  そう呟く赤い唇を、ぺろりと飛び出た舌がなまめかしく舐めた。  3.孫策  褐色の膚が濡れている。  てらてらと輝く膚は汗にまみれているのではない。それは、かぐわしい香りをもたらす香油を塗り込めた結果であった。  それを指示し、さらに目の前で実際にやらせた男が、いやらしい笑みを顔に張り付けながら己の体をなめまわすように見つめているのを、彼女はひしひしと感じていた。  なにしろ彼女はその豊かな体に一糸も纏わず、ただ、その美しい長い髪が膚の上を流れているだけなのだから。その髪は仄暗い室内では普段の明るい桃色ではなく、まるで血のような赤に見える。  血のような髪のみを纏うのは、江東の小覇王と呼ばれた女。 「いつまで、こんな格好させるの?」  寝台の端に座る男に向けて尻を突き出し、その秘所も肛門も全てをさらけだした格好で彼女は訊ねる。  高く尻を掲げ、体を折って、手は足首を持つ。自らの足の間から男の姿を見上げるような姿勢を取るのは、肉体的にはなんでもないことだった。だが、精神的にはまた別だ。  触れられもせずずっとそんな屈辱的な格好をさせられている自分に、彼女はいらつき、そして、それを強要する男に対して憎しみに近い感情を抱かざるを得なかった。  なによりも辛いのは、そんな男が自らの生涯の伴侶であることだ。 「させるんですか、だろ」  ひゅんと音を立て、竹を切り裂いたものが彼女の膚を打つ。 「きゃっ」  思わず声をあげた彼女を、さらに竹鞭が打つ。豊かな形良い尻にいくつもの赤い線が現れ、見る見るうちに数を重ね、そして、その全体を覆い尽くそうとする。 「鞭をいただきありがとうございます、は?」  最初の一撃以来ぎゅっと唇を結び、漏れようとする声をかみ殺し続けている女に向けて、男は意地の悪い声を発した。 「あ、ありがとうございま……す」  彼女の表情を見ながらにやつく男の顔を見上げ、彼女は礼を述べる。きっと、自分は醜い顔をしているのだろう、と孫伯符は思う。  怒りと憎しみと、そして、こんな男を愛してしまったという後悔のないまぜになった表情を。 「ふん。そんな顔をしてもなにも怖くないぜ」  男は言いながら脇に置いてあった宝剣を手に取った。 「これが俺の手にある限りな」  言いながら掲げるそれを、彼女は良く知っている。  それはけしてここにあってはならないものだ。彼女の妹の腰に佩かれているべきものだ。  南海覇王。  孫家の主に伝えられる剣は、現在の孫呉の主である孫仲謀が所持している。そのはずである。  だが、彼女は知っていた。いまここにあるものが真であり、妹のもとにあるそれが偽であると。  なんという偽りか、なんという悲劇か。  彼女自身が死を偽装したことなどなんでもないほどの誤魔化しが、そこに存在していた。それこそは、彼女の罪の証。  そして、それを愛の証として預けてしまった自分の不明を、ただただ恥じた。  奪ってしまえばいいのかもしれない。殺してしまえばいいのかもしれない。  だが、それすら彼女には出来ないのだった。  この男のもたらす背徳と快楽があまりに甘美であるが故に。  いまもまた、男――彼女の夫であり、この国の帝である北郷一刀は彼女に信じられぬ行為をしようとしていた。  なんと、南海覇王の――彼女の尊敬する母の遺した宝剣の柄で彼女の秘所の肉をいじくりはじめたのだ。  なんたる無道か、なんたる暴虐か。  だが、彼女は抵抗できない。  なにしろ、彼女のその場所は、たっぷりと蜜をたたえ、宝剣がいじくる度にその液を垂らしていたのだから。  その事実を、男は良く知っていたし、女のほうは務めて無視していた。だから男は彼女に思い知らせるべくその剣を使っているのだ。  たっぷりと彼女の蜜に濡れた宝剣の柄が、さらにぬちゅぬちゅと彼女の肉をいじくる。その明確な意志を持った動きに、彼女は背筋を怖気が走るのを感じた。  そして、それが、どこか甘いうずきを伴っていることをも自覚する。 「喜んでるな」  ねっとりと絡みつくような声で彼は言う。その言葉に呪縛されたように、彼女は動けない。その剣の動きがさらに大きくなっていることを感じ取りながら。  彼女の門を開くように、くねっていることを知りながら。 「あなたって本当に、さ、最低の屑だわっ」  己の肉を割って侵入する剣の柄の感触をしっかりと感じ取りながら、彼女はそう叫ばずにはいられないのであった。 「……なんだ、これ」  読んでいた本から顔をあげ、一刀は呆然とした様子で隣に座る妻の顔を見た。その人物こそ、彼がいまのいままで読んでいた書物に――彼自身の名を持つ暴君と共に――登場していた雪蓮その人に他ならない。 「なにって一刀と私の艶本よ」 「……いろんな意味ですごいな」  なんだか眩暈がしそうな気がしてくる一刀はぱらぱらと書をめくる。どこまでも、彼――北郷一刀という名の好色皇帝と孫策皇妃の変態的な交わりが描写され続けていて、彼としてはなんと言っていいのかよくわからなかった。たまに入っている挿し絵が彼にも雪蓮にも似ていないのはどういうことなのだろうか。 「すごいでしょー。手に入れるの大変だったんだから」  なぜだか自慢げに言う雪蓮に、一刀は戸惑ったように眉を顰める。 「まさかこんなのが稀覯本扱いなの?」 「ううん。出す前に書物問屋が潰れたから」 「出す前に? なんで?」  一刀の問いに、くすくすと雪蓮は笑う。この本に描かれているどこか卑屈な女性より、こういう雪蓮の悪戯っぽさのほうがよほど魅力だ、と彼はつくづく思う。 「いやー、その問屋ってば『皇帝陛下の夜の営み』全集を出すつもりだったらしくてさ。よせばいいのに最初に華琳を題材にしたのを作っちゃったのよ」 「は?」 「華琳。ほら、まあ、おめでただし?」 「ああ、うん。しかし、生々しいな、おい」  さすがに嫌悪の表情を浮かべる一刀に、雪蓮は一つ肩をすくめる。 「まあね。でもさあ、さすがに洛陽で華琳の艶本は……ねえ? 宮殿にもどっからか情報が流れてきたらしくて」  その言葉に、一刀は事の顛末を予想出来たような気がした。洛陽で華琳に関する本を出せば、当人、あるいはその側にいる誰かの耳には入る。そして、それを聞いて暴発しそうな人物には随分と心当たりがあった。 「あー……。春蘭あたりに?」 「秋蘭と桂花」 「……そりゃあ災難だ」  よりによって怖い人物にあたったものだ。いや、誰であろうと怖いのは変わり無いのだが。 「で。少し流れたらしいのは桂花が私財にものをいわせて回収、問屋のほうは、詳しくは知らなーい」  詳しく知ることができないのではなく、知ろうとしなかったのであろう。雪蓮のにやつく顔からそれを読み取って、一刀は問屋の人間に同情せざるを得なかった。  ただし、実際にどんなことをされたのかは、彼も知りたくはなかったが。 「焚書とか言われないだろうな」  言論についてうるさい時代ではないが、さすがに書を全て処分すれば文句が出かねない。思想書ではなくあくまで娯楽のためのものであるから、そこまで問題にはならないかもしれないが……。 「うーん。名指しでの艶本だからねー」  雪蓮は一刀の前に開かれている本を覗き込むように彼に身を寄せる。彼女を描写――といってもひどいものであったが――している文章を読んでいたせいもあって、心臓の鼓動が跳ね上がるのを彼は感じた。  一方で、一刀は彼女の指摘にも意識を割いている。 「ああ、そういえば、本名使ってるな……。普通はわかるような変名だろうに」  架空のよく似た人物を仕立てるか、あるいは遠い過去の人物などをあてるのが、こういった本の通例だろう。そのまま二人の名を書いていることにようやく彼は違和感を持った。さすがに真名は出ていなかったが。  あるいはその過激さが売りだったのかもしれない。 「そ。そのあたりで色々……って話」  さすがに当人の名前をつかって無茶をやったとなれば、擁護する者も減るだろう。桂花たちがどこまでやったかはわからないが、そこまで問題ともなるまい、と一刀は胸をなで下ろした。 「で、これは第二弾の準備に作ってたやつだって。魏王の次は元呉王、狙いは悪くないわ」  衝撃的ではあるが、少々いきすぎた商売戦略であった。 「……雪蓮は怒らないの?」  相変わらず彼にもたれかかるようにして文面を覗き込みにやついている雪蓮の顔を、彼は間近で見つめ問いかける。 「本気にしてもしかたないもの」 「まあ……。そりゃあな」  実際の所、雪蓮よりも冥琳や祭、それに蓮華などのほうが怒るだろうな、と彼は思った。こういったものは当人はあきれ果ててしまう方が先だ。怒りがわくのはその後となる。一方、その人物を大事に思う者はなによりも怒りが先に立つ。  一刀としては、雪蓮を描くならもっときちんと彼女の魅力を引き出せ、と文句を言いたいところではあったが。 「それより、この髪で包んでのとか気持ちいいのかな?」 「いや、うーん」  雪蓮の指摘に、一刀は目を落とす。どうやら、長い髪で彼のものを包み込み、しごきあげる技のことを言っているようだ。  実際の感触はともかくとして、普通はしないことをして雪蓮を汚しているという満足感はあるかもしれない。 「試してみる?」 「いやー……。髪につくと大変らしいぜ?」 「あー……。じゃあ、こっちは? 香油を塗り込んでって楽しそうじゃない? ぬるぬるするの気持ちいいし」  はじめの誘いはあまり本気ではなかったのか――実際、髪を使うなどというのは雪蓮のほうは別に楽しくもないだろう――一刀の言葉にあっさりと納得した雪蓮であったが、頁をめくり、最初に戻ってのものは、少々熱がこもっているようであった。 「ん?」  自分を見つめる視線を感じたのだろう。彼女は挑発するように小首を傾げて見せた。その碧い瞳に吸い込まれるような感覚を覚える一刀。  それでも彼は意思の力を振り絞って告げた。 「……し、仕事の話をしてからな」 「そう? じゃあ、さっさと終わらせましょうか。こっちの準備は出来たわ。工兵隊は明日にも出発できるわよ」  雪蓮は携えていた竹簡を一刀に示す。そもそも、彼女はこれを見せ、一刀の許可を得るために彼の部屋を訪れたはずであった。それがなぜか艶本観賞になってしまっていただけだ。 「そうか。やっぱり真桜が動けないか……。まあ、そこはしかたない」  一刀の方もさっさと切り替えてその文書に目を通す。一通り読み終えた後、詳細を確認しながら、彼は何ごとか別の紙に書き付けた。 「その辺りは冥琳に任せましょう。さすがに真桜みたいな真似はできないけど、あの手のことなら問題ないはずよ。元からの予定でもあるし」 「うん。そこは信頼しているよ」  言いながら、一刀はもう一度読み通し、そして、大きく頷いた。 「ふむ。問題ないな。じゃあ、早速、明日……でいいかい?」 「ええ、明日」  確認する男に獰猛な笑みで頷いて見せて、事は決した。一刀が皇帝としての手順に則って書類に認可の印を加え、封印されたそれを恭しく受け取る雪蓮。 「じゃ、その前に」  だが、彼女はその竹簡をずいと脇に追いやった。 「たっぷり楽しみましょうか。へ・い・か」 「はは……」  先程の受け答えよりもさらに獰猛な笑みと共に獲物を見つけた獣の様な目を見せる彼女に苦笑を浮かべる男。  しかし、次の瞬間には彼女のそれを上回るほどの欲望をその体全体から発しながら、北郷一刀は妻に挑みかかる。  もちろん、雪蓮はそれを喜んで受け止めた。      (玄朝秘史 第四部第十六回『独立自存』終/第四部第十七回に続く)