麗らかな午後の日差しの中、一刀は執務室で机に詰まれた書簡や竹簡に目を通していた 天水における都市改造計画は軌道に乗り始めた様で、月から感謝の言葉も届いている 「もう三ヶ月かぁ」 天水に乗り込んで月や詠と商談をしたのが遠い昔のように感じられる この三ヶ月の間に、一刀は何度か月達を漢中に招いている 理由は、漢中の都市計画を天水に応用してもらう為だ いわばモデルケースとしての漢中を見て回った月達はひどく感心していた 『有難う御座います、一刀さん』 そう言って頭を下げた月の笑顔を思い出して一刀の頬が緩む 可愛い娘に感謝されるのは、やはり無条件で嬉しいものだ 幸いな事に天水の都市計画も順風らしいから、また月や詠を漢中に招待しようか そんな純粋なんだか下心なんだか分からない思いを抱いていると、扉が数回ノックされた 「一刀殿、失礼するのです」 「ど、どうぞ」 思わずどもってしまう一刀の目の前で、扉が開かれる その隙間から顔を出したのは陳宮公台――ねねだ 「一刀殿、間もなく商工連合の会合のお時間なのです」 「お、有難う」 椅子から立ち上がり、大きく背伸びを一つ 凝り固まった身体がぱきぱきと妙に小気味のよい音を立てる ついでに首も大きく回して、息を大きく吐き出す 「んじゃま、行きますか……ねねも付いて来る?」 「当然なのです、ねねは一刀殿の筆頭補佐官ですぞ」 その言って小さな身体を最大限に大きくみせる音々音に、一刀は優しげな笑みを向けた 異説恋姫・04 漢・中・模・索 音々音を助けたのは既に三ヶ月前の事だ 仕官口を求めて天水へと向かっていた音々音は、途中で路銀が尽きると言う事態に陥ってしまった それでも何とかぼろぼろになりながらも天水へとたどり着いたが、結局はそこで気を失ってしまう そこに偶然一刀が通りがかった、という訳だ 『是非とも、この恩を返させて欲しいのです』 数日後にはすっかりと回復した音々音は、一刀にそう訴えた 史実における陳宮のポジションを知っている一刀は少し困惑したが、音々音の意思は固いように感じられた 『いいのか?ねねは軍師になりたいんじゃ……』 『ねねは自分の才を振るえる場が欲しいだけです』 『んー、董卓軍になら紹介してあげれるけど……』 『董卓軍には既に賈駆殿という軍師がおられますぞ』 『そのえ……賈駆に口を利いてあげるよ?何なら董卓さんでもいい』 『一刀殿は、お二人とお知り合いなのですか?』 『一応ね。で、どうする?』 『……有難いですが、やはりねねは一刀殿の恩に報いたいのです』 『あ、そう……ですか』 そんな遣り取りがあって、今の音々音は一刀の秘所兼筆頭補佐官という立場にある 実際に音々音の頭脳は明晰で、<流星屋>の商業スタイルをあっという間に呑み込んだ 今では名実共に一刀の懐刀として辣腕を振るっている 「しかし、商売と言うのは面白いのです。軍師よりもねねに向いているかもしれないのです」 会合へと向かう途中、大通りを歩いていると音々音がそんな事を言い出した こうやって二人並んで歩く姿も既に見慣れた物だ 道行く人々も愛想良く二人に笑いかける 「そう思ってくれるなら嬉しいけどね」 「……もしも一刀殿に助けて頂いていなければ、ねねはどうなっていた事か」 「んー……まぁ、董卓軍に仕官してたんじゃない、かな?」 史実では呂布奉先に仕えた音々音を、こうして従えている その事実を知っているだけに一刀の背中にも嫌な汗が流れる 音々音はといえば少し考えるように顎先に手をやっていたが、少しして首を横に振った 「あまり想像出来ないのです。ねねはこうして一刀殿のお手伝いをしている方が合っている気がしますぞ」 「あ、そう……ありがと」 内心で冷や汗三斗の一刀とは対照的に、音々音は屈託の無い笑顔を一刀に向ける やや引きつった笑みでそれに答える一刀だが、音々音の働きには本心から感謝している 事務作業の速度は上がったし、時には思いもかけないアイデアをくれる時もある 本当に才能のある人間と言うのはこうなんだなぁ、としみじみと思い至ってしまう程だ 「そういえば一刀殿」 「ん?」 「ここ半月程、商隊が襲われる事案が増えているのです」 あぁ、と答えた一刀の眉間に皺が寄る 確かにここ一ヶ月の間に流星屋の商隊が襲撃されるケースが増えてきている 殆どの場合、私設護衛隊によって防がれているが、由々しき事態である 一刀の記憶と世界史の資料集によれば、間もなく『黄巾党の乱』が起こる 中国大陸全土に戦乱の嵐が吹き荒れる第一段階の始まりという訳だ 乱世になった場合、商家にはメリット・デメリット共に存在する メリットは所謂、戦争特需という奴だ 兵を養うための糧食、魚油や薪などの燃料や武器、そして軍資金 必要とされる物は多く、売りさばく相手にも苦労はしない 一刀が元々いた世界ほどに『戦争の単価』が高くないこの時代の戦争は、正に稼ぎ時だ 逆にデメリットは、治安の悪化と資金の回収が困難な場合が出てくると言う事だ 街道の治安が悪化すれば商業路が脅かされ、流通が滞る恐れが出てくる それに物資や資金を提供した相手が滅びれば、結果的に損をするケースもある 場合によっては商家そのものが目標とされる事もあるだろう 早い話が、乱世は商家にとってハイリスク・ハイリターンな時代なのだ 「多分、今回の会合もそれに関してだろうな」 「……そうなりますと、例の件を?」 「提案するには丁度いい、かな」 漢中市街の中央には大きな建物がある 以前は太守の他、多くの役人が働いていた『市庁舎』とでも言うべき施設だが、今は違う 多くの漢中の民の中から選ばれた人間達が、この『市庁舎』の中で働いている 今は『漢中総督府』と呼ばれるこの建物に、一刀と音々音は入って行った この漢中総督府は組織としての名称でもある 太守を頂点とした行政システムは既に一年半前には機能停止に陥っていた 幾人かの良心的な役人を除けば、他は不正と賄賂に塗れた連中ばかり そこで一刀と『親父』を始めとする幾人かは一つ、手を打った それは太守他、多くの役人の不正を直接、漢王朝に届け出るという荒業だ 幸いと言うか、<流星屋>には漢の大将軍である何進にコネがあった また当時の太守が何進が敵対視していた宦官の親玉、張譲の派閥であったという事もあるだろう 太守を始めとして粗方の役人はその職を解かれ、漢中を去っていった 衰えたりとは言えまだまだ漢王朝は健在なのだ その後、漢中には新たな太守は赴任せず、結果として漢中住人による自治が始まった 今風に言うならば漢中自治政府とでも言うべきか その中核を担うのが漢中総督府、そして商工連合であった 「失礼します」 「おぉ、流星屋さん」 「いやいや、ご足労を」 総督府の中で一番広い部屋、かつては軍議なども行われた会議室に入ると、既に数名の顔が見えた 誰も彼も、漢中では有力な商家の主である 一刀が提唱して設立された商工連合とは今で言う組合、ギルドの事だ 相互扶助を目的とした職業組合だが、決して閉塞的という訳ではない 商業システムとしては寧ろ、織田信長の楽市楽座をモデルにしている 商業といえど適度な競争意識が無ければ成長はありえない 今や巨大経済都市へと変貌を遂げている漢中では、夢を追い求めて商売を始める者も少なくないのだ 「今回の議題は何ですかね?」 「多分、流星屋さんも気付いているんでしょう?」 軽口を叩きながら自分の席に腰を下ろす一刀、音々音はその左後方にあった椅子に腰掛ける ちなみに商工連合の議長を務めるのは一際年嵩の「長老」だ 商工連合や総督府、自治政府の提唱者である一刀だが、トップに立つつもりはない トップよりもやや下、ナンバー3辺りが心地よいと思うのは日本人だからだろうか 一刀が入ってきてから暫くすると、数名ずつが入室し自分の席に付いていった 三〇分もしないうちに会議室の席は埋まり、真っ白い顎鬚も見事な長老が口を開いた 「さて、皆に集まってもらったのは他でもない。我々にとって由々しき事態が起こっておる」 「と、なりますと――やはり商隊への襲撃件数の増加ですか?」 「その通りじゃ、流星屋殿は流石に早耳じゃのう」 思っていた通りか、と一刀の眉間に皺が寄る 自前の護衛戦力を有する流星屋は別格として、他の商家にとってこれは死活問題である 商業路をボロボロにされては、その商家は生きていけない 兵站線とは軍事のみならず経済にとっても重要な要素である どうやってその安全性を維持するか、それが今回の議題だ 「順当にいけば、何処かの有力諸侯に商業路の安全を守ってもらう事か」 「しかし、何処がやるんだ?まさか漢朝にでも届け出るのか」 「そもそも当てになる太守や諸侯がどの位いる?」 「……天水の董卓殿くらいだな、この辺りだと」 「我々の商業路は広大だぞ、まさか全てを頼める訳もあるまい」 「各地の諸侯にそれぞれ頼むのか?」 「馬鹿を言え、どれ程の金がかかると思う」 「だったらどうしろというのだ」 自らの運命にも関する事だからか、会議は白熱していった 中央政府の強力な治安維持機構が機能していない現状では、自分達で何とかするしかない だが、順当と思われる手段には問題も多く、また必要な経費も莫大な額になるだろう 経費をケチって潰れるつもりはないが、あまり好ましくないのも現実だ だからと言って代替案が直ぐに出て来る訳でもない 幾つかの案が出ては消えていき、やや議論が落ち着いた所で一刀が口を開いた 「一つ、いいですか?」 「何ですかな、流星屋殿」 「俺に案があるんですが」 その言葉に、会議室内の視線が一刀に集まる 既に漢中総督府内で、一刀は最高の知恵者としての評価が確立されている この場合の知恵者とはどちらかと言えばアイデアマンといった評価だろう 事実、一刀が提案し実行された案件は多岐に渡る そのどれもが、一刀以外には考えも付かない独創的なアイデアだった 無論、これは一刀が元々いた世界の知識を応用している為だ しかし、その事実を知らない者から見れば、一刀は正に無限の発想力を持っているように見えた 「流星屋殿の案ならばぜひお聞きしたいですな」 「んじゃま……結論だけいいますけど、商工連合の商業路はウチの護衛隊で守ろうかと」 「……全域をですか?」 これには流石に海千山千の商家の主達も目を丸くした 商工連合の販路は文字通り大陸全土に広がっている これを本気でカバーしようと思えば生半可な数の護衛戦力ではきくまい そんな難題に一刀は挑もうと言うのだ 「勿論、幾つか条件を整えないといけませんけど」 「条件と、いいますと?」 「ねね、頼む」 「はいです」 全員の瞳に疑問の色が浮かぶのを確認して、一刀は説明役を音々音に譲る それまで一刀の後ろで控えていた音々音は、立ち上がると一歩前に進み出た ここのメンバーは全員が音々音の事を知っている為、黙って口を閉じて次の言葉を待っている 「先ず一つは護衛隊戦力の増強、二つ目に大規模輸送方式の採用です」 「護衛戦力の増強は分かるが……大規模輸送方式とは?」 「これまでの様に各商家が個々に輸送を行うのでは、護衛対象は際限なく広がるのです」 「まぁ、確かに」 「そこで大規模輸送隊を編成し、相応の護衛戦力をつけて送り出す方式です」 これは後の海上軍事戦略で船団方式と呼ばれるやり方を応用したものである 小規模な輸送部隊に相応の護衛戦力を付けても、敵がそれを上回っていれば何の意味も無い だが、大規模輸送部隊に相応の護衛戦力ならば、その規模はかなり大きくなる これならば敵から輸送部隊を守ることも出来るし、最悪輸送部隊が襲われても大多数は逃げる事が出来る これらの事を、音々音は淡々と説明した 元々軍師希望だっただけあり、音々音の説明には妙な説得力があった 一方の主達も優れた商人だけあって頭の回転は速い すぐに一刀が提案し、ねねが説明した案の有効性に気付いたようだ 「確かに……それならば何とかなりそうですかな」 「最悪被害を受けたとしても、全滅しないだけマシ……と考えねばなりませんか」 「弱いものは群れを作る他、ありませんからなぁ」 どうやら一刀の案は好意的に受け入れられたようだ 小さく笑みを浮かべる一刀と音々音に、違う方向からの疑問が投げかけられた 「ところで、護衛戦力の増強はどうするのですか?」 「それに関しては、棄民や農民を吸い上げるしかないでしょう」 「使い物になるんですか?」 「使い物にします」 自信たっぷりに言い切る一刀に、疑問の声は消えてしまう 実際に、漢中周辺でも棄民の数は増えてきており、彼らを取り込めば数は揃えられるだろう 錬度に関しても、星仕込みの訓練方式で鍛えればかなりの短期間で錬度の上昇が見込める それに、護衛隊は護衛対象が被害を受ければペナルティー(主に罰金)が科せられる それを嫌がるから否応無しに必死で護衛対象を守り抜くと言う空気が出来上がっている それに職も無く漢中へとやって来た者の中には、武芸者や元兵士なども多い そういった連中も同時に取り込めば、更に戦力化は容易い 「……では、流星屋さんの提案に異議のある者はおりますかな」 やがて決を採る長老の声が響くが、異議の声は聞こえてこない 誰もが一刀の案を指示してくれているようだ 「宜しい、では流星屋さん、この件に関してはお任せしますぞ」 「はい」 流石にここは神妙な面持ちで一刀が答える これで護衛隊の戦力強化と大規模輸送計画は一刀に一任される事になる これまでよりも大きな責任になるが、気負いは無い それよりも今からやる事の多さに、一刀は張り切っていた 結局、その日の会合はそれだけで終わり、集まったメンバーは各々帰っていった 一刀と音々音も足早に総督府を出て屋敷へと帰る その道中、音々音が一刀に疑問をぶつけた 「そういえば一刀殿」 「ん?」 「戦力を増やす事に依存はありませぬが……維持費はどうなさるのです?」 戦力を増やせば、当然ながらそれを維持する経費も増大する 軍事力とは、必要不可欠ではあるがそれ自体は何も生み出さない そんな事を商売人である一刀が認める訳が無い 当然のような疑問に、一刀は商人らしい笑みを浮かべる 「とりあえずは商工連合から手数料をとって何とかする」 「護衛料というわけですな」 「後は……護衛隊を総督府の下につけるって手もあるけど……これは正直、な」 「確かに」 自分の手元にある戦力を軽々に手放す者はいない、これは例え商家である一刀であっても同様だ 確かに護衛隊を総督府の隷下に置けば維持費は総督府が支払う形になる しかし、それでは今までのような運用は難しくなってしまう それであるくらいなら、多少高くついても手元に置いて置きたいというのが一刀の本音だ 「まぁ、護衛隊が今の十倍になっても何とかなるさ」 そう言った一刀の言葉は嘘でもあるまい 既に流星屋の販路はそれを可能にする程の収益を上げている 特に大陸全土の地下資源を把握している事が大きい これは勿論、一刀の時代の地図によるものだ 大量の石炭や銅、鉄などが流星屋の販路を通って売買されている それらは一刀に莫大な利益をもたらしている 「それよりもさ、何か食べて帰らないか?」 「宜しいのですか、一刀殿」 「急ぎの案件はないし、まだ日が暮れるにも早いしさ」 「うー……では、お供するのです」 何だかんだ言いながらもしっかりと音々音は一刀に付き合ってくれている それを好ましく思いながら、一刀と音々音は大通りを歩いていった 「御免よ」 「おや、若旦那に陳宮殿、今日はどのようなご用件で?」 「なに、飯を食いに来ただけだよ」 「左様ですか、ではこちらへ」 以前、星達一行と一悶着あった飲食店へ入り、顔馴染みの店員に案内されて席へ付く 今日も店の中は千客万来で適度に込み入っている それでいて客の回転率も悪くは無いから、上出来というべきだろう 「……って駄目だなぁ、今日は単に食事に来ただけなのに」 「そんな事はありませんぞ、その商魂があればこそ流星屋はここまで大きくなったのです」 「そう言って貰えると嬉しいけどね」 僅かに照れたような表情を浮かべる一刀に、音々音の頬も緩む そうこうしているちに何品か料理が運ばれて、二人のその味に舌鼓をうつ しかし、一瞬だけ一刀の顔に不思議そうな色が過ぎったが、音々音はそれを見逃していた 「……やっぱり美味いなぁ」 「絶品なのです」 「今後は外食分野も強化したいなぁ……後身の育成とか」 「それには先ず、混乱が収束しないといけませんぞ」 単純に食事をしていた筈だったのが、いつの間にか商業戦略に摩り替わっているのはご愛嬌か しかし『未来を知っている』商売人の一刀と、軍師『になったかも知れない』音々音の会話だ 次第に内容が専門的になってくるのは仕方が無いことだろう 「今後は荒れるな」 「噂の、黄巾党ですか?」 「あぁ。だけどそれが一段落しても先はあると思うよ」 「……それは、官軍が黄巾党を制圧出来ないという事ですか」 「中央が各地の反乱を制圧できなければ、どうなると思う?」 「当然、各地の有力諸侯がそれを制圧するのです。それはつまり」 「各地の諸侯が中央を見限る契機になる、って事だよ」 湯飲みの茶を一気に飲み干して、一刀は言い切る 歴史として先を知っている一刀と、考察を重ねて推測する音々音とでは受け止め方は違う しかし、二人が共通して言えるのは『この混乱はまだまだ続く』という事だ 「ですが、混乱の形は変化すると思うのです」 「だろうね、黄巾党の乱が落ち着くまでは本当に混沌とした感じだろうけど」 「その後は――恐らく限られた者達が覇権を争う事になると思うのです」 音々音の推察に、一刀は感嘆の息を漏らした 流石は軍師志望だった事はある、限られた情報から先を見通す才能は一刀よりも更に上だ 確かに歴史では黄巾党の乱以後は、群雄割拠の戦国時代に突入する それでも大規模反乱祭りの様相を持っていた黄巾党の乱とは異なる 限られた数の諸侯が戦いを繰り広げ、どんどん数を減らしていく そして最終的には魏・呉・蜀の三国による体制に移行するのだが、それは『一刀の世界』の歴史だ この世界の歴史がどうなるのかはまだ分からない 「ある程度まで数が絞られれば、少なくとも見かけ上は平穏が訪れると思うのです」 「大国同士ならそうなるな」 例え仲が悪くとも、見かけ上は平穏を保つというのは何処の世界でも外交の常識だ 国境を越えての経済というのは存在するし、それは国内経済にも影響を与える 国同士が明確にいがみ合っていてはその経済力は弱ってしまう それにこの時代、戦は大きな国力の消費だ 自分も相手が大国となれば消費する国力も大きくなり、結果戦の回数は減る そうなれば、結果として見かけ上は平穏が訪れる事になる 「見かけ上でも何でもいいから、さっさと平穏になって欲しいもんだよ」 「その通りです」 嘆息しながら、一刀は茶を口に含む 混乱が続けば商家にとっては迷惑な時代が続く、それは勘弁だと言うのが嘘偽りの無い本音だった そろそろ帰ろうか、と一刀と音々音が腰を浮かせた時、店主が二人に近づいてきた 「若旦那、どうでした?」 「勿論、美味かったよ。でも……」 「何か?」 「何時もの味付けとは少し違う気がしたけど」 それが一刀の感じた違和感の正体だった 何度も通いつめて慣れ親しんだ味だからこそ、その小さな違和感に気付く事が出来たのだろう もっとも、それだけ街をふら付いているという事にもあるのだが 「わかりやしたか、流石は若旦那……おい、ちょっと来な」 「は、はい」 顔を綻ばせた店主が厨房から誰かを呼ぶ ぱたぱたと足音を立ててやってきたのは、ねねと同じくらいの少女だった 真面目そうな瞳に、意志の強い光が宿っている 「この料理はこの娘が作ったもんなんですわ」 「へぇ……上手いもんだね」 「あ、有難う御座います」 「こちらは<流星屋>の若旦那、北郷一刀様だ。お隣にいらっしゃるのが陳宮様」 「え、あの<流星屋>の――?」 目を丸くする少女に一刀は妹を見るような視線を投げかける やはり印象通りに真面目な娘なんだろうな、と思う一刀に店主が続ける 「で、話なんですが、若旦那」 「うん、何?」 「この娘、若旦那の所で働かせて貰えませんかね」 突然の提案に、少女も一刀も音々音も目を丸くする だが、そこは商談で鍛えた精神力をもつ一刀、直ぐに真意を問う 「それってウチの屋敷で……って事だよね」 「この娘の料理の腕は間違いありやせん、普通の店で出すには勿体無いですわ」 「んー、でも飼い殺しのような事になるのは……」 「適材適所って言葉を教えてくれたのは若旦那ですぜ」 困ったように頭をかく一刀だが、一応の理由はある そこまで腕のある料理人ならば、何処か他の店を任せた方が効率的だと思ったのだ だが、店主は一刀の屋敷で働けるように、と頼んでいる 「まぁ正直ですな、店の者が……」 「……あー、そういう事ね」 合点がいった、とばかりに頷く一刀 要は他の料理人からの嫉妬という事だろう 大多数が大の男が包丁を振るう店で、年端も行かない少女がどう見られるか それで腕もよければどのように扱われるか、という事だ 何時の時代も嫉妬とはかくも恐ろしい 「わかったよ、それじゃ、えーと……」 「あ、私は典韋です」 「んじゃあ典韋……ちゃん?ウチの屋敷で働いてみる、かな」 「あの、お邪魔でなければ」 ぺこりと頭を下げる典韋を、店主はほっとした表情で眺める 恐らくは彼も難しい立場にいたのだろう、問題が解決して一安心といった所か 実際、この典韋が屋敷の主席料理人となってから、料理の質は更に向上する事になる それを食べ過ぎて、音々音の体重が増えて悲鳴が上がるのは、蛇足に過ぎるだろうか 「成る程、それじゃあ流琉は幼馴染を探して?」 「はい、でも漢中で路銀が尽きてしまって……」 「それであの店でアルバイトか」 「?」 典韋こと流琉を雇い入れてから既に一月、一刀と流琉は雑談を楽しんでいた 既に一刀は真名を許されていたし、音々音とも真名を交換しているようだ 第一印象通り、真面目で働き者の流琉は直ぐに屋敷の皆と打ち解ける事が出来た 今では誰もが流琉の料理を楽しみにしている 「大丈夫だとは思うんですけど、あの子抜けてる所がありますから……」 「優しいんだな、流琉は」 「そ、そんな事ありません」 照れたように下を見る流琉を、一刀は優しい表情で眺める 兄様と慕ってくれる流琉を、一刀は本当の妹の様に思うようになっていた そんなのんびりとした空気を、ノックの音が切り裂いた 「一刀殿、宜しいですか?」 「ねねか、いいよ」 失礼するのです、と部屋の中に入ってきた音々音の両腕には幾つかの竹簡が乗せられていた そして流琉の姿を見ると、少しだけ困ったような表情を浮かべる それで流琉も察したのだろうか、一刀に頭を下げると音々音と入れ替わるように部屋を出て行った 「……何か、流琉殿に申し訳ないのです」 「仕方ないさ、何事にも立ち入っちゃいけない事がある」 「気を悪くされていないでしょうか?」 「流琉はそんな娘じゃないよ」 流琉と話していた時とは一変して、真剣そうな表情を浮かべる一刀の正面に、音々音が座る 手にしていた竹簡を紐解き、状況説明に入る 「護衛隊の数は現在四千五百まで増えております」 「以前の七倍近くか」 「訓練は概ね完了、錬度は十分に達したようです」 「まぁ、先は長いからな。今から根を詰めすぎても良くない」 一気に巨大化した護衛隊だが、有難いことに錬度の低下は最小限ですんだ 原因は、旧官軍の兵士を多数取り込んだ事にあるだろう こんな事象からも、漢王朝の崩壊が始まっている事がわかる だがお陰で護衛隊は比較的早く錬度を取り戻す事に成功した 「それで、第一回の輸送隊の日取りは?」 「半月後ですぞ」 「そうか、ご苦労様」 一刀の労いの言葉に、音々音の表情が笑み崩れる 気を張っていても、やはり一刀に褒められると嬉しいらしい 「そ、そういえば一刀殿。例の……は現在千二百程だそうです」 「千二百か……もう少し欲しいな」 「他の物も同時に製造しているのですから、時間がかかりますぞ」 こればかりはどうしようもない、という表情を浮かべる音々音 現在、一刀は傘下にある職人衆に『ある物』を製造させている それは既に量産が始まっており、千二百が出来上がっている しかし、これだけではまだまだ足りない 出来るだけ数を揃える事が必要な物だけに、上を見上げれば果てしない それに同時進行で幾つもの製造を進めているのだから、時間がかかるのは仕方が無いのかもしれない 複雑そうに頷く一刀の横顔を、音々音は心配そうに見つめていた 名称を護衛隊から護衛総隊へと変更した部隊に守られ、半月後に輸送隊は出発した それを見送る一刀に瞳には、限りない信頼の色が浮かんでいた