玄朝秘史  第四部 第二回『談論風発』  1.覇道 「華琳に依存しないでも生きていけるよう、帝にしてくれるのかい?」  一刀が軽口を叩いたのは、きっと目の前にいる少女の緊張――覇王たる身にはあまりに似合わない言葉では無かろうか!――をほぐしたかったからだ。女は眼を細め、意地悪な表情を浮かべ、己の金髪を指で玩んだ。 「それもないとは言えないわね。あなたってば、私の庇護があって暮らしているところあるし」 「う……。し、仕事はしてるだろ」 「そんなところを責めてはいないわよ」  小さく笑って、華琳は息を吐く。一刀の思いやりを感じてか、先程までのような張り詰めた空気はもうなかった。 「真剣に言うけれど、あなたに私の分身たることを望むつもりはないの」 「分身?」 「あなたのことを、世の人間は私と一心同体だと考えている。でも、違う。あなたと私の資質は異なっている。そうじゃない?」 「ん……まあ、そりゃそうだろう」  華琳と自分は当然違う。しかし、彼女が期待するほどのなにかが自分にあるのだろうか。そう疑問には思っても一刀は口にしない。少なくとも、いま華琳を失望させるつもりはなかった。 「別にあなたが私より優れているとか、逆に私の方がなにもかも優秀だとか莫迦なことを言うつもりはないわ」  華琳はそう言って、一刀の胸を指さしてみせる。 「私はあなたじゃないし、あなたは私じゃない。だからこそ、面白いというものじゃない?」 「……ま、そうかもな」 「虞美人がどうしようもないからと戦に出られない覇王にはなりたくないし、私の足手まといだからとあなたが身を退くようなことも、私は望まない」  歌うように、彼女は言う。深い碧の瞳と柔らかな笑みが、彼に向けられていた。 「あなたがあなたの資質を開花させることを、私は望む」 「華琳……」  なにを言おうとしたのか、自分でもよくわかっていなかった。けれど、彼は彼女の名を呼び、そして、結局続く言葉はなかった。 「それにね、一刀」  しばらく待っていたらしい華琳は一転、そこで顔をしかめる。 「私は上手く負けるのが苦手なのよ」 「そりゃ言い得て妙だな」 「叩くわよ」 「ごめんごめん」  拳を振り上げて殴る真似をする華琳に、一刀はぺこぺこと頭を下げる。華琳はふんと一つ鼻を鳴らして続けた。 「ともかく、いいところで負けるっていうやり方を、私は好まないし、出来ないわけ。でも、あなたなら出来る」 「うーん。そうかなあ」 「そうよ。涼州での勝ちにこだわることなく兵を退いて私を助けに来たのを忘れたかしら?」  首をひねる一刀に、華琳は大返しの件を持ち出す。一刀は大きく肩をすくめた。 「華琳を失ったら、大負けどころの話じゃないだろ」 「だから、それが出来るってことが大事なの」 「わからなくはないけど……」  なお言いつのる一刀に、華琳はあたりを示すように手を広げた。 「劉邦は、上手に負けた。事に匈奴に負けて、彼らの保護を勝ち取ったのは見事と言うしかないわ。あれがあってこそ、漢帝国は存続を可能としたのよ」 「まあ、華琳はそういう性質ではないかも……しれないなあ」  覇王項羽の例を出したのはそういうことか、と一刀は思う。勝って勝って勝ち続けて、しかし、項羽はなにも掴めずに散っていった。再起を図ることもなく消えていく潔さは、個人としては好ましいかもしれないが国を預かる身ではどうだろうか。 「それに」  一刀が己の中で思考を進めている間に、彼女はその手を彼の肩に置いていた。 「私は覇道を歩んできた。本来ならば蜀も併呑し、天下を統一するのが我が道のはず。それを天下三分の形に残したのは、あなたが消えんとするのを妨げる一助になるかもしれないという、その思いからだった」 「はっきり言うね」 「もう隠してもしかたないでしょう。戻ってきてくれたのだもの」  優しい声で彼女は言う。冷然たる事実を噛みしめるようにゆっくりと。 「私はあなたのために、覇道をねじ曲げた。あのときから、貴方に屈服していたのよ。だから、あなたを主に仰ぐのは当然とも言えるわ」 「……華琳」  これが、自分のせい、という話だろうか。彼は考える。そのことはもうとっくにわかっていたはずなのに、彼は胸の奥にずんと重苦しいものが生じるのを感じていた。  一度天を仰いで煌々と輝く客星を見つめ、それから、一刀は確認するように訊ねる。 「それで、一人の人間にこだわって道を誤るようではいけないと、自分を責めてるってわけか?」 「違うわ」  まさか、とでも言うように、彼女は応じた。そのことに、男は驚きを隠し得ない。 「私は欲しいものは何でも手に入れてきた。これまでもそうしてきたし、これからもそうする。それが曹孟徳の道よ。そのことに一点の曇りも無ければ後悔もないわ。あなたを得ようとして結局消えてしまったという点では失敗したのはたしかだけれど、だからってなんで自分を責めないといけないの? 自分で決めたことなのに?」 「あ、ああ。そ、そうだな」  本気で不思議そうにこちらを見上げてくる彼女の勢いに、一刀はたじたじとなってなんとか頷く。  華琳はそこで一刀の肩に置いている手を滑らせ、彼の手を握った。 「でもね、一刀。これでは、私が手に入れてきたもの以上にはなりえないのよ」 「え?」 「私には春蘭が、秋蘭が、桂花が、稟が、風がいて、凪たちや季衣たちがいる。でもね、それじゃあ足りないの」  足りない?  一体何が足りないというのだろうか。彼は、彼女の手を握りかえしながら、疑問の視線を向けた。 「簡単に言えばね。趣味に合わないものを受け入れるほど度量が広くないのよ、この私は」  その言葉の意味をしばらく考えた後で、男はなんだか困ったような顔になった。 「……えーと。それじゃ、俺がなんでも拾い食いするみたいじゃないか」 「あら、度量が広いと褒めているつもりだけど?」 「ほんとかよ」  華琳はなにも言わず、ただ微笑む。その笑みを見て、一刀は降参、というように繋いでないほうの手を掲げた。 「それにもう一つ」  なんでもないことを付け加えるかのように、彼女は言った。だが、普段ではしないような妙な早口に、一刀は違和感を覚える。 「女である自分や、母である自分も欲しいと思ってしまったのよ。この私が」 「華琳……?」 「で、まあ、欲しいと思ったら動くのが私でしょ? めんどくさいことは一刀に任せて、そっちも追求しようと思って」  言いながら、華琳は下腹を撫でる。愛おしそうに、慈しむように。  それを見た途端、彼は理解した。  いま、この時期を選んだことの意味を。  一刀の中で、感情が爆発する。  その一瞬――永遠とも思える刹那の中で、荒野で目覚めたあの時から、ありとあらゆる思い出を、彼は再び体験した。 「大陸の支配者が面倒扱いかよ」  震える声で、しかし、彼はからかうように言った。  彼女の手を包む指に、ぎゅっと力が込められ、そして、それに返事をするように、華琳の指もさらに強く絡められた。 「そんなものでしょ」 「……まあ、そうか」  大きく、明るく、笑い声が響く。  二人は、二人で、笑いあう。 「本気なんだな?」  笑いを収め、一刀は真剣に訊ねかけた。それまでのからかいやふざけた雰囲気は全て脱ぎ捨てて。 「ええ。あなたにはたくさんの支えてくれる人たちがいる。それをまとめあげて、楽土を見せてちょうだい。民に、そして、私に」  するり、と彼女の手が彼の手の中から抜け出る。そして、華琳は腰に手を当てて、ふんぞり返るようにして、彼を見つめた。 「それくらいのわがまま、言ってもいいはずよ?」 「ああ、そうかもな」  くすり、と小さく彼は笑った。その様に応じるように笑みの形を刻んでいた華琳の顔が、くしゃりと歪む。 「ごめんなさい、一刀」  すがりつくように、華琳は白い学生服の袖を握った。 「わかっているわ、理不尽だって。私は……」 「華琳」  一刀は、袖にかかった彼女の手の上に自分の手を被せる。 「それ以上はやめておこうぜ」  やっぱり小さいんだよな、華琳の手。そう思いながら、彼は軽い調子で声を放つ。 「俺にも、かっこつけさせてくれよ」  そう言って、彼は片眼を瞑ってみせたのだった。  2.会談  ぱたぱたと足音を鳴らし、彼女は廊下を駆ける。  桃色の髪と、大きな胸が揺れるその後を追うのは白い着物の女性。だが、後ろに従っていた趙子龍こと星は、主が行くのに任せて途中で足を止めた。そこで壁にもたれかかる女性――思春の隣に立ち、にやりと笑いかける。  しかし、思春は顔の半ばを首に巻いた布に隠し、答えようとしない。しかたない、とでも言いたげに肩をすくめる星。  その間に、桃香は、彼女を呼び出した呉王のもとにたどり着いていた。 「蓮華ちゃんっ! 華琳さんが会ってくれるかもって聞いて来たんだけどっ!」  息を切らして訊ねかける桃香に、蓮華は小さく頷いてみせる。 「ああ。おそらくいまならば大丈夫だ」  南海覇王の鞘を撫でながら、蓮華は言う。立ち止まり、なんとか息を整えようとする桃香は、ぜーはーという呼吸の間に、疑問の声を押し出していた。 「な、なんで?」  それに対する答えは簡潔なもの。くいと顎を持ち上げ、蓮華はどこか別の方を見やった。 「華琳と一刀との話が終わった」 「……そっか」  大きく桃香が頷き、会話はそこで途切れる。  二人は、華琳が現れるのを待った。 「あら、もう寝ようかと思っていたのだけれど」  侍女に二人の訪問を告げられた華琳はわざわざ部屋の外まで顔を出してきた。そのことが意味するものを二人の王は考え、しかし、それを思考から切り捨てる。まずはこの状況下で華琳に会えたこの機会を生かさねばならない。 「随分早いな。夜はまだ始まったばかりだぞ」 「ふぅん? じゃあ、あなたたちがお相手してくれるとでも?」 「閨での攻防は、あまり得意ではなくてな。舌戦でならお相手できる」  からかうような問いかけに、艶めかしい仕草での挑発。それを蓮華はものともせずに受けきった。横で見ていた桃香が目を丸くするほど淀みなく。 「……まったく。姉に似てきたわね、あなた」  しばし驚いたように黙っていた華琳が、そう言って髪を揺らす。蓮華はそれには答えようとしなかった。 「いいわ、話しましょう。ただし、一人ずつね」  華琳の言葉に、桃香の顔がぱあっと明るくなる。蓮華の肩からも少し力が抜けたのを、華琳は見逃さなかった。ついで、二人の王は顔を見合わせ、蜀の女王のほうが柔らかく微笑んだ。 「えっと……。じゃあ、順番的にはそっちかな」 「すまんな」 「ううん。考えをまとめておけるしね」  小さく手を振る桃香をそこに置いたまま、二人は華琳の部屋へと入っていくのだった。 「それで? 一刀はうんと言った?」  華琳と相対して座るなり、蓮華は砕けた口調で訊ねかけた。華琳はその事には触れず、淡々と答える。 「まだ」 「断らなかったのね?」 「いまのところは」  切れ切れとも言える素っ気ない返事に、はぁ、と蓮華は天を仰ぎ、体を預けられた背もたれがぎしと音をたてた。 「じゃあ、承諾するわね」 「さて?」 「とぼけるのはよしましょう、華琳」  蓮華は体を戻し、皮肉げに唇を歪める。 「一刀は余計な期待をもたせたりしないわ。そういうことは出来ない人よ。だから、きっと受け入れる。それと、別に私たちは一刀が国を開くのに反対というわけでもないのよ」 「あら、そうなの?」 「ええ」  探るような視線に、蓮華はふんわりと微笑んでみせる。 「桃香たちのほうはどうか知らないけれど、いまのところ私たちが反対する謂われはない。よくよく考えてみたけれど、そういう結論になったわ」 「興味深いわね」  こればかりは言葉通りらしく、華琳の口ぶりには熱が籠もっていた。蓮華は一つ息を吸って、言葉を紡ぎ始めた。 「たとえば、蜀の者たちは一刀が帝になって、自分たちがどうなるかを考えていることでしょう。国としてどういう立場になるかとか、建国の理想を果たすことが出来るのかとか」  ちらり、と華琳の視線が扉の方へ向く。その向こうでは桃香が、彼女に伝えるべき言葉を選んでいることだろう。 「でもね、私たちは別に、属国になろうが、あなたの臣下になろうが、構わないといえば構わないのよ」 「へえ……?」  華琳は身を乗り出して蓮華のことをじっと見る。その視線を、蓮華は真っ正面から受け止めていた。 「雪蓮でもそんなことは言わなかったと思うけれど」 「それはそうよ。勝ち目がある内は負けても構いませんなんて言うわけないもの」 「じゃあ、いまは勝ち目が無くなった?」 「いいえ。……そうね、それこそ、姉様風に言うならば、勝ち目の意味が変わっているのね」  呉の女王は、少し複雑な表情で続けた。 「赤壁の前は、私たちが大陸を統一する目もあった。それはそれで、孫家の目指すべきものだったわ。けれど、現状で魏を打ち倒すことは、もし仮に出来たとしても犠牲が大きすぎる」  祭が抜け、雪蓮と冥琳が抜けて、戦後の呉はゆるやかながら新しい国作りを目指してきた。その状況で、戦争のための国家体制を再び築き上げることは、これまでの努力を無にすることを意味する。  まして、魏は敵に回すには強大すぎる存在だ。  それにね、と彼女は肩をすくめる。 「それをすれば、私たちの一番大事なことを揺るがしてしまう。孫家は江東、江南の守護者たらんという、ね」 「つまり……いま、呉の民となっている者たちを守ることが出来るのなら、一刀が帝になろうと問題ないと?」 「基本的には、ね」 「例外は?」 「まあ、それは後にして、原則の方を話させてもらいましょう」 「逃げるのもうまくなったこと」  華琳のからかいを無視して、蓮華は続ける。 「我々は呉の民を守りたい。郷土の者たち、そして、孫家を頼ってくれる者たち……。江東、江南という中原に比べれば鄙びた土地で苦労して生きている者たちを、守らなければならない」  中原に比べれば、南方はこの時代、辺境である。開拓最前線地と言っていい。そこに生きる者は、土地を切りひらくだけで多大な労力を要する。そんな場所だからこそ、守り手が必要と孫家は考えているのだと彼女は言う。 「だけど、そこに絶対的な権力が必要かと言えば、そうでもない。もちろん、そのほうが便利なのは事実だけれど。大事なのは、民の暮らしよ。匪賊が横行しないよう治安を守ること、中央が必要以上に税を搾り取るならそれに対して否と言えること、土地の豪族たちが民を奴婢とするなら、それを解放すること。そういうことを、私たちはすべきなの」  たとえば、既に何世代も前から農地化していた中原の土地と、ようやく開墾が済んだ江南の土地で、同じ税を徴収されれば、南方の民は困窮し、生きていくのも大変となってしまう。それが行きすぎれば、民は土地を捨て、暴徒と化す。それを防ぐために、現地の実状を知る者が、中央に対して意見することが出来る必要があった。 「皆が顔を曇らせるような、不当なことを防げればそれでいい。中央からの干渉にしろ、豪族たちの暴走にしろ、賊どもの発生にせよ、ね。極論すれば、王の地位などなくてもいいってことになるかしら。まあ、王という立場が一番妥当だとは思うけれど」 「過激ね」  一通り蓮華の論を聞いた後、華琳はそう呟く。しかし、その顔つきは、けして不快なものではなかった。 「そう? 本来の州刺史の役割……監察という役目を考えればそれほど飛躍したものでもないと思うけれど。直接の支配ではなく、軍権と文官の監督を通じて領域支配の安定をはかる。そういうやり方もあるということでしょう?」 「しかし、州刺史は結局は地方支配者となった。それは、各州の人間もそれを求めたからじゃないかしら?」 「そこなのよね。難しいのは」  はああ、と蓮華はため息を吐く。その大げさな仕草がおかしかったのか、華琳はますます笑みを深めた。 「私は凡人だし、建国の王ですらない。だけど、そんな立場だから見えることもある」 「へえ?」  呉王の地位にある時点で凡人とはほど遠いのだが、華琳はあえてそれを指摘しない。 「それはね」  秘密でもうちあけるような囁き声。 「人は、一度手に入れたものを手放したがらないということ。立場、土地、国……はたして、一度得たものを、簡単に諦められるものか。どれだけの人間がそれに抵抗を覚えるか」  もう一度、深々と彼女はため息を吐く。 「江東の民を守るという誓いには、個人の思惑ではどうしようもない側面もあるわ」  がっくりと肩を落とし、下を向く彼女に、華琳はしばし視線をさまよわせ、同情するように告げた。 「あまり気を遣いすぎると、すり減るわよ」 「そういう性分だもの」 「苦労するわね」 「ええ、それはもう。お互いに」  顔あげた蓮華は、華琳とそんな風にやりあい、そして、二人はどちらからともなく大きく笑い声をあげた。  笑いが収まったところで、蓮華は真面目な顔つきになり、言葉を改めた。 「だから、華琳。我らを納得させるものを見せることだ。そうでなければ……最悪は、戦で落としどころを見つけるしか無くなるだろう」 「……伝えておくわ、一刀に」 「そうしてくれ」  それだけ言って、蓮華は席を立つ。扉を出て行こうとする背中を見つめながら、華琳は頬に指を当てた。 「蓮華」 「なに?」 「雪蓮とはまた違った緊張が味わえたわ。今後、あなたに対する役目を一刀に任せるのがもったいないくらい」 「褒めすぎだ」  振り返ることなく、呉の女王はひらひらと手を振って外に出て行くのだった。  3.問答 「さて、なにを話しましょうか?」 「とぼけないで、華琳さん」  その実際の内容をどう考えるかは別として、雰囲気としては比較的穏やかなやりとりに終始した蓮華との会談とは違い、桃香はぴりぴりとした緊張をまとって華琳と対した。 「私だって、いまの朝廷には疑問を持っているし、華琳さんが新しい王朝を開くというなら、それはそれでいいって思う。でも、なんでいま? そして、なんで一刀さんなの?」 「あら」  華琳は思わず口元を掌で押さえていた。漢を滅ぼすことではなく、時機と人とを問題としてくるとは。蓮華のように規定事項と考えた上で態度を表明してくるとは思わなかったものの、これは少々意外な成り行きであった。 「成都での決戦で華琳さんたちが勝って……すぐに華琳さんが帝になったなら、きっと文句は出なかったと思う。でも、いま、一刀さんを帝位に据えるとなれば、それなりの反対が出る。蜀、呉の民だけじゃなく、中原の人たちからも」 「そうね」 「時機もそうだけど、華琳さんじゃないっていうのが一番大きいはず。どちらかなら、なんとかなったかもしれないのに、どうして、両方共なの?」  そのことによって混乱が起きるかもしれない。そのことを考えているのか、桃香の顔つきは張り詰めたものであった。自らの立場ではなく、あくまでもそれに巻きこまれる者たちのことを考えている、真摯な表情。 「ねえ、桃香」  しばし考え込んでいた華琳は、どこか甘さすら感じさせるような柔らかい声で、相手の真名を呼ぶ。 「成都で刃を交わしたことを覚えているかしら」 「うん、そりゃあ、忘れられないよ」  唐突な話題に驚いたような顔で桃香は華琳のことを見た。しかし、そこで見た覇王の顔は、とても真剣なもので、桃香はさらに驚かされる。 「では、交わした言葉も覚えている? あなたは心身共に限界に近かったから、曖昧な部分もあるかもしれない。けれど、私は覚えているわ」  その時を思い出すような目をしながら、華琳は続ける。 「もっと遠くを見ろと、あなたは言った」 「ああ、うん。それは覚えてるよ」  そこで、金髪の少女は、ふと年相応に見える表情を浮かべた。頬を膨らませ、口を尖らせ不平を言ったのだ。 「そのせいで背が伸びないとか、実に無礼なことを言われたことも覚えているわよ?」 「え? あー……そう、だったっけ?」 「まあ、それはともかく」  一つ咳払いをして、華琳はとんと卓を指で叩いた。 「泰山ですらなく、北斗の彼方を見た結果が、これよ」 「え?」 「私が帝になれば、それはそれで大陸は安定するでしょう。泰山の上から眺める程度の未来は見えるわよね。けれど」  気負うでもなく、華琳は言う。大陸を制覇した人間だからこそ言えることでもあったが、聞いている桃香もそれは事実であろうと確信していた。 「たった二百年程度で滅びる王朝で、あなたは満足?」 「二百年……ですか?」  どこから出てきたのかわからない数字に、桃香は戸惑う。華琳は辺り全部を指し示すように腕を大きく広げた。 「高祖の漢で二百年あまり。光武帝の漢は、それにもまだ達しない。けれど、もうぼろぼろで延命は望めそうにない。違う?」 「あ……それは、まあ……」  現にいま生きている王朝、そして、その前代の王朝、そのいずれもが二百年程度で限界を迎えていることに桃香は言われてはじめて気づいた。  王莽が簒奪しなければ、という前提は成り立たない。それを許すほど国家が弱っていたならば、それは国の寿命というものだろう。  そんな国でいいのか、と華琳は彼女に突きつけていた。 「たった二百年。十世にも満たない時間で、あなたは満足かしら?」 「そりゃあ、きちんと続いてくれるのなら、もっとちゃんとしてくれているならいいけど……」 「王朝の末期には、世は必ず乱れる。少し前の朝廷のように実力者たちに良いようにされ、匪賊の取り締まりすら出来ない、そんな状況になる。そんなことは、少ない方がいい。そうではない?」 「そりゃあ、そうだよ」  うんうん、と桃香は熱心に頷く。  国が乱れ、民が苦しむ。そんな有様を見てきたからこそ彼女たちはここにいるのだ。漢朝が順調に機能していてくれれば、桃香も華琳も王になどなる必要はなかった。  きっと、それぞれに別の生き方をしていたことだろう。 「そうでしょう? 私が帝となり、曹魏の王朝を開いたとしても、まあ、それなりの間は平和を保てるかもしれない。だけど、一刀なら、千年続く未来を得られる」  千年、と彼女は言い切った。二百年の五倍、三十世代をゆうに超える、長い時を、 「そう考えた結果よ」 「そこがわからないよ、華琳さん」桃香は小さく首を振って「ううん、一刀さんがいい人ですごい人だってのはわかってるよ。だけど、華琳さんの言うことは、なんとなくでしかわからない。私にわからないんだから、他の人にはもっとわからないよ」  尤もな疑問に、一つ小さく頷いて、華琳は説明してみせる。 「まあ、簡単に言うと、あれは種をばらまけるけど、私には無理ってことかしらね?」 「そこぉ!?」 「あら、大事な事よ? 私の血族ではたかがしれているけれど、一刀の血統は、どんどん増える事でしょう。その中に、一世代に一人くらいは大陸を任せられる者が出ることでしょうよ」  素っ頓狂な声をあげる桃香に、華琳は淡々と述べる。桃香は腕を組んで考え込んだ。 「うーん。それって内乱を誘発しない?」 「その辺りは、国作りでよく考えるわよ。それに、そこここに私の息子、娘を配する強引なやり方よりは、地方地方の有力者の血筋に既に食い込んでいる一刀の方がましだと思うけれど?」 「うーん」  腕を組んだまま体を捻り、奇妙な姿勢になって考えに沈む桃香。しかし、彼女は何かに気づいたように顔をあげた。 「あ、違う違う。華琳さん、話ずらそうとしてるでしょ」 「あら、ばれた」 「もー……」  ぺろっと舌を出しておどける魏の覇王に、桃香はぷうと頬を膨らませる。 「さっきの話も嘘ではないわよ? 曹魏帝国が作られるなら、私や春蘭秋蘭の子供たち――これも、どうせ一刀の血筋だけど――を各地の押さえとして置くことになる。なんらかの摩擦は避けられないわね。それよりは、一刀と蓮華の子なり、一刀とあなたの子なりのほうがいいでしょ」  その言葉を聞いた桃香はぽかんと口をあけ、そして、わたわたと手を振った。 「……わ、私は一刀さんとそういう仲じゃないもんっ!」 「……本当に?」  真っ赤になった桃香の顔を、華琳は疑わしげに覗き込む。 「……うー、そりゃ、一刀さんはかっこいいし、優しいし、こないだ添い寝してくれた時も、それにかこつけて襲ったりしなかったし、もしかしたら、す、好きなのかなーって思う事もないではないかもしれないけれど、こういうことは慎重に検討を要するわけで、総合的かつ客観的な視点から具体的な判断を長期的な影響も鑑みてですね……」  早口でまくしたてる桃香。常ののんびりとした様子とはまるで違う彼女の姿に華琳は頭を抱えた。 「あー……。ごめんなさい。いいわ、それは。うん」 「そ、そうですね! 話を戻しましょうか!」  二人は最前までの空気を振り払うように声の調子を変え、話を続ける。 「ともあれ、私が一刀に望んでいるのは、そういう部分でもあるのだけれど、別のことでもあるわ。一体のことではあるのだけれど……」  華琳はなにかいいことを思いついた、というようにぽんと手を打った。 「そうね、こう言えばいいかしら。あれは人に話をさせる魅力を持っている、と」 「話?」 「ええ、相談でも愚痴でも耳に痛い諫言でも、一刀なら聞いてくれる。そう思わせるところがある。多くの人物があれに惹かれているのは、そういう面もあるのではないかしら」 「……それ、華琳さんじゃだめかなあ?」  桃香の疑問に、華琳は答えにくそうに顔を歪めた。 「そうは言わないけれど……。いえ、そうね、認めましょう。私は怖がられやすいのよ」 「あー……」  心底から納得した、というような顔で大きく口を開き、低い声を発する桃香。その様子に、華琳は眉をはね上げる。 「ちょっと、それはないんじゃないかしら?」 「いやー、まあ……。実際、華琳さんって何でも出来ちゃうから、ちょっと意見しにくいってところあるかなーって……」 「……あなたに言われるとなんだか落ち込みそうになるんだけど。まあ、わかってくれたならいいわ」  桃香はそこでしばし黙り、考えをまとめようとする。その間、華琳は彼女の事を黙って見ていた。 「一刀さんを帝にする方が、最終的には華琳さんより広い支持が得られる、って華琳さんは思ってるんだね」 「ええ」 「そして、それが何世代も後の人たちも楽にするって」  これにも頷くことで肯定を示す華琳。それを見て、桃香はぎゅっと眉間に皺を寄せて、さらに考え込んだ。 「でも、華琳さん。一刀さんを恐れている人だっているよ。うちの星ちゃんとか」 「趙子龍が? 一刀を?」  華琳は不思議そうに首をひねる。星が一刀を恐れるような出来事があったろうかと記憶を探ってみるものの、思い当たる節はない。 「うん。一刀さんの野望を」 「野望?」 「この世界そのものを平定しようっていう理想」  ああ、とようやく華琳は納得する。その意味ならば、彼女にはよく理解出来た。 「桃香。あなたには地図を見せたわよね。私たちが大陸と呼ぶ範囲など、せせこましいものでしかない、この世界の地図を」 「うん」 「私は漢土の平和を手に入れるために、この土地を制覇し、一つにすることを目指した。一刀はそれをさらに大きな形で目指している。それだけのことよ」  それだけ、と言うにはあまりに大きな出来事ではあるが、根本は変わらないのかもしれない。  問題は、それで生じる犠牲だ。 「全部を統一して、平和にしてしまえば、平和は保たれる?」 「ええ、そうは思わない?」 「間違ってないのかもしれないね」  慎重に言葉を選びつつ、しかし、その裏に疑念や不満が隠れているのは隠しきれない。その反応を、華琳は好もしげに笑って受け止めていた。 「でも、やっぱり、いたずらに平地に乱を起こすようにも思えるよ」 「否定はしないわ」  ふう、と桃香は息を吐いた。華琳の顔にその意思の強さを見つけたからか、あるいは別の理由か。  彼女は、何度か躊躇って、結論を口にした。 「……すぐに、賛同はできないな。色々な事含めてね」 「そうでしょうね」 「一刀さんと話させてもらえる?」 「私に許しを得る必要などないわ。あれがいいと判断したなら、あなたと話すでしょう」  肩をすくめ、しかし、華琳は物憂げにどこかあらぬ方を見やった。 「でも、そうね。今日はもう勘弁してあげてくれないかしら」 「うん、わかった」  もう時間も遅い。さすがにいまから一刀のところへ、というのは非常識の部類に入るだろう。しかし、そんなことが理由ではないことは桃香にもわかっていた。  桃香たちにとっての今日一日よりも、一刀の一日の方が遥かに重いものだったろうから。 「じゃあ、あとは一刀さんと話すことにするね」 「わかったわ」 「会ってくれてありがとう」  椅子から立ち上がった桃香はぺこりと頭を下げる。なかなかそれをあげようとしないのを華琳がいぶかしみ始めた頃に、彼女は付け加えた。 「それと」 「ん?」 「華琳さんに打ち掛かりながら言ったことなんかを、覚えててくれて、ありがとう」  顔をあげた彼女は、嬉しそうな、けれど、どこか寂しげな、実に複雑な表情を浮かべていた。  4.月下  月明かりの下、庭に置かれた石に腰掛けて、一刀は酒杯を傾けていた。  華琳と別れた後で厨房に潜り込んで失敬してきた酒と肴は、だいぶその量を減らしていた。  何度目のことか。杯を乾した一刀は、そこらの茂みに向かって声をかける。 「恋? いるんだろ? 一緒に飲まないか?」  がさり、と低木が音を立てた。だが、そこから顔を出した人物は、彼の予想とはかけ離れていた。 「あら、ざんねーん。私は誘ってくれないのかしら?」  黒い落ち着いた服を着込みながら、その顔立ちや体つきはとても地味とはほど遠い。薄桃色の髪を枝葉の間から除かせたのは、紛れもなく雪蓮その人であった。なによりも、常につけている仮面はその顔にない。 「雪蓮!?」 「恋なら私に譲ってくれたわよー。ま、あの子も、いまのあなたの悩みを聞くのに自分が向いてないってのはわかってたんでしょ」 「雪蓮なら向いてるのかい?」 「さあ、どうかしらねー」  肴を広げた岩の上に誘うように酒杯を置くと、雪蓮は岩を挟んで逆側の石の上に座り込んだ。おっとと、などと言いながら、一刀が注ぐ酒を受け、一気に呷る雪蓮。  露わになった喉が二度三度動き、酒を飲み干す様はなんとも美しい。一刀はほうと息を吐いて見とれていた。 「あ、そうそう。これ返すわよ」  腰から抜かれるのは黒塗りの鞘に包まれた一振りの刀。まっすぐ突き出されたそれを、一刀は受け取って、ぶらぶらと揺らした。 「……そのまま持っていてくれてもいいんだけどな」 「残念だけど、私は無理」  きっぱりと言い切られ、彼は諦めたように肩をすくめ、自分の腰にそれを佩き直す。 「……そっか。呉に戻るとか?」 「あら、ひどーい。追い出すつもり?」 「いや、そんなことはないけど……」  予想外の反応に、一刀はたじろいだ。ん、と杯を突き出され、彼はそれを酒で満たしてやった。その一杯で唇を湿らせて、雪蓮はどこか横合いを見やりながら呟く。 「もし、私があなたと華琳の選択についてなにか思うところあったとしても、蓮華たちのところに戻ることはあり得ないわね」 「そうなの?」 「ええ。だって、もう孫呉は蓮華が継いだんですもの。私が――これは祭や冥琳もそうだけど――戻る意味はないし、かえって害になるでしょうよ」  そこで、彼女は視線を戻し、くくっと笑った。 「だから、気に入らなかったら、どっかふらっといなくなるって決めてるの」 「むう。それはなんか寂しいな」  男の反応に、女は今度はきゃらきゃらと大きな笑い声をたて、その動きがちゃぷちゃぷと酒を揺らした。 「おっかしいの。蓮華たちの所に行くのは良くて、旅に出るのはだめなの?」 「うーん。なんとなく」  自分でもよくわからないのか、腕を組んで考え込む一刀。男のことを見つめ、女はゆっくりと目を細め、ふいと口笛でも吹くような格好で息を吐いた。 「側に居て欲しい?」 「……うん」  艶めかしく、けれど、どこか真剣な様子で、彼女は問う。はっと顔をあげた男が、熱を込めて頷く。 「私がいなくなったら寂しい?」 「うん」  二度目の問いには、一切の躊躇いはなく。  にんまりと、彼女の顔が笑みに崩れた。 「じゃあ、横にいてあげるー」  言葉通り、雪蓮はその場を立ち、一刀のお尻を突き飛ばすようにして、同じ石に腰を落とした。男はなんとか踏ん張って、彼女と同じ石にとどまった。しかし、どうしてもその体は触れあってしまう。 「かわいそうにねえ、一刀」  彼の体にもたれかかるようにも、彼にからみつくようにも見える格好で、彼女は囁く。首にかかった手で顔を撫でられて、一刀はなんとも言えない調子で彼女の名を呼んだ。 「……雪蓮」 「もう逃げられないわよ」  逃げられない、と彼女は言う。それは、まるで彼女が彼を絡め取っているかのように見えるいまのこの状況などではなく、彼の置かれている立場の話であろう。 「俺は逃げたいように見えるかい?」 「さあ? でも、まさか皇帝になって酒池肉林だー、なんて浮かれるなんてことは一刀に限ってありえないし」 「酒池肉林って、いまでも十分そんな感じだろ。これ以上は身が持たないよ」 「あら、そう? まだいるんじゃないの。手に入れてない娘が」 「……さて」  雪蓮の喉からはああ、とあきれたような息が漏れる。 「とぼけるのも巧くなった、と言うべきかしらね。まあ、それが必要だっていうのは不幸なことだけれど。でも……」 「俺たちには必要、か」 「そ」  よく出来ました、とでも言いたげに、雪蓮の指が一刀の髪を玩ぶ。それをくすぐったく思いながら、彼は彼女の方を見た。 「雪蓮、一つ頼みがあるんだけど」 「なにかしら」 「吐き出させてくれるか?」  許しは必要なかった。彼女は凄艶とも言えるほどの笑みで彼を見返しただけだった。  そして、彼は月を見上げ、叫んだ。 「なぜ俺が?」  なぜ、三国志の時代、しかも英雄たちが女性となっている世界に来てしまったのか。  なぜ、自分が愛する人々の前から消えなければならなかったのか。  なぜ、忘れていたのか、なぜ、思い出してしまったのか。  なぜ、戻れたのか、なぜ、彼が全てを背負わねばならないのか。  なぜ、なぜ、なぜ、なぜ。  いくつもの不条理といくつもの巡り合わせと、信じられないほどの幸運が、いまの彼を作り上げている。  そのことを思って、彼は吼えた。  天に向かい、月を睨んで、彼は答えのない問いを発した。  なぜ――と。 「気が済んだ?」 「うん。……ありがとう」  ぎゅう、とひときわ強く抱きしめられて、彼は女の腕を取る。その温もりが、その優しさが、いまの彼には必要だった。 「一刀」  しばらくしてから、彼女は彼の名を呼んだ。女王だった時の声で。 「あなたが決めなければいけない。相談ならいくらでものるわよ。私じゃなくて、冥琳も、他の娘たちも喜んで相談にのってくれるでしょう。でも、最後に決めるのは、あなた」 「……そうか」 「ええ、そう。あなたはもうそんな立場にある。たとえ皇帝にならずとも、ね」  帝になるかどうか、帝であるかどうかはもはや関係ない。  天の御遣いとして、そして、これまで成してきた事がある以上、彼には様々な責任があり、守るべき多くの人々がいて、それをするだけの力も持っていた。 「背負い込んじゃったなあ」 「重い?」  ぐい、と体重をかけて、雪蓮は問いかける。一刀はさらに腰に力を込めて、彼女を支えてみせた。 「いいや、嬉しい」 「あっは!」  弾けるように笑いながら、くしゃくしゃと彼の髪をかき回す雪蓮。 「やっぱり、あなた、華琳に見込まれるだけあるわ」 「なあ、雪蓮」  自分の体にしがみつきながらはしゃぐ雪蓮の重みをしっかり味わいながら、彼は彼女の名を呼ぶ。 「んー?」 「一人の女の子を背負うのも、大陸を思うのも、同じようなものなんだな」 「そりゃそうよ。女の子一人の人生、そんな軽いわけないもの」 「そうなんだよ。人一人の人生を担うというのは、それにつながるあまたの人々と関わるということでもあるんだ」  一人の人物を生み出すのに、どれだけの祖先がいることだろう。  一人の人物の衣服や食糧を作り出すために、どれだけの人が働いて、それで暮らしていることだろう。  一人の人生は、大陸中の人生と繋がり合っている。  そして、未来へと。 「一刀の場合、何十人も女の子が居るから、余計に広がっちゃうけどねー」 「そうだ。五十人も背負えば、大陸を背負うのと同じさ」  雪蓮の体をぐいと引き寄せ、力強い声で、彼はそう言うのだった。  5.確認  部屋に入り、開口一番彼が言ったのは、こんな言葉だった。 「皇帝、やることにしたよ」 「……はあ」  不審げに部屋の主は首をひねる。 「で、なんで、私の所に来てるんです?」  黝い髪をした女性は白い手袋をはめた手で彼の刀を受け取り、邪魔にならないところに置きながら、そんなことを訊ねる。 「あれ、だめだった?」  迷惑だったろうか、と男の眉が力なく下がる。七乃は相変わらず不審げに首を振った。 「いえ、別にそんなことはないんですけど……。でも、それ決めたの、今日、ですよね?」 「うん。まあ、そうだよ?」  決めたのはもとより、その話を聞いたのもこの日な一刀である。 「こう、覚悟を決めたのなら決めたで華琳さんのところに行くとかー、癒やしを求めて恋さんとか、静かなのを求めて華雄さんとかー。逆に騒がしいのを……とか……」 「んー」  自分よりふさわしい人間がいるのではないか、という言葉に、男は不思議そうに彼女の顔を見た。 「そうだね。七乃さんの言うとおり、そういう選択もありだったかもしれないな」  言われてみてようやく気づいたとでもいうように呟き、真っ直ぐに彼女の事を見つめる一刀。 「でも、今晩は七乃さんに会いたかったんだ」 「そ、そうですか……。べ、別にそれならいいんですけど……」  言って、彼女は身をひねる。扉の前に立つ彼のことをすり抜け、外に出ようとする前動作だったろうか。 「あ、そうだ。美羽さま、まだ起きてると思うんですよ。最近、夜更かしが……」 「七乃さん」 「はひっ」 「俺は、七乃さんに会いに来たんだ」 「……ずるい人」  手を掴まれ、七乃は動きを止める。喉から変な声を漏らしたときから、その頬はほんのりと赤く染まっていた。 「そうだね、ずるいかもな」  彼はがっちりと彼女の手首を掴み、さらに真剣に七乃の顔を覗き込む。 「もっとはっきり言わなきゃね。七乃さんと一緒にいたいし、七乃さんと話したかったし、七乃さんと一緒に眠りたいし、七乃さんを抱きたいし、七乃さんの体を味わい尽くしたいんだ」 「さ、最後の二つは一緒、ですよねえ?」 「ん? ああ、そうだね?」  悪びれもせず、彼はぐいと彼女の体を引き寄せる。抵抗は無く、彼女の体は彼の胸に収まる。 「ずるい人」  もう一度そう囁いて、彼女は彼にその体を預けた。  ああ、そうか。  彼女の体を貪りながら、彼は思った。  自らの体の下で蠢くその柔らかな体に腰を打ちつけ、快楽の声を絞り出す喉を指で玩弄し、よだれと涙でぐしょぐしょの顔に口づけを降らせながら、彼は、彼女がそこに在ることに無上の喜びを感じていた。  この存在を、この熱を、俺は確かめたかったのか、と一刀は熱に浮かされるような頭で考える。  誰でも良かったわけではない。七乃という人物だからこそ、帝になるという話に、特に余計な事は言われないだろうと思った。事実、それは当たっていた。まさか、他の女性の話を持ち出されるとは思ってもみなかったけれど。  だが、いまは、そんなことよりも、ただ、ひたすらに彼女と共にあることが嬉しい。自分の愛撫の一つ一つに、彼女が反応してくれることが嬉しい。  熱泥のように柔らかくとろける彼女の秘所を一刀は何度も突き上げ、入り口の近くをこすりあげ、弱いと知っている場所を執拗になであげた。  その度に彼女は嬌声をあげ、そんな自分を恥じるようにさらなる声をあげる。  彼女の絶頂を焦らしに焦らし、懇願させた後で、何度も何度も快楽の頂に持ち上げてやる。 「もう、くる、くるっちゃいま……くる、くるうううう」  うわごとのように、彼女は繰り返す。来る、と、狂うが入り交じった啼き声。  乱れに乱れた顔を、しかし、彼女は彼の視界から隠そうとはしない。彼がいとおしむようにその頬を撫でる度、羞恥の極みと言った様子で、しかし、どこか嬉しげに、さらにその顔を彼へと向けるのだった。 「狂いなよ。すっかり狂っても、美羽と二人で飼ってあげるよ、七乃さん」 「か、飼って、飼ってくれま、くれま、ますかっ!?」  ひときわ高い声で、彼女は訊ね、さっきまで力なく落ちていた腕を、なんとか彼の首に回そうとする。 「うん。一生」  そんな彼女を強く抱き寄せながら、彼はその耳元で、そう誓った。 「ああああああああああああああっ!!」  自身の全てを吐き出すような声が彼女の喉から放たれた。 「帝なあ……」  彼の腕を枕に寝息をたてる七乃の体を抱きしめながら、一刀はぼんやりと呟いた。自分が発している言葉を理解していないような、そんなふわふわとした口調であった。 「ま、似合わなさでは、天の御遣いとどっこいどっこいか」  そのまま語尾が溶けるように消え、彼のまぶたは落ちる。  だから、彼は気づくことはなかった。  眠っていたはずの七乃が目を開き、それから長い間彼の事を見つめていたことを。  6.覚悟  早朝、夜番の兵士がまだ営舎に戻るよりも前。  一刀は詠と月の部屋にいた。 「決めたよ」  仕事の性質上、既に起きていた二人は、さっぱりとした顔でそう告げる彼の顔をじっと見つめた。 「どっちに、とは訊かずに済みそうね。その顔は」  詠がなんともいえない表情で言って、髪をかき上げる。 「……これからも苦労をかけることになると思う」  そう言って頭を下げる一刀に、二人はそれぞれに頷く。片方はしかたないというように、片方は、実に嬉しそうな表情で。  だが、男が顔をあげると、月はその表情を張り詰めたものに変えた。 「でも、一つだけ問題があります。ご主人様」 「なんだい? 月の名誉回復については、華琳や麗羽と相談して、なんとかいい形にもっていくつもりだよ。たぶん、雪蓮たちといっしょに……」 「いえ、そんなことはいいんです。私の選んだ道ですから」  寂しげに笑う月。その表情が余計に彼を勢いづけた。 「いや、よくはないと思うんだ。まず……」 「黙って聞きなさい!」 「う、うん……」  普段の不機嫌ぶりとは違う詠の勢いに、一刀は思わずびしっと姿勢を正し、口を閉じる。月のほうは詠にちらっと目をやってから、真剣な顔で一刀を見つめる。 「帝となるということの根幹に関わる事です」 「根幹?」 「はい。帝とは、国の中枢にして、絶対権力者です。そうでなくてはいけません。……宦官が私のような地方の実力者を呼び込むような、そんな脆弱なものではいけないんです」 「そうだな……。それはわかるよ」  月が言葉を切ったところで、一刀は彼女の言いたいことを理解して、うんうんと頷いた。  一地方の有力者である董卓が朝廷の後継者争いに利用され、その力を背景に宦官たちが暗躍する。そんな状況は二度とあってはならない。彼女は経験からそう主張したいのだろうと。 「で、あるならば、お側に中途半端な実力者がいてはいけません。ご主人様と一体と見られる華琳さんは別としても、かつての私や麗羽さんや美羽さん、雪蓮さんみたいな人はいてはいけないんです」 「ゆ、月? まさかとは思うけど……」  そこに込められた不吉な暗示に、一刀は戦く。まさか、月や雪蓮たちをここから放逐しろとでもいうのだろうか。政治的な理屈は理解できても、一刀にそんなことが出来るはずもない。当然、そのことは月自身だってわかっているはずだ。  それなのに、なぜ、こんなことを……とまで彼が思考を進めたところで、月は慌てたように微笑んだ。 「あ、誤解しないでくださいね? 別に私がいなくなるとかではありませんよ?」 「え? そ、そうか。ああ、うん。じゃあ……えっと?」  戸惑う一刀の耳に、さらに彼を混乱させるような声が聞こえてくる。 「月、ごめん。ごめんね」 「え、詠?」  紛れもなく、それは泣き声であった。涙混じりの声で謝罪する詠と、それを嬉しそうに、祝福するかのような笑みで受け止める月。 「ううん、詠ちゃん。ようやく、ようやくだね」  月は泣いている詠の両手を取り、まるで嫁ぐ妹を見送る姉のような表情でそう言う。泣いている詠を元気づけるように、それでいて少し寂しがるように。  そして、月に背中を押された詠はさっと一刀に向き直り、手早く眼鏡を外して目尻の涙を払った。 「さっき月が言ったとおり、変に実力ある人間を側に置いて、派閥なんて作らせちゃだめなの」 「あ、うん」  どうやら詠は月の話を引き継ぐようだと気づき、一刀は耳を傾ける。  先程の涙はなんだったのか、彼にはさっぱりわからなかったが、それについては彼女たちの主張を聞いてからでも遅くはあるまい。 「それこそ雪蓮みたいな実力ある人間があんたの下につくのはいい。でも、それが部下を持っていてはいけない。単純に言えば、冥琳は雪蓮から引き離さなきゃいけない」 「え?」 「それぞれ責任ある部署につけたとしても、それに仕える部下は、あんたから派遣される官吏でなくてはいけないのよ。忠節は帝と国に捧げられるべきで、個人に仕える者は不要だわ」  そこまで言ったところで、詠は小さく肩をすくめた。 「個人的感情まではどうこう言えなくても、形式はそうでなくちゃね。そうそう。華琳、蓮華、桃香とその部下は、まあ、一時的にはしかたないでしょうけれど、これもいずれは解体すべきね。でも、その前に、やるべき事がある」  彼女はすうと息を吸った。そのまま一刀の事を見つめ、そして、躊躇うように月を見た。月が一つ頷き、彼女は力づけられたように動き始める。 「詠っ!?」  今度こそ、一刀は悲鳴のような声をあげざるを得なかった。  なにしろ、目の前で詠が跪き、次いで流れるような動作で、額を床にこすりつけるようにひれ伏したのだから。  止める事は出来なかった。その暇はなかったし、なにより、それを許さぬほどに、彼女の動きは凛としていた。平伏という動作が美しいと思えてしまうくらいに。 「北郷一刀。あなたを主として、全身全霊を捧げ、お仕えすることをここに誓います」  それは、屈服だったろうか。  否、それは挑戦ではなかったろうか。  自分を使いこなしてみせろと言わんばかりの迫力がその礼には込められていた。  だが、最後に彼女がすっと顔をあげたあとの言葉は、それまでの全てを含み、そして、超えていた。  彼女はただ一つの思いだけを乗せて、それを口にする。 「……ボクの、ご主人様」      (玄朝秘史 第四部第二回『談論風発』終/第四部第三回に続く)