玄朝秘史  第四部第十回『三帝鼎立』  1.南天  当初の計画――生きていたことを勝手に公表した姉をなんとか同道して帰国すること――を断念した蓮華は、以後、それに代わるもののために精力的に動き始めた。 「例の件はしばらくは表沙汰にならない。少なくとも我らが都を発つまでは。そう言っていたのだな?」  まずは、前日、桃香たちを見送った後で妹から聞かされた話を、改めて皆の前で確認する。蓮華のために用意された部屋には、呉の重鎮たちが勢揃いしていた。 「うん。もしなりそうでも影響が出ないよう抑えておくって。人が見ているところでお姉ちゃんに直に耳打ちとかすると怪しまれるから伝言するように一刀に言われたよ」  小蓮のほうも心得たもので、きちんと皆が理解出来るよう繰り返してみせる。既に知らされていた穏たちも神妙にその話を聞いている。 「よし、わかった。では、その件への対処について、実際の動きは帰国してから行うことになる。だが、もちろん都を出る前におおまかな構想を形作る必要があるだろう」  そこで呉王は己の軍師二人に目を向けた。 「これは大事(おおごと)だ。我らにとっても、江東、江南の地そのものにとっても……」  語尾が曖昧に消えるのは、まだ完全に方針を示すべきではないと考えているからだろうか。主の意を汲んで、穏と亞莎は一歩前に歩み出た。 「ある意味で、いまは我ら孫呉にとって、赤壁以来の危機であるとも言えます」 「漢朝と北郷という対立の、軸そのものが揺らぎましたからねー」  明らかに緊張しているとおぼしき表情をした亞莎が、片眼鏡をきらめかせながら鋭い調子で切り込む。それに対して穏は泰然としたものだ。いずれも桃香たちの急の帰還について真相を知らされてから様々に思考していたのだろう。  それでも、今朝の雪蓮との会談――と言うべきか、あるいは決闘と言うべきか――まではなにも言わずにいた二人である。  頭の中で様々に渦巻いていたものを、いま、彼女たちは開陳しようとしていた。 「蜀にとっては重心を己のほうに傾けるまたとない機会ではありましょう。しかし、下手をすれば、我らは傍観者に成り下がります」  そこで亞莎は躊躇うように言葉を切り、しかし、すぐに己に活を入れるように組んだ腕でどんと胸を叩いて、続く言葉を絞り出した。 「蜀……いえ、蜀漢が勝つにせよ、一刀様が勝つにせよ、その勝者に良いようにされてしまう。そんな立場になりかねません」 「ふむ……」 「穏様の仰る通り、これまでの焦点は既にあった漢朝に忠を尽くすか、新たに生まれる魏・北郷王朝を歓迎するかというところにありました。そこに対立の軸があり、我らと蜀、二つの勢力がどちらを支持するかで情勢は変化するはずでした」  亞莎は長い袖をゆったりと揺らしながら続ける。 「しかし、漢朝の頂点たるお方は蜀へと亡命し、これにより蜀漢と魏・北郷王朝の対立へと変化した現状では、我らの立場は大いに危うくなっています」 「だが、蜀は赤壁前と同じく我らの助力をあてにするのではないか?」  いつも通り蓮華の背後で壁にもたれかかっている思春の問いかけに、亞莎は一つ頷いてみせる。 「その通り、彼らは助力を求めるでしょう。しかし、それは以前のような呉蜀同盟とはいきません。名目上、漢は我らの上に立っていますし、蜀に合流するであろう漢朝勢力もそれを求めるでしょう。桃香さんや朱里さんたちの思惑とは別に、蜀は我らの風上に立ちます。そうしなければならないのです」 「といって、一刀さん……というよりは魏ですけど……これは一国で呉も蜀も相手にできるほどの国ですからねー。もとよりこちらに強く協力を求める必要性がありません。情の部分はこの際おいといてですけどねー」  穏の補足に亞莎は感謝するように目を伏せる。他の皆は彼女たちの話を理解すると共に、実に渋い顔になっていた。 「どちらにつくにしても、微妙な……あまりよくない立場ですね」 「桃香たちに先に動かれちゃったのは痛いよねー。主導権握られちゃったし」  明命と小蓮の感想は、皆の意見と共通のものだったろう。場に重苦しい空気が流れる。  だが、その中で、亞莎は尊敬を込めた熱っぽい視線で蓮華を見つめ、強く声を張った。 「しかし、蓮華様は新しい天を……新しい理想を、新しい国を造ると仰いました。これは、一つの方策だと思います。我らの存在感を示すための」  その言葉に、ぽんと手を打つ明命。彼女は申し訳なさそうに蓮華のほうを見た。 「ああ、そうそう。新しい天というのはなんなのでしょう? お覚悟の程はわかったのですが、具体的なところがわかりません! よろしければお聞かせ願えますでしょうか?」  きらきらと目を輝かせて蓮華に語りかける明命に蓮華が答えようとする前に、穏がにこにこと笑いながら口を挟む。 「ああ、簡単ですよぉ?」 「いや、待て、穏」  その穏を制して、蓮華は明命だけではなく、そこにいる全員を強い目で見つめながら、言った。 「私が言う」  ぴたりと口を閉じ、恭しく頭を垂れる穏をちらと苦笑混じりで見やって、彼女は立ち上がり、南海覇王の柄に手をかけながら声を放つ。 「明命だけではなく、皆も聞いて欲しい。はっきりと言おう。新しい天というのは」  そこで一つ息を吸い、重々しく彼女は宣言した。 「私も帝になるということだ」 「え、ええ!?」  驚きの声は少ない。明命の派手な声と、思春が息を呑む音だけが目立った。だが、もちろん、彼女がそれをはっきりと口にしたことで小蓮などもごくりと唾を飲み込んでいる。 「我らが長年主と仰いだ漢朝の皇帝は、自らの都を捨て、帝王としての存在価値を無くした。我らが夫、一刀も帝になると言う。ならば、私が孫呉の利益を代表して帝となるのも悪くはあるまい?」  彼女にしては悪戯っぽく蓮華は訊ねかける。だが、すぐに顔を引き締め、生真面目な声で彼女は語り始めた。 「天は一つ。この国はそれを正しいこととして漢朝のみを天下の主とし、全ての枠組みを作り上げてきた。一種の決まり事だな。だが、たしかに大空は一つかもしれんが、見る者にとって華北の空と江南の空が同じとは限らん。私は、南の地に住む者たちが仰ぐ天を守る必要がある」  そのために帝となり、呉を帝国とする。蓬莱、蜀漢に対抗する第三の極として。  けして大声ではないというのに、実に力強いその声にほれぼれとした様子ながらも、亞莎は警告を加える。 「漢を取り込んだ蜀、魏の巨大な力を背景とする北郷、これらに対抗するには、正しい策と思われます。しかし、おわかりでしょうが、三国の対立が繰り返されることとなります。今度はお互いに帝国を名乗る三国が」 「うむ。だが、それをどうにかするためにも、蜀の臣下でも、北郷の頼りない友である立場でもない、我ら独自の立場が必要だ。なにも戦をするだけが能ではあるまい。同じ帝なれば仲裁もできよう」 「では、両国の仲をとりもつとー?」 「……とも限らん。先に言ったように、我らの守るべきは南方の地。その利益を考えていく必要が……いや、これ以上は、先のことだ」  そこで、蓮華は息を吸い、いっそおずおずとした様子で皆を見回した。 「この方針に反対の者は?」  異議を唱える者はいなかった。驚きを保ったままの明命すら、確かめるように視線を向けられると、こくりと頷いた。  よし、と小さく呟き、呉の女王は腕を組む。 「まずは、足場を固めることだ。漢朝が崩れたと聞いた豪族どもに右往左往させて徒に時を浪費するわけにはいかん」  顎の下をなでながら、彼女はほわほわとした笑顔を浮かべ続けている穏のほうを見やった。 「穏、お前の本家を掌握出来るか?」 「陸家をですかー? んー。穏がいまの当主の後見ですから、難しくはないですねー」 「出来れば、四姓のうちに、確固たる味方が欲しい。一家だけでよい。確実であれば」 「お任せ下さいー」  さらに彼女は矢継ぎ早に指示を下していく。 「それから、亞莎と明命は山越を抑えろ。奴らが蠢くようなことはないように」 「はいっ!」 「思春は江賊だ。我らに協力せずともよい。一刀たちと、蜀には味方させるな」 「はっ!」 「小蓮は徳謀に文を書け。あやつの支持を取り付けるのだ。唯一残った孫堅旗本三騎。その名で古参をまとめる」  孫家に長く仕え、その武名を知られる者の筆頭といえば、韓義公、黄公覆、程徳謀。そのうち韓当は赤壁で没し、祭は雪蓮たちと共に一刀につき、残るは交州にある程普。孫堅以来の宿将の賛同は、古くからの孫家への忠誠をかきたてることだろう。 「りょうっかい!」  小蓮が明るく答えたところで、ようやく蓮華は小さく笑みを見せた。そして、彼女は部屋の窓から外を見ると、こう呟くのだった。 「私もやるべきことをやらねばならんな。まずは……話すべき相手がいる」  2.支配 「で、なんで妾なのじゃ?」  庭の一角に建てられた四阿、蜂蜜水を舐めるように飲みながら、美羽は可愛らしく小首を傾げる。飲んでいるものと同じような美しい黄金色の髪が彼女の動きに応じてぱさりと卓の上に落ちた。  蓮華は柔らかい口調でそれに応じた。 「よくよく考えてみたら、ろくに話した事がなかった気がして」 「ん? ああ……。うむ」  孫家が袁家に従っていた時代、その力の集中を阻むため、蓮華は雪蓮たちとは別の場所に置かれていた。その街から出ることや兵と接することは許されていなかったため、実質的な軟禁状態と言っていい。  正月などの行事の折には蓮華が顔を出すこともあったものの、基本的には美羽や七乃の相手をしていたのは雪蓮や冥琳であり、蓮華と親しくする機会などあるはずもなかった。いまから考えてみれば、雪蓮が蓮華をかばってあまり美羽たちと顔を合わせないようにはからっていた節もある。 「一応、あなたも仲の皇帝を名乗ったと聞くことだしね」  そのあたりはろくにあてにしていないとでも示すように、彼女は肩をすくめる。 「まあのう。……ところで、七乃。こやつはどうにかならんのか。大口あけて、間抜けすぎるじゃろ。妾の夫がこれでは外聞が悪かろ」 「はいはい、一刀さん。いい加減、立ち直って下さいな」  美羽の言葉に応じて、七乃が卓についているもう一人の人物、北郷一刀の肩に手をかける。蓮華は彼に頼んで美羽と七乃を呼び出し、会談の場を作ってもらったわけだが、一刀本人にもそこに同席を求めていた。  そして、三人が席に着いたところで、彼女が何をしに来たのかというのを話して聞かせたわけだが、彼女もまた帝になると聞いたところで、男はぽかんと口を開いて固まってしまっていたのだった。 「……いや、しかし、驚いたな」  七乃に揺さぶられてようやく口を閉じた一刀は、茶を一口含んで落ち着いた後、そんなことを言った。まじまじと蓮華を見つめて、驚きの感情をぶつける。 「雪蓮ならともかく、蓮華が帝になると言い出すなんて」 「王位についてすらいないのに帝になると言っているあなたが言う?」 「……まあ、そう言われると」  よくよく考えてみれば、彼の世界でも孫権は帝位についたのだが、蓮華という人物を知ってしまった彼としてはそのあたりの発想はなかったようであった。 「桃香たちがあんな大胆なことをしなければ、こんなことにはならなかったわよ。でもね、私たちにだって守らなければいけないものはあるの」  蓮華はいっそ憤慨したかのように告げる。それを見て、七乃はきゃらきゃらと笑った。意地の悪い光がその瞳に浮かんでいる。 「そうですよねー。戦の主役は敵になっても恨まれはしても侮られはしませんけど、第三者な立場になると、必要以上に貶められますからねー」 「そういうものかね?」 「そういうものですよ。大陸を巻きこむような大戦(おおいくさ)の場合、利害関係が無くて関わらないだけでも、腰抜け呼ばわりされかねません。まして、今後の大陸情勢次第では、何世代にも渡って、江東江南の人間は戦嫌いの腑抜けだと後ろ指指されかねませんからね。ぼけぼけの蜀の人ならともかく、孫呉の人間にそれは許せませんよ。文台さんに憧れる民もまた同じでしょう。そりゃあ必死で同じ場所に這い上がろうとしますよ」 「……その物言いは不愉快だわ」  一刀に説明してみせる七乃の姿に、蓮華は目を細め、鋭い視線を投げる。他の軍師勢ならともかく、この相手に賢しらに指摘されるのはなんだか腹が立った。  彼女がまだ一刀の肩に触れたままなのも、その感情の一端を担っていたかもしれないが。 「すいません、地なものでー」  照れたように言う彼女に、蓮華はさらにきつい表情を向ける。考えてみれば、姉をずっと相手にしてきたのだ。蓮華相手に悪びれるようなこともないのだろう。 「七乃さんは、こういう人だから、まあ……さ」 「間違ってはいないから腹が立つのよ。もちろん、それだけとは言わないけれど」  おずおずと言う一刀にふんと鼻を鳴らす蓮華。その様子を眺めていた美羽が焦れたようにぶんぶんと手を振った。 「で、なにを話すのじゃ? 妾が皇帝を名乗ったと言うても、あれは、なんというか、んー……」 「ただ名乗っただけですよねー。ほんと、後ろ盾もありませんでしたしー」 「名乗ってみたら名乗ってみたで、そう良いこともなかったしのう」 「ですねー」  しみじみと言い合う袁家主従を見ていると、蓮華の表情も毒気が抜かれたようになる。彼女は力の入っていた肩をほぐすようにひょいとすくめた。 「いや、まあ、それはいい」  あのね、と彼女は相手に思い出させるような口調で続ける。 「以前はあなたたちが私たちを抑えつけていたでしょう?」 「うむ」 「なんであんなことをしたの?」  問いかけに、美羽と七乃は顔を見合わせ、そして、同時に困ったように蓮華のほうを向いた。その息の合いように内心おかしくなる蓮華。 「なぜと言われても……のう?」 「ですよねー?」 「領地が大きければ、こう……偉いじゃろ?」  言ってから、自分の言葉に納得したかのように、美羽はうんうんと頷く。可愛らしく、単純な言葉であるが、それ故に恐ろしい。蓮華は己の体が小さく震えるのを感じつつ、次の言葉を待った。 「そういうのが嬉しかったのじゃ。あの頃はの」 「いまは違うの?」  なぜだか吐き捨てるように言う少女の姿に首をひねりながら、妙に優しい声で蓮華は訊ねている。その自分の声音に、彼女は悟った。かつてとことんまで憎んでいた相手に、いまはまったくそんな感情がわいてこないことに。  その理由は、現状、彼女が王でいられるからというだけではないような気がした。  そんな呉王の内心の動揺には気づかず、美羽はこてんと首を傾げる。 「さて、どうじゃろ? じゃが、一刀や華琳の姿を見ておると、そう楽しそうでもないからの。主とてそうじゃ」  それはそうだろう。一国の王ともなれば、実務も多ければ、気苦労も多い。毎日楽しそうにしていられるわけもない。  ちなみに、現状では美羽もまた仲――かつての司隷にあたる洛陽、長安を中心とした首都圏――の公位にあり、王に近い立場のはずだが、そのあたりは勘定に入っていないようだ。 「そも、名家じゃ、王じゃ、帝じゃと言うて、勢いが盛んであればあるほど、余計な事を背負うような気がしてならんのじゃが、どうなのじゃ、一刀」 「あー……うん。でも、まあ、義務感とか、使命感とか……それこそ、その立場にあってやりたいこともあるわけで……」  皆の話を聞きながら、何ごとか深く考え込んでいた一刀が急に呼ばれて歯切れ悪く答える。その様子に、ふんと鼻を鳴らす美羽。 「それが余計じゃと言うておるのじゃ」  そこで話が途切れたと見た蓮華はまとめるように訊ねる。 「つまり、当時は権勢欲からしたことだけど、いまはそんなものはない?」 「ないことはないじゃろ。ただ、その面倒を考えると、そこまでする気はせんというだけじゃ」 「ふうん……」  蓮華は一度椅子に体重をかけ、宙を睨んだ後で、ふと美羽の横に視線をずらした。 「あなたは?」 「私は面白かっただけなのでー」 「……あなたに訊いた私が莫迦だったわ」  きっぱりと答える七乃の姿に、頭を抱える蓮華であった。 「さて、驚愕から脱したかしら?」  美羽たちを四阿に残して、蓮華と一刀の二人は揃って庭をぶらぶらと歩いていた。特にどちらかの部屋に向かうというのではなく、緑の濃くなりつつある庭の光景を眺め、肩を並べて進んでいる。 「ん……。まあね」  蓮華も帝国を建てると聞いてから、一刀はずっと考えていた。これから起こりうることを。美羽や七乃との会話を聞いていなかったわけではないが、意識の大半は呉についてのことに向かっていたのは否めない。 「それで?」 「それでって?」  くすりと笑って、蓮華は一刀の手の中に自分の手をすべりこませた。指と指が絡みあい、どちらからともかく、力が込められる。 「どうする? 私はあなたや桃香に対抗して帝になるつもりなわけだけれど、止める?」 「俺が頼んで止められるようなことじゃないだろう。それはよくわかっている」 「……そうね」  お互いの立場を考えれば、止められるわけもない。まして、もし頼まれてもそれを聞き入れるわけにもいけない。  彼もまた帝になろうとしているのだ。それを口にする覚悟は理解していた。 「困ったものね」 「うん。困った」  繰り返す夫の姿にもう一度小さく笑って、蓮華は訊ねる。 「でも、陳留王のことは知っていたのでしょう?」 「陳留……? あ、ああ、そうか。うん、そうだね。知っていたよ」  陳留王というのは劉協が帝位につく前にあった地位である。正確には前の陳留王と言うべきであるが、蓮華はあえて陳留王と言った。それは、あるいは今上の即位そのものを認めないという態度を示す意味があるのかもしれなかった。 「じゃあ、私たちはどうすると思ったわけ?」 「桃香と組むか、こちらと組むかだと思ってたよ、正直」 「まさか独立の方向に行くとは思わなかった?」 「うん」  素直に頷く一刀。そのあたりは、華琳を含めた彼の周囲が、雪蓮と蓮華という人物の違いを考えすぎたこと、雪蓮や冥琳がこちらにいたこと等、様々な要因があるにはあるが、予見できなかったのは確かだ。 「ああ、言っておくけれど、姉様のせいではないわよ?」 「ん?」  蓮華の言うことがよくわからなくて、彼は彼女の顔を覗き込む。その額に描かれた孫家当主の証が妙に目についた。 「あの立て札のこと」 「あー、あれか……」 「どうしたの?」  妙に複雑な表情で小さく笑う一刀の姿に、蓮華は不審がる。雪蓮たちの行為を痛快に思っている部分もあるのだろうが、それだけではなさそうだ。 「いや、あれ、雪蓮たちがやったって聞いて一番怒ったのが七乃さんだったな、って思って」 「ふうん?」  彼女はちらと後にしてきた四阿のほうを見やる。いまも美羽たちが残っているかは、ここからは茂みに隠れてよくわからなかった。 「いまはそんな様子なかったけれどね」 「そりゃそうだよ。あの人は、敵がまとまってくれるほうがいいと思ってるから」 「まとまって?」  訝る蓮華に、一刀は妙にすっきりとした顔で説明し始める。あるいは、ようやく彼女が帝になるという事実をその腹に呑み込んだのかもしれない。その実際の対策はともかく、事実をはっきりと認識し、対処するつもりになったのだろう。 「そ。蓮華も帝になるっていうからには、蜀漢、孫呉、そして、俺の国がはっきりと鼎立することになるだろう? すると、有象無象の小勢力がうろちょろする状況はなくなる。漢朝に忠節を尽くすなら蜀に走ることになるし、南方の東部の動きは蓮華が掌握するだろう。となると、結局相手にするのは二大勢力だけで事足りる」  そこで彼はひらひらと手を振ってにやりと頬をつり上げた。 「事態はすっきりするってわけさ」 「ふむ……」 「もちろん、内部の勢力とつながるってこともあるかもしれないけど、それでも、結局は蓮華や桃香と話をつける段になれば大勢は決する」 「うん」  蓮華は彼の説明を頭の中でもう一度考え、しっかりとそう頷いた。たしかに三者が明確にその立ち位置を示せば、面倒は大幅に減るだろう。その流れに反対する者は他の二つのうちの一つに流れるか、潰されることになるだろうから。 「だから、彼女は君の決断を歓迎なんだよ」 「……あれに喜ばれるのはなんだか複雑ね」  ほう、とため息を吐いて言う蓮華の手をぎゅっと一刀は握る。 「昔のしがらみもわかるけど……」 「そうじゃなくて……」  彼女は彼の顔をちらりと見て、そして、諦めた。 「いえ、いいわ」  彼女は笑いながら、そう言ってつないでいないほうの手を振った。七乃をなぜ苦手に思っているのか彼女自身にもわからないのだから、七乃を愛している一刀に説明できるわけがない。  それに、美羽にしろ七乃にしろ、嫌いなわけでもないのだ。少々苦手ではあっても。 「ただ、小勢の乱立を防ぐというのは私も賛成だわ。私はそのために帝となるというのもあるのだから」  豪族の集団である孫呉政権をより強固にまとめあげるため、帝国という枠組みを作り上げる。それは、一刀や桃香への対抗という意味合いとは別に、江東、江南の地域的事情として非常に重要なものだ。 「うん。お互い頑張ろう」 「ええ、あなたも。……でも、なんだか、変なものね」  お互いに帝となり、大陸の覇権を争うであろう二人が励まし合うという図に蓮華は奇妙な表情を見せる。まして、彼と彼女は夫婦であり、娘もいるのだ。 「俺はもう慣れたよ」  一刀はそう言って笑った。  蓮華はしばらく驚いたような顔をしていたが、つられるように大きく笑い出すのだった。  3.騎将  洛陽の北、数里。  街道を外れたそのあたりは、南方を向けばいくつかの邑や洛陽の城壁も小さく見えるが、北方に目をやれば、遙か彼方まで平原が広がっている。ただし、真っ直ぐ進めば黄河に行き当たるのだが。  そこに、三頭の名馬が揃っていた。  一頭は走ればその影すら踏むことはないと謳われる絶影。一頭は白馬義従の先頭を常に走る、白馬長史の愛馬。最後の一頭は涼州の生んだ黄鵬。  三頭はその背にそれぞれの主を乗せ、ゆっくりと歩みを進めている。 「そろそろ帰るんやて?」 「私はな。翠はもう少し先だろう?」 「ああ、うん。うちは幽州よりは近いし、蒲公英を先にやったし」  三人は特に馬を操るでもなく、好きなように進ませている。それなのに、三頭はぴたりと歩調を同じくしていた。 「霞は? 北に戻るのか?」 「いや、わからんなー。一刀としては馬扱えるんを一人置いておきたい思てるみたいやし。それに、ほら……な?」  白蓮の問いに、霞は首をひねり、最後は声を顰めて、実に楽しげに微笑んだ。 「出る前に騒がしくなるか」 「せや。呉の連中も帰ったしな。そろそろや」  この二日前、孫呉の一行は都を出ている。蜀の一行のように慌ただしいこともなく、悠々と南へ帰っていった。ただし、穏の手配りによって、彼女たちが江水にたどり着く頃には、その対岸にはびっしりと兵が集まっているはずだ。  そして、孫呉の全軍と共に、蓮華は己の都に入ることとなる。 「その孫呉だが」  白蓮は赤毛を振り振り、なんだか楽しげに話し始める。どこか得意げに見えたのは、気のせいだったろうか。 「私と手を組まないかと打診してきたぞ」 「なに?」 「へえ」  驚いて手綱を引いてしまう翠と、にやにやと笑みを深くする霞。しばしの間棒立ちになった黄鵬が少し速度をあげて絶影たちに追いついた。 「孫呉と幽州は沿岸航路でつなげられる。お互いに益はあるだろうとな」  空中に大陸の東岸の大まかな形を指で描きながら、白蓮は続けている。目を丸くしてこちらを見ている翠を安心させるように、彼女は微笑んだ。 「もちろん、現時点ではあくまで交易の話だが」 「な、なんだ。びっくりしたー」  ほっと息を吐く翠。だが、霞はそのにやにや笑いを収めようとはしなかった。 「いまは、やろ?」 「その通り。いまは、だ」 「そ、それって……」  一拍遅れて、翠は二人の言うことを理解する。霞と白蓮の間に視線を往復させて、翠は顔を青ざめさせた。 「そうさ。いずれは、他の協力もよろしくってことさ。たとえば、私が北から、孫呉が南から……とかな」  白馬義従と烏桓を率いて白蓮が南下するようなことがあれば、かなりの兵をそこに割く必要が出て来る。南方に蜀と呉がいる状況でそれは弱みとなる。いかに魏、あるいは蓬莱が強大であろうとも。  まして、呉と連携され、沿岸からの攻撃も併用されれば、一刀は対処に苦慮することになるだろう。 「おい」  緊張を込めて翠は掠れた声を押し出す。殺気すら籠もったそれを、しかし、白蓮は肩をすくめてやり過ごした。 「応じるかどうかは別の話だよ。そもそもまだ話自体来ていない」  しばらくの沈黙。しかし、我慢しきれないというように、翠は訊ねた。後ろでくくって長く伸ばした髪が激しく揺れている。 「でも、その、どうするんだ? も、もし来たら」 「ひとまずは、一刀殿に話したよ。どう判断するかは知らないけどな」  その言葉にようやく安心した様子の翠。だが、霞は小さく首を振った。 「本気で決断したら、止めへんやろ」 「そうだろうな。桃香についたとしても、蓮華についたとしても、恨み言は言わんだろう」  そこで白蓮は北を見た。彼女の故郷。彼女の生まれた土地。彼女が生きる場所。  だが、そこに浮かんだのは……。 「だが、私はだめだな」  彼女はそれまでの落ち着いた様子を崩し、苦笑しながら呟く。 「どうしても、あの人の悲しそうな顔がちらつく」  そう言って、彼女はそれまでの話を振り払うように手をぶんぶんと振った。なにか照れているかのように。 「そこはどやろなあ。面白がるかもしれんで?」  霞はかかっと愉快そうな声をあげ、横目で赤毛の女性を見やった。 「うちとしては、一度本気で……とも思わんでもないけどな?」 「ははっ。白馬義従を打ち負かすか?」 「ちょ、ちょっと……」  物騒な話題を続ける二人に翠は割り入る。だが、霞の舌鋒は次に翠に向いた。 「せやけど、人ごとやあらへんで?」 「え?」 「そりゃあそうだろう。当然、桃香から誘いは来るさ」  驚く翠に、白蓮は霞の言葉を補足していく。 「なにしろ呉蜀を別とすれば、まとまった兵を持ってるのは、まず馬、公孫だからな。あてにするのは当然さ」  さらに言えば、その擁する兵は騎馬の兵である。北方では最強を誇る白馬義従と涼州騎兵を引き入れることが出来れば、一刀たちに対抗する上ではこの上ない力となる。切り崩しをはかるのは至極当然であった。 「え、でも、いや、ほら……」  おろおろと二人の顔を見て何か言おうとする翠。その様子に、霞は、ぱんと己の得物の柄を叩いて挑発するように言った。 「うちなんか楽なもんやで。戦う場所は一刀が拵えてくれる。後は、やるべきことをやるだけやからな」  あるいは、その霞の態度が翠の気持ちを刺激したのかもしれない。霞が戦にかける思いと同じくらい強く、熱いものを、彼女は持っている。 「……でも、あたしは涼州の主にしてもらったことに後悔はないよ」  そう言い切って、彼女は低く、しかし、実に強い響きを持つ声で続ける。 「大変だし、難しいし、時には自分の考えだけじゃ判断できないこともある。ううん。自分の考えとは反対のことをしなきゃいけないこともある。だけど……」  だけど、と彼女は繰り返す。 「それでも、あたしは故郷のために戦えるのが嬉しい」  黄鵬がいなないた。まるで、背の主の気勢を感じ取ったかのように。 「あたしは、西涼の馬騰の娘、馬超だから」  不意に彼女は斜め後ろを見た。その気配を感じ取ったのか、あるいは、それはただの偶然か。 「そして、あの人の妻だ」  すっと指が上がる。彼女の指し示す先を霞と白蓮も見た。 「……やな」 「ようやく来たか」  そこに見えるのは、白い衣を纏う男の姿。黄龍にまたがり、颯爽と駆けてくる彼の事を、三人は眩しいものでも見るように眼を細めて見つめるのだった。      (玄朝秘史 第四部第十回『三帝鼎立』前編 終 / 後編に続く)