玄朝秘史  番外編『北郷一刀の求婚』前編  1.  太和(たいわ)三年、南鄭――。  薄曇りの初秋の空を、男は見上げていた。  年の頃なら四十ばかりか。空の青を映す瞳が印象的な人物であった。それを覗き込む者は、底知れぬほどの希望と、それと同量の憂いがたゆたうのを見いだすだろう。 「なにをしておいでですか、陛下」  声をかけたのは、廊下を曲がってやってきた、落ち着いた雰囲気の女性である。分厚い本を胸に抱くようにしているその女性は、男の横に立つと同じように空を見上げた。  並んでみると随分女性の背が小さいようにも見えるが、実際には彼女はこの時代の女性でいえば平均的な背丈である。男のほうが高いのだ。なにしろ、彼は細身ながら、名にしおう英傑たちと並んでも遜色のない体つきをしているのだから。 「ご出発の日は晴れますよ」 「やあ、諸葛孔明のお墨付きなら確実だな」  女の言葉に破顔する男の笑顔は実に人なつっこい。思わず引き込まれるような表情を浮かべる人物であった。  二人はそのまま並んで歩き出す。 「いやあ、俺も四十になるんだなあ、なんて考えていたんだよ」 「あら、そうでしたか?」  女――朱里は細い指を己の頬に当てて考え込む。彼女の夫たる目の前の人物は、特殊な経歴の持ち主で、その年齢などは妻たちにもよくわかっていなかった。 「正確に言えば違うよ。四十半ばくらいかもしれない。でも、厳密に計算しようとすると、あちらとこちらの暦の違いとか考え初めて、こんがらがっちゃってね。面倒だから、こっちに戻って来た時を数えで二十歳と考えることにしているんだよ」 「ははあ。それなら……そうですね」  朱里は彼の言葉を聞いて、頭の中で計算を始める。彼が再びこの世界に現れてから帝となるまでの期間、玄武の十五年、太和に変わっての二年半。それらを考え合わせると、たしかに年が明ければ彼は四十ということになる。 「それで、色々あったなあ、と感慨にふけっていたというわけさ」 「たしかにありましたね」  ふふっと朱里は小さく笑った。彼女もまた二十年以上、彼と関わって来たのだから。 「朱里はずっと優しかったからなあ。ありがたいことに」 「あら? 敵に回った女に言うことではありませんわね」 「そうでもないさ」  男は悪戯っぽく笑い、そして、声を低めた。 「それに敵にしてみて、俺の大きさがわかったろう?」  びっくりしたように目を見開き、次いで、女は優しく微笑む。彼女の手がゆったりと伸び、 「昔はそんなこと言ったら、途端に顔を赤らめていらっしゃいましたわ」  ぎゅうと彼の腕をつねった。 「いてててっ! ほら、あれだ。齢をくうと、開き直るから」 「はいはい」  彼の腕をもう一ひねりしてから朱里はどこか遠くへ視線をさまよわせる。 「それでも、本当にあの頃は、華琳さんではなく、一刀さんの存在感を示さなければいけなかった時期ではありますね」 「だろう? おかげで個人的なことが駆け足になっちゃったんだよなあ」 「……と仰いますと?」 「慌ただしかったろう? 俺の求婚は……」  言いながら男の思いは、十八年ほど前へと回帰していくのだった。 † 「私、一刀さんと結婚するから!」  さんざんやきもきさせた蜀の面々の前に戻って来た桃香の第一声は、そんなものであった。  彼女にしても珍しいほど底抜けに明るい声で言い放たれた一同はあんぐりと口を開けて自分たちの主を見つめ、その横にいる男を見つめ、そして、無言のままに皆で顔を合わせた。 「一刀殿」  冷え冷えとした声で名を呼ばれ、一刀が飛び上がる。 「は、はいっ」 「少しお待ちいただけますか?」 「は、はい!」  桃香が口を挟む間もなく、男は部屋から押し出される。誰にどうされたのかもよくわからないうちに、彼は廊下に佇んでいた。 「えーと……」  頭をかきつつどうしようか考える一刀であるが、中からは、 「なにを考えておいでですか!」  と桃香を責める声あり、それに対して、 「だって、好きになっちゃったし、仕方ないでしょ。だいたい愛紗ちゃんだって……」  などと反論する声あり、漏れ聞こえてくる声だけでも、男としてはいたたまれない気分にさせられるのであった。  しばし、部屋の前をうろうろしたり、暮れゆく夕陽を眺めていたりした一刀であるが、ふと、袖を引く動きに気づく。 「お兄ちゃん、お兄ちゃん」 「あれ、どうしたの?」  見れば、赤毛の少女が彼の袖を引っ張っていた。鈴々は彼に気づかれると、にかっと顔中を笑みで満たす。 「お腹空いたのだ。厨房に行こ」 「え? でも……」 「鈴々がお兄ちゃんのこと見張ってるって言って抜け出してきたのだ。だから、大丈夫なのだ」 「そ、そうなんだ」  たしかに際どい話し合いに鈴々を同席させたくもないだろうし、一刀を放置しておくのもおかしな話だ。誰かをつけておくというのはわかる。 「あ、でも……」  鈴々は何かに気づいたように表情を変え、一刀に紙と筆はないかと要求する。書くものは常に懐に持っている一刀が取り出すと、厨房にいるよう書いてくれと頼んできた。 「よし、これでいいのだ」  丈八蛇矛に一刀が書いた紙をくくりつけ、出入り口の前に置いて、準備万端、彼らは厨房へと向かうのであった。 「あれ、兄様?」  入る前からなにか香りが漂って来ているのは分かっていたが、案の定厨房に入ると、大きな鍋を横になにやら調理をしている流琉の姿があった。 「やあ、流琉。宴席の用意?」  大鍋に入っている食材は、一人二人の分量ではない。おそらく祝宴に出される料理のうちの一品だろう。いまから作ったのでは夕食の席には遅れかねないから、酒宴か、あるいは後日のものであろうか。 「はい。これは明日の分です。ええと、いま、なにか作りましょうか?」 「うん。お願い出来るかな」  一刀の横ではうんうんと鈴々が頷いている。同じ赤毛の食いしん坊で慣れっこなのか、流琉は特に迷うこともなく、新たな料理にとりかかった。 「うーん。良い匂いなのだ」 「……ほんと」 「そりゃ、流琉は料理上手だもん」 「いや、俺は君たちがどうやってかぎつけてくるのか不思議でならないよ」  厨房につくりつけの卓にはいつの間にか、赤毛の食欲魔神が三人揃っている。鈴々、恋、季衣と並ぶ三人を見つめながら、一刀は奇妙な顔つきでいた。流琉のほうは一人二人増えても大丈夫なように作っていたのか気にしている様子はない。それでも、三人が本気で食べ始めれば、作る品数を増やさねばならないだろう。 「……恋は、ご主人様を探しに来た」 「ボクは流琉を探しに来たんだよー!」  二人は一刀にそう抗議した後で、卓に向かい直す。 「……でも、ごはんも食べる」 「そうそう」  うずうずと料理が出て来るのを待っているのを見ると、探しに来たというのは付け足しに過ぎないのではないかと勘ぐってしまう一刀であった。 「うー、それは鈴々のなのだ!」 「なにをー!」 「……暴れちゃだめ」  美味しそうな料理が並ぶと、がつがつと食べ始める三人。おきまりの喧嘩が始まりそうになると、食べるのを邪魔されるのを嫌がってか恋が二人を抑えつけるため、比較的平和に食事は進んでいった。 「うーん、やっぱり流琉の手料理はおいしいなあ」  魚を甘辛く煮付けたものと、その魚の皮に衣をつけてぱりぱりに揚げたものを交互に食べながら、一刀は舌鼓を打った。 「ありがとうございます」  彼の横に座った流琉は男の賛辞を素直に喜ぶ。その笑顔を見て、一刀は身を乗り出して、彼女に囁きかけた。 「なあ、流琉」 「はい?」  くすぐったがるかのように身をよじりつつ、彼女は一刀と目をあわせる。その瞳の真剣さに、彼女は動けなくなった。 「これからもずっと俺に料理を作ってくれないか?」  彼女の脳が言葉の意味を理解するまでのわずかな間。 「はい!」  それが過ぎ去った途端、彼女はしっかりと肯定の意思を伝えていた。その声で注目を集め、皆の視線を一身に受けて、見る見るうちに真っ赤になる流琉。 「ぶー、なんかよくわからないけど、ずるーい」  頬を膨らませて流琉と一刀を見比べながら文句を言う季衣。鈴々も同じように不服そうな顔をしていた。自分でもその理屈がよくわかっていないようではあったけれど。  思わず告白していた一刀は困ったような笑顔を浮かべている。 「でも」  だが、そんな状況は恋の一言で切り裂かれた。 「……こうして、みんなでご飯食べてると、恋は、楽しい」  ぽつりぽつりとつぶやくように彼女は言う。なぜかいつもはせっかちに割り込む季衣や鈴々にも口を出せない雰囲気をまといながら。 「ご主人様と……いまはいないけど、セキトやねねと……それに他のみんなと一緒においしいものを食べてると、胸があったかくなる。だから……」  そこまで言って恋は言葉が見つからないのか、切なそうな顔で一刀を見上げてくる。彼はうんと力強く頷くと、彼女が言いたいであろうことを代弁するように口を開いた。 「そうだな。みんなでわいわい美味しいものを食べるのは幸せだよな。そして、その時は、みんないてくれなきゃだめだよな」  それから彼は皆のほうを向いて、確認するように問いかけた。 「鈴々も、季衣も、恋も、俺とずっといっしょにこうしてご飯を食べてくれるかな?」 「うん!」 「もちろんだよー!」  元気な返事が二つにこくこくと声もなく頷くのが一つ。いずれも未来を感じさせるような――恋のそれはなかなか見分けにくいものがあったが――希望に満ちた表情であった。 「その時には私がご飯作りますね」 「ああ、頼むよ」  嬉しそうににこにこと笑う流琉に、一刀は首肯する。そうして晴れやかな顔で背もたれに体を預けたところで、皆の表情が一様に強張り、その視線が自分の背後を見ていることに気づく。 「和気藹々としておられるところ、失礼します」  鋼のような声に、一刀は首だけを後ろに向ける。そこには無表情を顔にはりつけた美髪公が立っていた。 「しかし、こちらの話は、まだまだ一件落着しておりませんよ」  そう告げる彼女の圧力に思わず立ち上がり、ぎくしゃくと彼女について歩き出す一刀であった。  その背中を、同情するように八つの瞳が見つめていた。  2.  部屋に入るなり、一風変わった切迫感に一刀は襲われた。  敵意で充満しているというわけでもなく、熱心な議論の時のような心地好い緊張感が溢れているわけでもない。  なにか、肉食獣の檻にでも迷い込んだかのような、逃げたくなるのに足がすくむかのごとき感覚であった。  誰一人視線を合わせようとしない中でただ一人うらめしそうにこちらを見つめてくる桃香に肩をすくめてみせて、彼は部屋の真ん中で立ち止まる。四方八方から視線を受けつつ、彼は立ちすくんだ。 「結論から申し上げますと」  まず、一刀の斜め右前に立っていた朱里が口を開く。 「我が蜀勢の中で北郷一刀の恋人である者たちは、みな、求婚を受け入れます」 「当然のことですが、求婚しないという選択はありえません」  朱里に続くのは愛紗。彼女の言葉に男は大げさに手を振って見せた。 「いや、俺のほうにもないよ」 「ならばよいですね」  わずかに安堵の表情を見せる雛里に続き、面白がるような調子で星が言葉を紡ぐ。ただし、その声がどこか捨て鉢に響いたのは、一刀の思い込みだったろうか。 「これは、純然たる政略結婚となりますな。我らの主は貴殿を求めつつ敵対するという奇妙なことを望んでおられる。我らもまた似たようなもの。そこで、我らが選ぶ道もまたねじれる」  一刀の背後に位置する焔耶がふんと鼻を鳴らし、左手にいた紫苑が顔を曇らせる。しかし、二人は言葉を発さず、しゃらりとかんざしを鳴らしながら桔梗が首を振った。 「まあ、寂しい話ではありますが、しかたありますまい」  そうか、と一刀は悟る。  皆が牙を剥いているように思えるのは事実。だが、彼女たちの不満は、求婚される事に対してではない。一部を除けば桃香が結婚を望むことにでもない。  この状況にこそ、彼女たちは憤っているのだ。  桃香が結婚を言い出すのも、一刀が実際に求婚してまわっているのも、政治的な変化があったればこそ。たとえ当人たちがお互いに望んでいることであれ、婚姻そのものに政治的意図はつきまとう。 「ごめんね、一刀さん」  うなだれっぱなしの桃香が謝る。しかし、謝るべきは、本来、誰だろう。  政に婚姻を利用しようとする男か?  それに対して自分たちの政治目的に合致するように応じる彼女たちか? 「現時点においては個人の情は、無関係。我々はあなたを刺すために、胸元に飛び込む覚悟ですから。これを真の婚姻にしたいのならば」  ちりちりと首下の鈴を鳴らしながら、朱里は彼が部屋に入って以来、初めて目をあわせた。叩きつけるような勢いで、彼女はこう告げるのだった。 「まずは雌雄を決しようではありませんか」 † 「あら、私、そんなことを申しましたか?」 「言った、言った。怖かったなあ」  しみじみと過去を述懐する男に、女はころころと鈴のような笑い声を立てる。 「全く、雌雄など最初から決まっていましょうにねえ? 私は女で陛下は男ですわ」 「いや、そういう意味じゃないだろ」  大まじめな顔で冗談を飛ばす朱里に、思わずつっこんでしまう一刀。経緯を考えてみれば、実に平和なやりとりであった。 「それでも、いまから考えれば随分と余裕のない宣言ですわ。直截なのは好ましいですけれど」  過去の自分を叱りつけるように言う態度が、すっかり人にものを教える者のそれだな、と男は思う。実際、彼女も彼も、直接的に動くより、人を指導し、部下たちの動きに期待することのほうが多くなっている。それこそが世代の移り変わりというものだろう。 「若かったのさ」 「そうですわね」  夫の肩をすくめての言葉に朱里は笑い、そして、ふと思い出したように話題を変えた。 「そうそう。あとで正式な報告をあげますけれど、ここ十年、研究して参りましたが、やはり象を戦力とするのは、南蛮の民以外には難しそうですね」 「そうか。喰うしなあ、あいつら」 「はい。あの巨体の印象はなんとも頼もしいのですが……」  それが故に軍の動きが制限されてしまうことにもなりかねない、と彼女は続ける。それを聞きながら、彼は、いまやかなりの数に増えた南蛮の家族たちのことを脳裏に思い浮かべていた。 † 「結婚ってなんにゃ?」  大きな目をぱちくりさせながら問いかけるのは、小さな象のようなものを頭にのせた虎耳少女。ぷにぷにの肉球で娘――のうちの一人――を抱きかかえる美以の問いに、一刀は感心したように顎に手を当てた。 「結婚とはなにか、か。深い問いかけだな……」 「あの、ご主人様? そこをいま悩まれるんですか?」  低い声で真面目ぶって思索に沈もうとする一刀の袖を引っ張る細い指。めいど姿の彼女は、天宝舎で子供たちや、その母親の面倒を見る役目を果たしている月。 「うん。突っ込んでくれてありがとう。いや、それはともかく、実際に難しいような……」  月に満面の笑みを向けた後、一刀はこてんと首を傾げっぱなしの美以を見つめ、懸命に言葉を選ぶ。 「ええとね……。そうだな。これからもずっと仲良くいようっていう約束かな。それを記念して、みんなでお祝いをするんだ」 「へー……」  興味があるのかよくわからない表情で、美以の横にいたシャムがぼんやりと声を返す。南蛮の三人組の中では話を聞いているのは彼女くらいで、ミケとトラはすぐに天宝舎中を走り回る子供たちを追いかけている真っ最中だ。二人が子供たちと遊んでやっているのか彼女たちなりに事態を収拾しようとしているのか、一刀たちにもわからない。  楽しげな声が聞こえてくるからいいのだろう、と皆納得している。他の母子に迷惑をかけないでいてくれるうちは。 「ふむにゃ。兄はみぃたちとずっと仲良くしたいのにゃ?」 「うん」  こればかりは真摯に頷く一刀。美以は半分眠りかけてこっくりこっくりしている我が子を胸に抱き寄せながらじっと彼の事を見上げ、そして、いつものようにぼーっとしたままのシャムと目線を交わし、頷き合った。 「わかったにゃ。ミケとトラには後で言っておくにゃ」 「ありがとう」  ほっとしたように、彼は笑う。それを元気づけるように、美以とシャムはにっこりと屈託のない笑みを返すのだった。  細かい話は四人揃ったときにまた後でね、と言い置いて、一刀は美以たちの部屋を出た。懐から紙束を取りだし、美以たちの名前に墨で線を引く。 「記録していらっしゃるんですか?」  一刀がなにをしてまわっているかくらい、月でも見当は付く。帝になる前に恋人たちと結婚するための行動であろう。自分の番はいつになるのだろうかなどとは彼女は考えなかった。考えたら、彼の側にいられないほど脈拍があがってしまうから。 「そんな大層なものじゃないよ。ただ、なんというか……。それぞれになにをするかとかも書き留めておいてあるだけ。人によっては準備が必要な場合もあるし」 「準備、ですか……」 「うん。これがまた色々と……。あ、詠」 「あれ、詠ちゃん?」  一刀が気配を察し、言葉を切って顔をあげると、そこにいたのは月と対になるようなめいど服姿の詠。翡翠色の髪を揺らす彼女は、このところ軍師服を身につけることが多かったこともあり、実に久しぶりのめいど姿であった。 「はい。調査報告」  月に満面の笑みを向け軽く手を振った後で、彼女は竹簡を彼に手渡す。彼は驚いたようにそれを受け取った。 「随分早いな」 「ボクもおおまかには把握してるって言ってあったでしょ。今回はその情報を更新して、念を入れて別のほうからも探ったってだけだから。それに、魏の間諜勢が使えたから、楽なもんだったわよ」 「うん。ありがとう」  中の文章を読んで満足したのか、男は嬉しそうに笑みを漏らす。それから、彼はそのままその竹簡を隣の月に渡した。 「え?」 「読んでみて」  思わず受け取ってしまったもののどうしていいかわからないというような表情を浮かべる彼女に一刀が優しい声で促す。詠もまたうれしさと切なさと慈しみがいりまじるなんとも言えない複雑な表情で彼女の事を見つめていた。  二人の視線に後押しされるように、月は視線を竹簡へと落とす。文字を辿るにつれ、彼女の顔に驚きと、そして、歓喜の色が広がっていった。 「これは……」  ついには小さく震えながら、彼女は読み進む。何度も何度も読み返し、再び顔をあげて一刀たちのほうを見た時には、月の瞳はすぐに涙をこぼしそうなほどに潤んでいた。  その表情に、彼は大きく頷きながら、彼女にまっすぐ対する。 「その情報は、俺の、その……結納の贈りものってことにしようと思ってるわけだけど」 「それって……」 「うん。俺と結婚してくれるかな、月」 「はいっ! もちろんです!」  きっぱりと言う男に、こくんと頷く月。彼女は男から渡された竹簡を、本当に大事な宝物のようにぎゅうと胸に抱きしめて顔を赤くしながら、もう一度頷いた。 「それで、本当は俺も行くべきなんだろうけど、それはまた落ち着いてからにさせてもらうとして、一度顔を出してきたらどうかな、とね」  竹簡を指さして言う一刀に少し考え、決意を込めた表情で彼女は彼を見返す。そうして、月はゆっくりと頭をさげた。銀に輝く髪が、なにかの余韻を残すように揺れた。 「ありがとうございます。詠ちゃんもありがとう」 「……うん。うん……うん」  思いが胸につかえて言葉にならないのか、詠は親友の言葉に、そんな頷きしか返せない。もどかしげな彼女であったが、それを受け止めるほうの月はそれで十分なようであった。  その後、感極まったらしい詠が月に抱きつき、その光景をからかった一刀を一蹴りしてなんとか普段通りの空気に戻ったところで、眼鏡を押し上げながら詠がにやりと笑った。 「そうそう。あんたの手間を少し省いてあげるわ」 「はい?」 「ボクたちにも求婚するわよね。……当然、だと、思う……わけだけど……」  なぜか後半は途切れ途切れになりながら、詠は言葉を押し出す。なんとか声を震わせずに言い切ったところで一刀が微笑んで言った。 「もちろんだよ」 「そうよね」  彼の笑みと言葉を得た途端に堂々とした態度を取り戻し、詠は懐から手紙のようなものを取り出す。 「あんたの軍師としては、あまりわずらわせるのもいけないでしょ。だから、七人で話し合って条件を決めたの」 「へえ?」  七人というのは、詠の他に音々音、七乃、冥琳、桂花、風、稟のことだという。頭脳派の面々に対しては小細工はかえって雰囲気を壊すことにもなりかねず、一刀としてもどう対処すべきか悩ましいところだったので、詠たちからの申し出は渡りに船であった。  その条件を聞くまでは。 「じゃあ、読み上げるわよ。いいわね? 『我ら一同は、北郷一刀が婚姻を求める場合、以下の条件でそれに応じる。婚姻後十年以内に、それぞれが求めるものを引き渡すこと。  周瑜――仏の御石の鉢、  張勲――蓬莱の玉の枝、  陳宮――火鼠の裘、  程c――龍の宝珠、  郭嘉――五彩の龍歯、  荀ケ――龍の逆鱗、  賈駆――燕の産んだ子安貝。  この条件が果たされない場合、北郷一刀は離縁及び慰謝料の支払いに応じること』」 「それってかぐや姫じゃないか!」 「ええ、冥琳から聞いてちょうどいいと思って」  かつて一刀が冥琳に話した物語の中から軍師たちはそれぞれの条件を選び出したようだった。人数にあわせて多少増量しているが、いずれも難問には違いない。 「本来のお話に比べたら、龍の部位が増えているわけだから、一匹倒せば一気に条件を三つも果たせるわよ?」 「一匹倒せばって気軽に……。だいたい、逆鱗とか殺しに来てるだろ、桂花のやつ」 「で、どうするの?」  ぶつぶつ文句を言う彼に、にやにやと詠は迫る。その様子に多少呆れながら、それでも一刀はこう言わずにはいられなかった。 「あー、わかったよ! やってやる。やってみせるさ! みんなを手に入れるために必要だっていうなら、龍だって倒してやるよ」 「よろしい」  勝ち誇ったように、詠は腰に手を当て胸を反らす。その実に嬉しそうな――実際には感激の涙さえにじんでいるような――様子を見ながら、 「詠ちゃんったら……」  と微笑まずにはいられない月であった。  3. 「あの龍退治は地獄だったな……。華佗が参加してくれたからなんとか生きて帰ってきたものの……」  十数年も前のことを、昨日のことのように思い出し、男は顔を青ざめさせる。それから、周囲を見回し、いけないいけない、と顔をこすって血色を戻そうとした。最高権力者が顔を曇らせていると、動揺が広がりかねない。  とはいえ、いま彼がいるのはよく手入れされた庭園で、人影は見受けられなかった。  ただし、それには彼の関知しうる範囲内では、という但し書きがつくが。 「どうかしましたか、父様」  どこからか音もなく現れるのは黒髪を長く伸ばした少女。体と同じくらい長い髪を引きずりもせず、ふわふわ浮かせているのはたぐいまれなる体術の成せる技だ。 「ああ、蘭花」  驚いた様子も見せず、彼は娘の真名を呼ぶ。こっそりと辺りを確認し、あの屋根の上かこっちの木の幹にいたのだろうな、と彼はあたりをつけていた。 「なんでもないよ。昔のことを思い出していたのさ」 「昔の……ですか?」 「うん。そう……。おや? その刀……」  母親そっくりのかわいらしい顔をこてんと横にして不思議そうにこちらを見ている娘の背に、見覚えのある刀を見つけ、一刀は指を差す。  ぱあっと少女の顔が明るくなり、彼の胸に飛び込むようにして近寄ってきた。父の服をちょこんとつまみながら、彼女は報告する。 「はい。この度、明命母様からお許しをいただき、私が受け継ぐことになりました!」 「そうかそうか」  ぽんぽんと優しく頭に手を乗せると、小動物のように嬉しげに首をすくめる。そんな蘭花の背負う、飾り紐で何重にも封印された刀を見つめ、男は複雑な表情を浮かべた。 「よし、それじゃ、それを明命に預けた時の話をしてあげようか」 「え? 本当ですか?」  きらきらと目を輝かせ顔を覗き込んでくる娘に、一刀は落ち着いた笑みを浮かべてみせるのだった。 † 「よし、揚がったぞー」  香ばしい香りを発する胡麻団子を油から引き上げ、よく油を切って、彼はそれを皿に並べた。熱せられた油の表面で浮かんでいる他の団子も引き上げて、どんどんと皿を埋めていく。 「はい、どうぞ。二人とも」  火の始末を終え、胡麻団子でいっぱいになった皿を近くの卓に持っていく。すでに席につき、彼の動きを見守っていた二人の女性が揚げたての胡麻団子の香りを胸いっぱいに吸い込んで、とろけたような顔になった。  一刀が席についたところで、二人はようやく指を伸ばし、熱々の団子をその手にとる。はふはふと彼女たちが頬張る様子を見ながら、一刀も己が揚げた胡麻団子を口に放り込み、その熱々の餡の甘さに心地好い刺激を受けていた。流琉に作り方を習ってよかったな、と思いつつ。 「一刀様に作っていただけるなんて、夢のようです」 「本当に、おいしいです!」  亞莎と明命の二人が喜びの声を述べて、男の顔がほころぶ。ことに明命のほうは厨房いっぱいに響くほど元気な声であった。 「うん。どんどん食べてくれよな」  一刀が促すのに、しばらく三人は夢中になって胡麻団子にかぶりつき続けた。お腹がくちくなったところで、お茶を淹れようと席を立つ亞莎を、男は手振りで制止し、自ら茶を淹れてきた。  至れり尽くせりの歓待に明命たち二人は恐縮しきりであったが、それでも胡麻団子の香りを嗅ぎ、お茶を味わうとほわわんと顔が緩むのであった。 「うう、なんだか幸せですー」 「ほんとですよねー」  お茶を両手で包むようにしてずずずと飲みながら、二人はほわほわとした表情のままに語り合う。そんな中で、最後に残った胡麻団子を譲り合い、そして、遠慮しながらも結局それを手にした亞莎が呟く。 「こういう時間がずうっと続けばいいのに」 「続けられるさ」  自信をもって言い切る男の横顔を、二人は見上げる。その光景を見る者がいれば、眩しいものでも見るかのように眼を細めている二人の姿が印象的であったことだろう。  亞莎と明命は同じ頃合いで彼から視線を外して目を合わせ、そして、意を決したように彼に迫った。 「そ、そういえば、一刀様は、その、求婚して、回っておられるとか!」 「うん。そうだよ」  そこで一つ笑って、一刀は片目を瞑って見せた。 「シャオだけは、話を聞いた途端、自分から飛び込んで来たけどね」  一刀のお嫁さんになるのー、と抱きついてきてくれたのは、彼としては嬉しい限りであった。女性たちに改めて思いをぶつけるのもやり甲斐のあることだが、もちろん、あちらからぶつかってきてくれるのもありがたいのであった。 「穏さまには事が落ち着いた後で一緒に書庫に籠もる約束をなされたとか……」 「う、うん」 「しかし、一ヶ月も籠もっていられるものなのですか?」  亞莎の言葉にも少し腰の引けた返答をした一刀であったが、明命がくりくりとした瞳を輝かせながら訊ねるのには驚愕の声をあげてしまう。 「俺、一月とか言ってないよ!?」 「でも、穏さんは一ヶ月で勘弁してあげようって」 「本当はもっと籠もりたいのかよ!」  全く底なしだな、と彼は頭を抱える。とはいえ、そこに付随する甘い雰囲気には少々心惹かれてしまう一刀であった。  彼の体力と精力は限界を試されそうではあるが。  困ったような嬉しいような男の様子を見ながら、亞莎と明命は顔を見合わせてから、ずいと身を乗り出す。 「そ、それでですね。思春殿に断られたという話は本当ですか!?」  明命のその問いかけに、お茶を口に含んでいた一刀は、ぶはっと噴き出してしまう。 「違う違う。断られてないよ! 保留されただけだよ!」  慌ててぶんぶんと手を振ると、二人は揃って胸をなで下ろす。 「そうだったんですかー、よかったー」 「そんなに気にかかること?」 「だって、出来れば、みんなで仲良くがいいじゃないですか」 「私も……そう思います」 「それは……まあ、そうだな」  真っ直ぐに言い切る明命と、顔を紅潮させながらそれに同意する亞莎。二人の温かな気持ちに、一刀は頬を緩めずにはいられなかった。  にこにこと二人を見ていた一刀であったが、ふと心に浮かんだことを口に上らせる。 「あれ、ってことは、二人は俺の求婚を受けてくれるの?」  唐突なそれに、二人は揃って固まり、そして、見えている部分の膚を真っ赤に染めながら、勢い込んで答える。 「あ、え? あ、は、は、はい!」 「か、かじゅとさまが望むならば!」  動揺しきりの答えではあるが、その意はしっかりと伝わる。彼は笑顔のままで頷いていた。 「そうか。ぜひ俺の家族になってくれ」 「はいっ」  声が揃い、しばし、温かな沈黙が流れる。そこで、男は腰に手をやって小さく呟いた。 「ああ、ちょうどいいじゃないか」  そうして、男の手によって大皿がよけられ、卓の上に、ごとりと乗ったものがある。  黒鞘にくるまれた一振りの刀に、二人の視線は集まった。 「明命にこれを預けたい。亞莎は見届け人になってくれ」 「え?」 「はい?」  男の腰から抜かれたものの正体は二人共に知っている。ただ、愛用の刀を、他人に預けようなどという意図がなにか、それが読めないでいるのだ。 「それは、ええと、真桜さんが打ったものでは……?」  亞莎がずれ落ちそうになっていた片眼鏡を元に戻しながら指摘する。男はうんと爽やかに頷いている。 「そう。真桜が鍛えたすごい刀だね。でも、俺はもう刀なんて握る立場じゃなくなるから」  明命に使ってもらおうと思ってね、と一刀はさらりと言ってのけた。 「ええと、でも……」 「しかし、一刀様……」 「それとね」  反駁の声は、いずれも曖昧に消える。一刀はそれを予期していたのかどうなのか、切り込むようにして囁いた。 「俺が間違ってると思ったら、これで斬ってくれて構わない」 「……え?」 「立場の違いじゃなくて、本当に俺が道を誤ったと思ったら、斬ってくれ」 「か、一刀様?」 「もちろん、そんなことをさせないよう、俺は懸命にがんばる。けれど、もし、俺が何かに目が眩んで、あるいは疲れ果てて諦めてしまったら」  そこで彼は一つ肩をすくめた。重い重い何かを背負った肩を。 「俺を討ってくれ」  沈黙。  先程の温かなものではなく、ただ、張り詰めたものが。 「一刀様」  それでも、手は伸びる。細い指が鞘にかかり、まるで熱いものにでも触れたように一度引っ込められたが、もう一度触れた時にはしっかりと握られていた。 「これを使うようなことには……」  戦場にいる時と同じ、鋭い瞳で、明命は訊ねる。 「そんなことには……なりませんよね?」  決意を固めた友人を支えるように寄り添いながら、亞莎は訊く。 「ああ。悲しい思いをさせないよう励む。そう約束するよ」  道を誤らないよう努めると再び自身の覚悟を告げる男の顔を見つめ、明命は大きく一つ頷く。そして、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべるのだった。 † 「はあ、そんな風に……」 「うん。そうなんだよ。まあ、幸いこれまで討たれるほどの失策は犯していないわけだけど」  真剣な顔で話を受け止めているらしい娘に、一刀はからからと笑いかける。蘭花もついつられてしまうような笑顔であった。  だが、少女は顔を引き締めて、背に負う刀に手を伸ばす。そっと鞘に触れながら、彼女は小さく息を吸う。 「これを受け継いだときに、いざとなれば父母を斬る覚悟をしろと言われた意味がよくわかりました」 「……すまんな」  母の明命にはけして言わなかったであろう事を、父は言った。そのことを蘭花自身が思い返し理解するのは、まだまだ先のことである。  この時はただ、彼女は元気にこう言うだけであった。 「いえ。務めですから!」 「まったく、明命そっくりだなあ」  彼女のそんな様子になんだか嬉しそうな一刀に、彼女のほうも嬉しくなってしまうのであった。 「ところで、思春は今日は城にいるかな?」  しばらく何かを考えていたらしい男は、辺りを見回してそんなことを言う。 「思春義母様ですか? あの方は元々襄樊詰めですし、おられると思いますが……。なにか御用ですか?」 「うん。思い出したことがあるんだ。ちょっと探してくる」 「あ、それなら私が……」 「いやいや、内緒の話だからね」  手伝いを申し出る娘に謎めいた表情を残し、彼は歩み去った。 「は? なにを言っている?」  幸いすぐに思春を探し当てた彼は、廊下を行く彼女に、早速気にかかっていたことをぶつけていた。 「いや、だから、結婚の申し込みの答えだよ、答え」 「莫迦か。なにを今更」  いまも体を鍛え続けている思春は、昔と変わらぬほどしなやかな体をひねって男に背を向け、さっさと立ち去ろうとする。その背に手を伸ばすでもなく、一刀は言葉を投げかけた。 「だって、俺、承諾してもらってないよ」 「なに?」  さすがに驚いて足を止め、くるりと振り返る思春。ここ数年、束ねるのをやめている黝い髪がさらさらと揺れた。 「思い出してくれよ。俺が思春に結婚を申し込んだろ?」 「ああ、そうだな。なんの演出もなく、な」  ふん、と大きく鼻を鳴らす妻に、男は小声で抗弁する。 「小細工したら怒るくせに」 「うるさい。それで?」  肩先を小突かれて先を促されるのに、彼はすらすらと続ける。 「思春は、蓮華に求婚してもいない時点で、自分だけ求婚が受けられるか、と答えを保留した。蓮華には――思い出のある――元夜に求婚するって決めていたからね」  腕を組み、思い出そうとするように俯く思春。男のほうは、彼女の気が済むまで、じっと待っていた。 「ああ? そう……だったような気もするな」 「うん。そうなんだよ。それで、その後、答えをもらっていない」 「はあ?」 「いや、もちろん、婚礼に来てくれたわけだから、それを答えと考えろと言うのはわかる。わかるが、しかし、男としては……」 「ああ、うるさい。わかったわかった」  必死な形相で言い張る男に、彼女は面倒そうに手を振る。犬でも追い払うような仕草であった。  しかし、そんなことでは目の前の男は振り払えない。そんなに簡単に諦める相手ではないと彼女も良く知っているのだ。 「じゃあ、答えは?」 「……今更だろう」  わずかな間を置いて、彼女は低い声で切って捨てる。何年も夫婦として過ごしてきて、なぜそんなことをと思うのも当たり前であろう。だが、男は見るからに不服そうであった。 「えー」 「うるさい。答えだけ求められてもやってられるか。どうせなら仕切り直せ!」 「あ、それもそうだな」  彼女自身は適当に放った言葉に、男はなにか得心がいったようであった。びしりと背筋を伸ばし、彼女に正対した後で、突然に彼はその場に膝をついたのだった。 「お、おい」 「ちょっと待って」  慌てて止めようとする彼女を制して、一刀は彼女を見上げ、礼賛するように手を広げる。 「思春。俺と結婚してくれ。この通りだ」 「ふむ……」  顔つきからして、男はふざけているわけではない。真剣に、求婚の答えを求めているのだろう。だが、その奥にある余裕が、彼女を刺激した。 「さて、どうするか」 「え?」  否でもない諾でもない。予想外の答えに、男の思考が止まった。そこへ、女の言葉が畳み掛けられる。 「私も多少は世に名の知れた人間、甘興覇だ。お前を断っても、それなりにいい縁談が来るやもしれぬ」 「ええっ!?」 「どう思う?」  にやっと笑って男の顔を覗き込む。わなわなと震えていた彼が、それで爆発した。腕を振り上げながら、彼は叫ぶ。 「俺以上に思春を愛している男なんているわけがない! 俺は地上の誰よりも思春を愛しているぞ!」 「こっの莫迦!」  宮殿中に響くのではないかと思われる大声に、思わず彼の頭を張り飛ばしている思春。どべっと床に潰れた彼を、彼女は慌てて抱き起こした。 「まったく……」  ようやく静かになってこちらを見ている男の顔を見つめ、彼女は大きくため息をついた。そうして、口元だけを歪め、彼に向けて手を伸ばす。 「わかった。承諾してやるさ。我が夫君」 「ありがとう、俺の奥さん」  男は、晴れやかな顔で、妻の手を取った。      (玄朝秘史 番外編『北郷一刀の求婚』 前編・終了/後編に続く)