玄朝秘史  第四部第十四回『籠鳥檻猿』  1.登極  古今東西、英雄の行状には様々な奇蹟がつきものである。ことに戴冠や登極といった節目には、より鮮烈な出来事が起きたとされる。これらはいわば約束事のようなものであろう。  特に中華文化圏においてはそれは顕著で、ことあるごとに瑞祥が現れたと信じられないような出来事が記録されるものだ。そのほとんどは牽強付会もいいところであるが、稀に法螺というだけでは説明しがたいことも混じる。虚言だとしても、そんなことを言い出す意味がわからないといった類である。  北郷一刀が登極したその日、洛陽近くの寂れた邑で目撃された妖火もその一つであった。赤い強烈な光が南方に向けて発せられたというだけのことなのだが、一体なんだったのか、結局不明のままとなった。  凶兆のようにも思えるが、蓬莱朝が続いたからには一応は瑞兆なのであろうか、と史書の書き手でさえ疑問を持ちつつ記録するこの事象、実際にはとある集団が起こした立派な人為的現象であった。  その光を離れた地点で目撃した人間が再び同じような光を発し、それが何ヶ所も経由して、その日のうちにぐんぐんと南下し、ついには建業の城壁へと至る。  それを視認するのは生真面目な顔で北方を監視し続けていた女性の瞳。彼女はそれを見るやとてつもない勢いで駆け出した。  ともすれば地にこすりつけそうな黒髪をたなびかせて、彼女は走る。城壁を駆け抜け、宮殿の屋根に飛び移り、見張り台の上で寝ていた猫を起こしてしまって、ぺこぺこと謝ったりもしつつ、彼女は風のように駆ける。  大幅な近道をして、彼女は中庭に降り立った。そこに立つ四阿では、この国の主たる人物が筆頭軍師となにやら話し込んでいる。 「蓮華様」 「明命か」  勢いを減じつつも素早く駆け寄ってきた部下に、蓮華は淡く微笑む。だが、その表情は明命の報告を聞くと見るからに引き締まった。 「一刀様の即位の儀、滞りなく終了した模様です」 「ふむ……。祝うべきなのかしら、妻としては」  しばし黙った後で、蓮華はそんなことを傍らの穏に問いかける。穏はいつも通りの笑顔で、柔らかく答えた。 「さて、どうですかねー。そもそも一刀さんが帝位を望んでいたのかどうか」 「もちろん、望んでなんかいないわよ。それは私だって同じ。けれど、帝位につかねば出来ない事があるというなら、それを選び取るのに躊躇はしない。一刀だって同じ事でしょうね。ま、今頃は儀式が終わってほっとしていることでしょうけれど」  くすくすと笑ってから、蓮華はふと遠いところを見るような目つきになる。 「ただ、華琳にとっては夢にまで見た瞬間かもしれないわね。そう、きっと……」  言祝ぐように、羨むように、呉王はその語尾を吐息に変える。  愛する人を失うことの衝撃は、彼女もよく知っているが、それが突然に現れ、自らの心を奪っていった男であったとしたら、なおのこと凄まじいものがあるだろう。  そして、その人物がまた突然に戻ってきたとしたら?  華琳が一刀を帝とした心情に、それらの出来事は大きく関わっているはずだ。そうでないはずがない。  だからこそ、華琳にとって、一刀の登極は当人以上に特別な意味を持っている。  王として、そして、同じ男を愛する女として、蓮華は華琳を心から祝福するつもりであった。たとえ、お互いの政治的立場を異にするとしても。  同時に、華琳の苦悩を思うと、蓮華の胸は痛む。  大陸でも数人――華琳自身や、蓮華とその姉、それに桃香といったわずかな人間にしか理解しえない……いや、もしかしたら、大陸を制覇した華琳自身にしか共感しえない、実に苦しく辛い世界に愛しい男を引きずり込む。その決断は、どれだけ悩ましいものだったろうか。  それでも、彼女はそれを選んだ。そうしなければならなかったのだろう。蓮華に国を譲った雪蓮のように。  呉の女王は小さく首を振り、己の中で絡み合ういくつもの感情を振り払った。いま考えても詮無いことだ。 「それで、こちらはどう? 戻って来てすぐだし、そうそううまくいくとは思っていないけれど」  心配するようにこちらを見ている穏と明命に殊更明るい声で訊ねる。それは実際、彼女がこのところずっと気にかけていることであった。  呉において孫家の人間が帝を称する。  言葉にすれば簡単であるが、内実は簡単どころの話ではない。  武力を恃みに成り上がってきた孫家が王を称するだけでも在地の豪族たちは不満を持っていたというのに――あっさりと袁家につけこまれたのはそのためもある――いかに漢朝がその実権を失ったからといって帝を名乗ることに抵抗を持つ者は多いだろう。  一刀の場合は漢の帝を蜀に追いやることに成功し、正面からぶつかることを企図しているが、曹魏と孫呉では豪族の影響力が違いすぎる。まして、準備の時間も足りていない蓮華たちにそんな強引なやり方は選択しようがない。  洛陽からの帰還の折に都周辺にいる全軍と共に入城することで多少脅しはきいたろうが、それだけで恐れ入ってくれると思うのは楽観が過ぎる。 「やはり、あと一ヶ月は欲しいところですかね。根回しはしていますが、やはり豪族たちも納得しきるには時間が……」  自身も呉郡の豪族に連なる一人である穏は、それでも難しそうな顔をするでもなく、そう答えた。彼女が中心に動いていることだけに、その限界もよく理解しているのだろう。蓮華としても穏が――あの穏が――かなり慌ただしく動いているのは承知していた。 「反対の論の根っこはなんでしょう? やはり、孫家の力が強まるのが不満なのでしょうか?」 「いえいえ、そんなことではー。ただ……」  明命の真っ直ぐな問いに穏はぱたぱたと手を振る。もちろん、そういった意見はあるが、それだけであるはずもない。 「赤壁の後の華琳さんの統治の記憶が悪い方に影響していますね」 「そうなんですか?」 「あの時、在地勢力は大人しくしている限りは魏の支配機構にすんなり組み入れられましたから……。華琳さんが蜀との決戦を前に構っていられなかったというか、後でどうにでもなると思っていたというか」  華琳の場合、豪族たちを重視してのことではなく、逆に目もくれていないということなのだが、自身の力を知っている豪族たちはそう解釈はしなかったようだ。曹魏の支配が長く続かなかったため、華琳が豪族たちに与えた地位に見合う能力がなければいつでも免職されていたということに気づけないのだろう。 「……つまり、今回もそうなるだろうと?」  低い声で、蓮華が穏と明命の会話に割り込む。穏はのんびりと笑いながら、しかし、その唇の端に苦笑のような雰囲気もにじませてそれに応じた。 「まあ、そういうわけでしょう。一刀さんは華琳さんの傀儡と見られていますから……」 「まったく、自分に都合のいいように解釈して。華琳は傀儡なんて使うより、自分でやるのが楽しい人間よ。姉様と同じ。それよりなにより……」  華琳と一刀は違う。彼女たちの中で共通の認識をあえて蓮華は口にしない。 「もちろん、一刀だって豪族を邪険に扱いはしないだろうけど……いや、待って? 実際の所、どうなのかしら?」 「どうでしょうね。一刀さんの場合、地方支配にはあまり興味がないようなので……。ただ、穏が思うに……」  にやにやとなにか意地の悪い笑みに表情を変えて、穏は何ごとか不穏なことを言い出しそうであったが、その言葉は呑み込まれた。  戦場にいるかのような厳しい表情をした思春が現れたために。 「失礼します。北郷……いえ、蓬莱とやらの帝から文が届いております」 「一刀から?」  どこから現れたのか、明命はともかく、穏と蓮華には近づいてくる気配すら悟らせずに四阿の入り口に立った思春は腰を落とした格好で蓮華の横に急ぎ、恭しく手紙を差し出した。 「思春ったら、そうよそよそしくしなくても……って、あら」  なにやら仰々しい態度の部下の手からそれを受け取り、封印を割ろうとして、蓮華の笑顔が強張る。 「差出人がそうなっていましたもので」 「本当……。ということは、わざわざ今日届くようにしたのね。演出が過ぎるわよ、まったく」  新国家の名を象った印で封印され、署名にも重ねて蓬莱の名を書かれたそれが今日届くということは、北郷一刀が帝となったことを示すと共に、蓮華たちがそれと察していることを一刀のほうも知っていると明らかにするものだ。  その芝居がかったやり方に蓮華は苦笑しつつ、夫からの文書を読み進める。  文字を追う蓮華の顔は曇り、次いでなにか納得したような表情を浮かべた後で、呆れたように顔をしかめて見せる、というように複雑に変化した。 「……これを届けに来た者は?」 「たしか霞のところの百人長の一人だったかと……」 「そう。ならば、それに訊いてもしかたないわね」  思春の答えを聞き、蓮華は肩をすくめる。魏の将の一人でも来ていれば、それを問いただすことも出来たろうが、百人長では政の話を聞いて答えられるものでもない。  彼女はしばし考えた後で、鋭くこう命じた。 「思春、部屋を用意しろ。明命、小蓮と亞莎も呼べ。話し合う必要がある」  呉の女王がそう告げると、近臣たちの表情が、揃って引き締まった。  2.書状  亞莎と小蓮が揃うには少々時間がかかった。なにしろ彼女たちも重鎮として、蓮華の即位に向けて様々に動いているため、暇ではないのだ。  二人が卓につくのを待って、蓮華は口を開く。 「さて、我が夫殿から、手紙が来たのだがな」  一刀が登極したことをさらりと説明し、来るべきものが来たと小蓮たちが真剣な表情になったところで、蓮華はなにやら楽しそうに告げる。  ますます雪蓮姉様に似てきた、と小蓮はそれを見て思うのだが、祭がいれば堅殿そっくりじゃというところであろう。 「時候の挨拶や、個人的な話は飛ばして、要点を読み上げるから、落ち着いて聞くように」  言いながら、蓮華は顔の前に文を広げ、そこに記された文字を追った。 「一刀が帝位についたことを改めて報告して……ああ、一応今日の日付なので報告という形になる。それから『江水のほとりに二十万の兵を送って用意させるから、二人で馬を並べて狩りでもしよう』だそうだ」  沈黙にも様々な意味がある。  いま、そこに満ちているのは、驚き、恐怖、呆れ、そして、怒り。  部屋中の空気を圧するように立ちのぼる殺気に蓮華は苦笑するしかない。  内容を見れば、明らかな恫喝であり、蓮華に降伏……否、隷従を求めるような文言と思われてもしかたない。  主を愚弄されたと思春たちが色めき立つこともよく理解出来た。  だが、彼女はなだめるように小さく手を振った。 「落ち着けと言っただろう?」  そこで彼女は肩の力を抜き、表情を柔らかくして友に語りかける時の声を放った。 「これはね、一刀が悪者になってくれているのよ」 「は?」  顔を赤くしながら、さすがに一刀が相手ということで殺気をまとうまではしていなかった亞莎が片眼鏡をずり落とさせんばかりの勢いで体を前に出し、驚きの声をあげる。  同じように驚きの表情を浮かべている一同――思案げな穏を除く――に、ひらひらと紙片を振ってみせる。 「これを群臣に見せたらどうなるかしら?」  はっ、と何ごとかに気づいたような表情となる亞莎。明命はその横でまだ硬い顔つきで、問いに答える。 「武官は北郷討つべしとなるでしょう。文官の大半もまた」 「そうね。そうなるでしょう」  そこで、蓮華は言葉を切り、ぐるりと側近たちを見回した。 「その勢いにのって、私は帝となれるだろう」  皆の視線を集め、彼女はそう宣言した。未だに憤怒の相を保っていた思春の顔つきが、わずかに緩んだ。 「では……では、そのための大言壮語であると?」 「いえ? これは本当のことでしょう。ただ、どうせ恫喝するなら私に有利になるよう計らってくれているというだけ」  疑わしげに訊ねる声に、蓮華は軽い調子で答える。手の中の文を丸め、まるで懐刀でも収めるように懐に入れながら。  小蓮が、それを見て、わずかに羨ましげな視線を向けながら姉に訊ねかける。 「それで、そうするの? お姉ちゃん」 「ええ。私は姉様じゃないもの。使えるものはなんでも使うわ。それが夫の心遣いというなら、遠慮する謂われもないでしょう? それに」 「それに?」 「これを見せられて、まだ大人しく首をすくめていればいいなどと思う臣は我が孫呉には不要」  もちろん、先の文を見てなお民の為に蓬莱朝あるいは漢朝に従うべきと主張できる者がいればそれはそれで硬骨の士と言えるだろう。そして、もし、そんな人物がいるとしたら、孫呉帝国が成立しなくとも江東の未来は安泰だ。  それがいないと予測するからこそ、彼女は立たねばならないのだ。愛すべき男や友と戦うための場所に。 「あちらが狩りをしたいというなら、たっぷりと矢を馳走してあげなくてはね」  冗談とも本気ともつかない呟きに、思春は口角をつり上げ、明命は生真面目な顔で頷く。  たとえ一刀であろうと、兵を差し向けてくるのなら、彼女たちはそれを迎え撃つ。主が覚悟を決めている以上、事は実に明快であった。 「しかし、二十万、ですか……? 二十万……」  一人、皆の怒りに呑み込まれることもなく、ずっとなにか思案していた穏がようやくのように口を開く。側頭部に指を当て、うーん、うーんと唸る筆頭軍師の姿に、皆の視線が集まった。 「穏?」 「いえ、二十万という数がひっかかって。誇張するなら百万とでも言っておけばいいのに」  正式な報告にすら十倍に記すのが慣例となっている時代である。誇張は一つの宣伝手段であり、それ自体は問題ではない。  だが、二十万は実に微妙な数だ。恐れをなすような数でもなく、といって寡兵とも言えない。 「そもそも、曹魏の兵を号して五十万、時に百万というのは、実際に戦闘に従事する五十万の兵がいて、それを支える周辺を含めると百万くらいになる、という話なんですよ〜」 「そうだな」  突然の話の展開に、蓮華は少々気圧されたように頷く。穏はそんなことには構わず、いつもよりはほんの少し切迫した口調で続けた。 「現状、一刀さんの……ええと、蓬莱でしたっけ。その兵力は公孫、馬両家の出方を含めて計りがたいところがありますが、まあ、曹魏五十万はそのままそっくり引き継がれたと考えて良いでしょうねー。でもですねえ、蓮華様。二十万を動かすとなったら、さすがに大事ですよ、これは」 「それはそうだろう。五十万の半分に迫る数だ」 「二十万のうちどれくらいが前線の兵かはわかりませんが、たとえ半分だとしても、十万。十万を動かすとなれば……地方からある程度の軍を引き抜かなければいけません。都周辺をこの時期に空にするわけにもいかないですから」  うんうん唸りながらも穏は頭の中で様々なことを計算していた。洛陽近辺に存在する兵の数も彼女は大まかに把握していたし、それから十万を抽出するとなれば部隊の分布が一定の密度以下になることもすぐに算出できた。  白眉の乱において迅速に兵をまとめられたのは、華琳自らが都周辺の兵を率いたから、という理由が大きい。あの時期、洛陽近辺は手隙であったと言えよう。それは三国がお互いに協調し、白眉を討つという意識があったればこそ出来たことである。  だが、いま、新王朝が発足し、明確に敵対する勢力が外にある状況で、そんなことが出来るはずもない。  あえて言うならば赤壁前の状況に似ているが、あの時期はまさに戦時体制で、常に軍が動員され、あちらこちらへ兵たちが移動していた。手薄なところがあれば、華北から続々と兵が徴集されたことだろう。 「でも、今のところ、そんな動きは見受けられないんです」  だが、穏が言うとおり、現在はそういった兆候は見られない。兵を新たに集めるにしても、万単位となれば他国にもわからぬはずがない。 「一刀さんが誇張して二十万と書いたならわかるんですけど、さっきも言ったとおり、誇張にしては妙な数です。それに、あの人の性格を考えると……」 「ふむ。概算にしても、どこから沸いて出た二十万なのか、か」 「そこがわからないんですよねー」  穏の疑問を理解した皆も、腕を組んだり、どこかをじっと見つめたりして、各々、考えを巡らせる。  その中で、思春が黝い髪を揺らして小首を傾げた。 「これから動かすのではないか?」 「動員もこれからとなると、手紙にある『江水の畔』につくのに少なくとも三ヶ月、下手すると半年くらいかかっちゃいますよぉ?」  兵をどこかに集め、編成し、南下させる、それだけで一苦労だ。さらに、新兵や再召集した兵たちならば、訓練期間も必要となる。十万を超す軍となれば、どれだけ急いでも、数十日ではきかないはずであった。 「そう……ですね。実際に兵を揃えてみせてこそ恫喝は効果を現す。少なくとも動かせる態勢にまではもっていっていなくては。とするならば……」  亞莎が穏の意見を補強するように呟く。穏はうんうんと頷き、その豊かな胸がぶるんと揺れた。 「長くても四、五十日後の話でしょう。百日を超えてはちょーっと間の抜けた話になりますからねー」 「そうか……」  蓮華もまた軍師の意見に思うところありそうであったが、軽々に判断できることでもない。彼女は少し考えて決断を下した。 「よし、まずはこの件について単純に防備を固めるだけではなく、どのように動くか探りを入れることにしよう。明命、亞莎。二人で組んで当たってくれ」 「はっ!」 「で、まずはそれは置くとして、だ」  部下たちのはっきりとした承諾の声に頷いてみせて、彼女は懐からもう一枚の紙片を取り出した。それは、一刀の文に付属してきたものであった。  すっと払うように手を動かして卓上を滑らせ、紙片を穏と亞莎の座るほぼ中間に押しやる。 「これは?」 「面白いわよ。私たちの蓬莱における地位が記されているわ。華琳たちはもちろん、桃香たちのもあるわよ」  それは、蓬莱朝の主要な官職とそれに任じられる者たちを記した書面であった。もちろん、重要な官職のほとんどは一刀の妻……つまりは三国の実力者たちで占められている。 「蓮華様は太尉ですかー。まー……色々と考慮はされているようですねえ」 「でもさー、意味ないでしょ。いまの時点じゃ。シャオたちはもちろんだけど、桃香を司空にしたから出仕して下さいって言ってのこのこ出て来るわけもないし」 「それは、まあ……。でも、これは、その、一刀様が大陸を制覇して、この通りの組織を作ってみせるという意思表明なのではないですか?」 「だろうな。だが、幼平。だからこそ無意味なのだ。我らや蜀勢がこれで恐れ入るか? 戦っている間にこんなことをやるのは惰弱の表れだ」  紙片を覗き込みわいわいと評する皆の様子を、蓮華は微笑みながら眺めていた。どの意見も納得できる。これは無駄ではあるが必要でもあるのだ。  どう受け取るかはそれぞれだが、それでも堂々と送りつけてくる一刀の胆力は評価すべきであろう。  そんなことを考えている時に、ふと亞莎がこぼした。 「征西将軍と鎮西将軍がぽっかり抜けてますね」 「ふむ?」  言われて背を伸ばし、逆側から字を読んでみれば、たしかに四方の征将軍、鎮将軍のうち、征西府、鎮西府に配されている人物は少ない。名のある将では真桜くらいのものか。 「いえ、その、これは考えすぎなのかもしれないのですが……」 「いや、いい。思いついたことは言ってみてくれ」  蓮華が注目したことで、皆の意識が亞莎とその指摘した事実に集う。腰が引ける亞莎を、蓮華が力づけた。 「は、はい。その、一刀様のお考えからすると、西は今後攻めるべきところで、いまは空けておくべき地位なのかも、と」  その言葉に穏はかつて一刀から聞かされた大陸経済圏の話を思い浮かべた。  西方、涼州のはるか先……五胡の住む地域のさらに向こうまで大陸は広がっている。そのことを伝承では知っていても、それを取り込もう、あるいは攻め入ろうなどと考える者が、この中華にいただろうか。  かつて武帝がわずかに試みたそれを、再び行おうと、わざわざ西方へ向かう将軍の地位を空けているのだとしたら、北郷一刀という男は底抜けの楽観主義者で、とてつもない莫迦だ。  そして、その評価がある意味で自分たちの夫にふさわしいことを、穏はよくわかっていた。 「我らと蜀を一呑みにして、はるか西方へと攻め入る、か。壮語も過ぎようというものだ」  褒めているのか呆れているのか、口調だけでは判別がつかないが、思春の口元には笑みが刻まれているように思える。布で隠れて余人にはほとんど見えなかったけれど。 「い、いえ。そこまでは……」 「いや、亞莎。思春の言っているくらいでいてくれないと困るわ。あちらに変に遠慮されたら、こちらがやりにくいもの」  きゃらきゃらと笑っている蓮華もまた、穏や思春と同じ感情を共有しているように思える。 「んー、一刀と華琳たちの思うとおりに行くかなー?」  意地の悪い笑みを浮かべて問いかける孫家の末娘もまたそうだろう。 「そうはいきません。いかせませんとも」  決意を込めてぐっと拳を握りしめるのは明命。こくこくと同意の印に頷く亞莎。彼女たちの様子を見て、穏は柔らかく微笑まずにはいられない。 「まずは一緒に狩りをする二十万というのがどんなものか」  そして、蓮華が小さく手を振り、空気がさっと変じる。 「歓迎の用意を調えなくてはいけないでしょう」  彼女の獰猛な笑みの意味することを、孫呉の臣はその血潮で感じ取っていた。  3.予兆 「はい。それでは、あらためて官位の授与などについてお知らせしますので、それまでは……。ええ、はい。では、また」  彼女の言葉に送られて男が部屋を出て行くと、会話を書き留めるために同席させていた書記官も下がらせ、彼女は腕をぐるぐると振り回した。体の疲れを振り払う仕草なのか、それはかわいらしい外見とは不釣り合いなほど老成した動作であった。  色の薄い髪を揺らし、蜀の大軍師、いまや蜀漢の丞相に任じられた諸葛孔明は一つ息を吐いた。 「人材が放っておいてもやってくるのはありがたいんですが……」  漢帝の脱出劇は、公になるには時間がかかったものの、それを察する者たちは少なからず存在した。いま、漢中にたどりついているのはいち早くそれを知り、帝の後を追った人々だ。  つまりは、情報を得る術を知り、決断を下すのも早く、洛陽での地位を捨てて帝を追うほど忠心にあふれた、優れた人材である。  それらが帝へ仕えることを通じて蜀に力を貸してくれるというのだから、もちろんこれはありがたいことである。  だが、実際にその力を生かすかとなると、これはまた難しい。  地位を与えるにしても古参となる蜀勢との兼ね合いを考えねばならない。洛陽時代の官位との釣り合い、その人物がむいていると思われる職責も加えてだ。  それら全てを勘案し、ふさわしい官位を与え直すのは、実に大変な仕事であった。  なにしろ、いまも続々と漢臣が漢中へとやってきているのだから。 「どうやら、一刀さんたちは、あえて帝が漢中にいると情報を流し、流出を煽っているような節がありますね……。いえ、そこまではなくとも、引き留めようとは思っていない」  それは、先程面談した人物との会話でなんとなく感じたところだ。  先程の男は、陳羣。桂花――荀ケを輩出した荀家と同じ潁川郡の出身で、孔融らとも古くから交流していた一流の人士だ。実際、桂花とも知り合いのはずである。  本来ならば、そんな人物が蜀に流れるのを、華琳たちが見逃すはずがない。  だが、彼は止められるどころか、実に円滑に関中を抜け出ているのだ。曹魏の兵たちは、自分の旅程に積極的に協力してくれているかのようであった、とまで彼は言っていたのだ。 「おそらく、儒家関連の人は優先的に外に出そうとしているのですね」  儒学はこの時代の教養人が必ず学ぶものであるが、それに傾倒しすぎている者を一刀たちは忌避しているように思える。おそらくは漢朝が儒学を重用したため、それとの違いを打ち出したいのだろう。  華琳の政治方針からして法治主義の傾向が強く、それを受け継いだ一刀はその傾向を強めるつもりなのかもしれない。そうだとすれば、儒家よりも法家を選ぶであろう。 「来る者を拒むわけにもいきませんしねえ……」  机に向かい、朱里は腕を組んで考え込んだ。  儒家の教養を持つ人間が蜀漢に参加してくれるのは、彼女としても助かる部分はもちろんある。  だが、いいことばかりでもない。  彼らが不満を持たぬよう取りはからうのも必要だし、古くからの官僚たちを尊重しなければいけないという要請もある。  しかし、それ以上に重要なのは、彼らを受け入れることで、蜀漢の政治方針が儒家偏重だと思われかねないことだ。  蜀は桃香とその優しい考え方を中心に動いてきた国である。それは、儒家のいう寛治とは似ているようで微妙に異なる。桃香という人物は、孔子やその後世の解釈者たちが押しつけるような頭でっかちな理想で動いてるわけではないからだ。  どちらかといえば、彼女は彼女自身が体系化せずに抱えている根源的な正義に従っているのだから。 「漢の儒家政策と、我が蜀の桃香様への信頼をいかに一体化させるか……早い内に考えておかないと、意識のずれが生じてしまいかねませんね……」  このことは、雛里ちゃんとも話しておかないとな、と朱里は後のために書き付ける。  そして、一つ頭を振った後で、別の仕事に移ろうとしたその時。 「朱里!」  鋭い声と共に、扉が大きな音を立てて開いた。 「どうしました!?」  扉の向こうから身を乗り出してきている白い着物の女性の姿に目を白黒させる朱里。普段ならば用件に入る前に軽口の一つも叩く星がいまは忙しなく言葉を発する。 「町が騒がしいらしい。よくわからんが、ともかく、私と焔耶で事態を把握しに行ってくる!」 「え? あ、はい」  見れば、星の向こうに鈍砕骨を担いだ焔耶が控えている。彼女たち二人なら、なにがあってもしばらくは大丈夫だろう。 「では、私は桃香様たちのところに」 「うむ。頼む」  事を了解し、頷き合う三人であったが、走り出そうとした星は急に体を戻すと、再び戸口に現れた。 「ああ、そうだ、一つ。張魯が久々に顔を出しているらしい。騒ぎの中心は奴かもしれんな」 「張魯さん……?」  星が思い出したかのように言い残した人物の名前を繰り返し、朱里は小首を傾げる。ちりりり、と首元の鈴が掠れた音を立てた。 「しまった!」  そう叫ぶ朱里の顔は、青を通り越し、真っ白に変じていた。  4.道家  わずかに時は遡り、町中の騒ぎが城に知れる前。  でこぼこな二人連れが南鄭の町を歩いていた。酒瓶をぶらぶらと揺らしながら歩く豊かな胸の持ち主は厳顔こと桔梗。その背中に隠れるようにして歩く高い帽子の少女は、朱里と並び立つ頭脳の持ち主、雛里である。  雛里は人並みの中で桔梗とはぐれぬよう、前を行く彼女の袖を指で掴みながら、きょろきょろと辺りを見回し、小さく呟いた。 「やはり……落ち着きませんね」 「それはしかたなかろう。なにしろ、漢朝がお引っ越しじゃ」  からからと桔梗は笑う。雛里の言うように、町並みは普段とわずかに違っていた。  相変わらず人々は行き交い、商売に精を出し、流れてくる噂話に夢中になっていた。それは、どこへいっても変わらない、賑やかな町の風景に見える。  だが、違う。  人々が会話する声はいつもより低い。  普段はよく交わされている挨拶は聞こえない。  物品の値段はじりじりと上がっている。  それは、どれも人々の不安を示していた。  なにより、彼らは寄ると触ると噂話を繰り返しているくせに、桔梗や雛里の姿が見えると途端に口を閉じ、おどおどと目線を外す。  それは、蜀漢がこの地で始まったことと無関係ではあるまい。  公にされずとも、人々は政変のあったことをたしかに感じ取っているのであった。 「時間が、要りますね」  歯を食いしばりながら言う言葉に、桔梗は大きく頷くのみだ。  人々が漢の中心が移ったことに慣れるまで、時間が必要であるという雛里の論は否定できるものではない。だが、時間をかけすぎれば一刀の側に有利となる。  その背反する事項をどううまく処理できるか、周囲を行き交う人々の群れを眺めながら雛里も桔梗も考えを巡らせるのであった。 「あれ……?」 「ん?」  同時に二人は気づいた。  いつの間にか、人々の流れに向きが生じている。右に向かう者も左に向かう者もいたはずが、いまは、なぜか皆、一方向へと流れ始めていた。  ただし、中にはその流れに逆らう者もいて、それらは桔梗たちと同じように困惑の表情を浮かべている。 「妙だな」  桔梗は大部分の人々の行く先――町の東側――を見やり、次いで傍らの雛里を見やった。 「どうする?」 「……乗ってみましょう」 「よし」  桔梗は頷くと雛里の肩に手を回し、いつでも抱えられるようにしながら歩き出す。 「離れるなよ」 「はい」  彼女の気遣う言葉に、雛里は淡い微笑みで応じるのだった。  二人が人群れに乗って、彼らの目指す先へと共に向かい、目にしたもの。それは、一人の人物の言葉を聞くために集い、声も立てずじっとその言葉を待つ何千、いや万にも及ぶ人々の姿であった。  南鄭の町外れ、もはや人家の途切れた先で、彼らはじっと何ごとかを待っているのだった。 「あれは……張魯さん」  人々の中心、数人の男たちがかかげる輿の上に立つのは、張魯。彼こそは、漢中に根付いた五斗米道教団の教主である。  その姿を認め、正体を悟った途端、雛里は桔梗の着物を引っ張った。 「抜けましょう、桔梗さん」 「なに? 話を聞かんでいいのか? なにやら、演説でも……」 「はい。必要ありません」  驚いて聞き直す桔梗の言葉を珍しく遮って、雛里は彼女なりに精一杯の早口で言葉を連ねる。 「それよりも、早く城へ。抜けられなくなります」  その言葉に後ろを振り向き、桔梗は事態を悟る。町から流れ出る人の波はさらにその勢いを増し、彼女たちの背後はもはやびっしりと男女の群れで埋まっているのだった。 「たしかに、これは一大事」  そう言って、雛里を抱き上げるようにしながら、桔梗は人々をかきわけるのに力を尽くし始めた。  そして彼女たちが列の中から脱し、町中へ戻って星たちと出会った頃、町外れでは歓呼と狂喜のうねりが高まり、そして、その勢いを減じぬまま、はるか東へと流れ始めた。 「彼らはわかってたんだね」 「うん、朱里ちゃん」  東方を目指して動き始める人の波を、南鄭の城門の上、望楼から眺めやりながら、軍師たちは会話を交わす。  後から合流した朱里がどうせならきちんと見られるようにと皆をここに導いたのであった。  狭い望楼の中で、焔耶、桔梗、星は体を寄せ合いながら、呆然とした顔つきで、眼下の光景を見下ろしている。  それは、つい先程まで南鄭の町で生活していたはずの人々。  食事をし、物を売り、掃除をし、衣を織り、日々を過ごしていた者たち。  だが、いまや彼らは整然と列を成し、東へ東へ行進を始めている。それは、まるで将に率いられた一個の軍のようだ。 「い、一体何が……?」  焔耶がまるで恐怖を堪えきれぬかのような口調で訊ねる。それは彼女の理解を超えているという意味ではたしかに恐怖を招く光景であったろう。 「漢が漢中に居座った以上」 「五斗米道はここにいられないのです」  淡々と、朱里と雛里は答えを与える。  漢はその根本に儒家を据える。少なくとも光武帝以降の漢はその傾向が非常に強い。しかし、その政治が混乱を来し、儒の限界を示した時代、庶人たちは儒家以外のものを求めた。  それこそが、張魯が広めた五斗米道であったし、数え役萬☆姉妹が率いた太平道であった。  そして、それらは当然のように、儒家と相容れない。 「私たちが弾圧でもするというのか?」 「そうは思っていないでしょう。しかし、居心地が悪いのはたしかです。まして、ここは五斗米道の本拠地なのですから……」  朱里たちの話を聞き、呆れたように問いかける星をなだめるように雛里が言うと、その後を朱里が引き継ぐ。 「元々、五斗米道の民が涼州や荊州に移住するという計画はありました。実際に、それなりの数の人間が涼州に戻ったりしています。彼らにとって、ここは旅立つべき場所となっていたのは事実です、しかし……」 「しかし、これほど根こそぎいなくなるとは想定の外、か」  桔梗の声は低い。驚きが抜けると、彼女は実に鋭い目で去りゆく人々の姿を見つめていた。  彼らは、彼女たちの守るべき民であったはずだ。だが、それはもはや叶わない。彼らは、自ら彼女たちから去っていく。  そのことを心に刻み込むように。 「はい。ですが……」 「予想しておくべきでした……」  そうして、二人の軍師もまた、血がにじみ出るほど唇を噛みしめるのだった。  その日、南鄭の町から一万人以上の人々が消えた。いずれも五斗米道に心酔し、己の『道』を見つけようと願う人々であった。  それから半月あまりの間に、漢中から東へと向かった五斗米道の信者たちは、数万を数えると言われている。  5.回想  後に登極の日のことを娘に訊ねられた北郷一刀は、こんな風に答えている。 「覚えていないなあ。ああ、でも、だいぶ気恥ずかしかったのは覚えてる。なにしろ俺の正装は学生服だからさ。あ、学生服っていうのは……」  笑って言う彼に、娘は目をつり上げ、金の髪を揺らして怒った。 「ごまかすなって? いや、ごまかしてはいないさ」  表情を引き締めながら、彼は告げる。 「大事なのは、なってから後のことさ。その日なんて、どうでもいいんだよ」  黙り込む娘の肩に手を置き、力を抜け、と伝えながら、彼は続けた。 「そう、全ては、これからはじまるんだから」  翌日にまさに登極の儀を控えた実の娘に、彼はそう力づけたという。      (玄朝秘史 第四部第十四回『籠鳥檻猿』終/第四部第十五回に続く)