玄朝秘史  第三部 第五十八回  1.権威 「漢中王、ねえ」  彼女は手に持っていた一巻きの書簡をぱさりと卓の上に落として、なにか疑問を示すように呟いた。ゆるく丸まった金の髪に指を絡め、しばし天井を睨む。 「あなたたち、どう思う?」  視線を落とさぬまま訊ねる相手は、卓を挟んで立つ三人の軍師たち。猫耳型の頭巾を被った桂花が、まず主の問いに答えた。 「漢中王は、高祖が漢朝を興すきっかけとなった王号。劉氏にして、大徳と言われる人物がそれにつくとなれば、貴賤を問わず、人々に与える影響は大きいでしょう。ことに、あの人物はそうした人々の期待を集めることで国を作り上げてきた実績があります。許すなとまでは申し上げませんが、用心するべきかと」  次に、稟が眼鏡を押し上げつつ、皮肉げな笑みを浮かべる。 「たしかに利はあるでしょう。しかし、危険でもあります。人々の期待とは表裏一体なもの。それにふさわしい振る舞いも、見合うだけの利益も与えなければならない。名前だけでそれを成せるものでしょうか。人は集まるかもしれませんが、ただ求めるだけの民ならば、かえって害ともなりかねない。私が蜀の人間ならば、下策と判断します。……ただ、我が方としましては、これを却下することで恨みを買うのも面白くありません。交換条件でもつけてみて、相手の出方を窺うのも一つの手かと」  最後に宝ャを頭に乗せた風が眠そうな目で呟く。 「朱里ちゃんたちは、稟ちゃんの言っているようなことを理解した上でも、利点のほうを取りたかったということなのでしょうねえ。風としては、んー、あんまり興味ないって感じですけどねー」  三人の意見を聞いた後で、華琳は顔を下げ、書簡に再び目を落とした。 「……そうね、好きにさせておくことにするわ。あんな古くさい権威、私にも意味はないことだし」 「しかし、華琳様ー。華琳様がそうお考えでも、そうでない人もいるかもしれませんよー?」  くすくすと笑いながら言う風の姿に、華琳は疑念でも持つかのように目を細める。華琳自身が頓着しなくとも、桃香が漢中王を得ることを重要だと考える人間がいる。そんなことは当たり前のことで、既に話し合ったことである。それなのに風はそれを告げた。ならば、また別の意味があると考えるべきであろう。 「ふむ。それもそうね」  彼女の言葉に思い出したかのように、金髪の女王は頷く。 「じゃあ、一つ、こちらも用意しましょうか。あれが選べるように」 「試すのですか?」  猫耳をぴこぴこと動かして、桂花は心配そうに訊ねる。その様子がさらに華琳の笑みを輝かせた。 「ええ、面白いでしょう? 使うと言うならそれもよし、使わないことを選ぶのも面白い。どちらに転んでも、損はないわ。どうせ打ち棄てられた物よ」 「少々お遊びがすぎるような気もしますが……。それもありというものですか」  肩をすくめ、諦めたように稟が言って、その話はひとまず終わるのだった。 「玉璽ぃ?」  驚くというよりも呆れたような声が執務室に響いた。華琳と机を挟んで座っていた仮面の女性は脚を組み替えてみせることで、自分の心情をより明らかに示していた。 「そ、玉璽。あれを返してもらおうと思って」  こともなげに言い放つ華琳に対して、闇色の仮面を被った女性が、最初の女性と華琳との間に体を割り込ませ、まるで背後の女を守るかのように立ちふさがる。 「お待ちいただきたい。あれはすでに貴殿を通じて朝廷に返却したはず。いまさらになにを言い出すか。それとも、これは、孫呉への……」 「それがね、受け取ってないのよ」 「はぁ?」  いっそ困ったように言う覇王の言葉に、雪蓮と冥琳、二人の声が揃った。 「ああ、いえ、私は預かったわよ? ところが、朝廷側に引き取ってもらおうとしたら、受け取らないのよねぇ、これが」  からからと笑う様子に毒気を抜かれたか、冥琳がやれやれとでも言いたげな様子で、自分の席――雪蓮の斜め後ろ――に戻る。 「公に出来ることではないというのはわかるが……。秘密裏に接触しても、なお?」 「そ。なんだか、意地になってるのよ。なんでも、玉璽が無くなっているという事実などないらしいわよ? さすがに陛下に手渡しでもすれば文句は言えないでしょうけど、そこまでしてやるのも業腹だし」  華琳の言葉に、部屋に蔓延する呆れた空気がさらに濃くなっていく。 「そんなこと言ったって、どうするのよ。あれなかったら困るんじゃないの?」 「日常業務では困らないわよ。代替わりの時くらい?」 「そりゃそうかもしれないけどさー……」  華琳の言うとおり、帝が使う璽は何種類か存在する。王に対する命令、侯に対する指示、あるいはさらに下級の人間に対する下知。それらの格や緊急度によって印璽は使い分けられる。  雪蓮たちが反董卓連合において都に攻め上った際に見つけた伝国の玉璽は、いわば儀礼の最高峰にあたり、よほどの事がない限りは引っ張り出されることはない。それがわかっていて、朝廷側も難癖をつけてきているのだった。 「こっちを少しでも困らせたいんでしょ。子供みたいな嫌がらせよ」 「それで、どうしろって?」  わざとらしいほど大げさにため息を吐いて、雪蓮が問いかける。華琳はようやく話が進んだと嬉しそうに顔をほころばせた。 「私から戻そうとしても、もうこれは無理でしょう。正直、あれこれやるのにも飽きしね。だから、袁家あたりに持っていてもらおうと思って。朝廷も言い出しやすいでしょ、あそこなら」 「まあねぇ……。で、私に一度戻して、改めて提出しろって?」 「理解が早くて助かるわ」  華琳の体が机の影に一度隠れ、そして、それが戻った時には、机の上に美しい布で作られた小袋が置かれていた。三対の視線がそれに向かう。 「茶番だな」 「ええ、それはもう」  なぜか嬉しそうに言い合う冥琳と華琳を横目に見ながら雪蓮は手を伸ばし、まるで何か嫌なものでもつまみあげるように、指の一部だけを使って、袋を持ち上げる。 「そんな茶番を演じてまでこれにこだわる意味ってあるのかしらねえ?」 「さあ? どうかしら」  掌の上に載せ替えたそれをじっと見つめて言う彼女に、華琳は含み笑いで対した。その表情を見て、雪蓮はなにかを得心したかのように頷いた。 「ふうん。まあ、いいわ。引き受けましょ。見つけちゃったのは私たちだしね。その代わり、さ」  彼女はそう言って小袋の口を閉じている紐を腰に巻き付け、身を乗り出した。 「一つ、頼みを聞いてくれない?」   「かつて董卓の支配する洛陽が陥落した際、その方が瑞兆を目にし、この伝国の玉璽を発見したという話は真であるか」  普段よりさらに豪奢な衣装を着飾り、一段高い場所に設けられた座所から訊ねるのは袁家の主の一人、袁公路こと美羽。少々甲高い、よそ行きの声であった。 「真のことです」  それに応じるのは、相変わらず仮面をつけ、膝を突く雪蓮。 「ならば、なぜ早々に朝廷にお戻しせなんだか。己一人のものにせんとしたか?」 「当時はいまだに混乱著しく、相次ぐ戦乱も予期されました。都にあれば、再びいずこかに隠される事態も予想されます。それならば一時的にでも離れた所にあればよいと考えました。しかるべき時……三国の争乱も治まり、白眉の乱も終わったいまこそが、お返し申し上げるべき時と判断した次第にて」 「ふむ。あくまでも、二心なく、ただただ玉璽を守らんとしたと、そう言うか」 「その通り」  しばし、美羽は沈黙する。肘掛けに置かれた小袋を開き、中を改めて、彼女は告げた。 「よし、その心がけあっぱれじゃ。玉璽は妾が袁家の名をもって預かり、あるべき場所に至るよう努めることとする」  美羽は大きく手を振り、蜂蜜色の髪が差し込む冬の日差しに輝いた。  そこで部屋の空気は一変する。美羽は玉璽の包まれた袋を両手で抱えるようにして深く腰掛け、雪蓮は立ち上がって、大きく伸びをする。 「ふぃー、疲れたのじゃ、これでよいかの、七乃」 「はいー、もうばっちり台本通りですよー、お嬢様ー」  壁際に控えていた七乃が、いそいそと竹筒を持って近づく。もちろん、その中には蜂蜜水が入っていて、受け取った美羽は喜んで飲み干していた。 「まったく、このような芝居までするはめになるとはな。下手に口裏合わせをするより、実際に演じておいた方がいいというのもわからんではないが……」 「冥琳がするわけじゃないんだからいいでしょー」  ぶつぶつ言い合っている二人の仮面の女性の元に、するすると近寄って新しい竹筒を振る七乃。にこにことした顔で、彼女はそれを二人の前に差し出した。 「孫策さんと周瑜さんも飲みますー?」 「はいはい。ありがと」 「ん、ああ、すまんな」 「いえいえー」  自分の竹筒を傾け終えた美羽は、行儀悪くぐでーっと体を伸ばしながら、蜂蜜水を受け取っている雪蓮と冥琳を、睨むような目で見つめていた。しばし考え、べたついたらしい手を袖で拭ってから、玉璽の入った袋を持ち上げる。 「のう、伯符よ」  視線を小袋と白い仮面の間で往復させつつ、美羽は低い声で問う。 「なあに?」 「元々、華琳は主から麗羽姉様へと玉璽を移すつもりじゃったと聞く。なぜ、妾に変えたのじゃ?」 「私たちとの縁の深さから言ったら、やっぱりあんたでしょ。良くも悪くもね」  そうはいうものの、いまの雪蓮は『玉璽を見つけた名も無き善意の人物』である。縁の深さなど意味を成さない。だから、続けた理由が本意であったろう。 「それに、もうそろそろあんたたちとも本腰入れて仲直りしよっかなー、って思ってね。洛陽にずっといるのに、顔会わせる度に警戒しあうんじゃ居心地悪いでしょ、お互いに」 「別に警戒なんぞしておりゃせんがの。主とてしておらんではないか」 「周りがぴりぴりするのよ、周りが」  ふん、と鼻を鳴らす美羽。彼女は、自分を見つめている三人の女性の顔を――そのうち二つは仮面に隠れていたが、けして表情が読めぬわけでもない――を順繰りに眺めやった。 「いちいち一刀に心配をかけるのもあほらしいしの。余計ないさかいをしたくないというのなら、それもよかろ」 「そう。じゃあ、真名を交換しましょ。知っているとは思うけど、私の真名は雪蓮よ」  美羽の言葉にほっとしたように雪蓮は言い、そのやりとりを七乃は両の拳を口元にあてて、興味深げに眺めていた。まるで表情に表れてはいないものの、その姿勢からすると内心はらはらしているのかもしれない。 「妾の真名は、美羽。じゃが、これを預けるには、一つ条件がある」 「なにかしら?」  玉璽を包む袋を弄びつつ平板な声で言う美羽に、雪蓮が首を傾げる。意地の悪い命令や、腹立ち紛れの叱責を受けた――といっても、ろくに聞いてはいなかったが――ことは過去にあったが、いま目の前にしているような美羽を見たことはなかった。 「主に謝ってもらわねばならん」  簡潔だが力のこもった言葉に、部屋の温度がすっと低くなったような感覚を、冥琳は覚えた。  孫伯符と袁公路、この二人の因縁は、代をまたぐほどに深い。深いが故に触れてはいけないことも数多くあった。次の一言次第では、さらに何代もの遺恨を生じかねない。そんな予感すら抱かせる瞬間であった。  だが、美羽は皆の視線を一身に集めつつ、小さく笑う。 「言うておくが、妾を裏切っただのと恨み言をくどくど述べるつもりはないぞ。じゃが、一刀に拾われた折り、七乃に斬りかかった事だけは別じゃ。妾にではなく、七乃に謝ってもらいたいのじゃ」  誰もが予想していなかった要求に、沈黙が落ちた。そして、それを破ったのは、雪蓮の明るい笑い声。 「そ、そうね、言われてみれば、そうよね。あれは、ちょーっと無茶な話だったわよ。うん。あはははは!」  爆発するような笑いの発作が収まった所で、雪蓮はそのまま膝を突き、頭を垂れた。先程、美羽に対して示していた姿勢と同じものであるはずなのに、そこに漂う空気はまるで違った。 「この通りよ、張勲」  冥琳はあらぬ方を向き、当の七乃は痺れたように目を見開いて跪く雪蓮を見ている。その中で、ひときわ柔らかな声がかかった。 「これでよいかの、七乃」 「ええ、お嬢様。……ありがとうございます」  その言葉の最後のあたりが、喉の奥で詰まるように消えていくのを、皆、気づかぬふりをした。 「うむ、では、よろしくな、雪蓮」 「ええ。一刀の所に転がり込んだ同士、仲良くしましょ、美羽」  勢いをつけて座所から降り、とてとてと歩み寄った美羽が雪蓮を引き起こし、二人は穏やかな顔で言い交わしながら、手を握りあうのだった。  2.対面  謁見の間に入った彼女の第一声はこんなものであった。 「あっれえ? お姉ちゃんたちまだ着いてないのー?」  華やかな白基調の衣装に身を包み、不満を露わにするのは髪を複雑な形に結い上げた少女。彼女は、当然にその場にいるべき姉や友を改めて探すように首を振ったが、その視界に入るのは魏の面々ばかりで、同郷の人間は大使として洛陽に在駐している諸葛瑾くらいのもの。 「そうなのよ。なんだか、随行員の一部が病で倒れたらしいわ。その連中を別の邑に隔離して様子を見てから来るとかなんとか」 「ふうーん。赤ちゃんいるし、大事をとってるのかなあ?」 「そうでしょう。とはいえ、あまりかかるようならこちらから兵を派遣すると申し出てあります。なにがあったとしても、しばらくすれば到着するものかと」 「そっかー」  華琳や稟に言われ、小蓮はしかたないとばかりに頷く。  だが、彼女も知らないことであったが、蓮華たちが足を止めているのは、あえてのことであった。今回の入洛を警戒し、都に入る前に脱出経路を確実なものにするために、呉の人間たちはさまざまな工作活動を行っている最中なのだ。 「ただ、そうは言っても、こう、やきもきしちゃう人がおりましてー」  風のからかうような視線に誘われるように、皆の目が、一人の男へ向かう。先程から落ち着かなげにしている風情の北郷一刀へ。 「え? ああ、いや、まあ……その、心配はするだろ、それは」 「大事なら連絡があるでしょうよ。魏の領内には既にいるんだし、数日のことでしょ、数日の」  一刀の反応に、呆れかえったように桂花が肩をすくめる。猫耳が、ぴこりとはねた。 「いや、それは……うん。わかってはいるんだけどね」  返答も、歯切れいいものとは言えない。その様子に、ついに華琳の苛立ちが限度を超えた。 「ああ、もう。行きたいなら、行きなさいよ! まったく」  部下の顔を見比べ、ぴっと一人を指さす。 「凪。悪いけど、この男について呉の連中の所まで行ってやってちょうだい。変なことを始めようとしたら、殴っていいから」 「了解いたしました!」 「え、いや、華琳。俺にも仕事が……」 「だったら半日で戻ってきなさい」  明快に命を受ける凪とは対照的にもごもごと言い訳のような言葉を発する一刀に、華琳はぴしゃりと言いつける。  結局、一刀は凪に引きずられるようにして、謁見の間を出て行くことになった。扉をくぐる手前当たりから、逆に凪の方を引っ張るような足取りになっていた事に誰もが気づいていたが、もちろん、わずかな笑みと共に見逃されていた。 「いいのー、殴っていいとか言っちゃって?」  突然の成り行きに目を白黒させていた小蓮が、気を取り直したように訊ねる。少々不機嫌そうなのは、置いて行かれたとでも思っているからだろうか。 「いいのよ。あれは子供の事となると、色々とたがが外れるから」 「あんなに子供多いのに?」  こてんと首を横にして、小蓮は疑問を口にする。本気で不思議そうに思っているその口調に、華琳は思わず苦笑していた。 「あなたも王族ねえ」  と。 「か、か、か、一刀?」  洛陽の南方に位置する小邑で一刀を出迎えた蓮華は、まるで信じられぬものでも見るような調子で、彼の名前を呼んだ。 「やあ、蓮華。久しぶりだね」  一方、一刀の方は、優しく、ひたすらに優しく彼女の真名を呼ぶ。その様子は、凪はもちろん、呉の面々にも羨望を抱かせるに十分なものであった。 「そ、そうね。久しぶりだわ……。本当に」 「うん」  蓮華の口ぶりも、柔らかなものになっていた。 「元気だった?」 「ああ、もちろん。だけど、なかなか忙しない一年だったね、お互い」 「本当に」  なにに笑うというのでもないだろうに、くすくすと小さく笑いを漏らしながら、二人は言葉を交わしあう。その間、きょろきょろと天幕の中を見回していた凪が訊ねる。 「あの、ところで、ご一同集まっておられるのではないのですね」 「ああ、子供たちと穏は邑の長の家に泊めてもらっているのよ。私もそちらに寝泊まりしているのだけどね」  街道沿いにあるとはいえ、小さな邑である。侍女たちや兵まで含めれば、とても全員が泊まるような場所はない。邑に隣り合う場所に天幕の群れを立て、大半の者はそこで過ごしている。蓮華が来ていたのは、一刀たちが近づいてきていると報せを受けてのことであった。 「じゃあ、そちらに行きましょうか?」  しばし皆との歓談を経た後で、そう切り出したのは蓮華のほうからであった。先程から邑の方をちらちら見ている男の姿に、いい加減潮時だと悟ったのかもしれない。 「え?」 「だから、子供たちと穏のところへ」 「そ、そうだな。穏とも会いたいことだしな」  ふん、と思春が鼻を鳴らす。その言葉も嘘ではないだろうが、お目当ては別にあると、彼女も蓮華もよくわかっていたのだった。 「あの、凪さん」  蓮華と一刀、それに護衛役の思春が出て行った後で、改めて凪に茶などを出していた明命が、不安げに声をかける。 「はい?」 「一刀様、なんだか様子が変じゃありませんでした?」 「あ、それは私も気になりました。どこかお加減でも悪いのでしょうか?」  亞莎もまた、長い袖を振って身を乗り出してくる。その二人の様子に、凪は少し不思議そうにした後で、ああ、と呟いた。 「いえ、単に気もそぞろなのだと。御子様との初対面を前に」 「ああ、そういうことですか……」 「登さまも延さまもとーってもかわいいですから、きっと一刀様もお喜びになりますよ!」  ぱっと顔を明るくする二人。安心したのか嬉しかったのか、その後も明命は赤ん坊たちがいかに小さくてかわいくてぷにぷにしているかを語り続ける。なぜか猫に喩えることが妙に多かったが、そのあたりはご愛敬であろう。  わいわいと語り合い、ようやく明命の勢いも衰えかけたところで、はあ、と大きなため息が聞こえた。思わず残る二人の視線が、それを発した片眼鏡の女性に向かう。 「どうしました?」  真剣な顔で凪が訊ねるのに、自分がため息を吐いたと自覚していなかったらしい亞莎が、慌てて口元を袖で隠す。 「あ、いえ、その、わ、私と一刀様の赤ん坊が出来たら、その、どんな感じだろうなー、なんて。あ、うう、ごめんなさい、ごめんなさい」  顔を真っ赤にして、なぜだかぺこぺこと頭を下げる亞莎。卓に頭を打ち付けそうになるのをなんとかなだめすかした後で、三人とも、ほう、と放心したようになってしまった。 「でも、考えますよねぇ……。いつか……って」 「……そ、そうですね。自分も、その……」 「……一刀様との、赤ちゃん……」  三人それぞれにそんなことを呟いて、頬を淡く染めながら、どこか宙を見る。  彼女たちの目には、玉のような赤ん坊を抱き、愛しい男と歩く、そんな自分の未来が映っているに違いなかった。  3.大会 「はーい、皆さん。北郷一刀主催の徒手格闘大会へようこそーっ!」  だだっ広い練兵場を幕で囲った会場に、元気な声が響き渡る。 「年の瀬なのに、みーんな揃ってくれてありがとー!……って言っても三百人くらい? ちょっと少なめだけど、三国の重鎮ばかりで、ちぃ緊張しちゃうー。そんなわけで、進行は数え役萬☆姉妹の地和がお送りしまーす」  まるで緊張しているとは思えない楽しげなその声に応じて声援があがる。地和の言葉通り、各国の重臣たちとその随行員、親衛隊など、全て合わせても三百人程度の観衆であったが、数え役萬☆姉妹の人気は浸透しきっているようであった。 「解説には我らが覇王、曹孟徳様ーっ!」  地和の傍らに座る華琳が小さく頭を下げる。それだけで、先程を凌ぐような声が轟いた。 「続いて、黒い仮面の謎の人!……ってこれどうすんの、名前伏せるの? え? 周大人? あー、じゃあ、そういうことでー!」  豊かな黒髪を垂らす女性が華琳と同じように頭を下げると、戸惑うようにぱらぱらと声が響く。事情を知る者たち――本人も含めて――はたいていが苦笑いを浮かべていた。 「最後に、天の御遣い北郷一刀! 主催なんかしているけど、たぶん一番弱っちぃのはこの人でーす」 「余計なこと言うなよ!」  思わず立ち上がって文句を言う一刀の姿に、会場から笑いが起きる。  大会は、そんな風に始まった。 「今回は無手による格闘大会ということで、改めて規則の確認をしておきます。  まず、相手を不具にするような攻撃は禁止です。反則ではなく、禁止です。  また、治る怪我とはいえ、骨を折るのは反則です。肩が外れた、くらいが許容範囲と考えて下さい。  さらに、目、鼻、口、耳に対する意図的な攻撃は反則となります。目突き、耳をちぎろうとする行為、口や鼻に指をひっかけるなどですね。顔面への殴打自体は問題とはなりません。ちなみに、噛みつくのはありですが、噛みちぎるのは当然許されません。  場外へ押し出された場合、審判が十を数える間に場内に戻らなければ負けです。注意して欲しいのは、十が通算であることです。たとえば一度場外に出て四つ数えられれば、次は六つ数えられたら敗北となります。一度外に出れば必ず一つは数えられるので、極端なことを言えば十回場外に出されれば、負けとなります。  なお、いわゆる氣弾やそれに類するものも反則になりますので注意して下さい。暗器も反則です。  勝敗はどちらかが気絶した場合、負けを表明した場合、審判が続行不能と判断した場合に決します。主審は医師でもある華佗ですから、その判断は信頼できるものと考えます。  なお、締め上げられているなど、口で伝えるのが困難な場合、相手の体か、床を、大きく二回叩くと、負けを示すことになります。  それでは、みなさん、よい闘いを」  一刀のそんな注意を経て、審判たちが仕合場に上がる。仕合場は、土盛りの上に設けられた板張りで、二十歩四方の広さがあった。審判は三名、主審は一刀の言葉通り華佗であり、副審二人は斗詩と白蓮。参加しない武官のうちで誠実さと膂力を基準に選んだ結果、こうなったのであった。  そして、第一回戦、九試合が行われる。参加者が十七名と半端なため、一組だけ一試合多くする形で、八人の勝者を決めることとなっていた。  組み合わせは以下の通り。  凪と霞。  亞莎と音々音。  愛紗と春蘭。  焔耶と祭。  鈴々と季衣。  雪蓮と華雄。  思春と猪々子。  蒲公英と恋。  そして、霞に勝った凪と流琉。  ほとんどの組み合わせは、順当に体術と身体能力に優れた者が勝ったと言っていいだろう。  たとえば、凪対霞の戦いはかなりの接戦ながら格闘をよくする凪が競り勝ち、その勢いのまま流琉にも勝利する。亞莎と音々音は軍師対決という異色の組み合わせながら、ちんきゅーきっくだけでは武官あがりの亞莎にかなうはずもなくねねが負け、思春と猪々子、愛紗と春蘭の両仕合は、それぞれに身体能力に優れた同士がぶつかりあって、わずかな経験と技術の差で、思春と愛紗が勝った。最終盤、春蘭が思わず氣弾を使おうとして反則負けになったのも、結局はぎりぎりまで愛紗が追い詰めた結果に過ぎない。  だが、いくつかの仕合は、事前には予想も出来ない展開となった。  たとえば、それは、焔耶と祭の仕合のこと。  開始直後は焔耶と打撃の応酬をしていた祭が勢いよく地を蹴って身を離し、すっとその場に腰を下ろしたのが、その始まりであった。 「なんのつもりだ? 負けの宣言か?」  焔耶は、警戒するように足を止め、祭を睨みつける。普段つけている籠手はないまでも、その腕から放たれる拳の強さには自信のある焔耶であった。  だが、それ故に動かぬ敵を殴りつけるのは少々趣味から外れる。一方、祭は仮面に覆われた顔を歪めて、挑発するように声を高くした。 「莫迦を言うな。ほれ、好きにかかってくるがいい」 「後悔するなよ!」  荒々しく吼えながら、焔耶は躊躇していた。酒でも飲むかのようにあぐらをかいている相手を立ったまま殴るのは難しい。体ごとぶつかっていって馬乗りになるという手もあるが、老獪な相手にそれが通じるかどうか。  結局、焔耶は蹴りを選択した。それも、体勢を崩さぬよう、地をこするような低い蹴りを。 「そうくると思っていたわ。いや、そう来るしかあるまい」  焔耶が考えたとおり、極端に低い位置にいる相手に拳を打ち下ろすのは難しい。下手をすると姿勢を崩すし、自分が倒されることもあり得る。であるならば、繰り出すのは蹴りだ。そして、体術の心得があれば、脚を高く上げる蹴りもまた危ないことをよくわかっている。故に、最初の一撃は、低い軌道が来ると予測できた。  祭はその蹴りを避けない。座り込んでいる状態で避けられるはずもないが、彼女は進んで抱き留めるように、それを受けた。  そして、そのまま、本当に抱き留めた。 「ぬっ」  右脚を掴まれた。そう理解した瞬間に、焔耶は拳を打ち下ろしていた。密着し、祭自身に支えられている状態なら、拳を放つのにそれほどの支障はない。だが、打撃が届く前に、体が押しやられ、腰がひけた状態にされてしまう。焔耶の拳は祭の肩口にあたったが、ただ腕を伸ばして当てただけの衝撃に抑えられてしまっていた。  その状態でも、祭の手は焔耶の脚から離れていない。刀でも捧げ持つように腿と足首をしっかりと持たれている。  このままでは、まずい。焔耶の本能が警告する。  いまの動き、そして、脚に感じる感覚。生半可なことでは相手は脚を離すまい。その間、焔耶の体の動きは操られ、いいように投げられる可能性もある。 「があっ!」  右脚を引き戻せぬと悟った焔耶は、左の脚に全ての力を込めた。掴まれた脚を犠牲にする覚悟で地を蹴り、倒れ込むようにして足先を祭の側頭部へ。 「おお、いい根性じゃ!」  その時、どんなことが起こったのか、焔耶自身にもよくわからなかった。ただ、ひょいと頭をすくめる祭の頭上を左脚が通過し、焔耶の体は床に大きく投げ出されてうつぶせになっていた。その上に祭がのしかかるようにする。 「ぐうっ!!」  足首が悲鳴をあげていた。腕と体に隠されて、どんな風にひねられているのか、どんな場所を抑えられているのか、それはわからない。ただ、熱のような痛みが足首から走り、体中へ拡散した。  足の指の一本一本をゆっくりとひきちぎられているのかと錯覚するような痛みの奔流の中、それでも焔耶は体を動かそうとして、己の体のどこも相手の身には届かぬことを知った。  彼女の手が大きく床を二度叩き、祭の勝利が確定する。 「見たことのない技ね……。立ち技から入るのではなく、座っている状態とは……」 「軍議の、あるいは酒宴の時襲われ、立ち上がる間もなく殺されるような状況。それを想定した技だよ、あれは」  華琳の疑問に冥琳が答える。得意げなその様子からすると、あるいは冥琳当人もこの技を会得しているのかもしれなかった。 「面白い技ね。さて、出所はどこかしら?」 「見ていればわかるさ、見ていれば、な」  謎めいた笑みを浮かべる冥琳に、華琳はふふんと鼻を鳴らす。他の皆が、あまりの技の鮮やかさとその応酬のすさまじさに呆気にとられている中、実に楽しげな二人であった。  4.術技  冥琳の言葉は、雪蓮と華雄の仕合において明らかとなる。 「お前もか」  呆れたように呟く華雄の言葉が示すように、雪蓮もまた仕合場のど真ん中で座り込んだのだ。少々違ったのは、雪蓮は最初からそれを示したということだろうか。 「そもそも、この技は、我が家に伝わるものだもの」  雪蓮の言葉に仕合場の脇に控える赤い仮面の女がにやりと笑う。華雄は警戒するように、白と赤の仮面に交互に視線を走らせた。 「祭は、その一部を母様から習ったに過ぎない。真の秘伝は私に伝わっているのよ」 「ほう……文台の、な」 「母様ってだけでもないんだけどねー」  悠然と座りながら、雪蓮は流れるように言葉を紡ぐ。 「そもそも、孫家に偉大なる孫子二人あり。一人は孫武、一人は孫ピン。孫ピンが奸計にはまり、脚を切られたことを転じて編み出したのが、この術技。さっき冥琳が説明した通り、酒宴の席で襲われようと、軍議の時に暗殺されかけても、生き延びるための術。でもね、それが本当に必要となるのは誰かしら?」  足斬りの刑に処される人間がそう多いわけでもないし、そもそも、そんな人間のために編み出したものでも無いだろう。雪蓮が示すのは、もっと別のことであった。 「そう、これは、君主のための術。国の頂点たる人間が、玉座に座ったまま、あらゆる敵を退けるためのもの。……すなわち、王の技。破れるかしら? たかが、一将に」  まさに王の威厳をもって、彼女は言う。伸ばされた背筋は天へ向かい、膝に置かれた手は、なにもかも受け入れるかのように開かれている。ただ、座っているだけだというのに、神々しささえ感じさせる美しい姿勢であった。 「ふん。安い挑発だ」  華雄は雪蓮から十歩も離れた場所で、ゆっくりと動き出していた。雪蓮の言葉の間、彼女を中心に円を描くように歩き、半円を描いたところで、歩調を変える。 「だが乗ってやろう」  凄まじい速度で助走をつけたところで両脚のばねを存分に使って宙に舞う。人の頭ほどの高さまで跳ね上がって、足先から落下した。まるで体を一本の矢としたように、その攻撃は雪蓮の体――頭部へ向かう。  雪蓮の腕が上がる。掌がまるで花開くように流れ、落ちかかる華雄の脚に当たる。ささやかな動きながら、それで方向を外された華雄は、雪蓮の脇に落ちると、ごろごろ転がって、彼女の攻撃範囲から逃れた。 「ふん。やはりこの軌道では、弾くしかないか」 「もう一度試してみる?」  間合いの外で立ち上がり、ぱんぱんと服をはたく華雄に、雪蓮は勝ち気に笑いかける。その表情からして、まだまだ表に出していない技が隠れているのだろう。 「いや、やめておこう」  つかつかと彼女は雪蓮に近づき、そのまま、同じように座り込んだ。膝がつきあうほどの距離で。 「あら、どういうつもりかしら」 「たいしたことではない」  瞬間、二人の間の空間が弾けた。ばちばちと言う音だけが周囲に広がり、そこに見えるのは数多くの色彩の乱舞。二人の肩から先はその色彩に融けたように消えてしまった。  おそらくは、相手を掴もうとしたり、殴ろうとしたりする、そんなお互いの攻撃を弾きあっているのだとそれくらいの予測は誰もがたてられたものの、実際にそこでなにが起きているか認められる者は数少なかった。  ただ音と衝撃が行き交うのを、なんとなしに感じるしかない。 「ねえ、あなた、あれ、見える?」 「見える訳がないだろう」 「そうよねえ」  華琳と冥琳でさえ、そんな会話を交わす始末で、二人の攻防を理解しているのは、当人たちと、それこそ恋や愛紗などだけだったろう。 「えー、あまりに達人の領域で、我々一般人にはさーっぱり仕合の成り行きが見えないわけですが、どちらが優勢かとか、わかるものなんでしょうかー?」 「わからん」 「わかるわけないでしょ」 「一刀ぉ!」 「俺に言われても」  司会進行の地和たちも困るほど、その攻防は凄まじく、そして、迫力を感じさせるものであった。そう、たとえ見えないまでも、そこで起きていることがとんでもないことだと、そう思わせるものがあった。  だが、ついに終わりは訪れる。  唐突に二人の動きが止まり、その腕が、再び視認される。その時、雪蓮の左腕は、華雄の右手に捕らえられていた。 「審判」  一声呼ばわり、華雄は手を放す。彼女の手から自由になった雪蓮の左腕は、なにやら曲がってはいけないほうへ曲がっているようだった。 「私の負けだ」  明らかな骨折が認められ、仕合は雪蓮の勝ちとなった。  華佗が手当をしている最中、横に立つ華雄を見上げて雪蓮はぶーたれる。 「なーんか、勝負には負けた気分なんだけどー?」 「いや、私の負けだ。本当の勝負でも、お前はあそこでそのまま私の腕を取っていたろう。一度取られれば、投げられるのは避けられない。となれば、その技の独擅場。結局は、私の負けさ」 「……ま、そういうことにしておきますか」  淡々と述べる華雄の言葉になにを読み取ったか、わずかに満足げな表情に変わった雪蓮が頷き、二人の仕合は本当の意味で終わった。  5.計算  意外中の意外であったことといえば、鈴々と季衣の仕合が、全部の闘いの中でも、最も頭を使った仕合になったことであったろう。  当初、二人の仕合は、単なるとっくみあいになるかと思われた。がっぷり四つに組んでの力比べも、お互いに相手を投げようとする足払いの凄絶な応酬も、その体の小ささと快活な大声から、ある意味でほほえましいものに見えたものだ。  流れが変わったのは、季衣が鈴々を投げるのに成功したことからだった。  あるいは、それは普段使っている武器の差だったのかもしれない。大きな鉄球を振り回し、鎖が付いているとはいえ投げつけることも多い季衣が、その経験から鈴々の体を振り回す力の入れ方を見つけ出したというのはありえることだ。  なんにせよ、鈴々は季衣のとんでもない力で放り投げられた。その軽さも相まって、彼女の体は場外に達し、何度か転がった後で、立ち上がり、場内に戻るべく猛然と走り出す。 「こんのーっ」  憤怒の表情で駆け戻ってくる鈴々であったが、審判たちにより場外の時間が数えられ、四つを刻む。 「んーと、いまので四つか。じゃあ、もう三回くらい出せたら勝ちかなあ」 「そんなことさせないのだー!」  どたどたと戻ってきた鈴々は、待ち構えていた季衣によりがっちり受け止められる。二人は再び組み合って、その小さな体から出る強大な力を相手に注ぎ込み続けた。 「んぎぎぎ……」 「むぐぐぐ……」  二人はうなり声のようなものをあげながら、相手の体勢を崩す力の入れどころを探り、相手を蹴りつける隙を探り、頭突きをかます機会を探る。しかし、その中でも、季衣は考えていた。  せっかく、一度場外に出したのだ。これを利用しない手はない。しかし、どうやればいいだろう。最初と同じ手は間違いなく警戒されるし、繰り返せるとも思えない。そもそも、投げるのを繰り返せるなら、それで相手を床にたたきつける方が早そうだ。  体格も、膂力も、技術も、ほとんど拮抗している。力自体は自分が上だが、技術――というよりも、技を繰り出す勘――は悔しいが相手が上だ。それで均衡が保たれてしまっている。  だから、きちんと闘い方を考えないと、単に運任せになってしまう。  季衣は途切れ途切れの思考で、ようやくそこまで考えを進めた。その間も、鈴々の服を破れんばかりに掴んで相手の体を引っ張ったり押しやったりしているが、相手も同じだけのことをしてきていて、ゆっくり考える暇がない。  それでも、考えなきゃ駄目だ。季衣はそう思う。  力は、急に伸びない。技をその場で覚えられるほど、直観が優れているわけでもない。  でも、考え付いたことは、力になる。考え通りに体を動かす稽古は、それこそ、毎日積み重ねてきているのだから。  彼女は、春蘭や一刀、華琳に聞いたことを思い出そうとする。いざという時に、自分が頼るべきものとはなんだったか。 『自分の基を見つめる事』  それを言ってくれたのは、一刀だったか華琳だったか。二人、どちらかに聞いた言葉だ。彼女は、どちらだったかと思い出す労力を、考えを進めることに費やした。  ボクはなんだろう? ボクのしたいこと、ボクがするべきことはなんだろう。  華琳様を守ること。華琳様を守って、兄ちゃんを守って、春蘭さまと並んで戦うこと。それで、たくさんの人たちを守ること。  それが、ボクの望み。ボクの大元。  だったら……。  季衣は倒れ込むように体重をかけた。相手を倒そうとするのは実に難しいが、自分から床に倒れ込むのはそう難しくない。相手もそれに乗じて馬乗りになろうとしてくるから。  しかし、さすがに体に完全に乗るのを許すほど、季衣も間抜けではない。倒れ込んだ後は、相手が有利な体勢を取ろうとするのを妨害し、相手も同じように力をかけてくるため、二人はごろごろと転がった。  季衣は鈴々の体を引っ張る力を強めて、その回転を速めた。勢いのついた二つの体は、ついに場内にとどまらず、審判の白蓮の足元を抜けて、土盛りを転げ落ちた。  さらに何回転かして勢いが止まると、鈴々の体から力が抜け、相手から離れるような仕草をした。だが、その目論見は見事に外れる。 「は、春巻き?」 「なんだよっ」  鈴々が力を抜いた隙にさらに強固に相手の両手両足を抱えていた季衣が、にんまりと笑って答える。その様子に、鈴々の背筋に冷たいものが走った。 「場外なのだ。はやく戻るのだ!」 「ふーん。そっかー」  にやにやと笑いながら、季衣は鈴々を押さえつけるのにさらなる力を加える。膂力のみに限れば、季衣の方が上。それを思う存分注ぎ込む時が来たのだ。  その間も、場外での時間を数え上げる声は続いている。しかし、三を数えた後で、それは変化した。 「四」  という白蓮の数え上げの声に、 「八」  という華佗の声が重なったのだ。 「は、放すのだ!」 「やーだよーっだ!」  それは、審判たちが、季衣の考えを理解したことに他ならない。鈴々が十に達したとき、季衣には四の余裕がある。 「九」  華佗がそう数えた途端、季衣は鈴々の体から手を放した。飛び上がる小さな体二つ。いずれもが場内めがけてまっしぐらに向かっていた。 「十」  その声がかかって、片方の動きが止まる。呆然と立ちすくむ鈴々の横を走り抜けて、季衣は場内に戻った。 「八。季衣の勝ちだな」  季衣が戻り、そう白蓮が宣言したことで、彼女の勝利は確定したのだった。  6.決着  祭と雪蓮による術はすばらしいもので、それを見た者に感嘆の念を抱かせたが、しかし、一回戦全仕合中、最も驚きを呼んだのは、最終仕合、蒲公英と恋の闘いであったろう。  蒲公英は錦馬超と名高い翠の従妹であり、馬一族期待の星であると同時に、武将の中でも将来性を期待される人物ではあるが、なにしろ相手は飛将軍呂奉先である。  馬上での戦闘はともかく、無手の仕合で恋を圧倒するようなことは期待されていなかった。  ただ二人、錦馬超と蒲公英当人を除けば。 「へっへーん。馬一族をなめるなよ、恋!」  その翠は、いままさに鼻高々であった。西涼を支配する予定の身ということで大会への参加を断られていた彼女は、蒲公英の活躍を我がことのように喜んでいたのだった。  そう、活躍。  いままさに、蒲公英は大活躍中であった。  なにしろ、あの恋に馬乗りとなっているのだから。 「……動けない」  蒲公英の下で、恋はぼそりと漏らす。腹の上に乗った蒲公英は、彼女の腰をものすごい力で挟み込んでいる。右腕もそれに巻きこまれて蒲公英の腿に締め付けられているし、左腕は彼女の腕……特に体重をかけられた肘で押さえつけられている。  恋は、蒲公英によって、動きを封じられていた。 「これは意外! なんと、あの呂布が、あ! の! 呂! 奉先が! 押さえ込まれております! がっちりと腕と脚を押さえられ、立ち上がることも出来ません!」  かなり興奮気味な地和の声が会場に響き渡る。それは、観客たちの大部分の心情を代弁しているものと言ってよかった。 「ほらほら蒲公英! 絶対離すなよ!」 「ってお姉様気楽に言ってくれちゃって。これ、きっついんだから。だいたい、普通は脚だけでなんとかなるから殴れるんだけど、ちょっと無理そうだし」 「……でも、全然動けない」 「まあねー。これを解くのは無理だと思うよー」  特に、蒲公英の左腕を、恋の膝の動きの制御に使っている状況では、彼女がこの体勢をひっくり返すのは並大抵のことではない。  実際、いままでも何度か海老ぞりになり、蒲公英を落とそうとしているのだが、うまくいかない。暴れ馬を落ち着かせるようにがっちりと腰に脚を食い込まされては、振り落とすこともできないのだった。 「こ、これは、どういう事なんでしょうか、華琳様。私と変わらないような体つきなのに!」 「あなた、実況では名前で呼ぶんじゃなかったの? 興奮して、真名出してるわよ。それはともかく、あれは、要するに馬一族だからこそ、でしょ」 「そうだな。西涼の民の技であろう。騎射を可能とする腿の締め付け、五胡の組み討ち術、この二つが組み合わさったものと見た」  目の前で起きていることが信じられないような風情の地和に対して、華琳と冥琳は冷静に自分の推測を口にする。  五胡の組み討ち術を蒲公英が詳しく身につけている必要はない。それに対抗する程度に知識があれば、自分たちの技にそれを組み込むことは可能だからだ。 「あー、俺の世界ではマウントポジションって言ってたな、ああいうの。そうか、どんな馬でも乗れる挟み込みがあれば、もっと凶悪になるのか……」  一人、一刀は現代日本の格闘知識で状況を判断している。聞き慣れぬ言葉を面白がりながら、華琳は彼に声をかけた。 「ただ、問題はね、一刀」 「ん?」 「これで膠着してしまうことよ」 「どういうことでしょう?」  横合いから訊ねてくる地和に肩をすくめる華琳。 「恋を押さえておくのは出来るでしょう。でも、それ以上はどうするの? 腕も脚も押さえるのに使ってしまっている以上、攻撃するのは難しいわよ。何度も頭突きするってのもちょっとどうかと思うわ」 「頭突きくらい激しく体を動かせば、その勢いで拘束が解けることもありそうだな。難しいところだ」  だが、その憂慮を、闇色の仮面の女性はからからと笑い飛ばした。 「いや、問題はないだろう」  周囲の視線が集まるのに、冥琳は美しい黒髪をかきあげてみせる。 「簡単だよ。呂奉先は、長丁場には不利だ」 「ああ……」  彼女の言葉に、深く深く納得する一同。実際に、彼らが考えることが、仕合場では起きていた。 「……おなかすいてきた」  なんとか蒲公英の下から抜け出ようともがきつつ、恋が呟く。彼女の動きを全ていなしつつ、蒲公英も平静の調子で返していた。 「んー、やめる?」 「……悩む」  彼女の視線は、仕合場の側で声援を送る小さな姿に向かう。 「恋殿ー! 恋殿ー!」  かわいらしい声をあげ、音々音はひたすらに恋を応援していた。 「……ん。もう一度がんばる」  猛烈な勢いで、恋は暴れ回る。悍馬というよりは暴れ牛に乗っている気分で、蒲公英はその動きを御する。こつは、相手に逆らいすぎないことと、自由にさせすぎないこと。その按配がじつに微妙なのであった。  しかし、恋の体力も、いつまでも続くはずがない。ついに恋のお腹で、ぐーぐーと腹の虫が鳴き出す始末。 「恋?」 「……参った」  そうして、一回戦は驚愕の結末を迎えることとなるのであった。 「なんと、なんとー! あの呂奉先、一回戦敗退! 華雄に続き、武器を持たせれば最強の二人が、一回戦で消えてしまいましたーっ!」  最後の仕合の興奮冷めやらぬまま、地和が大会の締めの言葉を発している時に、それは起きた。 「いやー、こういうことがあるから勝負は面白い! そんなわけで、徒手格闘大会、一日目、終了です。本日勝ち上がったのは八名、楽文謙、関雲長、呂子め……きゃあっ!」  その時、既に日は落ちかけ、夕暮れの赤い空に、薄い雲がたなびいていた。  だが、その空を、白い光が染めた。  それは、まるで時間が巻き戻り、昼になったかのようで、人々はなんの異変かと声をあげ、中にはわーわーと逃げ惑い始める者もいる。  まだ落ち着いている側の人々が見上げれば、北辰にほど近く、第二の太陽と見まごうばかりの星が、爛然と光を放っていた。  先程までは、確かに見えなかったはずの星が。 「超新星!」  一刀はそう一言叫ぶと、ただの天体現象だ、大丈夫だ! 騒ぐことじゃない! と周囲に怒鳴りながら、混乱を収拾しようと駆け出す。その様子に、幾人もの武将たちが加勢しようと後を追った。  しかし、周囲の騒ぎは続き、人々は右往左往する。国家重鎮が集まる場ですらこうだ。市井は果たしてどんな次第であろうか。  華琳は春蘭と秋蘭を呼び、一刀と共に都の混乱を収めるべく彼女たちを派遣した。 「新たなる星、天に至る、か」  呉、蜀の面々や魏の部下たちが次々と状況を把握するためにその場を去る中、華琳は桂花と共に残り、天を仰ぎ続ける。  北天に輝くその星は、いまだ煌々と輝き、夜の訪れを阻んでいるようであった。 「妖星かもしれません」  猫耳を揺らしながら気遣わしげに言う軍師の言葉に微笑みつつ、彼女はこう言った。 「あれは本当に天の御遣いなのかもしれないわね」  と。      (玄朝秘史 第三部第五十八回 終/第五十九回に続く)