玄朝秘史  第四部第九回『生々流転』  1.明旦  北郷一刀が妻帯した翌日の朝は、ひどい鈍痛と共にやってきた。 「ぐぅう……」  明らかな二日酔いの感覚に苦しみながら、一刀は目を開こうとせずに、もう一度眠りに落ちようとした。どうせこの頭痛の様子ならば起きてもろくな事にならないと考えたのだ。  そこに囁く声がある。 「一刀さん?」 「ん……」  薄目を開けると、霞んだ視界に、誰かの顔が映る。彼はごしごしと目をこすって、彼女の顔貌を確認した。 「朱里?」  その口から出た声はひどく掠れて小さい。 「ああ、よかった。少し話しておきたいのですが……。いいでしょうか?」  彼女の返事も小さなものだ。朱里自身は二日酔いという風情も見えないが、周りに慮っているのかもしれない。 「ん、ちょっと待って」  かれた喉にごくんと唾を飲み込んで、彼は体を起こした。なんだか少し重いと思ったら、布団がかかっているのではなく、彼に倒れ込むように鈴々と季衣と流琉が寝ているのだった。ちびっこ三人して、折り重なるようにして寝息をたてている。 「もう飲めないのだー……」 「うう、ボクの鳥取るなよぉ……うにゅん……」 「季衣、もうそれ以上食べたら明日は……」  むにゃむにゃ言っている彼女たちをなんとか退け、一刀はあぐらをかいた姿勢まで起き上がった。  そして、部屋を見回して苦笑する。部屋中に、彼の恋人たち……否、昨日からは妻となった女性たちが転がっている。  柱にもたれかかって座ったまま眠っている者もいれば、幾人かまとまって抱き合うようにして眠っている一群もある。  一刀はその惨状に軽く首を振りかけ、後頭部から走る鈍痛にその動きを止めた。 「死屍累々だな……」  もちろん、この場にはいない者たちもいる。懐妊中の華琳と、その側近五人――三軍師と夏侯姉妹――や、乳飲み子のいる蓮華、穏などだ。そして、蜀の幾人かも。  だが、先程の季衣や流琉をはじめ、かなりの者がここにいた。 「一刀さんのせいだと思いますが……」  なんとか立ち上がる彼を助け起こしながら、朱里は少々険のある声でそう告げた。初夜の床に入る者を決めかねて酒宴を引き延ばしたのは、結局は夫たる彼の責任となるだろう。  いっそ適当に決めてしまえばよかったのだろうが、それが出来る人物でもない。 「ま……そうだな」  もう一度見回して、これはこれでいいのではないかと思ってしまう彼なのであった。婚儀の疲れで、皆余計に酔いがまわったせいもあるのだ。  なんとかしゃんと立ち、服の塵を払って歩き出したところで、彼は少し離れた柱の前に座る祭の姿に気づく。 「や、さすがだね」  迎え酒というわけか、酒瓶を横に置き、杯を手にする彼女の様子に感心しながら、一刀は近寄っていく。朱里は二人の会話を参加するつもりはないらしく、出口の扉のほうへ進んでいる。 「此度は勝負ではありませんからな」 「はは」  銀髪を愉快そうに揺らす彼女もまた昨晩かなりの量を飲んでいたはずだが、酔いが残っている様子はない。杯を口に運ぶ手の動きもしっかりとしたものであった。 「ここは任せていいかな?」  両手を広げて、部屋の皆を示す。誰か意識のはっきりとした者に託していければ、彼としても安心であった。  たいていの人物が彼より武力も知力も上の存在だとしても、彼にとっては一人一人が大事な女性であるのだから。 「もちろん」  祭の快諾を得て、彼は歩き出す。その背を、古強者の瞳がじっと見つめていた。  途中、水を飲みたいという彼の希望に、どうせなら厨で話そうと朱里は応じた。新鮮な水もあるし、温めることも出来る。  そして、一刀が卓で水を何杯も飲んで意識をしっかりさせようとしている間に、朱里は手早くなにかを用意していた。 「はい、どうぞ」  出てきたのは、湯気をたたえた羹だ。鶏肉と野菜を軽く煮込んだそれからわき出る香気に、一刀の口の中に一気に唾が沸いた。 「わ、すごいな」 「具は少なめですし、煮汁は既にあったものですけどね」  おそらくは、具材共々、昨晩の料理に使われたものが残っていたかとってあったかしたのだろう。それらをまとめて即座になにか作れる朱里に対してはもちろん、彼と朱里が来た途端に遠慮して姿を消した料理人たちにも感謝して、一刀はそれをいただいた。  程よく塩気のきいた柔らかな味が、二日酔いの体にはよく染みる。腹に落ちる熱が体に広がっていく感覚を味わって、彼は自分の体が本格的な活動に入るのを感じていた。それと同時に頭の回転も普段に近い速度にあがっていく。 「それで、話って?」  残った汁の温もりを、椀を包み込む両手で感じ取りながら、一刀は訊いた。 「許攸さんを退けて長安に入った夜のこと……なんですけど」  朱里はゆっくりと、彼に確認するかのように告げる。一刀は一度首をひねり、記憶の底からその日のことを掘り起こした。  桃香や朱里、焔耶に命を救われた時の事だ。 「ええと、ああ、思い出した。朱里が蛍に好かれてたあの晩?」 「そうですね」  彼女の顔に温かな笑みが乗る。だが、その表情はわずかな間だけのものであった。可愛らしい顔をした彼女は、その顔に似合わぬ深刻な表情で続けた。 「あの時、私たちは敵となるのかと訊いたこと、覚えていますか?」 「……なんとなく」 「私が言ったとおりに、なりますね」  平板な声で、彼女は言う。己を誇るでもなく、一刀を責めるでもなく。 「その通りだね」  一刀もまた静かな声で応じる。感情は込められているはずだが、複雑すぎてかえってそれは表に出てこなかった。 「私は今日は蜀の皆の代弁者として来ました」  背筋を伸ばし、かしこまった風に、彼女は言葉を紡ぐ。 「桃香様も、雛里ちゃんも、愛紗さんや他の人たちも、そして、私自身も、一刀さんとの関係について後悔してはいません。今回の自分たちの選択を間違っているとも思いません。でも」  そこで一つ喉を鳴らし、唇を湿らせて、朱里は言う。 「でも、たぶん、みんな、この成り行きを寂しく思ってます」 「うん」  受け止める一刀の口数は少ない。だが、その頷きに万感の思いがこもっていることは、見る者がいればすぐにわかったであろう。  男にせよ女にせよ、二人は自分の中に渦巻く、そして、その背後にいる幾人もの心を呑み込んで、そこで対しているのだ。 「夫を嗜めるのも妻の務め。そう言う人もいますけど」  そこで、はじめて朱里は声をたてて笑った。皮肉げな、乾いた笑いを。 「出来ることならば、こんな対立はないほうがよかったです」 「同感だ。それでも……」 「ええ、それでも、相容れないことはあります」  ふう、と息を吐き、朱里は口調を改める。 「我が蜀勢は今日のうちに都を発ちます。既に先行している者たちもおります。それについては報告が遅れましたがご容赦を」 「……そうか。わかった」  先行しているというのは、星、紫苑、桔梗、焔耶の四人のことであろう。そして、それに同道している人物のことも、一刀は知っていた。  風と稟を彼女たちのもとへやったのは彼なのだから。  だが、そのことを彼は言わない。目の前の少女も彼が承知なことくらいわかっているだろうに、触れることはしない。  彼らは、この時、男女としてではなく、国を代表する者として対しているのだから。 「なにも夜半に出て行くことはなかったと思うけれどね」 「急な事情がありましたから」 「そう。……ともあれ、先に行っている人間が邪魔されることはないよ。華琳にもちゃんと話しておく」  こくり、と蜀の大軍師が頷き、約定はなされる。そこで、彼女は少し表情を緩めた。  あるいは、この帰国時に一刀たちが手を出すことはないという確約を得ることも、朱里の仕事のうちだったのかもしれない。 「そうそう、最後に、桃香様の面白い発言をひとつ」  ふんわりとした表情で、朱里は思い出すようにして言い出す。一刀はその楽しげな様子にいぶかしげに首をひねった。 「あの方にかかると、我らの対立というのは、結局の所、どちらが男を――あるいは女を――見せて、相手に惚れさせるかの勝負、なのだそうですよ」 「……なんだそりゃ」 「ふふ」  呆れかえる一刀に、朱里は笑いを堪えきれない。彼の様子が同じ言葉を聞いた時の愛紗とそっくりだなどと種明かしをするつもりもなかった。 「でも、私は桃香様のご意見に賛成です」  男はさらに目を剥く。桃香はともかくとして、朱里がそれに同調するような内容とは思えなかったからだ。どちらかといえば、紫苑や桔梗、星あたりが支持しそうな意見に思える。  だが、蜀を代表する智謀の士は存外に真面目な様子でその理由を述べる。 「私たちはこれから、知を、武を、そして、それ以外のあらゆる力も用いて、お互いの考えと、思い――理想をぶつけあうのですから」  言い方はおかしいかもしれませんけれど、と前置きして彼女は続けた。 「惚れさせることが出来れば勝ちという言は一面の真理だと思えるのです」 「ふむ……」  一刀は腕を組み、彼女の言葉を考え、桃香の発言にまで遡ってその意図を鑑みて、 「そうかもしれないな」  と頷いた。  彼が理解したと見た朱里は、さらに優しい声音でゆっくりと言葉を押し出す。 「我々は……一刀さん、あなたに色々な影響を受けています。しかし、逆に私たちも、あなたになにがしかの変化を生じさせているはずです」 「そりゃあそうだ。みんながいなければ、いまの俺はない」 「ですから、これは、それを決定づけるための争いとも言えるのです」 「ふむ……」  もう一度彼は考え込み、宙を睨んだ後で、一つ肩をすくめた。 「じゃあ、やっぱり負けるわけにはいかないね」 「ええ、もちろん。私たちも」  そこで、会話は一度途切れる。二人はその後もしばし世間話をしていたが、ふと一刀の視線が横に逸れた。 「あれ」  その先――窓の向こう――には人形のようなものを頭に乗せた少女と、彼女の親友たる怜悧な美貌の女性が歩いている。  どうやら自分に用事らしいと判断した一刀は朱里に断って席を立った。そして、厨を出るところで、改めて彼女に振り返った。 「道中の無事は君たちの夫として保証する。気をつけて帰ってくれ」 「はい」  そうして一刀が去った厨の中に残った朱里は一杯お茶を淹れると、誰も居ない空中に向けて独りごちる。 「……そして、一刀さん」  まるでそこに彼がいるかのような調子で、彼女は話し始めている。 「私がこんな風に肝を据えて話すことが出来ているのは、あなたのおかげなんじゃないかと、そう思っているんですよ」  それは、小さく、ごく近くに寄らなければ聞こえないような声であったが、たしかに強烈な意思の下、発せられているものであった。 「以前の私なら、桃香様の言葉を嗜めていたかもしれません。兵たちを動かす戦となることも考えられるというのに、個人の問題に引き寄せてしまうなど、と。けれど、いまはすっきりと抱え込むことが出来る」  いっそ晴れ晴れとした様子で、彼女はそう話している。誰も見ていない空間で 「この変化は、きっと……」  そこで彼女の視線はさまよい、言葉は接ぎ穂を失って、別のものに取って代わられる。 「そう、きっと、あなたは私にとって、一つの通過儀礼だった。問題は、これからも、そうであり続けるのか、あるいは……」  そこまで言って朱里は口をつぐむ。それから、大きくため息を吐き、自分でそれにびっくりしたかのように首を振り振り、蜀の大軍師は厨房を出ていくのだった。  2,闘争 「そうか、無事抜けたか」  一刀は風と稟から昨晩の顛末を聞き、さらには洛陽近辺からの報を知らされて、ほっと息を吐いた。星、桔梗、紫苑、焔耶の四人組と彼女たちが携えている『もの』は無事、蜀への道を辿っているらしい。 「まあ、喜んで良いのか悪いのか、よくわからないんだけどな、実際には」  困ったように笑う一刀。風も稟も複雑な表情でそれを眺めることしか出来なかった。それから、彼は後ろを振り返り、後から合流した赤毛の女性に声をかける。 「恋もお疲れ様」 「ん」  こっくりと頷き、小さく笑いかける恋。  昨晩、稟が星に示した望楼には牽制のための弩兵が揃えられていたのみであり、実際に何ごとかあるようならば側に潜んだ彼女が出ることになっていたのだ。  結局、恋の出番はなかったものの、そのおかげで酒宴に出る時間を減らしてしまったということで、風たちのはからいにより特別のごちそうが朝から供せられていたそうだ。  役目を果たした上、お腹もいっぱい。その上一刀にねぎらわれて、彼女は上機嫌であった。その顔にあまり表情を出していなくとも。 「それで、宮中の様子は? 見たところ、騒ぎにはなっていないようなんだけど」  歩きながら、一刀は不思議そうに訊ねかける。星たちがなにを起こすのかという予測を軍師勢から聞かされて把握していた彼は、てっきり、今朝は大騒ぎで起こされるだろうと思い込んでいたのだ。  だが、まるで平静と変わらない。いや、かえって妙に浮ついた雰囲気がある。おそらくそれは彼の婚儀の余波であろう。少なくとも深刻な事態が生じている現場とは思えなかった。  だが、稟や風はかえって彼の態度のほうがおかしかったようで、顔を見合わせた後、それぞれに答えた。 「元々目通りする人間など数少ないですからね。朝議で人を集めない限りは、知れることはないでしょう。そもそも、普通は己が都を捨てるなど、想像もしません」 「それでも側仕えの人間から漏れていくでしょうけどねー。といっても、本当に側に仕えていた人間は同道したり、事を察して都を逃げ出したり、逃げ出す用意をしたりしてるようですけど」 「ま、朝廷のぼんくらどもはもう二、三日は気づきもしないだろうよ」  宝ャが風の上でゆらゆら揺れながら言うのに、一刀はもう一度確認する。 「蓮華たちが出発するまでには大きな騒ぎにはならない?」  今日の夕刻には桃香たちは都を出る。それはおそらく彼女たちの側では最初から計画されていたことで、実際には慌ただしさも感じないだろう。  だが、事情を知らないはずの蓮華たちはもうしばらく都に逗留する予定となっている。それまでに都が騒がしくなって、彼女たちを足止めすることになるような事態を、一刀としては避けたいのであった。 「念のために、そうならぬよう抑えましょうか?」  眼鏡を押し上げながら意地の悪い笑みを浮かべてみせる稟に頷いてから、一刀は少し躊躇う。 「うん。……いや、まずは様子を見て、そうなりそうなら頼めるかな?」 「では、そうしましょう。余計なことをしないほうがいい場合もありますからね」  口では大人しく言いながらも、稟の顔は少々不満そうだ。その様子に苦笑しつつ、一刀はさらに歩き続ける。 「それはともかく、我々が追い出した、と見る者も出て来るんでしょうねー。面倒な話ですー」 「居るべき場所を奪った、という意味では俺たちの仕業でも、そう間違ってはいないんじゃないか?」 「それを言うのなら、宦官どもがのさばった時よりでしょう」  三人は愚痴のような軽口を言い合う。それは非常に微妙な政治的問題を含んでもいたが、どの口調もふざけている時のもので、深刻な影はない。 「……でも、逃げ出すのは……。だめ」  不意に聞こえてきた声に、三人共が黙り込んだ。まさかこの話題に食いつくとは思ってもみなかった大陸最強の武人のほうを、彼らは振り向く。 「恋?」 「命が守れないなら……んと、しかたない。大事なものを守るためなら……逃げるのもいい」  吶吶と、言葉を探しながら恋は話す。胸の前でなにか表現したいとでもいう風にわたわたと両手を動かしているのが実に可愛らしかった。 「……でも、ただ逃げるのはだめ」  喋るのに疲れたように一息吐く恋。一刀たちは急かすでもなく、彼女が再び口を開くのを待っていた。 「癖になる」 「癖になる、かあ……」 「うん。逃げるなら……戦いながら逃げないと、だめ」  戦う? と一刀が繰り返すと、うん、と恋は頷いてみせる。 「戦って……勝っても逃げなきゃいけないこともある。だけど、そこで最初から逃げてたら……だめ」  しばらく沈黙が続く。恋の主張が一通り終わったと見た風が、いつもぼんやりとした表情を浮かべている彼女にしては珍しく真剣な調子で、こう言った。 「恋ちゃんの言葉はとても正しいと風も思うのです」 「……ふむ」 「逃走という闘争もありましょう。けれど、逃走そのものが目的となるならば、それは、もはやなんの意味もない。私もそう考えます」 「そうか……。肝に銘じるよ」  二人を支持すると示す稟にそう答えて、一刀はなにか思考に深く沈んでいこうとしていた。そこで、風がちょいちょいと彼の服の裾を引っ張る。 「ところでおにーさん、道が違いますよ」 「え? 皆の所に戻るんじゃないの?」 「その前に、しゃっきりしてもらわなければいけないでしょう」 「お風呂の用意をさせていますから、さー、どぞどぞ」  にゅふふ、と笑みを漏らす風ときびきびと歩き出す稟に連れられて、四人はそのまま風呂場へと向かうのであった。  一刀たちが風呂へ向かおうとしている同じ頃、蓮華はようやく姉のことを捕まえていた。 「うーん。さすがに飲み過ぎたわねー」 「酒臭いですよ、姉様」  婚礼のために上洛してよりこの方、のらりくらりと彼女と話すのを避けていた雪蓮がよろめきつつ部屋から出てきたところに行き当たり、これはいいと彼女の体を支えながら、話をすることを要求する蓮華。 「うー、いま話すと頭回ってないわよぉ?」  がっちりと肘を掴まれてしまった雪蓮は、それでもなにか言い訳じみたことを吐く。蓮華はその反応にはもはや慣れていたし、対処法もよくわかっていた。 「もちろん、酔いが醒めてからで結構。ああ、ちょうどいい。このまま風呂に行って、汗を流しましょう。背中を流して差し上げます」 「むー……」  ぐいぐいと引っ張られる雪蓮は、観念したように肩を落とす。 「いいわ。話を聞いてあげましょう。でも、今日はまずいんじゃない? 明日にしたら?」 「今日のなにが?」  昨日ならば婚儀の当日であり、遠慮しろというのもわからないでもない。だが、今日は問題はないはずだ。また誤魔化す気か、と蓮華は身構える。  しかし、雪蓮は緊張した様子の妹に優しく語りかける。 「桃香たちは今日の内に出発するらしいわよ? あなたも送らなければいけないでしょう。儀礼的に考えて」 「え? 今日ですか? もう発つと?」 「ええ」  そこで、蓮華はなにか考え込む。姉の腕を放しかけ、慌てて力を入れ直す妹を、雪蓮は面白がるように見つめていた。だが、思考に夢中になっている蓮華は気づかない。 「どこからその話を?」 「桃香本人」 「一刀は知っているのですか?」 「朱里が話してるって」 「……そうですか」  蓮華は完全に足を止め、再び考え込む。今度は離れた手はもう雪蓮の肘には戻らなかった。 「もちろん、見送りだけなら、私と話す時間もあるだろうけど? それだけで大丈夫かしら?」  一国の首脳陣が予定されていない唐突な動きを見せるとなれば、なにかあると考えるのが自然だろう。それを探るためにも時間は必要だ。既に明命たちが探り当てている可能性はあるが、それを検討する時間は必ず必要となる。 「……では、明日。必ず、明日、話しましょう。いいですね?」 「はいはい。約束するわ」  結論が出たらしい妹の必死の言葉に、雪蓮はひらひらと手を振って約束する。これまではそんな言葉を出すことはなかったこともあって、蓮華は一安心したようであった。 「では、今日はここで。桃香の見送りでまた会いましょう」  そう言うなり踵を返し、大股に歩み去る蓮華。その背中を眺めやり、雪蓮はさらに大きく手を振った。 「おーおー、せっかちだこと」  くすくすと笑った後で、差し込んだ痛みに額を抑える。 「てて……。本当に少し汗流すほうがよさそうね」  そうして、雪蓮もまた風呂場に向かい、北郷一刀の朝は実に爛れた風景となるのだが、ある意味これはごく日常的なことで、特筆すべきこともでないのであった。  3.別離  桃香たちの出立は、おおむね順調に進んだ。  夫婦となったばかりの一刀との別れを惜しみ、華琳や蓮華に挨拶をして、一同は馬車や馬へと移る。その最後の段になって起きた出来事を除けば、本当に順調そのものであった。 「一刀はあんな子供もたぶらかしているのですか」  そこで起きている光景を眺めやりながら、蓮華は隣にいる女性に怒ったように囁く。 「なーに言ってるのよ。お父さん感覚でしょ。璃々は天宝舎でみんなと一緒にいるんだから」  呆れたように答えるのはもちろん雪蓮だ。  彼女たちの前では、璃々が一刀の脚に掴まってわんわん泣きわめいていた。どうやら、彼と引き離されるのが嫌で抵抗しているらしい。  その場に紫苑がいれば、なだめるにせよ叱るにせよいくらでも対処できたのだろうが、なにしろ彼女は既に都を出ている。  桃香と一刀二人がかりの説得にも、璃々は耳を貸そうとしていない様子であった。そこに小蓮が駆け寄って、説得に加わっていく。 「一刀さんは子煩悩な人ですし、璃々ちゃんにも分け隔てなんて絶対しないでしょうしねー。うちの阿礼も洛陽に置いたままだと甘やかされ過ぎちゃうかもー」  娘の幼名を出し、心配するように言いながら、穏の頬は緩んでいる。彼女にとって娘に甘い父親というのは、けして忌避すべき対象ではないのだろう。 「あ、そういえば、彼女も義理の娘になるんですね? もう」  ようやく気づいた、というように明命が小首を傾げる。その横で亞莎が痛ましげにぐずぐずと泣き続ける璃々を見つめていた。 「お母さんが一緒にいれば、ああもぐずったりはしないんでしょうけど……」 「紫苑は先に行っているからな。璃々は利発な子だ。紫苑の事情は理解している。しかし、理解と感情はまた別だ。紫苑への愛慕と、別離の寂しさが、ああして爆発しているのだろう」  冥琳が冷静に分析すると、その横にあった思春が、わずかにきつい口調で反応した。 「あれは常に大人たちの間にあって、少々頭が回りすぎます。あのようにわがままを押し通そうとするくらいがちょうどいいのです。あの年頃なのですから」 「おや、いつの間に彼女に詳しくなった?」 「う、そ、その少々正月に……」  冥琳につっこまれてしどろもどろになる思春。友であり、第一の部下でもある彼女のそんな姿をほほえましく感じながら、蓮華は低い声で姉に問いかけている。 「ところで、雪蓮姉様」 「ん?」 「桃香たちがこうも急ぐ理由ですが。知っておいでですか?」 「んー、一刀から聞いた」  いまだ璃々をなだめ、慰めている桃香の姿を見つめながら、雪蓮は肩をすくめる。小蓮の加勢もあって、なんとか璃々も大人しくなりつつあるようであった。 「そうですか。どう思います?」 「無様な終わり方ね」 「終わり……ですか?」  吐き捨てるような姉の言葉に、蓮華は上ずりかけた声をなんとか抑えた。姉の声にはあからさまな侮蔑と嘲弄の色が乗っていた。蓮華はその語気の強さに胸騒ぎを覚える。 「ええ、終わりよ」  一方、雪蓮は軽侮を込めた声で続けている。 「民を捨て、都を捨てる王は、終わりよ」 「……桃香は、両袁に攻められて荊州に入り、益州を獲り、見事蜀の王となりましたが」 「桃香は民を見捨てていないわ。彼女を慕う者を連れて大陸を横断するなんてことをやってのけた」  そこまで言って、彼女は自嘲するように笑みを浮かべた。 「地つきの私たちには出来ない事ね」 「やるつもりもありません」 「ええ、そうでしょうとも」  頼もしげに一つ頷いて、雪蓮は再び声の調子を変える。 「いずれにせよ、捨ててはいけないのよ」  叩きつけるように、彼女はそう繰り返す。 「捨てたときには王は終わり。上に立つ者はそうやって終わるのよ」  それはご自分のことを言っているのか、と蓮華は訊くことはできなかった。それをしても悲しそうに微笑まれるだけであろうことは容易に想像出来た。 「明日の朝ね」  ぐずっていた璃々も一刀や桃香の言葉に一つ一つ頷くようになり、なんとか事が収まりそうな様子を見て、雪蓮が会話を打ち切るようにそう確かめた。 「はい、明日の朝に」  蓮華は複雑な心情を押し殺し、そう答えるしかなかった。 「話というのは他でもありません。例の高札のことです」  屋内の練兵場――かつて記憶を失った祭と華雄が稽古をしたこともある場所――に現れた雪蓮と冥琳の二人に、蓮華はずばりと切り込んだ。 「それはいいけどさ。なんでここなの?」  目の前に立つ蓮華、小蓮、思春、明命、亞莎という顔ぶれを見回しながら、雪蓮は訊ねる。話をするのに練兵場とは。  とはいえ、我が家の家風らしいとも思う雪蓮である。 「話の成り行きによっては少々物騒なことになりかねませんから」 「それで穏を外に立たせて? まったく、用意周到ね」  しっかりと得物を持ってきている自分たちはどうなのだ、と思いつつ蓮華はちらと扉のほうを見やる。そのむこうでは穏が見張りと言い訳役に立っているはずだ。  華琳だろうと一刀だろうと、この場を邪魔させるわけにはいかないのだから。 「それだけではありません。冥琳は等しく我らの師ですが、穏はあまりに冥琳に近すぎる。色々と読まれる危険は避けるべきでしょう」 「あなたもわかってきたじゃない」  小さく笑って、雪蓮は大きく手を広げる。その脇に古錠刀を偃月刀仕立てにした得物を挟んだままで。 「それで?」 「雪蓮姉様の意図やなにやらというのはこの際問題ではありません。高札が出て以来、呉は動揺しています」 「そこをうまく収めるのがあなたの役目よ?」  いけしゃあしゃあと言う雪蓮の様子に顔を朱に染め頬をひくつかせる蓮華であったが、結局爆発することはなく、冷静な口調で続きを述べる。 「もちろん、承知のこと。ひっかきまわしておいて、などとも言いません」 「へえ?」 「私は国元の動揺を解消するため、一つの方策を思いつきました。雪蓮姉様にご協力いただきたい」 「内容次第ねー」  蓮華の自制には感心の様子を見せた雪蓮であるが、この申し出には警戒の色を強めた。彼女としても妹がなにを言い出すか予想できていなかったのだ。 「我らと共に建業まで来ていただきたい」  だが、その求めに対する答えは簡潔かつ寸時のものだ。 「無理」 「……姉様」  低く低く地を這う声。 「無理」 「姉様」  今度の声はなだめるように優しい。 「無理だって。一刀の側にいるって約束しちゃったしさ」 「姉様!」  ついに怒気を込めて爆発した呼びかけに雪蓮が応じる前に、彼女の横でじっと話を聞いていた冥琳が小さく笑いながら二人の間に割り込んだ。 「それで力づく、ですか。さすが、雪蓮の性格をよく知っておられる」 「なによー、感心しちゃって」  ぶーと頬を膨らませる雪蓮をちらと見やり、冥琳は小さくため息を吐く。 「お前だってわかっているだろう。ああなると蓮華様は引かん」 「当たり前だ」  これも間髪を容れず答えられ、冥琳は苦笑しながら雪蓮を指さして見せた。 「といってこやつも引きません」 「承知している」  はあ、と大きくため息を吐き、冥琳は闇色の面を押さえる。そういえば、今日は面なのか、と思春はその時考えていた。  眼鏡より視界は遮られるものの、外れる恐れが少ない格好でいるというのは、戦いを予期していたということだろう。そう武人としての本能が囁き、彼女は蓮華の後ろで不敵に笑った。 「しかたないな、雪蓮」 「ええ、しかたないわ」  古錠刀を握る雪蓮と腰から鞭を引き抜く冥琳。二人はかつての部下たちの前で、はっきりと得物を手にした。 「多対一を卑怯だなんて言わないわよ? さあ、かかってらっしゃい。久しぶりにたたきのめしてあげるわ」 「これもまた教えというものだ」  古錠刀が振られ、白虎九尾がびいんと空を切る。 「行けっ!」  孫呉の王の下知が下され、戦闘が開始された。  雪蓮の側には三人が飛んだ。冥琳との間に割り込むように大きく思春の大刀が振られ、それを冥琳が避けたところへ明命が、そして、正面からは、なんと亞莎が突っ込んでいる。 「あら、蓮華は戦わないのね」 「王なれば」 「ふうん。ま、そういうのも……っと!」  一人立ったまま戦闘を見つめている妹との会話に気を取られている間に、雪蓮の懐には亞莎が飛び込んでいる。自分の被害をまるで考慮していない動き故に雪蓮の古錠刀の柄が何度か彼女の肩を打っているはずだが、亞莎が止まることはない。  下から振り上げられる拳――といっても彼女のそれは袖で隠れているため見えない――を避け、体勢が崩れたところに鈴音と魂切が突きこまれる。  それをなんとか捌きながら、雪蓮は明命がもう一本の刀を背負っていることに気づいた。いつから二刀流を習得したのかといぶかしむものの、その刀をよく観察することで、一刀のものだと断じる。  二刀を警戒していた雪蓮の動きが元に戻り、ぶうんと古錠刀が振られた。その一振りだけで受けた明命がはじき飛ばされ、亞莎が大きく後ろに飛びすさる。  唯一しっかりと受けきった思春が必殺の勢いで首を苅ろうとしてくるのに自分から踏み込み、雪蓮は彼女の腹を思い切り蹴った。  二歩下がりながらも踏みとどまった思春であったが、その腕はあらぬほうへ振られてしまう。鈴音の重みをなんとか制御しながら、彼女はもう一歩下がって体勢を立て直した。 「亞莎まで突っ込ませるのはどうかと思うんだけどねー」  仕切り直しの形となったところで、雪蓮は呆れたように呟く。それに対する答えは、大きく振られた鮮やかな色の袖であった。 「三人がかりで圧倒できない雪蓮様のほうがどうかと思います!」  袖の下で鋼鉄の籠手をまとっているであろう拳の一撃を避けながら、雪蓮は哄笑を放つ。 「あはは。さあ、楽しみましょう!」  楽しそうに、実に楽しそうに。 「小蓮様はこちらか……」  一方、思春の一撃によって分断された冥琳の眼前には小さな体が張り付いている。凄まじい早さで戦輪を振るう小蓮。その攻撃をしなやかな鞭で受け止め、跳ね返し、あるいは滑らせながら、冥琳は余裕を失っていない。 「雪蓮姉様には手を読まれるから、ねっ」 「私なら読まれないと?」  その問いに、彼女はにかっと実に小気味良い笑みを浮かべた。 「もっちろん!」  たしかに読めなかった。  まさか、小蓮がその武器、月華美人を投げつけてくるとは。  戦輪である月華美人は、投擲武器ではない。丸い形は投げつけるのにも適していないし、当たっても力を伝えきれず逸れるのが落ちだ。刃物がついているわけではないから、どこかにあたってもそれほどの威力はない。  だから、冥琳はそれをあえて自分の肩口で受け止めた。予期できない攻撃であったとしても、その意味はほとんど無きに等しかった。  その後の追撃が無ければ。 「剣での戦い方はね!」  腰に履いた――ほとんど背中側に回して隠すようにしていた――剣を抜き払い、それを鮮やかに振るう小蓮。その一刀(いっとう)を、冥琳は受けようとして、しかし、動揺せずにはいられなかった。  その剣を間近に見てしまっては。 「南海覇王!」  一瞬、冥琳の足さばきが乱れる。自らの得物、白虎九尾で受けることは出来たものの、その体勢は大きく崩れ、足は踏ん張っているものの、上半身はのけぞる形になってしまった。 「私の代わりに戦うのだ。託すのも当たり前だろう?」  ぎりぎりと小蓮に押し込まれている冥琳に、蓮華は自らの腰から腕を放して見せる。そこにあったのは、南海覇王ではない、儀礼用の剣であった。 「蓮華もなかなか言うように……っと、なったわね」  冥琳の窮地を救いにいかんとする雪蓮であるが、なにしろ相手は三人。しかも孫呉が誇る猛将ばかりである。いまは軍師をしている亞莎でも他国では十分武官として通用する人材だ。さすがに片手間で倒すというのは難しかった。  冥琳と協力できれば、四人相手でも、否、蓮華を入れて五人相手でも負けるつもりはなかったが、いまのように三と一という配分をされていると、少々まずいことになる。  彼女はおそらくは蓮華が下したであろう的確な指示をどこか誇りに思いつつ、焦りも同時に感じていた。 「わかるわよね、亞莎。あなたも武官あがり。いかに三人でかかろうとも、圧倒することは出来ていない。初撃でできなかったものが、これからできるかしら?」  だから、連撃を受け流しながら、こんな風に囁いたのは、彼女の焦燥が故であったろう。 「かつてのあなたならともかく、ね」  その言葉に、亞莎の攻撃の手が明らかに緩む。最前までの速度を期待して己の攻撃を組み立てていた思春や明命の動きにも、わずかに動揺が見えた。 「わ、私は……」  かつて阿蒙と呼ばれた女の動きは、先程までの鮮やかさは消え、ぎこちなさが目立つ。攻撃は入れているものの、その速度も力も明らかに足りていない。  そんな彼女の背に、練兵場全体をびりびりと揺らすような声がかかった。 「姉様の言にたぶらかされるな、亞莎!」  その声に込められた力のなんと強いことよ。  その声に込められた熱のなんと熱いことよ。 「阿蒙の力など出さなくとも、いまのお前に出来る戦いがあるはずだ!」  背中から殴りつけられたような衝撃を、亞莎は感じていた。だが、その衝撃は、心地好い温もりをもって体中に広がり、活力へと変わる。 「私の……戦い……」  肉に、骨に、血管に、そして、心に。  この時、鋼鉄の芯が通った。 「思春さん! 明命! 私が指示します。連携を!」 「応っ!」 「はいっ!」  一歩下がり、二人の動きを見て取れる場所に陣取る亞莎。そこから下される指示は簡潔でともすれば理解出来ないほどの単語でしかなかったが、思春も明命もそれを理解し、精確に実行した。  それは、対する雪蓮の顔をひきつらせるほどに。 「まずっ」  三者の完璧な連携に、慌てて対処しようとした時、彼女の勝負は決まった。 「はいはい、負けました。まーけーまーしーたーっ!」  床にどっかと座り、あぐらをかいてぶーたれる雪蓮。一方、冥琳は長い黒髪をはらいながら、苦笑いを浮かべるばかりだ。彼女のほうは負けたわけではなかったが、結局小蓮を振り払うことも出来ず、雪蓮の力になることも出来ずに終わってしまったのであった。 「勝負は勝負だよ、お姉様?」 「わーかってるわよ!」  得意げに顔を覗き込んでくる末妹にぐるると牙を剥いたあとで、彼女は蓮華のほうを見上げた。 「でも、蓮華」 「はい?」 「私を呉に戻してどうしようっていうわけ?」 「隠居として、どこかに押し込めますか?」 「まさかまさかー」  冥琳の予想にぱたぱたと手を振るのは穏。彼女は勝負が決したあとで練兵場に引き入れられていた。 「じゃあ、どうするの?」 「……その前にいくつかお訊きしたい。事と次第によっては、呉に来ていただかなくて結構」 「ふうん? なあに、言ってみなさいな。負けた以上、それくらいは従うわよ」  真剣な蓮華の調子に、雪蓮は軽い口調で返している。しかし、それは先日までのぬらくらしたものとは明らかに違うものだ。  蓮華は、孫呉の女王は、一拍おいて訊ねた。 「なぜ、あのようなことを? 自ら身を隠した意味がなくなるではないですか」  なぜ、と、彼女は訊いた。  そこに込められている意味は複雑だ。  彼女は姉が自分を焚きつけていることはよくわかっている。小さくまとまってしまいがちな自分を発憤させ、呉にとってより良い道を模索させようとしている意図は理解している。  そして、妹にそれくらいの察しは付くであろう事を雪蓮は心得ている。  だが、それでも、己と友の死を偽装してまで王を継がせたのを台無しにしてしまいかねないことを、なぜ断行したのか。  その覚悟をこそ、彼女は訊ねているのだった。 「もう大丈夫だと思ったからね」 「はい?」 「私なんて、もはや亡者と同じでしょ。孫呉はあなたが継いだ。それは確定していることで、あの程度でひっくり返るものじゃない。違う?」  そうだろうか、と蓮華は考える。  そうではないから、皆、動揺しているのではないか。  しかし、そうでなくてはいけない、というそのことは彼女も理解していた。  だから、なにも答えない。 「それにね」  おしだまる妹に、雪蓮は語り続けた。 「死者は超えられないけど、生者ならいくらでも打倒できるのよ」  その言葉を発する姉の瞳を見た時、蓮華の心は定まった。 「よろしかったのですか、蓮華様」  練兵場に二人を置いて出てきたところで、思春が蓮華に問いかける。 「……迷ったけれどね。これでいいのだと思うわ」  そこで彼女は口調を改め、後ろをついてくる臣下たちに言い聞かせるように話し出す。あるいは、それは、彼女自身が自分に言い聞かせたいことなのかもしれなかった。 「それに、雪蓮姉様はこれまで一身を呉のために捧げてきたのだ。……う、うん。まあ、一見、そうは見えなかったかもしれないが、そうなのだ。そろそろ好きなように生きるのもよいだろう」 「いっつも好きにしてたような気もするけどねー」 「まあ、それはそれ、だ」  小蓮の感想に肩をすくめて深くは追求しない蓮華。 「それに、此度のことで、我らが我らだけでなんとでもなると知れただろうさ」  彼女は皆の顔を見回す。多対一の状況であるとはいえ、かの孫伯符と周公謹に対抗し、追い詰めた頼もしい友の顔を。  そこに穏がいつも通りのゆったりとしたしゃべり方で言葉を発する。 「でもですね、蓮華様」 「うん?」 「厳しいことを言うようですが、雪蓮様を連れていけない以上、あの高札の印象を塗りつぶすほどのなにかを提示しなければ、動揺は収まりませんよー?」 「いまの情勢で大規模な離反などということはないでしょうが……水面下で燻ってしまうでしょうね」  穏に続けるのは亞莎。先程までの戦いに興奮しているのか、あるいはそれ以外の理由か、彼女の息は荒い。 「まして、蜀が……という状況なわけでしてー」 「うん」  再び穏が言うのに、蓮華は微笑む。 「そこは私もよくよく考えたのだけれど」  その微笑みは、優しく、しかし、尋常ではない決意を込めたもので。 「母様は新しい国を提示した。姉様はその夢を取り戻すことを誓った」  それを見つめる臣下たちの心に、その言葉と共に、いつまでも刻み込まれるほどのものであった。 「ならば、私は、新しい天を皆に示そう」      (玄朝秘史 第四部第九回『生々流転』終/第四部第十回に続く)