「無じる真√N73」  華雄に稽古をつけて貰うようになってから既に十数日が過ぎ去った日の朝のこと。  稽古が彼のルーチンワークに組み込まれてから暫くの間は翌日になってがたがたな身体を引きずりながら政務などに参加するのがお決まりとなっていた。  無論、彼の肉体は過激な修練によって酷いことになっており、落とした書類を拾おうと屈んだだけで痛みによって暫く動けなくなったり、筆を持つ手がぷるぷると震えたりしていた。  正直、机に向かい作業をすること自体が既に肉体的に辛くなっていた。  もっとも、そんな風に身体の節々が悲鳴を上げていようと、仕事の効率を落とすことは許されるわけなど当然無いわけで、彼はひいひい言いながらも日夜働いていた。  しかし、今朝になり、ようやく完全に苦痛の日々も終わりを迎えたことを確信した。たった一日前に酷使されたばかりの肉体からは悲鳴が上がらなかったのだ。  修練しては異常なまでの筋肉痛に襲われるという定例の流れからやっとのことで解放された青年は目覚めの良い起床を迎え悠々と大股歩きで廊下を進んでいた。 「華雄も容赦ないからなぁ……いや、頼んだのは俺だけどさ」  遠慮無しにビシビシとしごかれて少しは逞しくなっただろうかと青年は二の腕に力こぶをつくるかのようにぐっと力を込める。  白い上着越しでも筋肉が付いたような気がする。  青年はなんとなく気が乗ってきて、彼がいた世界で筋肉美を競い合う者たちがしていたようなポージングを取り始める。 「ふん! もう少し、こうか――」 「朝っぱらから何をしてるんだ、一刀」  実に冷たい色の眼で蔑むように一刀を見ながら公孫賛が紅みがかった髪を指で掻き上げる。  一刀は表情を引き攣らせながら「なんでもない」と言うと、先程までの逞しさを醸し出した乗り気な彼は何処へやらとばかりに滅入ったかのような弱々しい顔になる。  公孫賛はそんな一刀から目をそらしながら要件を言い始める。 「……まあ、個人的なことに口を挟むつもりはないさ。それよりだな」 「普通に気を遣わないで何か言ってくれた方がマシだった……」 「私が知るか。そんなもの詠にでも頼め。それでだが、お前に一つ頼みたいことがあるんだ」 「頼み?」 「ああ、警邏隊の仕切りを任せても良いか?」 「俺がやるのか?」 「華雄が暴れた後始末や街の復興に充てたり、曹操への警戒のため国境へと送り込んだりして街の方へと割く人員が足りなくてな」 「なるほど、でもなんで俺が仕切るんだ?」 「お前は元々下から上がってきたろ。その途中、警邏隊の隊長もやってたじゃないか」 「そうだな。それに、臨時でなら鄴にいるときもやってたし、そう言われたら問題は無いか」 「まあ、そういうわけだ。一刀、手を貸してくれるか?」 「勿論構わないよ。でも、それってしばらくは続くって事だよな?」 「そういうことになるな。流石に本国から増兵のためにこっちに呼び寄せるわけにもいかないからな」 「だよなぁ。それに……いや、まあいいか。とにかく要件は分かったよ。それで? 今日から、でいいのか?」 「それでよろしく頼む。ああ、そうだ。政務の方は今日のところは後で適当に顔出ししに来るだけでいいからな」 「一応、顔出しは必要なのか」 「……それは、ほらお前の顔が見た……いや、警邏への参加をしてみた感想でも聞かせて貰おうかと思ってな。なに、昼頃まで担当してくれたら解放されるように手筈は整えてあるから心配するな」  早口で捲し立てるようにそう言うと、公孫賛はすたすたとこれまた速い足取りで執務室の方へと向かって行ってしまった。  一刀は何か言おうと思っていたが、言葉をぶつける先も無くなってしまったため持て余しながらも外へと向かうことにするのだった。  †  詰所へと向かうと、警邏の兵士たちは何の疑問も抱かずに青年を臨時隊長として受け入れてくれた。  どうやら事前に賈駆の方から話が回っていたということらしい。それを聞いた一刀は、自分がすんなりと公孫賛の依頼を引き受けることなど、軍師を務めるほどに鋭い彼女にはお見通しだったのかと思わず口もとをにやりと綻ばした。  兵士たちから普段の行程についての話を聞きながら担当地区を分担すると、一刀は一隊を率いて担当区分へと向かった。  軽装とはいえ物騒な装備に身を包んだ屈強な男たちに周りを囲まれたまま歩いていると、街の人々は皆自ずと一刀たちに道を空けていく。  それどころか一刀と兵士たちが通るのに気がつくやいなや、即座に皆視線を逸らしてしまう。  兵士たちの堅苦しい雰囲気だけが理由というわけではない。そのことは一刀にもわかっている。 「やっぱり、まだまだ全体の印象は変わらないよな」  街の人たちの反応に頬を掻きながら一刀は苦笑を浮かべる。かつて下邳にいたことのある鳳統の手助けがあって多少の緩和ははかられたが民の緊張と不信感はまだ解消されてはいない。  突然やってきたかと思えば、曹操軍に成り代わって下邳や郯を支配し始めたのだから、領民からすればいらぬ混乱を招いた厄介者といったところだろう。  一刀もそれがわかっているだけに、ここに住む多くの民にも、そして公孫賛らにも申し訳ないという思いがあった。 「隊長、あまりお気になさらなくても」 「……そうもいかないだろ。ことの発端は俺なんだし」 「そ、それはそうですが」 「これは仕方ないことと分かってはいるんだけどな」  ぽつりとそう漏らすと一刀は憂鬱な表情を浮かべる。  ここ何日、十何日……いや、さらなる時間を過ごす中で中々打ち解けられないことは一刀にとって重い悩みであり、また、自分の行動を振り返る切っ掛けとなっていた。  そうして自らの行いを見直すからこそ見出されるものもいくつかあった。  そんな風に考え半分のまま巡回を行っている途中で、一刀は深々と息を吐き出すと兵士たちの顔を振り返る。 「どうやら、問題もなさそうだな」 「元々曹操による徹底管理が施されていたようですからね」 「……そうか」 「あ、別に隊長がそれをぶち壊しにしたとかそういうことが言いたいわけでは」 「ば、馬鹿!」  一人の兵士の言葉を別の兵が泡を食ってわたわたと両手を広げて窘める言葉で制止する。 「はは、いいんだよ。事実だからな。ちゃんと受け入れないと……」  内心ぐさりと心臓の辺りを抉られたことへの動揺で一杯だったが、なんとか表面上は取り繕い一刀は苦笑いを浮かべる程度に留めておく。  一段と暗い雰囲気に包まれながら一行が一通りの見回りを終えると、別の地区を回っていた隊と合流して報告しあうこととなった。 「特にこれといった異常も見られることもなかったということで、それじゃあ、時間も時間だし、一隊だけ詰所に待機、残りはさっさと昼食にでもしよう」 「はっ!」と綺麗に揃った返事をすると、一部を残した兵士たちがぞろぞろと詰所を出て行く。 「さて……それじゃ、俺も昼までってことだから城に戻る前に昼食にでもしようかな」  すっかり日も空の頂へと達していて如何にもお昼頃という感じ満載の街へと一刀は繰り出す。  食事は大通りにある店で済ますことに決めて、一刀は料理に舌鼓を打つことにした。  だが、いざ店で昼食を取るに辺り、一刀は正直なところ居心地があまりよくないと感じていた。店の店主とは既にある程度打ち解けているから特に問題は無い。  むしろ周囲の客の方が問題であり、常に様々な意味合いを持った視線を一刀はずっと背中に受けながら食事をすることになってしまっていた。  結局、せっかくの料理の味も曖昧にしか感じられず、食べ終えた一刀は複数の視線から逃げ去るようにして店を後にした。 「早く、ここの人たちとも打ち解けられるといいんだけどな」  爽快なまでに青い空の下、一応満たされた腹をさすりながらふらふらと街を練り歩いている一刀は、数人の大人と一人の少女が親しそうに話をしている光景を目にした。  その中の一人に見覚えのあった彼はなんとなく声を掛けようかなと思い立ち集団の方へと近づいてみることにした。 「いやぁ、相変わらず元気そうだね。鳳統ちゃんは」 「……いえ、こちらこそ皆さんの壮健なお姿を見られて安心しました」 「ほんに、鳳統ちゃんは良い子じゃなぁ」 「元気でやってんのかい?」  老若男女問わず、とんがり帽子を被った少女……鳳統へと親しげに語りかけている。対する鳳統も普段よく見せるような緊張した面持ちと違って、非常に屈託のない緩やかな笑顔を浮かべている。  その様子を目の当たりにした一刀は、踏み出しかけていた足を引っ込めて少しばかり遠目に眺めることにした。  普段、街に出るだけでもビクビクした様子を見せる鳳統。そんな彼女が柔和な仕草、表情で住民たちと語らっている。このことは一刀にとっても驚きだった。 「なんでも、袁術が引き起こした問題が元で河北の公孫賛に拾われたって聞いてたけど酷い目にあってないかい?」 「悪い噂はあまり耳にしないけど、わしらはそれでも心配なんじゃ」 「あはは、皆さん相変わらず心配性ですね……でも、ありがとうございます」 「劉備さま、袁術……そして、今度は公孫賛さまだったかのう? この戦乱に流されて大変じゃろうに」 「ううむ、そう考えるとなんだか傾国の美少女とでも言うのがふさわしい気がしてくるな」 「あんた! 冗談でも言っていいことと悪いことがあるよ。まったく……」  冗談めかしに告げられた男性の言葉に女性がむっとした顔をするが、それを鳳統が宥める。 「……私自身、もしかしたら、そんな一面もあるのかなぁって不安に思うこともありますから……あ、でも、美少女というのは違いますよ」 「なに、鳳統ちゃんは悪くない。全ては袁術の我が儘三昧が原因じゃからな。勿論、劉備さまのことも含めてじゃ」 「あはは、そう……ですかね。でも、美羽ちゃんも……本当は良い子なんですよ?」  袁術がしたことの結果と彼女の資性の違いを知っているからだろう、鳳統は複雑な表情で周囲の人たちへと訴えかけている。 「まあねぇ。あの娘は鳳統ちゃんのこと大事にしてたもんね」  どうやら女性の方は袁術と鳳統の関係について多少は心当たりがあるらしく、鳳統同様に何とも言い難い表情で次の言葉を探っている。  気まずい沈黙が流れるのに耐えられなくなった男性が話を切り出す。 「そ、それはともかく、今は楽しくやってるのかい?」 「……あ、はい、おかげさまで。手持ちぶさたになる事もなく、新天地でも目一杯頑張らせてもらってます」 「そうかそうか、それは良かったねえ。悪名も聞かないし、公孫賛さまのところも悪くは無いようだねぇ」 「もっとも、この間のことを考えるとそうも言い切れないけどな」  女性の言葉に男性が皮肉めいた笑みを浮かべる。それは一刀の胸に奥深く突き刺さる言葉。 「……そ、それは誤解なんです。あの方は誰よりも私の面倒を見てくださって」 「おや、もしかして鳳統ちゃんあんた……」 「おいおい、どういうことだ? って、まさか」 「あわわ、な、何を考えているんですかー」  にやにやと趙雲がするような笑みを浮かべる一同に鳳統が困惑した様子を見せて帽子のつばで顔を隠す。  一度機を失ってから躊躇していた一刀は、どうやってあの中に入ったものかと悩みながらもゆっくりとした足取りで鳳統の方へと向かっていく。  あと数歩というところまで近づいたところで鳳統の方が一刀の存在に気がついた。 「……あ、ご主人さ――」 「なにぃっ!」  さっと一斉に向けられた何対もの瞳に一刀はドキリとしながらも驚いた様子の鳳統に対してにこやかに笑いかける。 「やあ、そこの人たちは雛里の知り合いなのかな」 「……はい。以前この徐州にいたときにお世話になった方たちです」  先ほどまでとはまた微妙に違う様子を見せる鳳統。周囲の人たちも一刀と鳳統を見ながら渋い表情を浮かべている。  一刀は多少たじろぎながらも彼らに挨拶をして、輪の中へと入る。  鳳統を囲むようにしていた人々は品定めするような目でじろじろと一刀の爪先から頭の天辺までを観察し始める。 「ふうん。あんたが鳳統ちゃんのご主人かい」 「まあ、一応そういうことになりますね」 「なあ、あんた」 「なんですか?」 「鳳統ちゃんを守れるって断言できるか?」 「……守りますよ。絶対」 「泣かせるようなことはしないと誓えるんじゃろうな?」  じろりと睨むようにして老人が詰め寄ってくる。 (そうか……この人たちにしても雛里は大切な存在なんだな。そんな雛里は桃香、美羽ときて今じゃ白蓮及び一応俺と主君を変えざるを得ない波瀾万丈な人生を送ってるんだよな……そりゃこれくらいの心配をするのは当然か)  彼らは自分がこれまで不遇な目に会い続けた鳳統の主君として相応しい存在かどうかを見極めているのだろう、一刀はそう考えて真摯な偽らざる想いを持って答える。 「嘘は吐きたくないから、本音で言います。雛里とはこれからも一緒にやっていくつもりです。その中で泣かせてしまうこともあるかもしれません。でも、それ以上に彼女が笑っていられるよう努めるつもりです」  背筋を伸ばし、真っ直ぐに彼らを見つめながら一刀が発したよどみない言葉を吟味すると、彼らは質問を始めてからずっと浮かべていたどこか試すような険しい表情のまま沈黙する。  そして、最後に一つだけ質問を付け加えてきた。 「あの娘を幸せにしてあげられるかい?」 「不幸にしないよう、全力を尽くしますよ。約束します」 「そうか……ふむ、よし、わしゃ、あんたを認めよう」 「は、はあ……ありがとうございます」  腕組みして深々と頷く老人や男性に一刀は何が何やらと状況把握が出来ずにいるのだが、ここで聞くのも雰囲気的に野暮なことである気がするので、仕方なく頭をぽりぽりと掻きながら軽く下げて微笑混じりに誤魔化すしかなかった。  一方、女性たちはというと、感涙にむせぶ老女の目元を他の女性が手拭きで拭ったりと過剰というか、異常な程の反応を見せている。  戸惑いながらも一刀は彼らに何かを言おうと口を開く。 「あ、あの……」 「いや、もう何も言わんでええ。あんたの決意しかと見せてもらったぞい」 「あわわ~」  老人が手で制しながら力強く頷いている意味が分からず、一刀は最後の頼みとばかりに鳳統の方を見るが、彼女は何故か頬を染めて目を回している。  内心「え?」となりながらも一刀はどうしたのだろうかとその肩に手を置く。 「雛里?」 「さて、お邪魔虫は退散するとしようかねえ」  おほほと口もとに手を添えて上品な笑い方をしながら女性が老人たちの手を引く。  住人たちの間でどのような意思の疎通が行われたのかを理解できず首を捻る一刀に一礼をすると、女性の言葉を合図とするように皆一様に散らばっていった。  ぽつりと残された、二人は暫し何も語らず呆然としていた。 「なあ、結局あれってどういうことなんだろう? 雛里はわかる?」 「…………あわわ、ご主人様はふ、普段から既にそのようなことを……あわ、あわわわわ……ふにゃあ……」 「ダメだこりゃ」  ぷしゅうと蒸気を吹き出しそうな程に熱を上げて真っ赤になっている鳳統に肩を竦めると、一刀はどうしたものかと天を仰ぎ溜め息を零すのだった。  一刀が街の人々とかわした誓い、約束。それらによって彼らの心境が如何に変化していき、その頭脳に何を思いつかせたのか、この後に一刀と鳳統へ向ける視線をどう変えていくのかをこのときの一刀にはまったく予想することなどできなかった。  そう、ハッキリとした形で見せられるまでは。  †  集まっていた人々が霧散した後、残された二人は顔を見合わせてぎこちない笑みを浮かべると、どちらからともなく城へ戻ろうと言って共に歩きだした。  一刀はちらと隣を歩く鳳統を見下ろす。とんがり帽子のつばを両手で掴んで「あわわ」を連呼している彼女の姿に軽い溜め息を吐く。  話をして気を紛らわせてみるべきかと一刀は鳳統に話しかける。 「あのさあ、雛里」 「……ひゃ、ひゃいっ! な、なんでしゅか?」 「さっきのことだけど、いくら相手が知己とはいえ雛里が活き活きと話をしてたから驚いたよ」  たとえ顔見知りであろうと多少ぎこちなさを見せる鳳統だけに、あれだけの人数と相対しながら自然な振る舞いを見せていた情景は一刀には衝撃的だった。  鳳統は少し考える素振りを見せた後、平常心に戻ったように落ち着いた様子を見せる。 「……そうですね。その、御存じだとは思いますが、私って人見知りしやすいんです。だけど、今の世の中、そんなことは言ってられません。ですから。まずは知り合いの方たちに慣れ、少しずつこの性格を直そうと思ってるんです」 「偉いな、目標を持って一歩一歩踏み出しているのか」 「……その、少しずつでもいい……とにかく前に進まなきゃって……考えたんです」 「そうか。雛里は雛里で頑張ってるんだな」 「はう……」  頭をよしよしと撫でると、鳳統は帽子を深々と被って俯く。それでも一刀の手を払いのけないあたり嫌悪しているというわけではないようだ。  一刀は、そんな彼女の反応に頬を綻ばせながら次の話題を振る。 「なあ、雛里。そういえば、さっきのあの人たちがした質問に答えた後にしてた話なんだけどさ、あれって結局――」 「あわわわわわ……そ、そのことは……あの、その! へ、返事をお伝えするのはとても大切なことだとは思うのですが、もう少しお待ち頂けませんか」 「あ、ああ……まあ、雛里の心の準備が出来たらでいいからさ、とにかく落ち着いてくれ」 「ひゃいっ! き、気持ちの整理が尽きましたら、ちゃんと……はう」  先ほど鳳統と共にいた人たちの反応の真意が知りたくて訊ねようとした一刀だったが、鳳統はこの様である。 (返事が大事って何のことなんだろう?)  どこか挙動不審な鳳統からは普段のような落ち着いた反応は望めそうにないと、一刀は口をつぐむ。  変に動揺している鳳統をこれ以上刺激するのもと、それからは会話らしい会話を何一つすることなく気まずい雰囲気――もっとも、一刀が一方的にそう思っているだけだが――のまま歩き続けていた。  異様な空気に包まれたまま歩いているうちに、自分たちがいつの間にか食堂街へと差し掛かっていたことに一刀は気がついた。 「そういえば、良い匂いが漂ってるな」 「おや、主ではありませんか」 「ん?」  知り合いの女性……趙雲の声が聞こえた一刀はさっと上空を見上げる。空では太陽が真上から西へと降りて、あと少しで赤く熟しそうである。  趙雲を捜して視線をあちこちの屋根へと向ける一刀へもう一度彼女の声が掛かる。 「どこを見ておられるのですか」 「いや、星と煙は高いところが好きだって言うからな」 「どこの格言ですかな、それは。まったく、私とていつも屋根の上にいるわけではありませんぞ」  呆れ混じりの声に苦笑しつつ一刀が視線を下ろしていくと、白を基調とした着物に身を包んだ青みがかった髪の女性が見つかった。  趙子龍、その人である。彼女は丼を片手に腰掛けた体勢から脚を組み替えつつ、一刀の方へと身体を向ける。  趙雲の持つ丼からは香ばしいかおりが昇り、一刀の鼻腔を刺激する。 「ラーメンか、美味しそうだな」 「ええ。先日、主が仰っていたメンマ職人と腕を競い合っているという話を聞きましてな、こうしてメンマの程を確かめておるのですよ」 「メンマの程ってのがなんなのかはわからないけど、流石は星だな」 「いえ。それより雛里はどうかされたのですかな? ずっと上の空のようですが……よもや、彼女まで主のボケに付き合って屋根の上を探しているのではありますまいな?」 「そんなことないって、おいおいそんな睨むなよ。いや、実は俺にもさっぱりなんだよ」 「そうですか、それでは一体どうしたというのですかな?」 「まあ、予想はつかないけど多分原因はこれなのかなって思うのはあるよ」  そう言うと、一刀はここにくるまでの経緯を要点のみをかいつまんで趙雲へと説明する。  丼から離した手を顎に添えて相づちを打ちながら話を聞いていた趙雲は未だ別の何処かへ意識が飛んでいる鳳統の顔を凝視する。  そして、何を思ったのかにやりと口もとを歪めると一刀の顔をのぞき込んできた。 「主……鈍感な振りをしてそういうことから接触を避けてるうちに本当に鈍感になってしまわれたようですな」 「え、そういうことって何? それに振りってなんだよ。別に演技をしていた覚えは無いよ」 「とにかく、もう少し繊細な部分にも気を遣うべきかと」 「わ、わかったよ。それで? どうして雛里はこんな状態になってるんだ?」 「…………冷めてしまいますな」 「え?」 「ラーメンが冷めてしまうので、申し訳ないが、食べることに集中させて頂けますかな?」 「あ、ああ、なら食べ終わった後に」 「取りあえず、先に城に戻っておられよ」  どこかそっけない態度の趙雲に綽然としないものの、日も傾き始めている以上、公孫賛たちの元に顔を見せにいくためにも、ここで必要以上に食い下がるわけにもいかず一刀はしぶしぶ頷くしかなかった。 「仕方ない、さっさと戻るよ。あ、親父さん、悪いんだけど持ち帰りで肉まんをこれくらい頼むよ」 「あいよ、まいどありい」  店主とのやり取りを一刀がしている後ろで趙雲が鳳統へと顔を寄せる。 「雛里よ」 「……あ、はい。なんですか?」 「ふ、個人的には羨ましいぞ」 「あわわ! あ、あのやっぱり星さんには……その、わかっちゃいます?」 「当たり前だ。私は主と違って鈍くはないからな」 「悪かったな鈍くて……というか、俺は飽くまで鈍いとは思ってないからな」  店主にお代を払って肉まんの入った包みを受け取りながら一刀は異議ありとばかりに趙雲に不満顔を向ける。  趙雲は「おや、自覚がないとは余計にたちが悪い」などと返してけらけらと笑うだけ。一刀の不服は彼女にさらりと流されてしまう。 「なんだか納得いかないんだが……いいや、行こうか」 「……はい」  そうして二人は趙雲に別れを告げて城へと戻るのだった。  帰り道、そっとのぞき込む鳳統の顔は赤く染まっているがそれは夕日によるものかどうかはどうにもわからなかった。  †  城へと戻った一刀は軍部の報告を受けに向かう鳳統と別れて執務室へと赴く。  中では、真剣な表情の公孫賛と多少険しい顔をしている賈駆がいて、政務に取り組んでいる。  書類の山に囲まれながら、筆を走らせる二人に声を掛けることなく一刀は一度退出して思いついたことをするために廊下を走り出した。  暫くして、彼は再度執務室を訪れた。 「あー、入るぞ」 「ん? 一刀か、遅かったな」 「あら、随分とのんびりしていたようね」 「ぐっ……それは、悪かったよ。というわけで、ほら、お茶にでもしようじゃないか。根を詰めすぎずに、休憩したらどうだ? 残りは俺も手伝うからさ」  そう言って二人に笑いかけながら一刀は給仕のようにお茶の入った湯飲みを配給していく。  二人が受け取ると、一刀は先ほど購入した肉まんを置いて自らも腰掛ける。 「ふう、落ち着くな」  公孫賛がお茶を飲んでそんなありきたりな感想を零す一方で、賈駆は湯飲みのお茶と睨み合いをしながら、一刀に先ほど同様の言葉を投げかける。 「それで、あんたは随分ゆっくりしていたようだけど、どうしたのかしら?」 「まあ、ちょっとな」 「私としてはその〝ちょっと〟の部分を聞かせて貰いたいんだがな」 「ボクも同感」  二人にじっと見つめられた一刀は気まずそうにお茶を啜ると、別にお茶に渋みが効き過ぎているわけでもないのに苦い笑みを浮かべる。 「いや、ちょっと雛里と偶々出会ってさ」 「雛里が一人で出歩くとは珍しいな」 「そうそう、俺もそう思って声かけたんだよ」 「それで? まさか、声を掛けただけでこうも遅れるとは思えないんだけど?」 「そうだよなあ、昼には上がりだからと思って詰所に行けばお前は既にいなくなってたし、かと思えば戻ってきたのはすっかり日も暮れた頃……昼食にしてもちょっと時間がかかりすぎだよなぁ?」  ジト目で睨みながら公孫賛が態とらしく一言一言を強調しながら一刀に言葉を投げつけてくる。  一刀はやましいことなどこれっぽっちもないはずなのに妙な汗がだらだらと流れ始める。 「違うんだって、雛里がちょっと調子悪くなってだな」 「一応言っておくけど、嘘吐いても無駄よ? 本人に聞けばわかることなんだから」 「いやホントなんだって」  腕組みしたまま指で三つ編み状になっている緑がかった髪を弄る賈駆が冷ややかな流し眼を送ってくる。一刀はそんな視線に耐えながら彼女たちにことのあらましを語ってみせる。  これで納得するだろうと自信満々な一刀の思惑に反して、賈駆、更には公孫賛までがどこか不機嫌そうな顔をする。 「へえ、つまり雛里といちゃついてたから遅れたというわけね」 「お前、私たちのことをおちょくってるんじゃないだろうな?」 「なんでそうなるんだよ。俺の話をちゃんと聞いてたのか?」 「お前こそ、自分が何を言っているのか自覚はあるか?」 「ないでしょうね。はあ……本当に馬鹿よねアンタ」  溜め息を零す二人に一刀は自分が何かおかしなことを言ったのだろうかと不安になり、なんだか無性にいたたまれない気分になってくる。  じーっと白い目を向けていた二人はやがて顔を見合わせると示し合わせたように同時にやれやれと肩を竦める。 「ま、こいつじゃ仕方ないのかもしれないわね」 「そうそう。どうにも天然の垂らしの可能性が高いからな」 「な、なんだか凄く不名誉なことじゃないかそれって……」  好き放題言う二人に一刀は顔を引き攣らせつつお茶を飲んでなんとか落ち着こうとする。何故一刀の事をそう捉える者が多いのか彼自身にはよくわからないのだからそれも仕方がない。  自分で入れたお茶を飲んでほっと一息吐くと、一刀は二人の顔を見る。 「この際、俺のことは置いておこう。それより、雛里がどうしてあんな異様な反応を見せたかを教えてくれ」 「断る」見事に二人の声が重なりあう。 「え……どうして?」 「自分で考えなさいよ。少なくともボクたちから言うことは無いわよ」 「とはいえ、一刀はどういう選択を取るのか、気にならないわけではないんだがな」 「あー、それはあるわね。今までとはちょっと違うだろうし……どうするつもりなのかしらね」  二人の間で話は進み、置いてきぼりを喰らう一刀。  だが、賈駆と公孫賛の視線が終始彼に向いていたあたり、自分自身こそが話の中心なのだろうな、ということだけは一刀も察する事ができた。  最終的に一刀は真相に辿り着くことなく、部屋に帰されることになった。どれだけ肉まんを積もうと、お茶を入れたり肩を揉んだりと雑用を買って出ようとも教えてはくれなかった。  †  自室に戻った後の一刀はこの日の仕事に関するまとめをした後、翌日に備えて床に就くことにした。  だが、横になった彼は直ぐに寝付くことはできず、暗闇の中ぼうっと考え事をしていた。執務室でのことは一旦記憶の片隅へと葬り去ったのでそのことではない。  それは、今日という日までを通して見てきたものが大いに関係していることだった。  自分……北郷一刀という存在が起こした擾乱。その自分の行動によって引き起こされた事態について、そして、その責任の取り方について。  この下邳へやってきてからの日々を通して彼には色々と思うところがあった。  まず、徐州に住む民への影響のことを考えれば長らく滞在し、人心の安定に尽力することで彼らへ対する責任を取らなくてはと考えていた。  また、その責任を取る前にこの世界から退場してしまわないよう己を今一度鍛えることを決めた。それが華雄による教練を一刀が受けることにした理由だった。  一刀は、そのことも含めて鳳統との会話を思い出す。 『……その、少しずつでもいい……とにかく前に進まなきゃって……考えたんです』  鳳統はその場に蹲ることも佇むこともしない、ゆっくり歩くような速さであろうとも未来へ向けて確かな歩を進めている。  それは彼女だけではない、華雄だって一刀の面倒を見ている一方でこれまで以上に自分を鍛えている。左慈と対峙して己の強さがまだまだだと気付いたからだと彼女は言っていた。  別に一刀だってこれまで前へと進むことを拒絶してきたわけではない。だが、それは今、彼女たちが見せている未来への一歩とはほど遠い、当てもなく前か後ろかもわからずにがむしゃらに走るだけのものだった。 「とにかく俺はまず、しっかりと自分の基礎工事を済ませるべき……なんだろうなぁ」  自己鍛錬の一つ上をいく華雄との鍛錬を始め、一刀には課題が多い。  何をすべきか、何をしなくてはならないのか、様々な事が脳裏を過ぎる。そうして多くのことを考えているうちに一刀は眠りへと落ちていった。  その翌朝、朝一に一刀の部屋を訪れる者があった。  多少寝ぼけながらも一刀は扉を開けて、訪問者の姿を眼前にする。開かれた扉からは日の光が差し込み、一刀は眼を細めながらシルエットとなる姿に目を懲らす。  扉を開けた一刀の視界に映ったのは真っ白な衣装に身を包んだ鳳統の姿だった。  純白の生地で織られた着物を着ている彼女の頬は熟した林檎以上に赤く、また、その肩にかけられた薄めの生地で桃色に煌めく羽衣との対比が一層彼女を彩っている。  一刀は目の前に佇む鳳統の姿を見て、言葉を失い、頭の中は彼女が着ている純白の着物のごとく真っ白となってしまっていた。  ただ一つ、脳裏には昨日執務室であった会話のことが思い出されていた。