玄朝秘史  第四部第六回『桃花潭水』  1.因果 「お姉ちゃーん? お姉ちゃーん?」  義理の姉の部屋の前で戸を叩き呼びかけていた少女が、我慢の限界に達したのか、ついに扉を無理に引っ張った。がこんとどこかが壊れたような音がするものの、彼女の手によって扉は開かれる。 「あれー? お姉ちゃーん?」  寝室に向かうまでもなく、その部屋に人の気配は薄い。だが、念のため、赤毛の少女は寝室に執務用の部屋、作り付けの厨などを覗き、人影がないことを探る。  最後に彼女は寝台に手を触れた。それはすっかり冷え切っていて、部屋の主が長時間不在なことを示している。 「大変なのだ」  鈴々は真剣な顔でそう呟くと、愛紗をはじめとした皆のもとへ走り去った。  鈴々の報せに、蜀陣営は色めき立った。なにしろ、自分たちの主が潜在的な敵対者ともいえる皇帝候補と話し合いに赴き、それが朝になっても戻ってこないのである。 「ともかく、桃香様の安全を確認せねば……!」  愛紗の台詞は恐怖すら込められたものであったが、他の者たちは目配せを交わし合ってから、おずおずと切り出した。 「そうは言っても……ねえ?」 「正直、命の危険はないように思うが……。いや、貞操のほうはまた別か」 「そちらのほうがよほど危ない」  紫苑、桔梗、星の発言は笑い混じりで、危機感があまりない。だが、それを聞いて気づいたというように、焔耶が顔を真っ赤にして叫んだ。 「て、て、て、貞操の危機など、一大事ではないか!」 「いや、お前が言えることか?」 「それならここにいる者全員言えなくなるだろうが!」 「まあ、そうなのだが……」  思わずつっこんでしまった愛紗も、ついに真面目ぶった態度を崩してしまい、苦笑がいくつか漏れた。  実際の所、皆、心配しているのはたしかなのだが、どうにも一刀が桃香を害するという予測には至らず、いまひとつ緊迫した雰囲気が保てないでいた。  そんな中でも、軍師二人は真剣な調子を崩さない。彼女たちはしばし考えて、さてどうしようかと気まずい雰囲気で話し合う面々に、静かな声で話しかける。さすがにこれには全員が耳を傾けた。 「いずれにしましても、一刀さんのところへ……というのは明白なのですから、まずは一刀さんの部屋を当たるのが一番でしょう」 「ただし……いくらなんでも武器を抜いて多人数で赴くのは問題がありすぎますね……」  雛里の言は尤もなもので、武官たちは多少は不平そうながらも頷いていた。 「そうですね……。まずは愛紗さん、鈴々ちゃん。それに加えて桔梗さん、もしくは紫苑さん。この三人の組み合わせなら、たいていのことはこなせるでしょう」  結局、紫苑が立候補し、その三人が向かうこととなった。  一刀の部屋に向かった愛紗たちが見たのは、いつぞや桔梗と桃香が遭遇したのと同じ光景であった。廊下に机を置き、書類に向かっている音々音と、その脇でぼうっとしている恋の二人である。 「なにをしているのだ?」  しっかりと観察し、恋がぼんやりしているように見えてその実、臨戦態勢……というわけでもないと判断した後で、愛紗が訊ねる。すると、ねねは大きく鼻を鳴らした。 「ねねたちも野暮天じゃないので、邪魔しないようにしているだけです」 「邪魔ってなんなのだー?」 「お楽しみの真っ最中ということですよ」  それくらいわかるだろうに、というあきれ顔で彼女が言うのに、三人は顔を見合わせる。日は中天にさしかかり、もはや真っ昼間だというのに、という疑問符つきの感慨が、どの顔にも浮かんでいた。 「し、しかし、我々は桃香様の無事をだな……」  なんとか気持ちを立て直した愛紗が顔を音々音のほうに戻す。艶やかな黒髪が、ふわりと空間を薙いだ。 「……桃香は無事。だいじょうぶ」  こくりと頷いて、恋は自分の言葉を保証してみせる。再び、三人は顔を見合わせた。 「んー……。恋がこう言ってるし、いいんじゃないのか?」 「それはそれでたしかに説得力があるような……」 「しかし、さすがに……せめてお声を聞かねば……」 「ああ、もうっ」  言い合う三人に堪忍袋の緒が切れたのか、ばんっと机を叩くねね。竹簡ががちゃりと音をたてて跳ねた。 「わかりましたよ。ついてくればいいのです!」  言いながら立ち上がり、手招きする。恋が脇に退き、愛紗たちは机の横を通ってねねの後を追った。 「ほら。知っての通りあの扉ですよ」  忌々しいとでも言いたげに音々音は愛紗が先に行くよう促す。続こうとした鈴々を紫苑が引き留めるのに、音々音は正解ですとでも言いたげに皮肉な笑みを向けていた。  はたして、扉に近づいた愛紗の顔が見る見る真っ赤に染まっていく。扉や窓はしっかりと閉じられているとはいえ、彼女ほどの武人なら中にいる人間の気配や息づかいなど注意すればそれとわかるものだ。  美髪公の足はだんだんと遅くなり、ついには行きつ戻りつ、うろうろとしはじめる。 「そこから漏れてくるのが無理矢理犯されている女の声に聞こえるのなら。どうぞ、その扉を蹴破ればいいのです」 「い、いや、う、うん」  音々音のかけた声にはっと顔をあげしどろもどろに答える愛紗。彼女は首筋まで朱色を浮かび上がらせたまま、慌てた様子で――しかし、足音は消して――音々音たちのところまで駆け戻った。 「桃香様?」 「う、うむ……」  念のため、という風に紫苑が訊ね、気まずそうに愛紗は頷く。 「……帰るのだ」 「ですわね……」  あーあ、とでも言いたげに頭の後ろで掌を重ね、鈴々がぶらぶらと歩き出す。愛紗も紫苑も同意を示して歩みを早めた。  机の所まで戻り、二人に挨拶して皆が去ろうとしたところで、恋がねねの袖を引っ張った。ちょいちょいと机の下を指さす恋。 「ああ、そうですね、恋殿。これも見せておきますか」  体を屈め、机の下の空間からなにかを取り出す音々音。その動きにつられてか、三人が足を止め、彼女の掲げたものに視線を向けた。 「今朝、あいつの部屋の前に並べて置いてあったのですよ」  物騒ですよね、と呟いて音々音が机の上に置いたものは、黒塗りの鞘に収められた一振りの刀と、鍔元が特徴的な宝刀の姿であった。 「お兄ちゃんの刀と、お姉ちゃんの剣なのだ」  ひょいと鈴々が手を伸ばし持ち上げる。それは一体となって彼女の手の中に収まった。というのも、それらら二つが刀の下げ緒でぐるぐる巻きにされていたからだ。  『結ばれた』ことの隠喩だとしたら、実に直接的なものだ、と愛紗は苦笑していた。 「んー?」 「どうした、鈴々?」  持ち上げてはみたものの不思議そうな顔をする義妹に声をかける。鈴々は何度か上げ下げしながら不思議そうな表情を崩さなかった。 「なんだか変なのだ」 「変?」 「貸してみて、鈴々ちゃん」  言葉で表現するのが難しそうな鈴々から、一体となった剣と刀を受け取る紫苑。 「これは……」 「紫苑?」  見る見るうちに青ざめる彼女の姿に、首を傾げる愛紗。しかし、紫苑のほうは、それに構っている余裕はないようだった。恋たちのほうに顔を向け、ぐいと身を乗り出す。 「これ、解かせてもらってもよろしい?」 「別に構わないのではないですか?」 「……傷つけないなら、いいと思う」  二人が頷くのに、彼女は常の動きとはまるでかけ離れた慌てた様子で下げ緒を解き、一刀の刀を机の上に置いた。 「桃香様、お許しを!」  そして、鞘を払った靖王伝家の姿に、全員が息を呑む。 「これは!」  そこで彼女たちが見たものがなんであったか。  それを語るには時を遡らねばならない。  2.決闘  ここに一人の農夫がいたとしよう。彼は毎日野良仕事に精を出し、力もある。たまには動物を屠ることもあるだろう。小刀の扱い方も知っている。  だからといって、彼は喧嘩に刃物を持ち出すだろうか。  するわけがない。  たとえば邑の近くの治安が悪くなり、賊が出たとしよう。その時、彼があてにするのは、第一に邑への出入りを阻む土盛りや塀であり、刀ではないだろう。あるいは投石も手頃な選択かもしれない。  いずれにしても、彼はそう簡単には武器をとったりしない。ましてや人に刃を向けるなど、そうそう出来るものではない。  心理的抵抗というものがあり、平静な心情で得物を構えるなどとても無理というものだ。  兵士を育てる場合、その抵抗を取り除くことが大きな目的の一つになる。  集団行動を取り、部隊の仲間たちとの結びつきを求め、隊規を守らせることで、敵を倒すことに習熟させる。  技術は後からついてくるものである。大切なのは反復訓練で、攻撃という行動をその体に染みこませることだ。それこそ、人を殺すことなど意識させる暇をなくすほどに。  しかし、兵の本分は、集団の構成員たることである。隊伍の中で、仲間と共に動くこと。それが彼らの役割であり、そうした状況で彼らの能力は十全に発揮される。  即ち、一対一の決闘などは兵士の領分ではない。  共に戦う者もない状況で、殺傷能力のある武具を手にした相手に対して同じように刃を向ける。しかも、人を傷つける意志をもって。  それが出来るのは只人ではなく、訓練された兵でもなく、そのために心と体を鍛え上げた武人のみである。  北郷一刀は武人だろうか。  劉玄徳は武人であろうか。  否。  彼は武を頼りにしない。  彼女は剣を振るうことを誇りとしない。  だが、それでも、二人は刃を向け合う。  果たして、ここに恋がいたとして、一刀の代わりに方天画戟を構えたとする。桃香はそれでも剣を抜くだろうか。  もし、桃香の代理として愛紗が立ちふさがったとする。一刀はそれで自らの道を諦めたろうか。  抜く。  間違いなく、彼女は剣を抜く、彼は刃を向ける。  躊躇うこともせず、彼らは剣を抜き、足を踏み出す。  負けるかもしれないと、考えない訳がない。  愚かなことだと思わないはずもない。  恐怖は当然にある。自分が傷つくかもしれない恐れ、相手を傷つけてしまうかもしれないという怖じ気。  それでも、彼は、彼女は、それを行う。  愛しい人を守るため、自らの思いを貫くため、たとえ、どんなに窮地であろうと諦めず、立ち上がる者をなんと呼ぼう。  人はそれを英雄という。  青眼に構えながら、一刀は桃香の姿を観察していた。  靖王伝家を構えるその姿は、予想よりはるかに様になっている。まるで武器の重みや存在すら感じさせない立ち方。  その自然さに、一刀は思う。桃香の武は、あの剣を使うためだけに鍛えられたのだろうと。おそらくは、桃香自身の何代も前からずっとそのために。  一方で、自分の武はばらばらだ。学生剣道、祖父に学んだ剣術、そして、春蘭はじめ豪傑たちに鍛えられたやり方。  そこで学んだものの多くは使えない。  学生剣道はどちらかといえば当てることに重きを置きがちだ。こちらの世界に来てから学んだ実践的な動きは、どちらかといえば、負けぬことにその要がある。  そして、この戦いでは、勝つことこそ求められるのだ。  負けぬ事に徹してきた一刀にとって、技倆がほぼ同じ――実際の所、桃香と一刀の技倆の差など無視できるようなものだろう――相手に勝とうというのは初めての経験かもしれなかった。  だから、彼は考えに考え、そして、結論づけた。  左足をすりながら前に出すと同時に、すうと腕を上げ、青眼の構えから、八相の構えに移り、さらに天を突き刺すように高く刀を掲げた。刀を支える右手を頭の横に置き、左手は軽くそえるだけに留める。  体の前を大きく開き、刃を大きく上に掲げる見たこともない構えに、桃香はいぶかしむような表情を浮かべる。それでも剣先は内心の動揺を反映せず、揺れてもいないのは大したものと言えた。 「これは、蜻蛉という」  防御を捨てたように見えるその型の名を、一刀は告げる。立ち会いの最中に口を開く彼の行動に警戒するようにしながらも、桃香は耳を傾けていた。 「一撃必殺の型だよ。ただひたすら相手より早く打ち込むことだけを考える。蜻蛉は前にしか進めないから」 「……そんなに大きく構えていると、避けられたとき、立て直せないよ」 「ああ、その通り。これは、二の太刀いらずの型だから」 「じゃあ、それを避けて打ち込んだら、私の勝ちだ」 「そうだな」  なんだかほっとするような雰囲気の桃香。おそらくは、自分から打ち込みにいかずにすむ事が、彼女を無意識の部分で安心させていた。  一刀はそれで、自分の賭けが成功しつつあることを悟った。  そして、二人は、一刀の打ち込みの機を窺うように呼吸を揃え始める。 「桃香、君は勘違いしている」  一刀が告げる言葉を、もはや彼女は聞いていない。声など無視させるだけの集中で、彼女は男の構える刀の初動を見抜いていた。 「俺が背負っているのは、魏の国でも、大陸でもない」  なぜ、一刀は蜻蛉のことを話したか。  それは、桃香の意識を一刀の打ち込みへと誘導するためである。それを避ければ、あるいは、逸らせば勝ちだと。  体全体を使っての打ち込み。それに対しては十分に余裕を持って避けるのが最善だ。どれだけ避けても、相手はそれ以上に姿勢を崩すのだから、普通の斬り合いの時のように、ぎりぎりで避ける必要さえない。  しかし、室内という意識が、どうしてもその実行を阻む。現実にはそれだけの空間があっても、屋外と違って狭いという感覚が染みついているため、足を使って避けるよりは、自然、武器をもって弾く、あるいは逸らそうとする。  まして、靖王伝家は一刀の刀のように薄くもろいものではない。その重みと硬さを信じて、桃香は男の刃を弾くつもりで剣を動かした。  それを、一刀は狙っていた。 「世界ふたつ分だ」  猿叫の代わりにそんなことを叫びながら、一刀は打ち込む。心技体、全てをかけた打ち込みは彼の狙い通り、彼女自身ではなく、靖王伝家へと向かう。  するり、と。  そう、するりと、それは刃の中に入り込んだ。  お互いに同じ硬度を持つはずの金属が、まるで片方だけがとろけたように相手を受け入れる。弾くでも、すべるでもなく、割り入っていく。  そして、刃は突き抜けた。  ぱあん、とその時初めて、破裂するような音が鳴った。 「……靖王、伝家……」  呆然と呟く彼女の手に残ったのは、半分ほどの長さになった、もはや剣とも呼べぬ残骸でしかない。  断ち切られた剣の先は、彼女が一刀の刀を逸らそうと動かした勢いのままに飛び、床に突き刺さっていた。  手首を返して首筋に突きつけられた刀の事など目に入らぬように、彼女は自分の剣の先を見ている。断ち切られた剣の先を。 「俺の勝ちだ」 「一刀さんの勝ちだね」  じっと動かない桃香に焦れたように一刀が呟くと、ほうとため息のように彼女は答える。その体が崩れ落ちるのに、慌てて刃を引く一刀。 「ど、どうした?」  ぺたんと座り込んだ彼女はしばらく一刀の声も聞こえぬように放心していたようだったが、のろのろと動き出した。折れた刀を鞘に戻し、そのまま膝の上に置くと、それに重なるように体を折り、頭を下げる。 「負けました」 「う、あ……。うん。」  改めてそんなことを言われると、一刀としてもどうしていいかわからない。ともかく彼も刀を収めると、彼女が立ち上がるのを待った。  だが、桃香にまるで動きはなく、平伏するようにし続けている。その桃色の頭を見ながら、彼は困ったように首をひねっていた。 「桃香?」 「あのね」  ようやくかけた声に、彼女は顔だけ上げて彼の方を見る。へにゃっとした笑みを浮かべて、彼女は泣き笑いのような声で言った。 「腰抜けちゃった」  と。  3.交歓 「うう、かっこわるいよう」  彼に抱き上げられながら、彼女はそんなことを恨めしげに漏らす。腕の中でもそもそと体の安定を探っている温かな体をしっかり持ち上げながら、一刀は苦笑した。 「でも、すごいねー。一刀さん。あんなことするなんて」  ともかく休むために、と寝室まで運ばれていく中、一刀の肩口に捕まりながら、桃香はなぜだか嬉しげに囁く。 「桃香がしぶといのは知ってたからな。終わらせるためには武器を落とすのが一番だと思ったんだよ」  普通に対するのでは勝ち目がないと、彼は判断していたのだった。最初の一撃を逃せば、自分の利はなくなるだろうと。  もちろんそこで狙っていたのは桃香が武器を取り落とすか、体勢を崩すことであったわけだが……。 「まさか、あんな風に折れるとは思わなかったけど……」 「あはは、しかたないよー」  申し訳なさそうに言う一刀に、あっけらかんと彼女は笑う 「あれもうさんくさいものだしね。ちょうどいいんじゃないかな」 「おいおい」 「だって、中山靖王の末裔だって証明する意味なんて、もうないものね」 「まあ……。そうかもな」  皇室に連なる血統であることよりも、現状では蜀の王であることのほうが桃香にとっては大きいだろう。さらに言えば今後の劉家にとっては、劉勝の子孫であることより、劉備の子孫であることのほうが重きをなすに違いない。  とはいえ、文字通りの伝家の宝刀を破壊しておいてなにも感じるなというのも難しいところだろう。かといって、真剣勝負の結果をわびるというのもおかしな話だ。  結局、一刀は彼女を寝室に連れていくまでそれを考えていた。 「そうだ、真桜に頼んで……」  ようやく思いついたのは、彼女を寝台に下ろしたところでだった。こんな簡単なことに気づかなかったのは、彼も緊張が抜けていなかったからか、あるいは、柔らかな体といい香りに気を取られてしまっていたからか。 「ううん。それはいいよ」  一刀の体にしがみつくようにして寝台に寝そべりながら、彼女は首を横に振る。 「あんな宝剣、必要なくなるのが一番だもの」 「そうかもしれないな……」  そこで体を起こそうとして、彼は気づいた。もはや桃香の体は寝台で支えられていて、彼の服をぎゅっと握る必要はない。首の後ろに手を回す必然性はどこにもない。  けれど、桃香は彼の体が離れていくのを嫌がるように、男の服や体にからみついていた。  彼女が気づいていないのかと思ってその顔を覗き込む。吸い込まれそうな深い青の瞳が、しっかりと彼の視線を受け止めていた。 「桃香……」  真名を呼ぶ。さっきまで命を賭けて戦っていた女の名を。 「一刀さん……」  彼女は答える。最前まで思いをぶつけあっていた相手の名を。  ぎっと寝台が鳴った。  それはもう一つの重みを受け止めたため。  彼女は、起き上がる方向には抵抗を示したというのに、彼が自分の体の上に覆い被さるように寝台の上にあがってくるのにはまるで招くように手の力を加減していた。 「桃香」  もう一度囁くように真名を呼ぶと、彼女のまぶたが音もなく落ちる。桃色の柔らかな髪をかきあげて頭の下に手を差し入れる一刀。  そうして、二人の距離はさらに縮まり、彼の唇が、彼女のそれに重なった。  はじめは、触れるだけの口づけ。お互いの唇を熱く燃えるように感じながら、二人は繋がり続ける。  頭の下に入っていないほうの彼の手が彼女の頬を撫でた時、隠されていた瞳が現れる。うっすらと涙の膜に覆われたそれに浮かぶ言いしれぬほどの幸福感。お互いをお互いの瞳の中に収めあう桃香と一刀。  男の唇がわずかに開き、その舌が彼女の赤い唇を舐める。柔らかく、どこまでも滑っていきそうなその感覚に、はあふ、とため息のように息を吐き、桃香の唇もまた開く。  舌が割り入る感覚に目を白黒させる彼女を安心させるためにぎゅっと抱きしめながら、彼の舌はまるで別の生き物のようにうごめいていた。歯列をなぞり、頬の内側をこすり、そして、彼女の舌を優しく包む。  男の熱に導かれるようにして、彼女は拙いながらも舌を動かし、その動きに合わせて一刀のそれがさらなる動きを誘導する。  いつしか、二人の動きは、ぴちゃぴちゃと音を鳴らすまでになって、その口元からは溢れた唾液がたれ落ち、彼女の端正な顔を汚していた。  はあっ、はあっ、はあっ。  切れ切れの、荒い息。  男に玩弄されるようにしながら、なんとか応じている彼女にあったのは、当初はただひたすらの懸命さであった。  相手の動きに合わせることで、喜んで欲しい、求めて欲しい、自分に夢中になってほしい。  そんな心理はずっとあり続けながらも、徐々に、体のどこかからやってくる熱が彼女を突き動かすようになっていた。  舌同士を絡める動きはそれだけで脳天まで突き抜けるような甘いものとなり、一刀が流し込んでくる唾液を嚥下する度に腰の奥からさらなる熱が走る。  その感覚がもっと欲しくて、一刀の事がもっと感じたくて、彼女はさらに激しく彼のことを抱きしめ、唇で彼の唇を愛撫し、男にこの場で教えてもらった動きを舌にのせて、相手の反応を引き出すようになっていく。 「一刀さん、一刀さん、一刀さん」  熱に浮かされたように、彼女は彼の名を呼ぶ。もちろん、それはまともな音の連なりにはなっていない。しかし、当の一刀には伝わっていたし、桃香もまたそれに構っている余裕はなかった。  唾液同士を交換し、どれくらい混じっているのかもわからないお互いの体液を舌でかき混ぜる。そんなことに夢中になっていると、ぎゅうと舌を掴まれ、ひっぱられたりする。  舌というものが、こんなに変幻自在に動くものだと彼女は初めて知り、その動きが招くさらなる未知の感覚に期待と興奮でいっぱいになった。  繋がり合いたいのに、わざとはずされ、歯でこすられ、意地悪されたりもした。  あるいは彼女にはどう表現して良いのかすらわからないような一刀の舌の動きに翻弄され、目の前が真っ白になりかけたこともあった。  もちろん、その全てが快楽であった。  もはや、彼女の顔を汚しているのは一刀と彼女自身の唾液にとどまらず、とめどなく流れ続ける喜悦の涙もそれに加わっているのだった。  ようやく、一段落して舌を離した頃、彼女の体は風邪をひいたときよりもひどく火照って、自分でも恐ろしいほど媚びた調子で彼の名前を呼んでいた。  いますぐこの邪魔っ気な衣服を全てはぎ取って、彼に全てを捧げたいとでもいうように。  だが、まだ、もう少し我慢すべきだ。  桃香はそのことを知っていた。 「ねえ、一刀さん」  唇の端を彼の膚につけたまま、彼女は彼の名を呼ぶ。舌を絡め合っていたときよりも、甘い声で。 「私はあなたの覚悟の重みを知ったけれど、私がそれで引くと決めたからって、蜀がそのまま従うとは限らないよ」  彼の体の下で、彼女はそんな風に告げる。言葉の内容に反して、敵対の意思はまるで感じられなかった。 「そうだな……。愛紗たちの意向はもちろんだけど、それだけじゃないからな」  女の体を組み敷きながら、彼はそれに頷いている。お互いの体温を感じあいながら、二人は深刻な言葉を交わす。 「うん。私としても、一刀さんと二人でこうして……お話しして解決すればいいと思ってたけど、でも、やっぱり厳しいと思うんだよね」 「だろうな。反発があるのは覚悟の上だけど……」  深く見つめ合い、二人はお互いの思いを交換しあう。しかし、さすがに次の台詞は一刀にとっても予想外であった。 「だから、一刀さん。朝廷はうちが引き受けるよ」  4.密約 「なんだって?」  思わず声をあげる一刀の体を、ぎゅうとすがりつくように桃香の腕が引き寄せる。 「朝廷は、私たちが取り込むよ、って言ったの」 「い、いや、それはわかるが、なぜそんな……」 「さっきも言っていたけれど」  桃香はふっと透明な笑みを見せながら続ける。 「一刀さんだって、漢朝を滅ぼすのに抵抗があるってのはわかってるはずだよね。私自身は一刀さんが漢朝に替わって帝となることそのものより、その後の動きの方が気にかかってるわけだけど、でも、そこまで考えなくても、まず漢朝が潰れちゃうのが嫌って人の考えもわかるつもりだよ」  深い藍の瞳を揺らしながら、桃香は彼に訴えかける。一刀はその言葉に引き込まれるような感覚を覚えた。 「そういう人たちは、間違いなく一刀さんに敵対する。その程度がどのくらいかわからないけれどね。でも、そういう人たちが追い詰められて、思い詰めたら、戦やもっとひどい……争乱の種になると思うんだ」 「……そうかもな」  無差別に人々を殺害し、恐怖によって主義主張を通そうと試みる者の存在を知っている一刀としては、桃香の懸念にさらなる戦慄を呼び起こされずにはいられなかった。 「本来なら、それをいまの朝廷がまとめあげて、一刀さんに圧力をかけたり戦いを挑んだりすることになるんだろうけど……。うーん……。ねえ?」 「難しいだろうなあ。陰謀には長けているようだけど、どうにもまとまりがないんだよな。あの人たち」  そもそも、根拠地の洛陽に一刀たちが居着いている事実が、漢朝にとっては実に動きにくい状況を作り出している。常に監視を受けているような状況で、なにか筋道だった行動をとれというほうが難しい。自然、朝廷の動きは権謀術数に傾くことになる。  だが、それでは決着は先延ばしになり、結果として被害は増大しかねない。 「でしょう? だから、私たちがやるよ」  自分のことを見上げ、決意を込めた笑みを向けてくる彼女に、一刀は確認するように訊ねた。 「……桃香? いま、君はかえって俺に利するようなことを言っているんだぜ」 「わかってるよ。一刀さんたちにとってみれば、敵がまとまってくれるほうがありがたいんだよね。でも、私にとってもそれは望ましいことだよ。だって、無計画な暴走で泣く人たちが減るもの」 「まあ……それは、うん」  そこで、一刀はふととある人物の事を脳裏に描き出した。似たようなことを言っていた人間がいたではないか、と。 「なあ、もしかして、七乃さんになにか吹き込まれた?」  だが、その問いに対して、桃香はぽかーんと口をあけてしまう。 「……へ?」 「ああ、ごめん。違うならいいんだ」 「そ、そう? ええと……」  全く心当たりのないことを言われて混乱してしまった桃香は、くるくると表情を変えた後で、ようやく本題に戻る事が出来た。 「私は一刀さんを止めたい。朝廷もそれは同じ。まあ、目指すところは違うかもしれないけれど、共闘は出来る。それに、出来る限り被害を出さないでいたいってところでも、それは理にかなう……。違うかな?」 「うん。それはそうだ。少なくとも朝廷に手綱を持たせるよりは、桃香たちがしっかり監視する方がまだ……」  そこまで言って一刀はどこか遠くを見つめた。自分の腕の中にいる女を労るような口調で、彼は告げる。 「でもね……。あれは、蜀にとって毒かもしれないよ」 「そうかもしれないね」  あはは、と桃香は苦笑いを浮かべる。 「それでも、やっぱり……」 「わかった」  あくまでも決意を変えそうにない桃香に、一刀は大きく頷いてみせる。 「俺も混乱が広がるのは避けたい。桃香が朝廷と手を結ぶことを選ぶならそれはそれで……決着をつけやすくなる」 「うん」  それから桃香は大きく手を開き、改めて一刀の首に手をまわしてから囁くように言った。 「本当は、さっきので終わらせるべきなんだろうけど。そうできればよかったんだけど……。狡いよね、私」 「いいじゃないか」  彼女の髪をなでてやりながら、一刀は元気づけるように笑った。桃香の表情もそれにつられるようにわずかに明るくなった。 「俺は俺の信じる道を歩いている。そのことは桃香にも伝わったはずだ。桃香が同じように自分の思いに正直に進んだ結果、再び戦わなくちゃいけないなら……それは、きっと……」  そこまで言って、ぶんぶんとなにかを振り払うように彼は頭を振った。 「約束するよ、桃香」  そして、彼女に向き直るとそんな風に決然と言い切る。 「今回のことも……そして、俺がその先に進めたとしても、俺は、進んで人々を苦しめるようなことはしない。出来る限り少ない損害で収めるべく努力する」  それでも、彼には損害を出さないとは言い切れない。被害が出ることは、わかっているのだから。それを隠せないのが彼のいいところでもあり、弱みでもあった。 「うん。わかってる」  桃香はふんわりと笑う。 「私は、損害そのものが出ないよう、したい。それを目指す」  そう、桃香はそう言える。わかってはいても、その場にとどまることは許さない。空疎なお題目だと言われても、それでも、彼女はそれを宣言する。  それが彼女の強さであり、したたかさでもあった。 「うん」 「じゃあ、お互い約束だね」 「ああ」  二人は見つめ合い、むつみ合う男女の格好で、しかし、権力者としての言葉を発する。 「私は一刀さんを止めたい」 「俺は止まるわけにはいかない」 「でも、私たちは出来る限り迅速に混乱を収めて」 「人々が苦しまないように、力を尽くす」 「頑張ろう」 「頑張ろうね」  その約束は、二人とそれを支持する人々の対決へと繋がっている。そのことを深く理解しながら、二人は、約束を交わす。  たとえ恋していようと。  たとえ相手をどれほど思っていようと。  彼女は、彼は。  相手の前に立ちふさがることを躊躇わない。 「ねえ、一刀……さん?」  彼の体の上にその身を置く女の声が艶を帯びる。  先程まで彼の胸の中で息も絶え絶えに快楽の余韻に身をよじっていたというのに、再び彼に挑みかかるだけの欲望が充填されたらしい。  疲労もあるだろう。処女を散らしたその夜なのだから、まだ慣れてもいないだろう。  けれども、限られた時は彼女と彼の情欲を駆り立てて止まなかった。  それでも、天井を向いている男は残念そうに首を振る。既に窓から曙光が差し込んでいるのが見えたために。 「いや、そろそろ、まずいんじゃないかなあ?」 「えー? ようやくこつがわかってきたところなのにー」  柔らかな乳房が、彼の胸の上で潰れる。そこから発する熱に押されるように、彼は妥協案を持ち出した。 「うーん。そうだな。俺たちがここにいて無事なことは示すべきじゃないかな」 「そうだね。みんなを心配させちゃいけないよね」  そうして、彼らの刀と剣は扉の外に置かれ、愛紗たちに驚愕をもたらすことになるのであった。  5.元夜  眼下の町並みは、七色の光に覆い尽くされている。  大切な一粒種を抱いた父と母の二人は、宿の三階の窓際に立ち、それを見下ろしていた。  今日は元宵節。正月が終わり、日常が始まる前日の祭りである。灯節とも言われるこの日、街中は光に彩られる。  元宵節には夜はないのだ。  そんな光景を感慨深げに眺めやりながら、蓮華は柔らかな桃色の髪をかきあげる。 「この子を抱いて一刀とこの光景を眺めるなんて、不思議な気分になるわね」 「そうだな」  抱いているのは一刀だけれど、と小さく蓮華は呟く。なにしろ、彼女より一刀が抱いている方がすやすやと眠ってくれるのだからしかたない。自らの不器用さに今更ながらに落ち込む呉王であった。 「よくよく考えると、この子が出来たのは……」 「そ、そうよ。去年の元宵節よ」  少々照れくさげに顔を伏せる二人。思い返せば一年前にこのようなことになると、誰が考えただろう。  それでも、いま、こうして彼と娘と三人で過ごせることが、とても幸せに思える蓮華なのであった。 「なあ、蓮華」  しばらく黙っていた一刀が顔を引き締めて彼女を見つめる。蓮華は彼の緊張をしっかり感じ取りながら、とぼけたように返した。 「うん?」 「あのさ」 「うん」  男がごくり、と唾を飲む音が聞こえてくるようだった。 「俺は来年も、再来年も、君と阿呼と……それに、これから子供をもっと作って、その子たちと一緒に、いつまでもこの光景を見たい。だから」  そこで一つ息を吸い、彼はしっかりと言葉を句切ってこう訊ねた。 「俺と結婚してくれるかな?」  わずかな沈黙。顔を淡く赤に染めて、彼女は彼を上目遣いで見ながら求婚に答えた。 「はい」  と。 「よし!」  思わず拳を握ろうとする一刀。しかし、阿呼を抱いているのを思い出し、あわあわと抱き直した。 「もうっ」 「ご、ごめんごめん。ちゃんと抱くから」  ほら、起きてないよ、と娘を見せる一刀の肩を、蓮華はぴしゃりと叩いた。 「違うわよ。それだけじゃなくて、随分遅いじゃない。私だけのけ者にされるんじゃないかと思ったわよ」 「いやいや、ほら、なんていうか……今夜にしたかったのさ」 「それにしたって……」  まあ、それはわかっていたけれど、と蓮華は口の中だけで呟く。二人はそこで窓際を離れ、部屋の中に用意された卓へと向かった。くーくー寝息をたてている阿呼はふかふかの布がたくさん詰め込まれた籠に収められた。 「それで、求婚行脚は終わったの? 桃香たちなんてさっさと帰っちゃったけど」  桃香をはじめとする蜀勢は、既に帰国の途に就いている。一刀が密かに皇帝に推戴されたあの日――つまりは桃香と一刀が結ばれた日――の二日後にはさっさとひきあげていったのだ。 「ああ……うん。まあ……色々あったよ」  思い出したくないというような顔で言う一刀に、蓮華はつい笑ってしまう。 「なあに? よほど大変だったみたいね。私が聞いているのは春蘭との大立ち回りくらいだけど」  春蘭と秋蘭の姉妹に求婚をした折に、一刀は春蘭との決闘を強要されていた。自分たちを嫁にするならば、それに足る強さを見せてみろというわけだ。  その場で、一刀はこれまで培った技術を十全に発揮しながらも、見事に打ちのめされた。さんざんっぱら負けた後で秋蘭が、 『これほど弱いのなら我らの婿にして守ってやらねばならぬな、姉者』  と春蘭を宥めた――か丸め込んだかした――話は城中でも噂の種であった。  男は苦笑しながら、軽く肩をすくめる。 「正直、あれくらいは予想の内だったんだけどさ」  さんざん打ち据えられて痣をつくるくらいは、そうたいしたことではない、と言いたげに彼は小さくため息を吐く。 「一人一人どうするか考えるのがきつくて」  春蘭たちのように何をすればいいかわかっている相手はそう問題ないのだと彼は言いたいのだろう。蓮華はじろりと彼をねめつけて不機嫌な声を発する。 「自業自得よ」 「はい。もう身に染みてわかっております」  なにしろ五十人にもなろうというのだ。色々と用意するのが大変なのはわかる。  わかるけれども、そんなに数を増やしたのは当の一刀である。そこは自分で責任を取ってもらわねばならないだろう。  だいたい、無事に終わっていなければ、こんな会話もできないのだ。呉の面々にもすでに求婚の申し出はなされていると聞く。  いくらこの祭りにあわせるためだからって、私を最後にするとはいい度胸よね、と思う蓮華ではあるが、一方で、こうして記念となる日を選んでくれた一刀の気持ちを思えば怒るわけにもいかない。 「それで、婚礼はいつ頃を考えているの?」 「だいたい一月後から一月半後を考えてる。そのあたりは、みんなで調整しないといけないわけだけど……」  一刀は曖昧に言葉を濁す。遠隔地にいる人間も多く、予定は流動的という所なのだろう。実際、蓮華たちもそろそろ呉に戻る時期になっている。再び都に来るにも時間が必要だ。 「そう。それで、登極が三月の終わりってところ?」 「四月の朔日かな」 「ふうん」  さらりと重大な事実を漏らす一刀に、大して気にしていない風を装う蓮華。このあたりはもはや計算され尽くした呼吸であった。 「いずれにせよ私たちはすぐに戻ってくるはめになるわけね」 「う……旅程を考えると、そうなるね」 「やっぱりね」  蓮華は顎に指をあて、天井を見上げた。それから、一刀に視線を戻し、阿呼の方へ掌を向けた。 「その間のことなんだけど……。穏がね、この子と自分の子は冥琳に預けていくべきだと言うのだけど、どう思う?」 「え?」 「生まれたての子供に何度も大陸を縦断させるようなことをさせるべきではないということでしょうね。それに、なにより私たちだけなら無理がきくもの」  婚礼にだけ連れてこないというわけにはいかないだろう。それならば、都に預けておくほうが合理的であるという主張は一理あるように聞こえる。  だが、一刀は眉を顰めた。 「……それだけじゃないだろう?」 「まあね」  ひらひらと手を振って、蓮華は声を低める。 「簡単に言うと、呉の地元の人間……豪族たちの反応が読み切れないのよ」 「土地の人間の?」 「私たちは、一刀が帝位につくことに対して、いまのところは静観しているわけだけど、彼らまでそうとは限らない。この子……呉の後継者が一刀の子であることで判断が歪んでいると考える人間が、この子たちを狙わないとも限らない」  物騒なことを言い出す蓮華に、一刀の肩がびくりと震える。それを宥めるように再び手を振って、蓮華は続けた。 「でも、一方で、この子たちを都に残すと言うことは人質を置いていくようなものだと考える者もいるでしょうね。そのあたりをどう勘案するか」  なにか夢でも見ているのか足を蹴るように動かしている赤ん坊を見つめながら、蓮華は重苦しい声で呟く。 「難しいところね」 「そうだな」  蓮華たちは一刀の登極に対して明確な反対を唱えているわけではない。しかし、だからといって諸手を挙げて賛成というわけでもない。あくまで、彼女たちは呉の利益を考え、大陸の未来を考えて静観の態度を取っているに過ぎないのだ。  そして、その態度は一刀の出方次第でどうとでも転ぶ。  だが、それと同様に大きな影響力を持つのは、実際に呉に住む人々の意思だ。豪族連合体の上に孫家政権が立っているというような構造を取る孫呉の場合、豪族たちの意向にはことに敏感に反応せざるを得ない。  下手をしたら内乱に突入してもおかしくはないのだ。ただでさえ孫呉は山越を抱えているのだから。  そんな中で阿呼たちを置いていくというのは、一種の賭けであった。 「阿呼がどう思っているかわかれば一番いいのだけれどね」 「そうもいかないだろう」  肩をすくめながら言う蓮華に、一刀は小さく笑う。 「こちらに預けてくれるなら、もちろん、その間の安全と健康は絶対に保障する」 「わかっているわ、一刀」  蓮華は頷き、しばらく腕を組んで考え込む。そうする内にぐずりだした阿呼の籠に一刀と二人して手を伸ばし、ゆっくりゆすりはじめた。 「うん。決めたわ。離れるのは不安だけど、負担をかけるわけにはいかない。お父さんのところに預けていくことにするわ」 「そうか。わかった」  阿呼が泣き出す前に再び眠りに落ちたのを見て一刀は立ち上がり、蓮華の後ろに回る。彼は、そうして、椅子ごと彼女の事を抱きしめていた。 「ありがとう、蓮華」  それは、なにへの礼だったのだろう。  求婚に応じてくれたことか。  阿呼という娘を生んでくれたことか。  彼女がそこにいることか。  おそらくはその全てをあわせたよりさらに大きな事への謝辞であったろう。 「そうそう、一刀」  抱きしめる男の腕に手をやりながら、蓮華はその温もりを楽しむように味わっていたが、ふと思い出したように顔をあげた。 「今日はとても気分がいいから、いいことを教えてあげる」 「ん?」 「桃香は引き続き紫苑を大使として置いて帰った。そうよね?」 「ああ、そうだな」  蓮華の髪に鼻先を埋めながら、一刀はそれを認める。いまだ正式には一刀は登極せず、魏と蜀の関係は従来通りに存在している。当然、大使はそのまま置かれているのだった。そして、おそらく蜀の首脳部は、一刀との婚儀の話を詰めるためにも彼女がちょうどいいと考えたのだろう。  だが、そこで蓮華は声をひそめ、秘密を打ち明けるようにこう言ったのだった。 「もう一人残っているわよ」 「星が?」  髪を梳りながら稟は鏡越しに一刀と視線を合わせてつぶやく。彼女の寝台に半裸で腰掛けて話をしていた男は、確認するような声に改めて頷いた。 「ああ。どこかに潜っているそうだ。この都にね」  それを探り当てたのは、もちろん明命だろう。詳しいことを蓮華は言わなかったが、呉の諜報網は洛陽でも機能しているらしい。それを知らしめる意味も、この警告にはあったはずだ。 「……あれならやってもおかしくはありませんね。では、やはり朝廷と……」 「星が話をつけに残ったんだろうな」 「蜀の人間は、主の決定に乗った……と」  櫛を置き、くるりと稟は振り返る。髪を解いた彼女に向けて、一刀はゆっくりと頷いた。 「ああ。俺も腹を据えて挑まないといけない」  真剣な男の顔を稟は見つめ、小さく喉を鳴らす。くつくつと小鳥がさえずるような笑いを残し、彼女は外した眼鏡を鏡台に置いた。  そして、ゆっくりと寝台に足を進める。手を広げて彼女を招いている男の下へ。 「いつものことではないですか」  そう、甘い声で囁きながら。      (玄朝秘史 第四部第六回『桃花潭水』終/第四部第七回『起死回生』に続く)