玄朝秘史  第四部 第三回『天下布武』  1.不幸  その日、北郷一刀の部屋を訪ねようとした桃香たちは、廊下の真ん中に、まるで通行を遮るように長机が置かれていることに気づいた。  しかも、そこには見覚えのある少女が座って忙しそうにしており、横には恐ろしげな武器――方天画戟を携えた女性が佇んでいる。 「あの……恋ちゃん、ねねちゃん。なにしてるの?」 「仕事です」 「……お仕事」  近づいて声をかけてみれば、実に簡潔な答えが返ってくる。なんでこんなところで、と桃香が続けようとしたところで、脇についていた桔梗が彼女の前に体を差し込んだ。まるで、主を守るように。 「恋。主、人を斬ったな」 「……ん。今朝、屋根の上で」  血臭をかぎ取ったか、低い声で訊ねる桔梗に、恋はなんでもないことのようにこくりと頷く。 「あいつの部屋に侵入しようとしていたらしいですよ」  言葉少ない恋を、ねねが補足する。桔梗の表情がますます鋭いものとなり、声はさらにひそめられる。 「刺客か」 「ですね」  そこで、ねねは大きく鼻を鳴らした。 「とはいえ、ちんこ人間の性として、女の所にいたようですがねっ」  この発言には、さすがに桔梗も桃香も苦笑を浮かべる。それでも、憎まれ口を叩いているねねも、もしなにかあればこのような態度ではいられまい。無事だったからこその余裕であった。 「それで、護衛か。いや、恋はわかるが、ねねは部屋で共におればよかろう」  桔梗の問いに、ねねは渋面を作る。 「それもありますが……。今日は詠のあの日なのですよ」 「あー……。近づくと大変なことになる、あれ?」  戦乱の間は月たちが蜀に身を寄せていたこともあり、桃香たちの理解は早い。だが、ねねの次の台詞は彼女たちにも予想外であった。 「そうです。なぜか月とあいつは巻きこまれないのですが」 「え、一刀さんもそうなんだ?」 「はい」  桃香はその答えに、顎に指を当てて、んー、と考え込む。そうして、うん、となにか納得したように頷いた。 「そっかー。……じゃあ、お邪魔するのは悪いね」 「よいのですか、それで」 「でもさー」 「いえいえ。ワシに文句はありませんが、軍師殿たちがやきもきするだろうと」  桔梗は半ば桃香を心配するような調子でそう言った。 「朱里ちゃんたちの心配はわかるけどね。どうせすぐ解決する話でもないし。それは、いま、一刀さんと会えても一緒じゃないかな。何度も話して、なんとかなるかもしれない、ってところでしょ?」 「ふむ……。ま、それもそうですな」  桔梗が同意を示したところで、桃香は机に向き直る。音々音の視線と同じ所まで顔を下げて、髪を揺らしながら、にっこり笑う。 「うん。じゃあ、一刀さんに、私が来たって事だけ伝えておいてくれるかな? 話したいですって」 「わかりました」 「じゃあ、恋ちゃん、護衛がんばってね」 「……ん」  手を振りながら桃香が離れはじめると、恋も小さく手を振り返す。桔梗はその光景を見ながら、なんとも楽しそうな笑みを浮かべていた。 「そっかー、それにしても一刀さんもねえ……」  そして、なおも詠の不幸が及ばぬ一刀の存在に言及しながら、桃香は歩みを進めるのだった。  一方、一刀の部屋の中では、 「ああー、もうっ。なんで今日来るのよ!」  と、めいど服姿の詠が頭をかきむしっていた。 「しょうがないだろ。詠が操作できるわけじゃないんだから」 「そうだけどっ!」  何か書き物をしている一刀に向き直り、顔を真っ赤にして怒鳴る詠。目尻に涙さえ浮いているのを横目で見て、一刀はにやつきそうになる顔をなんとか押さえつけていた。 「恥ずかしいじゃない! あ、あ、あんな、格好つけておいて、今日は引きこもりますとか!」 「まあなあ、俺のことを見つめながら、あんな真剣に……」 「わーわー! 無し! 思い出すの無し!」 「そう言われても……」  ぶんぶん手を振って大声をあげるのに、さすがに筆を止めて腕を組む一刀。 「でも、ちょうどよかったかもしれない。覚悟は決めてみたものの、考えるべきことはいくらでもあるからな」 「え? まさか今日一日ボクにつきあう気? そりゃ、影響を受けないのは月とあんたくらいだけど、でも……」 「どっちかというと、詠の不幸の日を利用させてもらうってところかな。それにかこつけて、閉じこもらせてもらう。さすがに一日中とはいかないだろうけどな」  男が言うのに、詠は少し考え、それ以上の反駁を呑み込んだ。一刀の言葉にも理解できるところはあるし、なにより、彼が自分のことを考えてそう言ってくれているのがわかったから。 「……まあ、あんたがそうしたいっていうなら止めないけど、たぶん、蓮華とか桃香とか、会いに来るんじゃないの? 昨日で事態を把握しただろうし」 「だからだよ。決めてはみたものの、まだ、俺は他に示すものを持っていない。春蘭たちにしろ、蓮華や桃香にしろ、今はまだ会えない」  無念そうな声で吐いてから、まして、他の人たちとはね、と彼は付け加えた。  九卿としての役割が無くなったため、年始の時期の宴席参加は昨年と比べれば大幅に少なくなっているものの、余計なところに顔を覗かせれば、すぐに誘われるに違いない。帝になるという噂が流れている状況ではなおさらだ。 「それで、月を華琳のところにやったの?」  月は、詠が一日業務を休むということで、ほうぼうに赴いている。彼はその最後に華琳の所へ寄るように頼んであるのだった。 「華琳が何か俺に伝えたいなら、聞きたいからね。でも、出歩くのはもうしばらくはやめておきたい」  詠は今度はもう少し長い間考え、男の瞳をじっと見つめた。それから、小さく頷く。 「わかったわ。なにか考えをまとめたかったり、訊きたい事があったりしたら、いつでも呼んでちょうだい。外には冥琳とねねもいるし」 「なんだ、傍にいてくれないのか」 「ば、莫迦。ちゃんといるわよ!」  残念そうに肩を落として言う男に、顔を赤くして彼女は叫ぶ。美しい翡翠色の髪が揺れた。 「ただ、考えるなら静かにしてるって言ってるだけ」 「ありがとう」  にっこりと笑って、彼は真っ直ぐにそう礼を言った。一瞬、虚を突かれたようになった詠の赤面が、さらに濃くなる。  なぜか悔しそうにぎりぎりと歯を食いしばる己の軍師を見つめ、一刀は彼女が落ち着くのを待った。 「じゃあ、少し問答をしてもいいかい」 「いいわよ」 「そうだな、それじゃ……」  そういして、一刀と詠は新しい国作りについて議論を重ねるのだった。  2.仮面  昼も過ぎた頃、桃香たちが午前に歩いて来たのとは逆の方向からやってきた穏は、廊下の真ん中に置かれた机に座って忙しそうにしている黒い仮面の女性と、その横でいかにも重そうな鉄の棒――覇竜鞭を構えている赤い仮面の女性の姿を見つけた。  それは、一刀の部屋を挟んだ位置にいる音々音と恋の二人組と実に対称的な光景であったが、もちろん、穏はそれを知らない。ちなみに、一刀の部屋の真上――屋根の上には華雄がいたりする。  なにをしているのかという、ここや逆側の恋たちのもとを訪れた人間がするおきまりの質問に答え終えた所で、冥琳はやっと顔をあげた。 「で、一刀殿に用事か?」 「いえー。実は冥琳さまたちに用事でしてー。祭さまもいらしてちょうどよかったですー」  ほう、と冥琳と祭の二人が息を吐くと、穏はそののほほんとした顔を少しだけ曇らせた。 「あのですねー。今朝から雪蓮様が仮面を外して歩いていらっしゃるっていうお話がー。明命ちゃんが見かけて仰天したらしいんですけどねー?」  その後、明命は雪蓮がなにをしているか尾行しようとして見事に見つかり、その詫びに酒をおごらされていたため、穏がこうして話を聞きに来るのが昼まで遅れたということであった。  明命が気配を悟られたのは、今朝の刺客の件を聞いていた雪蓮が特に気を張っていたためであろう。運が悪かったな、と冥琳は呟いていた。 「それで、どういうおつもりなのかなー、と。蓮華様にお知らせする前に冥琳さまに訊いてみようかとー」 「そのことだが、な」  言いにくそうに口ごもり、冥琳は、漆黒の仮面を被る顔をわずかに穏から逸らした。 「『一刀のお嫁さんになるんなら、顔隠してちゃ駄目でしょー』……ということだ」 「……いやいやいや!」  きょとんとした後で、呉の筆頭軍師はぶんぶんと首を振った。大きな胸がぶるんぶるん揺れるが、それに目を取られる者はここにはいない。 「呉の立場はどうなるんですかあ!」 「諦めい」 「えー」  間髪を容れず祭に無体なことを言われ、ぶー、と口をとがらせる穏。だが、彼女はそれほど気にした風もなく首をひねった。 「でも、冥琳さまたちはなんでつけたままなんです?」 「別に我らにも外せとは言わなかったからな。これは色々と便利でもあるし」 「儂は目の関係でつけておらんと厳しいからのう。いや、眼鏡もあるが」 「はあ、そういうものなんですか?」  よくわからないというような口調で二人の答えを受け止め、穏はじぃっと冥琳の顔を見る。その視線の圧力に、はあ、と冥琳は小さくため息を吐いた。 「真面目に話すと、おそらく、雪蓮は我々の生存を明らかにするつもりなのだろうな。それが呉に及ぼす影響もわかった上で」 「……一刀さんの側に立つってことですか?」 「さて、それはどうじゃろうな」 「そもそも、一刀殿の側とはなんだ?」  二人の返答に、穏は考え込むように俯いた。呉を代表する頭脳が回転している。見ている二人が、ぎゅるぎゅると音が聞こえるかと錯覚する程に。  止めてはくれないのか、と泣き言を言うほど穏は莫迦ではない。雪蓮にせよ、蓮華にせよ、小蓮にせよ、本気でこうと決めたなら、孫家の人間の考えを覆せる者など、そうそう居はしない。それは、彼女たちを半ば育てたと言っていい祭でも、断金の絆を謳われる冥琳でも同じ事だ。  雪蓮がそうした場合に起こりうる何十通りもの可能性を考えたのだろう。穏の顔が険しいものになったところで、ぶうんと空気を裂く音がした。それは、祭が鉄鞭を振るう音であった。  はっと顔をあげる穏に、祭は語りかける。 「のう、穏よ。策殿が生きていることが明らかになったとして、それが北郷一刀の傍にいることも伝わったとして、さて、孫呉の民はどう思う?」 「信じないでしょうねえ」 「じゃろうな」  肩をすくめる祭を、穏はいぶかしげに見つめた。 「偽物ということにしておけとー?」 「そんなことは言うておらんわ。放っておけばいいと言うておるのじゃ」  そうは言っても、死んでいたはずの先王が生きて新王朝の帝の傍にいれば、呉は動揺する。なんらかの対処を、蓮華が示さざるを得なくなるだろう。  そこで、ふっと冥琳が微笑んだ。弟子の不満顔を見て、優しい笑みを彼女は浮かべた。 「蓮華様やお前たちがどうしようと、私も雪蓮も文句は言わん。言う筋合いがない。祭殿も、そう考えてよいですよね?」 「おう、当たり前じゃ」 「だから、まあ、あれの行動もお前たちが良いようにすればいい。死を装って隠居した身だ。せいぜい利用してやればいいのさ。無視するもいい、非難するもいい、我らを足がかりに新しい国で地固めをするもいい」  たとえ当人がそう言っているとしても、自らを死者とした者たちを、孫呉のために赤壁で命を張った人物を、利用することなど出来るだろうか。  そうするしかない局面もあるとはわかっていても、彼女は複雑な感情がわき上がってくるのを抑えきれなかった。 「なあ、穏」  相変わらず優しい表情で、冥琳は話しかける。 「余計な事は考えるな。雪蓮にも私にも祭殿にも盛大に迷惑をかけろ。我らは好きにやっているのだからな。それくらいは気にするな」 「そうじゃそうじゃ。儂が旦那様の下で生き返って、どう思った? 呉のために繋がりを作っておけと思うたじゃろうが。それでよいのじゃ。国を動かすには、なんでも使えばよい」 「とはいえ、おかしな対処をすればその反動も当然覚悟する必要がある。そのあたりは、うまく調整することだ」 「うぇーん。丸投げですかー?」  あくまで軽い口調で言う二人に、穏は泣き真似をしてみせる。実際に困りもしていたろうし、対する相手のことを考えての部分もあったろう。 「儂らは呉のことを考えておる。江東、江南の地を愛しておる。じゃが、呉のことばかり考えておるわけでもなければ、呉の全き味方とも言えん。そのあたりを勘案することじゃ」 「事情はわかりますし、機微もなんとなくはわかるんですけどねぇ……」 「難しいのは事実だな。悩め悩め、筆頭軍師殿。……っと」  からかうように言っていた冥琳が、気配を感じて口をつぐむ。三対の視線が向かう先には、一人の男が部屋から出て来る姿。 「やあ、穏もいたのか」 「あー、一刀さーん」  近づいてくる男が手をあげて軽く振ると、穏も袖を振って答えてみせる。その声には紛れもない喜びが混じっていた。  それを聞いて、祭と冥琳は顔を見合わせ、安心したように微笑む。 「ちょうどよかった、穏。夜にでも蓮華のところに娘の顔を見に行きたいんだけど、都合はどうだろうね?」  冥琳の脇まで来た一刀は、席を立とうとする彼女に手を振って断り、机の端にお尻をひっかけるようにして落ち着いた。 「あー、それはもう蓮華様もお会いしたいと思っておられるとー。はい」 「そっか、じゃあ、後で伝えておいてくれるか。それで、出来れば、三人に訊きたいことがあるんだけどね」  現状で蓮華と会うというのはかなり重要な申し出だとは思うのだが、一刀はさらりと流して次へと進んでいる。 「この三人に?」 「うん。南方の人にも訊きたいなって。地方の人間が中央からの官の派遣に対してどう考えてるのか、そのあたりを実感しておきたいんだよね」  その問いかけに、三人は感心したような様子を見せた。国作りにおいて、地方と中央の相剋は当然に考えておくべき事案だが、その問題に関して、一刀が問うたような問題点を見いだした者は、少なくとも彼女たちは知らなかった。  漢朝においては、朝廷の権威こそが絶対であり、中央が発する官位によって行政組織が形成されるのが常であった。実質的にその土地の豪族間での相互推薦と恣意的な登用がまかり通っていたとはいえ、あくまでも中央が取り仕切っているというのが建前である。  数々の群雄や孫呉という国ですら、その建前を受けてのものだ。自分でつけた将軍号や官位を、朝廷に後付けで認めさせるような荒技を使いはしても、最終的には漢朝の権威を求めている。  その部分を根本的に疑うことも、それに対する感覚を省みるということもなかったのだ。  それを掘り起こそうとする彼の姿勢に三人は感心し、そして、それぞれの感慨を持った。 「ああん、やっぱり、一刀さんは最高ですぅ」  中にはなんだかよだれでも垂らしそうなほど興奮している者もいたが、そうやって、一刀は抱える――この時代の人間にはあり得ない――疑問を三人にぶつけ、論議を進めていった。  3.希望 「うむ。うむ……。いや、それは約束できんぞ。うむ、じゃから……。ああ、もう、七乃!」  麗々しい着物に身を包んだ少女が、目の前に座った男の話を遮って、いらだたしげに大声をあげた。これまでずっとその男の話を聞き、相づちをうっていたのだが、ついに堪忍袋の緒が切れたらしい。 「はいはいー。さあ、お話は聞きましたからねー? これにてお引き取り願えますかあ?」  呼ばれた女は、にこにこと笑いながら、主の対面に座る男に立つよう促す。ぐずぐずと小声で何ごとか言い始める男に、さらにくっきりと唇をつり上げて、彼女は、囁くように言った。 「お引き取り、願えます?」  表情とはかけはなれた低い声にびくりと肩を震わせ立ち上がる男であったが、まだ未練があるのか、その足は出口の方へ向かおうとはしない。  しかたないなあ、と七乃がふんぞり返って頬を膨らませ、うんざり顔の美羽がしっしと手を払ったあたりで、ひょい、と隣の部屋から顔を出す姿があった。 「おいおい、あんまりしつこいと、こっちの部屋の錦馬超がうるさがるぞ。それでいいのか?」  冗談めかした声で警告するのは、後ろに尻尾のように髪を垂らす赤毛の女。幽州の主、白蓮であった。  いや、そういうつもりでは……などと見苦しい言い訳を繰り返しながら、男がそそくさと部屋を出て行くと、はああああ、と腹の底からため息を吐き出して、美羽はべたりと机につっぷした。  実は、今日こうして訪ねてくる者たちの応対をするのは、既に十人以上を数える美羽である。長安と洛陽という古き巨大な都を擁する司隷の支配者となった美羽のもとには、漢の名家の名をあてにして、今後の成り行きを不安がる朝廷の人間たちが続々と押しかけてきていた。  大半の者は直接に一刀の名前を出さずに、新王朝の発足に伴う漢朝の終焉について、実に曖昧な表現で憂いを表明してくる。それらをとにかく聞いてやり、適当に返事をするというのを繰り返しているのだった。  中には露骨に一刀との間を取り持ってくれるよう擦り寄ってくる者もいたが、それに対してもただ話を聞くだけで、言質を与えるようなことはせず、追い返している。  だが、どれだけ相手をしても面会の申し出は減らず、しかも、話の内容もそう代わり映えしないため、美羽としてはすっかり飽きてしまっていた。  があああ、とよくわからない叫びをあげ、彼女は体を振り上げる。 「麗羽姉様はどこへ行ったのじゃ! あれこそ、漢の大将軍ではないか! 常は袁家の当主を自認しておるくせに!」  何度目になるか、美羽は麗羽への不満を口にした。こちらへやってくる者たちの一部には麗羽のほうへ行くようほのめかしたりもしたのだが、どうやら大将軍の行方を把握している者はいないらしかった。 「……んー、まあ、こういうの逃げるの得意そうですからねぇ……」 「ああ、あの三人なら、今日は郊外に行っちまったぞ。散策とか言ってたけど、まあ、逃げたな」  茶を持って隣室に戻ろうとしていた白蓮が美羽の憤懣の声に答える。だが、それは七乃の推測と同じく、なんの慰めにもならなかった。 「あー! もーっ!」  椅子の上でじたばたと暴れ、奇声をあげる美羽。その声と音に何ごとか起きたと思ったのか、先程白蓮が現れた戸口から二つの頭が覗いた。  よく似た顔つきで、まるで同じ茶の髪を揺らす二人は、西涼の錦馬超とその従姉妹、馬岱だ。 「ええい、主らもじゃ! なぜ妾の部屋におるのじゃ!」  白蓮も含め三人を次々に指さし、美羽は尤もな疑問を口にする。部屋で遊ばせておくくらいなんでもないことだが、なぜここに、とは思うだろう。 「いやー、部屋にいると次から次へと客が来て鬱陶しいんだよ」 「ここにいると、あたしらが居るの知ってても、たいていが最初に美羽に話すからなあ」 「やっぱ、あれかな。司隷を押さえてるってのは大きい?」 「そりゃそうだろう。私らは所詮田舎領主だ」 「ええい、こやつらはーっ!」  口々に勝手なことを言う三人に、美羽がさらにばたばたと体を動かす。それでも椅子から落ちる気配がないのは、さすがというべきだろうか。 「そんなことより、白蓮さん。象棋の続き! 昨日のお姉様の負けを取り返すんだから」 「はいはい、っと」  早く戻ってこいと呼びかけて首をひっこめる西涼の二人に笑いを漏らし、白蓮はふっと振り返った。 「美羽も七乃も無理すんなよ。さっさと追い払いたいなら、私もすぐに出るからさ」  剣を携えているとはいえ七乃よりは白馬長史の武名のほうが通用しやすいのは確かだ。部屋を貸して貰う恩義くらいは返すと彼女は言っているのだった。 「……むう。好意は受け取っておくのじゃ」 「ええ、まあ、本気で嫌なら、やらせませんからー」  それらの言葉に頷いて隣室に消える白蓮を見送って、さらにしばらく待ち、美羽は声をひそめる。 「……で、どうじゃ。七乃。一刀に役立ちそうな話はあったかや?」 「んー、そうですね。一刀さんに反対する人の繋がりはだいたいわかりましたかねー。ただ、正直、一刀さん本人は朝廷のこと気にしてないと思うんですけどね。頼もしいというか、危なっかしいというか」 「まあのう。じゃが、妾たちが詳しいのはあやつらくらいじゃからの。荒事は他に任すとして、多少は力になってやらんとな」 「やる気ですねえ、お嬢様ー」 「んー」  楽しそうに笑う七乃の顔を見上げ、美羽はなにか思い出すように首をひねる。それから、彼女は重大な秘密を打ち明けでもするかのような真剣な顔で漏らした。 「あれがどこぞから探してきてくれる蜂蜜は美味しいのじゃ」 「花や木によってかなり変わるとかいう話ですよねー。城の中で育ててるのとはまた別に、どこかの邑で、いろんな花を植えて蜂蜜作りを試させているとかなんとか」 「変わった味の蜂蜜がなめたいなどというのは、妾のただのわがまま。じゃが、一刀は、そこから、どこぞの邑が潤う策を考え出しおる。大したものよ。そうは思わんか?」  なめるような視線で自分を見つめる美羽の視線を、七乃は微笑みをたたえて受け止めながら、様々な思いを抱いている。たとえば、美羽がこんな目をするようになったのかという感動や、一刀がしてきたことを本当の意味でどれだけ美羽は理解しているのだろうかという疑問やらを。 「そうですねぇ。たとえ、周りに居る人たちの助言でも、すごいことですよね、それって」  現実には、一刀の出している策のうち、特に農政関連は失敗も多い。一刀が住んでいた時代とは技術格差も大きい上に、環境的にも土や温度、風など、ある程度までは共通しながらも異なる部分も多く、彼の断片的な知識から出た提案ではうまく行かないことも多いのだ。  それを、七乃は知っていた。  だが、それらの提言がある種の刺激となっていることは事実だ。そして、それらを試すことが出来るだけの力が魏に――否、現在の華北と中原にあるのもまた事実。積み重ねられた失敗とわずかな成功は、この土地のさらなる財産となるだろう。  そのことの意義を、美羽は果たして理解しているのだろうか。  理解はしていまい、と七乃は思う。  そう、理解は。 「正直、王としての器なら、華琳のほうが上かもしれん。あるいは、雪蓮めのほうが上やもな。じゃが、それでも、妾は此度のことを聞いて、あの男が作る国が見てみたいと……」  そこまで言って、ふっと美羽は何かに気づいたように口を閉じ、そして、急に顔中を真っ赤に染めた。 「なんじゃ、なにやら恥ずかしゅうなってきたではないか。七乃ぉ、なにを言わせるのじゃあ!」 「んー、もう、お嬢様ったらかわいい! 勝手に本音駄々漏れにしときながら、私になすりつけようとするなんて、最高にかわいいですぅ」  がばり、と七乃は美羽に覆い被さる。椅子ごと彼女を抱き留めて、七乃はわしわしと美羽の頭をなでた。 「にゃーっ。離せ、七乃。こら、動けぬではないか。なーなーのーっ!」  ぎゃーぎゃーとわめく美羽であったが、七乃の腕はがっちりと彼女の体を押さえていて、動くことも出来ない。 「一刀さんの作る国……か」  自分の腕から逃れようとばたついている主を愛でながら、七乃の目は焦点が外れ、どこか遠くを見つめている。 「私も久々にやる気出しますか、ね」  そう呟く七乃の瞳は実に真剣で、そして、どこまでも底意地の悪い光に満ちていた。  4.莫々  月が戻って来たとき、彼女は華琳からの書簡を預けられていた。華琳自身は疲れが出たと言って、今日の予定を全て破棄し、寝室に閉じこもっているらしい。それもあって、月自身も戻ってくるのがだいぶ遅れたのだ。 「なんだ、俺と一緒か」  書簡を開きながら、一刀はそう言って笑う。だが、それを持ってきた月は眉を顰めた。 「でも、心配ですね、華琳さん。お腹にお子様がおられるのに……」  途端、ばさりと書簡を落とす一刀。月と詠の二人の『めいど』が見つめる中、男はしばらく完全に固まり、ようやくのように息を吹き返した。 「し、知ってたの!?」 「当たり前でしょ。なんでボクらがわかんないと思うわけ? だいたい、正月だってのにあの華琳が全然酒飲んでいないことくらい気づくでしょうが」 「う……。そ、そうか……」  一刀は気を取り直すように息を吸い、華琳の書簡に目を落とす。その目が少し泳ぎ気味なのは、しかたのないところであろうか。 「案外、つわりが出たのかもね」 「ああ、それはあるかもしれないね、詠ちゃん」 「実際のところは、こいつと同じく面倒を避けてるだけかもしれないけど。丞相としての仕事の意味も、いずれは無くなるわけだし」 「華琳さんはたまにはゆっくり休むべきだよね。……それで、ご主人様。どんなことが?」  ざっと目を通したらしい一刀に、月が問いかける。男はとんとんと卓を指で叩きながら答えた。 「ああ。蓮華や桃香と話したらしい。蓮華は俺の皇帝即位にひとまずは反対はしないってさ。その分、しっかりと意義と恩恵を知らしめなければ、かえって強い反発があるかもしれない」  一刀はそこで一つ肩をすくめる。 「桃香の方は、しっくりこないって感じのようだな。そりゃ、普通は華琳が帝になると思うわな。あとは、私信と……最後のは俺の勉強用だろうな。色々と書の名前が書いてあるよ」 「では、揃えておきます」 「うん、お願い。でも、明日でいいよ」  いくつもの書名が列挙された紙を月に渡しながら、彼は言い添える。 「今日はこれからどうするの?」  一刀は既に詠とも様々な問題を話し合っていたし、ねねや冥琳の所にも話を聞きに行っている。それを知っている詠がそう訊ねると、一刀は書簡を振りながら、笑って答えた。 「これを読んでもう少し考えて、それから桃香のところに行くのさ」  と。 「こうして二人で会ってみると、なにを話して良いかわからないね」  桃香の開口一番の台詞はそんなものだった。ふんわりと微笑んでそんなことを言われて、一刀は思わず脱力する。 「おいおい」  彼女の部屋で、桃香手ずから淹れた茶をすすりながら、彼は苦笑せざるを得なかった。しかし、一方で、彼女の言いようも理解出来るなどと思ってもいる。 「いやー、話したいことはあるはずなんだけどね?」  ぱたぱたと顔の前で手を振りながら、桃香はあははと笑った。苦悩と暢気の混じった、実に奇妙な笑みだった。王の笑みにはそういうものもあるのだと、一刀はこの二日ほどでより深く悟っていた。 「実際、朱里ちゃんや雛里ちゃんはとっても心配していて、蜀がこれからどうなっていくのかとか、すごい考えてくれてるんだけど」 「うん」 「私としては、その大部分は杞憂だと思うんだよね」  一刀はそれに対して腕を組み、わずかに首を傾げる。 「そうかな?」 「どうなの?」  打てば響くように返ってくる素直な問いに、実に気持ちいいものを感じながら、一刀は考える。 「うーん。領地支配はいまのまま三国に任せる予定ではあるからなあ。いや、翠たちも王に繰り上げるつもりだから、南蛮まであわせて七国だな」  言いながら、一刀は手を前に出し、卓に小さな円を描いた。ちょうど彼自身の掌と同じ大きさくらいの。 「中央政府は小さなものにするつもりなんだ。領地支配には直接には関わらないくらいにね」 「現状とそこまで変わらないってこと?」 「基本的にはそうだね」  だけど、と一刀は前置きして話し始める。 「たぶん、一番厳しいのは、兵権の集中じゃないかな」 「兵権?」 「うん。兵権だけは、中央が握る。地方政府の支配下に軍は置かない。地方が握るのは、せいぜい現状の警備隊の規模くらいだな」  たとえ地方に駐留する軍団であろうと、中央が直接指揮下に置く。そのために現地兵の徴兵ではなく、集中的に中央で兵を育成し、各地へ軍団を派遣するのだと、一刀は言う。あらゆる戦いを、中央の軍団が存在する事で抑制したいのだ、と。  桃香はしばらく難しい顔でその話を聞いた後、 「そっか」  と、爽やかな顔で言った。いっそ晴れ晴れとした表情で、彼女は彼に確認する。 「それって、私たちは戦う事を考えなくて済むって事だよね?」 「ああ、中央が……俺がみんなを守る」  それに協力してくれるなら、とても嬉しく思うと、彼は告げる。だが、言葉では簡単に言えることでも、それはけして簡単なことではない。  だから、桃香は一転して寂しそうな顔つきになったのだろう。 「……私にはとっても魅力的だけど、難しいよ、それは」 「だろうね」  一刀の答えは軽妙なもので、そのせいで桃香は余計に寂しくなった。 「……なるんだね、一刀さん」 「うん」  なにに、とは桃香は言わない。一刀も言わない。  しばらくの間、部屋には沈黙が落ちた。  それから、桃香は思い出したように訊ねる。 「いつ頃?」 「少しやることがあるから、それに一月くらいはかかるとして……そうだな。三月頃かな」 「そう」  指折り数えながら考える一刀に、桃香は静かに頷く。  彼女にはなお訊ねたいこと、話したいことがあったが、色々なものが喉につかえて、それが出て来ることはない。  どうしたらいいのだろうかと彼女は考え、わかり合うまでやるかしない、と至極当たり前の、しかし、重要な答えに至る。  桃香は身を乗り出すようにして、一刀に顔を近づけた。その圧力を、一刀はたじろぎつつも受け止める。 「もっと考えをまとめておくから、また話してくれるかな?」 「もちろんだよ、桃香」  そうして、二人は再びの対話を約束するのだった。  5.二親 「やあ、阿呼。夢見はいかがかな?」  ぐっすり眠っている赤ん坊を起こさないよう注意しながら、一刀は囁きかける。外の風の音にすら負けるような細い呼びかけに、母である蓮華は思わず微笑んでいた。  阿呼は蓮華の娘、孫登の幼名である。  一刀と蓮華で話し合って決めた名前であるが、決め手となったのは、一刀が、自分の世界で学問の神様として崇められる人物の幼名だと告げたことであろう。蓮華としては、娘には武よりも智を生かすように育ってほしいという願いがあった。それは、子らが戦とは無縁であってほしいという親心でもあったろう。 「寝てるね」 「ええ、寝てるわ」  さも重大そうに言う一刀に小さく笑いながら、蓮華は答える。一刀は阿呼専用の小さな寝台から離れ、卓に着く蓮華の横に座った。二人は、自分たちの娘を見ながら、並んでいる。 「それで? 私が知っておくべきことは?」  無言のあたたかな空気を存分に楽しんだあとで、蓮華はそんな風に話しかける。面白がるような声に、一刀は緊張を感じることなく答えていた。 「ええとね、とりあえず、皇帝即位に関しては三月頃になると思う。呉のみんなが洛陽を離れるまでは正式な発表とかはまるでないから、安心してくれ」 「そう。いざという時の脱出も考えていたのだけれどね」 「うん。雪蓮からそのあたり気を回してるはずだって注意されてさ。伝えておこうと思って」 「ありがとう。ともあれ、この年始の間は普通に過ごしておけというわけね」 「うん」  ほっと安心したように体の力を抜く蓮華。だが、彼女は一度大きく深呼吸し、腹に力を込めて再度訊ねた。 「それで?」 「うん。呉に関しては、中央の後押しで、沿岸貿易、海外貿易を促進することになると思う。その前段階に外洋船と航路の開発があるけどね」 「ふむ」 「それから、襄陽、樊城地域を大規模に開発して一つの城域にする。ここが大陸の水運の一大拠点になるだろう」 「実にありがたい案ね。でも、その代償は?」 「軍をこちらで接収させてもらう。応じない兵は帰農してもらうことになるだろう。いや、水運業とかでもいいんだけど」  ぱんっと音を立てて蓮華の掌が彼女の額に当たる。孫家の主たる紋に掌を押しつけながら、彼女は苦しげに男の名を呼んだ。 「……一刀」 「無理?」 「無理とは言わん。言わんが、しかし……」 「そう言うと思った」  歯を食いしばりながら漏らすような、うめきとも取れる彼女の返答に、彼は肩を落とす。予測していたことではあっても、残念ではあるのだろう。 「そのあたりは、今後も考えていくつもりだけどね。あくまで現時点では試案でしかないからね」 「妥協なんてしないくせに」  手を顔からどけ、もたれかかるように座り直してから、蓮華は呆れたように呟く。一刀は心外とでも言うような顔をして見せた。 「そうでもないよ?」 「そうかしら」 「うん。阿呼のために、他の子供たちのために、そっちのほうがいいと思ったなら、俺はそちらを選ぶよ」  彼は断言する。だが、そのあまりに強い口調が少しだけ蓮華の意識にひっかかった。それでも彼女はまず優先させるべき事を思い出していた。 「ああ、そうだ、一刀」 「ん?」 「華琳のこと、おめでとう。当人には自分で言うわ」  一拍おいて、笑顔になる一刀。なぜ誰も彼もが華琳の懐妊を知っているかはもう考えないようにしているようだった。それよりも、喜びの方が強いのだろう。 「ありがとう」  彼の満面の笑顔に釣られるように笑顔になりながら、蓮華は腕を組み、考え込む。 「子らのため……か」 「うん」 「でも、一刀。それはとても尊いものだけど、一歩間違えれば、それはとてつもない独善となるわよ。あなたは……いえ、私たちはそういう立場にあるのだから」 「そうだね。ただ……」  一刀は娘のほうへ向き直り、寝息を立てている赤ん坊に向けて手を伸ばした。 「少なくとも、この子が政争に巻きこまれるようなことはしないし、させないってことさ」  その言葉に首肯しつつも、蓮華はなおも心配そうに彼の事を見る。娘ではなく、彼のことを。 「一刀、聞いて。私は生まれた時から特別だった。この子もそう。それはしかたないことだし、逆に助かることだってあるの。あなたの子はこれからさらに特別になるでしょう。そのことを悔やむ必要はないのよ?」 「……そうだな」  桔梗にも似たようなことを言われたな、と一刀は思う。どうも子供たちを前にした自分は普段より脆く見えるらしい、とも。  彼は皮肉な笑みを浮かべながら、独り言のように言った。 「生まれた時から特別っていうのは、どんな気持ちなんだろうな」  一刀自身は平凡な生まれである。少なくともそう思っている。間違いなく、この世界では異端であったとしても、だ。 「たいしたことではないわよ。矛盾したことを言うようだけれど、その子にとってはそれが普通なんだし、なにも特別ではないわ。後からなにか気づいても、でも、結局は、それもたいしたことではないと思えるようになるわ」 「それまでは紆余曲折あっても、か」 「そこはしかたないわ。その中で、友を、愛する人を、敵を作っていくものよ」  悩みながらね、と蓮華は笑う。それは実に透明な笑みであった。 「敵は勘弁してほしいなあ」  彼が思わず漏らした言葉に、蓮華は思案げな顔つきになり、頬に手を当てた。 「あなた、子供の喧嘩に口を出すようになるんじゃないかしら、ちょっと心配だわ」 「お、親ばかみたいに言うなよ。そりゃあ、まあ……親ばかかもしれないけど、その……」  眠り続ける我が子を見守りながら、先程までの難しい話などすっかり忘れた風に、母と父は笑い合い、ふざけあって、夜を過ごすのであった。  6.表明 「姉さん? そろそろ用意しよっかー」  落ち着いた声と共に、扉が開かれる。しかし、部屋の有様を見た途端、その声がひっくり返った。 「ちょっと! なにしてんの!?」  部屋は一面、目も眩むような色彩に覆われていた。卓の上、衝立、寝台の上、椅子の背。様々な色合いの衣服が、あらゆる場所に広げられ、ひっかけられ、乱雑に重ねられている。 「うーん。ちーちゃん。どれがいいと思うー? これかな? こっちかなあ」  いくつもの服をとっかえひっかえ体に合わせては満足できずにそこらに放り投げているのは、部屋の主の天和だ。  豊かな胸とくびれた腰、まあるく形のいい尻を包むのは上下の下着だけというあられもない格好。それを見て、妹である地和はしかたないというように首を振った。 「もー。昨日のうちに決めておきなさいよ!」 「んー、でもでも、みんなが集まるってさっき聞いたからぁ」  この日、北郷一刀の預かりとなっていたり、配下としてある面々全てが集まるようにと彼の意が伝えられていた。午後にも魏軍の評議が開かれることを知っている者や、察しの良い人間は、これが一刀の宣言――どんなものであれ――の場となるであろうことは事前に理解できていたが、それを天和に期待するのは無茶というものであった。  彼女の中では、一刀と姉妹三人で会うことになっていたものが、朝食の席での会話で急遽変更になったというところであろう。 「じゃあ、早く決めちゃいなよ。人和も呼ぶから。ちょっとー! 人和?」  呼ばれた人和は、二人の姉に事情を聞くまでもなく、一目見ただけで事態を悟った。 「ごめんなさい。言っておくべきだった。今日の服はもう決まってるの」 「え? そうなの」 「なんだー。人和ちゃん、さすがー!」  妹の言葉に、地和は驚き、天和はもう悩まずに済むと言わんばかりに持っていた服を放り出す。 「ええ。やっぱり、こういう時は着るものの色合いも三人であわせるべきだし、なにより、私たちなりの応援をするべきだと思うの」 「応援?」 「うん。一刀さんの。まあ、見てもらう方が早いわね。持ってくる」  言って人和は自室に戻り、足早に三着の服を持って戻ってくる。天和、地和にそれぞれ渡されたもの、そして、人和が自分用にと確保しているものは、彼女たちの普段着ているものとそう意匠は変わらないものの、全体的に黒を基調としており、それを白や赤で引き立てる色使いをしていた。 「あー、かっこいいね、これ。三人で着てると映えそう」 「いいと思うけど、でも、なんで、これが一刀の応援になるの?」  一刀を応援することには賛成だが、その意味がわからない。地和は自分に渡された服を見ながら首をひねった。同じように見ていた天和が、ふと指を差す。 「あ、これじゃない? ちーちゃんの首周りの布に、一刀の旗印入ってるよ」 「丸に十字は、天和姉さんは頭飾り、私のは襟に入ってる」  人和が指摘する部分を見てみれば、たしかに丸に十字がいずれも白く染め抜かれている。 「けど、それだけじゃない」  言いながら、人和は懐から一葉の符を取り出していた。 「姉さんたち、これ、知ってる?」  そこに描かれているのは、北斗に乗る天帝の姿。その額の部分には冠のように輝く星が配置されている。おそらくはいまも煌々と輝くあの客星であろう。 「ああ、知ってるわよ。やたら流行ってるやつ」 「あの星が出てからは余計だよねー」  符を認め、うんうん、と頷く二人。それを見て、人和は符を自分のほうに向け、そこに書かれている文字を詠み上げる。 「これにはこう書かれてるの。蒼天已死、玄天當立、歳在癸巳、天下大吉ってね」 「わたしたちの真似だよねー、真似っこー」 「まあ、正確に言えば真似をした白眉を混乱させるために、稟さんたちが考えたわけだけど」  ぷう、と頬を膨らませる長姉の姿に苦笑しつつ、人和は説明を続ける。 「北斗にしろ、玄天にしろ、北を意味するもの。つまりは、北郷という姓を持つ一刀さんのことをね」 「あー……。もしかして、華琳様たちがわざと……?」  しばらくの間、不審げな顔つきだった地和が、なにかに気づいたのか感心したような顔つきになる。一方、天和の方はほわわっとした顔つきを崩さぬまま、妹たちの会話を聞いていた。 「たぶんね。だから、今日、私たちは黒を着るの」 「そっかー。まあ、一刀自身がどこまで意識しているか怪しいけどね」 「一刀さんは、丸に十字をつけてるだけで喜ぶと思う」  それに、たぶん、詠さんあたりが後で教えるだろうし、と人和は笑う。地和もそれを受けて微笑み、天和は二人の妹の笑みを見て、さらに嬉しそうににこにことし出す。 「ともかく、これ着ていけば、一刀が喜ぶんだよね?」 「ええ」 「じゃあ、着替えちゃおう! みんなの晴れ舞台だもんね!」  そう天和が号令をかけて、三人は用意を始めるのだった。  おそらくは、張三姉妹と同じように、あるいはもっと複雑な気持ちを込めて、彼女たちは集った。  麗羽、斗詩、猪々子、美羽に七乃の袁家勢。  月、詠に、華雄、霞、恋、音々音の董家勢。  雪蓮、冥琳、祭の江東衆。  翠、蒲公英、白蓮と、北方の東西を押さえる騎将。  天和、地和、人和の大陸一の歌姫たち。  総勢二十人。大陸でも名のある者たちのうち、魏、呉、蜀、南蛮に明確に所属している者以外のほとんどがそこにいた。 「……狭いな」  大机以外の家具は寝室のほうへ移動したというのに、なお窮屈に感じる程の人数を執務室に迎え、一刀は思わずそう呟いていた。 「なにを『こんなにいたっけ』みたいな顔をしているのですか」  列の中から――発言者の音々音は実際に背が低いせいで埋もれていた――そんな声が飛ぶと、一刀は頭をかく。 「あー、いや……。ねねは鋭いなあ」  ごまかすように笑う一刀に、音々音はむきーっと声をあげ、腕を振り上げようとしたが、隣にいた恋に当たりそうになり、慌てて動きを止める。 「蹴りたい! 猛烈に蹴りたいですよ!」 「……ねね、静かに」 「うう……わかってるですよぅ……」  恋に言われておとなしくなるねねにすまなそうに笑みを向けてから、一刀は顔を引き締める。全員の視線が集まっているのを確認して、彼は口を開いた。 「さて、なんと言っていいかよくわからないから簡潔に言うけれど。俺は、華琳の後押しで皇帝になる。そう、決めた」  息を呑む音が聞こえる。たいていの者は理解し、覚悟していたことであったろうが、それでも、やはり、当人の口から出るそれは強い衝撃を与えた。  この瞬間、北郷一刀は、成功すれば英傑に、失敗すれば愚かな罪人と称される、そんな存在になったのだから。  だが、みなの感情が収まるのを待たず、男は言葉を続けている。まるで、止まることが許されないように。 「ここにいるみんなは、俺の預かりだとか、部下だと、そういう立場の人間だ。だから、影響は大きいと思う」  そこで言葉を切り、彼は一同の顔を見回した。 「だけど、形式的にそういうことになっている人もいるわけで、これからどうするかは、個々人で自由に選んで欲しい」 「自由って?」  地和が満座の疑問を代表するように手を挙げて訊ねる。 「俺のつくる国に協力してくれれば嬉しく思うし、反対の道を選ぶのもそれはそれで」 「北郷一刀に従うもよし、志が異なるといずこへ去るもよし、漢朝に忠義を尽くして逆賊として討つもよし。そういうことかな?」  からかうように冥琳が言った例示を、一刀は否定することはなかった。ただ一つ頷いただけだ。事実、彼は漢朝にとっては大逆を企てる人間なのだから。  一同がその事実を認識し、一刀もまたその覚悟を負っていると理解するまでに、わずかに間があった。  彼女はそのごく短い時間を狙った。 「あー、一刀殿」  そう声をかけたのは、白蓮。彼女は、麗羽が高笑いを始めて場が混沌とする前に事を起こさねばと、部屋に入る前から心に決めていたのだ。 「あら、意っ外〜。あなたが口火を切るなんて」 「う、うるさい」  雪蓮の声に彼女のほうを見る白蓮。そういえば今日は仮面をつけていないではないかと気づきつつも、白蓮はそれを努めて無視し、話を進めた。 「ええとだな。私たちそれぞれがどうするかはともかくとして、その前に、少し訊いておきたい」 「うん、なにかな」 「新しい国は、どんな国にする? 三国やうちや西涼はどうする?」  その質問はみなに共通する関心事だったのだろう。探るような視線が、幾人か紛れている軍師たちに飛んだ。しかし、そのうちの誰も答えず、一刀が動く。 「後ろの人に見えるかな。これは、俺の世界の地図だ。世界全体の地図だ」  彼が掲げるのは、華琳に渡していたはずの世界地図だ。ざわりと部屋が蠢いた。話には聞いていたものの、それを実際に目にするとは思いもしなかった者が大半であった。もちろん、中にはそんなものがあることすら知らない、考えてみたこともなかった者もいる。だが、驚きと興味はみな一様であった。  大判のものではあるが、全員に見えるほどではない。幾人かは身を屈め、後ろの人間が見やすいように動いていた。 「この世界が俺の世界と同じかどうかはわからない。でも、話を聞く限りは西の遥か彼方には大秦こと羅馬があるし、北方には鮮卑はじめ騎馬の民がいる土地があるし、南蛮の南方にも土地は広がっている。つまり、いわゆる『大陸』はこの土地で認識するより、さらにさらに広い」  言いながら、彼は漢の領地をなぞってみせる。それは、世界全体はもとより、漢土がある大陸のみに限って比べても随分と狭い地域であった。 「この地図だと、いわゆる漢土の版図はこの程度になる」  その小ささに、部屋中が驚愕を覚えていることを確認して、一刀はその一言を放った。 「俺は、まず、この大陸全土を獲る」  今度こそ、本当に沈黙が落ちた。    (玄朝秘史 第四部第三回『天下布武』終/第四部第四回『伝国玉璽』に続く)