玄朝秘史  第四部第十一回『慎終如始』  1.邂逅  古今東西、国家の創建者という者は精力的なものだ。  彼らは超人的とも言えるその行動力を駆使して国を建て、広げ、富ませる。  自らが始めたという強い自負を持つ故に、勢力下にある全てを掌握しようとする。時にその情熱が激しすぎて自滅してしまうほどに。  だが、代を重ねるごとに、君主が個人的に左右できる範囲は狭まっていく。  世襲を前提とするならば、英明な人物が続くとは限らないため、指導者の権限縮小、官僚機構の育成は当然の流れであろう。  だが、それが行きすぎると官僚の専横に繋がり、そして、いずれは王権の形骸化へと発展するのだ。  漢王朝においては、帝権の形骸化は極限まで進行していたと言っていいだろう。  劉邦の建てた漢が外戚たる王莽に乗っ取られて滅びたのと同様、光武帝の漢も、宦官と外戚の支配を受けて、帝はお飾りと化していた。  まして、黄巾以後の三国の争乱の中で、その地位はますます低下し、任官のために利用される存在に成り下がる始末であった。  だが、それでも。  そう、それでも都は帝の座所なれば都であり、帝は朝廷にあってこそ帝である。  その人物が都から消えれば、その反響は必ずある。  蜀勢がまさに彼の人を連れて都を脱出し、呉勢がそれを知らされながらも何食わぬ顔で帰途につき、当の帝によって幽公に任ぜられた白馬長史が北東へ向かい、同様に錦馬超が南蛮勢と洛陽を発った後。  宮城はその主を失った事により、様相を一変させていた。 「うーん」 「どうしたのよ、一刀」  しんとした建物の中を進むのは、なにやら顎に手を当てて唸っている北郷一刀と、その妻二人。一人は彼の様子に小首を傾げる華琳であり、もう一人は彼ら二人を守るために得物を掲げながら歩く流琉だ。 「いや、静かだなあ、と」 「誰もいないもの」  三人の周囲には美しい彫刻の施された柱や壁が広がり、壮麗とも言えるほどの空間を形作っているものの、だだっ広いその場所に人気はまるで感じられない。  多くの建物があり、部屋がある城内だけに、どの広間も常に人で溢れているなどということは考えにくいが、人っ子一人いないというのもまた考えにくい。個人に与えられた部屋や倉庫ならばともかく、通常、各広間は使用されない時も兵が立っているものだ。そうでない部屋は閉じられるのが通例である。  しかし、彼らの歩く大広間はがらんとして人の気配はなく、その静けさに、差し込んでいる日の光すら翳っているように見える。  まるで、打ち棄てられた場所であるかのように。 「ううむ」 「だから、どうしたのよ」 「いや、こう……なんていうか、てんやわんやの大騒ぎが、と想像していたものだから」  国家元首が逃亡すれば、途端に内戦状態に陥ってもおかしくない。そんな感覚を持っていた一刀としては、目にしている状態が腑に落ちない。  もちろん、それはそういった報道に接してきた経験からで、一瞬で情報が駆け巡る現代世界だからこそのものだ。  この世界では、帝の失踪が明らかになっても、その報が広まる速度には限度がある。いかに噂話が広まるのが早いとてこの時点では、都から出たその話が、既に洛陽を発った皆に追いついているかどうかというところだろう。蜀の発表によって漢中側から情報が補足され、人々が確信に至るのはまだ後のこととなる。 「しかたないでしょう。みんな逃げてしまったのだから」  妊娠五ヶ月となり、せり出し始めた腹をしきりになでながら華琳は怒るでも嘲るでもなく平静な調子で言う。一刀は顎をなでながら、小さく頷いた。 「まあ、そうなんだが……」  新帝誕生の噂が流れて以来激減していた出仕者は帝が姿を消した事が知れた事で、完全に絶えた。近衛の兵すら宿舎から逃げ出すか、逆に宿舎に食糧を運び込んで立て籠もっている始末である。  彼らの一部は帝が逃げたことを察してその後を追うか、あるいは故郷に、もしくは当人が無事に隠れられると信じる場所へと去った。一部は帝が消えたのは魏側の強硬措置――つまりは、暗殺と見て、これも逃げるか立て籠もった。さらに残る者は――これが一番多かったが――華琳と一刀に擦り寄って、その命の保証を得ようとした。  華琳はひとまず都に駐留する漢軍の大部分――それには近衛の部隊も含まれる――から出ている魏軍への鞍替え要求に対して沈黙を保ち、まずは静かにしているよう言いつけて放置している。  きっと自分がどう解決するか見たいのだろうと、一刀は考えていた。  ともあれ、本来朝廷の人々がいるはずの宮殿は、ただただ空虚に開け放たれていた。 「あ、でも、人が居ますよ」  二人の会話を邪魔しないよう控えていた流琉が一歩前に出て伝磁葉々を担ぎ直す。華琳の懐妊を知って以来、余計に彼女を守らねばとその行動にも出ている流琉である。 「おや、本当だ」  流琉の視線の先を見れば、大広間の出口の一つ、開け放たれた扉の向こうに人影がある。ここからでは顔は見えないが、近衛の鎧をつけ、儀礼用の大戟を持っていることは見て取れた。 「行ってみましょう」 「そうだな」 「いえ、あの、危ないかも」  華琳たちがそちらに向きを変えるのを慌てて注意する流琉であるが、二人は顔を見合わせ、いかにも意外という様子で彼女のほうを見た。 「流琉がいるのに?」 「流琉がいるもの」 「あ、はあ……」  そうも純粋に信頼をよせられてしまってはそれ以上なにも口に出来ない流琉である。二人を導くように前に立つ彼女の顔は、喜びと照れくささで真っ赤になっていた。  三人が近づくと、兵は姿勢を崩さぬまま視線だけを彼らに向け、そして、ぎょっとしたように目を剥いた。  当然であろう。そこにいたのは一介の兵士では――いかに近衛の精鋭といえど――顔を見ることもそうそうない名だたる人物たちだったのだから。  だが、それ以上の反応も見せず、彼は目を逸らし、視線を前に戻した。  近寄ってみれば声でもかけてくるだろうと踏んでいた一刀は少々驚く。たしかに、身分的には兵のほうから声をかけるのは躊躇われる三人連れである。しかし、あまりに反応が薄くはないか。  そう思ったのは彼だけではないらしい。面白そうに唇の端を上げている華琳はともかく、伝磁葉々を構えたままの流琉は不思議そうに声を発した。 「あの……」 「はい」  返事はあった。相変わらず姿勢を変えない彼の態度に気づき、三人は扉の外、つまり、彼が向いている方へ移動した。 「なにをして……らっしゃるんです?」 「はあ。仕事です」 「仕事ですか」 「はい」  流琉が助けを求めるように一刀の方を見る。彼は彼女の気持ちを察して苦笑した。  兵は畏縮しているというのでもなく、さりとて軽侮の念をぶつけてくるでもない。ただ訊かれたから、落ち着いてそれに応じているのだ。多少の緊張はあるものの、それは彼らを前にしているのだから当然だ。  だが、皆が逃げ出した宮殿に一人立つ男の言動として予想出来るものではない。流琉がよくわからないという顔をするのも理解出来た。 「ここに立つのが任務?」  戸惑う流琉に代わって、一刀が質問を続ける。華琳は傍で眺めているだけで、会話に参加するつもりはなさそうだった。 「ええ、今日は朝番で」 「……立ち番は、二人一組が単位じゃなかったかな?」  通常なら特になんの変哲もない返事も、状況が状況だ。一刀は彼の様子に興味を惹かれた。 「その通りで。困ったことに、相棒が出てこんのです」  ついでに、交替の者も来ない、と彼は言った。当たり前であろう。ほとんどの兵は部隊ごと逃げたか引きこもるかしているのだ。 「ええと、その……みんな、なんていうか、逃げたりしているんでは?」 「でしょうな」  思わず流琉が口を挟むのに、兵は同意する。一刀は改めてそれを確認した。 「それは知っている?」 「ええ、もちろん。今日も宿舎を出る時に声をかけたのに、聞きゃあしませんでね。ま、仕事したくないってやつを引きずって来ていたら、遅刻しちまいますんで……」  一刀はしばし腕を組んで考え、呆然としている流琉といっそ痛快だとでもいうように微笑んでいる華琳を見比べ、複雑な表情を浮かべた。 「君の任務は、この扉を守ること、だね?」 「はい。といっても、荒事なんぞ滅多にありません。この戟を実際にふるったのも、こないだの白眉ん時が初めてで。あの時は、やられはしなかったんですが、尻を刺されまして。いやあ、しばらくは座るのが痛くて痛くて」  愚痴るように言う男。だが、その語り口は爽やかで、恨み言を言っても、いやらしさはまるで感じられなかった。 「そうか。それはご苦労様。でも、それを命じた部隊長や上司もみんな逃げるか隠れるかしているんじゃない?」 「ええ。でしょうな。うちの隊長は三日前から姿を見ませんから……。そうですな、どこぞで飲んだくれてるか逃げたか。……うん、世をはかなんで、なんて性質じゃありませんしね。どっちかでしょう」 「それでも、ここに立つ?」 「と言いますと?」  問いかけの意味を掴みかねるとでも言いたげな表情で彼は一刀を見返す。一刀は身振り手振りを交えながら男に語りかけた。 「いや、その広間にも人はいないし、この扉以外には兵は立ってない。それでも君がここに居る理由はなにかな、と思ってね?」 「ふむ。そう言われましても、さすがに一人で全ての扉を回るのは無理ですしね。なにより、ここを空けちまったら、仕事が出来ません」  そこで、何ごとかに気づいたかのように、彼は問いかけた。 「あ、もちろん、騒ぎがあれば向かいますよ。どこか、手助けを必要としている部署があるんです?」  手助けが必要というなら、どの部署もそうであろう。そもそも軍の指揮系統が機能していないのだから。 「いや、騒ぎはないけどね」  むしろ、沈黙だけがあった。だが、少なくとも彼を煩わせるものはなかった。いや、自分たちが一番彼を煩わせているのかも知れないな、と一刀は皮肉に思う。  ふと一刀は核心をずばりとついてみた。 「君も逃げようとは思わないの?」 「今月分は給金をもらってますからね」  そこで初めて彼は直立不動の姿勢を崩し、少し脚の間を広げ、体の力を抜いた。 「それに、どこに逃げるっていうんです?」  その彼の動作がまるで肩をすくめるかのような動きに見えて、一刀は少しおかしくなってしまう。 「……実家のほうとか?」 「うちは母が洛陽にいるだけでして」 「そう」  そこで、一刀はしばし考え、こう告げた。 「実は、今上は洛陽を出て長安を過ぎて、今頃は漢中にいるはずなんだけど。追いかけようとかは思わない?」 「に、兄様!?」  驚いて彼の袖を引く流琉であるが、華琳の手が肩にかかるのを感じて口を閉じる。 「はあ、漢中ですか……」  一方、この時点では兵たちには伝えられるはずもない秘事を打ち明けられた男はわずかに首を傾げた。 「さっきも言いましたが、母はこちらにいますし。それに……」 「それに?」 「追いかけていったとして、来月の給金払ってもらえますかね?」  さすがにその問いかけには虚を突かれたように目を見開く一刀。後ろで見ている華琳の笑みがますます深くなった。 「さて、さて」  参ったとでも言いたげに頭を掻き、一刀は彼と、彼が立つ周囲を見渡した。相変わらず静かな空間が広がっている。廊下でこうして話をしていても、誰一人通りすがる気配もない。 「君は、今月中はここを守ってるんだね?」 「ええ、仕事ですから」 「そう」  それだけ聞いて満足した、とでも言いたげに一刀はその口元に大きく笑みを刻んだ。兵がそれにつられたように表情を緩めかけ、ふと顔をしかめた。 「どうした?」 「あれ? ええと、失礼ですが、前の丞相と、大鴻臚殿、それに、魏の典将軍ですよね?」 「ああ、そうだね」  さすがに誰を相手にしているのか、いままでわかっていなかったわけではあるまい。この質問には華琳もその表情を不審そうなものに変えた。  だが、彼の言葉を聞いて、華琳と一刀は破顔する 「ええと、いま、御三人は、官位をもっていらっしゃいましたっけ? 一応、任務の上では一定以上の官がありませんと……」  しかし、この三人を排除していいものだろうか。そんな風に考えている様子であった。  一刀は彼を、そして、得物を慌てて構え直そうとする流琉を安心させるように大きく手を振った。 「安心してくれ、すぐに出て行くよ。うん、ごめんごめん」  そして、さっさと歩き出すと、くすくすと声をたてて笑い始めるのだった。 「華琳」  広間のあった建物を出てしばらく庭を歩いたところで、一刀は足を止め、背後を振り返る。 「あの男、俺がもらっていいかい?」 「え?」 「惜しいけど、いいわよ」  その申し出に驚きの声をあげたのは、流琉であり、名指しされた華琳のほうは、先程の一刀と同じくくすくすと笑いながら頷いている。 「じゃあ、親衛隊を少し借りても?」 「ええ」 「え? え?」  さっぱり要領を得ないという様子の流琉。そんな彼女に一刀は真剣な顔で対する。 「よし。流琉。親衛隊で、ここいらの……朝廷が使っていた宮殿を封鎖してくれ」 「あ、はい」 「ただし、あの男の通行だけは阻んじゃ駄目だ。絶対に誰にも邪魔させちゃいけないし、傷つけるなんて以ての外だ。いい?」 「はい。それは構いませんけど……」  どうやら彼が本気であるらしい――そして、おそらくは横で見ている華琳も同様である――と察した流琉は素直にそれを受け入れた後で、可愛らしく首をひねる。 「なんで、あの人を?」  彼女が見る限り、命令に忠実とはいってもあまりに融通が利かないのではないかと思える相手であった。彼の身を害しないようにというのはわかるが、邪魔をしないというのはよくわからない。ましてや一刀や華琳が欲しがる人材だとはとても思えなかった。  だが、一刀はそんな流琉の様子に小さく首を振る。 「漢朝は、得がたい人材を手放したのさ」 「はい?」 「私から話すわ、一刀」  一刀が彼女に解説しようと口を開く前に、再び歩き出した華琳が声をかけている。慌ててその横につく流琉と、ゆったり微笑みながら後に続く一刀。 「いい、流琉?」 「はい」 「私たちは国政を左右する地位にある。そういう立場なら、規則を守ることだけに固執するわけにはいかない。当たり前よね。その規則を作るのは私たちの仕事なのだから。そして、常に想定を超えた事態は起こりうる。たとえば白眉のような」  うんうん、と流琉は熱心な様子で頷いている。黄巾があったとはいえ、白眉のような蜂起が再びあるとは誰も思っていなかっただろう。 「そんな時に、いちいち昔に作った法に縛られていては身動きが取れない。そのために時代にあった法を作り、国を変えていくのが私たちの仕事」  それは時に危ういものだ。国を私できるということでもあるのだから。だが、それでも誰かがそれを担わねばならない。常に堕落の誘惑を退けつつ。  しかし、それとは立場を異にする者たちも当然存在する。否、そちらのほうが圧倒的大多数なのだ。 「でも、彼の立場では、規則を守ることが優先される」  兵卒が自分の好きなように法をねじ曲げ始めれば、国は瓦解する。華琳たちが国の根本を作り替えていくのは、そのやり方を心得ているからこそであった。 「それでも、自分以外に誰一人いない場所で、任をまっとうすることが出来る者がどれだけいるかしら?」  上官が逃げ、同輩が潜み、仕えるべき君主は新たな道を求めて他国へ去った。その状況で、己の役割を保てる人間がどれほど居るだろう。  しかも、ここ数年、近衛は常に冷遇されてきたのだ。それが魏への攻撃に利用されたが故であったとしても。 「ただ金のことを考えるだけなら逃げているでしょう。ただ命のことを考えるなら隠れているでしょう。そして、もっと愚かでも賢しらでも、別の事をしているでしょう。それこそ、目の前に現れた私たちに自分を売り込んでみたりね」  ふふんと一つ鼻を鳴らして、華琳は最後にこう評した。 「あそこまで愚直に自らの職分をまっとうできる。それは一つの才能なのよ」  三国時代が終焉を迎え、蓬莱朝が開幕した頃。  かつて争った英傑たちに続くように幾人もの英雄が出現し、その多くは竜とも虎とも狼とも、あるいは鬼とも恐れられ称えられた。  それらには及ばずともその忠節と堅実な仕事ぶりで後に八狗……八頭の忠犬と賞誉された人物群があった。  この日一刀たちが出会った兵こそが、後に八狗に数えられる一人となるのだが、それはまた別の話である。  2.宣言  一刀たちが帝とその周辺が使っていた宮殿を訪れ、それがもはや廃棄されたものであると確認したその夕刻。  太陽が沈み始めようとする直前、茜色の太陽がその最後の輝きを凄まじい勢いで大地に放つその時間。  洛陽の宮城の城壁に、三人の人物があった。  いずれも幾枚もの布を重ねた麗しい衣装を着込む三人は、一人が金、一人が銀、一人が青を基調とした色合いを用いており、並ぶと実に映えた。さらに夕陽に照らされ、その姿はまるで光り輝くようにまばゆく美しい。  城壁の下に集まった洛陽の住民たち、そして、この都を訪れていた旅人や行商人、その全てが彼女たちの名を知っている。  即ち、金属がとろけたような輝きを放つ黄金の髪を垂らす美女は、袁本初。  即ち、大人しげなたたずまいで人々の視線を受け止めているのは董仲穎。  即ち、その強烈な瞳で、そこに立つ者全てを睥睨するのは、曹孟徳。  漢の名家に生まれ、その名と共に育った女と、田舎領主の娘として生を受け、数奇な巡り合わせから位人臣を極めた女、そして、この大陸の全てを呑み込んだ覇王。  彼女たちが打ち揃って発する言葉が、軽いものであるはずがない。  その意味を理解すればこそ、その日洛陽の警備隊によって集められた民は、固唾を呑んで彼女たちの発言を待っていたのだった。 「……数千、といったところですかしら」 「そうね。万はいかないでしょう」 「それでも、そろそろ、ですね」  城壁上の三人は口元を動かすこともなく、言葉を交わしていた。  麗羽の目算はほぼ間違っていない。この時、眼下には八千ほどの人々が集まっていた。兵を合わせれば優に一万を超える。 「ええ、十分よ」  だから華琳はこう言って、一つ手を振ったのだ。  魏の覇王が振った手によって、それまでざわついていた群衆たちから立ちのぼる声はすっかりなりをひそめた。代わりに、これまで以上の注視と期待の念が彼らから立ちのぼる。 「皆様!」  まずは麗羽が口を開く。朗々と響く声は、笑いでも含むかのような軽い調子ながら、そこに集う人々の全ての耳を強く打った。 「わたくし、名門袁家の代表にして、かつて大将軍を任ぜられた袁本初は、悲しいお知らせをお伝えしなければなりませんわ!」  ざわりと空気が揺らぐ。万に届かんとする人々の動揺は声にならぬ声として発せられても空間を揺るがすほどのものとなっていた。 「即ち、名家の基、我らが暮らすこの国の基が崩れ去らんとしているというその一報を!」  人々の意識が麗羽に集まる。だが、そこで彼女は口を閉ざした。その横に立つ儚い印象を与える少女が細いながらもよく通る声を響かせた故に。 「かつて、私は、この都に入り、相国として帝を補弼したてまつるつもりでした」  涼州から呼ばれた時、都に月を知る者はほんのわずかしかいなかった。  それから時を経て、都の人々は彼女を歓迎し、官僚たちは彼女を侮り、宦官は彼女を憎んだ。 「しかし、それは叶わぬ夢となりました。本初さんや孟徳さんが攻めてきたから、ではありません」  月は、一語一語を区切り、強調しながら、はっきりとそう告げた。反董卓連合は、問題ではなかったと。 「当時、この洛陽にあった皆さんはご存じの通りでしょう。兵などは、所詮敵ではありませんでした。戦には、呂奉先がおりました」  それは正しく、そして、間違っている。  恋の力を万全に発揮できたとして、勝てたかどうかは疑わしい。  だが、実際の成り行きが、恋をはじめとした諸将の力を発揮させない、もっと惨めなものであったのは確かだ。 「事実、この私が生きて逃れ、いまこうして帰ってきたのですから」  月はそうして一つ笑いを誘ってから、真剣な調子に戻った。 「事実は、帝の側にありその手足となって働くべき宦官たちこそが、私たちの背後を脅かし、最終的に帝のご威光を傷つけていたのです。漢朝は、内側から腐っていました」  月が口を閉じる。もはや彼女が指弾すべき敵はいない。宦官は全て放逐され、土木工事に精を出しているのだから。 「そして、私が都に入った」  凛とした声が、全ての人の耳朶を打つ。  その瞬間、彼らは改めて知った。  彼女がなぜここに君臨しているかを。  声だけで、全ての人の動きを止めてしまう力を、彼女は持っていた。先の二人の時には思わず声を漏らした者も、この彼女の前では息をすることさえ忘れた。 「皆は知っているだろう。私は、この国を掌握した。この国を支配した。そして、この国を立て直した」  深い深い沈黙の中、彼女は語る。魏の興隆を、いかに漢を助けつつも虐げてきたかを隠すこともなく。  傲然と、彼女は言った。 「私が全てを手に入れた」  誰もがそれを否定出来ない。それを否定出来るだけの材料も、力も、胆力も持っていない。  だからこそ。  そう、だからこそ。  彼らはそれを選ばざるを得なかったのだ。 「漢の朝廷に仕える者にとって、それは不満であったろう。不快であったろう。だが、それならば、私を討つべきであった。私を除くべきであった。しかし!」  酷薄な笑みを、彼女は浮かべる。 「彼らは私を直接に排することを諦め、ついに、唾棄すべき道を採った!」  そして、その唇が真実を語る。 「漢朝の帝は都を捨てた。洛陽は捨てられたのだ!」  大きく手を広げる華琳。その姿は、まるでなにかを刈り取るかのような。 「曹孟徳がここに宣言する。洛陽を都とする漢は今日この日、終焉を迎えた!」  再び手が振られる。  まるで、全ての幕切れを示すかのように、その時、日が大地に隠れる。  急に周囲の暗さを認識した人々は不安げに辺りを見回し、お互いの顔に浮かぶ恐怖の表情を確認し合う。  しずしずと闇が迫る空の中、北天に光る客星だけが、妖しく、そして、強く鮮やかに輝いていた。  3.軍  華琳の口から漢朝滅亡が宣言されたその夜はさすがに騒乱を予期して、魏の全軍による警戒態勢が敷かれていた。  その警戒の中核となるのは城内は親衛隊、城下は警備隊であるが、さらに念を入れて城外には夏侯姉妹の直属軍が置かれていた。  その軍営にふらりと現れた人物がある。 「一刀?」  護衛に華雄を連れてとはいえいきなり訪れた男の姿に秋蘭は驚いた。  いまこの時、ある意味では華琳以上に複雑な立場にあるであろう彼がなぜ城外に来るなどという危険を冒すのか、彼女にもわからなかった。 「ちょっと二人に話があるんだけど、いいかな?」  現れるなり男はそんなことを言う。二人というのは姉も含んでいるのだろうと秋蘭は察した。 「明日ではいかん……のだろうな」  こくりと頷く彼の表情を見て諦める。目の前の男が一度決めると存外に依怙地なことは彼女自身よくわかっていたからだ。 「わかった。華雄を借りるぞ」 「任せておけ」  彼に着いてきた武人は秋蘭の言葉を待っていたかのように笑う。  おそらくは彼女が期待するような騒ぎは起きないだろうと予想している秋蘭はそれでも姉に言い聞かせる時のように注意を加えてから男と共に春蘭の天幕へと向かった。 「なんの用だ。わたしたちは忙しいんだ」  春蘭は秋蘭以上に迷惑げに一刀に接した。しっしと手で振り払うような仕草までしたくらいだ。  だが、もちろん、男のほうはそんな態度には慣れっこで、まして簡単に諦めるような性質でもない。 「話を聞いてくれって」 「華琳様にしろ。わたしたちに直に来るのが怪しい」 「いやいや、華琳には話は通ってるって」 「ならば華琳様から聞く」 「だから、それじゃ駄目なんだって」 「そもそも今夜来る意味がわからん。明日にしろ、明日に」 「いや、今日だからこそ……」  ひとしきりじゃれあうような言い合いが済んだところで、秋蘭が口を挟む。 「いい加減にしておけ一刀。その調子では姉者が折れるわけないとわかっているだろうに。姉者もさっさと聞いてしまうほうが早いぞ」 「む……」 「う……」  怒ったように口をつぐむ春蘭と、照れたように頭をかく一刀。少なくとも男のほうは意識してやっているところがあるな、と秋蘭は密かに苛ついた。  後でこのことで一刀を少し虐めてやろう、と心の中に書き留める。 「よかろう。少し話してみろ」 「うん、ありがとう」  そうして、姉妹は天幕の中央に座り、男が一人立って話を始めた。 「ええとね、俺が帝になるって話なんだけど」 「ああ」  そこで一刀は一つごくりと唾を飲み込んでこう述べた。 「その後押しとして、軍の力が必要なんだ」 「だろうな」  男の決心とは裏腹に受け止めるほうはそれほど驚くこともない。国家を打ち立てるのに軍の力が必要だなどというのは春蘭でもわかる、理屈以前の話だ。だから彼女も軽く同意している。  一刀はその反応の薄さに少々驚いた様子であったが、しっかり納得していることを確認して話を進める。 「知っての通り、俺は軍を再編成することも予定しているし、特に魏軍、それにいま魏軍をまとめている二人の力が必要なんだ」 「ふむ」  それから、彼は長々と話した。彼の理想、彼と彼女たち進む道、この大陸を制覇するその目的から、その後の目論見まで。  その要所要所に春蘭、秋蘭の力は必要であり、一地方となる魏を統治するためだけではなく、直接にも彼の力になって欲しいという要望がちりばめられていた。  だが、その全てが回りくどい、と秋蘭は思っていた。果たして、姉者にその論が通用するだろうか、と。  実は武人に助力を求めるのに難しいことは必要ない。その戦力が必要な戦場を用意し、ここで戦ってくれと頼むだけで事足りる。  だが、一刀はどちらかといえば頭を使うほうで、そういった面々はそんな無責任なことはできない。全ての意味合いを理解させることを好むからだ。  秋蘭自身にとってはそれはそれで戦自体の意義を深く理解出来るし、個々の戦の終わらせ方、勝ち方というのを目指しやすく歓迎している。  だが、春蘭や霞、恋などの本能派にそれが通用するだろうか。 「お前はほんっっっとーーーーに、莫迦だなあ!」  案の定、春蘭は呆れたように鼻を鳴らし、その独眼でぎろりと一刀をねめつけていた。 「しゅ、春蘭に莫迦って言われた! 春蘭に!」  話を一段落させ姉妹の前に座っていた一刀がそう言って身をのけぞらせる。 「うるさい」 「ぐふっ」  無防備になった腹に一撃くらい、一刀は白目を剥いた。のたうちまわるかと思われた彼が何とか座ったままで踏みとどまったところで、春蘭は一刀の方へ身を乗り出す。 「よく考えろ。よっく考えろ。お前、わたしがいまの話、理解出来ると思うか?」 「う……で、でも、そのために秋蘭も一緒に……」  至近距離で春蘭に睨みつけられ、一刀の語尾が曖昧に消える。春蘭はもう一度鼻を鳴らして怒鳴りつけた。 「だったら、秋蘭だけに話して、わたしは後で聞くのでいいだろうが!」 「……まあ、そうだね」  あれは納得していない顔だと秋蘭は思う。そして、当然のように姉も同じ感覚を共有していた。 「わたしが……いや、秋蘭にしてもそうだ。そんな小難しい理屈を聞きたがると、お前はそう思うのか、本当に?」 「え?」  そんな言葉は予想外だったらしく、一刀は驚きの声をあげる。彼が考え込むのをしばし待って、春蘭は力強い言葉を続けた。 「いいか? お前は、わたしたちの夫だ。わたしたちはお前の妻だ」 「うん」  彼女は確認する。お互いが知っていながら、なかなか自覚しがたいことを。  秋蘭は知っている。それが春蘭にとって重要な意味を持ち、かつ、夢のようで信じ切れていないことを。  なにしろ彼女自身そうなのだから。 「ましてや、お前は華琳様が……我らが主が認めた男だ」  この言葉を味わうようにゆっくりと口にしているのは、春蘭がそれを認めがたいからではないと秋蘭はよくわかっている。口には出来ないが、自分もそれと同じ気持ちを抱いていることを、彼女は伝えたくてならないのだ。  もちろん、そんなことを姉に告げれば彼女は真っ赤になって否定するだろうが。  それから、からからと笑って彼女はこう言った。 「頼み事をしたかったら、一つ頭を下げれば終わる事ではないか」 「うむ。姉者の言うとおり」  これには秋蘭も全面的に同意であった。  はっとしたように男は二人を見る。春蘭も秋蘭もその視線を受け止め、同様に獰猛な笑みを浮かべて見せていた。  簡単なことだ。だが、実に重要なことでもある。  それが出来なければ、彼女たちは小さいながらも失望を味わうだろう。  そんな大事なことだ。  男は座り直し、二人に真っ直ぐに対すると、その頭をしっかりと下げた。 「この通りだ。俺に力を貸してくれ」  彼は彼女たちの期待に応え、否、それ以上に真摯にその誠意を見せた。  そのことが、どれほどの意味をもつか、彼は意識していないに違いない。  だが、彼女たちにはよくわかっていた。  いまこの時、彼女たちは――華琳が許すならば――彼のために死んでもいいとはっきり心に定めたのだから。 「よかろう」  そういうことになった。  結局、その晩は大きな騒ぎも起きず、なし崩しに男は妻たちと閨を共にすることになった。 「そういえば、登極はいつにするのだ?」  姉と共に夫の体に裸体を預けている秋蘭は天幕の隙間から朝の光が差し込むのを見上げながらそんなことを訊ねる。 「ああ、それは私も聞きたいな」  一刀にその長い黒髪を梳られ、残った片眼を瞑って心地好さげに鼻歌を歌っていた春蘭も話に乗ってくる。 「うん? あれ、華琳たちから聞いてなかったのか」  二人の柔らかな肉に埋もれるようになっている一刀は夢見心地のような悦楽の中から己を現実に引き戻し、二人に訊ね返す。 「ああ、知らん」 「色々と予定がずれているとは聞いたが」  一応は余裕を見て婚儀と登極の日程を組んでいたはずであるが、全てがうまくいくとは限らない。そもそも数日のずれはどうしようもないと秋蘭はわかっていた。 「それほどずれてはいないよ」  だが、一刀はそれを否定する。帝の蜀への亡命に伴う調整はあったものの、それは漢朝の帝が洛陽を出たと明らかにするまでの話で、その後はもはや躊躇う必要はなにもない。 「うん、明後日……ああ、いや、もう朝だから、明日だな」  彼は天幕の天井を照らしている外からの光を見て自分の言葉を訂正する。だが、姉妹はそんな細かい部分には構っていられなかった。 「は?」  ぽかんと口をあけ、揃って彼を見つめる二人に、一刀はいっそ不思議そうな表情で再び告げた。 「明日だよ」  と。      (玄朝秘史 第四部第十一回『慎終如始』終/第四部第十二回に続く)