玄朝秘史  番外編『北郷一刀の求婚』中編  4.  太和三年、十月。  冬に入ったばかりのこの日、皇帝御座艦『朱雀』は美しい流線型の船体で江水の川面を切り裂きながら建業へ向けてひた走っていた。 「いやあ、早いな、これは」  流れゆく沿岸の風景を眺めながら、一刀は感嘆の言葉を漏らす。吹き過ぎゆく空気が彼の髪を揺らしていた。 「せやろ? まあ、青龍とちごて水陸両用とはいかんけどな」  一刀の横で自慢げに胸を張るのはただでさえ大きな胸を持つこの艦の設計者、真桜だ。昔のように膚を露出させてはいないものの、往年の体つきを維持し続けているのは流石であった。  ただし、昔のような子供っぽい顔つきはさすがになく、年相応の落ち着いた面立ちをしている。その中で、瞳だけが悪戯っ子のように輝いているのが印象的であった。 「あっちは大きさも違うもんな」 「せやなー。でも、いくらなんでも三台目は大きくしすぎたわ」 「ああ、あれはなー……」  そんなことを話しながら、二人の意識は、その青龍を頼みに彼が真桜のもとを訪れた時へと戻っていく。 † 「これを作って欲しいんだ」  大まかに書き上げた図面と要求仕様を手渡し、一刀は拝むようにしてそう申し出た。 「なんや?……って、えぇ? たいちょ、本気?」  ざっと図面を眺め、仕様書を読み終えた真桜が何度か彼と手元の紙との間で視線を往復させる。 「ああ、本気だ」 「……どんくらいで?」  しっかりと頷く一刀に、おずおずと彼女は問いかける。 「出来れば半年。なんとか今年のうちには押し込んで欲しい」 「……威圧効果も考えると、ちっこくはできひんのよね?」 「そうだな」  彼の返答に、真桜はがしがしと頭をかく。呆れたように片眼を瞑り、もう一度図面を眺める。 「あー、ったく、素人はこれやから……」  筆をとり、一刀が書いた概略図に、ざっざと修正の線を入れていく真桜。 「ここもあかん。こんなんできるわけあらへん。こっちはこう持ってきて、土台を大幅に大きくすればいけるかもしれんな……っと」  いくつか修正を重ねたところで、彼女はしげしげと図面を見やり、はあ、とため息を吐いた。 「この図面、使わんで、こっちの仕様に合わせてええか?」 「う……。使えないか?」 「無理やな」  あっさりと言い切り、彼女は図面を畳んでしまった。代わりに仕様書に墨を入れていく。 「それと、一台目は潰すん前提で作らんとだめやろ。色々と試してみて、本格的に作る二台目に還元するしかないわ」  一刀は真剣に考え込んでいる様子の真桜の様子に一つ唸って、頷く。 「そうか……。うん、そうだな。真桜がやりやすいようにするのが一番だと思う。でも、さすがに、一度や二度は使えないと困るぜ。しかも、安全にだ」 「そこは大丈夫やて。普通に使う分には困らんようしとくつもりや。……だいたい、戦地に突っ込んだら、なんにしても危険やで」  男は女の顔を見る。丸っこい、ともすれば幼いとも見えてしまうその人物が、大陸でも類を見ない大天才であると、誰が思うだろう。  だが、彼はそれを知っていたし、なによりも、そんなこととは関係なく、彼は彼女を信頼しているのだった。 「よし。頼む」 「よっしゃ。やったるわ」  男の心情を理解したか、あるいは最初からそんなものは彼女にとって当然のことなのか。短く言い切られて、かえって勢いをつけて真桜は承諾した。 「そん代わり、予算はたーっぷりもらうで。時間を考えたら人手も必要や。それでもええな?」 「ああ、なんでも言ってくれ。俺が責任を持って手配する」  どんと胸を叩いてみせる一刀の姿に、ほくほく顔で真桜は仕様書を読み直す。それから、彼女は目を細め、笑みをたたえたまま続けた。 「李曼成、一世一代の大仕事やなあ。……って、まあ、これからずっと一世一代の仕事が続くんやろな。ちゃう?」 「違わないよ、真桜」  首を振り振り、一刀は真桜の言葉を肯定する。その声が凛とした響きを帯びたものになっていた。 「俺は……いや、俺たちは一世一代の大勝負を、何度も繰り返していかないといけないだろう。それには、真桜、お前の力が要る」  こん人の声は、どうして、こうも不思議なんやろか。  彼女は思う。  雑踏の中を警邏している時、彼女は彼の声を聞き逃したことがない。ふざけて聞こえないふりをすることはあっても、彼が本気で言う言葉を、聞きそびれることはけしてない。  戦場で、他の武将たちに比べれば素っ気ないと思えるほどまっすぐな鼓舞を、兵たちはけして無視することはない。  声量だけならば、真桜自身や沙和のほうが、いや、季衣や流琉のほうが上だろう。それはたとえば華琳や春蘭にも言えること。  それでも、町中で、戦場で、王宮で、『通る』声は、華琳や春蘭のほうであり、目の前の男のそれである。  それが彼女には不思議でならない。  けれど。きっと。だからこそ。  彼女はこの声に魅了されてやまないのだ。 「……あっかんなあ」  しばし表情を殺していた真桜の顔がにかっと笑み崩れる。 「それをたいちょに言われたら、うちはもうあかんわ」  からからと大きな笑い声をたててから、彼女は呆れたように、諦めたように、告げた。 「ええで。どこまでもついてったるわ。うちから離れられる思たらあかんで?」  そう、実に嬉しそうな笑みをその顔に刻みながら。 「望むところさ」 † 「なんていうか、色々と、苦労をかけるな」 「ははっ」  朱雀の甲板を見渡しながら言う一刀に、思わずといった調子で彼女は笑う。 「ほんまに楽したかったら、邑で籠編みながら過ごしとるっちゅうの。華琳様にお仕えした時から、たいちょの部下になった時から、うちは楽な生き方なんぞ望んでないわ」  肩をすくめて見せた後で、彼女は大きく手を広げる。 「それに、こうして、腕を振るう場所をもろてるしな」 「そうか」  真剣な顔で頷いて、彼は、しかし、にやりと意地の悪い表情を浮かべた。 「それで、この朱雀、量産はいつになる?」 「まった、こん人は無茶言うてー……」  やれやれと言いたげに天を仰ぎ、視線を忙しなく動かした後で、彼女は姿勢を戻した。 「三年、やな」 「よし。頼んだ」  自信ありげに言い切った真桜に、一刀は満幅の信頼を込めた声をかけていた。  建業の港には、帝を出迎える――あるいは単に物見高い――民たちが多く集まっていた。もちろん、警備の関係もあって実際に船を寄せる場所に近づけるのはごく一部の人間に限られ、一般の人間はかなり遠方からの見物となるのだが、それでも人々は帝の姿を一目見ようと朝から待っているのであった。  余分な部分をすべてそぎ落としたかのようなすらりと美しい朱雀の船影が現れると、それだけで民たちはどよめいた。彼ら水辺に暮らす者たちでも見たことがないほど、その船は美しく、風を切るというよりは、風の合間を滑っているように見えた。まるで、鋭い刃のように。  船が着き、橋が架かると、その前に歩み出る人影が二つ。 「一刀ーっ」  そのうちの一つがぶんぶんと大きく手を振り、豊満な胸が大きく揺れる。ただでさえ女性にしては大柄な上に出るところは出て引き締まるところは引き締まっている派手な体つきであるから、少し離れた場所にいる兵のうち男性陣にとっては実に目の毒であったろう。  もちろん、帝を出迎える兵たちのうちに、皇妃にやましい気持ちを抱く者などいるはずもないのだが。 「やあ、シャオ。それに白蓮まで」  船を下りてきた男が、二人に声をかける。そこにいるのは、彼の妻たちのうち二人、つまりは孫家の末娘小蓮と、幽国の王、白蓮であった。  昔に比べると顔つきから少々丸みが取れた程度の白蓮はともかく、小蓮は凄まじい変化であった。背は一刀と同等、つまりは姉である雪蓮と並ぶほどとなり、その体型はさらに華やかなものとなっている。  祭や冥琳をして、文台さまの血を最も濃く受け継いだのは小蓮さまであったか、と言わしめるにふさわしい姿であった。 「一刀ーっ」 「や」  体は大きくなっても小蓮のすることは変わらず、下りてきた一刀に飛びついて歓迎の意を表明する。一方の白蓮は軽く片手をあげて、爽やかに笑みを見せた。  小蓮のほうも、飛びつくまではしても、以前のようにそのまま彼に抱かれていたりすることは出来ない。すぐに彼の横につく形になった。  三人は甲板から顔を出した真桜に手を振ってから、並んで歩き出す。 「早かったな、白蓮」 「ああ、交易の件で、呉に話を通そうと思ってな。まあ、冬も来るし、早めに出ておかないと」 「大変だよね、北は」  同情するように言う小蓮に、白蓮は小さく笑って返す。 「もっと北だと港が凍りつくらしいぞ。そうなったら大変どころじゃないけどな」 「あ、海はともかくさ、川とか凍ったら、その上渡って来られないかな?」 「厚さによっては無理じゃないだろうが、荷を運ぶのは難しいだろうな。氷が割れる」 「そうかー」  二人は一刀を挟み、本気なのかどうなのかよくわからない会話を続けている。男はそのことに奇妙なほどに幸せな気持ちを感じていた。  彼女たちがいること、そして、自分がそこにいること、そのものに。  5.  骨と肉を叩く見事な音がして、男の体がふっとんだ。  十歩ほどの距離、宙を飛び、地面に落ちてからもごろごろと五回転。これまでの打撃もあって、すっかり泥まみれ、痣まみれの彼は、その場で半身は起こすことは出来たものの、そのまま崩れ落ちるかと思われた。  だが、彼はそれでも手放していなかった木剣を支えに、立ち上がろうとする。二度、三度ずるりと手を滑らせて、一度など顔から地面に突っ込みながら、彼はその動作をやめようとしない。  たとえ思うように体を動かせなくなっていようとも、その目は死んでいなかった。 「ははっ」  彼を吹き飛ばした隻眼の女はその姿を見て、笑い声をあげる。  侮りではない。貶めるものでもない。  それは、世にも名高い猛将の、会心の笑みであった。 「さすがは北郷。あっぱれな気概よ!」  びりびりと練兵場の空気が震えた。それに呼応するように、彼女の握る木剣が小刻みに動き始める。まるで、そこに流れ込んだ力に耐えられないとでもいうように。  それを見て、それまでずっと黙って仕合の成り行きを見守っていた女がすうと彼女の背後に近づいた。 「やめろ、姉者」  秋蘭は、春蘭が木剣を握る腕にそっと手を重ねる。その内側で猛り狂うものを、秋蘭は確実に捉えていた。 「氣を鎮めろ」 「……む……」  言われて気づいた、とでもいうように、春蘭は顔をしかめた。金の輝きを帯びつつあった木剣からなにか光るものが引いていく。それが、常人にも見えるほどに高められた氣の塊であるとわかれば、たいていの武人は顔を青くするだろう。 「あやつは、たしかに我らより弱い。だが、姉者を震わせるほどの気合いを見せた。それでよいではないか」  教え諭すでもなく、説得するでもない。ただ、優しい声で彼女はそう告げていた。 「弱いなら、弱いなりに我らが守ればよい」 「……そうか」  妹の言葉になにか思うところあったのか、春蘭もまた静かな声で頷く。 「よし、北郷!」  いまだになんとか立ち上がろうともがいている男に向けて、彼女は大音声を轟かせる。 「立ってみろ! もう一度私に挑んでみろ! そうすれば、お前の勝ちだ!」  その言葉に、一刀の崩れかけていた膝が止まる。身体全体を使い、彼はなんとか木剣を杖にして、じりじりとその体を持ち上げた。 「……結婚してくれるな」  どれほど待ったろう。普通の者ならば目を逸らすか、あるいは駆け寄って助け起こしてしまうだろう醜態をさらしつつ、彼は立ち上がり、あろうことか、木剣を青眼に構えていた。  左のまぶたは腫れ上がり、おそらく、右もろくに見えていまい。体は痙攣を起こし、いつ崩れ落ちてもおかしくない。  それでも、彼は木剣を掲げていた。春蘭に挑んでいた。 「応!」 「いいとも」  二つの言葉が飛び、しかし、剣は下がらない。不審に思った秋蘭が近づき、顔を覗き込んで、そのまま彼を抱きしめた。からんからんと音をたてて、木剣が落ちる。 「どうした」 「立ったまま気絶している」 「まったく……」  彼を痛めつけた張本人であるはずの春蘭は仕方ないとでも言うように吐き捨て、妹が抱きしめている男の前まで行くとくるりと背を向けてしゃがみこんだ。なにを語るまでもなく秋蘭は姉の背に男を乗せる。 「本当に、手がかかる夫殿だ」 「しかたないさ」  二人は彼を支えながら、そうして歩み去るのであった。  ひび割れ、ぼろぼろになった木剣二振りを置き去りに。 「全く、無茶苦茶だなあ」  一刀の額に絞った布をのせてやりながら、白蓮は呆れたように呟いた。結婚をかけて春蘭に挑んだ男は、さんざんに打たれた結果、今日は熱を出して寝込んでいるのだった。 「そりゃあ、春蘭に勝とうっていうのは無謀では……」  各所の関節や打たれた場所が痛むものの、意識が明晰な一刀は苦笑いをしながら彼女の言葉を受ける。しかし、白蓮ははっきりと横に首を振った。 「違うよ、莫迦。一刀殿の回復力を無茶苦茶だって言ってるんだよ」 「え?」 「普通、夏侯元譲に打ち据えられた翌日にこうして会話できるとかおかしいだろ」  当人としてはそれでもかなりきつい状況なのだが、言われてみれば、この程度なら軽い気もした。彼の経験上、明日には動けるようになってもおかしくない。 「そりゃ……少しは手加減してくれたんじゃない?」 「手加減はあるだろうが……。いや、でも、昨日すごかったんだぞ? 華琳が春蘭を本気で叱責しようかと迷うくらいにはな」 「む、それは……」  普通の仕合程度で華琳が叱責するわけもない。実際にしたかどうかはともかくとして、それを迷うということは、それだけのものだったのだろう。 「結局、華佗と華琳の二人で薬を調合して、手当てしてなんとかなったようだが……。あの二人がすごいにしてもなあ……」  首をひねる白蓮に、一刀は改めて苦笑する。それよりも、彼には気にかかることがあった。 「その二人は?」 「寝たよ。だから、私が看病を変わったんだ。春蘭が自分でやると言っていたんだが、さすがに皆で止めた」 「あー……ありがとう」  春蘭自身、反省したのか責任をとろうと思ったのか。彼女が看病を申し出てくれた気持ちは嬉しいものであったが、ここでそれを受けるとさらなる悲劇が生まれるであろう事は一刀にも容易く想像出来た。周りが止めたのも理解出来る。 「華琳たちにも後で礼を言うんだな」 「うん」  素直に頷いて体を寝台に沈める男の顔を見つめてから、白蓮は新しい水を汲みに行く。戻って来た彼女はしばし躊躇ってから口を開いた。 「桃香たちとやりあったらしいな」 「やりあったというか……まあ、ね」  桃香をはじめとした蜀勢は紫苑と璃々を置いて既に都を発っていた。様々な宴席を断った上での慌ただしい帰国である。桃香の幼なじみでもある白蓮としては気にかかることだろう。 「戦うのか?」 「……うん」  迷った末に、一刀は曖昧な言葉を使うのを止めた。小さいながら、きっぱりと頷く。白蓮はかえってさっぱりした顔でそれを受け止めていた。 「そうか。じゃあ、一つ相談がある」 「ん」 「私を幽州の束ねとするのは止めた方が良い」 「は?」 「平時ならばいい。私でも構わない。だが、おそらく、この先数年は世が乱れる時期だろうからな」  唖然とする男に畳み掛けるように、彼女は言葉を続ける。一度途切れたら、もう一度始めるには多大な勇気が必要になるとでも言いたげに。 「残念だが、私は王の器を備えているとは言い難い人間だ。個人の感情で動きかねない。こんな女をこの時期に辺境の抑えとするのは、危険すぎる」  言い切って、彼女は目を閉じる。なにを言われようと覚悟していると思わせるだけの静かな表情であった。 「なんだそんなことか」  だが、男の言葉に、琥珀色の瞳は大きく見開かれる。 「そんなことだと!?」 「うん。だって、俺も個人の感情で動いてるからな」 「え?」 「俺にとって大事なのは、白蓮。君を含めた、俺を支えてくれる人たちだ。そして、俺の子供たちだ。国は、そのために作る」 「い、いや、そういうことではなくて……」 「そういうことさ」  おろおろとなにか狼狽えている白蓮を見上げながら、一刀は布団の中から引き出した手を伸ばす。白蓮の肩口にかかった赤い髪の一房を玩ぶようにしながら、彼は小さな声で、だが、途切れなく続ける。 「あまり身の丈に合わないことは考えない方が良いんだよ。俺にとって大事な人たち、その大事な人たちが大事に思う人やもの。それを守ることを考えていくことが、最終的に国を治めることになる。俺にとってはそういうことなんだ」  五十人の恋人の知り合いは、どれほどの数だろう。  その家族は? その友人は? 住む家を建てる工人は? 愛用品を作る職人は? 口に入る作物を作る農民の数は?  大げさなことを考えるまでもなく、自分の周囲を守るだけでも、膨大な数の人々を、彼は守らなければならない。  それをするだけの覚悟を、一刀は、自分のわがままだと言う。  そう、言い切る。 「だから、白蓮が個人で信じたことを成すならば、それは喜ぶべき事だ」 「……桃香と通じて敵に回るかもしれないんだぞ。いや、そこまでいかなくとも……」 「俺にとっては桃香も大事な人だし、俺は、桃香とも結婚するんだよ、白蓮」  白蓮の言葉を遮って、一刀は告げる。顔を腫らして寝込んでいる男の言葉とは思えないほど優しい声音で。 「かなわないな」  掠れた声が、白蓮の喉から漏れ出る。彼女の背は老婆のように曲がり、彼の顔の眼前にその顔がある。 「重い荷だろうと思う。それでも白蓮なら一緒に背負えると俺は信じているんだ」 「わかったよ」  男の顔を覗き込みながら、彼女は破顔した。かつて幽州で、たった二人の供を連れてやってきた旧友を出迎えた時の顔で。 「共に負おう、一刀殿」  男の傷を刺激せぬように気遣いながら、彼女の唇が、彼のそれを覆った。  6.  建業の外れにある仏教寺院の敷地内。そこに建てられた孫堅廟の落成式に出席した一刀は、祀られている三つの像を目にして、内心首をひねっていた。  そもそも、祖廟としての孫堅の廟は、雪蓮たちが建立すべきものだ。だが、宗族の長である雪蓮は派手派手しい廟など必要ないと考えているし、蓮華たちもそれに賛同している。  しかし、孔子廟に代表されるように、著名な人物や土地の英雄の廟が民の信仰のために建てられる例は少なくない。つまり、これは祖廟というよりは、神を祀る場所に近いわけだ。  それが寺の中にあるのには理由がある。この時期、帝国の西への伸張や沿岸交易の発展により、仏教の伝播は本格的なものとなりつつある。洛陽や長安にもいくつかの寺院が建ち始めており、中でも建業は主要都市の中では最も仏教勢力が強い。彼らが、さらなる人心の帰依を求めて、孫堅の英名を頼るのも当然の成り行きであった。  そこに建業の豪商たちが乗っかり、孫堅廟の建立、落成式への帝及び孫家の人間の同座という栄誉を勝ち取ったのだが、当の一刀や蓮華たちは特定の宗教宗派に肩入れするつもりはないと以前から明言しているだけあって、そのあたりの事情をあえて無視していた。  彼らが来ているのはあくまで祀られている孫堅に敬意を表するためであり、同じような事を他の施設が行ってもそこにも足を運ぶ予定であった。あまりやり過ぎる場合を除けば。  そんな政治的事情はともかく、江東の地の孫堅ひいては孫家への崇敬の念は本物だ。廟も立派なものであったし、蓮華によれば像も母に似ているらしい。  だが、横にある二つの像が、彼の意識にひっかかる。 「なあ、あれってさ」  仰々しい儀式の合間を縫って、一刀は右横に座る蓮華に訊ねる。口を寄せる必要すらない。彼らは口を閉じたまま隣の人間にだけ聞こえる声を発する術を心得ていた。  これは一刀たちの地位においては実に効力を発する技能なのであった。 「あなたの考えている通りよ」  蓮華もまた口を閉じたまま応じる。 「やっぱり……祭だよな」  孫堅の像が最も立派なものであるのは当たり前だ。だが、その横に従者として祀られるらしい二つも十分にその人の特徴をとらえていた。一つは一刀も数回会ったことのある程普。もう一人は彼の妻の一人、黄蓋こと祭に他ならない。 「そうだよ」  左横の小蓮が念押しするように肯定する。一刀はますます首をひねりたくなった。 「生きてるのに?」 「関係ないんでしょうね」 「まあ、生き神様みたいなものなんじゃないの」  蓮華と小蓮の言う事もわからないでもない。孫家の威光強き江東の地において、黄公覆という人間の成した事はまさに伝説として語り継がれているであろうから。  しかし、身近にいる人間としては、当然別の感慨を抱かざるを得ない。 「でも、祭は怒りそうな……いや、笑い飛ばすかなあ、どうだろうなあ……」  一挙手一投足を注視されるこの国の最高権力者は、指一本動かすことなく、複雑な気分で妻によく似た木像の顔を見つめていた。 †  その卓の上には、木の実や焼き魚をはじめとした肴の数々と瓶がずらりと並んでいた。十種類、三つずつ。合わせて三十の土瓶には、全て酒が満たされている。  その卓を前に、艶然と微笑む白髪の女性。常はつけている仮面の代わりに、この夜は遮光眼鏡をかけている。 「さて、それでは勝負といきましょうか」  祭は楽しそうに、実に楽しそうに、そう誘いかけた。 「勝負、勝負ぅ!」  既に酔っ払っているのではないかという勢いで、どんどんと卓を叩くのは、祭の横に座る雪蓮。すらりと伸びる足をだらしなく卓の下に伸ばし、ばたばたと震わせている様はだだっ子のようだ。 「いや、だからさ、あれはね……」  二人の正面で冷や汗を垂らしているのはもちろん一刀だ。自室であるというのに、なぜか彼が一番緊張している様子であった。 「もはやそれは関係ありますまい。これは、儂と旦那様と策殿の意地の張り合いというやつじゃ」 「むむむ……」  事の起こりは、春蘭との仕合の痛手から脱した一刀が雪蓮に求婚したことに遡る。雪蓮は一刀の求めに烈火の如く怒った。  曰く、『あの夜、既に誓ったはず』という主張になんのことかと呆然とする一刀であったが、思い返してみれば華琳に皇帝になるようにと言われたあの日、最後と心に決めて弱音を吐いたその場で、彼は彼女に側に居て欲しいと願っていたのであった。  その願いが真剣なものであったことに疑いはない。しかし、正式な申し出とは別だと考えていたか否かで男女の差が出てしまった。  簡単に忘れて、と怒る雪蓮をどうにかなだめたものの、彼女は求婚の受諾に一つ条件を課した。即ち、それまでの経緯を祭に話した上で、祭が婚姻の求めに応じれば、彼女もまた応じようというのだ。  親代わりとも言える人物に、裁定を委ねたわけである。  そして、祭は、己の行く末と、かつての盟主に託された大事な人物の未来をかけて、勝負を挑んできた。 「だからって、飲み比べは……」  そう、酒飲み勝負を。 「なんじゃ。木剣で打ち合うのに比べれば、よほどおとなしいというに」 「そーそー、それに無制限じゃないしね」  用意された酒瓶は三十。一人十種の酒を飲み干せばいい。しかも、一番手に瓶を開けた人間には、他の二人が次にどれを飲むかを指定できる権利が付与される。強い酒をぐいぐい飲ませて、潰すことも可能というわけだ。  ただし、最終的な勝敗は、速度ではない。飲みきって、意識を保っていられれば、勝ちだ。つまりは、全員が勝つこともあり得る勝負であった。 「そうだ……な」  意を決したように一刀は頷いた。そうこなくっちゃ、と雪蓮が手を叩く。 「私は勝手に飲むぞ?」  それまで黙って様子をうかがっていた華雄がようやく口を挟んだ。彼女は一人、肴に手をつけて、三人のやりとりをあきれ顔で見ていたのだった。 「もちろんじゃ。お主は立ち会いじゃからの。好きに楽しむがよい」 「なんだったら一刀に協力して飲んじゃったっていいのよー?」 「阿呆。そんなことをして興を殺ぐ莫迦がいるか。私は誰の杯も断らん。好きに注げ」  華雄はにやりと笑って三人を眺める。彼女は飲み比べなど馬鹿馬鹿しいと思いながら、止める気もない様子であった。 「さて、じゃあ、やるか」 「ええ!」 「応!」  そうして、四人は酒杯を重ね始める。 「そういえば、名前を戻すとか」 「ああ、そうじゃな。策殿も表に出ると言うし、ついでにな」  一瓶あけたあたりで、華雄はそんな話を持ち出す。祭が黄蓋の名前を取り戻すことにしたと聞いたのはつい先日のことだ。 「ついでなあ」 「ついでじゃ、ついで。策殿と周家のご令嬢が生きていたと知れるのに比べたら、儂の名前なんぞ、小さい小さい」  からからと笑う祭。酒杯を揺らしながら雪蓮がそれに首をひねる。 「んー。全土に与える衝撃は月のほうが上じゃない?」 「月の場合は、衝撃だけだろう。過ぎ去るのも早いよ」  一刀の言葉に彼女は少し考え込んでいたが、結局は頷いた。 「そうかもね。私の場合は継続的に孫呉への影響を持ち得るから」 「簡単に言う」  呆れかえったような華雄に、雪蓮は講釈でもするかのように指を振り振り言葉を紡ぐ。 「そりゃそうよ、私はもう王様じゃないんだもの。所詮は一刀に従っているまで。こんなに楽な立場はないわ」 「おいおい……。言わせておいて良いのか?」  さすがに鼻白んだ華雄は男のほうを見やって注意するように呟く。だが、一刀は口に含んでいた酒を飲み干してから、特に驚いた風でもなく頷いていた。 「その通りだからね。雪蓮に名を復してもらうのも俺の意向だ。結局は、俺の責任さ」 「そう、なにもかも背負い込まずともよいとは思いますが」 「最初くらいは意気込んでおかないと。ただでさえ人間初心を忘れがちなのに、初心からして緩かったらどうしようもないだろう?」 「うんうん、よく言った、よく言った」  気遣うような祭の言葉にぱたぱたと手を振って答える一刀。それに気をよくしたのかぱかぱかと杯を乾していく雪蓮。二人の様子を眺めた後で、華雄は祭の耳元に口を寄せた。 「あれは、酔っているのか?」 「さあ、どうじゃろうな」 「……あの程度なら良いか」  そうして、さらに酒席の熱は上がっていく。 「ふふーん。そろそろ限界なんじゃないのー?」 「さて、それはどうだろうな?」  西北の異民族からの貢ぎ物だという『凍酒』を舐めるように飲みながら、雪蓮と一刀はそんなことを言い合う。酒を北方の寒風吹きすさぶ戸外で放置し、凍らなかった部分を集めたという『凍酒』は、実に濃く強かった。 「儂が堅殿に後事を託された折にはあんなに小さかった権殿がいまでは一国の王。なんという時の流れじゃろうなあ。しかし、しかし、じゃ。時が過ぎたとて、儂とてまだまだ女盛り。旦那様が嫁にもろうてくれるというのじゃからめでたい話ではないか。そもそも……」 「おい。こいつ酔ってるぞ。どうにかしろ」 「無理ね」 「無理だな」  立ち会いなど引き受けるのではなかった、と華雄が後悔したのは言うまでもない。 「らいたい、一刀は馬鹿正直過ぎるのよ。いいじゃない、しゃいしょの三年か五年は華琳の傀儡のふりでさー。それで、支配を固めてから、呉、蜀と一体化しゅるように動けば」 「いや、それじゃ、だまし討ちみたいでなあ」 「いやいや、旦那様。雌伏の時というのは必要なものですぞ。堅殿が亡くなって、どれだけ儂らが……んー、華雄。肴が無いぞ」 「あー、もう。わかったわかった。厨で何か探してこよう」  言いながら席を立つ華雄。だが、彼女は不思議でならなかった。酒はどれも上等で、そして、強いものだ。凍酒ほど強いものは他に無いようだが、皆のおこぼれを飲んでいる華雄はともかく、他の三人のように飲めば酔いが回らぬはずはない。  実際、祭でさえ上機嫌にべらべらと口を滑らせているし、そろそろろれつが回らなくなっている雪蓮も同様だ。しかし、この酒に強い二人がこれほどに酔っているというのに、ただ一人、男の顔に酔いの兆候はない。  頻繁に厠に行くのは当たり前の反応として、それ以外にあまり酔っているように見えないのは、どうしたことだろう。  気合いの差であろうかな、と彼女は厨で干し魚などを引っ張り出しながら考える。雪蓮にせよ祭にせよ、内心では求婚を喜んでいるはずで、受け入れる準備は出来ている。一方で、一刀のほうはそれを認めさせなければいけないという思いがあるために酔いを律していられるのかもしれない、と。  最後に彼女は己のために竹筒に水を汲んで、厨を出た。そうして部屋に戻ってきた時、出迎えたのは、一刀ただ一人であった。 「おやおや」  ぐでーっと椅子にもたれてすっかり出来上がっている雪蓮と、卓につっぷしてぶつぶつと何ごとか呟いている祭。いずれも意識を無くしているわけではなさそうだが、もはやこれ以上酒が進むとは思えない。一刀も杯は卓の上に置いたまま、口元をひくつかせていた。 「ああ、ちょうどいい。すまないけど、彼女たちを寝台まで運んでくれないか? ちょっと、いまの俺じゃあ、無理だ」 「……わかった。だが、お前は大丈夫か?」 「大丈夫なわけがない……。けど、しばらくはなんとかなる」  まだそんなことを言う元気があればなんとかなるだろう、と華雄は雪蓮、祭の順に抱き上げて寝室へと連れていった。一つの寝台に二人を押し込むことになったが、そこは我慢してもらうしかない。それぞれの自室にまで担いでいくのはあまりに面倒だった。 「おや?」  二人をなんとか布団に押し込めて戻ってみると、部屋はもぬけの殻であった。しばらく待ってみると、よろよろと体ごと扉を押し開けるようにして男が戻ってくる。 「み、水をくれるか」  駆け寄って抱き起こすと、細い声でそんなことを漏らす。華雄は腰につけっぱなしの竹筒を彼に渡した。 「戻してきたか」  貪るように嚥下していく男から漂うわずかな異臭に、華雄が指摘する。相手はこくり、と頭を動かすのも億劫そうであった。 「ああ、限界だ」 「……まったく」  酒好きの二人が倒れるまで平静を装いきるとは、意地っ張りにも程があるというものだ。ふにゃふにゃの一刀をなんとか椅子に座らせて、華雄は考える。 「どうする? 三人で寝るか?」 「入る……場所が、ない、んじゃあ?」 「どうだろうな」  喘鳴の合間に話しているような男の様子にもう一度頭を振って、彼女は寝室に向かった。見れば、既に二人は寝息を立てて夢の国に行っている。しかし、彼の部屋にある寝台は大きなものだから並んで寝るだけなら苦労はないと確認してから踵を返す。  一刀は椅子の上でほとんど放心状態になっていた。 「よし、行くぞ。大丈夫、寝られる」 「んー……」  声をかけるものの、男の瞳は焦点が合っていない。彼女がさしのべる手を支えに立ち上がるもなく、かえって華雄を引き寄せるようにしてくる始末。 「……いい」 「なに?」  聞き取れぬ言葉を捉えようと、女は体を縮めて、一刀に寄せる。 「……と……一緒……が、いいな」 「おい」  慌てたように言ったのは、彼の口から彼女の真名が飛び出たからであった。よほどの時でないと、けして呼ばぬ名を、彼は甘えるように囁いた。 「一緒に……いたいんだ」 「この酔っ払い」 「正気の……時だって、同じ……だよ」  そうだろうな、と彼女は思う。北郷一刀とはそういう人間だと彼女は知っていた。だから、こんな風に言うのだ。 「余計、性質が悪い」  そう言いながら、彼女は彼の手から滑り出た。抵抗はほとんど無く、容易いものであった。 「少し、待っていろ」  一刀になにか言わせる前に、彼女はそう言い捨てて、寝室に戻る。予備の布団を一つ失敬して、大股に彼の元に戻った。  そうしてから、彼を抱え上げる。先程祭たちを荷物のように持ち上げたのとは違う、抱き留めるようなやり方で。  赤子を抱きしめるように、彼女は彼を膝の上にのせて、椅子に座りこんだ。そのまま、自分と彼をくるみこむように布団をかぶる。 「酔っ払いはおとなしくしていろ」 「……ん」  お互いの温もりを感じながら、二人はそのまま眠りに落ちるのだった。      (玄朝秘史 番外編『北郷一刀の求婚』 中編・終/後編に続く)