玄朝秘史  第四部 第一回『震天駭地』  1.人々  北郷一刀、至尊の座に推戴さる。  その報は密やかながら、あっという間に城中に広まった。  たとえば城壁の上を見てみれば、惜しげもなく膚を晒す女が優雅に寝そべり酒を飲んでいる。その呟く言葉も、この噂に関することだ。 「かずっちが帝なあ。……こりゃ、戦の気配がすんで」  くくっと喉を鳴らすのは、霞。久々に時代の動きそうな予感を彼女は感じ取っていた。 「いやー、そんなことにならないにこしたことはないんですけどねー」  彼女の背後から現れるのは、宝ャを揺らす風。人が居ることには既に気づいていたのか、特に驚いた様子もなく、霞は彼女のほうを見やる。 「なんや、風。華琳の側におらんでええんか? とぼけとったようやけど、あんたらが今回の一件知らんかったとは言わせへんで」 「ええ、まあ……。でも、今日華琳様が用があるのはたった一人ですからねー」  その返答に納得したのか、ふふんと鼻を鳴らす霞。風はとてとてと移動すると、霞の背中側に座り込んだ。 「それに、他の所にいると、いろんな人に質問攻めにあいそうなのでー」 「まあ、せやろな。色々と訊きたいやつは多いやろ。うちかて訊きたいわ」 「……訊かないんですか?」  しばらく待ってみたものの続きが来ないのに、風は首をひねる。宝ャが落ちかけ、彼女は結局、それを自分の隣に置いた。 「訊きたい事はある。せやけど、それはうちの役目やないやろ。一刀と華琳がどうするか。結局んところ、興味はそこやな。ま、楽しみにしとるっちゅう段階やな」 「そですかー」  軽い調子で答え、ふと風は左手側に顔を向けた。ぱたぱたという足音が聞こえてきたからだ。 「おや、季衣ちゃんに流琉ちゃん」 「おー、どうしたー?」  二人は声をかけられると急ぎ足のままそれに応じた。 「これから門の警備なんです」 「華琳様が今日は人の出入りを見張っておけって」  ふーん、と一つ唸り、霞はひらひらと手を振ってみせる。 「そなんか、人手が要りそうなら言うてや」 「はい、ありがとうございますー」 「霞ちゃんも飲み過ぎないようにねー」  元気な声を残して、二人は駆け去っていく。その背を見つめ、霞は小さく笑った。 「二人はいつもと変わりなし、か」 「まあ、おにーさんが帝になったからといって、あの二人にとっては特に変わりありませんからね」 「まして、華琳の決めたことなら、やろ?」  くふふ、と小さく笑う風。霞は中身の尽きたらしい瓶を片眼で覗き込みながら、なんとなしに訊ねる。 「せやけど、出入りを見張れなあ。噂話は城ん内に留めておくってか?」  だが、それに答えはない。くーくーとわざとらしい寝息が聞こえてきて、彼女は呆れたように顔をしかめた。 「ったく」  新しい瓶を開けながら、霞は小気味よさげに呟くのだった。  あるいは、西涼公、錦馬超の自室。 「大変大変、大変だよーっ!」  血相を変えて走り込んで来たのは、髪を頭の左側で結わえた元気な女の子。西涼の錦馬超の従妹である蒲公英だ。  彼女が部屋に入って見たものは、象棋の盤面を挟んで対峙する従姉と、東方出身のこれも騎馬の腕で名高い公孫伯珪こと白蓮の姿。 「象棋なんて打ってる場合じゃないよ、お姉様! それに白蓮さんも!」  だが、翠はわめく彼女のことを横目でちらりと見ただけで、盤面に顔を戻してしまった。白蓮が駒を手の中で玩びながら、面白そうに二人のことを見ている。 「落ち着け、蒲公英」 「お、お、落ち着いてなんかいられないよ! 一刀兄様が天子様になるんだって!」  静かな声で嗜める翠に向けて、蒲公英は爆弾発言――と当人は信じていること――を投げかける。  だが、二人の反応は鈍かった。 「ああ」 「うん」 「知ってたの!? って、そうじゃないよっ! 知ってるならなんでそんな静かに象棋打ってるわけ!?」  責めるような蒲公英の口調に、じろっと横目で彼女を睨む翠。 「あたしたちが慌ててないことがそんなに疑問か?」  従姉の不機嫌そうな問いかけに、ぶんぶんと頭を振って肯定する蒲公英。その様子に白蓮は思わず微笑んでいた。 「簡単なことさ。私も翠も公位にあるからな」  それだけでは納得しそうにない蒲公英に対して、白蓮は解説を加える。 「別に肩書きがついたからといってなにが変わるわけでもないはずなんだが、それでも私たち二人が騒げば、それだけで動揺する奴らが出て来る。特に、この宮中にな。それは、幽州にも涼州にも、私たち自身にも益とは言い難い。まして、一刀殿への迷惑を考えれば、軽々に動けんさ」  彼女が言い終えたところで、翠がぱちりと駒を置く。白蓮は余裕の態度で、既に盤上にある駒を一つ動かした。 「なにか一言でも言おうものなら、言質を取られるだろうからなあ。こうして部屋に籠もって象棋でも打ってるしかないってわけ……。って、あ、ちょっとそこに弓兵かよ!」 「待ったはなしだぞ、翠。まあ、しかし、あれだな。私やお前、それに美羽の公就任も、華琳の下準備だったってことだろうな」 「華琳の奴、どこまで計算してんだろうなー。あたしにゃわからん」  渋々、という様子で、翠は白蓮の手に対抗するように駒を動かす。それをやると全体の動きは制限されるのだがどうしようもない。 「でもなあ、西涼を任せてもらうこと自体はありがたいしなあ。華琳や一刀殿がいなければ、それもなかなか……。といって、桃香様たちがどう動くか……。うーむ、難しいな」  果たして、最後の台詞は現在の情勢を言っているのか、必死で見つめている盤上のことを言っているのか、傍で聞いている分には判別がつかなかった。 「い、色々考えてるんだね。お姉様」  それでもかなり驚いた震える声で言う蒲公英に、翠は小さく肩をすくめる。 「軍師殿からも、なにがあっても落ち着いてくれ、と再三書状で言われてるからなあ。特に第一報だけでは判断しづらいことには、慎重にも慎重を重ねて、信用出来る相手とだけ相談しろってさ」 「ああ、徐元直殿か。うーん。私も智謀の士を探すべきなのかなあ」 「白蓮は元々太守としての経験があんだからいいじゃん。あたしなんて、昔は難しいこと母様任せだったからさー。……反省してんだよ、これでも」  翠は照れたような表情を見せた後で、横を向き、相変わらず落ち着かない態度の蒲公英をまっすぐ見つめた。 「で、蒲公英はどう思う? あたしにとっちゃ、お前が一番相談すべき相手だからな」 「え? え? そ、そう言われても……」 「一刀殿が登極するということは、要するに今上陛下にご退位いただくということだ。これを西涼の諸勢力は認めるか? あたしや韓遂が認めたらそれに倣うか? どう思う?」  自分が持ち込んだ話題のはずであるのに、食いつかれてみると、蒲公英は慌ててしまう。大事件と認識してはいたものの、それに対してどうするかまでは考えていなかった自分に気づいたのだ。 「そ、それは、その、蜀や呉の反応ってのもあるし、まずは様子見っていうか、事態を把握しないといけないんじゃないかなーって」 「うん。そうだな」 「そうか。まあ、そうだよな。うん。だからな。蒲公英」  蒲公英の返答に、翠も白蓮も同意するように頷く。白蓮はまるで蒲公英を褒めるような微笑みで、翠のほうは盤面に向き直りながら。 「いまは、こうして象棋でも打つしかないわけだよ……。っと、お、いい手見つけたぞ、ここに騎馬を動かす!」 「ふん。それしきのことで白馬陣を崩せると思うなよ?」  そんなことを言い合いながら、手を動かしている二人を呆れたように見て、しかし、蒲公英は諦めたように肩をすくめる。 「まー、待つしかないかー。蒲公英たちだけじゃいい考えも浮かばないしねー。……あ、お姉様、駄目だよ! こんなところ打っちゃあ!」 「うるさいな。あたしの遠大な戦術を楽しみにしていろ。きっと勝つから!」 「えー……」  蒲公英は従姉に全き信頼を置いていたが、象棋の腕に関しては信用していないのであった。  宮中の庭の一つに目を転じれば、そこには袁家の面々が勢揃いしている。  麗羽、美羽、斗詩に猪々子に七乃という五人組は、四阿の卓に広げられた紙に書き付けられた文字に身を乗り出すようにして話し合っているのであった。一人だけ、卓を囲んではいるものの、他とは違い困ったようにぽつんと佇んでいる斗詩を除けば。 「やはり、皇后は華琳さんでしょうねぇ」 「それはそうじゃろ。華琳自身はもちろん、他が納得せん」  麗羽は紙の一番上に、でかでかと華琳の名前を書く。紙には華琳の名前が置かれた場所から階段状にいくつかの箱のようなものが描かれていた。 「となると、古の法に則ると、貴人三人、美人九人、宮人二十七人、采女八十一人……。さて、わたくしたちはどのあたりでしょう」 「呉の王族お二人は、貴人に入るんじゃありません?」  麗羽の声に応じ、にこにこと笑いながら七乃が指を差す。すると、猪々子がそれに首をひねった。 「でもよー、片方はもう死んだことにしてんだろ?」 「それでも孫呉の取り込みを考えたら有効じゃありません?」  ふうむ、と皆は頷くものの、麗羽が書き込む事はない。美羽が綺麗な着物をひらひらさせながら、別の話を持ち出す。 「ところで蜀の者どもはどうなのじゃ? あまり妾は知らんのじゃが」 「たいていはアニキの恋人なんじゃねーの?」 「では、そちらも考えなければいけませんわね。桃香さん、雪蓮さん、蓮華さんで貴人が埋まると考えるほうがよろしいかもしれませんわ」  華琳よりは数段落ちるながら、それなりに目立つ文字で、麗羽は三人の名を記す。 「となると、妾は美人かの。なにしろ、司隷を領有する身じゃからの!」 「でも、美羽さまー。それって、漢の官位ですよね?」 「む、それは……まあ……」  猪々子のつっこみに、しゅんとなる美羽。麗羽は持っている筆の尻骨を顎に当てて考え込んだ。 「漢の位が意味を持つのならば、わたくしの大将軍はかなりのものですわよ。ま、実際の所、この間公位についた三人とわたくし、月さん、夏侯のお二人あたりは美人九人には入るのではないかと……」  侃々諤々、それぞれの主張を繰り広げ、一刀が築き上げるであろう後宮の姿を議論する四人。その様子についていけない斗詩は、彼女たちに注意を促そうとする。 「あのー、みなさん? いまから後宮の官位を考えてもですね……」  そもそも、一刀が帝位につくというのは、現状では噂のようなものに過ぎないし、妻を娶るにしてもどのようにするかなどさっぱりわからないのだ。一刀の性格を考えれば、結婚するときは皆とするだろうという推測は斗詩にも可能だったが、しかし、そこで妃の位を考えはじめるのは、さすがに時期尚早というか、焦りすぎな気がするのであった。  だが、袁家の主二人はそんな彼女の言葉に胸を張って答える。 「いえいえ、こういうことはきっちりしておきませんと。特に我が君はこの土地のしきたりにはお詳しくないわけですから」 「そうじゃのう。こういうときこそ、我ら名族の出番というものじゃ!」 「そ、それはそうかもしれませんが、でも、ですね」  おそらく、一刀はそんな礼式などよりもっと大事な決断を迫られているのだと思うのだが、彼女自身、詳しく知っているわけでもないので、うまく説明できない斗詩。  彼女が考えをまとめようとする間に、七乃が麗羽の書いている図を指さし、にこにこと笑いながら指摘する。 「あのー、それよりもですねー。そもそも、この三貴人、九美人、二十七宮人、八十一采女って、『礼記』の三公九卿二十七大夫八十一元士に対応したものですよね。表の官位が変わったら、こっちも変わるんじゃないですかー?」 「ふむ。それもそうですわね」  七乃の言葉に、麗羽は可愛らしく小首を傾げる。膨大な量の金色の髪が、彼女の肩口を流れていった。 「そのあたり、どうお考えなのでしょうね?」 「うむむ。じゃが、そのあたりは一刀でのうて、華琳や稟たちの決めることではないかの?」 「確かになー」  斗詩が口を挟む間もなく進んでいく話に、相も変わらずにこやかに七乃は提案する。 「華琳さんに訊いてみます?」 「いやー……。さすがに忙しいじゃろ、華琳めは」 「ですわねえ。近いうちに話せる機会があればよろしいのですけど……」  妙なところだけ現実的な二人である。  話が停滞しそうになったところで、七乃は、さもいま気づいたかのようにぽんと手を打った。 「そうそう。一刀さんが古くさい制度を嫌う可能性もありますよねぇ?」 「それも大いに考えられますわね! そうなりますと、わたくしたちが、我が君にふさわしい制を考えてさしあげねば」 「そうじゃの、そうじゃの」  真剣に議論している麗羽と美羽、混ぜっ返すのが楽しそうな七乃、暇つぶしの種と考えているのか適当に調子を合わせている猪々子。  四人の姿を眺めやり、 「まあ、変に大騒ぎするよりはいいのかなあ……」  と後ろ向きなことを呟き、小さくため息を吐くしかできない斗詩であった。  天宝舎の一室では、春蘭が可愛い姪に、意外に強い力で指を掴まれながら、妹に訊ねかけている。 「なあ、秋蘭」 「なんだ?」  我が子と戯れる姉の姿をうっとりと眺めていた秋蘭が答える。ただし、彼女が恍惚としていたと、その外見から気づけるのは華琳や一刀など、ごく近しい者だけだったろうが。 「一刀が帝になるだろ? そうしたら、華琳様はどうなるのだ?」 「魏王のままではないか? まあ、名称は変わるかもしれんが、実態は変わるまい」 「ふむ……変わるか」  そこで、しばし沈黙に落ちる春蘭。興味を失って話を終えたという様子でもない姉に、秋蘭は少し不思議そうな顔になった。 「どうした? 姉者」 「いや、わたしは魏という名前に愛着があったのだと、いま発見した」 「そうか」 「うむ」  とてつもない真理を見つけ出したかのように隻眼を輝かせて言う春蘭と、それをほれぼれと見つめる秋蘭。  二人は何一つ揺らがなかった。  少し城を離れ、郊外に注目してみれば、一つの小屋を目指し、青い髪を揺らす女性の姿がある。  駆け足にならないぎりぎりの早足で小屋に入った女性は、辺りをはばかるようにきょろきょろと視線を動かし、そこにいた二人の姉妹を驚かせた。  常ならば絶対にしそうにないことをしている次女の姿を、姉である天和と妹の人和は興味深げに眺めていた。 「二人とも聞いた?」 「徒手格闘大会は中止になるけど、ちぃ姉さんの報酬は約束通りもらえるって話は一刀さんから聞いたけど?」 「うん、聞いた聞いたー」 「違うってば!」  冷静に答える人和と、のほほんと続ける天和の様子に、地和はじれったそうに声をあげる。 「もう! 城の中はその話でもちきりなんだよ!」 「そう言われても困る。今日は私も姉さんもこっちにいたから、わからないよ」  地団駄でも踏みそうな地和をなだめるように、人和が淡々と告げる。 「だーかーらー」  と彼女はそこで姉妹二人を手招きした。地和は、近づいて顔を寄せる二人に囁きかける。 「一刀がね、帝位につくんだって。ううん。華琳さまがそうするって言う方が正しいかな」 「わーっ、すっごーい!」  感嘆の声をあげる天和に対して、末妹は思案顔。 「姉さん、それ、どこで聞いたの?」 「え? 女官の娘たちからだけど?」 「ふうん……」  眼鏡の奥で、人和の目が細くなる。意地の悪い表情を浮かべる妹に、地和は不審げに呟く。 「なによ、人和」 「ちょっとね。でも、いまはいいわ。それよりも、私たちに関係のあることを考えましょう」  眼鏡を押し上げ、表情を隠しながら人和は姉たちに提案する。天和がこてんと首を傾げた。 「一刀が帝になるのはすごいと思うけどー。だからってなにか影響あるかなー?」 「そりゃあ、あるんじゃない?」 「どんなの?」 「うーんと……」  考え込む姉たちの姿に人和はわずかに苦笑した後、表情を引き締めた。 「二人とも聞いて。あのね、私たち、一刀さんと恋仲なことをもう隠していないでしょ?」 「う、うん」 「改めて聞くと照れくさいよねー」  頬を染める地和と、のんびりと笑う天和。しかし、人和は二人に同調することなく、静かな調子で話を続けた。 「もし、ちぃ姉さんが聞いてきたように一刀さんが帝になったとする。そうすると、私たちは、帝の愛妾ってことになるわ。『ふぁん』や私たちにとってはこれが一番直接的な影響」 「あー、うーん。そっかー」 「正式に結婚するかどうかは一刀さん側の意向もあるし、なにより私たち――黄巾の首領だった私たちの立場を考えるとどうなるかわからないけれど、少なくとも関係があることは、皆知ってるわけだから」  人和の説明に、姉二人は腕を組んで考え込む。その体勢がまるで同じものであることに、二人は気づいていただろうか。 「でもさー、これまでだって一刀は天の御遣いで、それなりの官職があったりしたじゃない?」 「うーん、でも、ちーちゃん。洛陽で華琳さんたちと親しくするまで、九卿とか知ってた? お姉ちゃん知らなかったよ」 「……そりゃ、私も知らなかったけど……」  考え付いたことを口にした地和が天和の言葉に肩を落とす。それを補足するように、人和が続けた。 「普通の人だと、聞いて印象に残るのって、せいぜいいって三公、大将軍止まりだと思う。王や帝は比べものにならない」 「まあ、心証は違うよね、全然」 「それでー、人和ちゃんはどう考えてるのかな?」  天和が促すのに、末妹はぐっと顎を引き、大地を踏みしめるようにして答える。 「うん。あのね、覚悟決めないといけないかも、って」 「覚悟?」 「うん。私たちには影響力がある。華琳さまや三国の政を担う人たちとは別の形で」  一度は大陸全土を巻きこむ乱を起こした三人である。しばらく前にも似たような手段で、白眉の乱が巻き起こった。いまはそういった方向性から離れているとはいえ、民に向けての影響力は絶大なものがある。 「その私たちが一刀さん……帝の座につく人の恋人として歌を歌い、みんなに言葉を届けること、それは、一刀さんが作っていく国を支えることに直結する。そう受け取られる」  自分たちの活動に、政治的色合いがついてしまう。そのことを人和は言っているのだった。 「これまでは華琳さまの影響下にあるとはいえ、その領内で活動の保証を得て、協力をするってことだけでやってきたけど、それだけじゃ収まらなくなる。そのことを覚悟しないといけない、ってそういうこと」  否定するのではなく、それをどのようにして受け入れ、生かしていくか。それを彼女は主張しているようであった。  固い表情で告げる妹に対して、二人の姉は顔を見合わせる。視線だけで言葉を交わした後で、二人は和やかな顔を妹に向けた。 「な〜んだ、そんなことか」 「うん。大変なことかと思って、身構えちゃったー」  その反応に呆気にとられたように固まる人和であったが、しばらくすると目元の緊張が緩み、優しい目で二人を見つめて、 「そうね」  と言った。 「今更なことかも」  小さくため息を吐いたのは、考えすぎを自省してのことだろうか。その様子に、天和も地和も明るい笑い声を立てた。 「そうだよー。一刀のこと支えられるなら、お姉ちゃんはそれでいいよー」 「うん。そう。ちぃたちは、華琳さまに助けられて、一刀に支えられて、もう一度立ち上がれた。その恩返し、まだまだ終わってないもん」  地和は一気に言って、ぺろりと照れたように舌を出す。そのままおどけた様子で、しかし、真剣な調子で続ける地和。 「だから、覚悟を決めるんじゃなくて、覚悟をあらたにするっていうんじゃない? こういうの」  その言葉に、天和も人和も頷き、一点の曇りも無い朗らかな笑顔を浮かべるのだった。  宮中の廊下で、ぱたぱたと足音が響く。  走っている小柄な人影は、時折柱のあたりで足を止め、陰になっている部分を覗き込んだりしていた。  その様子にしばらく前から気づいていた女性は、相手が走り去ってしまうより前に、酒杯を掲げつつ声をかける。 「おうい、ねねよ。なにをしとる?」  ぱっと振り向き、その途中で声と言葉遣いで、相手が祭であることに気づき、落胆の表情を浮かべる音々音。 「なんじゃ、あの顔は」 「おおかた恋だと思ったのだろうさ」 「ふむ、それはしかたないな」  小さく愚痴ると、隣で金剛爆斧の手入れをしていた華雄がそう答え、祭は納得したように頷いた。 「恋殿を知りませんか?」  近づいてきたねねは予想通りの問いを発してきた。顔をあげた華雄と祭はわずかな間だけ目をあわせ、にやりと笑った。 「しばらく前まではここにおったぞ」  庭に作り付けられた長椅子の空いたところをぱんぱんと叩く祭。乾いた木材の音がよく響いた。 「ど、どこに行ったですか? 教えやがれです」 「なんじゃ。えらくせわしいのう。大事か?」  こくこくと頷くねね。彼女は二人に耳を出させ、秘事を打ち明けた。 「北郷一刀が、至尊の座に推戴されたのです」  と。 「ほおう」 「ふうむ」  だが、二人は感嘆の声を一つあげたきり、それ以上の反応を示そうとしない。音々音は顔を真っ赤にしてぶんぶんと腕を振った。 「な、なんで、驚かないのですかっ!?」 「いや、まあ、なあ……」 「そういうこともあるじゃろ」  責められて困ったように苦笑する華雄と、杯を傾ける祭。酒杯を乾した彼女はぷはあ、と美味そうに息を吐いてから、なにか思い出したように言った。 「それに、今時皇帝など、名前だけならたいしたことはないじゃろう。あの美羽ですら、仲の皇帝を名乗っていたというぞ」 「ああ、うむ。そうだったそうだった」 「僭称と一緒にしてどうするですか! あれの後ろには華琳がいるのですよ。名実が伴います!」  その言に、にやりと微笑んでみせる祭。その笑みに込められた凄味に、音々音はびくりと震える。 「ならばますますよいではないか。大陸を統べた者が皇帝を指名することに、なんの問題があるというのじゃ?」 「いえ、別にねねだって文句があるわけでは……」  言ってからうつむいている自分に気づいたのか、はっと顔をあげ、だんだんと地面を蹴るねね。 「むー、ともかく、ねねは恋殿にこれをお知らせしなければならないのですよっ!」 「いや、その恋だがな」 「まさにいま話題の旦那様のところに行っておる」 「へ、そうなのですか?」  唐突に求める答えを得たねねはびっくりして口をすぼめている。 「うむ。なにやら、匂いがするとか言っていたな」 「い、戦の匂いですか?」 「いや、そうではあるまい。我らは来なくて十分と言っていたからな」 「ま、小物が騒ぐ程度であろうよ」 「むー……」  二人の余裕の態度に、なんだか妙に腹を立てているねねであったが、気持ちを切り替えたか、ぱっと表情を明るくして動き出す。 「ともかく、教えてくれたのは感謝しますよっ。ではっ!」  ぺこりと礼をして駆け出すねね。いま、ねねがお側に参りますぞー、と元気に騒ぎながら走り去る彼女の姿を、二人はほほえましく見守るのだった。  さて、ねねが目指している場所――一刀が去った彼の居室の中では、残された面々が月の淹れた茶を飲みながら、なんとなしに時間を潰していた。 「ご主人様、お刀を置いて行かれて大丈夫なのでしょうか……?」  いまは雪蓮の膝に置かれている刀を見つつ、月が呟く。宮中とは言え、誰が居るとも限らない。兵がついていないのに、武器を置いていっていいのだろうか、と彼女は疑問に思っていたのだった。 「大丈夫でしょ。恋が外にいたし」  だが、この中で最も武術に長けているであろう雪蓮はあっさりとそう言ってのける。彼女はひらひらと手を振っていたが、折れたほうの腕であるのを忘れていたのか、痛みに顔をしかめていた。 「え? ほんと?」 「うんうん。沙和たちも見たのー」 「外で秋蘭さまの猫と遊んでいらっしゃいました」  驚いて言う詠に、沙和と凪が答えると、詠は口をへの字にして腕を組んだ。 「中に入ってくればいいのに……」 「『恋のお仕事があるかも……』とか言うとったで」 「まあ、それなら大丈夫だろう」  おそらくは一刀にも気づかれずついて行くつもりだろう、と全員の予想が一致したところで、雪蓮が膝の上の刀を手に取る。 「それより、これを私に預けた意図が気になるわー。やっぱり、あれかな、裏切るなって?」  ふざけたようなその物言いに対して慌てたのは凪くらいのもので、 「いえ、そのような、隊長は……」  と弁解のようなものを口にしていたが、他の面々は黙っているか、詠や真桜のように鼻を鳴らしていた。 「莫迦」 「んなあほな」  その冷淡な反応に、雪蓮は隣の親友に抱きつくようにする。 「うわ、ひどいと思わない? 冥琳」 「自分でも信じていないことを言うからだ、莫迦め」  しかし、冥琳からも鬱陶しげに払われて、雪蓮はぺろっと舌を出した。 「いつも刀を手にしていなければならない帝など、帝でいる意味はない。それくらいは考えているだろうさ」 「間違っていたら自分を斬れくらいは思ってるかもよ。あいつは莫迦だから」 「んー」  軍師二人の言葉を聞いて、先程より真剣な顔で、雪蓮は真桜が打った刀の鞘を撫でる。かつて、彼女が振るう南海覇王が割り、新しくなった鞘を。 「突き返すか?」 「さて、どうしようかしら。個人的にはもらってあげたいんだけどねぇ……」  ぬめるように黒光る鞘に指を滑らせながら、雪蓮は思案げにそう呟くのであった。 「こーてーはだいおーより偉いにゃ?」  天宝舎の二階、桂花と稟が執務を執るはずの部屋に、何人もの闖入者があった。にゃーにゃー言いながら部屋を駆け回っているのはちびっこい猫娘たち。 「位だけで言ったら、まあ、そうなるわね」  机の上だけは南蛮娘たちから死守しながら、桂花は答える。一方、稟は部屋の隅で阿喜と木犀の姉妹を寝かしつけていた。 「ほへー、すごいにゃー」 「だいおーより偉いなんて、すごいにゃ!」 「……あにしゃま、すごい」 「にい様、万歳にゃー!」  母親たちの歓声に、ちびたちが揃ってにゃーにゃー声をあげる。その様子を見ていると、この娘たちは人の言葉を話せるようになるのかしら、と心配になってしまう桂花であった。  一応は、彼女たちとて自分の娘と姉妹なのだから。 「まったく、騒ぐだけ騒いで、暢気な事」  一刀が皇帝になるという話をどこで聞きつけたのか、そもそも意味がわかっているのか怪しいながら、さんざっぱら桂花に質問を投げかけた後、母子共々、机の下に潜り込んで眠ってしまう南蛮勢。  桂花の愚痴は、積み重なるようにしている子供たちを、きつくないように移動させて、布をかけてやりながらのものだ。  それを手伝いながら、稟はしかたないというように言う。 「南蛮にはそう関係ないですからね。そもそも漢朝に義理もないでしょう」 「まあね」  全て具合いいのを確かめて、桂花と稟は椅子に戻る。その椅子も、眠っている美以たちにあたらぬよう、ずいぶんと机の端に寄ってはいたが。 「騒ぐとしたら、まず、呉と蜀、それに今上周辺よね」 「でしょうね。事実、女官の幾人かが勝手に城下に出ようとしたので拘束してあります。しかし、いま騒ぐのはあまりに無様ではありませんか。なにも考えていないと丸わかりですよ」 「そうね、孫家も劉備勢も表だっては動いていないわ」  さすがに慎重よね、と肩をすくめる桂花に、稟は細めた眼に剣呑な光を宿して語りかける。 「果たして、彼女たちがどう出て来るか」 「そして、あいつがどう動くか」 「信じるしかありませんね」 「ええ。敵も味方も、その力を信じるしかない。いまはそういう時」  それ以上は語り合う必要もなく、天下にその知略をうたわれる二人は沈黙の中で、来るべき時を待つのであった。  2.呉王 「駄目だ。姉様たちにも祭にも会えたが、ろくな情報は無かった」  部下が揃う部屋に戻るなり、呉の王は正装を脱ぎ捨て、楽な姿になって椅子に座りこんだ。その常に似合わぬ不作法なやりようを咎める者は誰も居ない。いまは、それどころではないと皆わかっているのだ。 「どうやら姉様たち……どころか、一刀当人も把握していなかったことのようだな」  思春が入れてきてくれた熱い茶を一気に飲み干し、顔から肩口にかけて盛大に汗をかきながら、蓮華は吐き捨てるように言う。 「北郷には知らせず、魏の側で……ということですか」  主の汗を丁寧に拭いながら、思春が問いかける。こくりと頷いてから蓮華は小首を傾げた。 「多分ね。考えてみたら、あの人が知っていたら、止めてしまいそうな気もするし」 「どういたします。ご命令通り、洛陽からの逃走経路は確保してありますが」 「いや、まだ早い。正式に発表されるまでは待つ。……ありがとうね、思春」 「はっ」  礼を言われた思春は上着と汗を拭った布を持ったまま後ろに下がり、いつも通りの位置に着く。一汗かいてさっぱりとしたらしい蓮華は、姿勢を正し、部下たちに向き直った。 「で、こちらはどうだった?」 「明命がまだ戻ってないけど、亞莎が流れてる噂の解析をしてくれたよー」 「ほう?」  妹の楽しげな言葉に片眉をはねあげ、蓮華は軍師の一人、亞莎のほうを見る。注目が集まったのを知った亞莎は両手を持ち上げ袖で顔を隠しそうになって、なんとか踏みとどまった。 「え、ええとですね。その、小蓮様はじめ皆で、顔見知りの女官たちから色々と今回の事について噂を収拾しました結果、話の種類があまりに少ないとわかりました」 「種類?」 「はい。その……」んっ、と亞莎は唾を飲み込む。「噂に限らず人づての話というものは、大なり小なり話者の憶測が混じるものです。たとえば、今回の事は大きなくくりで言えば人事の話ですが、その場合、必ず主体となる話の他に、自分が関わる部局、あるいは上司の処遇についてもなんらかの感想、推測、希望といったものが混じるはずなのです。主体そのものにつく尾ひれとは別に、です」 「一刀が帝になるんだったら、華琳はどうなるとか、春蘭はどうなるとかの話も出て来るはずってことらしいよー」 「最初の話にはなくても、そういうのが混じって来ちゃうんですねー、普通はー。そうして、色々と亜種が増えていっちゃうんですよー」  小蓮と穏の助太刀に感謝するように頷いて、亞莎は続ける。 「しかし、今回、それがほとんど見られません。これは、情報伝達そのものが段階をそれほど経ていない……。つまりは女官たちに意図的に第一段階の情報が伝えられたものと判断いたします」  一拍おいて亞莎は結論を口にする。 「このことより、今回の話は、魏の中枢が意図的に流したものと結論づけられます」 「おそらくは、これがわざとだってことがばれる……というより伝わるように工夫して、ですね?」 「はい。桂花さんたちが、あえて流すにしても自然と漏れた形を取り、何人もの手を経たと錯覚させるようなやり方を知らないわけがありません。ですから……」  穏の呼び水に応えて結論をさらに推し進めていく亞莎。その言いたいことは既に主に伝わっていた。 「……私や桃香への伝言というわけね」 「そうなります」  蓮華は口元に手を当て、その肘をもう一方の手で持ち上げるような格好で思案に入る。  一刀が魏の手によって皇帝になること、それを知らされることの意味、それらを考えた時、果たして自分が呉の民を守るためにすべきことはなにか。 「華琳め、この十日の内に済ますつもりか?」 「うーん。時期的にはありですけど、でも、ちょっと急ぎすぎですよねぇ……」  しばし考えた後、頭に浮かんだことを口にする蓮華。あと十日から十五日の間、三国の重鎮が洛陽に勢揃いする。その間に漢朝を終わらせ、一刀に新たな王朝を開かせる荒技を華琳は断行するつもりなのだろうかと彼女は考えているのだった。 「準備はしてきたのだろう。ありえないことではない」 「でもさー、一刀本人がそんな性急なの呑むかなー」 「華琳とあやつの絆を侮ってはいかんぞ、小蓮。あの男は私もお前も、紛れもなく愛している。だが、華琳とはまた違うつきあいなのだ」  厳しい声で、呉の女王は言う。その声の鋭さにもう一人の姉に似たなにかを感じ取り、小蓮の背筋に冷たいものが走った。  それはその場にいた者たちみなに共通するものだったのかもしれない。思春も亞莎も共に殺気に近いものを感じて動きそうになる体を押さえつけていた。  一人、穏だけがのほほんと、そういうものかもしれませんねー、などと相づちを打っている。 「ただいま、戻り……ました?」  そんな中に帰ってきた明命は部屋の雰囲気を感じ取り、奇妙に語尾を上ずらせてしまう。 「ど、どうだった、明命?」  どもる小蓮に疑問の視線を向けながら、明命はてきぱきと報告していく。 「一刀様に接触はとても無理でした。中には凪さん、外には恋さんがいて……しかも、途中から雪蓮様と冥琳様が部屋に……」 「さすがに、それは無理だ」  呆れたように肩をすくめる思春。その面々が揃えば、どんな人間でも単騎で突破は不可能だし、気配を察知されないでいるのも至難の業だ。 「ですから、中の会話を探ることも無理でした。それから、部屋を出た一刀様は華琳さんの部屋に向かいました」 「ふむ」 「しかし……恋さんもいましたし、なにより華琳さんの部屋周辺に近づくのは危険と判断しまして、戻ってきた次第です」 「懸命な判断ですよー、明命ちゃん」 「うん、そうね。いま、華琳を刺激してもしかたないわ。ありがとう、明命」  肩を落とす明命の背中を、穏はぽんぽんと叩き、慰めようとする。蓮華も表情を緩め、普段の声で告げた。  それから、蓮華は両手を卓の上に投げ出して、疲れたように呟く。 「結局の所、華琳が一刀を帝位につける意志を示したと、それだけね。わかっているのは」 「それも、まだ不確実。我らが動く時機ではないと考えます」 「穏も亞莎ちゃんと同意見ですねー。先程蓮華様も仰ったとおり、正式発表か、正式な会談があるまでは、知らぬ存ぜぬで通すべきでしょー」  そこで穏はぽやんとした笑顔を浮かべる。 「まー、正直、穏たちだけに限ってみれば、一刀さんが帝になったとしても、特に変わりはないですしねぇ」 「私たちだけなら、ね」  わずかに苦笑しながら頷いて、蓮華は肩の力を抜く。ひとまず様子見をするしかないと決まれば、あまり緊張しすぎて疲れてしまってもしかたない。 「ところで、蓮華様」 「ん?」 「朝廷の人が何人か話がしたいと言ってきているんですけど、どうしますー?」  穏が切り出した話題に、蓮華は今度こそはっきりと苦笑してみせる。 「無視しておけ。軽々に動くつもりはない。いま私が話すとしたら、一刀か華琳か姉様たちか、そのあたりとだけだ。他は危なくてなわん」 「はいはい、わかりましたー」  穏は答えて袖口から紙束を取り出し、びりびりと破いて丸めてしまう。きっと、面会を求めて来た人物の名前が書いてあったのだろうが、それも忘れてしまうという表明なのだろう。 「そういえば」  それを眺めていた呉王は、どこか城内の別の場所を見つけようとでもするように、視線を宙にさまよわせる。 「桃香たちはどうしているのだろうな?」  と言いながら。  3.蜀王  呉の女王の気がかり、蜀勢は同じ頃、同じように皆で議論の場を持っていた。 「落ち着きましたかな、軍師殿?」  主と共にやってきた小柄な二人にそう悪戯っぽい声をかけるのは、星。彼女はくすくす笑いを抑えつけるようにその着物の袖を口元にやっていた。 「は、はひっ」 「大丈夫れすっ」  朱里と雛里は噛みながら答える。第一報が入ってきた時、思い切りはわあわと慌ててしまった二人であった。 「ちょっと緊張しちゃってるけど、朱里ちゃんも雛里ちゃんもちゃんと分析してくれているよ」  苦笑しながら桃色の髪を揺らす桃香がそう保証したことで、場に暖かな空気が流れる。しかし、それでも、どこか危うい雰囲気は消えることはなかった。 「では、始めましょうか」  早々と璃々を寝かしつけてきた紫苑がそう口火を切り、論議が始まった。 「まず、皆さんお聞きの通り、華琳さんの手によって、北郷一刀……天の御遣いが帝位につけられるという噂が流れております」 「これについて真偽を確かめようと華琳さんに会談を申し込みましたが、断られました。桃香様との会談も、です」  朱里と雛里が順番に話を進めると、ざわり、と場がざわめく。 「それは……あちらが半ば認めたと考えていいのだろうか?」  皆が訊きたいであろうことを、愛紗が代表して挙手して訊ねる。 「確実とは言えませんが、状況証拠にはなります」 「また、蓮華さんとの接触も持てませんでした。こちらは断られたわけではないのですが、今日は忙しいので後日、と」  なぜ忙しいのか、それを推測するのは容易だ。呉側も今回の事で色々と動いているのだろう。そして、なんらかの方針が決まるまで、重要なことはこちらに漏らすまい。 「少なくとも、そのような話が動いているらしい、と受け取っておくべきだろうな」 「もしかしたら立ち消えになるかもしれませんが、備えておくにこしたことはありませんね」  桔梗が言い、うんうんと焔耶がそれに続く。 「それにしても」  桃香が我知らずといった風で呟く。 「一刀さんが帝かあ……」  その言葉に、場は沈黙に包まれる。彼に対しては、皆それなりの感情を抱いている。そのことと政治上の問題は別とはいえ、複雑な気持ちは隠せなかった。 「ところで、お兄ちゃんが帝になったら、鈴々たちにとってはなにがどうなるのだ?」  周りの空気から事態の深刻さは窺えるものの、実際にどうなるのかがよくわからず、彼女は訊ねる。虎の飾りも妙な顔つきになっていた。 「個人的なことで言えば、正直、いまよりずっと楽になるかと思います。一刀さんは信頼できますし……」 「なにより、権力が華琳さんと一刀さんに集中するとなれば、そことだけ交渉をすればいいわけで、妙な横やりを入れられる事はなくなります。もちろん、手強い相手ではありますが……」  朱里と雛里が、お互いの思考を読みあいながら言葉をつなげる。どこが途切れ目だったのかよくわからない程の連携を取りながら、二人は声を揃えてこう言った。 「ただし、名実ともに、蜀は属国となるでしょう」  と。 「しかしなあ」  しゃらり、と桔梗がかんざしを鳴らす。 「ワシらは既に属国よな?」  その問いかけに対する答えは随分と遅い。 「……はい」  消え入るようなか細い声は朱里であったか、雛里であったか、どちらにせよ、それは明確に肯定を示していた。 「わたくしたちは、成都の決戦で負け、孫呉はその前に負け、本来ならば大陸は華琳さんが統一しているはずだった。けれど……」 「曹孟徳は蜀を桃香様に、呉は孫家に任せ、形式上三国という形を取った」 「これまでは実質は魏の意向が通る中で、形式的には対等の立場をもって対してこられたのが、完全なる属国となる、か」  紫苑と焔耶が話した経緯に今回の出来事を加え、星が結論づける。どんよりとした空気が場を覆い尽くした。 「おそらく、国の形自体は残ると思います。西涼にせよ、幽にせよ、この時期に新たに国を建てたのは、地方はそれぞれの地方に任せる部分もあると我々に示すためもあったと考えます。ですから……」 「桃香様が廃位されるといったことはないでしょう。ただ、それは帝からは確実に落ちる立場」  すう、と息を吸う音が、全員の顔をあげさせる。その時、自分が俯いていたことに気づいていなかった者も何人かおり、その幾人かは、音を立てた主の顔を驚愕と共に見つめていた。 「華琳さんは一刀さんを祭り上げ、自分も一段下がることで、その実、魏の支配を確実にするつもり……ってことかな?」  ゆっくりと、桃香はそれまでの話をまとめてみせる。 「短期的にはそういうことです」  軍師二人は、主の理解に一つ頭を下げつつ、さらに厳しい声を発していた。 「しかし、もっと重要なのは、長期的なことです」 「長期的?」 「はい。世代をまたぐ話です」 「このままいけば、三国……いえ、六国の支配者層が、北郷の血族で占められます。一刀さんを帝に置けば、それをもっと円滑に推し進めていくことが出来ます」 「いずれは覇王の血脈の下に全てを従わせる、か?」  ひくひくとまるで笑いをこらえるような調子で頬を振るわせながら、愛紗は確認する。彼女が押さえつけているのは怒りか、あるいは、悔しさか。 「一刀さんが帝位について、その次の帝は華琳さんと一刀さんの子供……。わたくしたちの子供は皆、その下につくことになる、と」  感情さえ無くしたような抑揚のない声で、紫苑が述べる。それは冷厳たる事実に違いないと、聞く者たちの大半は思っていた。  だが、その中で、一人、それをはねのける者がいる。  座の中心、いまだその場に温もりを発し続けるその人こそ。 「いずれにしても、まだ、決まったことでもなければ、発表されたことでもない。これは確かだよね?」  凛と張りのある声で、桃香は宣言する。訊ねる形をとってはいても、それは、皆に事実を再確認させるための宣言に他ならなかった。 「それは……はい」  釣られたように熱の籠もった声で、雛里が首肯する。それを受けて、桃香はふんわりと微笑んだ。 「華琳さんの考えがどこにあるのか、それも確かめていない。なにより、一刀さんの考えを、私は聞いてない」 「桃香様……」  それは誰が発した言葉であったろうか。皆に笑いかけながら、桃香は続ける。 「だから、私はみんなと話してみようと思う。一刀さんとも、華琳さんとも、蓮華さんとも、他の人たちとも」  そして、と彼女は呟き、明るい声で、最後にこう言うのだった。 「勝手に潰されることになっちゃってる朝廷の人たちともね」  と。  4.魏王 「来たわね」  一刀が部屋に入ると、華琳は机についてなにやら書簡を広げているところだった。 「待たせたね」 「退屈で、眠りそうになったわ」  そんなことを言い合いながら、一刀は華琳を待ち、華琳は仕事を片付ける。彼女が座り直したところで、改めて、一刀が一つ頷いた。  彼女は金の髪を揺らしながら、男のそんな様子を見つめ、下から覗き込むようにして話し出す。 「どういう話がいい? あなたのせいにする話か、あなたのおかげにする話か、誰のせいでもないことにする話か」 「色々あるのか?」 「いいえ? どれも内容は同じよ。表面を彩るものがちょっと変わるだけで」  肩をすくめる華琳を一刀は微笑みながら見つめ、そして、掠れた声を押し出した。 「じゃあ……華琳がしたい話をしてくれ」 「少し、歩きましょうか」  窓から外を見やって華琳は羽織るものを手にとる。それから、彼女は男のほうへ目をやった。 「一刀は寒くないの?」 「寒くなったら、襟元を閉じるさ。案外あったかいんだぜ、『ぽりえすてる』」 「そ」  二人は寄り添うように庭に出る。新春の宵の風から彼女を守るように、かえって一刀の方が先に立っていた。  しばし庭を散策し、池にかかる橋に立ったところで、華琳が足を止める。  そこで華琳の喉からこぼれ落ちたのは、一刀が予想していたどんな言葉でもなく、力強く、それでいて切ない、美しい音曲であった。 「力抜山兮気蓋世  時不利兮騅不逝  騅不逝兮可奈何  虞兮虞兮奈若何」  かつて彼女と同じく覇王と呼ばれた者が詠んだ、ただただ悲しい詩。  だが、まさかそれに答える詩が男の口から出て来るとは、それを詠んだ華琳ですら予期することは出来なかった。 「漢兵己略地  四方楚歌声  大王意気尽  賤妾何聊生」  死んでくれ、と男は詠み。  死にましょう、と女は返した。  男女の立場を逆にして、彼らは古い詩を詠みあう。 「よく学んだわね」 「いい師がたくさんいるからな」  誇らしげに言い合う二人。女は男を誇りに思い、男はそんな女の横にいることを誉れと思う。 「でも、華琳。いまは四面楚歌なんて状況じゃないし、華琳を乗せる馬は、どこまでも前に進むだろう」  彼は、横に立つ華琳をじっと見下ろした。柔らかに曲線を描く金の髪を顔に被せ、彼女は彼の方を見ない。 「なぜだ?」 「わかっている、わかっているわ、一刀。それでも」  泣いているのか、と彼は思った。  震えているのか、と彼は思った。  だが、そのどちらも違う。  彼女はきっと顔をあげ、涙など浮かびもしない瞳で、挑みかかるように彼を見上げた。 「あなたを虞美人にするわけにはいかない」  そう、宣言するために。      (玄朝秘史 第四部第一回『震天駭地』終/第四部第二回に続く)