玄朝秘史  第四部第八回『百花繚乱』  1.挑発  靴音高く宮城の廊下を歩く女性。彼女は普段は――感情が入っていないようだと言われることもないではないが――かわいらしく笑みをたたえている頬をぷうと膨らませていて、その歩きようと相まって、不機嫌さを存分に発揮していた。  廊下を行き交う女官や官吏も、その勢いになにかを察したか、だんだんと彼女の進む先から姿を消していく。こういう時、噂というのは即座に流れるものだ。ことに、それがそれなりの地位にいる人間のこととなれば。  彼女は廊下を歩ききって、そのままの勢いで、ばんと扉をあけた。  黝い髪の上から帽子が転がり落ちかけ、七乃はいらだったようにそれを手にとって脇に挟んだ。 「どうした?」  中でなにかの竹簡を読んでいたらしい冥琳が顔をあげる。彼女は、ずっとつけていた仮面を外し、眼鏡姿に戻っていた。 「どうした、じゃないですよ! なんですか、建業とかに立った高札は!」  しっかりと扉を閉めてから怒鳴る七乃の姿に、冥琳はすうと唇を開く。笑みのような、猛獣が獲物を脅かす時浮かべるような、なんとも判断し難い表情であった。 「良く知っているな」 「ああ、もうっ!」  七乃は顔の前で拳をあわせ、膨れた頬をさらに膨らませ、ぷんぷんと冥琳に迫る。 「袁家の情報網が生きてるのくらい、知ってるでしょう。誤魔化そうとしても無駄ですよ!」 「まあまあ。そう興奮するな」  なだめるようにひらひらと手を振り、冥琳は壁際の椅子を示す。七乃はぷんすかしながらも、それに応じて椅子を移動させ、机を挟んで彼女の正面に座った。 「それで、当人は?」 「ああ、雪蓮か? しばらくしたら戻るだろう」 「本当ですね?」  大声を出すのは止め、今度は静かに見つめてくる七乃に冥琳は苦笑しながら答える。 「嘘をついてどうする。いまのお互いの立場で」  それでも七乃はじとっと上目遣いで視線を送るのを止めず、冥琳はいっそ面白そうに微笑んだ。 「そもそも、敵を作れと言ったのは貴殿だろうに。あれが蓮華様を焚きつけたとて、狙い通りではないか」 「私は計画的に敵を作ろうって言ったんです。勝手に独走されたら困るじゃないですか」  それから、はあ、と疲れたように七乃は息を吐いた。 「だいたいですね、敵と反感はまた別ですよ。そこらへん、わかって言ってるでしょう」 「まあな」  敵となれば当然、敵意を向けられる。しかし、その感情にもいくつかの段階がある。敵するにしても敬意を持つ場合もあれば、負けた結果、何代支配されようとも抵抗を失わない場合もある。  七乃にしてみれば、決着がついた後は大人しく一つにまとまることが出来る程度の敵意に留めたいのであろう。  それがわかっていて、冥琳は苦笑するしかない。 「それに、漢朝対新王朝という構図に乗っかってくれるならまだしも、孫家のお家騒動なんてなったら、こじれること間違いなしじゃないですか。全く」 「そうね。でも、一刀は許してくれたわよ?」 「ひゃうっ!」  唐突に背後からかかった声に、椅子の上で七乃が飛び上がった。小さく震え、怯えたような顔で振り向く彼女を他所に、均整の取れた美しい肢体をひらめかせて、雪蓮はつかつかと部屋の中に歩み入る。 「やめろ、雪蓮。貴様の隠形は心臓に悪い」 「ごめーっん。でも、話し込んでるみたいだったからねー」  けらけらと笑って、冥琳の向かっている机に腰掛ける雪蓮。ぷらぷらと脚を揺らす彼女に、深呼吸を一つした七乃が喰ってかかる。 「か、一刀さんが許したって、どうせ、あれでしょう! 復活するなら派手にしたいけど、いい? とか軽ーく一刀さんに訊いて、同意されたのを、詳しいことも話さず実行して、事後承諾ってところでしょう!?」 「あら、ばれてる」 「孫家の人間の行動原理なんてわかってます!」  そこまで言って七乃は落ち着いたのか、あるいはさらなる苦悩に襲われたのか、頭を抱えるようにして静かに話しかける。 「なに考えてるんですか? ただでさえ、軍権取りあげるって話で、うちのこと思い出されるのは確実なのに……」  かつて、袁家は孫堅の死去にかこつけて、各地の豪族の離反を促した。豪族集団が権力の基礎であり、同時に兵士の供給源でもあった孫家は当然力を失う。そこで窮地に陥った孫家に兵と金を貸し出し、最終的にその支配権を丸ごと奪い取る企みを一から十までやり遂げたのは、他ならぬ七乃である。  彼女は、『力』を基にする集団から、その基礎である人材を奪い取ることがどれだけ難しいことか理解していた。そして、どれだけ、恨まれるかも。  それでも、当時の情勢ならば名家の権勢にあぐらをかいていられたが、今回は違う。  北郷一刀が帝国を築くにあたって中央に軍権を集中する。  その理想を実現させるためには、禍根のない形で事態を収拾させなければならない。袁家の二の舞となるなど問題外なのだ。  ましてや、かつての屈辱を思い起こさせ、それに重ねるなど。  正直に言えば、七乃は一刀の考えに懐疑的な部分もある。だが、それとこれとは話が別だ。もし、雪蓮たちが内側から一刀を邪魔するというならば、彼女には彼女なりの覚悟があった。 「おー、こわ。あなた、その目はちょっと殺気が漏れすぎよ?」  俯いている女の瞳がぎらりと光ったのを見て、雪蓮は大げさに身震いしてみせる。 「まあ、少々派手なのは否めないけどね」  んー、と彼女は小さく声をあげてから、顔を上げた七乃を真っ直ぐに見る。 「ただ、蓮華の性格を考えると、あれくらいがちょうど良いのよ」 「説明してくださるんですよね?」 「いいでしょう」  にやりと笑って、雪蓮は腕を振り、艶やかに裾を振るった。 「わかってると思うけど、一国……いえ、一勢力の長なんてのは独善が過ぎるくらいのものよ。私欲まみれと言ってもいい。私しかり、母様しかりね」  突然の話に七乃は目を白黒させながらも耳を傾ける。それでも、彼女は相手がなにか煙に巻こうとしているのではないかと身構えていた。 「彼らは……ああ、もういいわ。私たちは、こう考える。『自分の理想こそが一番』『自分こそ民を救える人材』『私のやり方こそが正しい』と。もちろん、それを領土欲だけで抑えつける袁家なんて、言語道断の仇敵となるわね」 「はいはい。こちらからすれば真逆の言い分を並べるのも可能ですけどね。それはともかく、言いたいことはわかりますよ。そういう強烈な意思や自信のない人についていく人はいませんからね」  朝廷の政の腐敗や黄巾の動乱によって、幾人もの群雄が立った。そのいずれもが、雪蓮の言うような資質をどこかに持っていた。  月のように、当人がそこまで押しが強くなくとも周囲が担ぎ上げる例もあるにはあるが、上層部をまとめて考えればどこも同じようなものだ。 「先頭に立つ人間の大半は底抜けの自惚れ屋ということね。問題は、そこに運や実力、名声が伴うか否か、だけど」  そこで雪蓮は大きく肩をすくめる。 「華琳はその最たるものよね。強烈な意志を持ち、力を得た。一刀も案外そういうところあるわよ」 「華琳殿は意識的で、一刀殿は無意識だと思うがな」 「一刀さんが見た目より突っ走りがちだっていうのは認めますけどねぇ」  雪蓮の評価に、冥琳と七乃はそれぞれに感想を付け加える。その後で、七乃は黝い髪をいじりながら、雪蓮に先を促した。 「それで、雪蓮さんたちが自尊心が高いからって、どうしたっていうんです?」 「蓮華はさあ」  なんだかはにかむように、雪蓮は妹の名を呼ぶ。誇りに思いつつ、困っているかのような顔。 「芯の強さで言えば、下手したら私以上のところもあるんだけど、なにしろ、結構な理想主義者なのよね」 「へ? さっきまでの話は、その理想にこだわる我の強さを強調していたんじゃ?」 「うん、まあ、そうなんだけど、あの娘は建国の王じゃない分、その……ありようが変わってるのよ」  急に歯切れ悪く、照れたように雪蓮は話している。七乃は小首を傾げながら、彼女の主張を待った。 「あなたも知ってるでしょうけど、私っていうぐいぐい引っ張る主導型の姉が居たものだから、周囲の意見を聞いて調整する事を自分に課してるところがあるのよ。あの娘」 「はあ」 「下手をすると自分を殺してまで、江東の調整に奔走しかねない」 「ははあ……」  だんだんと、七乃には雪蓮の言いたいことがわかってきた。群雄に成り上がった者は皆、『自分ならば』という特別な感覚がある。  一方で、蓮華は創業者ではなく、後継者たるべく育てられた人間であり、先達の偉業を引き継ぐことを重視する。  そのために、彼女自身のありようを、自ら調停者として規定しているところがあるのだ、と雪蓮が続けるのに、七乃はようやく納得の声をあげる。 「はあ。放っておけば妹さんが江東の豪族連中の調停役になりそうだ、というのはわかりますが、それが困るんですか? 王としては唯一ではないですが、真っ当なやりかたですよね? 挑発して発憤させなければいけない意味は?」 「その辺りは貴殿が一番よく知っているだろう」 「え?」  頭の上に疑問符が浮かび上がりそうな勢いで繰り出される七乃の疑問に、冥琳が口を挟む。 「平時なら、蓮華様の調停者の面が出るのはかえって望ましい。豪族連中の多くの意見を吸い上げて、すばらしい統治をなされるだろう。しかし、江東の土豪は、いざという時の決断というものが出来ん。だから、かつては袁家の切り崩しにあっさり乗った。袁家の名声に頼ったわけだな。あるいは、雪蓮の出現に、掌を返した。  奴らは、生来、面従腹背が染みついているのだ。機を見るに敏といえば聞こえはよくなるかもしれん。ともあれ、いまは、それと似ている。奴らは大きなうねりの中では、必ず動揺する。右往左往する。そういう時に蓮華様のやり方では、まとまらん」  すらすらとそこまで語って、冥琳はひょいと肩をすくめた。 「……と雪蓮は考えているのさ。私は正直、お節介だと思うがな」 「なによー」  雪蓮の文句を聞き流し、冥琳は七乃に向けて、どうかな、とでも言いたげに視線を向ける。七乃はそれでもまだ全ては納得できないという風情で答えた。 「はあ、それで敵を作って、ですか? でも、それも……」 「もう一つあるわ。中原や華北に比べれば、南部は漢朝の影響は薄い。もし、あいつらが一刀の国に反感を持つとしても、すんなりと漢を担ぐ勢力には合流しないでしょう。それならいっそ、蓮華にまとめてもらうほうがいい」 「むー……」  渋い顔で唸りながら、七乃は考える。  一刀が作る国に対抗しうる勢力は、第一に漢王朝、第二に、呉、蜀。前者は大義を持ち、後者は実力を持つ。  いずれにせよ、なんらかの交渉は可能な相手だ。それが平和的な交渉であろうと、武器を持っての対峙であろうと。帝や王の権威を負う以上、交渉の糸口というものはあるものだ。  ただし、話にならない相手となると、これは困る。黄巾や白眉の残党の賊どもや、ろくな意思統一も出来ない土豪集団が相手では、交渉を持ちかけるのにも一苦労であり、結局は一つ一つ潰していくしかなくなってしまう。  それは、たしかに避けたい事態であった。  ぐるる、と威嚇するように、けれど、ふざけた調子で一声鳴いて、七乃は力を抜いて椅子の背にもたれかかった。 「わかりました。もうやっちゃったのはしかたないでしょう。でも!」  ぴっと指さして彼女は声を張る。歌でも人を魅了する喉から飛び出した声は、雪蓮でさえ、背筋を伸ばしたくなるような勢いがあった。 「せめて、一刀さんと意思統一してからやってください! 周りが困るんですから!」 「……はぁい」  不承不承ながらも、雪蓮はそう答える。その様がまるで祭や自分を相手にしている時のようで、冥琳はこみあげる笑いを抑えるのに必死であった。  2.姉妹  七乃の元へ建業での異変がもたらされたのと前後する頃。  呉の女王は王宮の文武百官、及び有力な豪族の代表者たちを召集して、その前に立っていた。 「さて、諸君」  居並ぶ人々の前で気負うこともなく、蓮華は微笑みをたたえ、普段の挨拶でもするように彼らに話しかける。 「新年始まってよりこちら、様々な噂が飛び交っている。諸君もそのいくつかを聞いているはずだ。曰く、漢朝は終わり、新しい王朝が開かれる。曰く、新しい帝は天の御遣い北郷一刀である。曰く、我が姉伯符は生きており、北郷一刀のもとに居る。……等々」  そこで蓮華は一段高くなっている壇上を歩き始めた。ゆっくりと、しかし、足音が広間に響くような歩き方で。蓮華は彼女の動きを注視する臣下たちの列の右端まで来たところで足を止め、今度は逆側を向けて歩き出す。 「諸君の聞いている噂の数々は、誤りも多いが、真実の一端も含まれている」  ゆっくりと歩きながら、彼女はそう打ち明ける。 「上洛してきた我々からはっきりと言えるのは、新王朝の機運あり。これは間違いない」  ざわり、と人々が揺らいだ。いかに様々な話を聞いていようと、孫呉を代表する人物に直に、しかも公の場で聞かされるのとでは、受ける衝撃が異なる。単なる噂であるとはもはや言えないのだ。 「また、その主役が北郷一刀であることも、まあ……否定出来ない。ただし、これは見方にもよるだろう。なにしろ、その背後にいるのはあの曹孟徳だからな」  ざわめきを気にせず蓮華は話を続けていたが、彼女の出した名前に、広間は一瞬にして静まった。 「そうだ、赤壁で我らを破り、公覆を奪い、天下を平定した覇王曹操だ。しかし、彼女は我らに呉を返還し、そして、まずまずの成果を積み上げている。それも知っているだろう」  広間に、蓮華の声と靴音だけが響く。こつこつという足音は、聞く者に決断を迫るかのような律動を刻んでいた。 「そして、北郷一刀は我が娘の父親でもあり、蘇った公覆がその主と仰ぐ人物でもある。率直に言おう。私は彼と婚姻を結ぶつもりだ」  今度は、息を呑む声が起こった。隣の者と声を交わす余裕もなく、彼らは女王の姿を凝視している。驚きというよりは、来るべきものが来たと思っている者も多い様に思えた。 「孫呉にとって、この結びつきは、重要なものとなる。一方で、彼を危険視する者たちもいるだろう」  彼女はそこで足を止め、ふっと笑みを見せた。引き込まれるように表情を緩める者たちも幾人かいる。だが、最大の衝撃はこの後にあった。 「そして、もう一つ。我が姉、孫伯符は死を偽装して、彼のもとにある」  もはや、広間は死の静寂に覆われている。気を失ったのか、力が抜けたのか、その場にへたり込む者の尻餅の音を除いて。 「さて、諸君」  笑みをますます深め、彼女は宣言した。 「私は偽ることなく語った。その上で、諸君の忌憚なき意見を求める」  翌日を丸々使って話を聞き、書簡の提出を受け付けることを告げ、蓮華は凍りついたような広間を出て行ったのだった。 「案外来ないものね?」  次の日の夕方、蓮華は十組目の上申者たちを送り出して、不思議がるように小首を傾げた。先程までいた者たちの意見を書き留めていた穏が苦笑しながらそれに応じる。 「……いきなりですからねぇ」 「いきなりはないだろう。奴らとて、新年の挨拶で呼ばれたのではないことくらいわかっていたろうに」  壁にもたれながら、憤ったように言うのは思春。高札の件で地方に派遣されていた彼女は、その地方の代表者たちを連れて帰ってきた。彼らがなにを考えているかくらいはわかるだろう。なお、小蓮や明命もまた同じように土地の有力者達を引き連れて帰還している。 「わかってはいると思いますよ? ただ……」  言いにくそうに穏が口ごもるのに蓮華はひらひらと手を振る。 「ま、華琳と雪蓮姉様について何か言おうと思う者がどれだけいるかってことね……」 「蓮華様の言い方も、ちょっと、こう、脅すようなー」 「あら。脅してなんかいないわ。私は現時点では、華琳より一刀のほうがよほど脅威だと思う。いえ、華琳を呑み込んだ一刀が脅威と言うべきね。でも、それをわからせるのは難しい。だから、華琳の名前で注意を促したのよ」 「穏はわかりますけどぉ……」  呉の中核を成す者たち――たとえば張昭などは既に訪れ、立派な論陣を張っていった。だが、豪族とは名ばかりの吹けば飛ぶような領地しか維持出来ていない地方の有力者たちが、現在の混迷した状況で明確な方針を示すことが出来るものだろうか。  様々な意見を聞こうとする蓮華の方針は穏にとっては喜ぶべきものであったが、少々蓮華の側も期待が過ぎるように思うのだった。  不満そうな主の様子に、どう説得するか穏が考えているところで、開け放ったままの扉の向こうから、足音と話し声が聞こえてくる。  だが、それは進言に赴いた者たちではなかった。 「ええと、要するに、新しい帝国のこと、四姓だと朱、陸が反対派、顧、張が賛成派ってことね」 「あ、いえ、小蓮様、逆ですよ?」  声を聞けば、話しているのは小蓮と亞莎。別室で呉の四姓の意見を聞いていた彼女たちが戻ってきたらしい。 「え、だって……」  訂正されて困惑気味の小蓮がまず部屋に足を踏み入れる。続いて亞莎、そして、彼女たちを守る様に明命が続いていた。 「はーい、お疲れさまでしたー。それで、どうでしたー?」  呉の四姓の一つ、陸家と深い関わりを持つ穏は同席するのを遠慮していた。あるいは陸家の本家筋に配慮したのかもしれない。 「はい。朱家、陸家の主張は、帝国が出来るのはもはや必然と見て、それに呉が含まれるのならば、慎重に接近するべきだと主張していました」  亞莎が蓮華たちに礼をしながら、四姓の意見をまとめていく。話を聞いていたものの、理解が間違っていたと言われた小蓮はしっかりと彼女の言葉を咀嚼しようとしている。 「一方、顧張の二家は積極的に魏に働きかけて、一刀様の登極そのものを阻むべきだという考えで、これは明確に反対の立場です」 「あー、そうだったのー。シャオ、勘違いしたよー」  ようやく納得したのか、うんうん、と小蓮は可愛らしく頷く。亞莎は片眼鏡をひらめかせながら、そんな小蓮に微笑みかけた。 「どちらも言葉を飾っていて、その上で言質を取られないよう気をつけているので、わかりにくかったですね」  小蓮とて姫として育てられた身である。その彼女が取り違えるほど慎重な物言いだったということであろう。さすがは呉郡を代表する名家の人間たちであった。  なお、いわゆる呉の四姓というが、これは、あくまで揚州の中心部『呉郡』の代表的な豪族である。揚州全体でも並ぶところのない名家、周家とはまるで格が違う。それでも孫呉にとって重要な存在であることには違いなかった。 「さて、次はしばらくなさそうだし、いままでのところをまとめてちょうだい、穏」 「はい〜」  蓮華の指名に穏が立ち上がり、手元の資料を見つつ、話を始める。 「新王朝の発足について、明確な賛成の声は小さいですね。いまの状況で満足しているのにひっかきまわされても、という論調が強かったように思われます。ただ、漢朝に同情的というわけでもありません。もちろん、漢朝の権威は認めていますが……それでも、やはり、黄巾前とはだいぶ違いますねー」 「反対は?」 「それもそこまでは……。いまのところは静観、という意見が多いですね。ただし、それには条件がありますけどね。はい、亞莎ちゃん、なんでしょー?」  穏は瞳をきらきらと輝かせて、もう一人の軍師に謎を投げる。 「え? あ、え、えっと、孫呉体制の維持……だと思います」  突然の問いかけに驚きながらも、亞莎ははっきりと答えた。にっこりと笑う穏を見て、亞莎は胸をなで下ろす。 「はい、正解。おそらくは、大半の者は、蓮華様が一刀さんと結婚すると聞いて、それが保証されていると無意識に考えてるのか、明確に口には出していませんけれど。あ、あとは、阿呼ちゃんを置いてきたことも、一種の取引とみなされてるのかもしれません。ただ、少なくとも自分の領地が脅かされるようなことは絶対に望んでいませんね。まして、中央の政に従うことになるとは予想もしていません」  漢朝の権威は認めないでもない。といって、どうしても忠義を通すほどの存在でもない。しかし、孫呉および、それに認められた自分たちという現状の体制が続かないのは困る。  彼らの意見をまとめればそうなるだろう。  実に手前勝手ではあるが、本音だ。 「やはり、わからないわよね。一刀はやるとなったらそんなこと気にしないわ」  はあ、とため息を吐きながら、蓮華は報告を聞き入れる。豪族たちの見通しは真っ当ではあるが、甘すぎた。 「今回の婚礼は個人の情を除けば、いわば、礼儀を通したってところでしょう。あの人は私たちを愛しながら、敵対することくらいやってのける。いえ、そうでなくては」 「……なにやら期待しているような口ぶりですが」 「まさか。ただ、妻であるからといって、余計な情けをかけるような男に輿入れするつもりはないわ。あなたもでしょう?」  不審げに訊ねる思春に、そんな風に笑って見せる蓮華。主の様子に、思春もしばし考え、 「まあ……それはそうですが」  と同意した。  そんな側近の様子に満足げに頷きながら、 「さて、姉様については?」  その問いかけに穏はしばし口ごもり、意を決したように手元の竹簡を読み上げた。 「えー……。ほぼ無視です。張昭さんが、雪蓮様らしいと笑っていたくらいですかねえ」  ああ、それは知っている、と一笑い起こしてから、蓮華は手を胸の前で組み、人差し指をいらだたしげに動かした。 「無視か……。どう触れていいかもわからない、か」 「各地でも、正直どう受け取って良いかわからないと、あえて触れないようにしている者が多くいました」  明命が各地で自ら見聞し、部下を使って集めた情報を告げると、小蓮が不機嫌そうにそれに異議を唱える。 「でもでも、庶人とでは違うでしょー。だいたい、あの人たちはお姉ちゃんの話を聞いているんだから」 「それは……たしかにそうですね」  ううむ、と俯く明命のほうを見やり、それから、自分で組んでいる手に視線を動かして、蓮華はゆっくりと頭を振り振り何ごとか考え始める。  しばらく黙った後、彼女は穏にもう一度、それ以上告げることはないかと訊ね、首をふられたところで、再び黙考に戻った。 「私は、雪蓮姉様ではない」  言わずもがなのことを口に出すとき、人はそれを自ら確認したがっているものだ。そして、否定的な言説であればあるほど、その意識は強くなる。  自分に言い聞かせるように、彼女はそう言った。 「そして、雪蓮姉様と同じ場所で戦う気はない」  姉の挑発を知り、そして、それを無視せざるを得ない民の声を聞き、彼女は決心していた。姉の行為は――ごく個人的には――実に面白いが、だからこそ、それに乗ってやるのは呉の王としてふさわしからぬ行為だと自覚していた。 「雪蓮姉様に皆が触れることが出来ないのは、彼女がここにいないからだ。私は、此度の上洛……婚儀の機会を使い、姉様を呉に連れ帰る」  一拍。  皆が彼女の言葉を理解するまで、わずかな間があった。 「え、えええええ!?」 「非難するにせよ、再び迎え入れるにせよ。この土地でやらねば意味はない。洛陽に居る限り、孫呉の民にとって、姉様は幽鬼に、あるいは残影に過ぎん」  驚愕に揺れる皆の動揺が収まるのを待ち、蓮華は静かに告げる。 「……蓮華様。それが出来ないときは?」 「出来なければ?」  額に汗する穏の問いかけににやりと返して、呉の女王は即座に答える。 「考えはある」  正直に言えば、その時の蓮華に、それ以外の考えなどまるでなかった。  3.国号 「だ、大丈夫か、阿呼は」  天宝舎から出てきた華佗に駆け寄って、一刀は青ざめた顔で訊ねかけた。患者の親族を扱い慣れている華佗は、男の肩をぽんと叩くと笑みを浮かべた。誰もが頼りになると思えるような、温かな笑みを。 「大丈夫だ」 「そ、そうか……」  はああ、と大きく息を吐き、その場でうずくまる一刀。彼を引きずり揚げるようにして立たせた華佗が歩き出すのにあわせて、彼も歩き出した。 「預かっている間になにかあったら、蓮華に会わせる顔がないからな」 「風邪ってわけでもない。ただの体調不良さ。温かくしていれば治る」 「うん。まあ、華佗が言ってくれるなら信用する」  ようやく安心したというように、一刀は普段の顔つきに戻る。そこで、華佗は彼をさらに安心させるために話を切り替えた。 「しかし、久々に来たが、えらく人の数が増えたな?」 「え? ああ、天宝舎か?」 「ああ。以前はあんなにいなかったろう?」  振り返らずに、後ろ指で示す華佗。一刀はちらと振り返って、晴れやかな笑みを見せた。 「あれは、華琳があそこに入ったからだよ。親衛隊のうち乳母を任せられる人間が、だいぶ張り付いてる」 「護衛にか?」 「それと、子供の世話もね。華琳につわりがあったりする間は、他の母親たちの時間が削られてしまうから。俺も出来る限り協力はしてるんだが……」  すまなさそうな表情を浮かべながら、一刀は肩をすくめるしかない。父親一人ではまかないきれないことも多いのだ。ましてや、彼はこの時期、多忙を極めている。 「お前はお前で忙しそうだからな。なんだったか。早く考えてくれないと困るとか愚痴られたぞ?」 「ああ……。うん。ちょっとね」  華佗の言うのに、苦笑を浮かべる一刀。  彼が言われたのは、国号の話であろう。  通常、王朝を開く者は、その前の王朝においてそれなりの待遇を受けているのが通例である。  軍権を持ち、領土を持つ。中には既に公国や王国を築いていた者もいる。そうでなければ、前の王朝を打倒したり引き継いだりすることは不可能という実際的な問題もあった。  たとえば漢は高祖劉邦が封じられた漢中王に由来するし、楚、秦は割拠した王国の後継であったり、発展であったりする。  しかし、北郷一刀は、王はおろか、公、候のどの位も持たない。そもそも私有の領地も兵もないのだ。  それで国が建ってしまうとは、前代未聞の事態であった。  後ろ盾である魏をそのまま称するという手もあった。しかし、それでは結局の所、曹氏の帝国に過ぎない。  それ故に、一刀は新たな国号をひねり出さねばならなかったのだ。  とはいえ、いざ考えてみるとなかなかうまいものが出てこない。なにしろ制約がないのだ。なんでも選べるとなって、かえって時間がかかってしまっている。  もちろん、皆は助言をくれたが、それも候補が増えるだけになっている。結局の所、一刀が決めるしかないのだ。 「あ、いた! そこを動くなです!」  華佗を門まで送って戻るところで、向こうから駆けてくる小さな体にそんな大声をかけられた。黒い外套を翻して走ってくる軍師の姿に、一刀は手を振る。 「なんだい?」  ねねの言葉に従って足を止めていた彼が近づいてきた彼女にそう訊ねる。だが、彼女は走ってきた勢いがつきすぎたのか、制動をかけ損なって一刀にどかんとぶつかってしまった。 「ぶふっ」  頭が下腹につっこみ、変な声をあげてしまう一刀。幸い、倒れ込むこともなく、中腰の姿勢でねねを抱き留められた。 「ええい、動くなと言ったらまるきり動かないとか、柔軟性がなさ過ぎです!」 「避けても怒るくせに……」  ぶーぶー言うねねを立たせて、一刀は腹をさする。しばし心配気に彼の事を見ていたねねだったが、ふと思い出したように拳をつきあげた。 「ああ、そうでした、そうでした。話すことがあるですよ」 「ん。なに?」  懐からかちゃかちゃ音をさせて、竹簡を取り出すねね。彼女はそれを一刀に渡すと声をひそめた。 「例の噂が――お前の登極の話ですが――流れて、魏内部で多少なりとも動揺しているところの報告が」 「ふうん。荊州か」  ざっと目を通し、一刀は呟く。  荊州北部、呉、蜀に突き出た形で魏領となっている辺りの動揺が最も激しく長いものであるとそこには書かれていた。少なくとも、その時点では。 「やはり、他国と接している部分ですからね」 「まあ、この場所だと蜀か呉の出方次第じゃないか? 結局」 「おそらくは。単独で立つほどの勢力はありませんからね。しかし、それでいいのですか?」  竹簡をねねに戻しながら男が言うのを、彼女は確認する。一刀は顔を引き締めつつ、平静な声で告げた。 「しかたない。反発は予想済みだ。問題は、それを出来る限りソフトランディングさせることだ」 「そふとらんでぃんぐ?」 「望ましい状態に穏やかに持っていくことだよ」  天の国の言葉に興味を持つねね相手の時は、一刀はたまに元の言葉遣いをするようにしていた。外来語由来の言い回しを、音々音はことに面白がるのだ。 「ふむふむ」  いまも、彼女はそれを書き留めている。一刀は頭をなでてやりたい衝動を堪えつつ、周辺知識を補ってやった。 「これの逆がハードランディング。急激に物事が変化することだ。望まない形でね。そう、鳥が撃たれて落ちてくるみたいに」 「それは勘弁ですね」  うへえ、という顔をするねねに、我慢しきれずに一刀はその帽子に包まれた頭をぽんぽんと軽く叩くようになでる。 「むう、子供扱いするなです」  されるほうの音々音は、そんな風に言いながら、けして手を払ったりはしない。 「ところで、国号はまだ決めてないのですか?」 「うーん、よくわかるね?」  不意にずばりと切り込まれて、一刀はびっくりした顔で彼女を見つめる。ふんと鼻をならして、音々音は胸を反らした。 「お前が最近困っているのは婚儀の衣装とそれくらいでしょうが。漢朝と敵対することは気にしないのに、なんでそっちにはすまなさそうにするのかよくわかりませんよ」 「あー……まあ、慣れとかそういう……?」 「もういっそ決めていることにして後で決めるのはどうです? どうせ皆に明らかにするのは婚姻後……さらに言えば登極の時ですし」  一刀の言葉をまるきり無視して、ねねはそんな提案をする。  余計な心配をかけないためにはそれもありか、と一刀は心の中で呟いた。  別に嘘を吐くというほどのことではない。実際、胸の中でいくつかには決めているのだ。あと一歩の後押しで、全て収まるところに収まることであろう。 「ああ……うん。それもありかな。やっぱりやきもきする?」 「……国の顔ですしね。とはいえ、なにに決めようと文句は出ませんよ。ひどい言葉でもない限り」  それからねねはぽんと手を叩いて彼に得意げに告げた。 「ああ、いっそ、天界語にしておくのはどうです? 神秘的ですよ」 「はは。それも面白いね」  その後、一刀とねねは別の話題に移り、忙しい日常の業務に忙殺されることになるのだが、考えてみれば、これがきっかけになったのではないかと、後々彼は考えるようになる。  そう、この後、数百年の後にも呼び続けられるその名は、まさにこの時、彼の中で選び取られたのであった。 「蓬莱」  月と詠が本来の名前で都に帰還し、とんでもない驚きで出迎えられたその日、一刀は大きな紙に黒々と書かれた文字を皆の前で広げて見せた。  その場にいたのは、華琳や雪蓮、月や詠といった十人足らずの人間に過ぎなかったが、これから後、彼は多くの者たちに、その名を告げて回ることになる。 「蓬莱……東の海にあるという、神仙の島の名ね」  寝椅子に寝そべった華琳が言うのに、一刀は嬉しそうに頷く。この面々ならば大丈夫だろうと思っていたが、初めて披露するのに由来から説明することになれば、なんだかつまらないことになりそうな気がしていたのだ。 「ああ、そうだ。そして、俺が昔いた国の雅号でもある」  ほうとか、ふうんとか感心の声が上がる。  その中で、旅装をまだ解いていない詠が首をひねった。 「二字国号はどうなのかしら?」  国号は、たいていの場合、地名から取られ、一字であることが普通である。伝説の夏、商、その後の周、秦、漢、魏、いずれも一字である。音の与える印象からしても、二字では長すぎないか、と彼女は心配していた。 「それくらい、一刀の好きにさせてあげたらいいんじゃないのー。どうせこの先一刀が好きに出来ることなんて、ほっとんどないんだから。決断ばっか求められてさー」 「それはそうですが、そういうやる気の殺げることを言うのもどうなのでしょう」  けらけらと楽しそうに言う雪蓮と、淡々と指摘する稟。なんだか、その様子がおかしくて、自分のことなのに、一刀は小さく笑ってしまう。 「大丈夫だってー。一刀だって、そんなのわかってるはずだもの。ねえ?」  雪蓮の問いかけに、彼は苦笑して肩をすくめるだけで答えない。ただ、こんなことを言った。 「みんながいればそれでいいのさ、俺は」 「みんな、ねぇ……」  誰もが、お手上げ、というようにくるりと目を回した。  いずれにせよ、彼の決定は支持され、この後、蓬莱の名は長く続くこととなるのであった。  4.婚儀  春の終わり、洛陽に現れたその美しさを、誰が描き切れようか。  その後、数十年、数百年の間、千年を超えても、幾十人もの文筆家が、絵師が、映像制作者が、その再現を目指し、けれど、決して到達し得なかったその祭礼を、ここで描き出すことは、とても出来ることではない。  ここでは、当時の様子を記した一官僚の日記から、その日のことを引用するのみである。 『都に五十の花は美しく、麗しく、雅やかに咲き乱れ、それを手折ることが許された、唯一人の男への嫉妬まじりの歓呼は天へと届かんばかりであった』  彼は、興奮も明らかな大きな文字で、そう記している。  5.逃亡  婚礼の夜。  誰が初めての閨に入るかで大もめに揉めることは予想されていたものの、それを平和裡に回避する手段を講じられるはずもなく、結局、皆が一刀と一緒に酒宴で酔いつぶれている頃。  密かに酒精を避けていた数人の花嫁が、その日のために作られた美しい純白の衣装でも、普段の着心地のいい服装でもなく、闇に溶け込むような黒装束で、城壁の脇を音も立てず進んでいた。  そのうちの三人は小型の輿のようなものを担いでいる。鋼鉄で鎧われたそれは、雅な乗り物というよりは、罪人の護送のための道具のように思えた。  おそらく、大きさからして、中に人が入ってるとしても随分窮屈であったろう。  一人が前に立ち、周囲を警戒しつつ進んでいる。その脚が、ぴたりと止まった。 「出てこい」  客星の照らす夜闇の中を、低く声は這う。その場にいるであろう者にしか聞こえぬ声を受け止める者は、果たしているのだろうか。 「行くのですね」 「行きますか」  だが、答える声はあった。それも、二つ。それは、発声者にとって、耳慣れた声であった。  いや、実に懐かしいと言っていい。 「稟に風か。我らを止めるつもりか?」  びゅうと空を切る音。それは、先頭の影が得物を振るった音だ。それに釣られたように、二つの人影が現れた。  人形のようなものを乗せた背の低い女性と、眼鏡を押し上げ、その表情を隠す女の姿。彼女たちは武器を構える相手の殺気など気にした風もなく、飄々と答えていた。 「まさか。常山の昇り龍に、名うての弓将二人、我らが止められるはずなどあるわけもなく」 「おい、ワタシを勘定から抜くな」 「あれ、でも他の人たちはいないんですねー」  影の一つから出る抗議には頓着せず、風は四つしかない人影に首を傾げる。彼女の頭の上に器用にひっかかったままの宝ャもまた首を傾げているように見えた。  答えはない。だが、その黙止こそが答えであった。 「ははあ。桃香さんたちは普通にお帰りになる、と?」 「ええ。これはあくまで、わたくしたちの暴走」  今度は風と稟が答えなかった。答えるまでもない。茶番であることは隠しようのないことであった。 「では、我らが夫君より伝言ですー。『きっと迎えに行く』と」  一瞬の静寂。 「わははははっ」 「ふふふ」  だが、すぐさま闇を切り裂く哄笑が走った。くすくすという笑いもそれに続く。ただし、影の内の半数は呆れかえった表情をその頭巾の奥で浮かべていたが。 「さすが! さすがよの! それでこそ我が夫!」  咆えるように言い放ち、彼女は目を輝かせて風たちを眺めやった。 「こちらからも伝言を頼めるか?」 「ええ、もちろん。皆さんもどぞどぞ」 「では、ワシからは、『戦地にてお会いしよう』と」  頭巾をはねあげ、牙を剥くような笑顔で、桔梗はそう言い放つ。その言葉を、風はいつになく真剣な顔で受け止めていた。 「そちらは?」  水を向ける稟。それに対して、 「伝言など無用です。あの方は、全てわかっておいででしょうから」  と艶然と微笑む口元だけを見せる紫苑。 「そうだな。花嫁に初夜に逃げられる間抜けとでも伝えておけ」  一方で、桔梗と同じく頭巾を脱いで、歯を剥いて言うのは焔耶。  ただ一人、龍牙を構える女だけは沈黙を保っていた。 「……稟よ」  輿が動き出し、風と稟の横を通り抜ける段になってはじめて、彼女は声を発した。 「はい?」 「我らが、いまここでお前たちを始末する、とは考えなかったのか」  闇の中でもぎらりと鈍い光を反射する槍を見せながら、低い声で彼女は問う。それに対する稟の答えは、空中を指さすことであった。 「この距離では気づきませんでしたか」 「……あの望楼か」  遙か彼方の城壁の上に設けられた望楼に、松明が見える。おそらくは、そこから狙っている者がいるのだろう。 「潜んでいるのは……。いや、聞かぬほうがいいか」  首を振り振り、彼女は通り過ぎる。そのまま歩きながら、彼女は振り返りもせず、こう言った。 「次に会うのは、戦場であろうな」  それに対する返事もまた、振り返らずに告げられる。 「お聞きにならなかったのですか? あなたたちの前に立つのは私たちではありません。あの方をお待ち下さい」 「ははっ。そうだな、ではな、稟、風!」  そう星が言葉を放つのを切っ掛けに、一気に駆け出す四人。あっという間にその姿は消え、そして、おそらく城壁をくぐり抜けて、洛陽を出た。 「おにーさんがはじめて、この地に降り立ったとき、助けたのは風たち三人」  じっとその場で立っていた風が、わずかに出てきた空気の流れに溶かすように呟く。 「我らにとっては、一刀殿を華琳様と邂逅させられたことは、最大の功績。しかしながら……」  稟の答えもまた、闇に溶けるように儚い。 「星ちゃんにとって、それは大功なのか大罪なのか」 「答えは、きっと、あの方が出してくれますよ」 「ですねー」  二人の問答は、夜の帳に包まれて、消えていく。  この夜、宮城より、その主の姿が消えた。  漢朝の帝は都を捨て、蜀に移ったのである。  三国時代の一角を成す、蜀漢の成立であった。      (玄朝秘史 第四部第八回『百花繚乱』終/第四部第九回に続く)