玄朝秘史  第三部 第五十七回  1.鍛錬  びしり。  朝靄晴れぬ空気を、そんな音が断ち割る。音と共に振り下ろされるのは巨大な斧。大地に叩きつけられる直前で、それはぴたりと止められた。まるで重さなど感じさせぬほどの流麗な動き。  しかし、振り下ろした当人はなにか不満でもあるのか、納得できない様子で持ち上げ、軽く動きを確認するように腕を動かしていた。 「相変わらず熱心だね」  不意に声をかけられて、驚く様子もなくその方向を向くのは、既に最前からその気配に気づいていたからだろうか。 「随分早起きだな」  華雄が斧を下ろし、声を返す相手は北郷一刀。彼女の主たる男は曙光の中、晴れやかに笑って見せた。 「ああ。どうにも寝心地のいい寝台でね。随分ぐっすり眠って、すっきり目覚めたよ」 「ふむ。なにか食べたか?」 「果物は口にした」  華雄はにっと笑う男の顔を見返し、朝の光が満ちつつある庭を見回して、同じように笑った。 「よし、では、本格的な朝食前に、一つ稽古をつけてやろう」 「ありがたい」 「そうだろうとも」  そういうことになった。 「んぅ?」  その華雄が不思議そうな声をあげたのは、硬木の棒を持ち出した一刀が必死で彼女の攻撃を避け続けている最中のことであった。 「どう……したっ?」  脇腹をえぐるように突き入れられた金剛爆斧の柄を弾き、その軌道を変えた一刀が、なんとかして訊ね返す。体幹が定まっているからか、軽い腕の動きだけでその反動を吸収し、華雄は後ろに飛んでいた。そのまま、しばし動きを止め、首を傾げる。  動きを止めた彼女に、当然のように一刀は一撃を打ち込もうと隙を窺うのだが、まるでそれがない。否、打ち込む隙が見つかっても、そこにつけこんだ次の瞬間には倒れている自分が幻視されて、動くことが出来ない。 「いや、昨晩励んだ腰つきではないな、と思ってな」  冷や汗をかくほどの緊張の中、言われた言葉の意味を理解して、別の汗が一気に噴き出す。 「そんなことまでわかるの!?」 「当たり前だ。あれはあれでなかなか体力の要ることだろう」 「まあ、そりゃ……っと、そうだけど」  するすると滑るように近づいた華雄の三連撃をかんっ、かんっ、ごすっ、と音を立てて受ける一刀。音でわかるように、最後のそれは、硬木の表面をへこませるほどの衝撃で、彼は思わず得物を取り落としそうになった。 「昨晩は……ふむ、いまのは悪くない。昨晩は、劉備と過ごしていたと思ったのだがな」  慌てた一刀は、大ぶりながら、強烈な払いを華雄の脛に向けて繰り出していた。それを飛び上がることもなく歩法だけで避けながら、彼女は会話を続けていく。 「……っ。なんで知ってるのさ」 「ふふん」  勝ち誇ったように鼻で笑い、軽い調子で彼女は斧を前に突き出す。そこまで速そうにも見えないのに、なぜか避けようとすれば間に合わない、そんな一撃だ。それをよく知っている一刀は避けることを放棄して、棒と腕を重ね合わせてなんとか受け止めようとする。  骨まで響く衝撃を、彼はなんとか堪えた。 「……添い寝はしたけど、そういうことはしてないよ」 「そのようだ」  だから、それはどこでわかるのだ、という疑問は口にしている余裕はなかった。 「行くぞ」  宣言を伴う一撃は、これまでとは比較にならないほどその威力が大きいことを意味している。  一刀はなんとか己の得物を左脇に構え、そして。  見事に吹っ飛ばされた。 「華雄、いまは、特別な時代だと思わないか」  ごろごろと転がっていった先で、一刀は大の字に寝そべって、空を見上げていた。冬の朝、彼らの上に広がる天はどこまでも高く澄んでいた。 「特別?」 「うん。民は決起して、時代を変える力を持っている。国を建て、民を従える英雄たちが、何人もいる。それぞれの考えは違えども、どれも一時代を担える人材だ。これだけの人々が集まっているいまは、きっと……」  いや、と彼は苦笑いを浮かべた。 「まあ、あんまり特別視するのもいけないのかもしれないけど、でも、やっぱり勢いってのがあるからなぁ……」 「そうかもしれん」  声が近づいてくる。それに勇気づけられるように、彼は勢い込んで言葉を発し続けた。 「だからこそ、いまなんだ。いまやらなきゃ……。うわっ」  突然、頬をかすめて彼の顔の真横に突き立った金剛爆斧の石突きから逃れようと、彼はその場で身をよじった。 「その『いま』とやらは、稽古の時間だというのを忘れていないか? それだけ口が回るなら、休みはもう十分だろう」 「……そうだな」  一刀は身を起こし、棒を構え、半身になって彼女に対した。 「よし、もう一本頼む!」  そうして始まった二度目の攻防は、主に一刀の側が攻勢に出ていた。彼女が腕を振るう間を与えぬよう、円を描きながら連続的に攻撃を繰り出す。 「英雄とやらと語り合って影響されるのも、女を得て覚悟を強くするのも、お前の進むべき道なのだろう。そのことをとやかく言わん。いや、かえって好もしい事のほうが多いかもしれないな。だが、一人でなにもかも抱え込んで、誰に向けてかはわからん空言を並べ立てるのは、気にくわん」  吐き捨てるように言いながら、彼女は彼の激しい連撃を全て受け止めていた。 「私は……いや、違う。私たちはお前の剣、お前の馬だ。以前、それは伝えたな?」  男の側に、言葉を発する余裕はない。切れ切れの息づかいの中一つ頷いて、意を伝えようとする。 「いまがその時だというなら、特別だなんだと言いつのる必要はない。ただ、我らに命じればいい。誰を殺すも、どこへ走るも、お前の意のままだ」  言ってから、華雄はひねるような手首の動きで金剛爆斧を半回転させる。それだけで、一刀の得物は絡め取られそうになった。その動きに逆らわず、彼はあえてさらに動きを早めて、彼女が武器を奪い取ろうとする動きから逃れた。 「お前はすぐにそれを忘れる」  くっくと喉にかかる笑いをあげながら、華雄はそう告げる。一刀の後ろ足が地を蹴る機を捉えて、ぐいと彼女の体が前に出る。おかげで彼の振り回す棒は痛手を与えるにはあまりに浅いところで女の腿を打ち、その間に、大斧の刃は彼の首元に向けられた。 「まあ、すぐに思い出させてやる。お前の剣の切れ味も、な」  にいと笑いながら、金剛爆斧が一刀の体から離れる。それは、稽古がそうそう簡単には終わらない事を意味していた。 「ちなみに、お前は女を抱いた後の方が強いぞ」  自分の弱点と、武というものの底知れ無さをたっぷりと思い知らされて再び大地に転がった一刀。それに向けてそんな風に言い捨てて、華雄はからからと笑って歩み去る。  彼女の言葉が果たして冗談なのかそうでないのか、一刀にはどうにも判断がつかなかった。  2.歓迎 「……いい? さっさと案を出しなさいよ。無理なら無理で華琳様に申し上げなきゃならないんだから!」  城の廊下に、罵声がとどろき渡る。聞く者によっては体を震わせずにいられない怒声だが、それを投げかけられた当人はいつものことと、ひらひら手を振って歩き出した。その背にもいくつか悪罵の声が掛かるが、彼は気にした様子もない。かえって、その顔には面白がるような表情が刻まれているくらい。  だが、その表情も、少し先にいる二人の人影を見て変わる。彼も少し進むまでは壁や柱が邪魔になって見えていなかったのだが、その先の中庭には、鈴々と紫苑の姿があったのだ。  そして、その両者共に、心配げに彼の方を見ていた。 「やあ、二人とも」  妙に気を遣った様子で彼の方を窺っている二人に、明るく挨拶する。その様子にほっとしたのか、鈴々が着いていた卓を離れ、軽い歩調で彼に寄ってきた。 「おにーちゃん、なに怒られてたのだ?」 「いや、まあ、怒られてたってわけでもないんだけどね」  あれが桂花の平常運転なのだと、どう説明すればいいだろうと考え、結局一刀は説明を放棄した。 「仲が悪いってわけじゃないから、心配しないで」  近づいてきた鈴々の肩を叩き、そう笑って見せる一刀。彼は鈴々と一緒に、紫苑が座る卓へと向かった。二人はお茶をしていたようで、お菓子が山盛りに置かれていた。 「璃々ちゃんは?」 「ここに」  紫苑が少し背を逸らすと、彼女の膝で丸くなって眠っている璃々の姿が一刀にも見えた。口元のお菓子の食べかすからして、一緒にお茶をしていたものの、そのまま眠ってしまったのだろう。紫苑はすーすーとかわいらしい寝息をたてる娘の頭を愛おしげになでる。 「それで、なにか議論でも?」  鈴々が卓に戻りお菓子を食べるのを再開したところで、紫苑が横に立つ一刀に訊ねかける。彼は璃々がいるために動けない紫苑の代わりに、二人のお茶のおかわりと、もう一杯茶を淹れているところであった。 「議論ってほどのことじゃない。ただ、せっつかれてたのさ」  自分用の茶を確保して、彼は同じ卓に着いて話を始めた。 「そろそろ、みんな、この都に集まってくるだろ?」  一刀たちが都に戻ったその日には霞と白蓮が都に入り、翌日には兵は河向こうに残しながら、凪と沙和が帰還した。その三日後には、祭と蒲公英が長安から洛陽へとやってきて、これで北伐及び白眉討伐の軍の全ては帰還した。  さらには国内での後継者のお披露目を済ませた蓮華たちが北上を開始したとの報もあり、いずれは蜀勢も漢中から洛陽へと至る予定である。年末には大陸の重鎮が全て都に揃うだろう。 「そうですわね。名目としては……呉の後継者――蓮華さんの赤ちゃんの誕生を寿ぎに。ただ、我が国の場合、桃香様を確実に本国に戻したいって考えている人たちのほうが多いでしょうけれど」 「それはそうかもね」  三国の王の一角が子を得たことは重要であるが、蜀の人間にとっては、桃香が洛陽に居続ける状況が解消されるというその事実の方が重い。打ち揃って出張ってくるのも当然と言えた。 「で、それがどうしたのだー?」 「まー、なんていうか、蓮華の子って、つまりは俺の子なわけだよ。だから、皆を歓迎する催しの一つでも考えておけって華琳に言われたわけ」  照れくさそうに鼻の頭をかきながら、一刀は事情を説明する。彼自身まだ対面したことのない子であるのだが、それを祝うために集まる人々を歓迎するのが父親の役割と言われれば納得するしかない。 「数え役萬☆姉妹の舞台はじめ、いつも通りの出し物は既に決まってるんだけど、それだけじゃ新味がないって華琳の言い分もわかるしなあ。といって、そうそう新しいことなんて思いつかなくて、提案の期日を延ばしてもらってるのが現状」  なにをするにせよ、そろそろ決めないと準備の日程が取れなくなる。そのための桂花の催促であった。 「一刀さんや華琳さんのお気持ちもよくわかりますけれど……美味しいものとお酒さえあれば、文句を言う人はいないと思いますわよ?」 「うん、まあ……」  二人の目は、幸せそうにお菓子を頬張っている鈴々の姿にひきつけられる。その姿は紫苑の意見を裏付けるに十分なものと言えた。  実際、そのあたりは華琳だけに手抜かりはない。以前のような食材が足りないということもなく、流琉や月、果ては華琳自身の手によって、宴席での食事の準備計画は着々と進められている。酒蔵も過分な程余裕があった。 「にゃ?」  視線が集まったのを意見を求められていると思ったのか、口に含んでいたものをごくんと呑み込み、赤毛の少女は小首を傾げる。 「武術大会を開くのはどうなのだ?」  彼女の口から飛び出た意見に、一刀は腕を組み、眉を顰める。 「武術大会かー。たしかに大陸中から強豪勢揃いではあるけど……。ちょっと盛り上がりに欠けるかもって考えて提案してないんだよなあ」 「なぜですの? って、ああ、あの二人がいるからですわね」  不思議そうに聞き返した紫苑の顔が、途中で気づいたのか、苦笑いのような表情へと変わる。 「うん、そう。恋か華雄どちらか一人なら、大番狂わせも期待できるけど、なにしろ鬼のように強いのが二人だろ?」 「うー、恋ぐらいのを二人勝ち抜いて優勝はなかなか厳しいのだ」  さすがの鈴々も、それを想像したのか肘を突いて頭を抱えている。虎の頭飾りさえ、しゅんとした表情をしているように見えた。 「前にやった時は、華雄と恋の打ち合いが延々続いちゃったし、また同じ展開だと、さすがに厭きられると思うんだよ。組み合わせ次第では、そうならないように出来るかもしれないけど、あんまり作為的にいじるのもね。さすがにあの二人を抜いて大会はまずいだろうし……」 「ですわねえ……。参加者は武を競うため、観るほうは楽しむため。それを両立させるとなると……。実力者が多ければよいのでしょうけど……」  困ったように紫苑は言うものの、実力者は多い。世に豪傑とうたわれる武将たちがずらりと揃っているのだから。ただ、恋や華雄が飛び抜けすぎているだけで。 「ちょっと変わったやり方にするとかはどうなのだ? 馬競べとか……って、それだと翠と白蓮たちだけの楽しみになっちゃうのだ」 「では、力比べなどは? 打ち合うのではなく、純粋な膂力なら、それなりに自慢の方も多いですし」  自分で言って自分の案の欠点に気づき、うがーと頭をかく鈴々に助け船を出すように、紫苑が言葉を重ねる。一刀が考えるべきことだというのに、いつの間にか本気で考えてくれている二人に感謝しつつ、彼は思考を巡らした。 「ふむ……力比べか……いや、ちょっと待てよ……?」  そこで、一刀は昨晩のことを思い出していた。  3.格闘  二つの体が、寝台の上で重なり合う。さっきまでお互いに貪り合っていた二人は、その熱を冷ましたくないかのように、ぴったりと汗まみれの膚をくっつけあっていた。  明るい栗色の髪はむつみ合っている間に解かれて、男の上に寝そべる彼女の背に広がっている。下になっていた一刀は、彼女の腕が何かを探るように動いているのに気づいて、寝台脇の机から眼鏡を取って手渡してやった。 「ありがとうなの、隊長」  首を振り振り眼鏡をかけた顔は、そばかすがわずかに目立つ沙和のもの。彼女はにへらと笑って甘えるようにさらに彼に体重をかけた。弾力のある沙和の胸が自分の胸の上でひしゃげる感覚が、一刀にはわかった。 「それでね、それでね、凪ちゃんったら、ちょっとこだわりすぎだと思うの。隊長はどう思う?」  不意に、沙和が話をし始める。それが、閨に入る前にしていた話の続きだと一刀が悟るまで、少しだけ時間がかかった。 「だから、隊長ってのはな、沙和……。ああ、いや、それはともかく、そうだなあ。実際、役には立つのか、それ」 「んー、体作りには役立つと思うの。だから、初期の訓練に取り入れるのは反対してないんだよ、沙和も。ただ、凪ちゃんほど本格的に取り組むのは、どうかなって思うだけで」 「格闘術かあ……」  凪と沙和は、今回の白眉の乱においては共に華北に派遣され、最終的に合流して帰還した。その帰途、二人は今後の新兵の訓練方針について議論を戦わせてきたのだという。既にそのことだけであの沙和が真面目に仕事について考えているとは、と感心しきりな一刀である。たとえ煩雑な撤兵作業の中で、凪と語り合う話題を確保しておきたかったという動機からであったとしてもだ。もちろん、それとて照れ隠しなのかもしれないが。  二人が話していたのは、無手の格闘術を訓練過程にどう取り入れるかということであった。沙和自身が言っている通り、大方針として反対はない。おそらく、華琳に上申しても通るだろう。ただ、それにどれだけの時間を割き、どれだけの成果を見積もるかという点で、二人は食い違っているようであった。 「格闘術そのものをどうこう言う気はないの。ただ、曹魏の戦で、武器を取り落としてしまうほどの乱戦になったら、それはもう負けでしょ? 違う?」 「んー……。まあ……」  沙和のまん丸なお尻をなであげ、ひゃんと声をあげさせてから、一刀は一つ頷いた。  凪のような達人はともかくとして、一般には武器を持つ方が有利なのは間違いない。槍を持っていれば近づく相手を阻むこともたやすいし、それが奪われたり折られたりしても、帯剣していればそれを抜くだろう。多くの者が小刀一つ手に出来ない状況となったのなら、それはもう既に全体としては負けている。  それよりも、武器を落とさない、奪われない、あるいは失ったとしても切り抜けられるだけの機知と動きを訓練すべきである、というのが彼女の弁であった。格闘術は最終的な備えとしてあってもいいが、とことんまで極めるほどではない、ということだろう。  喋っているうちに興奮したのか、ずりずりと一刀の上を這って顔を近づける沙和。だいたい凪ちゃんは、と余計な台詞が飛び出しそうになったところで、一刀が不意打ちに首を傾けた。  接近していた顔がさらに近づき、一刀の唇が沙和のそれに重なる。びっくりしたように目を見開きつつ、彼女もそれを拒んだりはしない。男の手が彼女の頭を抱え、さらに密着するように力をかけた。 「それで、凪の主張はどうなんだ?」  音をたてて沙和の口内を蹂躙した後で、一刀はけろりとした顔で話題を再開する。とろんととろけかけた表情のまま、沙和は言葉を紡いだ。 「……ん、ふぁ……。な、凪ちゃんは硬氣功の基本までたたき込めれば、怪我をしにくくなるから損耗率が減るって言うの。でもね、隊長、そこまで鍛えるの、どれぐらいかかると思う?」 「……どれくらい?」 「最低でも十年だよー。そんなの無理なのー」  それも、素質のある者に限ってそれだ。それより短くて済むような人間は、すでに武の道を目指しているか、独学でもなにか身につけているものだ、と沙和は主張する。  それこそ、かつての凪たちのように。 「まあ、……そりゃそうだよな」  一般兵よりはそれなりに強くなっている一刀でさえ、氣を操るには専念したとして何年もかかると言われるのだ。まして、数を必要とされる一般の兵で、それを期待するのは難しい。もし、千人に一人の才を持つ者が混じっているのなら、それを見いだして将として教育する方がよほど効率が良い。 「でしょー? だから、隊長からも言ってあげてなの。凪ちゃん、たまに色々見えなくなるけど、言われないと気づかないからー」 「……そうだな。そうしよう」 「ふふっ」  重々しく頷く彼のことを見つめて、沙和は笑い声をたてる。眼鏡の向こうで、碧の瞳が煌めいた。 「なんだよ」 「ううん。やっぱり、隊長って頼りになるなあって思ったの」  とろけるような声。自分と彼との関係を強調し、強く心に刻み込むような口調に、一刀は思わず彼女の事を強く抱きしめていた。 「……たとえ、隊としての形がなくたって、俺はお前たちの上司だからな」 「うん」  甘えるように彼女は彼の肩口に頬を押しつけ、首筋に音高く口づけるのだった。 「一刀さん?」 「ん、ああ……」  白昼夢から呼び覚まされるように回想を終えた一刀は、そこから得た思い付きを口にした。 「徒手格闘ってのはどう思う?」  その言葉に、二人揃って驚きの表情を浮かべる。しかし、片方は得心したように明るい微笑みを見せ、もう一方はそのままの顔で疑問を口にした。 「としゅ格闘?」 「武器を持たないで戦うってことよ、鈴々ちゃん」 「武器を持たないの? 蛇矛も剣も?」 「うん、そうだよ。凪がするような感じの。……ああ、いや、氣弾の使用は禁止すべきだろうな……」  一刀が細かいことを考え始めて思考に沈む一方で、鈴々もまた赤い頭をうつむかせて、何ごとか考え込む。 「うん。いいと思うのだ。組めれば、恋だって投げ飛ばせるに違いないのだ!」  そして、弾かれたように顔をあげた時には明るい声で賛意を表した。なんとも楽しげに。 「よし、そうか。うん……うん、ありがとう、二人とも」  そう言うが早いか、一刀は席を立ち、歩み出そうとする。数歩行ったところで、慌てて二人に頭を下げ、改めて礼を言って走り去った。 「お兄ちゃんはいつも忙しそうなのだ」  城の中に消えていく男の背を眺めつつ、鈴々は半ば呆れたように、半ば感心したようにそう言った。紫苑は同じように彼の背を追った後で、鈴々のほうを眺めた。しばし、観察するように、小さな姿を見つめる。 「あの方は色々と責任を負っているから。でも、遊ぶのも忘れてはいないわよ?」  この間も璃々と遊んでくれていたし、と悪戯っぽく笑う紫苑。鈴々は視線を動かし、紫苑の顔をはたと見つめた。 「そういうのが大人になるってこと?」  紫苑の唇がすいとすぼまる。ちょうどぐずり出した璃々を抱き上げることで、彼女は鈴々のひたむきな顔から視線を外すことが出来た。 「そうねえ……。そうなのかもしれないわね」 「そうかあ……」  その遣り取りは、なんだかため息にも似ていた。  4.逍遥  一刀は華琳の執務室を目指した。そこにいなければ書き付けだけでも残してこようと思ってのことだったが、華琳は部屋にいた。ただし、彼が部屋に入った時、彼女だけに留まらず、桃色の髪の女性――桃香と、それに仕える軍師朱里もまたそこにいたのだった。 「すまん、邪魔だったか」 「ううん、一刀さん」  こういう時、親衛隊でさえ声をかけられない身というのはかえって面倒だな、等と思いつつ、部屋を出ようとする一刀に、柔らかな声がかかる。 「私たち、華琳さんがお暇な間だけ、っていう約束で話してたから。じゃあ、華琳さん、またの機会に」 「ええ、楽しみにしているわ」  桃香も朱里もそそくさと席を立ち、一刀の横を通って部屋を出て行ってしまう。それを止める間もなく見送った後で、一刀は華琳のほうを向いた。 「……本当によかったのか?」 「ちょうどいい切り上げ時だったわ」  座ってちょうだい、と促され、一刀はそれまで桃香が座っていた場所――華琳の対面に腰を下ろす。 「用事は終わってたってわけ?」 「用事というのじゃないのよ」  不思議そうな顔をする一刀に、華琳は小さく苦笑して、説明を加える。  桃香と朱里は、最近、なにかと問答をしかけてくるのだそうだ。現在の政治的情勢を王同士で話し合うというのではなく、歴史的な問題や、過去の事件に対して意見をぶつけあう、いわば、学術的な議論をしてくるのだという。 「ま、楽しいから相手をしているけれど、仕事のほうが優先。それは桃香も同じだけれどね」 「ふうん。まあ、意見を交わすのは悪いことじゃないな。そうそう、それで、俺のほうの用事なんだけど……」  そうして、一刀は無手による武術大会の開催を提案し始めた。 「うーん。たしかに立ち技ばかりじゃないから、安全面を含めて、規則の制定と、会場の準備は考えないといけないか……。凪と真桜に相談して……」  華琳に武術大会開催の許可をもらい、今後の具体的な準備の仕方をぶつぶつ呟きながら部屋から出た一刀は、廊下に立つ人影を見つけた。光に透けるような髪の小柄な女性の姿は、一刀と入れ替わりに部屋を出て行ったはずの朱里のもの。 「あれ、朱里?」 「一刀さん」 「どうしたの。もしかして華琳に用事?」  桃香と一緒では話せないような秘事があったのかもしれない、と気を回す彼であったが、朱里は大きく首を横に振った。 「いえ、そうではなく、一刀さんに頼みがありまして」 「俺に?」 「はい」  そこで、朱里はごくりと唾を飲むような動作をして、しばらく口を開かなかった。急かすでもなく、一刀は彼女の言葉を待つ。 「実は……実は、その、私自身で確かめたいことがあるのですが……。一刀さんに協力してもらいたいんです」 「ん。いいよ。なにをすればいい?」  一刀の返答は間髪を容れないもので、頼んだ方の朱里がぽかんと口を開けるほどであった。 「い、いいんですか?」 「うん」 「では、一日、いえ、午後からでもいいので、まとまった時間を取れる日に、私と洛陽の町に出て欲しいのです」  動揺しつつも、一刀が優しく首肯するのに、朱里はあらかじめ決めていた文言を口にする。それだけは、すらすらと出てきた。 「うん。わかった。ええと……明日、明後日は無理だから……三日後の昼からなら行けるよ」  彼女もまたそれに頷き、約束は成った。  そうして、三日後、約束の日取り。その日はあいにくの曇り空であったが、寒さはそれほどでもなく、一刀は明るい気分で城を出た。  行き先は、隣を行く朱里が決めた。  役人街から職人街を経て、商人街に至る。要は、洛陽を南から北へ至る経路である。その中で芝居を見物し、各地方の商人たちの集まる一角を眺め、人々の流れや、暮らしぶりを観察していく。  これは視察というやつなのかな、と一刀は考えていた。改めて、洛陽の都を見ることで、なにか得るものがあるかどうか、それを確かめようとしているのだと。  しかし、それならば、桃香も一緒で良かったのではないだろうか。あるいは、紫苑や鈴々も。  そんなことを思いながら、しかし、頭の良く回る女の子と、街の隅々までを見ていくことは一刀自身にとっても楽しい時間で、いつしか彼は抱いていた疑問も忘れて、朱里と一緒に洛陽の散策を楽しんでいた。  長い間住んでいてよく知っているはずの都を、朱里の視点で見ることで改めて新鮮な気分で味わう。そんな感覚が生まれ始めていた。 「しかし、やっていることだけ見ると、デートみたいだな」 「はい?」  ついに雨が降り出したために避難した茶店で、一刀はそんなことを呟く。  篠突く雨の中、通りを行き交う人はほとんどおらず、茶店の客も数少ない。雨音で他の音が遮断されていることもあって、まるで二人きりでいるかのような静かな空間が作り出されていた。 「あ、いや、なんでもないよ」 「そうですか」  朱里は特に気にした風もなく、お茶を両手で持って外を見つめている。その横顔の真剣さに、一刀はどきりとさせられた。 「一刀さんは人気者ですね」 「え?」 「今日、道を歩いているだけで、御遣い様、御遣い様って何度も」  朱里は雨の落ちる道を見つめ続けながら、一刀にそう答える。一刀もまた街を眺めながら笑って言った。 「ああ、それは、ほら、俺が警備隊の隊長やってたから。顔なじみが多いんだよ」 「それにしても、慕われている証拠です。それに、いまでは警備隊の隊長を退いているのでは?」 「うん。ありがたいことだよね」  一度消えて、再び現れてからの一刀は、警備隊の仕事はしていない。それでも、街を歩けば声がかかる。  ただし、夕刻を過ぎてからの女性連れの場合、相手が遠慮して声をかけないことも多かった。洛陽城下にも、彼のその方面の威名は轟いていたのである。 「すばらしいことです。人に思われない人物には政は難しいもの。親しみだけが思いではありませんが……庶人にとってはそれが最も近しいものでしょうから」 「んー。そんなに褒められる事じゃないと思うよ。さっき言ったとおり、本当にありがたいことだけど」 「はい?」  姿勢を変えぬまま、目だけこちらに寄越す朱里に、一刀も片眼を瞑って応じる。 「知っての通り、俺は別の世界から来た。天の国でもなんでもいいけどね。だから、俺にはなにもない。地縁も血縁も生業も。陳留も洛陽も、俺にとっては初めての土地でありながら、故郷も同然だった。なにしろ、そこにしか生きる場所はなかったんだから」  茶で喉を潤し、彼は続ける。 「だから、優しくできたし、親しみも持てた。俺の方が親しんでいるんだから、あっちが多少優しくしてくれるのも当たり前かもしれないよ」  朱里は無言で聞いている。細い糸のように降り注ぐ雨に声を呑み込まれてしまったかのように。 「俺にとって、ここで作り上げた絆が大事なのも、そういうことなんだと思う。俺にとってそれは……生きる意味ってやつなんだよ」 「……それが言える人だから、慕われるんだと思います」 「そうかもね」  それ以上、一刀は論じない。あるいは、彼にとってもそれは、少々照れくさい事なのかもしれない。彼の鼻の頭がわずかに紅潮していた。 「ところで、確認とやらは出来たかな?」 「そうですね。ええ、いま手に入るものは、手に入れたのではないかと」  そう呟く朱里の横顔を、一刀はじっと見つめる。茶を含み、それを飲み干した後も、なにかを舌で味わうように口を動かす。 「もし」 「え?」 「もし、朱里がまだ納得できていないのなら、もう一度一緒に洛陽を見て回ろうか?」  朱里は言った。手に入れられるものは手に入れたと。 「え? いや、それは、さすがにご迷惑に……」  しかし、ならば、なぜ、このような答えが出るのだろうか。慌てて彼の方を向き、否定するように手を振る姿は、結局の所、彼女が得心していないことを示している。 「そんなことはないよ。それに、この洛陽は広い。一日じゃ見て回れないところもたくさんあるよ」 「それは……そうかもしれませんが……」 「俺も、朱里の目から見た洛陽ってのを想像して、色々と興味深いんだ。それに、外から来た人のほうが、慣れていない分気づきやすいこともある。それこそ警備の穴を見つけられるかもしれないよ」  一刀の言葉は本気のものだ。だからこそ、朱里の躊躇は増した。 「そう言われてしまいますと……」 「じゃあ、明後日とかどうかな。この日なら一日空いているよ」 「うー……。はい」  会話だけ聞けば、朱里の方が押し切られたようにしか聞こえないだろう。しかし、実際には頷く彼女の顔は実に嬉しそうで、渋る様子などどこにもなかった。そのことが、一刀の心を明るくする。 「ああ、雨もあがるね」 「そうですね」  そう言って二人は、勢いを減じていく雨粒を見上げ、温かな沈黙の中で過ごすのだった。  5.遊歩  二度目の道行きも、一度目と変わらず、ほとんど都の散策のようなものであった。変わりといえばこの日は天気が良く、人通りも多かったことくらいであろうか。 「賑やかですね」 「年末に向けて買い出しの人も入り始めてるのかもしれないなあ」  人群れを眺め、二人はそんな会話を交わす。 「洛陽は物流の要。しかし、逆にそれが一極集中を招き、物流網の自由な形成を阻んでいる、という部分はないでしょうか」  朱里の指摘に、一刀は唸る。朱里は様々な事に気づいてはそれを口にするが、一刀の方はさすがに彼女の思考と同じほどの早さでついて行くことは出来ず、彼が反応するまで多少の時間を要した。  それでも、華琳はじめ、天下に名高い頭脳の持ち主たちに鍛えられてきた一刀である。彼の返答に朱里は刺激を得ていたし、時に舌を巻くようなこともあった。 「朱里が言うようなことは当然にあるだろうな。近くの邑に持っていくよりも、少し遠かろうと洛陽に人は集まる。それは、買ってくれる人がいることがわかっているからだ。けれど、地方地方の大都市は多かれ少なかれそういう側面を持つのかもしれないよ」 「成都でもそういう面はありますね。いえ、成都の場合、他の有力都市が少ない分、余計に遠い地域にまで影響があるかもしれません」 「大規模な交易で言えば、大都市同士を結ぶ幹道が重要になるけれど、地方では別の考え方をする必要もあるかもしれないね。大都市に集中させるか、その周囲に衛星都市を作るか……」 「えいせい?」 「ああ、衛星っていうのは……」  そんなことを話しているうち、彼らは大通りを外れ、少し細い道に入った。細いと言っても商家が軒を並べる繁華な通りである。  だが、その通りに入った途端、少し先で騒ぎが起きている事に彼らは気づいた。  人が多いとは言っても動いていた人の波が完全に足を止め、何かを遠巻きにするように輪になっている。そして、その中心からは怒号のようなものが聞こえてくるとなれば気づかぬ方が難しい。 「……騒ぎみたいだね」  一刀は声に緊張をみなぎらせ、何より先に朱里の手を取った。 「離さないで」 「は、はいっ」  次いで、彼は周囲を見回し、見覚えのある店を見つけると、軒先で首を伸ばして騒ぎを見物しようとしている中年男に声をかけた。 「親爺さん」 「あ、これは、御遣い様」 「なにかあったみたいだね?」 「いえ、ごろつきが騒いでいるばかりで。警備隊にはもう知らせたみたいなんですが、この人混みだと……」  一刀は男の言葉に少し考える。警備隊の長をやっていた経験から、多少の時間がかかることは理解している。特に都に人が多くなる時期は、どうしてもあれやこれやと人員が割かれて、通常より手薄になりがちだ。 「んー、まあ、時間稼ぎだけはしておくか」  聞こえてくる野卑な声に、一刀は頭をかく。手を繋いでいた朱里を店の中に押しやって、彼は男と朱里、二人に真剣な顔で告げた。 「親爺さん。すまないけど、彼女を頼む。朱里はここにいてくれ」 「わかりました、御遣い様!」 「わかりました。でも、だ、大丈夫なのですか?」  不安そうな朱里を安心させるように笑いかけ、一刀は刀の柄をぽんと叩く。 「まあ、いなすくらいは……ね」  鍔を鳴らし駆け出そうとした彼の横を、深紅の颶風が通り過ぎる。 「必要、ない」  すれ違いざまかけられる声。その正体を悟り、一刀は体の力を抜くと共に、深く深くため息を吐いた。 「……あーあ。お気の毒に……」  彼一人ならばともかく、蜀の大軍師の同道である。誰かが密かについてきているだろうとは予測していたが、よりによって恋が来ていたとは。  一刀は、ごろつきたちの末路に心から同情した。 「恋さんがついていてくれたんですね」 「むぐ、むごご、もごもご」 「いや、食べてからでいいよ、恋」  ぼろくずのようになった騒ぎの首謀者五人を警備隊に引き渡し、彼ら三人は並んで歩いていた。お手柄の恋には、一刀と朱里の両方から肉まんが渡され、いままさに食べている真っ最中であった。  もくもくと肉まんをかじる彼女をほほえましく二人が見つめ、しばらく経ったところで、恋が十個の肉まんを食べ尽くした。 「ええと、それで?」 「うん。もし、二人が危なくなったら出ろって。詠たちに言われてた」 「そうか、ありがとうな」  二人に礼を言われると、恋はくすぐったげに首をすくめる。その様子もまた愛らしく、朱里と一刀は微笑まずにはいられなかった。 「……じゃあ、恋はまた戻る」 「え?」  なにを言い出すのかと驚く二人に、恋は後ろを指さす。 「恋のお仕事。隠れて護衛」 「いや、もう出てきちゃってるし……なあ」 「……ですねえ」  二人は顔を見合わせ、ははは、と苦笑する。その様子を、恋はじっと見ていた。  言葉を交わすまでもなく、朱里にしろ一刀にしろ、彼女を一人で隠れて後をついてくるような状況に戻すつもりは毛頭無かった。  だから、彼女たちはこう告げたのだ。 「隠れなくていいから、一緒に行こうよ、恋」 「そうですよ」 「……ん」  こくんと恋が頷いて、そこからは三人での道行きとなったのだった。 「結局、今回はあんまり見られなかったんじゃないかい? 成果はあったのかな?」  その夜、城に戻った一刀は、朱里を自分の部屋に招いていた。確認したいことがあるという朱里に請われて協力してみたものの、本当に力を貸せたのかどうか自信がなかったためである。  もしさらに助力が必要ならば、彼一人だけではなく、誰か力になれそうな人物を紹介しようとまで、一刀は考えていた。  だが、彼の前でちょこんと椅子に腰掛けている女性の方は、そんな彼の不安とはまるで無縁の様子であった。 「いえ、十分でした。問題はありません」 「そう?」 「ええ。なぜなら、『一刀さんと共に過ごす』というのが大事で、どこに行くかは特に関係なかったからです。恋さんが一緒だったことも、さして関係しません」 「……え?」  軽く言ってのけ、肩をすくめる朱里。一方で一刀の方は、予想外の返答に、反応するまで随分時間があった。 「今回、確かめたかったのは、私の気持ちです。そして、その結果、どういう行動を取るべきかです」  唖然とする男を他所に、彼女は至極真剣な顔で、衝撃的なことを告げた。 「結論としましては、私は……一刀さん、あなたに好意を持っていて、それがもたらす影響を鑑みると、今日、あるいは出来る限り早い内に、あなたに抱かれるべきだ、ということになるんです。一刀さん」  と。  6.別 「は? え、ちょっと待って」 「いえ、待ちません。私だって、恥ずかしいんですから!」 「あ、はい」  言葉通り赤面した朱里に叱責され、一刀は素直に頷いた。朱里の方は、勢いこんで言葉を紡ぐ。 「いいですか、聞いて下さい」 「う、うん」 「一刀さんに好意を持った経緯などは、くどくど言いつのるつもりはありません。それこそ、恥ずかしすぎて、話が進まなくなりますから。ここで重要なのは、私があなたに……その、恋をしていると言える程強く好意を持っていることです」 「そうなんだ。それは嬉しいな」 「……また、そういうことさらっと言う」  満面の笑顔で返す一刀に、拗ねたように小さく呟く朱里。その声は一刀には断片的にしか聞こえていない。彼女はすうと息を吸って、本題に入った。 「前回も、今日も、確かめたかったのはそれです。元々あなたに好意があることは自分でも認めていました。それが、人間的な好意で収まるか、男女の仲になりたいと思うほどの衝動なのか。それを知るための行動でした」 「そうだったのか……。ちょっと回りくどくない?」 「ええ、まあ」  当人もそう思っていたのか、朱里は一刀の物言いに苦笑する。しかし、彼女自身が必要だと考えたからこそのこと。言い訳をするつもりはなかった。 「いずれにせよ、答えは後者だったわけです。最初の日、結論づけるのを躊躇っているのを一刀さんに見透かされ、今日のことを約束したときから、もうその答えはわかっていたような気もしますけど」  感謝するような口調で、朱里は呟く。その独白のような言葉に、一刀は口を挟まなかった。 「一方で、私は蜀の軍師。華琳さんの食客たる一刀さんとは、対立することもありえる立場です」 「それは……まあ」 「もちろん、私と一刀さんが剣を持って戦いあう事態などはまず起こりえないでしょう。魏と蜀が明確に敵対し、決戦を行うなどということもないかもしれません。けれど」  その後の言葉を、朱里はあえて口にしなかった。彼女が口にすれば、可能性を論じているとはいえ、特別な意味を持ちかねない。不穏なことは言葉にすべきではなかった。  それに、一刀にも想像することは出来る。華琳と桃香は立場を異にするし、考え方も違うのだから。 「けじめを、つけたいんです」  しばらくしてぽつりと漏れたのは、そんな言葉だった。 「そのために俺に抱かれるって?」 「なにもせずに思いを抱えていれば、かえって自らを危うくすると、そう考えました」  ぎゅっと拳を握って、朱里はそれを胸元に当てる。まるでその下で鼓動を打つ心臓が痛むかのように。 「危うくする、か……」  一刀は考える。たしかに、肉体関係を持てば、ある種の区切りにはなるのかもしれないな、と。  意識してしまっている以上は、しないことによる後悔よりも、行動したことによる成果の方が大きいかもしれない。しかし、事を分かつために結ばれるというのは、なんとも悲しいことではないだろうか。  だが、朱里とてそれくらいは考えた上での言動であろう。その上で、放っておいては危険が増すと主張しているのだ。  彼は、精一杯彼を見上げてくる小さな体を見つめた。わずかに震えながら、彼の事をじっと見据えている女性の姿を。 「何とも色気のない誘い文句だと、重々承知してはいるのですが……」 「いや、まあ、そのあたりは案外どうとでもなるのだけどさ」  疲れたような笑みを浮かべる朱里を安心させるように言った後で一刀は席を立ち、朱里に近づいた。肩に手をかけ、彼女の瞳を覗き込むようにして言う。 「一つ訊きたいことがある」  だが、問いが発せられる前に、彼女は応じていた。 「推測は出来ます。政治的判断か、純然たる感情の問題か、どちらを優先させたかということでしょう」  ずばり訊きたかったことを当てられ、彼は少し呆けたようになった。朱里は透明な笑みを浮かべた。 「両方ですよ、一刀さん」 「両方?」 「私は諸葛亮。水鏡先生に臥竜と称された女。桃香様という雲雨を得て、天に昇る竜。政も、恋も、全てが私です」  そう言い切る姿に、一切の迷いはない。小さな大軍師にとって、政争も恋愛も共に価値あるものであった。  だから、どちらを優先させるのでもない。彼女にとって自分のことも、国の行く末も、同様に重要事であった。 「そっか」  対する男はなにかすっきりとした様子。彼女のまっすぐさに感化されたか、あるいはそれだけが本当に懸念だったのか、彼は楽しそうに笑っていた。 「一刀さんがいけないんです。こんなこと言ってもいいと思わせるくらい優しいから」  自分を見て笑う男に、恨み言のように呟く。それ自体、甘えを含む行為だと、どれだけ彼女は理解していたろうか。 「そう思われてもいい相手だからこそ、優しくしてるのさ」 「……もう、嘘つき」  濡れたように呟く言葉は、男の唇に絡め取られる。二つの唇が重なり、女のまぶたが閉じられる。二人はそうして長い間繋がり合っていた。 「本気、なんだね?」  一度身を起こし、男が確認する。そう囁く声もどこか夢の中の言葉のように、彼女には聞こえた。 「そうしなければ……進めないのです」 「……俺なら朱里が進む手助けができるわけか」  ひょい、と彼女の体が抱え上げられる。自分を抱えている男の足が寝室の方へ向かうのを、朱里は怖いような嬉しいような複雑な感情で受け止めていた。 「一刀さんにしか、できないんですよ?」  男の腕の中に収まり、きゅっと彼の服を掴みながら、彼女はそう言って、全てを彼に委ねるのだった。  7.心攻  時は行き過ぎ、十二月も半ばとなって、蜀の重鎮勢は、洛陽へと勢揃いしていた。全体としても、南蛮勢も到着して、あとは生まれたての娘たちのためにことさらゆっくりと北上している呉勢を待つばかりという状況である。  成都から漢中を経て仲間たちが城に着いたその日に、桃香は蜀の全員を一室に集めていた。 「みんな、遠路はるばるお疲れ様。ゆっくり休んで……と言いたいところだけど、夕方から華琳さんの歓迎の祝宴があったりするのはいつも通りだから、もう少し頑張って。それでね、その前に、みんなにお話があります」  労いの言葉は常のことであるが、そのように改まって話があると言われるのは珍しい。用意された椅子に座ってお菓子をつまんだり部屋の壁にもたれたりと自由にしていた面々は、それで雰囲気を悟ったか、全て卓についた。 「ええと、私だけじゃうまく説明できないこともあるから、朱里ちゃんと私で話していくって形になるんだけど……」 「はい。私が補佐させていただきます。皆さんも、それぞれに訊きたいことがおありでしょう。それらについても、話が進めばおいおいわかるようにしていきます」  桃香の横につき、一人立って話をする朱里に全員の視線が集まる。ことに国元から出てきた愛紗、桔梗、星たちの表情は疑問にあふれていた。 「では、まず、なぜ桃香様が都に留まり、そして、なにをしていたのかをお話ししましょう」 「うん。それはみんな聞きたいと思うのだ」  皆の意見を代表するように、鈴々が言い、にかっと笑う。桃香が申し訳なさげに微笑んだ。 「簡単に言いますと、桃香様が国元に戻らず、洛陽に留まったのは、今後の我が国の進み方を決めるためだったと言えます。桃香様ご自身の意識で、当初からそのような目論見があったというわけではありませんが、結果的にはそれを志向していたとお考え下さい」 「今後の我が国、ですか……」  そう呟くのは雛里。彼女は朱里の言葉の一つ一つを吟味するように耳を傾けていた。 「うん。実はね、私、結構色々と勉強したんだよ。洛陽の書庫に入れてもらったり、華琳さん個人の蔵書を読ませてもらったり。それに、たくさんの人たちと会って話したし」 「具体的には、華琳さんはじめ魏の面々はもちろん、洛陽にいる官吏たち……朝廷の面々とも会談を行い、様々な問答を行っています」 「朝廷と?」  愛紗が長い黒髪を揺らしながら、立ち上がる。かつて朝廷によって苦しい立場に追いやられた愛紗としては看過できない危険と見えるのだろう。 「朝廷とも、と言うべきでしょうね」 「しかし、朝廷と接触するなど……」  なだめるように言う朱里と、桃香の心配そうな瞳に愛紗は再び腰を下ろすが、その声音には疑いの色が濃い。彼女にとって、朝廷とは害ある存在に他ならなかった。 「朝廷との接触は、丞相の華琳さんを通じて、各部署の責任者との会談の場を設けてもらったんだ。さすがに華琳さんの紹介で私たちと話して、華琳さんや一刀さんへの無理難題を持ち出すような人はいなかったよ」 「ま、そこまで肝の据わった御仁がいれば、それはそれで面白いことになったかもしれませんが、それがおらぬが、いまの朝廷の有様というわけでしょうな」  わはは、と笑って見せるのは桔梗。そのからかうような態度に愛紗も苦笑してそれ以上言葉を重ねなかった。 「それで桃香様。多くの方々と会い、本でも学んだというのはわかりましたが、結局今後の方針というのは決まったのでしょうか?」  前のめりになりながら訊ねるのは、焔耶。方針を伝えてもらえば、いまにも駆け出していって、それを実現させるべく動きたいというような様子であった。 「うん。決まったよ」  桃香は一人一人の顔を見回し、そして、はっきりと宣言した。 「私たちは、魏や呉とは違う政をします」  沈黙。  皆が顔を見合わせる中、紫苑が訊ねた。 「どういうことでしょう?」 「まず、そもそも、私たちが立ち上がった理由を考えましょう。それは、なぜです?」 「世が乱れていたからだろう? 皆、それぞれに思いはあったろうが、根本は民の安寧と政の安定を望んでいたはずだ」  なにを当たり前のことを、という調子で応じるのは、常山の昇り龍。星は一人、いつの間にか取り出した酒杯を傾けていた。 「そう、世は乱れていたよね。私たちはそれぞれにそれを正そうとした。華琳さんたちも」  桃香の言葉を受けて、朱里はさらに論を進める。 「その乱れていた世を正すために、魏、呉の二国は厳しい政策を採っています。いわゆる猛政というものですね。これは魏で顕著な傾向ですが、法を厳格に適用し、罪には厳罰をもって望むやり方です」 「ふむ。まあ、引き締めを行うのはしかたのないところだろう。ことに黄巾が激しかった魏の領内では」  愛紗が、顎をなでながら言う。彼女は、個人的に言えば法を厳しく運用する方針には賛成なのであった。もちろん、きちんとした組織あってこその話であるが。 「はい。もちろん、このやり方が間違っているとは言いません。ことに混乱の時代には有効なやり方でしょう」 「でもね、それだけじゃだめだと思うんだ。なんというか、取りこぼしちゃう人たちが出て来ると思うの。ついていけないっていうのかな。だから、私たちは、別の道をとるべきだと、そう考えてる」 「春秋左氏伝に曰く、寛猛相済(すく)う。魏や呉が猛政を推し進める一方、寛治もまた必要とされるはずなのです。それを、我が国が行います」  寛治、すなわち寛恕をもって人に対し、統治を行うこと。それを蜀は選ぶと、桃香と朱里はそう告げた。  再び、皆が顔を見合わせる。その中で、一人雛里だけが朱里の顔をじっと見つめていた。 「んー、それで、鈴々たちは結局どうすればいいのだー?」 「基本的には……これまでとは変わらない。そうだよね、朱里ちゃん」  しびれを切らしたように訊ねる鈴々。それに対して、雛里は朱里の顔を見つめたまま、そう言った。 「うん。雛里ちゃんの言うとおり、基本的な政策、国の運営の進め方は、従来と変わりません。ただ、魏や呉との違いをより強く意識し、そして、それを周知するべく動くということです」 「周知だと?」 「はい。蜀の政のやり方を自国だけではなく、他国にも知らしめ、それを望む者が我が国に移住できるよう、あるいは魏や呉の政に影響を与えるべく、動きます」  感心なのか同意なのか、曖昧なうなりがいくつか出る。これまでと大幅な変化はないというのが、かえって理解しづらい者もいるようであった。 「我が国は、魏や呉に比べて国土は狭く、人は少なく、物は足りません。あくまで比較すれば、ではありますが、正面切って争うにはそれは非常に不利となります」  そこで朱里は一度言葉を切る。すうと息を吸い、表情を殺して淡々と述べる。 「だから、我々は心を攻める戦いをするのです」 「心を……な」  かんざしを頭から抜き、弄びながら桔梗が呟く。その言葉はなにか重々しい響きを伴っていた。 「はい。そのために自らの政をしっかりと行い、それを世間に広めていくのです。我らの理想とする政が浸透するのならば、支配者が別であっても構わないでしょう」 「その理屈はわからないでもないが……。しかし、そううまくいくものか?」  ただ政治をしているだけでは、他国まで伝わるはずもない。こちらのやり方を知ってもらうためには、それなりの訴えをしていく必要が生じる。それをしたとして、はたして受け入れてくれるものかどうか。難題は山積していた。 「もちろん難しいでしょう。そのために利用できるものは利用します。たとえば権威なども」 「権威といいますと、どのような?」 「具体的には、我々の名前もその一つです。自惚れるわけではありませんが、諸葛孔明、鳳士元の名はそれなりに広まっていますから、政治理論の書物を書いたりすれば、多少は読まれるでしょう。劉玄徳や関雲長の名前はさらに効果があるでしょう」  いや、それはどうなのだ? と愛紗は言いたかったが、言葉を挟むことはしない。名前だけであれば、有名かもしれないな、と思い返した部分もあった。 「そして、それらの名に上乗せをするためもあり」  朱里は続ける。そして発せられた言葉に、誰もが息を呑んだ。 「桃香様には漢中王になっていただきます」      (玄朝秘史 第三部第五十七回 終/第五十八回に続く)