玄朝秘史  第四部第十二回『烏兎匆匆』  1.大計  夏侯姉妹が登極の日程を知らなかったのには理由がある。  華琳自身が一刀に勧めたように、曹魏の臣として意識されやすい彼女たちは、新帝国の樹立についてはほとんど関わらないようにしていたのだ。  それだけではなく、三羽鴉や流琉など魏軍の将軍たちが同様に深く関わることをしていない。この時期、彼女たちには軍の安定こそが求められていたのだ。  実際の所、この時期に北郷一刀の登極を阻みうるものがあったとすれば、魏軍五十万の混乱のみであったろう。  都を捨てて地方政権へと成り下がった蜀漢や、王権の強化に奔走する孫呉は所詮は外部の存在である。むしろ、彼らが敵対の姿勢を見せることで、蓬莱王朝の成立がかえってたやすくなったのは、七乃以下の思惑の通りである。  しかし、新王朝を形成する主勢力たる魏の内側で華琳から一刀への権力委譲が認められなかった場合、これは大きな問題となる。  幸いなことに他の二国と比べて、魏はその成り立ちの上で諸勢力の取り込みを行っていない。豪族の支持も軍閥の力も借りることなく、曹孟徳ただ一人の圧倒的な力で周囲を征服していったという経緯がある。結果として、土着の豪族、名士層、軍閥などが力を持っていない。かつてあった司馬一族の謀叛はそういった立場への反発もあってのことだが、見事に鎮圧されてしまったため、従来の豪族層は余計に力を失ったと言っていいだろう。  また、北郷一刀は魏の最古参に近く、その勢力拡張に伴って重用され、華琳を支えてきたことは誰しもが知っていることだ。魏国中枢で彼を受け入れない者はほとんどいないだろう。  残るは国内でも最大の暴力機構、軍であった。  とはいえ、将軍たちの大半は一刀と婚姻を結び、残る高級指揮官の大半も彼の知人、友人である。大規模な造反は考えづらかった。  あり得るのは、兵や中級、下級指揮官が先走り、暴発することであった。  直接に一刀を知らない彼らが、上官たちの心情を誤って慮り、あるいは要らぬ義憤にかられた結果として――華琳当人が最も望まぬと言うのに――魏存続の大義名分を求めて立ち上がる危険性がわずかにあった。  これに対し、有効なのは春蘭をはじめとした実力者たちが、しっかりと周囲にその意思を浸透させることである。権力機構が一刀を中心としたものに変わりつつある中でもけして動かぬという姿勢を彼女たちが見せることで、軍は安定を保つ事が出来た。  一方で軍師勢はその頭脳を求められ、蓬莱の建国に実に密接に関わっていた。それは元君主勢もまた同様であった。  時は少々遡り、蓮華もまた帝位につくと一刀に告げた後のこと。 「うん? まあ、そうね……。ありえる話だとは思うわよ、うん」  これは軍師たちにこの状況を予想していたのかと問われた雪蓮の返答である。 「では、どういう対処を考えているですか?」 「そりゃあ、蓮華が仕掛けてくるならこっちも応じるのが礼儀というものでしょう」 「礼儀……ねえ」  ねねの問いかけに獰猛な表情で返答する雪蓮。それにいくつかの声が呆れたように漏れた。 「この情勢で二正面はなかなか厄介だと思いますがー」 「同時作戦とはなるまい。なにしろ呉はこちらより準備の期間が短い。軍をまとめている思春や穏の力量は疑うべくもないが、挙国一致と言えるまでの体制を築くには時間が必要だろう」 「時間というならこっちだって必要よ。なにしろ数も多ければ、土地も広いんだもの」 「それに、二正面とは限りませんよ。北方が動くことも考えねば……」 「五胡ね。でも、それは白蓮と翠が抑えてくれるんじゃないの?」 「騎馬両軍がこちらに加わってくれないのは辛いですよねー。あ、そもそもこっちに噛みついてきたらどうしますー?」 「うーん。考慮しておくのは大事ですが、いま疑ってもしかたないと思いますぞ。なにしろあの白蓮と翠ですし」  侃々諤々、軍師たちの論議が始まる。雪蓮や華琳は楽しげに、月ははらはらとした様子で遣り取りを眺めていたが、ふと円卓の中央に座る一刀が口を挟んだ。ちなみに一応は列席している麗羽はわかっているのかいないのか常にたたえている微笑みを崩していない。 「どうかな」 「え?」  彼の言葉に不思議そうな声が上がる。視線が自然と彼に集まった。  それを意図しての席次であるとはいえ、右に華琳と麗羽、左に雪蓮と月を侍らせた一刀の姿は見る者に複雑な感慨を抱かせるものであった。ことに桂花などは強烈な違和感で胸がもやもやする。  とはいえ、彼女とてそれを口にするほど莫迦ではない。なにより、それは華琳自身が認めた位置なのだから。 「白蓮も翠も裏切らないだろう。ただし、『誰を』裏切らないか、ってのは重要だよ」 「……どういうこと?」  詠が皆を代表するように訊ねるのに、一刀は小さく笑って肩をすくめる。 「俺を裏切ることになっても、民を裏切らない。それを俺も望んでいるし、きっと彼女たちも望んでいるだろうということさ」  一拍おいて、皆の表情が納得したようなものに変じる。この辺り、皆、理解が早かった。 「つまりは、幽州、涼州の民のためを考えて動くと言いたいのですか」 「そう。だから、俺たちは二州の民たち、ひいては白蓮や翠たちが進んでこちらに協力するための道を示すべきだ」  そのためにもまずは呉や蜀との問題をしっかり解決できることを示して見せなければいけない。一刀たちがうまくやると見れば、幽州、涼州の民も新王朝に参加を望むことだろう。  そう話した上で、一刀は軍師たちに告げる。 「その上で言うけど、俺は呉とは戦をしないほうがいいんじゃないかと思っている」 「へえ? なんで? まさか蓮華は戦うに値しないなんて言わないわよね?」  ぞわり、と一刀の肌が粟立つ。直接に向けられていないというのに月が身をのけぞらせ、華琳が苦笑いを浮かべるほどの殺気が、その口元に薄く笑みを刻む雪蓮の身から立ちのぼっていた。 「おいおい、そうすごまないでくれ。誤解だよ」  慌てて軽く手を振る一刀。彼は下手なことを口走れば斬りかかりそうな勢いの雪蓮をまっすぐ見つめながら続けた。 「それに、まるで戦わないという意味じゃない。長期戦をしてはいけないと言っているだけだよ」 「ふうん?」 「越王勾践の嘗胆の故事にもあるとおり、南方の人たちは我慢強く時を待つ術を知っている。それこそ、雪蓮が美羽の下で我慢し続けたようにね。そういう相手に長期戦になり得る戦いを挑むのは命取りになりかねないと思うんだよ」  『史記』に曰く、古の越王勾践は呉王に負け、臣下としてその身を差し出しながらも生き延び、食事を摂る度に豚の肝を舐めてその苦みを味わい、自らと国が受けた屈辱を忘れぬよう努めたという。  戦で負けようと彼らは諦めない。ひたすらに堪え忍び、いずれは中原をも呑み込まんとするのが江東の民だと一刀は主張した。 「ふむ。激しいだけではない孫呉の気性をよく読んでますね。さすが一刀さん!」 「お前が言うか」  七乃と冥琳の言い合いは冗談のようにも聞こえるが、身を以てそれを知っている二人が一刀の言葉を否定していないのは事実であった。雪蓮も表情を見る限り、男の主張を受け入れているようだ。 「だから、なにか彼らの意気を挫くものが必要だろう」  そこで彼はにやりと雪蓮に笑いかける。 「あるいはそれが短期的な決戦という手もあるけどね」  かつての呉王もまたそれに同意するように笑みを刻んだ。それまでとは違う、獲物を見つけた時の獣の様な笑みを。 「ただし、それしかないとなったら、だよ」  血気に逸る妻に彼が釘を刺したところで、月が口を挟んだ。 「桃香さんたちに関してはどうなさいますか?」 「蜀漢については、戦は避けられないだろう。なにしろ漢室が亡命してるから、討たないわけにいかない」  わかってはいても残念といった様子で目を伏せる月。それを元気づけるように、一刀は付け加えた。 「ただし、こちらも出来るだけ効果的に一撃を加えて勝負を決めたい」  智謀の士の面々もまたそれに同意するように頷く。新たに生まれる帝国の力を損耗しないためにも勝敗は早めに決するに限るのだ。 「蜀漢の場合は、劉協と桃香という軸。どちらも崩すのが肝要でしょう」 「うん、そうだろうな。愛紗をはじめとする元来の蜀勢力のためには桃香を、漢朝の生き残りのためには劉協を倒さなければいけない。そこで戦は避けられない」  一刀を傀儡にしないという自らの主張を示すように、こういった集まりではあまり発言していない華琳が、ふと呟くようにして言った言葉は、実に重い。成都まで攻め寄せ、実質的に漢を滅ぼした彼女の言葉は真っ直ぐに要点を捉えていた。  蜀漢は、桃香が始めた義勇兵集団から発し、荊州、益州の在地勢力を取り込んだ後、今回、改めて漢に忠節を尽くす残存勢力が集合した。  複合集団はその内部で齟齬が生じる事も多いが、崩れたときに中心が複数あるが故に粘り強く生き残る可能性もある。それを阻むためには、一度に両方を討つ必要があった。  そのためには外交政策だけでは足りない。  圧倒的な力量差をみせつけるためにも、戦でねじ伏せる必要があった。  そのことを一刀は覚悟している。そして、桃香もまた。  男は短い間目を瞑り、小さく息を吐いた。 「そんなわけで、両国に関して、いま言った様な方針で考えを募りたい」  一同はその言葉に頷く。その雰囲気から察したのだろう、麗羽が金の髪を華麗に振った。 「では、解散ですわ!」  なんだか無闇と嬉しそうに宣言する麗羽。それもそのはず、これらの会合の開会と解散の声をかけるのが、毎回の彼女の役割なのであった。  2.呉大帝 「うーん。長期戦をするなってのはわかりますけど、でも、やっぱり孫呉相手に戦をするなって無茶な話ですよねえ」  会合の後、一刀以下の君主組五人――時折美羽が加わるので六人――は一足先に消えるのが通例で、残された者たちはそのまま居座って話をしたり、別の仕事に向かったり、場所を移して議論を続けたりする。  今回、部屋に残ったのは三人。愚痴を言うように天井を睨んで呟いたのはそのうちの一人、七乃である。彼女は謀が得意なために会合に参加しているのだが、さすがに純粋な知識量や頭の回転では他の軍師たち――特に冥琳や魏の三軍師――に敵うはずもなく、毎回意見を求められる度に苦労しているのであった。 「あいつが無茶言うのはいつものことじゃない。あんたたちは南方には詳しいんだから、色々手はあるんじゃないの」 「どうかな。私からしても難しいとは思う」  顔をあげず資料をまとめている詠に答えるのは冥琳。彼女も先程から考え込んでいる様子であった。眼鏡を押し上げながら彼女はどこか遠くを見るような目をする。 「そもそも、蓮華様が帝になることを決意するとまでは雪蓮でも読み切れていなかったからな」  さすがにこの言葉に、詠は視線を彼女のほうへ向けた。翡翠色の髪を揺らして、彼女は驚いたように訊ねる。 「ボクたちの前では、全部わかっていたような顔してたわよ?」 「あれにも面子というものがある。許してやれ。それに……私は予測してはいた」 「へえ。……計算してたの?」 「まさか。だが、期待はしていたよ」 「期待、ですかー?」  意外なことを聞いたというような顔つきで、七乃がその顔を冥琳に向ける。 「そう、期待だ。蓮華様が我らを……あれを超える覚悟を持つ、そんな期待をしていた」  二人の説明を求める視線に、冥琳は肩をすくめ、そして、小さく自嘲の表情を浮かべた。 「孫呉は過去に囚われすぎている。特に我らはそうだ。文台様が悪いわけではないのだがな。それでも、新時代を作るのに、私も、祭殿も、雪蓮もしがらみを作りすぎた。ことに七乃、お前たちとな」 「あははー」 「笑ってもごまかせんぞ。ともあれ、自らの積み上げてきたものを否定するのは心苦しいが、新時代を作るには少々重荷だ。なにしろ雪蓮の才能は天与のものだからな」 「蓮華は及ばないと?」  詠が顔をしかめて訊ねる。彼女は天才というものに対して少々思うところあるのだろう。自分がそうではないと知っているが故に。 「まさか。あの方はあの方でかなりのものだぞ。だが、雪蓮の影に居る限り、その力の六分も発揮されんだろうな」 「だから、雪蓮さんを超えてくれることを望んだわけですか?」  七乃の問いに冥琳は残念そうにかぶりを振る。 「雪蓮を超えることなぞできんよ。我らが文台様を超えることができなかったようにな。それぞれの時代があり、それぞれの功がある。過去になればなるほどそれは美化されるものだ。それを超えるなど、どだい無理な話さ」  人の功績を比べることは実に難しい。平和な時代にはたやすいことも荒れた時代では難しい。逆に戦の中で頭角を現すような事蹟が、他の時代には非難されることもある。  戦乱の時代の中で比べたとしても、同時代に曹孟徳が、孫伯符が、呂奉先がいる状況とその十数年前とではまた異なる。さらにはそれを評価するには人の主観が入る。  孫文台の業績は並ぶ者なきものであり、孫伯符のそれもまた同様だ。問題は、それを知ってなお挑めるかということであろう。 「大事なのは超える覚悟を持つことだ。そこから生じる行動は、自然、蓮華様の築く新時代に属するものとなるだろう。そうして、積み重ねた結果、あの方も超えられぬ存在となっていくのさ」  焦がれるような、夢見るような目をして、彼女は言う。そこには、既に歴史に名を刻んだ彼女だからこそ抱ける感慨があるように思えた。 「孫家の友として、私はそれに期待していた。それくらいは裏切りでもあるまい?」 「裏切りもなにも、あんたも雪蓮も呉の人間だってわかった上で、あの莫迦は受け入れてるんでしょ」 「まあな。だからこそ恐ろしいわけだが……。貴殿は気にするのではないか?」  冥琳の重ねての問いに、詠は躊躇うように口をすぼめ、眼鏡を外してきゅっきゅと汚れをぬぐい取りながら、なんでもないように答えた。 「登極した後は許さないわ。……ただし」 「ただし?」 「あいつが許すなら、それはあいつの意思でしょうよ」 「ふふん」  満足する答えを得たのか、小気味よさげに鼻を鳴らす冥琳。だが、しばし考え込むように顎に指をあてていた七乃は彼女たちに注意を促すように告げた。 「でも、あんまり妙なおねだりはできないようにしないといけませんよねえ。寝物語に約束したとか主張されても困りますしー」  一刀が帝位につけば、その皇妃はほとんどがこの国の実力者で占められる。もとより力のある人間が帝の寵愛を盾に無法を働けばどうなるか。  そのような人間はいないと考えたいところであるが、七乃としては心配になってしまうのだった。  実際には他人から見ると、彼女が最も危険な人物の部類に入ってしまうのであるが。 「そうね、いまはいいけど、今後は考えないとね」 「うむ。それについてはここではなく、今後の議論で正式に提案すべきだと思うな」 「そうね」 「そうしましょう」  意見がまとまったところで、再び話題は呉、蜀への対外政策に戻る。 「蜀については、正直、そこまでの問題はないと思うけど」 「まあ、攻め入って、どれだけの戦果を一度に上げられるかですからねー。大きな案ではなく、具体的な策ですよね。それこそ、皆さんの出番ですね」 「そうだな。あちらは正々堂々とした戦になるだろうな」  書類を全てまとめ終えたらしい詠の発言に、七乃も冥琳も同意する。実際に、蜀漢相手には戦は避けられないと決まっているのだ。後はそれをいかにうまくやり遂げるかだ。  ただし、それには政治的効果も考えなければならない。 「あいつは華琳ほどその辺りこだわり無いようだけど、後々のためには正攻法がいいのよね」  会戦までの経緯は別として、戦闘自体は至極単純なものにしなければならない。後々の政治的安定のためにも、それぞれの将がぶつかり、こちらが押し勝つのが理想だ。  そして、それはけして不可能ではない。間違いなく兵力では勝るのだから。後顧の憂いなく投入できればという条件つきではあるにしても。 「そういうことならますます、そっちは私の出番なしですよー。……劉協陛下が逃げないように手を打つ必要はありますが」  何気ない笑み。それは、本当に、普段通りの七乃の笑みだ。心がこもっていないだのなんだの言われる表情ではあるが、けして、不気味なもののはずはない。  だが、その瞬間、詠も冥琳もなぜかその笑みから目を逸らした。 「しかし、孫呉相手も汚い手を使うのはどうかな」  なんだか気を取り直そうとでもするように座り直し、冥琳は人差し指を立てて振る。 「雪蓮が暴れる?」 「いや、そちらはそちらで問題だが、まず蓮華様が納得するとは思えん」  それならば真っ向から力を見せつけるべきだろうか。それにも冥琳は指を振った。 「だが、戦となれば、自然長期戦となる。さすがに赤壁ほどの鮮やかな勝敗を計算に入れるわけにはいかんからな」 「あれについては、呉側の策をひっくり返された衝撃あったればこそ、という解釈でいいのかしら? 当事者としては?」 「そうだ。あれを破れるはずがなかった。なにしろ、私も祭殿も、ましてや朱里や雛里までも計りきれぬ策だ。まさか一刀殿が他の世界の歴史を『知っていた』から破れたなど想像もつくまい」  力強い声。冥琳の口調には絶対の自信があった。つまり、理論上はけして破れぬ策だったのだ。なにしろ、冥琳自身もその策を操ってはいなかったのだから。  それを一刀が看破したのは、彼が二十世紀世界からやってきたためで、もはや不幸な事故というべきだろう。 「それでも、被害は与えていたのだ。ただ、祭殿の損失に比べればものの数ではなかっただけでな。だが、今回は……」  誰も失うわけにはいかない。一刀の妻であるという事情以上に、今後帝国の一員として迎え入れるには、重要人物を戦死させるわけにはいかなかった。 「水上の戦は、死人が出すぎるからいやなんですよねー」  うへえと言いたげな顔で、七乃が呟く。彼女の言うとおり、水上での戦は死者数が増える。なにしろ船が沈没すればたいていは助からないのだ。地上なら落馬しても生きていられたはずの人間が高い位置にある甲板から落ちた故に死んだり、水に血や体温を奪われて死んだりというのはよくあることだ。  そして、呉は川の上でも火を使う。  両者に大損害を出す水上戦は、出来れば避けたいところであった。それこそ赤壁のように決定的に勝たない限りは消耗戦に陥る。 「だが、孫呉は水上戦に持ち込むだろう。長期戦を避けたいなら、そこで圧倒的勝利を狙うしかない」 「やっぱり、戦はだめね」  しばし考えた後、詠はそう結論づけた。七乃は宙を睨み、虚空に地図を描くように指を動かしながら、 「やるなら引きずり出してですかねー」  と半ば諦めたように吐いた。江水を挟めば、孫呉は大幅に有利となる。その利を捨て突出するわけがないのだ。  北岸の住民を人質に呉側の反発を狙うという手も一刀の下では使えない。そんなことをすれば、一刀に見捨てられるより早く、華琳配下の将に江水へ蹴落とされてしまうことだろう。 「たしかに出ざるを得なくなれば……」  そこまで言って冥琳は腰を浮かして身を乗り出した。 「待てよ? 一刀殿はたしか蓮華様……呉に対して襄樊の開発を約束していたのではなかったか?」 「ああ、襄陽と樊城を囲んで一つの都市にして、大陸の通商網における基幹都市の一つにするっていう」  呉に対する融和策の一つとして提唱され、いまのところは計画段階にしか過ぎない話を、詠は思い出す。  大陸でも中央に位置する襄陽と樊城の双子都市をまとめて人と物の集う中心地にするという提案は実に魅力的なものであるが、それを実現出来るだけの財源がいまのところ確保できていなかった。 「それだ」  だが、冥琳は詠に向けてぱちんと指をならし、満面の笑みを浮かべたのだった。  3.前夜  さて、そんな風に軍師たちの新たな発想や討議が繰り返され、様々な立案がなされ、幾度もの決断が下されていく中で、北郷一刀の登極の日は近づき、そして、ついにその前日を迎える。  そう、春蘭と秋蘭がはじめてそのことを知らされたその日を。  華琳が、さすがの彼女も初めての経験である懐妊という事態に伴う煩わしさの中で股肱の臣に日程を伝えるのを忘れていたのか、あるいは春秋姉妹をからかうためにあえて伝えていなかったのか、それはわからない。  だが、いずれにせよ時は止められず、その日は来る。  そして、ついに日が暮れ、この闇が明ければまさに新たな帝が生まれるという夜。  祭は、意外な客を迎えていた。  彼女の自室を訪れるのは――一刀を別とすれば――雪蓮や冥琳はもちろん、昔なじみの華雄や酒飲みの霞、あるいは遊び相手と思っている季衣や流琉といったところが主なもので、いま目にしている人物が訪れたことなど一度もなかったのではないかと彼女は不思議に思っていた。 「おやおや、珍しや。王佐と呼ばれるほどのお方がおいでとは」 「からかわないでちょうだい」  猫耳のような頭巾を被った小柄な女性は部屋に通され、そんな声をかけられると怒ったように吐き捨てる。それが照れ隠しなのは祭には丸わかりで、ほほえましく思うほどだ。 「それで、なに用じゃ?」  彼女は本気で訊ねていた。なにしろ魏臣の中でも特に華琳への心酔が強く、祭のことになど興味がないとばかり思っていた桂花である。その用事など想像もつかなかった。  もちろん、彼女のような人間が用もないのに訊ねてくることなどもっとあり得ないのだ。  桂花は早々に椅子に座り混んだ祭を前に部屋の真ん中で少々躊躇った後で、こう切り出した。 「あんた、赤壁の前に乗り込んできたこと覚えてる?」 「ん? ああ、そりゃあもちろんじゃ」  実を言うと、彼女は赤壁に関わることについては、いまだにぼんやりとしか思い出せない部分がある。だが、雛里を連れて曹魏の陣に殴り込みをかけたことはしっかりと覚えている。  痛快で、そして、悲痛な思い出であった。 「まさかあんたの言うとおりになるとは思わなかったわ」 「儂の?」  祭はその時のことを思い返していたため、桂花の言葉のいくつかを聞き逃した。それでも、自分が行ったとおりになったと言われてみれば注意を惹く。  そして、その意味を彼女はすぐに理解した。 「……ああ、旦那様が華琳殿の後を受けたなら……という挑発か」 「そう、あれ」 「しかし、まあ、あの時と今とではまるで違うじゃろうに」  銀の髪を振り振り、祭は桂花に微笑みかける。たしかに華琳亡き後一刀がその後を継いだらどう思うかと魏の将たちに訊ねかけた覚えはある。  だが、そんな戯れ言と、いま準備されている登極はその意味合いが異なるだろう。  なにより、今回の事態を生み出したのは他ならぬ華琳の思いなのだから。 「別に予言だとかなんとか言うつもりはないわよ。ただ、ね」  そこで桂花は言葉を失い、しばし、次の言葉を探すように視線をさまよわせた。結局、彼女は一つ大きく息を吸ってから、改めて祭に訊ねた。 「あれ、別に嘘じゃないんでしょう?」 「さて、どこまでが虚でどこまでが現じゃったかのう」  そう言って、彼女は笑う。いかにも重大ではあるが、なにか楽しいとでも言うように。 「なにしろ全てが行き当たりばったりのこと故なあ」  はぐらかすように言う彼女を苛立ちを込めて睨みつけ、しかし、桂花は怒鳴り散らすこともせず言葉を押し出した。華琳以外の人物への態度を鑑みると実に不思議な事態なのだが、慣れていない祭はそれに気づくことがない。 「雪蓮へや冥琳たちへの反発は嘘でしょうけど、それでも、やっぱり孫堅への思いの大事さは偽物じゃなかったと私は見ているけど」 「まあ、のう」  それはそうだ。  孫文台という人物は、彼女にとってなによりも大事な意味を持つ。友であり、主であり、憧れであり、守るべきなのに守れなかった人物なのだから。  彼女への思いは失われない。たとえ、その娘たちを冥琳と共に育て上げ、彼女たちにも忠節を誓ったとしても。あるいはその後、数奇な縁から一刀に仕えることになったとしても。  初めての主であり、永遠の主であった。  その命が失われたが故に。  桂花はすっと表情を変えた。それは、目の前の祭の雰囲気を感じ取ったためかもしれない。  彼女は、その時、孫文台と同じ時代に居た。 「どうやって……」 「なに?」  掠れ、消えた問いを祭は聞き返す。本来は聞き返すべきではないのかも知れないが、そのあたり図太くなるのが年の功だと祭は考えていた。若い者に出来ないこともやってやるのが老身の務めというものだ。 「どうやって、そういうのを呑み込んだの?」  無理矢理吐き出した、というような言葉を、祭は聞く。それは、重い、実に重い問いかけであった。 「ほほう」  自然と、笑みがこぼれる。くっくと喉から漏れるほどの笑いに、さすがに桂花が顔をしかめた。 「なによ」 「いやあ、誉れなことじゃと思うてな」 「は?」 「誉れではないか。あの荀文若が儂に教えを乞いに来ておる。なんという栄誉か」  それから、彼女はにやにやとわざとらしい表情で続ける。 「愛しき男のために、愛するおなごへの思いを消化するにはどうしたらよいか。うむ、難問じゃのう」 「ちょっと!」 「妻となっておいていまさら照れるな、照れるな」 「むぐぐぐ……」  怒ったような制止の声を難なく交わすことで、祭は桂花を黙らせる。そうして、彼女は猫耳軍師を手招いた。 「ともあれ、ゆっくりと教えてやろうではないか。そう、酒でも酌み交わしながらゆるゆるとな……」  いつの間にか卓には酒杯が置かれ、そのことに驚きを見せつつも、桂花は吸い込まれるように卓へと近づいていくのだった。  4.魏国  月が出ているべきだ。  暗く曇った夜空を眺めながら、春蘭はそう思うのだった。  こんな夜には煌々と輝く満月が空にかかっているべきなのだ。そして、酒杯にはその満月が入っていなければならない。  それなのに、夜の空には見える星すらなく、雲間からのぞくのは、わずかにあの妖しい客星くらいのものだ。  これではいかん。  風情というものがなさすぎるではないか、と彼女は思い、そして、抗議するように拳を天に突き上げた。  もちろん、いかに夏侯元譲といえど、天空の機嫌を変えられるわけもない。晴れぬままの闇空に諦め、彼女は拳を戻し、酒杯を呷った。  その様子を、彼女を探しに来た秋蘭が見つけた。  城壁の上、唯一人。  本来いるはずの兵は全て下がらせたのであろう。一人たりとて姿は見えない。  たしかに春蘭の瞳なら、兵百人と同じだけの働きはすることだろう。たとえ、その目の片方が永遠に失われていたとしても。  だが、それは軍規違反である。  戦場でならともかく、洛陽の城壁で華琳が定めた規律を犯してまでなにか一人でやらねばならないことがあるのか。  あるのだろう。なければならない。  そうでなければ、魏の全軍を統べる将軍たる姉とて、彼女は糾弾しなければいけないのだから。 「……どうした、姉者。一人で飲んでいるのか」  そんな緊張をわずかに含みつつ、秋蘭は姉に近づいた。普段使う陶器の酒杯ではなく、金属製の深い杯を彼女が持っていることにようやく秋蘭は気づいた。星灯りがないためにそれは光を反射していなかったのだ。 「んー。秋蘭か。ちょっとな」  なんでもないことのように春蘭は言う。だが、大功があった時に華琳より下される黄金杯を持ち出しておいてなにごともないわけがない。  秋蘭は考えるまでもなく姉の横に座っていた。その彼女の膝に投げられるものがある。 「なんだ? 私が来ることをわかっていたのか?」  ずっしりと重いそれをしっかりと受け止めて置いて、秋蘭は驚いたように目を丸くする。いくらなんでも黄金の杯の二つ目が出て来るとは思いも寄らなかった彼女である。 「なんとなくな。お前か華琳様か一刀か。まあ、この辺りが来ると踏んでいた」 「そうか」  自分の他に挙げられた二つの名前は、姉にとっても彼女にとってもかけがえのない存在だ。そこに並んでいることにくすぐったさと安心を感じながら、秋蘭は姉の酌を受ける。  同じように妹に注いでもらい、なみなみと酒の満たされた杯を持ち上げ、春蘭は呼びかけた。 「飲もう」 「飲もう」  そういうことになった。 「なにを悩む?」  無言で酒を味わうことどれほどか。暗い空では判断しようがないが、それなりの時間が過ぎた頃、ようやくのように秋蘭は訊ねた。 「わかるか」  姉のほうは悪戯を見つかった子供のような表情で首をすくめて見せる。それから、何かに気づいたように自嘲の笑みを浮かべた。 「桂花あたりなら、わたしが悩むなど時間の無駄だと言うことだろうな」 「そうかもしれないな。だが、無駄ではないことは私が良く知っている」  珍しく皮肉っぽいことを言う姉に、秋蘭は力づけるような調子で告げる。いかに春蘭の頭の巡りが悪かったとしても――実際は言う程でもないようにも思うが――悩むことが無駄なわけがない。  悩む前に本能的に答えに到達していることはあるにしても、だ。  だが、春蘭は朗らかな表情でおかしなことを言い出す。 「うん。それに、これは悩みでもないしな」 「なに?」 「たぶん、ええとな……あー、そうそう、感傷というやつだ」  さすがに耳を疑った。 「感傷?」  聞き返しつつ、だが、姉がそう言うのならそうなのであろうと思い直す。それにしても、一体、なぜそれはやってきたのか。 「一体何に?」 「わからぬか」 「わからん」  わかるわけがない。なにしろ心当たりがないのだ。  自分たちは華琳に従い三国を平定し、並み居る将の中でもかなりの功を成し、その中で一刀に出会い、男と結ばれる喜びも知った。  一体何を思い煩うことがあるというのだろう。  夫となった男には五十人ほど妻がいたりするが、それは、いくらなんでも今更ではないか。 「なぜわからぬ」 「いやいや、姉者……」  苛ついたように杯を振る春蘭。ちゃぽちゃぽと酒が音を立てた。 「よく考えてみろ」 「う、うむ」  そう言われて考えてみてもわからない。思い当たる節がない。 「すまん、わからん」  お手上げ、というように手を広げてみせる。姉は彼女に言い聞かせるように膝で詰め寄りながらこう告げた。 「いいか、秋蘭」 「うむ」 「明日、魏は終わるのだぞ」  ああ、そうか。そういうことか。  そう思い至りつつ、しかし、彼女の口は自動的にすらすらと言葉を紡いでいる。 「華琳様は引き続き魏公として……」 「そんなことを言っているのではない」  叱りつけるような言葉に、改めて胸をつかれたような気分になる。 「……そうか。そうだな」 「そのことに、お前はなにか思わぬのか」 「思わぬでもない」  言われてみれば、そういうことなのだ。  この夜が明ければ、大陸最強の国家の主は新しく生まれる帝の一臣下と化す。  形式だけで見れば漢朝に仕えていた頃と同じかもしれないが、その意味は違う。  なにしろ、今回の帝は華琳自身が選び、認めた者なのだ。 「だが……。うん、そうだな」  だが、それでも、ただ悲しいとか、寂しいとかそんな気持ちだけが溢れることはなかった。そういった感情がないというのではない。それ以上に強い思いが確かにあることに、秋蘭は初めて気づいたのだった。  彼女は杯を持っていないほうの手で拳を作り、その拳を胸にあてた。自らの心臓の上を、彼女はどんと叩く。 「たとえ形がどうなろうとも、我らの中に、我らの心血に、魏という国はあるのだ。そう思うよ」 「……そうかもしれんな」  春蘭は妹の言葉を口の中で味わうようにしばらく黙っていたが、こくりと素直に頷いた。  姉者もわかってはいるのだろう、と秋蘭は思う。  彼女が一人ここで酒を飲んでいたのは、ただ、なんとはなしの寂しさのためだ。本気で反対ならば華琳や一刀に訴えにいくことだろう。  たとえそこで丸め込まれる結果になろうとも、彼女は主張だけはするはずなのだ。  それが、ここで酒を飲んでいるだけというのは、本当に『感傷』だけなのだろう。 「それは、一刀も同じ事だぞ。我らと共に覇業を支えてきたのはあれも同じ事だ」 「うん……」  重ねるように言ったところで、春蘭が奇妙な顔つきになる。一刀の名前を聞いて、何ごとか思いついたというような様子であった。 「ぷっ」 「どうした」  急に噴き出し、大声で笑い始める姉に、秋蘭は首をひねる。 「いや、明日から一刀を陛下と呼ぶと思うと……。くくっ、おかしくて」 「ははっ。たしかにな」  言われてみれば納得であった。北郷一刀を陛下と呼ぶ。これがいかに滑稽か、自分たちでなくては本当にはわかるまい。彼女はそう考え、そして、姉と一緒に笑った。  ひとしきり笑った後、二人は、改めて座り直し、恭しくその酒杯を合わせた。 「魏国に」 「魏国に」  月もない夜、城壁の上で。  夏侯姉妹が魏国に杯を掲げ合う。      (玄朝秘史 第四部第十二回『烏兎匆匆』終/第四部第十三回『北郷一刀』に続く)