玄朝秘史  第三部 第五十九回  1.客星 「申し訳なかったね、大会二日目が延期になっちゃって」  一刀は杯に酒を注ぎながら、そう言って頭を下げた。といっても、卓に置かれた四つの杯の内、三つは酒であるが、一つは――これも一刀が淹れた――柿の葉茶で満たされている。乳の出を気にする蓮華が、酒を控えているためであった。 「孫家に縁のある人間がたくさん勝ち残ったことだし、勢いのままに行きたかったところだったけどねえ」 「しかし、姉様は怪我をしていますよ」 「ま、華雄相手じゃねー。でも、姉様なら、すぐ治るんじゃない? そんなに妙な形で折れてないでしょ?」 「折れ方はそれほどひどくはないけどねえ」  孫家の三姉妹は、それぞれに口を開く。一人は仮面をつけたままではあるが、三人揃うとまさに花が咲き乱れるような華やかさであった。  そんな三姉妹を眺めながら、男は酒杯を傾ける。今夜の酒は香りは強いものの、酒精自体は弱い。小蓮が飲むこと、雪蓮が骨折していることからだ。その香りを楽しみながら、ふと彼は気になっていた事を訊ねてみることにした。 「そういえば、訊きたいんだけど」 「なに?」 「シャオと明命はなんで出なかったの?」  男の問いかけに三人は顔を見合わせ、結局、蓮華がそれに応じた。 「明命についてだけど……」  彼女は考えをまとめるように小首を傾げ、頬に指をあてながら続ける。 「たぶん亞莎に譲ったんだと思うわ。思春と明命が出ていたら、亞莎は出なかったでしょう。でも、さすがに呉が出す人間が思春一人なら、亞莎も出て来るわ。それに、明命も体術は得意だけれど、亞莎はなにしろ……」  言いながら、蓮華の視線は姉の方へ向く。二人の間で黙って会話が交わされて、蓮華は目を伏せた。雪蓮は一刀が不審に思うより少し早く、妹の言葉を引き取った。 「この私でもあの娘には手こずるくらいよ。軍師になったとはいえ、その力は衰えていないでしょう」 「そうなのか」  亞莎の褒められように、一刀は大会の様子を思い出す。ねねのちんきゅーきっくの数々を全てさばいていた姿は、その実力の片鱗を窺わせたものの、実際にどういう決め技を使ってねねを倒したのか、実は一刀には見えていなかった。  亞莎自身を踏み台にしてとんでもない高空まで跳ね飛んだねねの急降下技、『ちんきゅーうるとらいなずまきっく』――そう、叫んでいた――を喰らったはずが、気づいてみればなぜかねねは気を失って亞莎に抱きかかえられ、勝者であるはずの彼女は困ったような顔でそれを見下ろしている。そんな図が展開されていたのだ。 『簡単さ。相手が飛び込んできたところに、当て身で気絶させたまでだ。いまの亞莎なら、あんなものだろう』  冥琳はそんな風に言っていたが、『いまの』というからには、あるいは武官時代にはもっと凄まじかったのだろうか。 「で、シャオはなんでなの? 私も気になるわ」  ちびちびと舐めるように酒を飲んでいる末の妹に、雪蓮が話を振る。彼女は、んーと鼻に掛かる声を上げたあとで、にこっと笑った。 「シャオ、殴りあいとか野蛮なの嫌いだもーん」 「いや、月華美人で殴りつけるのもだいぶ乱暴な気がするけど……」  得物を使っての戦闘の技をますます磨いていると聞いている一刀が、おずおずと疑問を呈する。 「んー、そういうことじゃなくて、武器使っての闘いって、一撃……せいぜい二回も切りつけられたら終わりでしょ?」 「ああ、そりゃそうだな」  刃がついていれば当然避けようとするし、一発もらえば動きにかなりの制限が出る。鈍器でも鉄の芯の入った得物を体で受けようとすれば、怪我を覚悟せねばならない。攻撃が当たった時には勝負が決まるというのはよくあることだ。 「うん。でも、無手だと、必ず何発かは受けることになるでしょ。相手も当たるの覚悟して踏み込んでくるし。そのあたりが苦手」  格闘の間合いは近く、こちらが打撃を当てることを考えれば、全てを避けるのは難しい。まして、大半の使い手が氣を用いて体を守っている状況だ。数発入れ合うことは避けられないと、小蓮は言うのであった。 「でも、小蓮。稽古では打ち込まれて痣をつくることも多いでしょう? あまり変わらないんじゃないかしら」 「それは見せるものじゃないもん」 「ふうん」  蓮華の不思議そうな問いに、小蓮は当然のように答える。上の姉はそれに面白そうに鼻を鳴らしていた。彼女はずいと身を乗り出して、一刀の杯に自分の杯をあわせるような仕草をする。 「それでさー、一刀。二回戦から先はどうすんの? 年明け?」 「どうかな、この混乱が収まってくれないと……。それも、あの星次第ってところがあるわけだけど」  一刀の言葉に、皆は窓を覗き込むような格好になる。はるか天空には、星々が幾千と散らばっていたが、その中でもひときわ強く輝くのが、あの日現れた星であった。  新しい星は、なんと昼でも見分けが付くような輝きを持ち、人々はそれに恐怖していた。都では人々がそこここに群れ集っては不安そうに星を見上げ、各地の邑々では、家に引きこもってしまう者も出ているらしい。  最も混乱が激しいのは彼らもいる宮城で、天文官たちは世も末のような顔で文字通り右往左往しているし、朝廷の者たちも何ごとか蠢いている。密談程度ならともかく、兵を集めようとしていた者などは、さすがに捕縛されていた。  なお、この客星――一時的に現れるもの故にこう呼ばれる――は二十五日にも渡って昼の間でも見えるほどの光量を誇り、結局、姿を消すまで二年近くを要することになるのだが、この時の一刀たちはもちろんそれを知るよしもない。 「でも、いまひとつわからないんだよな。なんでみんなあんなに騒ぐのかな? 天文官は仕事だからわかるんだけど」  都での混乱の収拾にあたっている一刀であるが、彼らがなぜ大騒ぎしているのか、いまひとつわかっていなかった。たしかに昼でも見えるほど明るいというのは珍しいし、年末ということもあって、皆で集まってそれを肴に楽しむというのならわかるのだが、そういった陽性の雰囲気は見られない。 「一刀の世界では大騒ぎにならないの?」 「うーん。楽しむ人のほうが多いかもしれないな。天体ショーって言われるくらいで、観劇みたいな感覚だったな。見やすい地域に出向く人もいたくらいだよ」  一刀の言葉に、姉妹はさすがに顔を見合わせ、小蓮などは呆れたように目をくるりと回す始末。 「だったら、ちょっとわからないかもねー」  よっと声をあげて雪蓮は立ち上がり、しなやかな足取りで窓辺へ近づく。いまも輝き続ける星を見上げ、彼女はそれを酒杯で指した。 「あれだけの光で、というのもまずいけれど、特に今回は場所が悪すぎるわ」 「そうなの?」 「ええ。それはもう。蓮華、解説はお願いね」 「わ、私ですか? ええと、一刀。空の星は、北辰を中心に巡っているの。それは知っている?」  丸投げされた蓮華は、卓の上に指で円を描き、男の視線はそれを負う。黒い木目の上を動く白く細い指が、なんとも艶めいていた。 「うん」 「そうやって北辰を中心に巡るものだから、北辰は世界の中心と考えられていて、天の帝とされているの。それは地上の帝と同一視されていて――たぶん、天の命を受けて、天子が地上に生まれるという考えからでしょうけれど――天で異変が起きれば地上でなにか起こるし、地上でとんでもない事が起きれば、星々の運行にも影響するってされているのよ」 「ははあ。流れ星は不吉とかそういうの?」 「簡単に言えば……そうね。吉凶いずれにせよ、何らかの予兆と考えられがち。ただ、今回の場合は、昼間でも見えるくらい明るくて、現れてすぐ消えるわけでもなく居座って、さらに、その場所が帝座とも呼ばれる北辰にほど近い……。これだけ色々と重なると……」  蓮華は複雑な表情で窓のほうを見やる。そちらからゆらゆら揺れながら戻ってきた雪蓮は、くすくすと小さく笑った。 「読み書きできる程度の常識がある人間なら、『王朝交替の徴』って読むわね」 「姉様」  鋭く、しかし小さく、たしなめるように言う蓮華。その様子を見ていた小蓮が、一刀に寄りかかりながら、ふふーんと得意げに笑った。 「いまのを見てわかるとおり、あまり言うと朝廷の機嫌を損ねちゃうから、口にする人は少ないんだよー。庶人でも、大声でそんなこと言ってたら捕まりかねないからねー」 「ふうむ……。新しい星が出現したことが、新しい天命が下ったことに解釈できちゃうってことか。それは、朝廷が色めき立つわけだ。しかし、そうなると……」  ようやく理解したらしい一刀が己の思考に沈み込む中で、彼を見つめる姉妹の瞳は強く輝く。  長女は面白がるように彼と妹たちを見、疑念と不安を宿しながら、なにかを探すように次女は一身に一刀を見続け、末娘の信頼と期待を込めた視線が、男と姉たちを包む。  明るい星に照らされながら、三姉妹と男の夜はそうやって更けていった。  2.混乱  その日、春蘭、白蓮、翠の三人は一刀の執務室に集まっていた。部屋の主たる一刀を加え、華琳から各地の混乱を収める責任者として指名された四人であった。 「魏領内は、表向き沈静化したと見ていいだろうな。民の本心はともかくとして、だ」  春蘭はそれまで語っていた報告をまとめて、そう締めくくった。そのまま、ばさり、と書類の束を卓に落とす。  客星の出現から八日。各地からは様々な報告が寄せられていた。許昌では狂女が素っ裸で走り回っただとか、南皮では泡を吹き痙攣しながら妖しい予言を喋り続ける男が現れたとか、事件といえるようなものもそれなりにあったものの、暴動の類につながりそうな火種はいまのところ見受けられなかった。  春蘭と秋蘭は主に魏の中核部を担当していたが、華北に混乱が広がるのを警戒して秋蘭は南皮に出張っていた。しかし、それも既に帰還の途に就いているということであった。 「秋蘭はあと二日ほどかな」 「ぎりぎり年内ってとこか。まったく人騒がせだよな、この年末に」  苦笑いをしながら、後ろでまとめた長い茶の髪を揺らすのは翠。あと三日すれば年が終わる。そして、その翌日、一月一日には西涼が正式に建国されるのだ。 「それで、西涼の方はどうなのだ?」 「んー。遠いところはまだ伝わってきてないけど、大丈夫だと思うぜ。念のため、匈奴の連中には、華琳から正式に使者を出してもらったし」  春蘭の問いかけに、しばらく考えてから翠は答える。その様子に、少し一刀は疑問を抱いた。西涼は翠が平定したばかりとはいえ、それほど楽観視できるのだろうかと。 「そう言える根拠はなにかな?」  だから、一刀は翠にそう訊ねていた。 「星の解釈が違うからさ。伝わってる話だって違う。まあ、牧民にとっては、北辰が明るく見えて困ることもないしな。びっくりはしただろうけど」 「そうだな。草原の民にとって、天は天、人は人だ。今回の事で、天の世界がなにか伝えたいと考えて解釈する巫覡はいるだろうが、天に異変があったからといって、直接、人の世界に異変があると考える訳じゃない。そういうわけで、東も大丈夫だと思う。もちろん、烏桓にもきちんと使者は出したし、良い機会なんで、周辺の諸部族にも年始の使者として色々出してもらったけどな」  翠の言葉を補足するように、春蘭が放った書類を覗き込んでいた白蓮が続ける。西方の安定を託された翠に対して、白蓮は漢土東方の沈静を任されていた。  彼女はふと思い出したかのように顔をしかめる。 「そういえば、聞いたか? 私と美羽も公位につくって話」  一刀たちは、白蓮の言葉に、しばらく前に聞いた話を思い出す。幽州と司隷――あるいは司州――を公国として独立させ、そのそれぞれの長として白蓮と美羽を据えると華琳が発表したのだった。幽州牧である白蓮は順当な人事であるが、なぜ美羽が、と疑問を持つ者もいた。ただ、司隷は長安、洛陽という二大都市が重きを成しており、実質的には司隷地方の公などお飾りに過ぎないのだろうということで納得していた。朝廷にへたに手を出されるよりはましという判断であろうと。 「燕って名前を蹴ったって聞いたけど」 「私たちが討伐した遼東公孫氏が燕王を名乗っていたからなあ。姓も同じ私が燕王を担うのはちょっと印象がよくないだろうと思って」 「それはともかく、なんでそんなに嫌そうなのだ? 華琳様のご指示に不満でもあるのか?」  しかめっ面を維持し続ける白蓮に、春蘭が不審げに訊ねる。白蓮は頭をかきながら、照れたように答えた。 「いや、やり方自体は悪いとは思わないから、受けるには受けたんだけど、私でいいのかなあ、と思うところもあってさ。司州の長官を公に置き換えただけの美羽はともかく、幽州方面は要するに西涼と同じく辺境の押さえとして置かれるわけだろ? そんな重要なのを……。私は魏の譜代の臣でもないのに」  白蓮の言葉は、だんだんと深刻な調子を帯び、その顔も暗くなっていった。その様子を見た三人は顔を見合わせる。その中で、まず、翠が笑い声をあげた。 「それを言ったら、あたしだって、西涼を任されるって話が出てから蜀を抜けた身だぜ? そういうこと気にしてないんじゃないか、華琳は」 「うむ。華琳様は、懐の広いお方だからな。任を全うするなら、出自など気にせん」 「そうそう。大事なのは、必要かどうかだよ。そして、それに見合う人材かどうか。白蓮は十分にそれに適していると思うよ」  春蘭、一刀も慰めるのではなく、当たり前のことのように告げる。白蓮は三人の声に顔をあげ、わずかに唇を歪めた。 「まー……周辺の諸部族、ことに白眉以来協力関係を取れてる烏桓相手には『国』としての体裁があったほうがいいってのは確かなんだけどさ」  はにかみながら、彼女は言う。三者三様の視線を受け止めつつ、彼女はうん、と一つ気合いを入れた。 「そうだな、まあ、頑張るよ。肩書きはともかく、幽州の安定を担えるのはありがたいことだからな」 「うん、期待してる。もちろん、翠の西涼国にもね」 「なんだよー、ついでみたいだぞー」 「いや、そうじゃなくてさあ」  きゃらきゃらと笑いあう三人。春蘭はじゃれあうようなその様子をしばし微笑みながら眺めていたが、いつまでも終わりそうにないので、ごほんと咳払いで止めに入る。 「ところで、話は戻るが、都の具合はどうなのだ?」  訊ねる相手は一刀。彼は、凪、真桜、沙和と共に、都の秩序回復の任を与えられていた。 「うーん。なんだか、話を聞いている限り、この都が一番不穏かもしれないね」 「帝がおわすのは洛陽だからなあ。しかたないといえばしかたないか」  北辰に客星が位置すれば、異変が起きるのは皇帝周辺と考えるのは当然であり、洛陽近辺に住まう者たちが不安になるのは当然であろう。 「いまのところ、目立った事件は宮中で近衛兵を集めようとした件、この世の終わりだと思い込んだ若者たち数十人が豪商の店を襲って蔵を暴こうとしたこと、あの日の夜に、もう門が閉じているのに洛陽を逃げ出した一団があること、それから……」  一刀はいくつかの事件を口に上らせていく。いずれも親衛隊や警備隊の活躍によって鎮圧された事ではあるが、他からの報告と比べて、その件数はずば抜けている。 「年末年始に向けて警備隊の人数を増員していたこともあって、見回りの頻度を上げることで、いまはなんとか落ち着いてきている。それでも、店を開ける時間を減らした商家とかもあって、不安は残っているようだけれどな」  あの星が消えるか、光を減じてくれない限りは、ある程度の不安感は残ってしまうのかもしれないね、と彼は肩をすくめる。 「それから、あの星が現れてから、洛陽の町中に流れる符の量が倍増しているらしい」 「符?」  男が言い出した事に、三人が揃って首をひねる。 「白蓮が見つけて、教えてくれた白眉の符があっただろ? あれは『黄天已死白天當立』だったっけか」 「ああ、うん。あったな」 「それを逆に利用して、白眉を混乱させようと、でたらめな文句を書いた符をばらまいたんだよ。それが、白眉の乱の後も残ってて……。なんだか、普通にありがたがられてるらしいんだよな。もう俺たちはまいてないはずなんだけど……」  困ったように言う一刀。白眉の乱が終われば、情報操作をする必要もなくなる。既に役割を終えているはずの符が、なぜか未だに人々の間を行き交っているのであった。 「誰かが真似して作ってるとか?」 「そうかもしれない。それで、いま流れているのは、こんな感じらしいんだけど」  一刀が懐から取り出した紙片を開く。そこには、柄杓のような形を描く星々と、そこから少し離れた場所に大きく――おそらくは煌々と輝く様を模して――描かれた一つの星があった。その下に書かれるのは、十六文字。  蒼天已死  玄天當立  歳在癸巳  天下大吉 「北斗と……今回の客星だろうな、これは」 「癸巳って、来年じゃなかったか?」 「そうなの?」 「ああ、そういえば、そうだな」  紙片を読み取り、白蓮と翠が思ったことを口にする。干支に疎い一刀は、小声で春蘭に確認していた。 「つまり、来年なにかが起こると言いたい者がいるということかな」 「そうかもしれない。今回の騒ぎに乗じたいんだろう」  紙片を畳み、懐に戻して、一刀は小さく息を吐く。 「とはいえ、実際には色々と派生しているらしくて、白眉のようにまとまった勢力を作るというところまではいかないだろう、というのが三軍師たちの読み」 「少しは安心って所か? でも、あんまりいいことじゃないよなー」 「そうなんだよ。だから、警戒はしてる。新年になれば人も多く流れ込んでくるし、大混乱が起きないよう、今後も気をつけていくつもりだよ」  一応みんなも気に留めておいてほしい、と一刀は締めくくった。 「そういえば、桃香たちや蓮華たちは?」  堅苦しい雰囲気は解け、しばし、世間話といった流れの中で、ふと白蓮が漏らす。 「いまのところ、早期に戻らせてほしいとかの要請はなかったはずだよ。彼女たちとしても、都周辺の混乱が激しいと困るだろうから、見届けてから帰るつもりじゃないかな」 「南方だと、星々についてはどうなのだ?」 「んーと、中原とそう変わらないんじゃないか? でも、なにしろ帝座付近だから、自分たちのところで異変が起きると考える奴は少なめかも」 「華北、中原と一歩離れた感覚はあるからな、呉も、蜀も」 「ふむ、そういうものか……。そうだ、蜀といえば」  白蓮と翠の答えに納得し頷いていた春蘭は、ばっと大きく体を動かして一刀の方へ向き直った。艶やかな黒髪が、激しく揺れる。 「鈴々をどうにかしろ、北郷。あれでは季衣が不憫だ」 「へ? なにかあったの?」  このところ客星対策と徒手格闘大会延期の後始末に追われていた一刀が、春蘭の勢いにびっくりして首をすくめるようにする。それに対して、白蓮と翠の二人が、しかたないとでもいうように笑った。 「あー、鈴々の奴、ふて腐れているんだ。こないだの格闘大会で負けたのは、相手が卑怯な手を使ったからだって」 「そうそう。それで、季衣たちと口きいてないんじゃなかったかな、たしか」  そこで、春蘭がふんっと大きく鼻を鳴らす。一つだけしかない瞳がらんらんと燃えていた。 「負けるのはしかたないではないか。なんでもありの大会ではないのだぞ。私だって、反則で負けたんだ」 「そりゃ、春蘭は突然でっかい氣弾作り始めるから……」 「うるさい。私のことはいい。ともかく、季衣は規則に従って勝ったのだ。勝ってぐちぐち言われ、つれない態度をとられるでは、あんまりというものではないか」 「まあ、そりゃそうだ」  季衣と鈴々は喧嘩仲間といった感じで、多少の衝突はあっても仲良く一緒にいるというのが一刀の印象であった。それがまったく口をきかない状況となれば、事態は深刻なものだ。春蘭が心配するはずであった。 「ん、わかったよ。ともかく鈴々と話してみることにする」  考えるまでなく、彼はそう請け負っていたのだった。  3.直情  探してみると、鈴々はすぐに見つかった。  庭で、璃々、蒲公英、音々音、それに張々と一緒に遊んでいるのを見て一刀が近づこうとすると、あちらから小柄な体が横でくくった髪を揺らしながら走り寄ってくる。 「や、一刀兄様。どうしたの?」 「やあ、蒲公英。ちょっと鈴々に用時があってね」 「なんだぁ。たんぽぽにお誘いじゃないんだー」  一刀の腕に飛びつくように掴まり、上目遣いで不満を漏らす蒲公英。その目は、なにか誘うように妖しい光を宿している。 「ははっ。まあ、それはまた」 「ほんとー? あ、西涼にも来てくれる?」  ぱっと明るい表情を浮かべ彼女はぎゅっと一刀の腕を抱きしめる。柔らかな胸とお腹のあたりが押しつけられ、一刀はどきまぎしてしまう。 「そうだな、うん、行かせてもらうよ。まあ、どっちにしろ来年なわけだけど」 「そだねー」  そんなことを話しながら、二人は残りの三人と一匹に近づいていった。張々に追い回され、きゃーきゃーとはしゃいで走り回っていた三人も、彼らに近寄ってくる。ついでに、張々も一刀たちに……否、一刀に向かって突撃してきた。 「ぐふっ……。璃々ちゃん、ねね、悪いけど、鈴々を貸してもらえるかな?」  咄嗟に腰を落として張々を止めるも、腹に衝撃が来る。なんとかそれもこらえきって、大きな犬の体を抱き留めながら、一刀は申し出た。 「鈴々?」 「そうなんだよ」 「んー、しかたないなー」 「ふん。何の用だか知りませんが、さっさと済ませやがれです」  両手を腰にあて、おしゃまな態度で許す璃々と、言葉はきついながら、なんだか楽しげなねね。それに蒲公英も加わって、三人に見送られ、一刀と鈴々は歩き出した。 「鈴々に用事ってなんなのだ?」  しばらく歩き、建物を一つくぐって、別の庭に入ったところで、鈴々はそう訊ねてきた。 「んー、ちょっと話があるんだよね」  二人は結局、その庭の四阿に落ち着いた。庭を眺めつつ、そういえば、去年の今頃はもう雪景色だったな、と一刀は思い出す。去年の冬に比べれば、今年はそれほど冷え込みは強くないようだ。 「話っていうのはさ、季衣のことなんだけど」  その名前は効果覿面であった。一刀が持ってきていたお菓子をつまんでいた鈴々の顔がぷうと膨れ、さっきまで笑っていた目も暗く沈む。 「あんな奴、知らないのだ」 「そんなに負けたのが悔しい?」 「勝ち負けはしかたないのだ。でも、卑怯な手で負けたことが許せないのだ」  ぎり、と奥歯を鳴らして、鈴々は虚空を睨みつける。 「卑怯かあ……」  さすがは鈴々だなあ、と一刀は少し感心した。その真っ直ぐさは、誰よりも激しい。そして、彼の目からすると、少々危うくも見えた。 「でも、わかってると思うけど、場外は規則のうちだよ?」  場外に一度出たら負けの種目だってあるのだ。そこは従ってもらわなければいけない。 「単純な話、腕相撲で台の下で相手の脚を蹴るのは反則だし、肘が台から離れるのもだめだろう? それと変わらないよ」  正直、季衣のやり方は頭を使った作戦だと評価している一刀であるが、さすがにそれを言うのはまずいだろうということは理解している。実際の所、鈴々のほうだって、あのやり方が賢いことはわかっているはずだ。その上で、それを受け入れられないというのだろう。  むう、と鈴々は唸る。しかし、結局、彼女は首を横に振った。 「でも、鈴々たちの闘いは、違うはずなのだ!」  強い光を目に宿し、きっと一刀の事を見上げる少女の顔を見ながら、一刀は考える。鈴々の季衣への期待や信頼の大きさは、自分の想像以上なのだな、と。ある意味で、それは甘えといっていいものかもしれない。自分と同じように、相手も正々堂々腕比べをしてくれるものと望んでいて、それが破れたことに、彼女は憤っている。その怒りの強さは、相手への思いの強さに比例しているはずだ。  そうであるからこそ、二人の間の亀裂は修復してやらねばならなかった。そして、大会の主催であり、二人の友である一刀にはそれに力を貸す責任があり、そうしたいと思う気持ちがある。 「あのさ、鈴々」  なにを話せばいいだろう。一刀は考えた末に、鈴々と季衣の話をすればいいのだと思い至った。 「季衣と鈴々、たしかに……なんていうか、体が小さいのに腕自慢な将同士だけど、鈴々と季衣じゃ、その立場は違うし、戦いに対する考えも違ってくると思うよ」 「……どういうことなのだ?」  一刀のことをきつい表情で睨みながらも、彼女は先を促すように訊く。そのことに、一刀は少しほっとして、ゆっくりとした調子で話を続けた。 「鈴々は、蜀軍の主力の一人だよね? たとえば先陣を鈴々、主力を愛紗なんて担当もありえるわけだ」 「んー。うん」 「でも、季衣は違う。季衣と流琉は、先陣を切ることなんてまずない。本当に特殊な戦況でもなければ、ありえないだろうね」 「なんで?」  純粋に疑問だというように、こてんと首を傾げる鈴々。妙にあどけなくてかわいらしい仕草に、一刀は気持ちを和ませつつ答える。 「季衣と流琉とは華琳の親衛隊を率いているからさ。特別に親衛隊だけが派遣されるような状況でない限り、季衣と流琉は、本陣が動く時、あるいは華琳のために戦場を切りひらく時に動く。そういう役割なんだ。先陣は、霞……はいま、魏から離れたから、春蘭か、凪だな」  一刀が説明するのを、鈴々は懸命に聞いている。その視線がどこかゆらゆらと揺れているように見えるのは、脳裏に戦場を描き出しているからかもしれない。 「鈴々にとって戦は、敵の主力を撃破することだよね? あるいは引っかき回して戦況を動かすことだ。でも、季衣にとっての戦は、華琳を守ることが第一。次に、戦況を華琳の意志通りに維持することかな。撃破と攪乱が鈴々で、守備と堅持が季衣」 「だからって……一対一での闘い方も変わる?」 「変わるだろうね。考えてみてよ、鈴々。季衣にとって、戦場で出会った将を潰す必要はないんだ。足を止めてその場に釘付けにしておけば季衣にとっては勝ちだ。その間、華琳は安心して指揮を続けられるんだから。一方で、鈴々にとっては一対一で対峙した相手は、打ち倒さなきゃいけない存在だ。押し通るためにはそうしないといけないからね。そのあたり、どうしても思考は異なってくるよ」  言っている当の一刀も、そこまで単純というわけでもないことはわかっている。しかし、一口に武将と言い、武人と言っても、やはり違いはある。それだけは確かなはずだった。 「でも……そんなの……」  今度は鈴々は卑怯だとか狡いとは言わなかった。口に出来なかったのか、する必要がなかったのか。 「鈴々には鈴々のやり方があって、季衣には季衣の本分がある。それが異なることは、けして悪いことではないんだよ。それぞれの考えと役割があって……」 「わかったのだ」  一刀の言葉を遮って、鈴々が低く呟いた。うつむいた彼女の顔を覗き込むように、男は身を乗り出す。 「鈴々?」 「わかったのだ!」  吐き捨てるように、彼女はそう告げる。その声の調子は、けして納得しきった者のものではなかった。だが、続いた言葉は、一刀が予想していたより、聞き分けよいものであった。 「春巻きについての、お兄ちゃんの話はわかったのだ。鈴々だって、あいつとずっと絶交したいわけでもないし、お兄ちゃんに免じて、遊んでやってもいいのだ」 「そうか、よかった……」  ほっと息を吐く一刀。これでひとまず季衣が悲しむことはなくなるだろう、と彼は喜んでいた。きっと、それは鈴々にとってもいいことだろうと。  しかし、少女はうつむけていた顔をあげ、じっと彼の顔を見つめていた。その大きな目をめいっぱい見開いて。 「春巻きのことは、もういいのだ。でも」 「え?」 「そうやって、なんでもかんでも、あれはしかたない、これはしかたないって言うのがお兄ちゃんのやり方?」  一刀は、どきり、とした。  これまで話してきたことに嘘はない。季衣と鈴々では考え方も、戦闘方法も違うというのは、彼自身思っていることだ。  しかし、色々と調整に走り回るのが役目となり、妥協を重ねるのが常となっている身には、少女の直截な物言いに、少々痛いと感じる部分があったのも確かであった。 「お兄ちゃんが鈴々と春巻きのことを考えて言ってくれてるのはわかるよ。うん、わかるのだ。一人一人違うってのもわかるのだ。それでも」  鈴々は目を伏せて、少し悲しそうに、呟いた。 「あれもいい、これもいいって言うばかりなのは、なんだか……その場凌ぎみたいな感じがするのだ」  4.義姉妹 「それで我らに相談に来た、と」  一刀からの話を一通り聞いた後で、愛紗は卓の上の空いた酒杯に酒を注いだ。自分の杯にも注いだ後、髪をかきあげ杯を呷る。その仕草がなんともしなやかで美しい。 「うん。その、季衣との件については話したとおり解決したと思うんだけど、なんか、こう……。鈴々からの信頼を失っちゃったような気がして。……その……」  彼女はちら、と横を見る。その視線の先では、いつもは柔らかな笑みをたたえている彼女の義姉、桃香が腕を組み――そのおかげでただでさえ大きな胸が余計に強調されていたが――うんうん唸っている。どうやら男の話について考え込んでいるらしい。  しかたなく、愛紗は自分なりに考えた結論を彼に伝えることにした。 「……鈴々も意地っ張りですからね。季衣とのことは承知したとはいえ……そう、最後の最後で素直になりきれず、結果、一刀殿につっかかったのではないでしょうか? 数日もすれば忘れることと思いますが」 「そうかな? たしかに、それはそれでありそうなことではあるけど……」  愛紗にしてみれば、仕合に負けてふて腐れるということが、まず情けない。己の力不足を反省すべきが、相手を責めるなど……という感覚がある。その上、理を尽くして諭してくれた一刀に噛みつくならば、鈴々の側にろくな考えはなく、ただ意地であろうと類推するのも自然な成り行きであった。 「うーん」  だが、義姉のほうは納得できない様子であった。腕を組んだまま、体を傾ける桃香。椅子から転げ落ちそうに見えて、愛紗が咄嗟に体を支えた。 「どうしました、桃香様」 「これは私の考えなんだけどね」  と、彼女は前置きして話し始める。体を元に戻しながら。 「たぶんだけど、鈴々ちゃんはいらだってると思うんだよ」 「苛立ち?」 「うん。こう、色々ね。特に年末だし、今年を振り返ってみたりとかして」  まあ、私もそうなんだけど、と彼女は小さく笑いながら続けた。 「今年って、結構激動の年だったと思うんだ。その中でも、私たち蜀の人間、特に鈴々ちゃんにとって衝撃的な出来事と言えば、愛紗ちゃんが一刀さんのところに行っちゃったことと、それが遠因になって一刀さんに殴りかかって謹慎処分を受けたこと。この二つかなって思うの」 「耳が痛いところもありますが、仰ることには同意します」  苦笑しながら愛紗が横目で見ると、一刀もまた苦笑していた。 「この二つってね、あんまりはっきり解決してないでしょ?」 「それは……うむぅ。私が戻ることでごまかしているところはありますね。誰も触れないようにしていると言いますか」 「そもそも、後者の事件は無かったことになってるし、大赦でそれこそ全て消えたからな」  関雲長が蜀を抜け、結局は蜀に帰ってきたことは衆目も知るところであるが、その実状はほとんど知られていない。戻ってきたのだから、とそれ以上追求すべきではないという雰囲気が人々の間にあった。  そして、鈴々の一刀への襲撃はそもそも幹部勢しか知らぬ事として処理されている。  二つとも、解決と言うにはほど遠いものであった。 「うん。それでね、これは私自身にとっては後で聞いた話になっちゃうんだけど、一刀さん、漢中で焔耶ちゃんに守ってもらったことあったよね?」 「ああ、うん」  桃香は小さく息を吸い、顎を引き、上目遣いに一刀たちを見る。 「その時の愛紗ちゃんの部隊の人たちは、焔耶ちゃんに……殺されちゃってるよね?」 「焔耶とてそうしたくてしたわけではありません。あの場で一刀殿を守り、我が国の立場をそれ以上悪くしないためには……」  身を乗り出し、早口でまくしたてる愛紗を、桃香はそっと手を上げて押しとどめる。一方、一刀は黙って酒杯を呷っていた。 「うん。わかってる。辛いことだけど、しかたないってことは。でも……うん、一刀さんが鈴々ちゃんに言われたようにね。私たち、しかたないことだって済ませ過ぎてないかな?」  ああ、同じ顔をするんだな、と一刀は思った。  鈴々が最後に浮かべた表情を、その時の桃香は浮かべていた。彼女の方が、はるかに愁いは濃かったけれど。 「焔耶ちゃんの手にかかった五十人と、鈴々ちゃんは本来同じ立場のはずでしょ? でも、鈴々ちゃんは許されて、兵だと殺されてしまう。このことも、ひっかかってることの一つだと思う」  はあ、と桃香は息を吐く。その嘆息に込められたものは、一国を背負う者しか知り得ぬものだったかもしれない。 「本当にさ、どうしようもないことってあるよ。一刀さんのせいでも、愛紗ちゃんのせいでも、もちろん焔耶ちゃんのせいでもない。でも、起きちゃうことはある。それはわかってる」  わかってるんだけれど、と彼女は呟く。 「でも、それを……少しでも無くすために立ち上がったはずなのになあ、って思ったりする部分もあるんじゃない? 愛紗ちゃんにも」 「……しかし、しかしですよ、桃香様。それを我々が口にするのは……」 「うん。そう。無理だよ。無理なんだよ」  あはは、と蜀の王は笑った。照れたように、恥じ入るように。 「少しでもましにするために私たちがいるとはいえ、それでも、いますぐに全てを明るみに出すわけにはいかなかったりするから。でも、そういう大人が抱えているいろんな矛盾に、鈴々ちゃんはいらだってるんだと思う」  彼女は一刀に視線をやった。深い碧の瞳が、彼を正面から捉える。 「もちろん、はっきりと意識しているとは思わないよ? なんとなく、ではあるんだろうけどね」  言葉が途切れる。一刀は桃香に見つめられたまま彼女の言葉を考え続け、愛紗はそんな二人を見比べるようにしていた。そんな愛紗の指が、自分の顎を一つ撫でる。 「桃香様の仰りようもわからないではありません。言われてみれば、あれはそういう空気を感じるところがありますから。しかし……」 「そこまで考えてないとかって思う?」 「いいえ、そうではありません。ですが、一刀殿にそれをぶつける理由はないのではありませんか? 八つ当たりのようなものならば、それはそれでひどい話になります」  憤慨したように言う愛紗の姿を、桃香は当初きょとんとした顔で見ていたが、不意にその顔を笑みへと変えた。 「それはしょうがないよ」  と桃香は笑いを含んで言う。そうして出てきた言葉に、愛紗は目を白黒させた。 「一刀さんは鈴々ちゃんにとって、『大人』で、『いっちばん矛盾してる人』だもん」 「ふうん。そうなの?」 「うん。一刀さんにとっては理不尽に思うかもしれないけれど、鈴々ちゃんにとって、一番身近な『大人』って一刀さんだよ。私や愛紗ちゃんは家族みたいなものだし、蜀のみんなだってそう。でも、一刀さんは、別の世界の人だもん。……あ、天の国って意味じゃなくて」  一刀は少し考えて、杯を揺らす。 「大人の象徴ってやつ?」 「まー、そういうことかな」 「そっか……」  一刀は杯を置き、とんとんと卓を指で弾いた。考えをまとめるように、彼はしばし宙を睨む。 「もし、そうだとしたら、厳しいね。俺の立場自体、曖昧で矛盾をはらんだものだし、そうそう簡単に信頼回復とはいかないだろう」  一刀は苦しそうにそう言い、愛紗は義姉と男の顔の間で視線を何度も往復させた後、辛そうに首肯する。桃香の考えが当たっているならば、一刀はより大きなものの身代わりに鈴々の苛立ちをぶつけられていることになる。その根本が解消されない以上、一刀への感情も和らぐことはなさそうに思えた。 「うん。でもね……」  悲痛な表情の二人の気持ちを和ませようとするかのように、桃香は穏やかな笑みを浮かべる。 「大人っていうのは、鈴々ちゃんの年頃にとっては、あこがれの対象でもあるんだよ。だから、そんなに心配しなくてもいいと思う」  そうして、全てを包み込むような慈愛溢れる表情で、彼女は言うのだった。 「一刀さんは一刀さんでいればいいんだよ」  と。  5.境界  深更――。 「ふーん。また、小難しいこと考えてるねえ」  裸の一刀の胸に明るい栗色の頭を預けながら、蒲公英はくすくすと笑いを漏らす。彼女も裸身に上掛けを一枚かけているだけで、はみ出た脚や脇腹は惜しみなく膚を露わにしている。 「いや、まあ、鈴々自身は考えているというよりは……」 「違うよ、桃香さま。なんか、洛陽に長いこといて、魏の人たちの悪影響受けちゃったんじゃないのぉ」  下ろした髪をゆっくりと撫でられながら、蒲公英はきゃらきゃらと声をたてる。その調子をかわいらしいと思いながら、蒲公英らしい毒のある言葉に一刀は苦笑する。 「悪影響ってお前……」 「まあ、桃香さまは根が真面目だからねー。一度頭が回り始めると、いくらでも考えちゃうのかもしれないけど」  言いながら、蒲公英は一刀の胸に頭をこすりつける。男の香りを思い切り吸い込んで、彼女は幸せそうに顔をとろけさせる。 「でも、んー、わからないでもないかな。たんぽぽたちも国造りなんてやってると、やっぱり民には言えないことってあるもんね。知らせない方がいいこと?」  蒲公英はなにか思い出すように言う。西涼の主となる翠の一族として、西涼を支える一人となる彼女は、国を建てる過程で様々な経験をしてきているのだろう。 「でもさ、結局、それを知らせるか知らせないかってのも、国の中心の人たちが決めてるんだよね。そこが、ちょっと汚いと思えちゃう人には思えちゃうかも」 「それはあるかもしれないね」 「でも、それって、えっと、しかたないって言っちゃだめなんだっけ? じゃあ、うーん、必要なことじゃない?」  考え考え言う彼女に対して、一刀もゆっくりと考えながら答える。触れあう膚の温もりが、思考をゆるやかなものにしていた。 「ある程度は必要だろう。それにいまの三国のように責任感と能力を有した面々が治めているなら、そうそう問題にはならないことだよ。多少の秘密なんてね」 「それくらいは、鈴々だってわかってるはずだよねー」 「そうだろうね。それでも、やっぱり感じるところはあるんだろう」  男は、これまでの鈴々とのやりとりを思い返してみる。共に過ごした日々はそこまで長いわけでもないが、それでも、印象的な出来事はいくつかある。 「鈴々は……愛紗が俺の所に来た経緯を自分が知らされなかったのは、自分が子供扱いされているからだって思い込んでた。実際には違うけれど」  当時の桃香でさえ知らされていないことを、鈴々に教えられるわけがない。それでも、最も親しいはずの義姉の行動の意味を教えてもらえなかった経験は、彼女にとっては苦々しいものであったろう。 「もしかしたら、同じように、俺を襲ったことで自分が罰せられないのは、子供扱いの結果だと思ってるのかもしれない」 「ふうん?」 「そうだとしたら、大人の世界はいろんな事を企んでるいやなところって思っててもしかたないかもな」  蒲公英は男の話を聞いて、うつむき、考え込む。しばらくして、彼女は首をひねった。 「んー、そんなにすっぱり割り切れるものかなあ? 大人とか子供とか?」  蒲公英は上掛けを体に巻き付けたまま、彼の体から離れ、寝台の上で立ち上がる。ぷりぷりとしたお尻が、一刀の視界で揺れた。 「たんぽぽは子供? 大人? 体が大きければいいの? それとも、年齢? そういうの、よくわからないよね」  ぱさりと音をたてて布が落ち、蒲公英がその場でくるりと回る。そこに現れるのは、一糸まとわぬ姿。まだまだ成長途上ながら形のいい胸、抜けるように白い膚、鍛え上げられた脚の描く美しい線。そして、丸っこい顔の中でも目立つ瞳に込められた強い意志の光。 「少なくとも、蒲公英は立派な女だよ」  見事な肢体をほれぼれと眺め、称賛の声をあげてから、一刀は語調を変える。 「祭から見たら、俺も華琳も小童(こわっぱ)と変わらないしな」 「そうそう。三国の王様とか、武将だって、そんなすんごい長いこと経験積んでるわけでもないし、間違うこともたくさんあるはずだよね。それをなんとか良い形にしようとしてるのに、狡いとか汚いとか言われても困っちゃうよねー」  一刀はその言葉に肯定も否定もしない。鈴々の感覚も、蒲公英の感覚も共に理解出来るし、尊ぶべきものと思えるのだった。こうして判断を留保するところも、あまり快く思われていないのだろうと思いながら。 「難しく考えるからいけないんだよ」  蒲公英はその場でひざまずき、男の脚の間に自分の体を割り込ませる。その手が半ば立ち上がりかけている男のものに触れる。 「将と兵とか、大人とか子供とか、男とか女とか」 「おいおい?」  声の調子は変わらず、からかうような真剣なようなもの。しかし、その指は一刀の情欲を刺激するよう、それをしごきあげている。芯が通り、すっかり立ち上がったそれに、彼女は熱い吐息を吹きかける。 「仲良くぴたーってくっつけば、境なんて無くなっちゃうのにね?」  ちゅっと音高く亀頭に口づけて、悪戯っぽく彼女は彼の事を見上げる。その間も、彼女の指は快楽を引き出そうとするようにゆったりと、優しく動き続けている。 「ね、そう思わない、一刀兄様?」 「ふむ、では、蒲公英のその持論を実験してみるとするか?」  まじめくさった調子で一刀は言い、彼女の頭を一つなでた。 「うんうん、いーっぱい、実験するよ!」  そう蒲公英が宣言し、二人は再び愛欲の海へと飛び込んでいくのであった。      (玄朝秘史 第三部第五十九回 終/第六十回に続く)