玄朝秘史  第四部 第五回『靖王伝家』  1.面々  全き沈黙に落ちた玉座の間を、柔らかな声が切り裂いた。 「一刀」 「ん」  音もなく近づいていた彼女の手が、男の腕と体の間に滑り込む。意図を察した彼が肘をあげ、その腕に優しく彼女の腕が重なる。 「行きましょう。桂花、春蘭、後は任せたわよ」 「はっ!」  男に導かれるような、その実、女の方が促すような。いずれにしても二人は寄り添いながら歩き出した。  穏やかながら強い意志を込めた瞳を燃やす男と、なにか重荷を下ろしたかのように軽やかな足取りで歩く女。  二人の姿は余りに凛として、誰も声をかけようとは思えぬほどであった。  しかし、男は何かに気づいたかのように首をひねり、皆に声をかける。 「皆、俺は自分の部屋にいる。話があるならいつでも来てくれ」  そして、二人は玉座の間を出ていった。  一刀と華琳の姿が見えなくなると、残された者たちはめいめい思うように動き出した。  すかさず二人の後を追う者あり、別の方へ出て行く者あり、考えをまとめるようにうろうろと歩く者あり、幾人かで立ち話を始める者ありと、実に様々であった。  その中でじっと玉璽のかけらを見つめる軍師が二人。 「詠よ。あれはお主のさしがねか」 「まさか……。冥琳、あんたこそ吹き込んでないでしょうね」  真剣な声で言い交わす中、詠はすっとかがんで細かく砕けた玉を拾う。なにかを考えるように彼女はそれを指先で玩び、冥琳は闇色の仮面の奥から奇妙な光を宿す目でそれを見つめていた。  ふと、後ろで喉を鳴らす音が聞こえ、二人は同時に振り返る。 「なによ、華雄」  そこにいるのは銀髪の武将二人。そのうちで、くつくつと笑い続けているのは、膚も露わな姿の華雄に他ならなかった。 「いやいや。頭でっかちどもがうろたえているな、とな」 「なっ」  絶句する二人に、鉄鞭で音楽でも奏でるように床を軽く叩き続けていた祭が上機嫌な声を上げる。 「ふふん。華雄の言うとおりじゃ。あれくらいで慌てふためくなど、まだまだお主らも肝が据わっとらんわ。あれこそが我等が主。あれこそが旦那様ではないか。やはり、大一番はあの方の地を出すのが一番じゃなあ」  今度は、そのほれぼれと言う祭の姿に笑う華雄。 「それに焚きつけられて、ついつい昔の名など出したか?」 「うむ。つい燃えてしまったわ。お主には、あの将軍号も懐かしかろう?」 「ああ、勝手に名乗っていたあれな」 「ふんっ。堅殿があの後朝廷に交渉して、一月ばかりは任じられておったわい」 「積んだ金が一月分だったわけだ」 「うるさいわ。……じゃが、それももはや隔世の感ありじゃな。なにせ……のう」  しっしと犬でも追い払うように華雄の言葉を振り払い、祭は肩をすくめる。彼女の言いたいことを、周囲の人間はよくわかっていた。 「そう……ですな。おそらく、この国はひっくり返りましょう。儒なぞは絶えるやもしれませぬ」 「ほう?」  冥琳の言葉に、二人の武将の眼が細められる。大陸が大騒ぎになるということまでは容易く考えられるものの、儒教への影響など想像もしていなかった二人である。 「儒ははびこりすぎました。漢朝と一体となりすぎました。老荘がそれにとってかわるとは言いませぬが……。おそらくは、様々な変化と共に」 「だいたい、儒教の徒が、あいつのあのやり方を認めるとは思えないしね」 「孔融が死んでいて助かった、というところか」 「ははっ。たしかにそうですな」  軍師二人の説明に、祭はいかにも実際的な事を吐く。それに釣られるように、冥琳は大きく笑っていた。 「まあ、ちょうどいいというものだ。それに、おそらくは儒どころではなかろうさ」  獰猛に歯を剥く華雄にやれやれと肩をすくめた後、詠はこちらに向かってくる月の姿を見つける。 「……ま、あいつの後始末はボクたちの仕事よね」  どこかで見つけたのだろう掃除用具を持ってこちらにやってくる親友の姿を見て、彼女は皮肉げに微笑むのだった。  斗詩は、猪々子と共に主たる麗羽に従って廊下を歩いていた。しかし、当然のように一刀の部屋へ向かうと思っていたその足は、どうも自分たちの私室に向かっているように見える。  しかも、先程から気にかかって仕方ないのだが、麗羽は一刀の部屋に集められて以来、ほとんど口を開いていないのだ。感嘆の息や驚きくらいは示したような気もするが、まともに言葉は聞いていない。  一体、なにを考えているのだろうと、目の前で揺れるよく手入れされた金色の髪を見つめながら、彼女は不安を覚えずにはいられないのだった。 「あのー、麗羽さ……」 「斗詩さん、猪々子さん」  意を決して声をかけようとしたところで、麗羽がくるりと振り返り、出鼻を挫かれる斗詩。黄金色の髪がまるで外套のように広がった。 「は、はい?」 「なんですか、麗羽さまー?」  どぎまぎしながら答える斗詩と、のんびりといつも通りに返事をする猪々子。そんな二人に向けて、麗羽は真剣な顔つきになった。 「あなた方には南皮に行ってもらいますわ」 「南皮に、ですか?」  南皮は彼女たちにも馴染み深い、麗羽のかつての根拠地である。この都からもそう遠いわけでもなく、行くことに苦労はないが、なぜ、いま南皮へ向かわねばならないのか。 「華琳さんから返却されたわたくしの私邸、珍宝貴宝の数々……。領地そのものは華琳さんに渡り、ある程度は接収されたにせよ、個人の資産としてはなかなかのものですわよね?」 「そりゃ、姫の一族が代々搾り取ってきたものだからなー」 「ぶ、文ちゃん」  悪意などまるでなくひどいことを言う猪々子に斗詩はおろおろしはじめるが、麗羽の方は気にした風もなく話を続けている。 「それらを処分して欲しいんですの。あんまり売り急ぐと買いたたかれますから、まずは値踏みだけでもよろしいでしょう。それから、なじみの商人たちから出来る限りの支援をとりつけてきてくださいな」  支援とは、要するに借財を頼んでこいというのだ。 「あの……麗羽様? なんでそんなにお金が必要なんです?」  現状、三人が暮らすのに不自由はない。麗羽が多少贅沢をしたがってもそれに対応できるくらいのものはある。それなのに、そんなに金を集める必要がどこにあるというのか。  麗羽はわずかに首を傾げ、何ごとか考えるような仕草をした後、改めて二人を見やった。 「斗詩さん、猪々子さん。あなたがた、我が君の国作りの根本議論に口を挟める頭が自分たちにあるとお思い? わたくしも含めてですけれど」 「いやー、そりゃ無理じゃないっすか。あたいや麗羽様はもちろん、斗詩だって軍師たちにはかなわないっすよ」 「そりゃそうだよ……」  明るい調子ではっきり言い切る猪々子に、斗詩は疲れたように同意する。この三人だからこそ自分がなんやかんやとやっているのであって、大陸でも指折りの頭脳集団と比べられても困るというものだ。 「ならばわたくしたちは、わたくしたちの成すべきことに努めるまで。我が君は意欲と決意を示された。けれど、あれだけのことには莫大な金銭が必要となるでしょう。華琳さんはあの方を支えるでしょうけれど、大勢力だけにかえって身動きが取りづらいこともおありでしょう。我が君が自由に動かせる資金を作っておかなくてはなりませんわ」 「その……袁家の財を全て、一刀さんのために……?」 「おー、太っ腹っすね、麗羽様」  驚きを飛び越えて不安そうに訊ねる斗詩と、楽しそうに――おそらくは他人事と割り切って――言う猪々子の二人の対称的な姿に麗羽は雅やかに微笑む。 「どうせ、身一つで流浪してきたわたくしたちではありませんの。たまさか華琳さんが返してくれただけで、一度は失ったもの。なにを躊躇う必要がありますの?」 「うんうん。ですよねー。それにアニキが大陸を制覇したら、何倍にもなって返ってきますもんね!」 「ま、まあ、そうなの……かな?」  麗羽に調子を合わせているのか、それとも本音なのか。あっけらかんと言い切る猪々子の様子に、斗詩は首を傾げながらも同意する。  金銭的なものがそうそう戻ってくるとは思えないが、名家に仕えている身としては、名声を含めて財産であることは身に染みて分かっている。ましてや袁家はこのままいけば皇族に組み込まれるのだ。一刀の拓く国に力を尽くすことが利益とならないはずもない。  そうして、ようやく斗詩も笑みに近い表情を浮かべたところで、うんうんと頷いて麗羽は勝ち誇ったように宣言する。 「なにしろ、わたくし、賭けに負けたことなどありませんもの」  そうして、軽やかな高笑いが、宮城に響き渡るのだった。  2.英気  自室に帰り着き、華琳が部屋の扉を閉めるのを確認すると、北郷一刀は崩れるように椅子へへたり込んだ。その様はあまりに力なく、くたびれ切っているように見えた。 「ちょ、ちょっとどうしたのよ!?」 「……つかれたー」 「はぁあ?」  素っ頓狂な声をあげてしまった華琳は、一刀のぼやけたような声を聞いて、怒気まじりの呆れ声をあげる。 「まったく、部屋にいたってここは王城の中なのよ。そうそう気を抜くものではないわ」  つかつかと歩み寄り、彼の対面に座って、彼女は表情を緩めた。本当に疲れているのが目に見えるほどであったから。 「とはいえ、あの大舞台。よくやったわよね」  言いながら、華琳は袖の中から小瓶を取り出し、一刀に手渡した。 「そう言ってもらえると……って、なに?」 「飲みなさいな」 「ありがとう。……うわっ、あつっ」  手渡された小瓶を一気に煽る一刀。すると、途端にその体が跳ねあがった。がたんと音をたてて椅子に落ち、指先までぴしりと力を込めながら、一刀は真っ赤な顔を彼女に向ける。舌を突き出しながらなにも話せないでいる男の姿にくすくすと笑い声をあげる華琳。その金の髪が緩やかに揺れた。 「強壮剤と火酒をまぜた特製気つけ薬よ。効くでしょう?」 「くうっ、た、たしかにな!」  ひーひーと息を吐き、一刀はようやく落ち着いたようだった。それでも、先程の泥のような力の抜き方はしていなかった。 「やっぱり、かなり無理していたのかしら?」 「言動は本心からだけどな。……でも、なんていうか、自分自身へのけじめとか、皆にそれを示すのとか……。やっぱり、こう、緊張するだろう?」 「戦も政も本気でやればそれだけ消耗するというのはわかるけれど、だからといって、そう簡単に崩れられては困るわよ」  戒めるように言いつつ、華琳は思い出すように視線を動かし、優しく彼の腕に手を置いた。 「まあ、今回は美羽のお陰もあって、劇的に動いたことでもあるし、ある程度は仕方ないのかもね」 「ああ、ちゃんと見てたんだ」  感心したように言う男の台詞に、彼女の顔は途端に真っ赤になる。ぴしゃり、と華琳の掌が彼の腕を叩いた。 「し、失礼ね。少し気を取られていただけでしょ!」 「はは。うん、でも……美羽には悪いことしたな」  さすがに後悔したように何度か頭を振る一刀。 「そうかしら?」  なにやら耳を澄ましている華琳の様子に首をひねりながら、一刀は自分もそれを聞き取ろうと注意を向ける。その耳に、外からわずかに漏れ聞こえてくる会話。 「いやー、あっぱれ、あっぱれ、さすがは一刀よのう」 「ほんとですねー、お嬢様ー」  だんだんと近づいてくるお気楽な遣り取りに華琳が肩をすくめてみせた。 「なんだか気にしてないようだけど?」 「おいおい。さすがだな……」  呆れていいのかほっとしていいのかよくわからないという複雑な表情で、一刀は笑った。  ばーんと大きな音を立てて扉が開き、きゃらきゃらと笑い合いながら、美羽と七乃が現れる。 「一番乗りがこの二人とはね」 「ふふん。妾たちは、一刀の最古参の郎党じゃからの」  華琳の漏らす感慨に、美羽は小さな胸を張ってみせる。それから彼女は豪勢な衣装を翻し、一刀の方へ向き直った。 「なかなかの見物であったぞ、一刀。玉璽をあのように使うとはさすがの妾も思いつかなかったのじゃ!」 「そ、そう。気に入ってくれたようで……なにより?」  褒められるとは思っても見なかった一刀はどう反応していいのか戸惑うように曖昧な笑みを浮かべる。 「ちともったいない気もするが、ま、あれでよいのじゃろ。きっと」  うむうむ、と一人納得するように頷く美羽の姿は、あくまで物体としての玉璽を惜しんでいるように見える。その持つ意味などまるで気にしていない風であった。 「ちなみに、妾の用はこれで終わりなのじゃ。一言言うてやろうと思うての。で、七乃がなにやら進言があるらしいぞよ」 「七乃さんが?」  皆の視線が、にこやかな表情を保ち続ける七乃に向かう。猫のように目を細めながら笑うその顔に、なにやら底意地の悪いものを見て取ってしまうのは穿ちすぎであろうか。 「たいしたことではないのですけどねー?」 「もったいぶるのはよしなさい。一刀はどうやらお疲れのご様子だからね」 「でしたら、閨でお慰めしてからにしたほうがよろしいですかねー?」  艶っぽい流し目を送る七乃に、一刀はにやりと笑って見せる。 「魅力的な申し出だけど、遠慮しておくよ。楽しみは後に取っておく方が良い」 「こういうのはこういうので可愛くないんですよね」 「それには同意するわ」 「うむうむ」 「俺になにを求めているんだ」  はあ、となにかがっかりしたかのような息を吐く七乃に、美羽も華琳も賛同するような態度を示す。一刀としては立つ瀬がないというものだ。 「で、おふざけはともかく、なにを言いに来たの?」 「ええとですね……」  ようやくのように七乃が身を前に乗りだして話し始めようとした時、部屋の外から言い争いのような声が聞こえてきた。だんだんと大きくなるそれは、最前の美羽と七乃のように一刀の部屋へと近づいてくる一団の声。 「むう、なにやらうるさいのう」 「あの声は、ねねか?……ちょっと見てくるよ」  集団の中で最も語気荒く気炎をあげている少女の声を聞き分け、一刀は腰を上げる。彼を訪ねてくることは間違いないだろうから、と華琳も美羽たちも止めようとはしなかった。 「……詠の言うことは理屈としてはわかりますが、実際に国を建てるとなれば、そのような……」 「だからって、このままでいいと思うわけ? あんたが裏切るとかそういうことを言ってるわけじゃなくて……」 「論としては面白いですが、機構として成立するまでは……」 「そもそも、おにーさんの意思はどうなるのですか? 風としては、あんまり強制的にそれをやろうとするおにーさんの図が思い浮かばなかったりするわけですがー……」  扉をあけた一刀が目にしたのは、廊下を歩きながら賑やかに論議する女性たちの姿であった。  主に意見を口にしているのは音々音に詠、稟に風。その横を呆れたような顔で歩く桂花、黙って論議に耳を傾けている冥琳、面白がっている様子の雪蓮、聞いているのかいないのかよくわからない表情の恋と八人連れであった。  部屋の中で思っていたよりも大人数が現れたことに驚きつつ、一刀は扉を大きく開け放ち、皆を招くように手を広げた 「やあ、いらっしゃい」  声をかけた途端、論議はぴたりと止み、全員の視線が彼一人に集まった。その視線の圧力にたじろぐ一刀。 「いらっしゃい、じゃないわよ。華琳様はおいでなの?」 「うん、いるよ。あと美羽と七乃もいる」 「あっそ」  後の二人にはまるで興味なさそうに答えて、桂花はさっさと一刀の横を通り抜け、部屋へ入っていく。それを皮切りに残りの七人も彼の部屋へ足を踏み入れた。 「あとどれくらい来るのかな?」  扉を閉めようとして、一刀はもう一度廊下を見て呟く。いまのところ他に姿は見えないが、これ以上の人数が来ると、それなりに準備が必要になる。 「桂花?」  一刀の疑問に答えるように華琳は己の軍師へと目を向ける。桂花は猫耳頭巾を脱いで華琳の問いに答えた。 「はい。凪、沙和、真桜は城下の警邏に向かわせました。春蘭は予定通りに演習に出ております。秋蘭は天宝舎、季衣と流琉の二人は城内にて待機。もしなにかあっても外の春蘭と内の親衛隊という布陣で対処できるでしょう」 「……ということで、魏の面々はこれ以上来ないわ」 「ふむ」  桂花の説明に頷く一刀だが、雪蓮は呆れたように目をくるりと回していた。 「予定通り演習……ねえ。事前に兵を集めてあったわけ?」 「それくらいの備え、当然でしょ?」  華琳が新しい帝を推戴するという情報は、朝廷にも漏れ伝わっている。否、華琳自身がそれを画策した節もある。となれば、何ごとが起きてもいいように準備を進めておくのは当然のことであった。 「祭殿と華雄はどこぞで祝杯をあげるなどと言って消えたな」 「月は天宝舎に行ってるわ。あと、天和たちは新春公演の演目を変える打ち合わせをするとかで小屋に戻ったはず」 「残るは騎将四人と袁家の三人くらいですか。白蓮や馬家の二人などは、後で現れるかもしれませんね」  冥琳、詠、音々音が他の人間の動向を補足していく。  あと三人程度ならこの部屋でもなんとかなるか、と一刀は安心して、別の話題に移るのだった。 「それで、さっきはなにを話していたの? あんな大声で」  3.糊塗 「それです! 詠のやつが、このねねに恋殿から離れろなどというのですよ!」  一刀が水を向けると、拳を突き上げて、音々音は猛烈な勢いで叫ぶ。恋のほうはなんだか困ったような顔をしていた。  それに対し、ふふん、と鼻を鳴らす詠。 「莫迦ね。なにもそうしろとは言ってないじゃない。恋に仕え続けたいならそれはそれでいいと言ったはずよ。ただ、こいつの側近として意見を言うなら、直臣となるべきだと言っているだけで」 「そ、それは、ですから……」  もごもごと語尾を濁す音々音。彼女は一刀の顔を見、恋の顔を見、もう一度一刀の顔を見て、顔を真っ赤にした。その目尻にはうっすらと涙が盛り上がっている。 「しかし、詠ちゃんの論理に従いますと風たちもものを言えなくなるわけでしてー」 「たしかに少々困りますね」 「言っておくけど、私は華琳様の下から動くつもりはないから」  黙ってしまったねねに助け船を出すように、のんびりと風が呟き、稟が眼鏡を押し上げながら、あまり困った様子でもない声で同意する。一人、桂花は憎々しげに一刀の方を見て噛みつくように宣言していた。 「うーん、それについては……」  なにか言いかける男の腕に、そっと手がかかる。見れば、袖に指を触れているのは華琳であった。 「申し訳ないけれど、あなたの言葉は決定事項になりかねないから、少し待ってくれる?」 「あ、うん」  一刀の同意を得て、華琳は皆に向き直る。部屋の中でただ一人椅子に座っていてその視線は低いはずなのに、なぜか高所から見下ろされているかのような感覚を、皆は覚えていた。 「このことはこれからも何度も言うことになるでしょうけれど、一刀には私の傀儡で終わってもらうつもりはないの。そんな面倒なことするくらいなら、自分でやるほうがいいもの。そうでしょう?」  訊ねかける言葉に、一同の中で小さな笑いが起きる。それはその通りであろう。華琳が一刀を推したことに対しては様々な思惑があるだろうが、その主な動機に彼女の権勢欲をあてる者などこの中にはいるはずもなかった。 「であるならば、ここからは『北郷一刀の臣』が中心になって動くというのには賛成。もちろん私も協力するけれど、逆に私を利用するくらいの気構えでいて欲しいところだわ」  しんと静まりかえる部屋。  その静寂を破るのに空咳を一つして、冥琳が口を開いた。 「だが、魏の三軍師が抜けるのはどうだろうな。華琳殿を通じて意見を出してもらうでもいいかもしれんが、それでは、建国の初期の慌ただしい時期には少々……」 「あのー、ちょっといいですかー?」  冥琳が滔々と意見を述べている間に、一刀の脇腹をつんつんとつつく指がある。くすぐったさに体をくねらせながら、彼はその動きの主を振り返った。 「ああ、ごめんね、七乃さん。七乃さんの話はこの後に……」 「いえ、それは分かってますよ?」  言い置いて、彼女は声を高め、皆の注意を惹こうとする。 「いまの話題についてちょっと整理させてもらっていいですかー?」  異議を申し出る者がいないのを確認して、七乃は身振り手振りを交えながら、話を始める。 「要するに詠さんや華琳さんは、現状の主従関係を解体して、一刀さんに直に仕えるべきだという話をしているんですよね?」 「そうね。まあ、全てを解消しろとは言わないけれど。たしか、一刀の構想では、魏は魏として国を保つようだから、そのための人員は必要なわけだしね」 「それに、別に心の中までこいつ一色にしろって言ってるわけじゃないわよ。そんなのどうやったって外からはわかるものじゃないし、形式的にこいつをたててくれればそれで組織としては問題ないわけだから」  それに、どうせ、みんな、別の結びつきはあるわけだし、と小声で付け加える詠。なんだかふくれっ面で言う彼女の姿をほほえましく見守る者もいた。 「ちなみに私は冥琳が部下でなくても構わないけどねー。だって、それくらいで切れる絆でもないしね。ねぇ?」 「ふん。なにを言うか」  それに対して、断金組のように気にしないと示す者もいれば、俯いてぶつぶつと何ごとか言い続けるねねのような者もいる。 「しかし、しかし、ですよ? 形式上とはいえ、恋殿の下を離れるなどと……」 「……ねね」 「わ、わかっておりますよ。恋殿の広いお心はわかっているのです。しかし……」  赤毛の女性の手が、ねねの肩にのり、優しくなでる。その温もりに、かえってねねの声は涙にくぐもっていく。 「あのー、そう皆さん先走らないで欲しいんですけど」  困ったように七乃は続ける。彼女としては、なにもそんな難しいことでもないだろうに、と思っている様子であった。 「いい誤魔化し方があるんですけど、聞きません?」 「誤魔化し方ってあんた……」 「堂々と言うことですか」 「さすがは三国一の悪女ですねー」 「だって、形式とか言ってるじゃないですか。同じですよ。それから、悪女とか言われてませんからねー」  桂花、稟、風の三軍師の言いようを、彼女はにこにこと笑って受け流す。 「それはともかく、皆さん、一刀さんに仕えるのに抵抗を感じるなら、忠誠の対象を拡張すればいいんです」 「拡張?」 「ええ。たとえば私なら、いつかお嬢様が産む……袁家を継ぐであろう御子様の父親に仕えている、と考えるんです」  そこで七乃はばん、と一刀の背中を叩く。 「そうでしょう? どうせ恋さんの子供も、雪蓮さんの子供も一刀さんの種ですからね。問題ありませんよ」  ねえ、美羽様? と訊ねかける七乃。しかし、当の美羽は興味がなかったのか、ぼんやりとう、うむ、と答えるばかりであった。 「華琳様の御子様ですかー。たしかにそうですねー」  美羽から面白い反応が引き出せなかったのが残念なのか、頬を膨らませる七乃を他所に、皆は彼女の言葉にある程度の理を見いだした様子であった。ただし、それで心底から納得したというわけではなく、妥協するならばそのあたりといったところであったろうが。 「桂花さんや夏侯のお二人あたりはそれでもやっぱり華琳さんにお仕えしたいというなら、それこそ魏の代表――つまりは華琳さん――の代理として参加すればいいんですよ。いまの魏の面々全員が華琳さんを通してってなると、たしかに面倒なんですけどね」 「ふむ。さて、一刀はどう思うのかしら」  華琳が最終的な決断を促すと、一刀は頭をかきながら答える。 「そうだな。詠や華琳の言うとおり、魏の傀儡政権にするわけにはいかない。それに俺に仕えてくれるというなら、それは本当にありがたいと思うし、未来の子らのために働くというのもすばらしいことだと思う。ただ、やはり、既存の関係をすぐに壊すというのも性急に思える」  そのあたりについても、これから詰めていきたいんだ、と彼は言った。それから、わずかに首をひねる。 「そもそも大前提として、俺に協力してくれると思っていいんだろうか?」 「当たり前じゃない」 「今更ですかっ!?」 「さすがにそれは減点だと思いますよー、おにーさん」  楽しげに笑う雪蓮、驚いたように硬直する音々音、宝ャをゆらゆらと脅すように揺らす風。三人の言葉は、この部屋にいる者たちの意見を代弁しているのは明らかで、一刀は自嘲の笑みを漏らさずにはいられなかった。 「いや、うん。わかってはいるんだけど……。なんだろうな、こういうのは」  頼りなげに笑う一刀に、皆は視線を合わせて会話を交わす。まったく世話の焼ける、と言いたげな者が幾人もいた。 「戸惑うのもしかたあるまい。我らは近しい間柄とは言え、政治的に一枚岩な顔ぶれとは言い難い。あけすけな言い方をするならば、それぞれの思惑も背後関係もあるからな」  だが、と冥琳は忠告するように続けた。 「それらを超えたところで、皆……少なくともあの場にいた三十人は、一刀殿、あなたの決意を知っている。力を貸すにせよ、敵するにせよ、それなりの敬意と覚悟を持って挑むはず。それを忘れてはいけないぞ」 「そうだな……」  男は諭されたことを呑み込むかのようにぐっと体に力を入れ、姿勢を正した。 「よし。じゃあ、これからいろんなことを話そう。幸い、まだ国は出来ていないからな。なんでも話していこうじゃないか」  そう、皆に告げて。  4.進言 「では、まず私たちの話を聞いてもらいましょうか」  華琳は三軍師たちに合図をするように手を振る。それを受けて、三人は前に一歩踏み出し、一刀に正対した。 「一刀殿。真実を打ち明けましょう。我らはずいぶん前からあなたを帝にすえることを念頭に動いてまいりました」 「具体的には稟ちゃんが阿喜ちゃんを宿す前からですねー」 「それって二年以上前じゃないか……」  準備をしてきたのは知っているが、そんなにも前からの事であったか、と一刀は思わず昔のことを思い出してしまう。呉に発つ前、最初の子の懐妊を告げられた時まで遡って。 「思い出さないかしら? 大使として旅立つ前に、あんたが狙われたこと」  桂花の言葉に、冥琳、雪蓮、詠、恋、音々音が顔を見合わせる。彼女たちはその頃から特に深く一刀と接するようになった者たちである。ことに恋など件の暗殺未遂を理由に一刀の護衛としてついた経緯がある。 「あの頃から朝廷がかぎつけてたっていうの?」 「具体的にはわかってなかったと思うわ。ただ、一刀が私の計画にとって不可欠な存在だということはわかっていたようね」  詠の質問に、華琳は軽い口調で重大な話を打ち明ける。華琳たちにとっては過ぎたことでも、今更に聞かされる者たちにはかなりの衝撃であった。一刀当人など、もはやどういう表情をするべきかわからなくなっている始末だ。 「そうでなくとも、おにーさんは重要人物なわりには武名があるわけではなかったですからねー。簡単に潰せちゃうと考えてたんでしょーねー」 「藪をつついて出てきたのは、蛇どころか龍だったわけね」 「本当はあと数年……二年ほどは臥龍でいてもらう予定だったのですが」  雪蓮がくすくすと笑うのに、稟が肩をすくめる。どうやら、予定を立てていた者のほうでも変更が様々に生じていたようだと皆は察した。 「正確に言えば、一刀は唯一の候補者というわけでもなかったのよ。かなり有力ではあったけれどね。それこそ、二年前の時点では他の者を推すこともありえたし、私自身が帝になるという選択だってありえたでしょう」  そこで華琳は一刀の事を見つめる。それから、愛おしげに己の下腹をなでた。 「でも、色々とあって……特に一刀自身のことを考えて、私は最終的に彼だと決めた。そして、事を早めた理由はいくつかあるけど……ま、一番大きいのは、これね」 「俺と華琳の子だな」 「ええ」  自分のお腹を見下ろす華琳と、その姿に温かな視線を向ける一刀。その構図は、見る者に嫉妬を抱かせるほど麗しいものであった。 「なんとーっ!」  部屋の中で飛び跳ねて驚きを示したのはただ一人。音々音は、周りを見回して、 「がーっ。また驚いてるのはねね一人ですかーっ」  と怒りとも悔しさとも言えぬ叫びを発していた。 「それはともかく、これを見てもらえますか」  とてとてと進み出た風が、ぱんっと畳まれていた紙片を一気に開き、頭の上にかざした。 「これって……書式からすると、勅ね?」  内容を読み取った詠が訊ねると、桂花が頷く。 「草案だけどね。朝廷のやつら、桃香のやつを大将軍にするつもりよ」 「大将軍……か」 「つまり、朝廷は桃香殿を漢の後継者として名指しするということです。漢中王に大将軍。次代を担うには十分でしょう」 「そこまではいかなくとも、支援者としてあてにしてるのはたしかでしょうねー」  実際には発せられていない勅書であり、現状では麗羽が大将軍位に、華琳が丞相位にあるため、止められる可能性も高い勅である。しかし、朝廷側の意思は示されるし、それを受け止めるほうにとっても重要なものである。 「こっちが急いだら、あっちの反応も強くなったというわけ。ただ、どちらが先かというのはもはや意味のない議論だけれどね」  華琳がそう言って風に紙片をしまわせ、ひとまず自分たちの話は終わりだと示す。様々に考えるべき材料だけを与えて、華琳は話を終えるつもりのようであった。  翡翠色の髪をいじっていた詠はひとまずそれらのことは置き、一刀に確認する。 「ところで、あんた。さっきの様子を見ると、禅譲を受ける気はないと考えていいの?」 「うーん。俺としては、前の王朝にはきちんと幕を下ろすべきだと思うんだ。はっきりとした形でね」 「禅譲ではなく廃位を求める、ということね?」 「そうだな。俺は俺自身の新しい国をつくる。それを認めるかどうかは……まあ、あちら次第だろう」  男の意を悟った者たちが、ちらちらと視線を交わし合う。その中で、切れるような美貌にさらに獰猛な表情をのせた雪蓮が、挑みかかるように告げた。 「戦は避けられないわよ、一刀」 「……しかたない、とは言わない。それが、俺の選択だ」  ぐっと顎を引き、雪蓮の言葉を受け止める一刀。その表明に皆が息を呑んだ所で、場違いに明るい声が響いた。 「はいはーい。そこで進言がありまーす」  ぶんぶんと手を振ってにこやかに笑うのは七乃。 「ちょーっと悪だくみのご相談なんですけどねー?」 「……悪だくみ……」  ぼそりと恋が繰り返すのを無視して、七乃は続ける。 「敵を作りましょう、敵を」 「なんだと?」 「敵ですよ。新しい国を建てるんだったら、敵を作ってそれを撃破するのが一番じゃないですか」  さも当たり前のように言って、彼女は一刀の方へ首を伸ばす。 「一刀さんは出来る限り犠牲が出ないほうがお好みですよね?」 「そりゃそうだ」  一刀は彼女の問いかけに即答した。 「でも、だからって、まるっきり犠牲もなしに呉、蜀を納得させられるなんてお考えではないでしょう。違います?」 「……そうだな」  今度の答えはわずかに遅れる。 「だったら、最小限の犠牲で最大の効果を発揮すべきです。流れに任せるのではなく、ちゃんと計画を立てて、敵を下しましょう。その後の国を見据えて」 「ふむ、なにやら陰謀めいたことを言い出すと思ったら、案外まともではないか」 「ひどいですねー。みんなが言いにくそうなことずばりと言ってあげたのにー」  皮肉げに呟く冥琳にわざとらしくむくれてみせる七乃。そのあからさまな仕草に、ほとんどの者が苦笑を漏らした。 「でも、どうするわけ? 現朝廷は放っておいても敵になるわけだけれど、それ以外は考えないの?」 「いえいえー。もちろん、最小限の犠牲を狙うんですから、まとめられるものはまとめちゃうんですよー」  桂花が言うのに七乃は簡潔に答える。しかし、それでも軍師たちには十分であったらしく、色々と思考を走らせ始める。 「ふむ。いずれにせよ漢朝は倒すとして、後から叛乱の芽がぽこぽこ出てこられても困るわね……」 「一つにまとめて潰してしまうと言うのはいい手かもしれません。こちらの力を見せる意味もありますし……」 「最も望ましいのは決戦だな。一度の大戦(おおいくさ)で決着をつけられれば、犠牲も少なく……」 「しかし、敵と言いますが、難しいですよ。実は我々も多少それを指向した策をしかけてみたことがあるのですが……」 「でも、稟ちゃん。あのときとは情勢が……」  活発に意見を交わし始める皆の姿に満足げに頷いて、七乃はしばらく耳を傾けていたが、再びぶんぶんと手を振った。 「はい、そこでですねー、一つ策があるんですー」 「なに?」  一刀が促すのに、にんまりと笑ってみせ、彼女はよく響く声でこう言うのだった。 「婚礼です!」  5.皇妃 「一刀さん、まさか、華琳さんとだけ結婚する、なんて言いませんよね? 言いませんよねえ?」 「そうじゃ、そうじゃ。まさか華琳だけを妻とするなどとは言うまいな!」  ずい、と七乃は体を前に出す。それに割り込むようにして、美羽の小さな体が飛び出してきた。一刀のほうへぐいぐいと近づく二人。 「い、言わないよ、そりゃ。それより、ちょ、ちょっと、二人ともそんな詰め寄らなくても」  後ろに下がれば二人が転んでしまいそうで、なんとかその場に踏みとどまる一刀。ほとんど絡み合うようにしている三人を冷ややかな目で見つめつつ、詠が口を開いた。 「で、何人?」 「え?」 「何人よ。たいていは洛陽にいるんでしょうが」 「あ、ああ、そうだな。ええと……」  一刀は七乃と自分の間でもつれた美羽の髪を優しく抜いてやりながら、どこか遠くを見て勘定していく。 「五十人くらい……かな」  その数の中に間違いなく入っている女たちは、その答えに一斉に口を閉じた。  強い注目だけが一刀一人に注がれる部屋の中では、しわぶき一つ漏れない。 「あ、あのみなさん?」  ゆったりと微笑んでいる華琳を除く全員からとてつもなく強烈な視線を浴びて、一刀は怯えたように声をかける。 「ねえ、ほんとにこいつが皇帝でいいの? この懲りやしないちんこ大将軍で?」  低い声で問うたのは詠であり、 「でも、帝になれば、その血筋の確保のために後宮は当たり前よ。即位前にその手続きが済んでいると思えば……。それに、なにしろ全身精液男だし」  吐き捨てるように言ったのはもちろん桂花であり、 「ねねもしかたないと思うのです。わざわざ皇妃を引き入れて、外戚による政治不安をつくるよりは、現状既に権力を手にしている面々を娶るのは合理的です。ただ、個人的に思うのは……死ねばいいのです。このちんこ」  蹴りを繰り出すこともなく、静かに言ったのが音々音であり、 「婚礼は典礼に詳しい袁家あたりに仕切ってもらうのがいいのでしょうか。どう思いますか、三国一の種馬殿」  実にさらりと言ってのけたのが稟であり、 「袁家だけではどうですかねー。南方のしきたりがわからないんじゃないですかねー? ここは年の功で祭さんにも協力して貰うべきかとー。ねえ、色魔のおにーさん?」  くふくふと笑いながら問うたのは風であった。 「そうだな、では私が責任者となり、祭殿と袁家の者に監督してもらいつつ進めることとしよう。……さて、付け加えるべき罵倒がもうないのだが、どうすべきだろうな。一刀殿?」 「勘弁してくれ。あと、雪蓮は笑いやんでくれ」  なぜだか冥琳の問いかけに最も落ち込みながら、一刀は細い声で懇願する。  軍師たちの罵倒の途中から彼の後ろで腹を抱えて笑っていた雪蓮は、 「あー、おかしかった」  と涙を指で払って、平静に戻った。わずかにその口元に残った笑みは、鋭利な剃刀の刃のようにも見える。 「で、その婚礼で、一刀に誰がつき、誰が敵対するかを判断するってことよね?」 「まあ、一刀さんの恋人さんたちはみんな狸もいいところですから、婚儀はするけど、夫に敵対はするって人も出そうですけど、それはそれでいいと思うんですよねー」  発案者の七乃が発する言葉は実にいい加減にも聞こえるが、華琳がそれを引き取って、その意義を明らかにする。 「そうね。実際の所、婚礼は北郷一刀という人物を、再び民衆の心に刻み込む、そのための儀式のようなものでしょう。妻となる者たちより、その下……呉や蜀の民たちの考えが、そのことによってある程度の形を持って来るはずだから」 「ふうむ」  なんとか立ち直り、感心したように頷く一刀。その様子を見ていた詠はくいと眼鏡を押し上げて、なんでもないことのように言った。 「まあ、あんたは好きな相手に結婚してくれるよう頼み込めばいいのよ。それを利用するのはボクたちの仕事だもの」 「そんなに気を遣わなくてもいいよ。結婚が政治的な意味も持つことは覚悟してるから。でも、ありがとうな、詠」  さりげない配慮に礼を述べて詠の顔を真っ赤に染めてから、一刀は皆に向けてぴっと指を一本立てる。 「それよりも、婚儀にあたって一つやるべきことがあると思うんだが……」 「なにかしら?」  彼は、雪蓮、冥琳、詠の三人の顔に視線をやった後で、ふと恋のほうを見た。  なにか励ますように、天下一の武将は微笑みを浮かべている。親しい者にしかわからない、ごくわずかな笑みを。  一刀はそれに後押しされるように、言葉を発した。 「孫策、周瑜、董卓、張三姉妹の名を復す」  一刀が、死んでいるはずの人間たちの名を戻すと皆に宣言しているのとほとんど変わりない頃。  蜀の皆が集まる前で、白蓮と翠、蒲公英の三人は、一刀に集められて以来の今日の出来事をようやく語り終えていた。 「玉璽を……」 「大陸を……だと?」  あまりの衝撃に、断片的な単語だけでざわつく蜀陣営。その中で口を真っ直ぐに引き結んでいる桃香に向けて、白蓮は軽く手を振って踵を返した。 「じゃ、私たちが知っていることは教え終えた。これをどう考えるかは、桃香、お前達次第だ」  彼女に続いて翠が一礼し、蒲公英も元気よく手を振って背を向けるのに、がたんと椅子を鳴らし立ち上がる小さな人影。 「お待ちください」  二人の背の低い軍師は声を揃えて三人を呼び止める。 「お三方は、これを我々に報せよと一刀さんに命ぜられたのでしょうか?」  朱里の問いかけに、三人は振り返りながら答える。 「ううん、違うよ? 一刀兄様はそんなこと言わなかったよ」 「言うなとも言われてないけどな。別に一刀殿は、みんなに知られても困ったとは言わないだろうし」 「では、伯珪殿たちは……?」  こちらを見つめてくる星に対して、白蓮は小さく肩をすくめた。 「誤解するな、星。私たちがどう思うかなど、小さな事に過ぎないんだからな」 「そうそう。白蓮もあたしも、残念なことにもう個人の判断じゃ動けないからな」  その時、蜀に属する者たちは、かつて白蓮や翠と共に戦い、国を築き、民を守った者たちは――実にようやく――心の底から悟った。  彼女たちは、もはや自分たちと同じ蜀の将ではないのだと。  勢力に属しているかどうかの問題ではない。自分たちとはもはや立つべき場所が違うのだと、二人の声を、二人の目を、二人の顔を見て、彼女たちはたしかに感じ取っていた。 「お前たちは……いや、桃香、お前はこれを知っておくべきだと思っただけのことさ。それじゃな」 「うん、ありがとう、白蓮ちゃん」  桃香がそう言って三人を送り出し、もはや余人は声をかけることが出来なかった。  6.対決 「ここはいっそあの方にかけてみるというのは……」 「しかし、玉璽を破壊するというのは、伝統を拒絶するということだぞ。そのような……」 「ですが、一刀さんならば……」 「兵権のことはどうする?」 「そのあたりは今後交渉の余地があるだろう。なんだったら、我らが派遣されるという形をとることで……」  白蓮たちの話に端を発する議論は延々と続いていた。その中で、黙っている人物が二人。一人はあまりの議論の長さにこっくりこっくりと船を漕いでいる鈴々であり、もう一人はその義理の姉、蜀の王たる桃香に他ならなかった。  彼女は全ての議論に耳を傾けてはいたが、頭の中では別の事を考えてもいた。  うん、と彼女は一つ頷いて、立ち上がる。  急に動きを見せた主の姿に、皆、一斉に視線を移した。 「桃香様?」  なにか決然とした表情の彼女に、愛紗が訊ねかける。すると、桃香は華やかな笑みを見せた。まるで甘い香りが漂ってくるかのような、そんな笑みを。 「私、一刀さんと会ってくるね」  そう一言言って、彼女はその場を後にするのだった。 「や」 「や」  夜半、戸を叩く音に部屋の主たる一刀が向かうと、そこにいた人物は明るく、はきはきとした声で、そんな声を出した。思わず同じように答える一刀。 「ちょっと、いいかな?」 「ああ、いいよ」  言いながら、一刀は名前の通り桃色の髪を持つ女性を招き入れる。彼は戸を閉める時に闇の向こうに頷いてみせた。そこには、華雄がいるはずで、心配ないと示すためであった。 「少し前まで色々と人がいたものだから、ちょっと散らかってるけど」  書簡や書籍が広げられた机と卓を避け、二人は椅子だけを並べて座る。 「今日はなにを話そうか、桃香」  一刀が彼女の名を呼ぶと、すっと消える笑み。穏やかな表情はなりをひそめ、真剣で暗鬱なそれが取って代わる。 「……色々とね、聞いたんだ」 「ああ、白蓮たちからだろう? 夕方に聞いたよ」  それでも、一刀は声音を変えたりはしない。彼女の空元気は最初からわかっていたから。うん、と軽く頷く桃香。  しばらくの沈黙の後で、彼女は真っ直ぐに彼に訊いた。 「華琳さんの代わりに三国の主になるだけじゃ、だめなの?」 「うん」 「そんなに、用心しなきゃいけないこと?」 「どうだろう。でも、まあ……そうだな」  腕を組み、一刀は少し考える。桃香は彼の言葉をじっと待っていた。 「俺はさ、公の大義とか、正道を歩むとか大げさなことは出来ない人間なんだ」 「そう?」 「そうさ。俺は、あくまで私情でこの大陸を支配する。子供を守りたい、好きな人を守りたい。大事な人の大事な人たちを守りたい。その結果として、帝になる」  そこで、彼は手を広げる。何かを支えるかのように。 「それだけのことなんだよ」  その男の顔を見て、彼女は小さくため息を吐いた。それまでのどんな息よりも苦しげな、喘鳴のような音を立てるそれ。 「……止められないんだね」 「……っ」  一言詫びの言葉を言おうとして、一刀はなんとか踏みとどまる。いまの彼に謝ることも、引くことも許されるわけはなかった。 「この頃、朝廷の人が来るんだ。帝の手紙を持ってね」  ぼそぼそと、桃香がいきなり話を始める。 「漢の民を救ってくれって書いてあるんだよ。位を私に譲ってもいいから、悪逆な天の御遣いからこの大陸の皆を救ってくれって」  はっ、と彼女とは思えないような荒んだ嘲りの笑みが、口から漏れる。 「おかしいよね。これまで民を守れなかったくせにね。でも……」  桃香の手がさまよい、ぎゅっと両手を合わせて握りしめる。 「そこにも本当のことってあるよ。きっとね」  一刀には答えられない。否定することも、肯定することもあまりに無責任に思えた。 「私、一刀さんや華琳さんと戦いたくないな」  訪れる沈黙。  二人は見つめ合い、そして、二人とも同時に目を逸らした。 「一刀さん」 「うん」  立ち上がり、一歩、二歩と部屋の奥に向かいながら、桃香は彼に呼びかける。 「成都での決戦、覚えてる?」  途端、怒りとも悲しみとも苦しみともつかない顔になった一刀に彼女は慌てて両手を振る。 「あ、違うの、ごめんなさい」  彼女は五歩ほど離れたところで足を止め、ぺこりと頭を下げる。 「そのことじゃなくて……。あの時、私と華琳さんが一騎打ちしたのは知ってるかな?」 「ああ、それはね。もちろん」 「私、華琳さんって、私よりは強くても、雪蓮さんよりは弱いって思ってたよ」 「平時の強さで言えばそんなものじゃないかな?」  桃香と雪蓮ではずいぶん幅があるけれど、普段の華琳はその中に収まるだろう。桃香もそう思っているらしく、同意するように頷いてから、改めて首を横に振った。 「でも、あの時の華琳さんは、違った。恋ちゃんでも止められなかったと、そう思うよ。自分が負けたからじゃなくてね?」 「そうかもしれない」  戦の勢い。後ろに控える兵たちの意気。そして、なによりも華琳自身の覚悟。  その時、刃に乗る重さは、けして華琳自身の技倆だけではない。魏という国の重みが、彼女の刃には乗っていたはずだ。  その重さのいかほどのものか。  そして、同じく蜀という国の重みをもってその刃を受けた桃香の感じた衝撃のどれほどのものか。 「一刀さんは私と同じくらい、かな?」 「いや、弱いだろう。粘りに徹すればわからないけどね」  一刀にも、これまで鍛えられた経験がある。たとえ鍛錬とはいえ、春蘭、恋、華雄、雪蓮と打ち合っている者は、大陸にもそういない。それらの武将の力をいなす技をもって逃げに徹すれば桃香に勝つことは出来ないではないかもしれない。  しかし、そんなことを訊いているのではないと、一刀にもわかっていた。  彼も立ち上がり、二人が腰掛けていた椅子を壁際に押しやると、元の位置に戻る。 「いま、私が止められたなら、一刀さんの『いま』は、あの時の華琳さんに並んでもいないことになる。違うかな?」 「さて。それも一つの見方だろうな」 「止めるよ」  すらり、と剣が抜かれた。  靖王伝家。  かの中山靖王から伝えられる皇家の血統を示す宝刀。 「そうか」  一方で男が抜くのは真桜の鍛えた独特の反りを持つ刀。  後世に、鬼切と呼ばれ、封じられる刀。 「だが、止まるわけにはいかない」  剣と刀。  二つの刃が振り上げられた。      (玄朝秘史 第四部第五回『靖王伝家』終/第四部第六回『桃花潭水』に続く)