漢中から天水まで、その街道はしっかりと整備されていた 街道が整えば流通は発展し、経済も潤う 経済発展にインフラの整備が必要のは何時の時代も同じだ だからこそ、一刀は自費を投じて街道の整備を行っていた お陰で街道を通る人数は増え、経済活動も弾みが出てきている 「内陸部は陸運に頼るしかないしなぁ……河川整備もまだ中途だし」 「何かいいましたか、若旦那?」 一人でぶつぶつと呟いていた一刀に、護衛隊の指揮官が声をかける 苦笑を浮かべながら、なんでも無いよと応える一刀は今、馬上の人である 目的地は天水、太守たる董卓への面会が最終目的だ 「果たしてこの世界の董卓は、どんな人かな、と」 天水へと向かう商隊に相乗りし、馬の背で揺られる一刀は一人思案に暮れる <流星屋>に対して大量の物資購入と借財を申し込んできた、董卓仲穎 それが一体どんな人物であるかを見極めるのが今回の目的だ 史実では暴虐の人として名をはせる董卓だが、この世界ではどうなのか? 事前に収集した情報では中々の好人物という評価だったが、それが事実とは限らない 一刀は自分自身の目で確かめて見たかった (実際、史実の人物評に対しては既に懐疑的な思いを抱くに至っている) 「若旦那、間もなく天水です」 自分を守るように傍らに付いた護衛隊の一人が声をかける ん、と小さく応えて空を見上げる 抜けるような遠い青空に、一刀は少しだけ眩暈がした 異説恋姫・03 〜Fの贖罪/同じ道に並ぶ者〜 「へぇ、これは中々……」 天水の市街で、一刀は小さな感嘆の声を上げた 一刀の目から見ても天水の街は盛況だった 規模や種類では漢中に劣るものの市場が立ち並び、人々の顔も明るい こういった目線から為政者を見る一刀からすると、どうやらこの世界の董卓は優秀な為政者らしい しかし、そうなると疑問がわいてくる 「だったら何で、物資と借財が必要なんだ……?」 あれこれと推測して見ても分かるような話ではない 結局の所は本人に直接聞いて見るしかないのだろう <流星屋>の天水支店に腰を落ち着けた一刀は、旅装を解きながら人を呼ぶ 「悪いけど、董卓殿に使いを頼む。流星屋の北郷一刀が目通りをお願いしたい、と」 「分かりました、若旦那」 人の良さそうな番頭が部屋から出て行くと、一刀は息を吐いた ここ天水でも<流星屋>は指折りの大店だ だからこそ、太守である董卓に直接使者を出せるだけの影響力も有する事が出来る 更に言えば天水の商家の中で、大陸規模の商業網を持っているのは<流星屋>だけだ 故に大量の物資の発注を受けたと言えるだろう それはいいのだが、その意図が読めない 心にもやもやとした霞がかかったような感覚に、一刀は乱暴に頭を掻くと立ち上がった 無性に気分転換をしたかった 人込みに紛れて天水の街を歩く 自分と『親父』が心血を注いだ漢中には劣るが、天水は素晴らしい都だ 時折、露店や商店を覗き込んではその品揃えや値段を見て思案する そんな中で気付いた点も幾つかある 「ふぅん……ヨーロッパの品が幾つかあるなぁ」 それは主に装飾品だったりしたが、明らかに大陸とは異なる意匠の品々だった この時代のヨーロッパと言えば、古代ローマ帝国が相当する 恐らくこれらはシルクロードを経由して大陸に持ち込まれたのだろう 「どの航路で来たのかな……」 シルクロードには大雑把に分けて三つのコースがあった 北部の天山北路、中央の天山南路、そして漠南路の三つである どのコースを経由したにしろ、敦煌から東へのコースは限られている 天水はそのコース上にあたり、こうした品物が売られていても不思議は無い 「ウチの商隊は無事に着いたかな……」 数ヶ月前に送り出した商隊の事を思い出して、一刀が心配そうな表情で呟く <流星屋>もシルクロード貿易に乗り出しており、大量の絹を持たせて商隊を送り出している しかし、旅の安全が確保されないこの時代、果たして無事にたどり着けるのか 商人らしい損得勘定とは別に、一刀は心配をしていたのだ 「いずれは海洋貿易にシフトさせたいなぁ……」 これは史実に準じた考えであるが、至極当然の結論だ 陸上輸送と海上輸送では運べる量に雲泥の差がある 効率を考えれば海上輸送の方が遥かに優れていると言えよう ただ、生憎と今現在、<流星屋>は商船を有していない 機会が来れば南方に造船所を造って船を建造したいが、流石にまだそれは時期尚早だ 「あー、でも天測航法は無理か……陸測航法でなんとか……」 ぶつぶつと呟きながら歩く一刀だったが、ふと足を止める いつの間にか周囲に人通りは少なくなり、朽ちた建物が目立つようになっていた 振り返れば大通りから脇道に逸れていたようで、ここは裏町のようだった 「流石に全部が全部って訳にはいかないか」 漢中でもこういった、貧民街とでも言うべき地区は存在する 一刀が初めて行った時よりはかなりマシにはなったが、今でも是正すべき点は多い これは大都市には付き物の病気のような物だ 思わず深い溜息を吐き出した一刀の視線の端で、何かが動いた 賊か、と思わず身構えた一刀だったが、それは杞憂に終わった 無造作に詰まれた木箱の裏から這い出してきたのは、旅装の少女だった 全身が汚れ、顔にも泥が付着している 靴は片方が脱げ、もしも丸まっていたら大きなゴミの塊にでも見えただろう 「お、おい、大丈夫か!」 「ぁ……ぅ……」 慌てて駆け寄る一刀に、少女は汚れた顔を向けた 美少女と形容しても問題ないその顔は、しかし泥と塵と汗で汚れていた 目の焦点も合っておらず、ひび割れた唇から小さく呻き声を発した そして、それが限界であったのか、少女はそのまま力なく昏倒してしまった 「おい!しっかりしろ、なぁ、おい!」 自分のが汚れる事も構わずに一刀は少女を抱き起こす 確認すると息はしており、気絶しただけらしい 思わず安堵の息を漏らす一刀、そして周囲を見渡してみる 辺りには似たような姿の者はおらず、この少女は一人きりであるらしかった 「……まさかこのまま放置する訳にはいかないよなぁ」 流石にそれは人道的見地から、一刀も選択できなかった ふ、と一息はいて少女を持ち上げる 思ったよりも遥かに軽い少女に、一刀は心配そうな顔を向ける 「これは……暫く食ってないな、軽過ぎだ」 そのまま早足で歩き出す一刀に、大通りを行き交う人々が不思議そうな視線を投げかける だが一刀にとって、それは気にもならない物だった 「ねぇ、やっぱりやるの、詠ちゃん?」 「月……仕方ないのよ」 「でも、私達がお願いしてるのに……」 「……そうね」 「騙すなんて……」 「お願い、判ってよ、月」 「詠ちゃん……」 「不義理は百も承知だけど……月にとってよくない奴かも知れないでしょ?」 「……」 「お願い、月……」 「……何時か、謝らないといけないね」 「ボクの頭で良かったら、幾らでも下げるわよ」 一刀は内心の動揺が表情に出ていないかどうか、確かめる術が無い事を残念に思った ここは董卓個人の邸宅であり、一刀は全くのプライベートな空間でその主を待っていた 「さて、どういうつもりかな……」 広い客間には今の所、一刀一人が座っている あの後、行き倒れの少女を支店へと運んで、驚いている店の者に介抱を命じた 汚れを拭い、服を着替えさせて、寝台へと運んだ頃に番頭がやって来た 「董卓殿は、ご自身の邸宅にて面会を望まれております」 「自宅で?」 「はい」 その提案に目を丸くした一刀だったが、少し考えて頷いた 別に何処で商談をしようと変わる訳でも無い 事前に集めた情報が確かならば、いきなり脅されるような事は無いと思う とはいえ、絶対に無いとも言い切れない だが、ここで怖気を振るっては<流星屋>の名折れと、一刀は単身乗り込んできた訳だ 「事前情報を信じるしかないか……それを確かめに来たのに……」 色々と複雑な感情の入り混じった溜息を吐くが、それでも一人だ 今の所危害を加えられそうな様子は無いが、油断大敵という言葉もある 表面上はあくまで冷静に、それが商談に望む際の鉄則である (っても、状況が違うよなぁ……実力行使されるケースは想定外だよ) 普通の商談であれば自信のある一刀だが、『万が一』の可能性があるケースは初めてだ それでも焦りや戸惑いが殆ど顔に出ていないのは、商売人としての意地だろうか そして、一刀が小さく息を吐き出すと同時に、右手側の扉が開いて、女中が顔を覗かせた 「流星屋様、董卓様がお出でになりました」 その言葉に一刀の背筋が無意識のうちに伸ばされる 内心の不安が波が引くように消えていき、何処までも澄み切ったクリアな思考が頭の中を満たす この辺りは海千山千の商人達と商談で渡り合った経験値のお陰だろうか 自分自身でも驚くほど冷静を取り戻した一刀の視界の中で扉が開き、人影が現れた 「待たせたわね、ボクが董卓仲穎よ」 一刀よりもやや小柄な少女は、そう言って一刀の真正面の椅子に腰を降ろした 利発そうな瞳に、おさげに編まれた髪の毛、そして全身から感じる意思の強さ 少女の初見の印象はざっとそんな所だった 「…………?」 だが、一刀はほんの少しだけ頭を傾げた それは注意して見ていなければ気付かない程度の動きだったので、少女も見逃したようだ 黙ってこちらを眺める一刀に、少女は困惑した顔を向ける 「……何、どうかした?」 「いえ、お若い方だな、と」 何処か曖昧な笑みを浮かべて答える一刀に、少女の眉間に皺が寄る それに気付かないようにしながら、今度は一刀の口が開いた 「<流星屋>当主の北郷一刀です。まぁ、好きに呼んで下さい」 「そう、じゃあ北郷でいい?」 「どうぞ」 何処か腑に落ちない物を感じながら、少女は手にしていた竹簡を広げてその内容に目を通す 一刀の方はそんな少女を眺めつつ、少女が口を開くのを待っていた そして時間にして一分もたたないうちに、少女は目を上げた 「生憎とボクは回りくどい事をするつもりはないわ。単刀直入に聞くわよ?」 「どうぞ」 「物資と借財、用立てる事は出来る?」 「用立てるだけなら」 その言い方に、少女の目が細まる 一刀は『用立てるだけなら』出来ると言った それはつまり『商談に応じるかは別問題』という事を匂わせている訳だ しかしそれも仕方が無いか、とも思う 少女が求めているモノは余りに多く、簡単に応じてくれるとは最初から思っていない むしろ断られるかと思っていたくらいだ だが、目の前の男はとりあえず商談の場を求めた これは望みが全く無い訳ではない そう心の内で呟いた少女に、一刀が声をかけた 「幾つかお聞きしたい事があるんですが」 「……頼んでいるのはこっちだもの、答える義務があるわ」 少女は僅かに首を横に振る 確かに頼んでいるのは少女の側だ、間違っても強気には出られない 今の所、一刀だけが少女の願いを叶える事が出来る唯一の人物だ 機嫌を損なわせる事は出来ようが無い 「物資と借財の使用意図を教えて頂きたい」 「……随分と突っ込んだ事を聞くのね」 「商人としては無視できますが、個人として興味がありましてね」 まるで悪びれた様子も無い一刀に、少女は呆れたような顔を向ける 好奇心が旺盛と言うか何と言うか 仮に大量虐殺に使用する、と言ったら融資してくれないのだろうか まぁ、別に隠すような理由でもないのだから言ってしまっても問題は無いのだが 「……アンタ、この街をどう思う?」 「中々良く整備されていると思いますが」 「そうね……」 「……もしかして裏通りの事ですか?」 「見てきたの?」 「つい先刻」 「……なら話は早いわ、ボクはそれをどうにかしたいのよ」 そう言うと、少女は溜息を一つ吐いた 成る程と一刀は心の中で頷く、とりあえず使用意図は分かった しかしそうなると、今度は別の疑問が沸いてくる 「……しかし、長期的な目で見れば別に今これだけの物資も借財も必要ないのでは?」 「数年後を見据えて、って事でしょ」 「その方が良いように思えますけどね」 商人らしからぬ感想だが、事実だ 数年先までの長期計画をたてて、予算を編成する これは元の時代ならばどんな行政府であろうと行っていた方法だ 税収に限りがある以上、使用出来る予算も限りがある そこを上手く遣り繰りするのが財務担当者の腕の見せ所だ 今回のように借財までして一気に立て直そうというのは異例といえる 結果的に使用される予算が高くつく事になるだろう 尤も、貸す側としてはそうしてくれた方が有難いが 「問題はね、数年後にもボクがここにいるか、って事なのよ」 「……罷免される恐れもある、と?」 「何処かに飛ばされる恐れもね。それに後任がボクらの方針を受け継ぐかどうかも分からない」 言われれば納得だ この時代の役人の人事異動に詳しい訳ではないが、イメージはつかめる 例えば福祉に厚い知事がいたとする 福祉に関する数年先の計画を立てて予算を組んで、実行に移す しかし何らかの理由で職を辞した場合、後任の知事がその路線を踏襲するとは限らない訳だ もしかしたら計画を凍結するかもしれないし、縮小されるかもしれない そういった可能性を述べているのだろう 「だからこそ、ボクは可能な限りの短期間で立て直したいの」 ふむ、と小さく唸って一刀は思考の海に潜る 言葉の端々から推測するに、彼女は理知的な人物だ そしてこの街の人々の事も深く考えているのは間違いない 性急に過ぎる気もしない訳ではないが、そこは一刀の問題ではない 融資先としては問題は無いと言えるだろう だが、その前に一つだけ確認しなければならない事が残っている 「では、最後に一つ」 「何?」 瞳に小さく期待の色を浮かべ始めた少女の顔を真正面から見据える ふと、一刀は自分の顔が何の表情も表していないのではないか、と思った 「董卓さんはどちらに?」 失敗した、と思った やはり最初から自分が出て行くべきだったのだ 今までの会話から、北郷と名乗った青年は好意的な反応を返してくれた これなら何とかなるかも、と期待を持った所に今の一言だ 何故バレたのかはこの際問題ではない 問題であるのはこちらが融資を頼んだ癖に、嘘をついていた事だ いや、使用意図に関して嘘は無い、短期間で立て直したいのも事実だ だがよりによって本人でない人間が『董卓』名乗ってしまった これでは不義理とも不誠実とも謗られてしまうだろう 融資の話も立ち消えになってしまうかもしれない それだけは何とかして阻止したかった その為の手段、それは片手でも足りるほどしか彼女には残されていなかった 「……もういいよ、詠ちゃん」 突然の事に唖然としている自称董卓の少女に、親友の声が届く 反射的に顔を向ければ、そこには静かな中にも強い意志を感じさせる親友が立っていた 「月……」 「北郷さん、御免なさい」 友の呟きに悲しそうな笑顔を見せると、月と呼ばれた少女は一刀に対して頭を下げた 一刀も身体ごと向き直り、少女と相対する 「私が本物の董卓仲穎です、そこにいるのは……」 「董卓軍の軍師、賈駆文和さんだね?」 「アンタ、知って……!」 二人の顔が驚きに彩られるのは対照的に、一刀は穏やかな笑みを浮かべるばかりだ 「知ってたよ。だから一回も「董卓さん」とは呼んでないだろ?」 「で、でも、どうしてボクが……」 「ウチの商業情報網は優秀でね」 全国に張り巡らせた商業用情報ネットワーク、それは一刀の最大の武器とも言える その情報の中には当然ながら各地の太守や様々な人物の情報も含まれる 『董卓仲穎』に関する情報は少なかったが、それに反するように『賈駆文和』の情報は多かった 天水の商人や流れの行商人であったり、元董卓軍の兵士であったりと情報源は様々だ お陰で賈駆に関しては人物像から外見まで、かなり詳細なデータが出来上がっていた つまり『董卓』は知らなくとも『賈駆』ならば知っている だからこそ、姿を見ただけで彼女の正体が分かったのだろう 商売相手の情報を得るのも大切な仕事だという事だ 「そう、ですか……」 「月……」 最初から見透かされていた事に、董卓は寂しそうな顔を見せる 賈駆も何と言って良いのか分からないと言う表情で董卓を見つめ、やおら一刀に向き直った 「不義理は謝るわ、ボクに出来るならどんな償いもする。だから、月を責めないで」 「詠ちゃん!」 「全部ボクが言い出したことなの、ボクが悪いのよ。だから、だから……お願い!」 そう言い切って頭を下げる 董卓はそんな親友の元に駆け寄って肩を抱きながら、一刀の方に顔を向ける 「北郷さん、詠ちゃんも北郷さんを騙したくて騙した訳じゃないんです」 「……」 「詠ちゃんは、私の事を思ってくれて、それで私の代わりに、って……」 「……」 成る程、そういう事か 自宅で会いたいと言うのも、目に触れる人間を最低限にしておきたいという所からか 内心で納得するが、過保護のような気がしないでもない 「それで代弁者として代わりに、と」 「はい……」 「じゃあ、賈駆さんが言った事は董卓さんの考えと同じなんだね?」 「……はぃ」 力なく肯定する董卓と頭を下げ続ける賈駆は、一刀の口調が変わっていた事に気付いているのだろうか 今の一刀はあくまで一人の個人として問いかけている それは商人としてでは無く、一人の人間としてこの二人の気持ちを聞いて見たかったからだ そして、それは十分に満たされた やや考える点はあるものの、この二人は十分に優秀な為政者だ 「そうか……」 そしてここから先は商売人としての一刀の仕事になる 「では、この契約書の方に印をお願いできますか?」 「……え?」 突然の一刀の一言に、沈痛な顔だった董卓も頭を下げ続けていた賈駆も、思わず声を上げてしまう 一刀が懐から取り出した書状には、董卓が望んだとおりの物資と資金を融資する旨が書かれていた 請求される金子の量は、まぁまぁ予想されていた通りの金額だ それを信じられないような顔でまじまじと眺めていた董卓が、遠慮がちに口を開いた 「あの、北郷さん……いいんですか?」 「良いも何も……必要なんでしょう?」 「それは、そうですけど……」 騙した事を気にしてないのか、という言葉を飲み込んで、董卓は賈駆の方を見る 賈駆もまたやや困惑した表情で董卓と書状と一刀を眺めるだけだ それを見ていた一刀の顔が、思わず笑み崩れる 「俺はさっき『董卓さんはどちらに』と言いましたよね」 「は、はい」 「あれは単に印が欲しかっただけです。董卓さん名義なんで、代理人の賈駆さんじゃ駄目なんですよ」 にこやかにそういう一刀に、二人は今度こそ目を丸くした あの発言は間違いなく、騙した事を責める為の言葉だと思っていたからだ しかし、一刀に言わせればあれは単に人を探す為だけの言葉に過ぎない そこに深い意味など無く、言葉どおりの意味でしかないのだ 「アンタ……怒ってないの?」 「怒る理由がないでしょう?」 「だって……ボクはアンタを騙そうと」 「最初から分かってたんですから、問題ないですよ」 一刀に言わせれば、嘘だと分かっている嘘は嘘ではない 最初から騙そうとしている事が分かっている以上、騙されて怒る事は無い それに嘘をついたとしても、それは商売には関係の無い部分の嘘である 不義理には違いないが、商談そのものの破綻とまではいかない 「あ、有難う御座います、北郷さん!」 董卓が、瞳に涙を潤ませながら頭を下げる 隣の賈駆はバツが悪そうにこちらを横目で見ていたが、小さく頭を下げた 二人とも、間違いなく商談は決裂すると思っていたのだから、当然だろう そうなれば董卓の考える天水の立て直し計画も後退する それを阻止する為なら何でもするつもりだったのだから、まさに天佑だ 「では、こちらに印を……」 「あ、はい」 差し出された書状に、念の為もう一度だけ視線を落とす 食料を始めとする物資は、大量購入の為か単価は相場よりやや安くなっていた (その大量さ故に<流星屋>に頼むしかなかったのだが) 借財も返済利率がやや低めに設定されている『お得意様』仕様だ 内容に誤りが無い事を確認して、董卓は筆でサインをしていく 書き終えると、一刀はそれをもう一度見直した 融資内容を確認し、董卓の印もしっかりと確認する 「では、これで商談はまとまりましたね」 「はい」 「物資に関しては一気には無理なんで、数回に分けて運ばせます」 「それに関してはボクの方で受け取るわ」 「では、賈駆さんに。金子も同様でいいですか?」 「はい、有難う御座います」 本当に嬉しそうに答える董卓に、我知らず一刀の頬も緩む 利益を追求する商人ではあるが、それだけではいけいとも一刀は思っている お客さんの笑顔を作るのが商人だ、とは親父殿の言葉だ 一刀は常々そうありたいと思ってきたし、そういう光景を見ると嬉しくなってしまう そんな事を思っている一刀に、賈駆が遠慮がちに声をかけてきた 「あ、あのさ……」 「うん?」 「ちょっと、聞いて欲しい事があるんだけど……」 <流星屋>の天水支店にある一室、そこで一刀は矢継ぎ早に指示を飛ばしていた 「漢中の倉庫からこれだけ持ち出せ、足りない分は洛陽の方から持ってくるんだ」 「在庫の確認は終わってるな。賈駆さんの方に渡るようにしてくれよ」 「ここの倉庫分は全部出してしまおう、他の商家にも声をかけてくれ」 大量の物資を運ぶにはそれだけ輸送計画も大掛かりにならざるをえない とりあえず近隣の支店から在庫分をかき集めるように指示を下していく それでも足りない分はやや離れた街などから輸送する その為の指示を書いた竹簡や紙片などを各地へと送り終えると、やっと一息がつけた 「疲れた……けど、月や詠も頑張ってるんだし……」 机の上に突っ伏しながら、一刀は頭を振る あの後、一刀は二人から真名を預かる事になった 不義理の侘びだといって頬を染める賈駆に、董卓も続いた形だ 本当に良いのか、と問いかける一刀だったが、結局は折れる形で二人の真名を預かった それがどういう意味か分からないほど、一刀も野暮ではない 何としても二人の信頼に応えるつもりである 「そう言えば、あの娘は大丈夫かなぁ」 月も問題視した裏通りで保護した少女、その状態を心配していると、不意に扉が開いた 顔を見せたのはこの店の女中だ、件の少女を任せた人物でもある 「若旦那様、あの、娘さんが目を覚まされました」 「お、ナイスタイミング」 「ないす?」 「あー、いやいや、こっちの話」 渡りに船とはこの事か 不思議そうな顔でこちらを見ている女中を促して部屋を出る 倒れていた理由も聞きたいし、単純に自分が助けた相手が気になるという所もある 幾つかの部屋の前を通り過ぎ、とある一室の前で女中の足が止まった 一刀が視線で問いかけると、女中は小さく頷いて扉を開けた 中に居たのは、寝台の上で身体を起こしている少女が一人 一刀が入って来た事に気付くと、一瞬だけ身を硬くしたが、直ぐに頭を下げる 「具合はどうかな?」 「だ、大丈夫なのです」 何処か恐縮した様子の少女に、一刀は笑いかけた 寝台の横には空の食器が置かれており、どうやら空腹は満たされたようだ 後ろに控える女中が、先に粥をだしたようだった 「その、助けて頂いて、感謝しているのです」 「気にしなくて良いさ、困った時はお互い様だからね」 恐縮しきりの少女に、一刀は裏表の無い笑顔を向ける 見れば少女は、まだ一刀よりも年下に見える 頭の後ろで二つに分けた髪は、今はすっかり元の輝きを取り戻している 大きな瞳にも生気が戻り、何処か強気にも見えた 「えーと、それで……」 一刀が言いよどむのを聞いて、少女の顔に不思議そうな色が浮かぶ だが、直ぐに自分が名乗っていない事に気付き、口を開く 「ね、ねねは陳宮、陳宮公台と言うのです」 あくまで漫画程度の三国志の知識しか持たない一刀は、「陳宮」という名前に即座に反応できなかった ねねっていう一人称は真名か何かなんだろうか そんなどうでもいい感想を持った一刀が「陳宮」の名前に驚くのは、もう少し先の事であった