玄朝秘史  第四部第十回『三帝鼎立』  4.シャム  美以は……いや、南蛮の面々にとっては少々釈然としない状況が続いていた。  南蛮に住み、秦漢文化圏とは隔絶して生きてきた彼女たちにとって、結婚やそれにまつわる儀礼はあまり馴染みあるものではない。  しかし、野生により近い形質を残し、発情期を備える彼女たちであるからこそ、認める相手と添うことの重要性は理解している。子を成したいと思える男はそういないのだ。  そんな彼女たちにしてみると、都で行われた『きらきらでわーわー』な儀式は、子を成し、長年いっしょにいることを祝うものとして認識されていた。  ならば、それは楽しいことだ。嬉しいことだ。  それなのに、みんなしてなんとなく悲しそうな顔をしている。  それが、彼女たちにとって、不可解であり、不満なのであった。  その、彼女たちが『悲しそう』と受け取る顔つきが、複雑な大陸情勢に対する憂いであるなどと理解出来ない故に、彼女たちは不思議がるしかないのだった。  たとえば、シャムの場合。 「……ん」  婚礼の当日、酒宴の最中についうとうとしてしまったシャムは、横たえていた体を起き上がらせると、ぶるりと身を震わせた。  体内からの欲求に従い、彼女にしては珍しくそそくさと部屋を抜け、厠に行って戻る。そうして、戻って来てみれば、なんとはなしの違和感が彼女を襲った。 「……んぅ?」  一度見回してみただけではよくわからない。ぼーっとした様子のまま、小首を傾げて二度三度部屋中をよく見てみて、ようやくシャムは気づいた。  宴に参加している人数が減っていることに。 「……どうしたのかにゃん?」  もちろん、妊娠中の華琳たちが先に出ていったことは知っているし、シャムが眠っている内に寝室に行った者もいるだろうし、既に酔いつぶれている者もいる。  だが、紫苑、桔梗、星の大酒飲み三人組が消えているのは、よくわからない。雪蓮や祭は楽しげに笑いながら一刀に絡んでいるというのに。  そして、紫苑や桔梗は美以やミケたちがのっかっていたはずだというのに。  とてとてと、宴席の間を縫い、美以たちがいたところに行ってみると、美以、ミケ、トラの三人は折り重なるようにしてねむりこけていた。 「寝てるにゃん」  ぴーすーと鼻音を立てている美以の顔をのぞき込み、また首を傾げる。 「……えんや様もいないにゃん……」  そういえば、自分は焔耶の柔らかな胸に体を埋めながらごちそうを食べていたはずなに、その焔耶もいなくなっている。 「みゃん?」  頭の上に疑問符をいくつも浮かべているような表情になったシャムは、そのいつも眠そうな顔でさらに周囲を見回し、ぱっと笑みを浮かべた。  軽い体でぽにぽにと進んで、その人物の服の袖を引っ張る。 「ん、シャムか。楽しんでいるか?」  長く美しい黒髪を垂らした愛紗は酒杯を持ちながら、ゆったりとした動作で振り返る。振り返った瞬間は鋭かった瞳が、シャムのことを認めると、実に柔らかくなった。皆が居る前でなければ、顔を極限まで緩めてしまいそうな勢いである。  こくっと頷いてから、シャムは彼女独特の節でぼそぼそと訊ねた。 「……んと……かあ様たちは?」 「ん?……ああ、紫苑だな。ええと……」  答えようとした愛紗に、横でにこにこしていた桃香が慌てたように割って入った。 「あ、あのね、シャムちゃん。紫苑さんは、璃々ちゃんを寝かしつけに部屋に戻ったよ?」  普段より早めの口調に、シャムはやわらかな肉球を頬にあてながら考え、ふと横を指さした。 「……でも……」 「え?」 「あそこ……」  彼女の指す先では、一刀の膝の上で璃々が丸くなって眠りについている。  彼女を膝の上に招いたのは一刀である。それは婚礼において美しい衣装で着飾り、花嫁たちを先導する役割を担ってくれた璃々に対する男の労りの現れであったが、同時に、その日夫となった男の膝の上を奪い合おうとするちびっ子たちの勢いを減じるための策でもあった。  まして、小さな者たちではなくとも、彼の膝の上を狙っている者も多数いるのだから。  いずれにせよ、桃香の言葉とは矛盾する光景ではある。 「あー……」  しまった、という風に額に手をやる桃香。その様子に愛紗は苦笑混じりの笑みを送った。 「この娘らに嘘をついてもしかたないでしょう。桃香様」 「うーん……。まあねー」 「シャムよ。実は、紫苑や桔梗は大事な用事があってな。酒宴を抜けたのだ」 「……そーにゃん?」  こてんと首を傾けるシャムの姿を見やり、愛紗は桃香と目配せすると、杯を置いて立ち上がった。 「うん。ちょっと外で話そう」 「……わかったにゃん」  そうして、二人は連れだって宴の席を抜ける。その光景は、傍から見れば保護者に連れて行かれる子供のようにしか見えなかった。実は、シャムのほうが既に子を持っているというのに。 「ああ、酔った体に心地好いな」  夜風にその黒髪を任せ、愛紗はそんなことを言う。シャムは特になにも感じていないのか、ぼーっとした様子で彼女の横に立っていた。  そんないつもとまるで変わらぬ彼女の様子を、愛紗は複雑な感情を込めた瞳で見つめている。 「なあ、シャムよ」 「……にゃん?」 「南蛮は……大丈夫か?」  その問いかけに、シャムは声にならぬ疑問の表情を浮かべることしかできない。しばらくその様子を黙って観察していた愛紗はため息を吐いて、自嘲のような笑みを浮かべた。 「ええとな、シャム。我々は、今日、一刀殿の妻となった。夫婦となったのだ」  シャムがこくと頷くのに、彼女は先を続ける。 「その意味がわかるか?」 「……ずっといっしょにゃん」  彼女の顔を覗き込むようにして訊ねていた愛紗は、シャムのへにょっとした、けれど、とても嬉しそうな笑みに打ち抜かれたようによろけながら体を起こして、 「……そうか」  とだけ言った。 「そうか。そうだな。うん、そうだ」  一人納得するように、愛紗は大きく頷いている。  しかし、愛紗は小さく咳払いして緩んだ表情を改めてから、もう一度シャムの顔を覗き込んだ。 「だが、それがうまくいかないこともあるぞ?」 「大丈夫にゃん」  まるで脅すような厳しい口調で言う彼女の勢いを、シャムはふんわりと受け止め、その笑みを崩さない。 「だいおー様とにい様がいれば、大丈夫にゃん」  そう言われてしまえば、愛紗はもはや黙るしかない。  だが、この時、わずかにシャムの心になにかよくわからない疑問のようなものが生じたのも事実であった。 「さて、戻るか」 「……にゃん」  そうやって促され、部屋に戻る道すがら、自分の内側に存在するよくわからないものに居心地の悪さを感じずにはいられないシャムなのであった。  5.トラ  たとえばトラの場合。 「むー。みんめーのほーを選んだのは失敗だったにゃ」  蜀勢が急に帰還してから数日したこの日、南蛮娘たちのうちミケとトラの二人が暇をもてあましていた。  くじびきで、美以とシャムが子供たちの面倒を見ることに決まったので、皆で遊ぶというわけにはいかなかったのだ。ただし、シャムはお昼寝目当てに自分から子守を申し出たところもあったようだったが。  そんなわけで、ミケとトラはよく遊んでくれる人物――美羽か明命を訪ねようとしたのだが、ミケが美羽を、トラが明命を主張してどちらも譲らず、結局、両者がそれぞれのところへ行けばいいという結論に至ったのであった。  しかし、行ってみたものの明命はおらず、トラはぶちぶちと文句を言いながら庭を歩いているところであった。  とはいえ、特にあてがあるわけでもない。さらに言えば、これからミケと美羽のところに行くのはなんだか癪であった。彼女はその憤懣にじたばたと手足を振りながら大声をあげた。 「にゃー! 暇だにゃー!」  叫んだ勢いに任せて、手近にあった藪に突っ込む。低木の間を抜けている間になんだか楽しくなってきたトラはばきばきと小枝を折りながら遮二無二突っ込む。  ふと周囲を包む圧力がなくなり、彼女は藪と藪の間隙に姿を現した。  その頭の上を、ぎらりと光る刃が通り過ぎた。 「みにゃっ!?」  慌てて身をすくめるトラと、力を込めて、刃の軌道を変える女。 「危ないではないか!」  無理に動かした大刀を鮮やかに背に収め、一喝してから、赤い服を着た彼女はぺたんとへたりこんだトラのことを改めて見下ろした。 「ん? ああ、南蛮の猫娘か」 「トラは猫じゃないにゃー! 虎だにゃ!」  黝い髪を振り、苦笑を浮かべるのは思春。その言葉を聞いて、トラは元気を取り戻したように叫んだ。  ものすごい勢いで立ち上がり、抗議の声をあげる彼女に、にやりと唇を歪ませ、思春はからかうようにこう告げた。 「ふん。虎も大きいだけで猫ではないか」  だが、それにはトラ以外にも異論を持つ者がいたらしい。茂みの奥から、ぐるぐると警告するような唸りが聞こえてくる。見れば、低木の合間に、輝く瞳が二つ。 「ああ、いや、お前のことではないぞ。周々」  がう、と一つ咆えて、周々の気配は消える。怒らせてしまったかと呟き、思春は一つ肩をすくめた。その遣り取りに毒気を抜かれたようになったトラは、すぐに興味を別のところに移していた。彼女は、茂みの中に潜んだ白虎の居所を探り出そうとしていたのだ。  だが、さすがに本物の獣が本気で隠れようとしているのを見つけ出すには準備も時間も必要となる。気配を探り取れず、トラのまん丸い顔が不満げな様子になったところで、思春は訊ねてみた。 「で、今日はどうしたのだ」 「暇だったにゃ」 「そうか」  あっさりと返され、それ以上追求してこない思春に、トラはなにか不満でも持ったか、自分からいきさつを話し出す。 「みんめーがいなかったにゃ」  呉の皆がいるところを訊ねてみても、明命はおらず、しかも亞莎に申し訳なさそうながらきっぱりと外に追い出されたと聞き、思春は納得したように頷く。 「ああ、あれも忙しいからな。亞莎たちも許してやれ。あれはあれでいまは気を散らすわけにはいかん時期なのだ」  ぶっきらぼうながら誠意のこもった謝罪に、ふむにゃと頷き、トラは思春のことをまじまじと見た。 「なんだ?」 「ししゅんは忙しくないにゃ?」 「そんなことはない。ないが、私が掌握すべき軍は、国元にあるからな……」  言いながら、彼女は背の大刀、鈴音を引き抜く。分厚い刃を持つその刀こそ、彼女の拠って立つものを明らかにしている。 「いまのところは、これが務めだ」 「にゃ?」  ぶんと振って彼女は笑みを浮かべる。それまでとは明らかに違う、普通の者ならば震え上がってしまいそうな凄味のある笑みを。 「鍛錬さ」  だが、その表情も、トラの無邪気な顔を曇らせることはない。 「へー」  純粋に感心しているトラ。彼女は野生に近いだけに、相手の気配を察することには長けていた。いかに迫力があろうと、本当の殺気が籠もっていないそれは、なんの感情も彼女に抱かせはしないのだ。 「邪魔をせぬのなら、見ていくがいい」  思春のほうもわかっているのか、特に脅しの意図もなかったのか、トラから離れて、木々の合間の狭い空間で刃を振るい始めた。  ぺたんと腰を下ろし、トラは言われたとおり、見物を始める。  そこで繰り広げられる技は、トラのような者には想像もつかないような精緻な動きと術が込められたものであった。なんと、少し動けば枝に触れてしまうような藪の中で、思春の刀は小枝一つ切り払わずにいるのだった。  その見事な動きは、武術というものの体系に触れた事もない、本能的な動きだけで生きてきたトラも息を呑み、ぴくりとも動けなくなるほどであった。  ぱしっ、ぱしっ。  そんな音をたてて、空気を割り裂く刀の動きを追う内、目を回しそうになって、トラはぶんぶんと首を振る。彼女は、思春の動きがわずかに緩やかになってきたところで、声をかけた。 「ししゅんは、なんでそんなことするにゃ?」 「私は蓮華様の刀だからな。あの方を守り、そして、あの方の命じるままに敵を討つ。そのためだ」 「ふむにゃ」  流れるような動きを崩さずに答える思春。その様子にも感心しながらトラはふんふんと聞いている。そちらをちらと見やり、思春は微笑んだ。 「平時でも鍛錬は欠かさない。しかし、いまは危ういからな」 「なにがにゃ?」  その問いにしばし考え、思春は大きく鈴音をふるってから、こう切り出した。 「お前たちは、蜀から攻められて屈服したのだろう?」 「くっぷく?」 「ああ、いや……。ともかく、負けたのだろう?」  それなら意味がわかったようで、トラは大きく頷いた。 「うむにゃ。みんなが攻めてきて、だいおーとトラたちで勝負したけど、負けたのにゃ。こわいこわいにゃ」  なにを思い出したのか、大げさに震えてみせるトラ。思春は何とも言い難い表情をその顔に浮かべていた。 「それが、また起こるかもしれないのさ。相手はお前たちではないがな」 「どういうことにゃ?」 「蜀の連中と、我が呉、それにあの男」  いつの間にか、思春の舞うような動きは止まっている。彼女はまっすぐ前に刀を突き出し、その向こうになにかの幻でも見えているかのように睨みつけていた。 「この三者がせめぎ合うのさ」 「みんなで勝負するにゃ?」 「ま、そういうことだ」  わくわくした口調で言うトラに苦笑を漏らし、思春はその刀を下ろした。地につけるほどその切っ先を落とし、構える。 「だから、余計に鍛錬をせねばならないのさ。今後はより忙しくなるからな。こうして個人の武を磨く時間も減るだろう」 「ふーん」  地をこすり、相手の脛を粉砕する一撃を放つ思春を見ながら、トラは、立ち上がっている。 「みんな大変なんだにゃ」  そんなに皆が忙しいのなら、しかたない。 「今日は一人で遊ぶにゃ」  そう言って、トラはとてとてと歩み去っていく。その柔らかな動きを思春が見送っていると、のっそりと白虎が現れた。どこから出てきたのか、足音一つ聞かせぬ動きであった。 「そう、大変なのだ」  機嫌をなおしたらしい周々の肩口から背を撫でてやりながら、ひとりごちる思春。しかし、その後、彼女は口ごもった。 「いや、そうではないのかもしれないな」  なにを感じ取ったのか、周々が首をひねり、彼女のことを見る。 「あるいは我々があえて大変にしているのではないか」  低い声で、彼女は呟く。誰にも聞かれぬ事を知っている言葉を。 「それでも……」  そう、それでも。  彼女はその大変な状況に挑む主のため粉骨砕身する覚悟なのであった。  6.ミケ  あるいはミケの場合はどうだろうか。  美以をはじめとする南蛮一行は、翠が都を出るのに伴って南蛮への帰途についた。彼女たちは長安を過ぎ、蜀の領域に入るまでは馬家の護衛を引き連れ、その後は、蜀……いや、この時は既に蜀漢となった国から派遣された兵たちに連れられて、漢中に入った。  彼女たちの故郷はさらに南であるが、この時、美以たちはしばらく漢中で過ごしている。それは、桃香をはじめとする蜀勢がここにいたからであった。 「ええい、全く、あのぼんくらめ。今度は畑を寄越せなどと言ってきおった」  髪に挿したかんざしを鳴らしながら、ずんずんと大股で部屋に入ってくるのは桔梗。彼女は憤懣やるかたない様子で大声をあげていた。 「桔梗さま。声がお高いかと……」  部屋の中で席に着いていた焔耶が注意する。彼女の膝にはなぜかミケが座っている。柔らかなおっぱいを枕に夢と現実の往復をしているのだった。 「ふん。誰に聞かれても困ることではないさ。たとえ主たる人であろうと、ワシが歯に衣を着せるとでも?」 「そんなことは焔耶ちゃんだって思っていないわ。でも、下の者たちが困るでしょう?」  紫苑が笑いながら嗜める。桔梗は開いたままの扉を見、その向こうで顔を背けた侍女の姿になにか思ったのか神妙な表情になると、 「……ま、それもそうか」  と呟いて、扉をかたく閉めた。 「それで、畑をどうするって?」  彼女が卓につくと、上席に座る桃香が訊ねる。うつらうつらしているミケなど誰も構いはしなかった。  実際には、彼女は夢見心地ながらも、会話のほとんどを聞いていたのだが。 「花を植えるのだそうですよ」  吐き捨てるように言う桔梗。その答えにほとんどの者が小首を傾げた。 「花?」 「花だ。見て楽しむあれよ」 「はは、風雅と言うべきなのでしょうかな」  乾いた笑いで焔耶が言うのに、彼女の師は呆れたように肩をすくめた。 「風雅ですむか。要はここに腰を据えるということではないか」 「やはり、成都入りは嫌がっておられますか」  一連の会話を聞きながら首元の鈴をいじっていた朱里が疲れたように呟いた。 「漢王朝の歴史を考えれば、漢中を重要視するのは理解できますが……」  漢中に彼女たちがとどまっているのには理由がある。しかし、その決断の大元は、彼女たち自身ではなく、他の人物に帰せられた。  つまりは、漢の帝、劉協である。  彼は、漢中まではおとなしくついてきたものの、南鄭に入った途端、ここで諸勢力の結集を待つべきだと主張したのだ。 「そういう形式もあり、また、実際には南方に行きすぎると、我らに必要以上に押さえ込まれる感覚があるのでしょうね」  雛里の言うとおり、成都は漢中からさらに奥に踏み入った場所にある。洛陽の周辺こそ中央と考える人間からしてみれば、あまりに遠く、そして、風俗の意味でも隔離された場所であろう。  実際の所、都から亡命して来るであろう朝廷勢が集まってくることを期待するならば、漢中という土地は悪くない。  だが、問題はあった。 「しかし、長安は目と鼻の先だぞ。いかに天下の険とはいえ……」  漢中と関中をへだてる秦嶺山脈は非常に険しく、桟道と言われる人口の道を作らなければ踏破できない場所もあるくらいだ。  項羽がここに劉邦を閉じ込めておけば問題ないと考えるほど、行き来は難しい。  もちろん、それは山を隔てる両側に言えるのだが、かつて実際に魏は蜀を攻めている。荊州側からの圧力はもちろん、桟道を越えての攻勢も考慮に入れないわけにはいかないのだ。 「でも、討って出るにはいい所なのだ。川も使えるし」  鈴々が愛紗の懸念に軽く答える。漢水を通じて荊州に至ることも出来れば、山を越えて長安を望むことも出来る。たしかに悪い場所とも言えない。雪蓮たちが出てきた荊州危機の折に用意した船も残っている。  こちらから攻め寄せるなら、ここに拠点を置くのは正しい。  もちろん、兵力が整っていればの話ではあるが。 「翠ちゃんたちと連携を取れるなら、これほどうってつけの場所はないでしょう。それを実現できるかは今後にかかっていますが……」 「うーん、しかし……」 「ねえ」  あくまでも不安を覚える愛紗に、一つの声が割り入った。皆の視線が中央に座す彼女たちの主に向かう。  桃香はその視線を受け止め、柔らかな笑みを浮かべて、話し始めた。 「たしか、一刀さんの国を討つには、短期決戦なんだよね?」 「はい。時間を与えすぎてはいけません」  漢朝の蜀への移動という衝撃を大陸中にもたらし、北郷王朝の陣容が整わぬうちに、相手を討つ。それは、たしかに彼女たちの方針であった。 「だったら……」  ならば、帝のわがままと受け止められるようなことであっても、そこまでの問題はないのではないか、と桃香は言うつもりだったのだろう。  実際の所、利と害を考えてもどちらとも言い切れないものである。これまで都としてきている成都のほうが機構はしっかりしているものの、既に漢中には朱里の内府があり、けして都として機能しないわけではない。  だが、王たる彼女がその結論を言ってしまう前に、切り込む声があった。 「正直、漢中にとどまるか否かは、そこまでの問題ではありますまい」 「星ちゃん?」  桃香が呼ぶとおり、その槍さばきのごとく鋭い声を発したのは、常山の昇り龍、趙子龍。彼女は、その舌をさらにふるった。 「問題は、我らが大将軍に従うのか、桃香様ご自身に従うのか、ということでしょう」  漢の大将軍。  その地位はいまや桃香の元にある。それは、都を捨てた帝がその政を桃香に任せることを示すなによりの象徴であった。  だが、それは所詮空しいものである。  対外的にその虚飾を必要としているのは事実であるが、内側までそれに浸食されることはない。  そのはずである。  だが、それを防げ得るのか。  ここで漢中にとどまることを『容認』してしまえば、それは難しくなるのではないか。  星はそんなことを問いかけているのだった。 「もちろん、我らは桃香様に従う。そうではないか?」 「当然だ!」  愛紗の言葉に焔耶は勢い込んで声をあげる。彼女が立ち上がりかけ、ミケが卓との間に挟まれて、にょーーっと大声をあげた。  その時初めて、皆の視線がミケに向かった。  まるで、その時まで彼女がそこにいることを忘れていたとでもいうように。 「す、すまん!」  慌てて座り直し、ミケの頭をなでる焔耶。その様子をいくつもの瞳が見つめ、何ごとか言おうとした者もいたが、桃香が首を振って、結局誰もなにも言わなかった。 「ならば、そう。桃香様がお決めになるとよろしい。我らが帝ではなく、な」  何ごとも無かったかのように、星ははっきりとした声で桃香に話しかける。まるで刃のような力をもった言葉を。 「妥協ではなく、決断を。桃香様」  だが、桃香は、それを使いこなさねばならない。  そして、彼女はそのことを知っている。  立ち上がり、決然と言葉を発する、いつもの桃香とは思えないほど真剣で力強い姿を、ミケは焔耶に怒るのも忘れて見つめていた。  7.美以  南蛮。  その土地は、地上高く葉を広げる大樹と、わずかな光を糧に生きる下生えと、その合間を占める蔦の類と、熱い空気と、這いずり回る虫と、ありとあらゆる種類の鳴き声で構成されている。  樹冠に住む大型の鳥、幹をねぐらとする小型の鳥と獣、どこにでもいる虫と、清流の中に住まう魚たち。  実りは多く、しかし、危険も多い。  そんな森が、彼女たちの故郷であり、住み処であり、代々生まれ、死んできた場所であった。  美以たちはそんな森に帰ってきた。  仲間たちは喜んで彼女たちを迎え、息子、娘たちは、早速泥まみれになって転げ回り始めた。都の刺激はもちろん楽しかったが、全てを受け入れてくれるのは、この故郷のみであった。  だが、そんな中で、美以、ミケ、トラ、シャムの四人はいつもの明るい顔を曇らせて、美以の宮殿――いつの時代に作られたのかよくわからない、苔むした石造りの室――に集まっていた。 「……だいおー様」 「なんにゃ? シャム」  帰還祝いに皆からもらった果物を一通り平らげた後で、シャムが口を開く。彼女がなにか積極的に発言することは実に珍しかった。 「……なんかね、よくわからにゃいけど……。変な感じにゃ」 「トラもトラもー! なんだか、みんな大変なのにゃ!」 「とーかしゃまたちも、難しいお話いっぱいしてたにゃ」  触発されたのか、トラとミケもぶんぶんと手を振ったり、そのかわいらしい顔を心配そうに歪ませたりして、派手な様子でシャムの話にのっかってくる。南蛮を治める美以は、皆の言葉にぴくぴくとその大きな耳を動かした。 「むう。とーかが難しい話にゃ。ひなやしゅりならわかるにゃけど……」  おそらく、桃香が聞いたなら、ぷうと頬を膨らませるであろう感想を述べた後で、美以はうーん。と唸った。 「でもでも、みぃも嫌な予感がするにゃ」  彼女も、一刀の側にあり、また、三国の者たちと触れあっている。普段から可愛がってくれるはずの明命や紫苑、桔梗が構ってくれなかったことも、遊び仲間の美羽が時折ため息を吐くのも、流琉や季衣たちがぴりぴりと張り詰めていたことも知っている。  天地自然の申し子ともいうべき彼女が、それらの徴を見て、なにか感じ取らないわけがなかった。  もちろん、彼女は知らない。  すぐ北方の蜀が漢帝を迎えて蜀漢となったことも。  東北方の孫呉で、着々と蓮華が帝となる運動をしていることも。  北郷一刀がまさに天の御遣いとしての本分を果たし、あらたな帝となっていることも。  だが、彼女の大好きな人たちの嘆きは、憂いは、来るべき危機は、はっきりと認識していた。 その具体的な様はわからなくとも。 「しかたないにゃ」  彼女はしばらくの間頭を抱えていたかと思うと、ぱっと立ち上がって、腰に手を置き宣言した。 「象を全部集めるにゃ!」  その言葉に目を丸くして、三人が詰め寄る。 「だいおー、ゾウさん集めるの、とっても日にちかかるにゃ?」 「そうにょ。すっごく遠くまでいっちゃってるにょ」  トラの意見にミケが賛同した。常に確保しているごく一部の象を除いて、ほとんどの象は放し飼いである。漢人の感覚では飼育しているとも思えないだろう。  だから、それらを集めるとなれば大仕事なのであった。 「それでもにゃ」  それでも、かつて蜀に攻められた時にもしなかった決断を、南蛮大王は下した。 「もしかしたら、みぃたちが、みんなを助けられるかもしれないのにゃ!」  実にこの時、南の王様は、もしかしたら三国の誰よりも崇高な使命感に燃えていたのかもしれなかった。      (玄朝秘史 第四部第十回『三帝鼎立』 終 / 第十一回に続く)