玄朝秘史  番外編『北郷一刀の求婚』後編  7. 「さー、がんばりましょーっ!」  のほほんとした、しかし、真剣な声が冬空の下にこだまする。離宮の窓からその声を聞きつけた一刀は一時書類を繰る手を休め、眼下の練兵場を見下ろした。  そこに見えるのは、兵たちを率いて走っている娘の姿。練兵自体はそう珍しい光景ではないが、その娘が分厚い鎧をつけているのは少々気にかかる。儀仗兵が儀礼用にしかつけないような、そんな鎧だというのに。 「あいつはなにをあんなに一生懸命なんだ?」  首をひねっていると、当の娘の母親が、ふんわりとした笑みを見せながら彼に答えてくれた。 「あー。鼎(かなえ)ちゃんはですねー。お菓子食べ過ぎちゃって気にしてるんですよー」 「お菓子食べ過ぎって……また書庫に入ったのか」  穏の言葉に、一刀は額を抑える。鼎は穏と一刀の娘で、その豊かな体と秀才ぶりは母親譲りのものであったが、もう一つ、彼女が受け継いでいるものがあった。  その特異な体質である。  しかしながら、鼎をはじめとした穏の娘たちは、母親のそれを、少々変わった形で受け継いでいた。書物を読むと発情するというはた迷惑な体質は、娘たちの場合、無性に甘いものが食べたくなるという形で発現している。菓子を調達するくらいはなんということもないので、随分と穏当なものになったといえよう。 「しかし、そう気にすることもないと思うがなあ……。痩せた太ったはあの年頃には気になるものとはいえ」 「ふふ、そこは、女の子ですからー」  含み笑いをする穏を、一刀は見つめる。そもそも、この母を持って、なにを心配することがあるのだろう、と彼などは思うのだ。  彼の妻たちのたいていは、美しい体型を維持している。結婚後に育ったような者たちを除けば、全員が全盛期の体型とそれほど変わらぬと言えるだろう。もちろん、そこには夫の欲目もあるのかもしれないが。  しかし、恐るべきは目の前にいる、陸伯言である。  なんと、この人物は、一切変わっていない、のである。  先に述べたように、皇妃たちは体型にも膚にも気を遣っているし、おそらくは大陸の中でも最高級の手入れを施している一群であろう。しかし、ここまでまるで変化がないというのは、類を見ない。  二十代そこそこで成長を止めたようなその様は、仙人か化け物かと世上を……。 「旦那さまぁ? なにかよからぬことをお考えではー?」 「い、いや? なんのことかな?」 「ほんとですかあ?」  身を乗り出してくる穏の姿に背筋に冷たいものが走るのを感じつつ、一刀はばさばさと書類をめくる。あまりあわてた風を装わないよう、なんとか体の動きを制御しても、声の詰まりまでは隠せなかった。 「う、うん。それより、ほら、猪々子たちの報告だけど……」 「あー。相変わらずお元気そうですねえ」  穏は小さな眼鏡を押し上げ、一刀の持つ報告書をのぞき見ながら、のほほんと応じた。  烏桓や鮮卑の住まう地域の果て、草原部族を生み出す高原地帯に入り込んだ猪々子、斗詩が率いる集団は、軍というよりは人群れというのが近い。  確かに屈強な兵士や既に帝国に編入された各部族の戦士たちもいるものの、その妻子、家畜、工人、商人等々、ありとあらゆる人々がそこには含まれている。いわば、彼女たちはごくごく小さな国を率いているに等しい。  そうして、ほうぼうに放った、新しい『国』が成長、発展し、帝国を広げていく。そんなことが可能かどうか確かめるために、彼女たちに任せてみているのだった。 「まあ、ああいうのが結構向いてるんだろうなあ……」  猪々子にせよ、斗詩にせよ、苦労はしているものの、報告の文面は明るい希望に満ちたものだ。ある意味、自由に解き放たれて好き勝手やるのが向いているのかもしれない、と一刀は思った。  おかげで、彼自身は妻としばらく会えていないわけではあるが、そこは帝として我慢しなければいけないことであろう。  そこまで思考を進めたところで、ふと彼はとあることを思い出して、小さくぷっと吹きだしていた。 「どうなさいましたー?」 「ああ、いや、昔の話をちょっとね……」  にこやかに微笑む彼は、興味深げに見つめてくる穏に向けて、昔語りを始めるのだった。 † 「これを外せと!?」  首元を守る様にしながら、麗羽は甲高い声を発する。彼女がその手で押さえているのは、黒革の首輪。自身が一刀の所有物だと主張する存在だ。 「代わりのものを用意するから」  それをつけさせたはずの男は、にこにこと笑顔を崩さぬままに告げる。その後ろには、首輪をつくった真桜の姿もある。彼女に外させようというのだろう。 「しか、しかし、代わりと仰いましても!」 「これ」  金の髪を振り立て抗議するように言う麗羽に、一刀は手を掲げてみせる。彼の指の合間に、彼女の髪と同じ黄金に輝くものが輝いていた。 「それは……?」 「俺の世界では、結婚する時に、左手の薬指にこういった指輪をはめるんだ。聖なる誓いの象徴として。麗羽には、これをもらってもらいたい。どうかな?」 「聖なる、誓い……」  一刀の言葉を、彼女は繰り返す。彼の後ろで話を聞いていた真桜が、くるりと背を向けて二人から視線を外した。 「もちろん、俺も麗羽にはめてもらうことになるけどな」  言いながら、彼は懐からもう一つ指輪を取り出して見せた。先程の指輪とよく似た、黄金の環。 「我が君も……」  麗羽は既に慣れ親しんだ黒革の首輪の上に指を滑らせ、そして、一刀の持つ二つの指輪を見つめてから、ふっと小さく微笑んだ。 「わかりましたわ」 「ありがとう」  そうして、真桜の手によって――なにやら細かい道具を色々と用意していて、あっという間に分解――首輪が外される。一刀が礼を言う前に、真桜はふんっと鼻を鳴らしてさっさと立ち去ってしまっていた。  あはは、と乾いた笑いを浮かべる一刀と、名残惜しげに首筋をなでる麗羽、二人が部屋に残され、互いを見つめる。 「どう、すればよろしいんですの?」 「まあ、儀式としては色々とあるんだけど、それは婚礼に回してもらって……」  ぽつぽつと訊ねる麗羽の手を、一刀はゆっくりと取る。  膚に皺一つ無い、白く、細い指。人はそれを見て、苦労知らずの手と言うかもしれない。代々の名声にのっかって、人をこき使ってきた手だと。  しかし、それを言うのならば一刀とて同じだ。  二十世紀に生まれた彼はもっと楽をしてきた。この時代ならばとっくに働いてしかるべき年まで、親がかりで生きてきたのだから。  代々重責を勤め上げ、人脈を築き、富を蓄えた名家と、他所の世界から転がり込んできたという物珍しさ。  どちらが尊いというのだろうか。  どちらも、自分で成したことではないという意味では同等に無意味だ。  しかし、虚名も力となり、先祖の名声もまた力となる。  それを生かすべく一刀はいるし、いまや麗羽もそうであろうと彼は信じている。  大事なのはいまと、そして、これから先だ。  ただし、この指が野良仕事で荒れ果てたりすることはないだろう。彼女には、それをやるよりもっと大事な役目があるのだから。  じっと彼女の手を見つめ感慨深げな一刀のことを、麗羽は不思議そうに見上げる。だから、左手の薬指に翼を象った精緻な彫刻の施された指輪がするりと通された時、直前まで気づかずに驚いてしまったほどだ。 「我が君……」 「ずっと一緒にいよう」 「ええ、……幾久しく」  麗羽は微笑んだ。  生まれた時から教え込まれたように、上品に、感情を出しすぎないように、柔らかく微笑んだ。そのつもりであった。  しかし、その笑みは、こらえきれない喜びをいっぱいに表現するような、顔中をくしゃくしゃにするような、そんな実におおらかな笑みであった。  涙で乱れたその笑みを、一刀は本当に美しいと、そう思った。  はっ、はっ。  左手に金の指輪を嵌めた男は、急ぎ足で宮城を出、町を駆け抜けて、洛陽の外へと滑り出した。 「ああっ、黄龍を連れてくればよかったのか!」  後悔するように言いながら、その足は止まらない。既にその目には、目指す二騎の姿が見えている。厩に戻るより、声をかけるほうが早かった。 「おおい! おぉーい!」  だが、相手がのんびりと進む並足とはいえ、馬と人である。まして、彼女たちは既に洛陽を出て、街道の先を見据えていたため、後ろに気づくのは随分と遅れた。 「んー? なんか聞こえたかー?」  短髪の女性が首をひねってようやく後ろを見た頃には、一刀は息を切らして大声をあげるのも辛くなっていた頃だった。 「アニキ!?」 「え? 一刀さん?」  二人は大慌てで馬を止め、街道の脇に寄った。男が足を緩めながら駆け寄ってきて、懸命に息を整えようとする。 「な、なにかあったんですか!」  鞍から下りて一刀の背中をさすってやる斗詩。猪々子のほうはのんびりと自分の荷物をさらって、水の入った竹筒を取り出していた。  それを放ってから、猪々子は馬を下りる。  一刀が貪るように水を飲み干すまで、二人はそこで待っていた。 「いやあ、ごめんね」 「いえ、それで……」  落ち着いたらしい彼に斗詩が訊ねると、男は額の汗を払ってから、笑顔を浮かべた。 「うん。麗羽に二人が南皮に行くって聞いてさ。その前に話しておきたいことがあるんだ」 「んー?」 「はい?」  一つ深呼吸して、一刀は直截に切り出した。 「二人とも、俺と結婚してくれないかな」  わずかな間落ちる沈黙。奇妙に張り詰めた空気を察してか、街道を行く者も、彼らには近づいてこようとはしなかった。 「け、け、結婚、ですか?」 「うん」 「結婚かー」  ぶるりと身を震わせる斗詩に対して、猪々子のほうは頭の後ろで手を組んで、不思議な言葉を聞いた、とでもいうように繰り返していた。 「うん、結婚。あれだぜ、猪々子。猪々子が俺と結婚して、斗詩も俺と結婚してくれれば、みんな家族になるぜ」 「お、それいいな。よし、あたいはのった。斗詩ぃ。斗詩もいいだろ?」  にやりと笑って見せる男に応じるように、猪々子もまたにかっと大きく笑みを見せて話を合わせた。  彼女としてみれば断るつもりも特になく、ただあまり現実味がなかったものが、愛しの斗詩と家族となれると聞いて、より身近になったといったところだったろう。 「え? う、えと、でも、その……」  一方、斗詩の方は見るからに狼狽えている。猪々子の言葉が耳に入っているのかいないのか、ぷるぷると小刻みに震えながら一刀の事を見つめるばかりだ。かわいらしい顔に決意と緊張をみなぎらせた彼女はごくりと喉を鳴らして、彼に訊ねかけた。 「け、結婚というとあれですよね。いずれは子供を……その、作ったり」 「うん。そうだね。二人にもぜひ子供を産んで欲しいと思ってるよ」 「いやー、アニキとの子供かー。照れるなー」  そんなことを言いながら頭をぽりぽり掻いている猪々子を他所に、斗詩はずい、と一刀に詰め寄っていく。 「か、家庭を作るんですよね、家庭」 「ああ、うん。まあ、俺の場合はちょっと……え? 斗詩?」  がっしと腕を掴まれる一刀。その力の強さに、彼は驚かずにはいられなかった。まして、そのまま引き寄せられ、まるで荷物のように彼女の馬の鞍に放り投げられるとは。 「わわっ」 「おいおい、乱暴だなあ、斗詩ってば」  慌てて馬体の上で体を固定する一刀の姿に苦笑いしながら、猪々子もよっと声をかけて馬にまたがる。この時の彼女は、斗詩は一刀を都まで送っていくつもりなのだろうと、暢気にも考えていた。 「か、家庭作りましょう。子供と、私と一刀さんとで!」  だが、事態は彼女の予想を超えている。 「おーい、斗詩。あたいはー? それに、姫とか……って、ちょ、ちょっと!」  ひらりと一刀の後ろに乗った斗詩は手綱を取り、馬の腹を蹴った。唐突に全力疾走を命じられた乗騎はもちろん、猪々子も一刀も考えてもみなかった行動であった。  呆然としながらも馬の首にしがみつく一刀と、目を血走らせる斗詩を乗せ、彼女の乗馬は必死で駆け出していた。なにしろ背に乗る主人が発する圧力が尋常ではない。  戦場でも稀なほどの気合いを向けられて、馬は猛るしかなかった。 「あ、あのな、斗詩。一体、どこに……」 「北です!」  そう言いながらも、彼女の操る手綱によって馬の脚は街道を外れ、北をまっすぐ目指している。南皮に向かうならば街道沿いに渡し場に行くのが定石であるというのに、斗詩はまるで直線的な経路を取ろうとしているかのようであった。しかも、一刀自身の方向感覚を信用するならば、微妙に南皮ともずれているように思う。この方角の先は、どこかよくわからない北の果てだ。  いずれにせよ、そのまま突き進めば、河水につっこんでしまうのが落ちである。 「そうだ。一刀さん、馬賊やりましょう、馬賊。なかなか実入りいいんですよ、ええ。一刀さんを養うくらい問題ありませんから!」 「あ、うん。あのさ、斗詩。ひとまず馬を止めてだな……」  どこか焦点を外した瞳で微笑む彼女の姿を振り向いて観察しつつ、彼は汗をかきながら、こう説得する他ない。 「おい、斗詩。止まれって、おい。おーい! ああ、もうっ!」  そして、慌てた様子で追いかけてくる猪々子に一縷の望みをかける一刀なのであった。  結局、舞い上がってしまった斗詩を猪々子と協力してなんとかなだめすかし、北の大地に連れ去られるのを回避して洛陽に戻るまで、ほぼ丸一日が必要であった。  もちろん、正気に戻った斗詩は平謝りであったし、時が経てば笑い話として語られることだ。 †  穏にそう語りながら、あの時、斗詩と一緒に行っていたら、それはそれで面白いことになっていたかもしれないな、と一刀は密かに考える。  だが、もちろんそれは一時楽しむための夢想でしかないのだ。  8.  冬が深まり、年の瀬や来年のことも意識に上り始める頃、皇帝一行は北上を開始した。  北郷一刀は、江水を渡り、淮水に至る肥沃な赤土の平野を通過する度思い出すことが一つある。  それは、いまから十年も前。彼が帝の地位についてから、丸七年が経った頃のことであった。 「どうだい?」  快速艇の中から外を眺めやる妻に、彼はようやくのように問いかけていた。艇に乗ってからずっと、二人は黙ったままであったのだから。  腰までかかるような長い金髪を振りながら彼女は顔を彼のほうに向けた。くるくると丸められた髪は、まるで溶けた黄金の如き色合いで、窓から差し込む光をきらきらと反射して、客室中を明るくしているように思えた。  何ごとか言おうとして、言葉にはならず、結局、彼女はそのすらりと伸びた足を組み替えて、一つ唾を飲み込んでから言葉を発した。 「不思議な気分じゃの。妾はほんにこの辺りを治めておったのじゃろうか」 「気づく人はいなかったな。ああ、いや、気づいてはいたけど……」 「うむ。皆、ただ、帝とその妃としてしか見ておらなんだ。妾がかつてこの地を治め、悪名を馳せていたなどと思う証しはなかった」  くすくすと、彼女は笑った。悔やむような、けれど、どこか痛快といった様子で。だが、その後で話し出した声は寂しげな色を帯びている。 「結局は、心にも残らぬほどの暗君じゃったということよの……」  彼女の名は袁公路。二つの袁家のうち河南の本流袁家を率いていた人物である。かつてこのあたりは彼女の、そして、累代の所領であった。 「美羽は積極的に悪政を布いた訳じゃないだろう?」 「うむ。じゃが、それは、そんなことを考えもせなんだからじゃ」  美羽は寂しげな微笑みを浮かべながら、そんなことを言う。 「妾は確かに無駄に民を虐めようとはせなんだ。じゃが、よい生活をさせようと思うこともなかった。庶人のことなど興味を寄せたこともなかったからの。向こうがこちらに興味を持たぬも道理というものじゃな」  美羽は一気に言った後、からからと愉快そうに笑った。 「結局、妾はなにもしておらなんだ。蜂蜜水を飲むこと以外にはの」 「いや、それは、でもさ……小さかったわけだし」 「ま、幼子よの。それに、七乃のやりようがちと極端じゃったのも間違いあるまいな。じゃが、それは言い訳にはなるまい?」 「……そうだな」  沈痛な表情で頷く一刀の事をじろりと見て、美羽はなぜか不機嫌そうに首を振る。 「なんじゃ、暗くなりおって。それでは、妾が存分に感傷に浸れぬではないか!」 「おいおい、自分で言うかね」  びっくりしたように一刀が言うと、美羽はぶんぶんと手を振り回す。昔ながらの仕草だが、なにしろ大きくなっているため、迫力がある。美しい衣装が揺れるのも一刀の目を惹いた。 「当たり前じゃ。妾はいまは仲の王としてしっかりやっておろ。昔を必要以上に悔いてどうなる。時折思い出す苦い思い出にしておくのがたしなみというものじゃ!」 「そ、そう」  理屈はよくわからないものの、彼女が極端に落ち込んでいるわけでもないと知って、一刀は柔らかな笑みを浮かべる。  過ぎ去った時を後悔してもしかたないというのは彼も同意であった。それよりも、いまとこれから先に出来る限り注力したほうがいい。 「ま、これで約束も果たしてもろうた」  そう、これは求婚の時、美羽が出した条件であった。美羽が軍師勢に混じった七乃にならって条件を付して求婚を受け入れると言った時はなにを要求されるかと思ったものだが、なんと、『落ち着いた頃に、妾の旧領に一緒に行って欲しい』という拍子抜けするような望みであった。  それはもちろん同道するが、別のことを望んでくれてもいいと言う一刀に、彼女はあくまで頑強にこの条件を提示したのだった。  その意味を、約束を果たしてからようやく彼は理解出来た気がした。  これは、彼女が一刀に従って統治者層に入る上で必要なことであったのだ、と。外を流れる風景を眺める彼女の顔を見つめながら、一刀はそう思うのだった。 「これからもよろしくの、主様」  そして、晴れ晴れとした笑顔で、美羽はそんな風に夫を呼ぶのだった。  後年に至るまで彼はこの出来事を思い出し、そして、誰にも語ることはなかった。  言葉にしてしまえば、支配者の覚悟だとか、人が過去を顧みる必要性だとか、実に陳腐なものに変じて、大事なことが傷ついてしまうような、そんな風に一刀は思い、彼もまた時折振り返る思い出として、そっと心の中にしまい込んでいるのだった。  洛陽に一刀が到着したのは年末も押し迫った十二月の下旬のことであった。  毎年のことであるが、長々とした歓迎の式典をさっさと抜けだし、妻たちに会いに行こうとする一刀。  その彼を引き留める声があった。 「あら、陛下ってば、どこへ行かれるのかしら。確かその先は後宮だと思うのだけれど?」  鋭い声に、彼はどこかが軋む音が聞こえてくるような動きで後ろを振り向いた。そこにいるのは、金の髪を垂らす美女だ。背は大きくならなかったものの、その色香はさらに花開いている。 「やあ、華琳」  会いたかった一人でもある華琳ににこやかに挨拶をすると、彼女は、はあ、と小さくため息を吐く。 「まったく、式典を抜けるのが得意ね、あなた」 「華琳もそうじゃないか?」  現にここにいるのだから、と指さすと、華琳はふんと鼻を鳴らしてみせる。 「私はもう隠居の身だもの」  なんだか狡い気もするが、反論できない一刀なのであった。 「それはともかく、霞が帰ってきているわよ」 「なに? 遠征軍が戻って来てたのか」  驚いた顔をする一刀に、本隊は長安にいるものの、霞を中心とした一部が戻って来ているのだと説明する華琳。報告を聞く前に式典を任せて出てきてしまった一刀は、呆れたような口調の彼女に申し訳なさそうな顔で返す。 「まずはそちらに会ってあげなさい」 「了解」  そう華琳に促され、一刀は城外に向かった。いつの間にか、護衛の兵が現れて周囲を守っている。  城外の遠征軍駐屯地に入ると、兵たちが集う賑やかな一角に突き当たった。中心にあつらえられた舞台ででは、芸人たちがそれぞれの芸を披露して、兵たちの無事の帰還を祝っていた。  しばし足を止め、彼はその様子を眺める。さすがにごく近くにいる部隊の一部は彼の存在に気づいていたが、帝自ら茶目っ気たっぷりにしーっと唇に指をあてられると、彼らも一つ笑ってそれ以上騒げなかった。 「さあ、それでは登場してもらいましょう。永遠の歌姫、天和!」  司会が張り切った声をあげると、待ちかねたように兵からも歓呼の声が放たれる。  しっとりとした雰囲気の美姫が壇上に現れる。ただ一人のその姿は、先程まで舞台を賑わせていた少女たちの集団の存在感をはるかに凌いでいた。 「ずっるいよねー。姉さん一人でこの地和さんが育て上げた連中のことなんか吹き飛ばしちゃうんだもん」  気づけば、彼の横には悔しそうな顔でそんなことを呟く女性の姿がある。男は唐突に現れたように見える妻のそんな様子に驚いた風もなく返した。 「そこは貫禄ってやつだろうな。なにしろ、二十年以上、歌い続けているんだ」 「まあね」  否定するでもなく頷いて、地和は夫と共に姉の歌を聴く。  なんでもないことを歌っているのに、普通の人間なら気づけないような深い感情をそれは掘り起こす。歌声と音律と詞の作り出す力であった。 「新曲だよな?」 「うん。ちぃ作詞、姉さん作曲」  こともなげに言う地和。聞いている兵たちが歓声をあげることも忘れて聞き惚れている人間賛歌を、彼女は作詞したというのに。 「そうか、すごいな」  戦場の興奮冷めやらず騒ぐのが常な凱旋兵たちが、しんと声もなく聞き入っている様子を眺め、一刀は漏らす。  歌姫たち三人はこの年月の間にそれぞれの道を見いだしていた。天和はあくまで歌い続け、老若男女に受け入れられる歌姫となり、地和は後進を育てつつ、姉に歌詞を提供するようになり、人和は彼女たちを含めたこの国の芸ごと全般を取り仕切るようになった。  凱旋公演の総責任者として、人和もこの会場のどこかにいるはずだった。 「西はどうだった?」 「楽しかったわよ?」  遠征軍とは別の経路で西方へ公演に赴いていた地和の返事に、一刀は苦笑する。しかし、考えてみれば彼女にふさわしい答えかもしれない。  彼女たちは、常に楽しみつつ活動してきたのだから。 † 「え? もう都を出る? 予定と違わないか」  三姉妹に呼び出された後、一刀は人和の切り出した話に驚きの声をあげた。そもそも、今日呼ばれたのは、彼女たちの名前、即ち、張角、張宝、張梁という名を元に戻すという一刀の提案についての返答だとばかり思っていたのだが、それを問うより前に彼女たちが明日にも都を発つという話で度肝を抜かれてしまった。 「少し公演の予定を変えたの。内容もね」 「なにかあったの?」  訊ねる一刀に三人は顔を見合わせ、悪戯でも計画しているかのような表情を浮かべた。それは、男としての目で見れば実に魅惑的なものであったが、他の面からすると、とても不安になるようなものでもあった。 「あのね、私たちは一刀を応援してるの」 「え?」  いきなりの話題転換とも思える天和の言葉に、一刀は間抜けな声をあげる。 「ちぃたちは華琳様に生かしてもらって、一刀のお陰でここまでやってこられた。その二人が新しい国を開くっていうんだから、応援しないわけがないよ。違う?」 「あ、ああ、それはありがたいし、嬉しいけど……」 「だから、内容を変えたの。私たちが一刀さんを支持しているってわかるように」  人和が言うのにようやく一刀の理解が及び始める。 「おい。まさか、各地で煽るような……」 「そーんな短絡的なことするわけないでしょ。ただ、ちぃたち三人が北郷一刀という人間を信頼しているってわかればいいのよ。それで一刀を知らない人が一刀を知るきっかけになって、そのうちの一部でも一刀を信じてくれたら目論見通りってわけ」 「直に新皇帝をもちあげるようなことやったら、かえって敵を増やしかねないもの」  男の心配を、地和と人和が否定する。彼女たちはほっとする一刀をにやにやと見ていた。 「それに、昔みたいなのはもうこりごりだよー」 「そう。私たちはもう再び黄巾の首領になるつもりはない」 「え、それ……」  普通の会話と聞き逃しかけ、男はその意味に気づいて顔をあげた。真剣に彼を見つめ返す三姉妹の瞳に、その考えが間違っていないことを、彼は悟る。 「ちぃたちは名前を戻す必要はないよ。その代わり」 「新しい名前、考えて欲しいな。それを、一刀からの結婚の贈りものにして?」  ごくり、と一刀の喉がなる。彼が何か問いかける前に、照れくさそうに、人和が口を挟んだ。 「ま、そういうことよ。婚礼までには戻るから、その時までに考えておいてくれると嬉しい」  一刀は人和を見、地和を見、天和を見た。三人の顔には、彼への信頼という感情しか浮かんでいない。  そして、彼はゆっくりと頷くのだった。 「うん。わかった。待っているよ」 「そうそう。一刀はそうやって送り出してくれればいいの」 「私たちが舞台に繰り出すとき、いつもそこには一刀が居るから。背を押してくれているから」  だから、今日も送り出してほしい、と彼女たちは望む。いつでもそこで、彼が待っていてくれると信じているから、と。 「ああ、わかった」  一刀はぎゅっと目を瞑り、うれしさに破顔しそうになる顔を引き締めて、言い放つ。 「いってこい!」 「いってきます!」  三人の返事は、打てば響くようであった。 † 「二年半……ぶりか」 「せや、久しぶりやな」  霞を見つけた一刀は、低い声でそんな風に声をかけた。霞の方は明るい声で笑いかけ、すぐに彼に抱きつきに飛び込んで来た。  抱きつかれた勢いでぐるぐると回されて目を回す一刀。霞はぱんぱんと手を打ってよろよろとする彼の様子に笑い転げる。  そんなはしゃぎようを呆れた顔で見ているのは、霞によく似た少年と少女。彼女の双子の子供たちだ。 「大きくなったな、雷(らい)、雹(ひょう)。初陣、よくやった」  霞に振り回されるのをなんとか脱して、彼は息子と娘に声をかける。父の称賛に二人は胸を張って頷くばかりであった。 「さて、良い酒があるんだが」 「お、わかっとるやないか。行こ行こ」  誘いかけると、霞は彼の腕を取り、さっさと進もうとする。一刀は動こうとしない子供たちを見て、小首を傾げた。 「雷と雹は来ないのか?」 「どうぞ、水入らずで」 「莫迦、余計な気を回すな」  雷の言葉に笑って言うものの、母親は遠慮とは思わなかったようで、一刀を指さすようにして叱責する。 「あかんで、一刀。子供には子供の都合っちゅうもんがあるもんや。しかも、もうすぐ数えで十五になるんやで、好きにさせたり」 「む、そうか……。すまんな。まあ、疲れが取れたらまた話そう」 「じゃ、適当にしたりー」  小さく頭をさげる一刀に、ひらひらと手を振る霞。二人がぎゃーぎゃー騒ぎながら消えていくのを、二人は微妙な表情で見送っていた。 「相変わらずやな、あん人ら」  すっかりその姿が消えたところで、少女――雹が呆れたような、けれどどこか嬉しげな声を出す。弟である雷は、ふんと一つ鼻を鳴らしてそれに答えた。 「いつものことやろ。さ、いこいこ。いちゃついてるとこまで見せられたらかなわんわ」 「はは、まったくや」  二人はそのままそれぞれの愛馬を見つけると駐屯地を出て、思うさま馬を走らせた。軍の都合ではなく、ただ自分の好きなように、そして馬が望むように走らせるのは、彼らにとって実に楽しい娯楽であった。  二人はしばらく洛陽周辺を走っていたが、そろそろ城内に戻る段になり、洛陽のすぐ北にあるこんもりとした森に立ち寄った。  そこは皇族専用の御狩場であり、馬たちに食べさせる下生えや、小腹を満たすのにちょうどいい木の実がよく生い茂っていて、一刀の子供たちにとってはおなじみの遊び場であった。 「なあ、知っとるか、こん森がうちら以外立ち入り禁止の理由」  馬の手綱を引き引き、雹はそんなことを言い出す。雷も同じように馬を引き連れて森の木々の合間を抜けながら、不思議そうな声を出した。 「ん? お父はんの狩り場やからやろ?」  狩りは様々な意味を持つ。ある人々にとっては生活の糧を手に入れる手段であり、時には軍事行為の演習として使われ、そして、王や帝がそれをする場合、神秘的な意味合いをもった行いとなる。  つまり、この森を維持するのは儀礼的な意味でも必要なことなのであった。  また、森を保護することで、この地域の清らかな水源を確保することも出来る。それは、砂漠化という脅威を知っている一刀にとっては非常に実用的な政策でもあった。  けして、子供たちを遊ばせておくためだけのものではない。それは、当の子供たちも――雷や雹のように年長の者たちは――理解していることであった。  だが、雹は弟の素直な疑問に、にやりと意味深な表情を見せる。 「それもあるけどな、それだけやないんやて」 「なに?」  疑問を示す雷に、雹はついてこいと示すばかりであった。 「ああ、ここやここ」  雹は森の中の開けた場所に出ると、ようやく手を広げて示して見せた。 「ここが、なに?」  そこは、森を縦断する小川が広がり、淵となって溜まっている場所であった。馬たちをつなぎ、水を飲ませるのにちょうどいい場所であり、実際、子供たちの憩いの場所でもあった。 「ここな、お母はんとお父はんが結婚の約束したところなんやて」 「は?」  岩場に並びながら、姉弟は話を続ける。雹は、小川の周りの岩場を一つ一つ指さしていった。 「この岩場の全部に、一つずつ灯火を……それこそ何百本。所狭しと置いてな。月の夜にお母はん呼んで、酒盛りしながら、『一生、共に旅をしよう』って言うたんやて」 「うわー……」  まだ夕暮れにもならない岩場であったが、雷の目には、暗闇に灯る幾百の光が幻視された。  それを懸命に用意する父の姿、その美しさに大げさに感動する母の顔もまた、彼の脳裏には浮かんでいる。  空に輝く月と、地に灯る光。水音聞こえる夜のこの場所で見れば幻想的で美しい光景ではあろうが、己が父母のこととなると――十代前半の少年には――膚をかきむしりたくなるような一場面でもあった。 「しかもな、それ、二人が恋人になる時にやった事を、もう一度、さらに派手にやったんやって」 「っかー、お父はん、さすがやなー。しかも、その思い出の場所を禁足地にするとか」  二人はしばし黙る。おそらくは、同じ光景を想像していると、お互いにわかっていた。 「すごいなあ」 「すごいわ。いろいろと」  そして、顔を見合わせて、二人はぷっと吹き出す。 「あんたもそれくらい真顔でできんと女にもてへんよ?」 「あんなにもてたい思わんわ。どんだけ義母上いる思てんの」 「まあなー。帝にでもならん限り、あそこまで後宮大きゅうせんわなあ」 「いや、お父はんは地や、地」 「あー、そうかもなー」  二人はそんなことを言い合いながら、腰をあげ、その場所を立ち去るのだった。  くすぐったい気持ちと、温かな気持ちを同時に抱えながら。  9.  重なり合った唇が離れる。  ぽうと上気した顔で、沙和は男の事を見上げた。 「隊長、今日は泊まっていけるの?」 「うん、それは……まあ」  彼女にとっては出来うる限り艶めいた誘いであったが、男の方は何か歯切れが悪い。つい先程、自分の妻になってくれと申し出た男にしては煮え切らない態度であった。 「なに? 忙しいなら、沙和、無理言わないの」 「そうじゃないんだが……」  そこで少し考え、一刀は意を決したように切り出す。 「あのさ、沙和、俺を助けてくれないか?」 「へ? なになに?」 「いや、その……」  そこで彼が語った話は、沙和にとっても耳を疑うようなものであった。 「凪ちゃんが求婚を受けてくれない?」 「うん……」 「でもでも、凪ちゃんは隊長のこと、大好きだよ? そりゃあ、みんなそうかもしれないけど、凪ちゃんくらい素直に好き好きーって雰囲気出してる子はそうそういないのに、どうして?」  親友の予想外の行動に、沙和は他の女の話を持ち出した男に怒るのも忘れて、本気で不思議がっていた。凪にせよ真桜にせよ、そして、沙和自身、一刀の求婚を受けないわけがないとどこかで思っていたのだが、一体何が起きたというのだろう。  もちろん、当の一刀にもそれはわからないようであった。 「わからん。わからないから、こうして沙和を頼ってるんだ。本来なら、俺が考えるべきなんだろうけど、どうしても……」  弱ったと、頭を抱える一刀に、沙和はうーんと頭をひねる。さすがにこれは一刀に同情してしまう事態であろう。 「えーと、もしかして、凪ちゃんが隊長のこと好きってのを過信して、いい雰囲気作ったりせずに告白した? なんていうか、こいつなら結婚して当たり前だろ、みたいな……」 「いやいや、まさか。凪に限ってそれはないよ。お互いの照れくささもあってそうやって接した方がいい子もいるのはわかってるけど……」 「むむー」  彼の態度に、隠しているような様子はない。一刀は失敗したことを糊塗するような人間ではないし、まして、凪をないがしろにするようなことはないだろう。たとえそれが信頼からの行為だったとしても、間違っていればすぐわかるはずだ。  それが、こうして悩んでいるということは、別の理由なのだ。 「じゃあ、凪ちゃん、なんて言って断ったの?」  沙和は状況の説明を求める。一刀は顔をあげ、正確に思い出そうとするかのようにどこかあらぬ場所を見ながら話し始める。 「断ったっていうんじゃないんだけど……。凪曰く、『私が、いえ、皆が聞きたい事を、隊長はまともに説明してくれたことがありません。まず、そこからです』って」 「みんなが?」 「うん、皆が聞きたいってなんだろうな」 「みんな……。凪ちゃんの言うみんなは、たぶん、沙和と真桜ちゃん……だけじゃなくて、もう少し広くて、魏のみんなかな? そうなると……」  ぶつぶつと呟く沙和。彼女はしばらくそうして考え込んでいたが、不意にその顔に理解の色が広がった。 「ああ……なんだ」  そばかすの散ったその顔が、ぎゅっとしかめられる。 「それは、隊長が悪いの」 「ええっ!?」 「あのね、隊長が真面目なのはわかるよ。それに、沙和たちに嘘を吐きたくないってのも。でも、たとえ本当にならなくたって、その時、気持ちをしっかり表さなきゃいけないことって、あるよ?」 「い、いや、沙和? 一体何を?」  怒ったように言う沙和の姿に、一刀は狼狽える。沙和はその姿をじっと見て、一刀に理解の兆候がないことを悟った。 「はぁ……」  一つため息を吐き、んー、と額に指をあて考える。結局、眼鏡を押し上げて直したあと、思い切り深呼吸をする沙和。 「隊長!」 「はい!」  びりびりと部屋中の空気を震わせる大声、それも厳しい練兵の時の声で言われ、一刀はぴんと背筋を伸ばした。沙和は彼の顔の前でぴっぴと指を振る。 「いますぐ、凪ちゃんのところまで駆けあーし! はじめ!」 「え? え?」 「尻、蹴っ飛ばされないと動けないのか、この愚図がーっ!」  すっかり鬼軍曹状態に入った沙和が本気で蹴りかかるような格好になったところで、わけもわからず一刀はその場で大きく腿をあげ、駆け足を始める。 「さっさと走れ、走れ、走れーっ!!」  ばんと扉を開けられ、闇の中へ進むよう示される。彼は怒鳴る沙和の顔を見つめ、沙和はそんな彼を睨みつけて、さらに声を張り上げた。 「沙和の言葉が理解出来ないなら、理解できるまで王宮をぐるぐる走るのーっ! わかったかーっ!」 「さー、いえっさー!」  あまりの彼女の剣幕に走り出す一刀。その背中に、さらに沙和の声がかかった。 「最後に、頭の回らない隊長に贈りものをしてやるのー!」  そして、小さく、ため息のようにぽつりと。 「沙和たちはね、ずっと待ってたんだよ」  その言葉をたしかに聞き、走り続ける一刀はようやく呟くのだった。 「……そういうこと、か……」  と。 「凪!」 「は、はいっ!?」  凪の部屋にまさしく飛び込むように駆け込んで、彼は凪の名を呼んだ。もう寝るところだったのだろう。簡素な格好に着替えていた凪は驚きに目を見張って、しかし、彼の勢いに思わず返事をしている。  その彼女に、彼ははっきりと叫んだ。 「俺はもう二度と消えない! 約束する!」  驚いたような顔が凍りつき、そして、泣きそうな表情になった後、彼女は懸命に微笑んだ。 「……はい」  その後、彼は知りうる限りの外史の話をし、自分がなぜ消えたかの推測と、二度と消えないであろうことの根拠を説明し、無事、凪からも結婚の約束を取り付けるのだが、それはあえて語る必要もないことであろう。 †  例年の予定をかなり早め、年が明けてすぐ、一刀は長安に移った。  西方遠征軍を皇帝自ら出迎えるという政治的理由が大きかったが、実はもう一つ個人的な理由もあった。  だが、その個人的な理由を果たすはずのその日、皇帝陛下は実に不安そうな顔つきであった。 「あれー、どうしたの、そんな辛気くさい顔して」  彼を見つけた蒲公英が、そう声をかけるくらいに。 「いやー、紫苑を呼んだんだけど、来てくれなくて……」 「紫苑? なにか用事だったの?」  結婚後数年で従姉と同じほどの背丈に成長した蒲公英はいまでは翠と姉妹だと言われてもおかしくない姿をしている。  彼女は一刀の言葉にいぶかしげに首をひねった。紫苑は漢中か成都にいるのが常で、長安に来る事もあるものの、この時期にこちらにいる事はあまりない。  わざわざ呼び出すようなことがあったろうか、と彼女は頭の中にある政治的案件をさらったが、思い当たるものは出てこなかった。 「んー、まあ、極々個人的な事なんだけど……」  肩を落としつつ、彼は説明する。長々とした説明であったが、実は中身はそれほどなかった。 「まったく、一刀兄様ってば、考えすぎだよ。紫苑だって好きにやれって言うよ、そりゃ」  最後まで聞き終えた蒲公英は呆れたように言う。あまりに呆れかえっていたのか、自然に昔の呼び名で彼を呼んでいた。 「そうかなあ?」 「そうだよ。たんぽぽたちを口説き落としたときの事、忘れた? それなら思い出させてあげるよ?」  にひひ、と悪戯っぽい笑いを浮かべながら、蒲公英はそうして彼に十八年前の話を始めるのだった。 †  それは、正月の草原を、三人で駆けていた時の事だ。  黄龍に乗る一刀。紫燕を駆る翠。麒麟にまたがる蒲公英。  彼らは洛陽を離れ、無心に馬を走らせていた。  夕暮れの空に一番星と月が光り始めるのを見て、一刀はふと黄龍が進むのを止めた。 「どうした、一刀殿」  行き過ぎてしまった翠と蒲公英が彼の所に戻ってくる。男は腕をあげ、空に白く浮かび上がる月を指さした。 「月?」 「ん、あれを見て、少し、俺の世界のことを思い出してた」 「なになに?」  興味津々といった様子で馬の背から身を乗り出してくる蒲公英とそれを危ないと注意する翠の姿に苦笑しながら、一刀は話を始める。 「ああ、『月が綺麗ですね』って言葉なんだけどね」  それのなにがおかしいのだろう、という表情で見てくる二人に、彼はどう説明すべきか迷うように少し考え、結局長く息を吸って本格的に話を始めた。 「俺の国には、もともと恋愛ごととしての『あなたを愛している』っていう言葉遣いはなくてさ」 「は?」 「愛おしいという言葉はあっても、それは、相手が可愛いと思う、可愛がりたいと思う心を伝えるもので、なんていうかな、真っ直ぐに女性が男性を、男性が女性を愛してるっていう意味は薄かったんだよ。どちらかといえば、親が子に向ける愛情に使われていたんだ」 「へー。それって不便じゃない?」  唐突な話題が、最初の言葉の説明のためのものだとようやく気づいた二人は、彼の言葉に耳を傾け、馴染みのない世界の話に顔をしかめる。 「まあ、文化の問題だからね。直接的に言わないで伝える方法はいくらもあったんだよ」  たとえば歌に託してみたり、目線や服装で知らせたり。いっそ夜這うことで意思を示すこともあったろう。一刀にしてもそれらは知識の世界でしかない。他人に教えるには、あまりに頼りない感覚であった。  しかし、なんとかして、彼は言葉を紡ぐ。 「でも、時代が変わって、遠くの国の文化も入ってきて、色々と変わる中で、直接的な表現も同様に入ってきた」 「ふむふむ」 「その時代に、『私はあなたを愛している』という言葉を、俺の国の言葉に導入しようとした人たちが幾人かいてね」  再び、彼は月を指さす。二人の視線が空と彼を同時に見るような広いものになる。 「ある人は、『月が綺麗ですね』としたし、ある人は『世界中が敵に回っても、自分はあなたの味方だ』と言った。そして、ある人は、『あなたのためなら死んでもいい』って言葉に代えた」 「へえ……綺麗だね」 「なんだか……素敵だな」  蒲公英が感心したように言い、翠が照れくさそうに、しかし、なにかに憧れるような顔つきで頷いた。  一刀はそんな二人を優しく見つめて、決然と言う。 「俺ならこう言うね」 「え?」 「翠、蒲公英」  戸惑う二人の名を呼び、そして、天を指していた腕を、目の前に広がる草原に向ける。 「二人と、どこまでも草原を走りたい」  息を呑む二人を前に、彼は黄龍の馬体をゆっくりとなでる。その膚の下でうねる筋肉は彼の命を待ちわびているようであった。 「行くかい?」  手綱を握り、片目を瞑って問いかける。もちろん、二人の返事は決まっていた。 「うん、一刀殿!」 「当ったり前だよ!」  そして、三人は、どこまでも、どこまでも走り続けた。 † 「思い出した?」  その時の彼がいかに気障で、しかし、いかに格好よかったか、情緒たっぷりに語ってみせる妻の姿になんとも言えない表情になりながら、彼はしっかりと頷いた。 「わかった?」 「うん、そうだな」  先程までの不安げな顔はどこにやら、その顔には自信と決意が満ち始めている。 「はっきり言うしかないよな」  そう言う頃には、もはや、彼は、誰よりも凛々しい彼にすっかり戻っている。そんな一刀に、蒲公英はにやにや笑いをこらえきれなかった。 「そーそー。紫苑の許しも必要ないし、回りくどい策も必要ないんだよ。一刀兄様が思う愛の言葉を伝えればいいだけ」  あ、でも、と蒲公英は思い出したように言う。 「遅くなった、っていうのは、ちゃんと言うんだよ」 「うん。ありがとう、蒲公英」  彼女の言葉に背を押され、一刀は歩き始める。  黄敍……いや、いまは漢の劉姓を継いで劉敍となった女性に求婚するために。      (玄朝秘史 番外編『北郷一刀の求婚』 終)