玄朝秘史  第三部 第五十五回  1.懸念  一つの卓を挟んで二人の女性が向かい合う。桃色の髪を振りながらうんうん唸っているのは、桃香。 「桃香様、この件に関しましては……」  主が悩んでいる文章を覗き込み、指を差して説明するのは小柄な軍師、朱里。  そんな二人の様子を、部屋の隅でぱりぽりと菓子を食べながら眺めているのは赤毛の少女――鈴々。  彼女にも勉強のために挿し絵の多い本が与えられているのだが、すぐに飽きてしまい、専ら仕事をしている二人のことを眺めていた。  鈴々は首をひねる。実はもう何度か違和感を抱いているのだが、これまでその正体を掴めずにいたのだ。  だが、その時――朱里が小さく息を吐いたのを見た時、彼女はそれに気づいた。そして、目を細め、何ごとか考え始めた。 「朱里の様子がおかしい?」  鈴々の言葉に、小首を傾げた詠の翡翠色の髪が揺れる。夕食の後で月とゆっくり過ごしていたところに現れた鈴々に当初面倒がっていた彼女も、月が淹れたお茶を飲み、鈴々の話を聞く内に興味をひかれた様子であった。 「うーん。おかしいっていうか、元気ないのだ」 「お疲れなんでしょうか? 蜀とこちらの往復ですし……」  月が心配そうに言うのに、鈴々は、うーん、と唸る。どう言っていいのか、自分でもよくわからないという風情であった。 「それはそれであると思うけど、それだけじゃない気がするのだ」  詠はしばらく視線をさまよわせた後で、まだどう説明しようかと考え込んでいる様子の鈴々に訊ねかけた。 「桃香や紫苑はどう言ってるの?」 「桃香お姉ちゃんには見せないようにしてるみたいなのだ。桃香お姉ちゃんはたぶん気がついてるけど、朱里にそうされちゃうとなにも言えないのだ」 「あー、まー、そうかもねえ……」  その言葉に、月も詠も共に苦笑する。月が詠のほうをちらりと見て笑ったのに、鈴々は気づいていた。詠もまたそういう性質ということだろうか。 「紫苑とは話をして、紫苑は紫苑でなにかやってみるって言ってくれたのだ。でも……」 「あんたはあんたで力になりたいから、ボクたちに相談に来たってわけ?」 「うん。そうなのだ!」  こればかりは元気に答える鈴々。その勢いに月と詠は顔を見合わせて微笑んだ。だが、月は頬に指を当てて考え込む。 「とはいえ、私たちも蜀を離れて長いですし、力になれるかどうか……」 「うーん。まあ、話だけは聞いてみて、力になれそうな奴を判断するとか、かしらね」 「そうだね、詠ちゃん」  そうして、二人は鈴々に詳しい話を要求する。それに応じて彼女が話したところによれば、朱里が元気がないのは今回洛陽に来てからのことであり、戻る前とは明らかに違うという話であった。  ただし、本国でなにかあったという報せは入っておらず、桃香の様子からもそういうことはなさそうであった。また、元気がないように見えながらも仕事にはいつも以上に意欲的で、最近勉強熱心な桃香と共に書庫に籠もって『基本的なところから見直したい』と言っていることなども二人に伝えられた。 「後ろ向きってわけでもないみたいね」  精神的に苦しく落ち込んでいるというなら、話から伺えるような精力的な行動は出てこないだろう。ただし、自分の処理能力以上のものを抱え込もうとしている気配は感じ取れた。 「でも、朱里ちゃんが基礎から学びなおしたいって……」 「よほど根本的な部分なのかしら。それとも桃香に合わせてるのか、そのあたりは伝聞じゃ判断しづらいことかも」 「なにか悩んではいるのだろうけれど……」 「でも、軍師なんて、いつでも悩んでいるようなものだから」 「紫苑さんにも相談できないこととなると、難しいよね」  月と詠は、鈴々の話から類推できることを話し合う。しかし、肝心の朱里の不調の原因は掴めなかった。なにしろ、北伐も白眉も終わり、西涼建国の準備も着々と進んでいる現在、蜀が関わるような緊急の政治的問題は存在せず、思い当たる節がないのだ。 「結局、鈴々は……なにが出来るのだ?」  二人の会話をしばらく聞いていた鈴々が堪えきれずにぼそりと呟く。 「そうね。あんたは、まず、桃香や朱里の邪魔をしないことかしらね。桃香の護衛なんでしょ? あんたが職務をしっかり果たしてて、その部分を心配しないで済むとなったら、朱里だって安心するだろうし」 「うー、でも、それだけじゃ……」 「って言ってもすぐには……ボクたちも考えてみるけど」 「華琳さんやご主人様に、それとなく相談してみますから……」  不満そうに椅子の上で体をもぞもぞさせる鈴々に、詠と月は顔を見合わせ、ついでなだめるように声をかける。それから、詠は少し厳しい声で告げた。 「それと、軍の関係ならいざ知らず、政の関係なら、あんたはあんまり動かない方がいいわ。ボクたちが探ってみるから、待ってなさい」 「むぅ……。わかったのだ」  不承不承という風ではあったが、鈴々は頷く。それから、顔をあげ、月と詠に嬉しそうな笑顔を向けた。 「お願いするのだ」  という明るい声と共に。 「ふうん……。それで、実際の所、詠はどう思ってるんだ?」  話を聞き終えて、一刀は彼の腕を枕に眠っている月の淡い色の髪をなでながら訊いた。訊ねられた詠もまた、月の向こうで彼の腕を枕に裸身を横たえている。 「わかんない。白眉の後始末にしろ、涼州にしろ、そんなに悩むようなことはないと思うのよ。問題がないとは言わないわよ? どっちかというと問題山積でしょうね。それでも、朱里にとってはそんなもの日常に過ぎないと思うし」 「そりゃそうだな」  少し寒くなった男は、寝台の端にわだかまるようになっていた掛け布をとって、自分を含めた三人の体にかけた。逆の端にあたる詠が引っ張って調節する。 「ただ、鈴々が気にしてるってことは、実際、朱里は元気がないんでしょうね」 「ふむ」 「鈴々はまだまだ子供だけど、だからこそ、周囲の雰囲気を察するのは得意よ。あんただって経験あるでしょ。その場で一番若いからこそ、嫌な雰囲気をなんとかしようと考えるとかそういうの」 「若いのが道化を演じると場が和むからな」  詠の意見に、理解の態度を示す一刀。たしかに大人たちや上の立場の人間が見ようとしないことを敏感に感じ取り、依怙地な者たちには出来ないまっすぐなやり方で悪い空気を払拭しようとする若い人間、という図はよく見られる。 「で、逆にボクから訊きたいんだけど、あんたたち、蜀になにか無茶な要求とかしてる?」 「うーん。そう言われても……」  一刀は空いた側の手を自分の顎に持っていって、生えかけてきている髭をこすった。 「たとえば北伐への協力自体、見方によっては無理矢理とも言えるし、愛紗の件もあるし……。だけど、そういうのって一応それなりの決着を見てるよなあ?」 「そうね。蜀がどう受け止めてるかは別としてもね」  少なくとも、急に朱里が思い悩むようなことではない。詠の返答にそういう意味をくみ取って、彼は続ける。 「それに、なにか俺が知らないことがあったとしても、華琳だぜ? 桃香が洛陽にいたら、桃香につきつけるだろ。朱里にだけ話がいくことなんて、ないよ」 「そう。じゃあ、やっぱり魏は関係ないのかしら……」  男の尤もな意見に詠はくるりと目を一回ししてみせる。 「他は……朝廷とか? 風に訊いてみるか」 「そうね。お願い」 「で、ひとまずは、気晴らしやなにかで力になってあげるのがいいのかな?」  んぅ、と小さな声を漏らして擦り寄ってくる月を抱きしめ、詠もさらに引き寄せながら、一刀がそう訊ねた。 「根本的なところはともかく、鈴々のほうを落ち着かせるためにも、それがいいでしょうね。どこかに散策でも行かせたらどうかしら。ほら、翠の時みたいに」  男の動きに抵抗することもなく、詠は身を寄せる。三人ぴったりとくっつき、お互いの温もりを感じあう。 「ん。わかった。華琳と相談してみることにする」 「んぅ、お願い……ね」  常よりもずっと遅い言葉の調子に、一刀は視線を向けた。とろんとした目と表情は、彼女がほとんど夢の中に入っていることを示している。 「おやすみ、詠」  彼のかけた声が聞こえていたかどうか。詠はまぶたを閉じ、すーすーと規則正しい息をたてはじめるのだった。  2.陳留 「やあ、懐かしいな」  陳留の町の外壁や門が見えはじめると、一刀はそんなことを呟いた。横で馬を進めていた銀髪の女性が首をかしげ、ふむ、となにかに気づいたように頷く。 「ああ、そうか。陳留は曹孟徳始まりの地であったか」 「うん。俺もこの近く……ってほどでもないけど、このあたりで拾われたんだよ」 「ほう」  男の言葉に、華雄は眼を細める。一刀はそれ以上なにか言うでもなく、周囲の風景を楽しげに眺めていた。 「魏の旧都……か」 「天下の要衝、四通八達の地。劉邦にもそう進言されちゃう土地よねー。まあ、華琳はいいところ押さえてたものよ」  一刀たちと馬車を挟んで逆側を進むのは、黒白の仮面をつけた二人の女性。彼女たちも陳留を目に留めて、言葉を交わし合う。雪蓮の感慨に、しかし、冥琳は鼻を鳴らしてみせた。 「ふふん。当初の根拠地で言えば、袁術もまた有利であったろうさ。結局は、それをどう伸ばせるか、だ」 「まあね。私たちが出遅れたとか今更言うつもりはないわよ。単に、華琳は最初から見る目があったと褒めてるだけ」 「おや、珍しい」 「なによー」  そんな風にきゃらきゃらとじゃれ合う中、一団は進んでいく。右に華雄と一刀、左に雪蓮に冥琳。彼らが間に挟む馬車の中には、桃香、朱里、鈴々の三人が乗っている。一行は、華琳から依頼を受けて陳留に向かうところであった。 「陳留の邸?」 「ええ。朱里がどうとかいう話を聞いて思いついたのだけど」  一刀から相談を持ちかけられた華琳は少し考えた後、桃香や朱里と共に陳留に向かい、私邸に残る書物を回収してこないかと彼にもちかけた。 「いま、桃香が色々と勉強しているのは知っている? ここでも書庫に籠もってるのだけど」 「ああ」 「それで、彼女が読みたいという書がいくつか所在不明なのよ。無くなったという記録はないのだけれど、黄巾以来の混乱でどこに紛れ込んだのかわからないの」 「ふうん? そういうのは整理させているものかと思ったけどな」  一刀は不思議そうに訊ねる。曹孟徳の人材好きは世間でも噂されるほどだが、勉強熱心さもそれに劣らないくらい彼女の人格を支えている。書物をないがしろにする性質ではないし、散佚しそうなものがあれば真っ先に探させているだろうというのが彼の予想であった。 「本当に貴重なものは確保してあるわよ。桃香が読みたいというのは、優先順位がそう高くないというだけ」 「そうなんだ?」 「ええ。私は既に読んだし、所有もしているようなものばかり。もちろん、重要な書物ではあるけれど」  なるほど、と男は内心で頷く。要するに、桃香はまだ華琳ほど深く学問の世界に分け入っていないというわけだ。 「それで、私が貸してあげようと思ったのだけど、陳留の邸に置いたままなのがあったのよ。ちょうどいいから、それらも含めて全部洛陽に移そうかと思って」 「それで、どうせなら、桃香たちを連れていってやらせればいいって?」 「そ。もちろん梱包や移送には他に人を出すけど」  朱里に気晴らしをさせるにはちょうどいい名目でしょ、と華琳は笑った。 「なにを気に病んでいるか知らないけど、洛陽を離れれば少しはましになるかもしれないし」 「自分の都が悪いみたいな言い方だな」 「だって、陰謀の巷じゃない」  そう言って、魏の覇王は艶然と微笑むのだった。  そんな経緯で、彼らは華琳の邸を目指していた。華雄は護衛に、冥琳は書物を扱うために、と一刀が頼んだが故についてきているのだが、雪蓮だけは自分から行きたいと言い出しての同道であった。一刀本人も桃香たちも、いつもの雪蓮と気にもしていない。  陳留の中に入ると、一刀が率先して道を示し、進んでいく。その様子を御者台から見ていた鈴々は、感心したように訊ねた。 「お兄ちゃんは、ここ詳しいの?」 「しばらく来てないけど、そうは変わってないからな」 「ふーん。じゃあ、美味しいお店も知ってる?」 「ああ。後で案内するよ」  さすがに場所を移した店などもいくつかあるだろうが、知っていた所の全てが無くなっていたりはしないだろう。一刀はそう考えて、約束する。 「ありがとなのだー!」  嬉しそうにお礼を言う鈴々を好もしげに見つめた後、彼は考える。鈴々は楽しそうだが、はて、当初の目的の朱里はどうなのだろうか、と。  その朱里は、馬車の中で、主と共に陳留の町並みを眺めていた。 「うーん、わくわくするね!」  うきうきと物珍しげに窓の外を流れる景色を眺めているのは桃香。彼女は義妹に負けず劣らず楽しそうな様子であった。 「そんなに楽しみでいらっしゃるのですか?」 「だって、あの華琳さんの邸だよ? すごそうでしょ!」 「そ、そうですかねぇ……?」  桃香の発想に時々ついていけなくなる朱里である。彼女は華琳の蔵書には興味があったものの、邸を楽しもうなどとは考えていなかったのだ。 「華琳さんがずっと過ごしていた邸なら、華琳さんの趣味が反映されていると思うんだよね。特にここはまだまだ駆け出しの華琳さんが過ごしていた土地なんだし!」  華琳自身は政務の関係で私邸にいるよりは都の中央に位置する城にいるほうが多かったのではないかと思うが、朱里はあえてそれを指摘するようなことはしない。実際、桃香の発言には気づかされる部分もあった。  朱里は首元の鈴を指でいじり、ちりちりと音を立てながら考える。  陳留の刺史として黄巾の鎮圧に尽力し、頭角を現した曹孟徳。その足跡をわずかでも感じ取ることが出来れば、いまの華琳を形作るものを読み解く材料になり得る。ことに私邸の書庫ともなれば、彼女がなにを学び、なにを考えたか、それを知る手がかりは多く残っていることだろう。  これは良い機会なのかもしれない。  陳留へと誘われた時は、桃香が学びたがっていることの手助けになればと思っていただけの彼女であったが、考えてみれば、貴重な機会であることは間違いない。 「たしかに、そういう意味では、色々と勉強になるかもしれませんね」 「でしょ? たのしみだよねー」  にこにこと笑う桃香に、同じように期待に満ちた笑みを向ける朱里であった。  3.対話 「ふむ、さすがにいい庭だ」  開いた窓から邸の庭を眺めながら、そんなことを独りごちる一刀。朱里の推測通り、陳留時代の華琳は城暮らしで、拾われて以後の一刀も同様であった。邸の場所や存在は知っていても、ゆっくりと中で過ごしたことはない。  だから、こうして夜の庭を眺めるのも彼にとってはかなり新鮮な出来事であった。 「とはいえ、寒いな……」  春や夏ならばきっと緑色濃くなるであろう庭を眺めながら酒杯を傾けるのも楽しそうだが、冬の季節に窓を開け放しておくのは辛い。彼は窓を閉じようと立ち上がり、そして、気になるものを見つけた。  庭の端に作られた小さな池の畔を歩く人影がある。その人物が掲げている灯りのおかげで、その顔もよく見える。なんとなしに愁いを秘めた表情で水面を眺めているのは、柔和な顔つきの女性。  一刀はその姿をじっと見つめ、彼女が歩みを止めたところで、思い切って声をかけた。 「おーい、桃香ー」  名を呼ばれ、女が顔をあげる。桃色の髪が揺れ、しばしさまよった視線が彼を認めた。 「どうしたの? 眠れない?」 「んー……」  ゆっくりと近寄ってきた桃香に、一刀が訊ねかけると、彼女は不機嫌な猫のような声をたてる。それから、彼女は一刀を真っ直ぐに見つめた。 「一刀さん、ちょっとお話しできるかな?」 「ああ、いいよ。俺が出ようか?」 「ううん。そっちに回るよ。いいかな?」 「わかった。じゃあ、待ってるよ」  そんな遣り取りを経て、桃香が一刀の部屋にやって来た頃には、部屋には火が入れられて温められ、卓の上には彼女のためのつまみと酒が用意されていた。 「わざわざごめんね」 「いやいや。どうせ酒は飲んでいたし、酌み交わす相手が出来て、ありがたいくらいさ」  もうしばらくしたら、雪蓮たちか華雄を誘いにでも行こうかと考えていたほどだ。桃香が話をしたいというならいくらでもつきあうつもりであった。 「いいところだね。書庫もかなりしっかりしてたし」 「ああ、あれは俺も驚いたね。たぶん、華琳が仕事もできるように作ったんだろうけど」  書庫というが、この邸にあったのは、実際には書斎に近いものであった。書き物が出来るような机を囲うように、三方に天井までびっしりと書棚が作り付けられている、そんな部屋。 「華琳さん、毎日あそこで勉強したんだろうね」 「そうかもしれないな」  そこで、桃香は躊躇うようにした後、酒杯を手に取った。勢いをつけるように酒を喉に落とす。うん、よし、と一人小声で呟いて頷くのを一刀は黙ってみていた。 「あのね、一刀さん」  いよいよ真剣な顔で、彼女はずいと身を乗り出す。髪が揺れるのにあわせて、穏やかな甘い香りが漂ってくるのを男は感じた。 「なにかな?」 「この国のことどう思う?」  唐突な問いかけに、一刀は首を傾げた。しばし、考えてから彼は確認する。 「魏の国ってこと?」 「ううん。漢朝……かな」  彼は少し驚いたように息を吐き、ふむ、と顎に手を当てた。 「……そうだなあ。国としてのまとまりは現状ないよね。実質的には三国の分割統治だし、朝廷に力はない。そもそも帝をはじめとした朝廷の中枢が、国としてのまとまりを取り戻そうと考えているのかどうかも怪しいように思う。こんな名目だけだと、いずれ無くなってしまうんじゃないかな」  ああ、でも、と彼は自分で言ったことでなにか別のことを思いついたような表情で続ける。 「ただ、王朝としての権威はまだ残存しているわけで、うまくやれば、権威を保証する機構として存続することもあり得るんじゃないかな。俺がかつていた世界でも、政に関わる事はやめてしまって、象徴的な存在になった王家や国家機構ってのはあったからね」 「そっか。そう言えちゃうんだ……」  驚いたように、あるいは怯えたように、桃香は細い声で呟く。その様子に、一刀はかつて雪蓮に言われたことを思い出していた。  一刀は異質であると。  それはそうなのだろう。生まれた時から漢王朝が存在している生活と、二十一世紀日本からやってきたのでは、認識は異なるのが当たり前というものだ。  彼はそれをどう説明すべきかと考え、顔をうつむけている桃香をなだめるように言った。 「ええと、そうだな、俺にとっては、生まれ育った国というわけではないから。魏に帰属意識はあっても、漢には……ないかな。軽く見ているわけじゃないけど、なんていうか、その現実的問題として、ね」 「ううん。わかってる」  一刀のおっかなびっくりの言い方がおかしかったのか、桃香は苦笑しながら顔をあげる。 「私たちだって、この国がうまく行っていないのはわかってた。だからこそ立ち上がったし、皆の意見の違いから戦うことになった。それは、わかってるの」  桃香はふと視線を逸らし、額に指をあてて何ごとか考え始める。 「うんとね、うまく説明できるかな……」 「いいよ。ゆっくり話してくれれば」 「あのね、一刀さん。私、この国を知りたかったんだ」  励ますような一刀の言葉に、桃香は一つ頷き、顔をさらに引き締めて話し始める。 「知りたい?」 「こないだ白眉の乱が終わって、それで、あれって思ったの。そもそも、なんで黄巾の人も白眉の人も、あんなに激しく戦ったのかな、って」  その疑問は、素朴だが重要なものだ。そういった疑問を考えない王は、よい為政者とは言えないだろう。真剣にそれに取り組もうとする桃香に、一刀は感心していた。 「さっきも言ったけど、この国が乱れてたのは、前から知ってたよ。税をごまかす役人はいっぱいいたし、盗賊が出ても退治しようともしない地方の軍人もいたし、生活が大変なのも知ってた。だから私たちはなんとかしたいと思った。でも、あの頃は、それこそ必死で、なんでそういうことになったのか、なんて考える暇はなかったの」 「まあ、そうだよなぁ……。あの頃は、とにかく対処するので手一杯だったよな。どこでも」 「でもね、白眉が終わった時に考えたの。北伐も白眉も終われば、一応、しばらく世情は安定するはずでしょ? だから、いまなら、白眉や黄巾の人たちを生み出した、大元の大元……。この国がどうしてそんな乱れた風になったのかっていうのをわかろうとする時間があるかな、って」 「それで洛陽に?」 「それだけじゃないけど」  照れたように、彼女は笑う。その表情の奥になにが隠れているのか、他になにを求めているのか、それを一刀が知る術はない。しかし、少なくともいま話している動機に対して桃香が真剣であることは、彼にもよくわかった。 「私、いっぱい勉強したよ。これまでにないくらい本も読んだ。それで、思ったんだ」  大きく息を吸い込んで、何かを宣言するようにはっきりとした口調で、彼女は言う。 「この国は……漢という国は、みんなの方を向いてない。民のことを見ていないって」  一刀はすぐには答えられなかった。先程自分で言ったとおり、彼が漢王朝を否定するのは、ある意味で簡単なことだ。なにしろ、他からやってきた人間に過ぎない。そして、実際に、漢よりも魏に生きていると感じている人間だから。  だが、口にしているのは、この国で生きてきた人物なのだ。そして、なによりも、漢を建てた劉邦を祖に持つはずの女性なのだ。  それが、漢を否定する。そのことの意味を、桃香がわかっていないはずはない。 「それは……王としての思い? それとも……」 「ううん。立場とかそんなの関係ない。私の、考え」  真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに、桃香は言う。その真っ正面から切り込んでいく答えに、彼は爽快さと共に危うさも感じていた。立場の上から言えば、彼は他国の人間だというのに。  だが、いまは、一人の友として話を聞くべきだろう。  一刀は椅子の上で居住まいを正し、酒杯に残っていた酒を一気に呷って、彼女に向かい合った。  同じ頃、邸の廊下を進む小さな影が二つ。灯りを手に進む朱里の後ろを、長大な得物をぶらぶらさせながら鈴々が続く。彼女たちがとある角を曲がろうとしたちょうどその時、向こうから、これも二つの影が現れた。  闇の中に浮かび上がるのは黒白一対の鬼の貌。  その異様さに、二人してひっと息を呑む。 「あら、どうしたの、二人とも。こんな時間にお散歩?」  酒瓶と籠を抱えた白鬼に陽気な声で訊ねられたことで、ようやくその正体に思い至り、硬直していた鈴々と朱里の体から力が抜ける。 「しょ……その、桃香様のお姿が見えないので、少々心配になりまして」  もつれる舌をなんとか立て直し、朱里が言うのに雪蓮と冥琳が顔を見合わせる。その唇に薄く笑みが乗ったのを、朱里たちは認められたかどうか。 「あら、桃香なら一刀となにか話し込んでるわよ」 「そうなのですか?」 「ええ。さっき部屋に行こうとしたら、声がしてたから」  雪蓮の言葉を保証するかのように、冥琳は隣で頷いている。それを見て、朱里も納得したようだった。 「ほら、朱里。心配しすぎだって鈴々が言ったとおりなのだ」 「……そのようですね」 「ねえ、それよりもさ」  気を回しすぎたか、としょんぼりしている朱里に構わず、雪蓮はぐいと身を乗り出し、鈴々に話しかける。 「一刀と一緒に飲もうとお酒とおつまみ持ってきたんだけど、なんか忙しそうだし、鈴々、つきあわない?」 「お、なにがあるのだー?」  わいわい言いながら、二人はどこかへ去っていく。ひらひらと手を振る雪蓮に、冥琳はさっさと行けと言わんばかりに手を振りかえしていた。 「さて、孔明どの?」 「はい?」  取り残された朱里は挨拶をして部屋に戻ろうと考えていたが、その前に冥琳のほうから声をかけられた。 「軍師は軍師同士、少々お話があるのだが、よろしいかな?」  その言葉の響きのどこになにを感じ取ったのか、朱里の表情が明らかに変わる。警戒と緊張を押し隠した柔らかな笑顔で、朱里は応じた。 「ええ、もちろん」  と。  4.帝位  蜀の女王が陳留へ赴くために洛陽を出発したその頃、呉の女王一行を乗せた船団は、荊州における同国の本拠地、巴丘へとたどり着いていた。  最前線で戦ってきた兵たちに熱烈な歓迎を受けた後、腹違いの姉妹の顔合わせなども済んで、呉の重鎮たちは久々に一堂に会していた。留守番として建業に残る小蓮を除いて。 「さて、例の戯志才殿の話だけれど」  軽めの案件をいくつか片付けた後、蓮華がそう切り出すと、場の空気は明らかに変化した。 「あれは、本当に稟なの?」  まず、彼女は基本的な事項の確認から入った。呉の諜報を司る明命はこくりと一つ頷いただけ。だが、片眼鏡を煌めかせて亞莎がそれを補足した。 「この情報の確認のために、明命は部下を二人失ったそうです。この反応からして、かえって信憑性はあるものかと」 「殺されたのか?」  相変わらず蓮華の後ろで彼女を守る様に控える思春が、鋭い調子で訊ねる。明命はそれに対して首を横に振った。長い黒髪がゆったりと宙を舞う。 「いえ。わかりません」 「わからない?」 「戦時ならば、間諜の死体を晒すことも一つのやり方ですが、いまは平時。金や助命を条件に転ばされたか、あるいは秘密裏に処理されたか。いずれにせよ、表に出るものではありません。見せしめなどの手段は、それに付随して何かを伝えたい時以外は取らないものです」 「ふむ」  思春は得心したというように頷いてみせる。この程度のことは彼女も承知のはずだが、万が一間違いがあってはいけないと口に出させたのだろうと明命も理解していた。 「では、あれが稟の手によるものだという前提に立ったとして、なんのためにあのような書を世間に広めようとするのか。そのあたりを……穏?」 「はいはーい。では、みなさんにご理解いただくために、歴史のおさらいからはじめましょー」  王の指名に、明るい声で楽しげに手を振るのは、筆頭軍師たる穏。彼女はのんびりとした口調で、講義を始めるかのような雰囲気をまとって話を始めた。 「まず、儒教の経典に対して、緯書というものがあります。経典の解釈や注をまとめたものですね。本来は補助的なものでしたが、だんだんこれも聖典として扱われるようになって、孔子の言葉として尊重されるようになっちゃいます。えぇ、まぁ、はっきり言っちゃいますと、その時代時代の儒学者さんたちが、勝手に自分の意見を権威あるものに見せかけたってだけなんですけども。虎の威を借る……というやつですね」  辛辣な内容を、暗さをまるで感じさせず、彼女は言い切る。 「それで、この緯書ですけど、経典の無理矢理な解釈をさらに権威づけるために、いろんな予言というか、お告げみたいなものが混じっちゃってるんですよねぇ。ありえないような論理の飛躍を、神聖な存在を持ち出すことでなんとかごまかそうとしてる、涙ぐましい努力です。冷静に見ると、お莫迦丸出しですけど」  でも、こういうわけのわからない予言だとかが受けちゃったりするんですよねえ、と穏は困ったように呟く。 「さて、新を建てた王莽さんのことは、みなさんご存じかと思いますけどぉ、この人はそういった預言の類を利用して、漢から王朝を引き継いでます。これに続く光武帝も、実は同様の予言をわんさと利用してます。新を作るときに王莽さんが……というよりは、王莽さんに阿りたい人が偽作した書物とかも利用しまくっちゃってます。光武帝、さすがの図太さです」  うんうん、と感心したように彼女は頷く。その大げさな動きに、豊かな胸が連動していた。 「さてさてー、現在の漢王朝を実質的に打ち立てた光武帝からして、そういったあやしげな予言の類を利用して帝位についた歴史を考慮に入れまして、この稟ちゃんの書いた書物の存在を考えてみますとぉ」  そして、彼女は言う。実に軽々とした口調で、衝撃の予測を。 「これは、一刀さんを帝とするための準備です」  部屋を、沈黙が支配する。  その中で一番に口を開いたのは、やはり蓮華であった。彼女は眉間に皺を寄せながら、とんとんと卓を指で叩いて考えをまとめようとする。 「そのような策を、本気で華琳たちがやるものだろうか?」 「そもそも天の御遣いそのものが、管輅のえせ占いから来ていることを忘れてはいけませんよー。きっかけは怪しげでいいんです。広まってしまいさえすれば」  人は信じたいものを信じる。  動乱の時代を収拾してくれる存在が現れるとなれば、すがりつきたくなるものだ。実際に効果がなければ忘れ去られるが、実績を積んでしまえば、それは確定した事実と変わる。  さらに、実際に力で手に入れたものを権威づけするのにも予言は利用できる。後から、こんなことが書かれていたと取りあげれば、いつの間にか、最初から皆が知っていたことにすりかわっていくものだ。 「つまり、それは、あやつの宣伝のための書か?」  くい、と顎を動かして、思春は卓上の冊子を示す。穏はうーんと一つ唸ってから続けた。 「正確に言えば、これは様子見のためのものでしょう。もちろん、宣伝要素もないとは言いませんが。それについては、天の御遣いっていうのだけでも十分ですし。それよりも重大なのは、これらの意見に目に見える反発がないことです。孔融たちの乱はありましたが、あれは、準備段階を考えればこの冊子とは関係ないでしょうしねえ」 「反発がないことを確認する……という狙いですか?」 「漢朝を積極的に支持する勢力はもう衰えきっている、と結論づけるため、とも言えますねー」  明命の言葉に、穏はにこにこと同意する。 「あるいは……」 「亞莎?」 「あ、いえ、なんでもありません」  ぼそりと呟いたところで蓮華に声をかけられた亞莎は、恥ずかしそうに長い袖を持ち上げて顔を隠してしまう。その様子に苦笑する一同。穏は後輩軍師の肩を優しく叩いて注意した。 「亞莎ちゃん、意見があるならちゃんと言わないと。わたしの見方だけが正しいわけじゃないんですからー」 「は、はい。ええとですね……その、あれを書いたのが稟さんだとすると、華琳さんの命であったことは確実です。その上で、華琳さんと稟さんの性格を考えると……。もしかしたら、敵を作り出したかったのではないか、とも」 「敵?」 「敵ですかー?」  皆が首をひねる中、一人、蓮華が何かに気づいたような顔つきになる。 「……そうか、挑発か?」 「はい。穏さまの確認という意見と大勢は変わりませんが、敵をあぶり出すより、あれで敵が結束して、強力な勢力となってくれるのを期待していたのかもしれません。漢を支え、今上をもり立てて、自分と一刀様に挑んでくるような存在がひとまとめになってくれることを」 「そして、それを撃退……つまりは漢を滅ぼすことで、あれを帝位に押し上げる、か」 「はい、それが一番望ましい展開だったのではないかと」  その意見は、元々攻性の思考をする呉の面々には理解しやすいものであった。相手から動いてもらい、それを叩く。大義名分を守りつつ、一挙に事態を動かせる策だ。 「しかし、期待に反して、それに呼応して起つほどの者はいなかった……か」  蓮華が結論づけるように言うと、場にはなんとも言えない雰囲気が漂った。彼女たちも名目上は漢の臣だ。だが、漢の危機を理由に動く者はいない。そのことを皆がわかっていたからだ。 「一つよろしいでしょうか」  弛緩しかけた空気に、明命が厳しい調子で言葉のくさびを打ち込む。全員の視線が彼女に集まった。 「私は、この情報がこの時点で得られたことに、少々疑問を感じます」 「どういうことだ? これは、白眉が都で引き起こした混乱によって流れ出たものではないのか?」 「そういうことになっています。我々にはそう見えます。しかし、あまりにできすぎています」  それは、諜報の長としての勘と言ってもいいものだったかもしれない。明確な根拠はないものの、明命は違和感を抱いていた。 「ふむ……」 「魏はこれを知って欲しかったのではないかと、私は考えています」  彼女の意見を聞き、二人の軍師は顔を見合わせる。彼女たちはぶつぶつと呟きながら、お互いの考えを読み合うように視線を絡ませた。 「我々に知らせたい理由……あるいは、知らせても害にならない時機。つまり……」 「一刀様を帝に推戴すると宣言する日が、間近に迫っている……?」  そうして、二人が結論を下す。蓮華はそれを聞いて思わず額を押さえていた。 「時が迫っているか……」 「私の見方でいけば、もう三国に宣告しても何の問題もないと判断したことになりますし、亞莎ちゃんの見方を取れば、敵が出てこないのでもう諦めたか、潜在的な敵を、あえて公表することで後押ししようとしているのか」 「それについて、もう一つ。……これはまだ不確定な情報なのですが」  明命が何気なく補足した情報は、それまでに与えた全てより、さらに大きな衝撃を彼女たちに与えた。 「む……それは……」  唸りのような声が、ほうぼうで上がる。穏が興奮した様子でぶんぶんと手を振った。 「それならば、あり得ます。魏が動くには十分なきっかけです」 「とはいえ、こちらの情報の確度は、まだ不十分です。今後も探りを入れますが……」  だが、明命の言葉を、蓮華は遮った。 「いや、いい。それについて触れすぎるのは危険だ」 「しかし」 「止めてちょうだい、明命」  なおも反駁する彼女に、呉の女王はくだけた口調に戻って、頼むように命じた。 「わかりました」  そう言われてしまうと、いかに職務に忠実な明命としても、それ以上食い下がることは出来ない。 「思春、穏」  しばらく思案した後、すっと背筋を伸ばし、蓮華は片手をあげた。最も親しい武人と、筆頭軍師を指さす。 「はっ」 「はぃ〜」 「軍に警戒態勢を取らせるのは未だ早い。だが、用意はしておけ」 「いつでもご下命を」 「了解いたしましたー!」  次いで呉の女王は諜報の長に向き直った。 「明命、此度の我らの上洛において、洛陽近辺の人員全てを、脱出経路の確保に注力させよ。それ以降は引き上げてもいいと心得て当たれ」 「はっ」  それから、彼女は全員の顔を見渡し、固い声で宣言した。 「我らは、呉の民がなにごとかに巻きこまれることをなんとしてでも防ぐ。誰を敵に回してもだ」  5.覚悟 「先程の話、本気?」  討議の後で皆を下がらせながら、蓮華は一人、穏だけを部屋に残していた。 「一刀さんを帝にする策を華琳さんが実行してるって話ですか? ええ、もちろんですよー」 「簒奪の汚名をかぶってまで?」 「うまくいけば、そんなの気にならなくなるものですよぅ」  明るい声で笑いながら答える軍師の姿に、蓮華は深刻な話をしている気がどうにもせず、居心地悪げに、いすの上でお尻の収まる場所を探し直した。 「……それで、一刀が帝になったとするわね。その時の我らの行く末を、どう考えているの?」  そこで、少し穏は沈黙を保つと、人差し指を己の顎に当て、斜め上方を見るような格好になった。 「蓮華様? 私たちは赤壁で負けましたよねー?」 「負けたわね」 「捲土重来を期し、蜀に逃げて、それでも負けましたよねぇ?」 「う、うん」  敗戦は事実であるが、そこまで言われると、なんだか心に来るものがある。思わず歯切れの悪くなってしまう蓮華である。 「でも、私たちは呉を支配することが許されてますねー。文台様が亡くなられた後、雪蓮様、冥琳様が我慢し続けてきた日々とくらべたら、雲泥の差です」 「それはそうでしょう。袁家と華琳では比べものにならないわよ」 「ですよねー」  ひらひらと手を振って、いやなものをはねのけようとでもするような仕草をする蓮華に、穏は朗らかに笑い声をたてて同意する。 「一刀さんにしろ、華琳さんにしろ、頭を垂れる相手としては、そう悪いものではありません。干渉してこない限りにおいては」 「……最悪の相手を知っているからこそ言えることとも思えるけど?」 「経験は糧ですよー?」  はぐらかすように笑う穏に、これはもう単刀直入に行くしかないと、蓮華はずばりと訊く。 「それで、なにが言いたいの?」 「なにもそう警戒することはないということですよー。従うにしろ、隙を窺って攻勢に出るにしろ、いまは表だって動く必要はありません。力を蓄えていればいいんです。要するに、いつも通りってことですけど」  それから、彼女は視線を戻し、蓮華を真っ直ぐに見つめてきた。 「穏としてはですねー。正直、魏よりも蜀を警戒すべきと進言いたしますねー」 「桃香を?」 「桃香さんを、というわけではないんですが、まあ……同じですか。先程の予想から言って、魏は大きく動くでしょう。敵対か、服従か、一時的なものか、永続的にその態度を取るか。考えるべき事は多いですが、先程も言ったとおり、いまは力を蓄えるのが先決です。しかし」  そこで、彼女は小さく肩をすくめる。それだけの動作でも、ぶるんと胸が揺れた。 「蜀の動きに関しては読めません。魏は大きな動きをしているがためにその歩みを留められないでしょうし、進む先も予想がつきますが、それに対する蜀の反応が、読めないんですよねぇ」 「ふうむ……」 「魏とは敵対関係になったとしても、江水を挟んでの持久戦が可能でしょうけれど、蜀とは荊州で接しますから」 「持久戦など可能かしら? 穏の言うとおり、既に私たちは赤壁で負けているのよ?」  なんだか簡単そうに言ってのける穏に、蓮華は首を傾げて疑問を呈する。 「だからこそですよ。華琳さんならいざ知らず、一刀さんを帝に据えてなら、いまさら赤壁を再現する必要もありません。もし来るなら、確実に勝てる水軍を仕立ててから来ると思いますよー。そんなことになる前にどこか妥協点を探りたいところですけど」 「む……」  自分が考えていたよりさらに恐ろしい予想に、蓮華は言葉に詰まる。赤壁を再現どころか、水上での決戦を諦めなければいけない程の軍を編成してくるに違いないと、彼女は言っているのだった。  だが、魏の実力を持ってすれば、そして短期での決着を殊更に望まないとすれば、それくらいのことは当然あり得る。 「では……魏の大きな動きに対しては地力をつけること、蜀に対しては短期的な視点で警戒を強めること。そういう方針がいいということかしら?」 「穏としては、そう思ってますー」  それから、穏は小さくため息を吐いて言った。 「なんにせよ、これから洛陽に行きますから、そこで見極めるしかありませんねぇ」 「むむ……。そういう、腹に一物隠しての動きというのは、苦手だな……」 「蓮華様?」  出来の悪い生徒を叱るような調子で、穏は声をかける。 「政と個人のつきあいというのは、別ですよ? そのあたり、混同すると、大変なことになっちゃいますから気をつけてください」  声音こそ優しげだが、厳しい指摘に、蓮華は無言で頷くしかない。 「いいじゃないですか。赤ちゃんを一刀さんに会わせてあげにいくって、まずはそれだけで」 「そうね。そう、考えましょう。うん、ありがとう、穏」  一転して本当に優しい声で励ますように言われるのに、彼女は素直に頭を下げた。 「では、行きましょう、洛陽へ」  そうして姿勢を戻し、そんな風に穏に語りかけたとき、そこにあったのはまさに呉の女王の顔であった。      (玄朝秘史 第三部第五十五回 終/第五十六回に続く)