「無じる真√N72」  袁術の朝は早い。特に何か予定が入っているわけではないが、早い。  夜更かしをしていた場合はともかく、基本的に張勲によって早朝に起こされる。そのうえ、その張勲も最近は直ぐに出て行ってしまうことが多いため袁術自身も起きるようにしている。  その日も彼女は早起きして、ゆっくりと朝食を済ませると、部屋を後にした。 「今日も七乃はおらぬし……麗羽のところにでもいってみるとしようかの」  精神的によろしくない相手ではあるが一人で寂しく過ごすよりはと袁術は従姉を訊ねようと部屋へと向かう。 「麗羽姉さま? おりますでしょうか……って、おらぬな」  部屋はもぬけの殻、普段なら何やら楽しそうなことをしているはずの袁紹が、今朝はその姿をくらましていた。  袁術は静まりかえった部屋に首を捻ると、廊下を再び歩きだしていく。 「むう、麗羽までもがおらぬとは……つまらぬのじゃ」  空気を限界ギリギリまで詰め込んだ革袋のように頬をパンパンに張り詰めさせたまま袁術はぷりぷりと不機嫌さを顕著にして、歩調もまた多少荒々しいものへと変貌させていく。 「仕方ない。一人で街に行くとするかのう……」  先日は従姉主導の下での散策だったので、今回は自分の行きたいところにでもいこうと袁術は思い立った。  そうして、彼女は不機嫌さを多少薄めつつ、悠然とした足取りで外へと向かう。  太陽は東の空から昇って、今は真上と地平の丁度真ん中辺りまできている。街のほうはというと、行き交う人でごった返し、買い物をする人、商売に勤しむ者、物品の運搬を行う者など皆忙しそうに動き回っている。 「うむ。今日も今日とて元気なようでなによりじゃ」  世は全てこともなし、と言わんばかりの様子で満足そうに頷きながら、袁術はのんびりと街中を歩き始める。  駄菓子屋を訊ねちょっとしたものを買い、服屋で何か買うというわけでもないが色々と眺め、装飾品を取り扱う店では新作があるかの確認。そんな風に考えもなく散策していく袁術が玩具屋の近くへと差し掛かったときだった。何やら嗚咽のようなものが彼女の耳に届いたのは。 「む? なんじゃ、このすすり泣くような声は……まさか、幽霊……ひいっ!」  さっと顔を青ざめさせてガクガクブルブルと震え始める袁術の耳に更に声が聞こえてくる。 「やーい、やーい……でやんのー」 「これだから……は」  何やら囃し立てるようなそれによって、先程から聞こえている泣き声がより一層際立って聞こえる。 「ぐすっ……ひっく……」 「ど、どうやら妖や幽霊の類ではないようじゃな……」  ほっと胸をなで下ろしながら袁術はゆっくりと声のする方……玩具店の角の先へと身を乗り出す。  そこには一日中街を駆け回っていてもおかしくない風貌の悪ガキと思しき少年数人と、泣きじゃくる年端もいかぬ小柄な女の子がいた。どうやら、男の子たちに何やらからかわれて泣いてしまっているようだ。  袁術はその様子にむっと眉を潜ませると、ずんずんと彼らの方へと若干早い歩調になりながら歩み寄っていく。 「こらー! 何をしておるのじゃ!」 「うわっ、なんだこいつ!」 「妙に鬱陶しそうな服装だし、変なガキだなぁ」 「が、ガキぃっ!? 失礼なことを申すでないわ、妾は立派なれでぃとやらなのじゃ!」 「れでぃってなんだよ」 「それは……えっと……主様はなんと言っておったかのう……ええい、そんなもの妾だってよくはわからぬわ!」 「へ……?」  袁術は自分の返答に一切の言動を停止させた男子の間を縫うようにして突き進む。  そうして、彼女は両手を目元にやった状態でぽかんと呆気にとられている小さな女の子の元へと近づいた。 「そなたも何を泣いておるのじゃ……」 「…………」 「何か申してみよ」 「……誰?」 「なんじゃ、この街に住みながら妾のことを知らぬのか」  袁術は幼い子供であるのならものを知らないのもやむを得ないと、両手を腰に当ててやれやれと肩を竦めてみせる。 「そうだよ、お前誰だよ」 「なんと、そなたらも妾を知らぬと申すか! この、袁術を知らぬと!」 「えん……じゅつ?」 「うむ、袁術。字は公路。これでわかるであろう?」  むふーと荒く鼻息を吐き出しながら袁術は子供たちの顔を見やる。  何故か悪ガキたちの中の何人かが顔色を悪くしている。極寒の地に置き去りにされたかのようにぶるぶると身体を小刻みに震わせている。 「おい、袁術って言えば、あの袁紹の従妹で確か徐州の人たちに酷いコトした悪党だろ……」 「え、何それ怖い」  ざわざわとざわめきだつ童たち。  袁術からすれば謂われもない非難の言葉にむかっと青筋を立てながら両手を振りかざす。 「誰が悪党じゃー!」 「ひーっ! とって食われる前に逃げろ!」 「ま、待ってくれよー!」 「おい、置いていかないでおくれよぉ!」  転ぶ者、足がもつれさせる者など、それぞれが狼狽を見せながら悪ガキ集団は逃げていく。皆、半泣きであるところから本気で袁術のことを怖がっているのがよく分かる。  袁術は子供たちの間でどれだけ失礼な噂が流れているのだろうかとむくれながら取り残された童女へと振り返る。 「もう、いじめっ子どもは去ったのじゃ。安心するとよい」 「…………た、食べられちゃう」 「妾は妖でも化け物でもないわ!」 「うわーん」 「あ、ああ、妾が悪かった……悪かったから、泣き止んでたも……でないと妾も泣いてしまいそうなのじゃ」  恐怖に戦き泣き続ける童女に袁術も困惑気味に眉尻を下げる。目尻には光るものが浮かび始めている。  それを見た童女が涙を引っ込めて不思議そうに袁術の顔をのぞき込み、背伸びをして頭を撫でる。 「よしよし」 「な、なんか立場が違ってきてるのじゃ……」 「もう、しっかりしないとめーなのよ」 「う、うむ……というか、妾の方が歳上なのにこれは一体全体どういうことかや」  両手を腰において見上げてくる童女になんだか叱られている気分になって納得がいかない袁術だった。  †  とにもかくにも落ち着いた童女と袁術は仲良く並んで歩いていた。随分と時間を食ったらしく、太陽は大地から垂直な位置から拳二つ分程西へと傾いている。  童女も大分慣れてきているようだし、今なら聞いてみても良いだろうと、袁術は先ほどの話を切り出してみる。 「それにしても、あんな奴らに何も言い返さず泣きっぱなしとはどういうことなのじゃ?」 「だって……あたしは仲良くしたいのに意地悪ばっかりするんだもん」 「ふうむ。まあ、あのくらいの年頃はまだ子供じゃからのう……」 「お姉ちゃんはいいなぁ、強くて」 「まあ、妾は名家の肩書きを持つ宿命の元にあるからな、常にそうでなくてはならぬのじゃ」  本当に憧れに満ちた顔をしている童女に片眉を吊り上げながら袁術はふふん、と笑ってみせる。 「そうじゃ、少し小腹がすかぬか? 駄菓子屋にでもよるのじゃ」 「え? でも、あたしんちお金無いから余計な買い物は……」 「なに、妾の奢りじゃ。こうして知り合ったのも何かの縁であろう、その記念じゃ」  そういって口端を吊り上げてにやりと笑うと袁術は童女の手を引いて行きつけの駄菓子屋へと足を運ぶ。  いつものように店の奥に座っている中年の女性を見つけると、袁術はぱたぱたと駆け寄る。 「今日も来たのじゃー!」 「おや、これは袁術ちゃま。あら、そちらはお友達ですか?」 「ふふん、聞いてたもれ! 妾の妹分なのじゃ」 「あらあら、そうなんですか。いつもは袁紹さまの妹みたいなものだと思ってましたけど、今日はお姉さんなんだねぇ」 「そうなのじゃ。今の妾は所謂姉貴分というやつじゃな」  にこにこと愛想の良い笑顔を浮かべて対応する中年の女性に袁術も尊大な様子で童女を紹介する。紹介している袁術も童女と比較しても十分子供っぽいのだが、本人は気付いていない。  挨拶を済ました袁術は適当に中年の女性店主と話をしたり、童女に先日袁紹にやられたように塩漬けの梅干しを食べさせて驚かせたりしながら穏やかな時間を過ごしていった。  それから袁術は駄菓子数点と蜂蜜を購入して店を後にした。  歩きながら駄菓子を頬張りほっぺたをふくらませながら二人はとことこと小さな足取りで歩く。 「お姉ちゃんって、優しいし綺麗だし面白いし……本当にすごいねー」 「なーっはっはっは! まあ、それは致し方あるまい。何せ、妾はそれはそれは高貴な存在だからの、色々と嗜んでおるのじゃからな」  羨望の眼差しを受けてすっかり袁術のご機嫌は最高潮を迎えていた。  その後も楽しげに会話を交わしながら駄菓子を完食した頃にはすっかり日が暮れ、赤く染まった通りには手を繋いだ二つの影が楽しそうに並んでいた。  †  何気ない出会いを果たした日から、袁術は毎日童女と遊ぶようになった。やはり一人で暇つぶしをしようとするよりは断然楽しかった。  購入した駄菓子や飲茶や肉まんを分け合って一緒に食べたり、袁術が持ってきた玩具でわいわいと遊んだり親睦を深めていった。  そうして過ごすうちに二人の関係はまるで姉妹のように仲睦まじいものへと変わっていった。  童女は、袁術が口にした言葉で気に入ったものがあれば真似をし、後をついてちょこちょこと歩き回り、その言動は少しずつ袁術に似つつあった。  性格も幾分か強気を身につけたようで、元来のしっかりとした部分をより表に出すようになっていた。その変化は如実に表れており、何かと童女をからかっていた童たちに対してぴしゃりと言い返し、そして仲良くしてほしいという本心を伝えて和気藹々と遊ぶ仲となった。  袁術にとっても朋友のごとき相手が出来たりと変化があって楽しい日々の中、また一つの変化があった。  その日、いつものように袁術が集合場所へと向かうと、例の童女の姿がなかったのだ。 「のう、あの娘はどうしたのか、知らぬか?」 「あれ? 袁術ねーちゃん知らなかったのか?」 「なんのことじゃ?」  童女のことが気懸かりな袁術は、事情を知っているらしい童子に話すよう促す。  彼は少し暗い顔をしながらぽつりぽつりと童女のことについて話し始める。 「あいつの家、昔戦争でお父さんが死んじゃってて結構大変らしいんだよ……だけど、今度は唯一残ってる家族の母ちゃんが倒れたらしくって」 「な、なんじゃと……他には誰もおらぬのか」 「まあ、そういう事情があって、あいつ今、知り合いの店で頼み込んで働いてるんだ」 「かような幼子ですら働かねばならぬのか……なんとも惨い世の中じゃな」  まだまだ幼い童女だと袁術は思っていた。だが、そんな小さな両肩には時勢の影響が重くのしかかっていた。  袁術が暢気に日々を送るのとは太極な状態に童女はある。そう考えると、袁術はなんとも言い難い苦い気持ちになる。 「うむむ、大変なんじゃな」 「仕方ないよ。生きるためだもん……こいつもどうしてもってときは働きに出てるし」 「ん、まあ、でもねーちゃんは一国の主だったんだろ。なら、俺らなんかとは比べものにならないって」 「……う、うむ。それはまあ、その通りじゃな」  まさか好き放題にやってきたとは言えず袁術は言葉を濁しつつ話を逸らす。 「とはいえ、子供に働かせるというのはやはり余りよくないような気がするのう」 「なんとかなるといいんだけどな」 「うむ、では妾がなんとかしようではないか!」 「本当か、ねえちゃん」 「おお、まかせておくのじゃ……そうじゃな、まずはどうしたらよいかじゃな」  袁術は腕組みして童女の現状について考えを巡らせる。  しかし、すぐにどうこうできるというわけでもなく、また、目の前にいる子供たちがせがんでくるので仕方なく考えるのは後にして遊び相手を務めることにした。  もっとも結局のところ、彼女はその日一日中、頭の中を童女のことでいっぱいにしたままとなっていた。  翌日、思い立ったが吉日とばかりに思いついたことを実行に移そうと袁術は執務室へと足を運んでいた。 「あら、美羽さまじゃないですか、どうしたんですか?」 「一体なんのようなのです……」  執務室で政務に取りかかっている顔良と陳宮が同時に袁術の方へと顔を向ける。前者はいつも通り穏やかな優しい顔をしているが、後者は完全に厄介者を見る目を向けているのだが、袁術は気付かない。 「のう、ねね」 「なんなのです? 忙しいのですから、後にしてほしいのですが……」 「お小遣いの前借りを頼みに来たのじゃ!」 「はあ? そんなくだらない話なら後にしてくれなのです」  袁術に一瞥をくれると陳宮は険しい表情のまま書類へと視線を落とす。顔良は袁術の顔と陳宮の様子を交互に見て苦笑いを浮かべている。  このまま話を切り上げられるわけにはいかないと、袁術は両手をわたわたと上下に振りながら抗議をする。 「後ではいかんのじゃ、別にささっと出してくれたらそれでいいから。のう、頼む、ねね」 「馬鹿を言わないでいただきたいものですな。金銭に関わる話をそんな簡単に済ませられるわけないでしょうに。あ、悪いのですが、そっちの書簡にある内容とこちらで相違がないか確認して欲しいのです」 「あ、はい。わかりました。えっと、どれどれ……」  袁術の話には耳を貸さず、顔良や書類とのやり取りに集中する陳宮は全く取り合ってくれそうにない。 「そうは言ってもじゃな……」  渋る袁術の後ろから彼女の顔をのぞき込むようにして見下ろしてくるように影が差し込んでくる。 「美羽さん、あまり聞き分けがないのもどうかと思いますわよ」 「れ、麗羽姉さま」 「おばさ……麗羽殿、それよりも昨夜、例の嘆願書を見直したところ虚実入り交じっておりましたぞ」 「あら、そうでしたの。わたくし、見落としていましたわ……どこですの? 以後気をつけたいと思いますので、教えて下さいまし」 「あ、麗羽さま。こっちのもちょっと違和感があるんですけど、どこか間違ってません?」 「まあ、斗詩さんの方もですの? 困りましたわね……まったく、面倒ですわ。これもあの男が……」  陳宮の溜息混じりの言葉や顔良の問いに袁紹が目を丸くして早足で机へと向かう。なにかぶつくさ言っているが周囲には届いていない。  従姉がここにいること、そして陳宮や顔良への反応が謙虚であまりにもらしくないため、袁術は喉の奥から酸っぱいものがこみあげてくる。 「とにかく、美羽は出直してきてくれますな? ねねたちは忙しいのですから、出直してきてもらいたいのです」 「うっぷ……もう、いいのじゃ……」  口もとに手で押さえながら袁術は不思議そうな顔をする三人から逃げるようにして執務室から勢いよく飛び出した。 (れ、麗羽が……麗羽が気持ち悪いのじゃーっ!)  慣れ親しんだ従姉とは違う一面にどうにも袁術の身体が拒絶反応を示したようだ。  遠退きそうになる気を繋ぎとめながら袁術は、一人腕組みして唸りながら廊下を歩く。 「ん……どうしたものか……わからぬのう」  童女への金銭的な援助を少しでも出来ればと思い執務室へと向かったのだが、てんで相手にされなかった。  頭を悩ませる袁術の前に、彼女の側近でもあり保護者的な立場であるぱたぱたと駆け足気味に女性が姿を見せる。 「どうなされたんですか、美羽さま。起きるやいなや部屋を飛び出したから驚いちゃいましたよ」 「それがじゃな、かくかくしかじかでのう」  執務室であったことを事細かに張勲へと説明していく。 「なるほど、これこれうまうまだったわけですか。ううん、それは意地悪ですねえ……チンキューさんももう少し機転を利かせて一刀さんの分を美羽さまの方へそれとなく移すくらいしてくれてもいいのに」 「そ、そうか。そう頼むべきじゃった……」 「今からでも遅くありませんよ、行きましょう。美羽さま」  そう言われて袁術は張勲を連れて、再度執務室へ突撃を試みる。 「しっつれいしまーす」 「主様のお小遣いを妾が受け取るのじゃ!」 「馬鹿なことを言ってないでさっさと帰れー! あと、そこの性悪は自分の持ち場につくのですー!」  †  執務室から投げ捨てられるようにして放り出された二人は廊下で足を止めて向き合っていた。  袁術はしょんぼりと肩を落としたまま、目を伏せる。 「追い出されてしまったのじゃ……」 「まあ、仕方がないですよ。勝手に一刀さんのお金を使うなんて……とんでもない発言ですからね」 「そうか……はぁ」  一段と項垂れながら袁術は溜息を零す。 (安易に何とかするなんて約束するべきではなかったのじゃ……)  袁術の中に少しずつ後悔の気持ちが生じ始めていた。無責任な言動をして期待を裏切ればどれほど落胆させ、呆れさせてしまうことか、考えるだけでも憂鬱になってくる。 「本当にどうしましょうかね……あら? これって……」  上着の衣嚢をごそごそとやっていた張勲が首を傾げながら何やら紙切れのようなものを取り出す。  そして、その紙切れを見た途端、張勲が口もとを歪ませて袁術の肩に手を置く。 「お嬢さま、これですよ、これ!」 「え? な、なんじゃ……急に……きゅ~」  張勲に肩を掴まれてぶんぶんと振り回されて袁術は目を回してしまう。そんな彼女を見て、満面の笑みを浮かべながら張勲が手にしたものを差し出してくる。 「もう、そんなアホ可愛い顔をしてないで、これを御覧になって下さい」 「む、むう。なになに、『数え役萬☆姉妹の公演へおいでやす』……なんじゃこれは」  顔をしかめながら袁術は紙切れをよく見る。どうやら、数え役萬☆姉妹の公演についての広告紙のようだ。衣嚢につっこまれていたからか、くしゃくしゃになっている。 「それで、これがどうかしたというのじゃ?」 「ですから、美羽さまも似たようなことをしてみれば良いんですよ」 「な、なるほど……そうか、うむ。やってみるのじゃ」  にぱっと笑みを浮かべて頷くと袁術はとにかく走り出す。足音が一つしかしないことに気がついて振り向くと張勲が苦笑を浮かべたまま立ち止まっている。 「どうしたのじゃ、七乃?」 「すみません。私は仕事やらないと……その、チンキューさんに叱られちゃいますし」 「そ、そうか。まあ、仕方あるまい。仕事に勤しむが良い」  袁術がそう言うと、張勲は最後にもう一度頭を下げて駆け足で去っていった。  ぽつんと一人取り残された袁術の胸に何ともいえない孤独感のようなものが起こる。 「ど、どうすれば……」  いざ、行動を起こそうにも何からやろうか迷ってしまう。だが、とにかく動かなければと袁術は外へと飛び出した。  †  街の中を歩きながら、袁術はどこから手をつけるべきなのかを考える。  公演を行う会場……これは、現在余所へと駆り出されている数え役萬☆姉妹のでも使えばいいだろう。よく袁術も公演を見に行くことがあったため、大体の要領はわかっているつもりだ。  歌……取りあえず、袁術が知っているものの中から適当に選ぶしかないだろう。もちろん、彼女自慢の美声のみで勝負しなければならない。  客引き……非常に面倒な上にどうすれば効果的かなどを考えさせる予定だった張勲がいないため、袁術自身が考えなければならず停滞。 「何か良い方法はないかのう」  中々良い案が思いつかないまま時間は刻一刻と過ぎてゆき、日は袁術の真上へと上り詰めていく。  何の解決策も導き出すことが出来ず、袁術は若干の焦りを覚え始めていた。  少女のために歌で人々を惹きつけ、すぐに擒として公演の料金でも稼ごうというのが計画の概貌であり、袁術はイケると息巻いていた。だが、実際には初っ端から躓いているような状態。  果たしてこの先、上手くいくのかという不安も首をもたげ始めていた。 「ぐぬぬ……よもや、このようなところで足踏みすることになろうとは」  袁術は歯噛みしながら街の中を歩き回る。こういうときに献策を行ってくれる参謀がいないことが非常に悔やまれる。  そんな彼女の足は自然とよく子供たちに会いに行く際に使用していた奥まったところの広場へと赴いていた。 「と、とにかく発声練習からするのじゃ」  仕方ないと思考を切り替えて、袁術はまずは喉の調子を整えることにして「あーあー」と声を出していく。 「なんの鳴き声だ?」 「こっちから、聞こえてきたぞ」  そんな話し声が聞こえてきたと思いきや、角の向こうからぞろぞろと子供たちが姿を現し始める。いつも袁術が面倒を見ている腕白共である。 「お? ねえちゃんじゃん。なにしてんの?」 「うむ、実はのう……そうじゃ、丁度良い妾の歌を聴いてたもれ」 「歌? 別にいいけど、どうしたんだよ」 「いいじゃん、楽しみ楽しみ」 「どんなかな? どんなかな?」  皆それぞれ期待を膨らませるような表情をしながら膝を抱えるようにしながら腰を下ろしていく。  何故か、その複数の視線に晒されることで袁術はどきどきと胸が高鳴っていくのを感じる。気管が急に締め付けられるように狭まる。 「う……」  喉がからからになって上手く唾を飲み込めない。それでも袁術は喉に手を触れながら咳払いをする。  近くの石段の上に登ると、袁術は手を組んで自分の知る歌を丁寧に歌い出す。  子供たちは瞳をキラキラとさせながら袁術を見上げている。 「ねえちゃんって歌上手いんだなぁ」 「何かいつもとは違う風に見えるよな」  ちらほらと感想を交えながら話す子供たちをちらりと見ながらも袁術は歌い続ける。 「おお、なんじゃいのう? 何やら、可愛らしい歌声がするようじゃが……」 「ん? ガキ共は何してんだ? ……へえ、まるで旅芸人みたいだな」  一人、二人と興味を示し立ち寄ってくるとそれに続くようにして老若男女問わず街の人々が集まってくる。  人が密集してきたこと、更なる緊張の高まり、袁術の額を汗が流れる。  なんとか歌っていた曲を終えると、袁術は汗を拭いながら拍手を受ける。 「おお、いいぞー」 「なんとも若返った気がしてくるわい」 「そうですねぇ……袁術ちゃんも上手ですねぇ」  盛り上がる慣習から包みが投げ込まれる。おひねりだ。とうとう袁術は切っ掛けを手に入れた。  だが、同時にここからは失敗できないという緊張が走る。 「つ、次は……何を唄おうかのう」  熱くなっていたのとは別の理由からくる汗を拭き取りながら、袁術は次の選曲を始める。  そんな彼女へと聞き慣れた声が掛けられる。 「おーい、お嬢さまー」 「む? おおっ!? な、七乃ぉ!」  ニコニコといつもの笑みを浮かべた張勲が軽やかに一歩ずつ袁術の方へと近づいてくる。  心強い増援が到着したと袁術はぱあっと表情を明るくして満面の笑みを浮かべる。 「どうしたのじゃ? 仕事があったはずであろう」 「美羽さまのことが気になって仕方がなかったのでさっさと済ませてきました」 「なんと、そうであったか。それは御苦労であったな」 「美羽さまのためとあらば、どうということはありませんよ~」  そう言って微笑む張勲の忠臣ぶりに半ば感動すら覚えつつ袁術は彼女の来訪を快く迎え入れた。 「なにやらお困りだったようですね……」 「う、うむ。まあ、しかし七乃がいてくれるなら頑張れそうなのじゃ」 「ふふ、そうですか。あ、そうそう、実はですねぇ、私、部屋からいいものを持ってきたんですよ」  そう言って張勲が後ろ手にしていた腕を前に翳すと、その手には弦楽器……二胡がしっかりと握られていた。 「七乃?」 「さ、美羽さま。御自慢の美声を轟かせちゃってください」  張勲は近くから木箱を引きずるとその上に超し変えて、眼を細めながらゆっくりと伴奏の体勢へと入る。  息を整えた袁術は張勲の顔を見つめる。張勲はだまってこくりと頷き、袁術の聞き覚えがある音色を奏で始める。  袁術は鼻から大きく息を吸い込み、腹筋の辺りに力を入れると張勲の伴奏に合わせて口を開く。  美しき調べ乗せて、袁術は歌う。聞いている人々のため、それ以上に自分が後悔しないよう全力を尽くすように。 「ほお、今度は伴奏つきか」 「えんじゅつーちゃーん!」 「がんばれーねえちゃーん!」  応援の声に気分がよくなってくる。先程まではずっしりと重しのようにのしかかってくる邪魔なものだったが、張勲と二人でいる今は非常に気持ちの良いものとなっている。  張勲が来てから数曲を歌い終えると、再びお捻りが飛んでくる。その中で、袁術はさわやかな汗をかいていた。 「うむ、皆の者、妾の歌を聞いて元気いっぱいになっておるようじゃな。妾も元気いっぱいなのじゃー!」  そう言って勢いよく聴衆と共に拳を振り上げると観客も大いに盛り上がる。その様子を見渡して満足そうに頷くと、袁術はすうっと息を吸い込みつつ張勲に次の曲の演奏を始めさせる。 「ら~らら~」  調べに合わせるように音階を調整しながら袁術は声をなめらかに出していく。  それから更に何曲も歌った。喉がかれてしまいそうな程に全てを絞り出すようにして声を張った。聞いていた街の人々も張勲も、そして袁術も路上公演終了の頃には汗でびっしょりとなっていた。  続けているうちにも人は増えていたらしく、最後の瞬間までおひねりは続いた。 「みんな、聞いてくれてありがとうなのじゃー!」 「こちらこそ、ありがたやありがたや……」 「よかったぞー! 次はいつなんだーい?」 「あはは、それは後でまたお知らせしますね」  客からの質問に二胡の表面に玉のような汗をぽたぽたと垂らしながら張勲がにこりと微笑む。  確かにこの先どうするのかはまだ決まっていない。ただ、今回のことを通して袁術の中では決めていることがあった。 「それでは、お嬢さま」 「うむ。今日はコレにてお開き、皆また次の公演で会うのじゃー!」 「わぁぁぁぁぁああああっ!」  いつまでも止まらぬ歓声の中、二人は使用していた台上から手を振り続ける。  それから暫くの間続いた熱い声援も静まり、人々は徐々に散り始め、最終的に残ったのは張勲と袁術、それに彼女の弟分、妹分ともいえる子供たちだけである。  人々が去り、熱気も遠ざかった今もなお、袁術の耳の奥には盛大な拍手と嵐のような歓声の数々が波のように繰り返されていた。  どきどきという動悸が収まらない。  昂ぶった感情が解放されたことによる快感のようなものが神経伝達物質に乗って全身へと駆け巡っている。  そんな興奮冷めやらぬ袁術に張勲がにこにこと微笑みかけてくる。 「いやぁ、相変わらず素晴らしい歌声でしたよ。美羽さま」 「うむ。皆、聞き惚れておったの」  自分の実力、それがこうして評価されたという事実は自信に満ち溢れていた袁術でもやはり嬉しいものだった。 「いやぁ、袁術お姉ちゃん凄かったね」 「俺、びっくりしちゃったよ」 「誰でも何かしら才能があるものなのかもなぁ」 「あたしも大きくなったら歌い手になってたくさんの人をメロメロにする」 「お前にゃ無理だよ」 「なによー! そんなのわからないじゃない!」 「あーほらほら、喧嘩はダメですよ」  喧々囂々と騒ぎ立てる子供たち張勲が宥める隣で袁術は高揚した頭でぼんやりと考え事をしていた。  まるで幼子のような小さな手のひらを広げると、袁術はじっと見つめる。  彼女はじんわりと汗の滲んでいる小さな手をぎゅっと握りしめると空へ向けて高々と突き上げる。 「よーし、妾はあの数え役萬☆姉妹のように崇められる存在となるのじゃ!」 「美羽さまなら、十割中十割可能ですよ、ええ!」 「うむ、ではこれより特訓を頑張っていくぞ、七乃。さあ、ついてまいれ!」 「はい、お嬢さま!」 「それでは、まずは手っ取り早く極意を掴むため、あやつらの事務所に忍び込んで記された書か何かを徹底的に探すのじゃ!」 「はーい!」 「じゃが、その前にこれを渡しに行かぬとな」  そう言って袁術は大きな袋を手に持って朗らかに笑う。  お捻りを掻き集めて纏めた袋。集計すれば一組の母娘の生活くらいならば、ある程度の助けにはなる程度の金額はどうにか集まっている。  これで、少なくとも彼女の妹分的な少女への援助は可能だろう。 「よかったですね、美羽さま」 「のう、七乃……もしも、妾たちが数え役萬☆姉妹のような人気者となって偶像崇拝のごとく称賛されるようになったとしてじゃ」 「ふふ、きっと美羽さまならなれますよ」 「それは当然なのじゃ。気になるのはそこではなくてのう、そんな存在となったとき、この乱れ、荒廃した世の影響を受けておるあの娘のような子供たちに手を差し伸べることができるじゃろ?」 「そうですねえ、結構な儲けでしょうから……何かしらの援助は可能だとは思いますね」 「うむ。ただのう……先程のように聴衆から金品を得るというのは果たして本末転倒とならぬかと思ってな」 「ふふ、ご心配は無用ですよ」 「どうしてそう思うのかや?」 「だって、美羽さまの歌声は全ての人を幸せにすることができるんです。そして、さっきの人たちがそうであるように幸せな気持ちにさせて貰い元気を手に入れたお礼として支弁しているんですよ。ですから、本末転倒なんかじゃありませんよ」 「そうか、それならよいのじゃが」 「ええ、美羽さまにはそのような深く悩むお姿は似合っていませんよ。それよりも、いつものように無責任かつ理由もない自信を元に迷惑を振りまきながら馬鹿みたいにアハハと笑っていればいいんです」 「うむ、少々考え込んでおったが妾らしくなかったの。そうじゃ、妾の道に誤りはなしじゃ! なーっはっはっは!」  袁術は薄い胸を逸らしながら高らかと笑う。  自分を保護していた者、従姉、周囲の者たちの影響を受け幼さの残る少女は一歩を踏み出した。  袁術はこれから進んでいくことになるだろう、守られる側でなく守る側へと変わるための道のりを。