「無じる真√N71」  冀州の鄴、そこには留守を預かる……といえば聞こえは良いが、その実、北郷一刀や公孫伯珪らに取り残された者たちがいる。  そして、そこで繰り返される日常の一欠片を担う女性は現在、自室にて物静かにしていた。  現在、袁紹は非常に不機嫌だった。  むくれた顔で寝台に腰掛けている。しかし、その瞳は真剣そのもので、緊張からかゆっくりと伸ばした手が震えている。 「むむむ……」  袁紹は眉間に皺を寄せて目の前を睨み付ける。呼吸もせずに彼女は一点に集中している。  一足指と親指を立て、凍えているかのような指先でゆっくりと目標物に触れる。心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。  どく、どくと脈打った振動が対象物に伝わらないか不安になり手を引っ込めてしまう。  袁紹は一度、身体を後ろへ下げると深呼吸し、ごくりと唾を飲み込む。そして、目の前のそれを指で掴んでひと思いに引き抜いた。 「取れましたわ!」  むふーと鼻息を鳴らすと、彼女は指先に摘んだままの長方形の木片をまじまじと見る。そして、それを余裕の表情でひょいと目の前に高々と積まれている木片の塔の頂へと置く。 「わたくしにかかればこのくらいはよゆーのよしゅうですわ」 「楽しそうっすね、麗羽さま」 「そんなことありませんわよ。こんな子供だましの玩具でこの袁本初の心が満たされるわけないですもの」 「……そうですかねぇ」  疑わしげな目を袁紹に向けながらも文醜は部屋の中を早足で歩き回っている。肩当て、胸当てなどを引っ張り出しては身につけている。  袁紹は腰掛けている寝台に手を置いて文醜の様子を観察する。 「猪々子、先程から忙しなく動いているようですけれど、なんなんですの?」 「いや、ここ最近は流石にあたいもやらなきゃならないことが多いからですよ」 「斗詩さんも全く姿を見かけませんし、そんなに忙しいんですの?」 「そりゃそうっすよ。アニキは帰ってこないし、白蓮さまも向こうへ行くって出ていっちゃったし……人手が足りてないんですよ。あ、ちょっとそこにあるやつとってくれません?」  寝台に腰掛けていた袁紹は髪を指で掬いながら悠然と立ち上がると、重ねて置いてあった手甲を文醜へと手渡す。 「まったく、もう少し落ち着いて準備してはどうですの? しかし、猪々子がこれということは、斗詩さんもさぞかし多忙なことなんでしょうね……」 「それはもう、大変みたいですよ。あのムッツリ軍師もツン子もいないし、七乃はのらりくらりと逃げてるしで、斗詩とチビキューの二人が凄い量の政務とか引き受けてるみたいですし」  そう言いながらこせこせと警邏用の装備へと着替えを済ませると文醜は部屋を出ていった。  袁紹はその去り姿を見送ると、寝台の傍においたままの組み立て塔へと向き直って先ほどの続きを始める。  集中しているうちにかなりの時間が経っていた。 「ふう、大分きましたわね」  袁紹の前には彼女の爪先から胸元辺りまでの高さはある塔が建造されていた。  既にいくつもの木片が抜き取られて下方から中央までがスカスカになっており、まるで骨組みだけを残して崩壊した建築物のようになっている塔。  この玩具は一刀に最後に買ってもらったものだった。  三本一組を同じ向きで置き、それを縦、横と交差させていくように積み重ねた後に最上段以外から一本を抜いて上へと置いていくという遊び方をするものである。  袁紹曰く、多大な集中力が必要であり、重点や均衡を考慮するが故に非常な頭脳戦となる高度な遊びだ。 「……はあ。一人でやってるとちょっと飽きますわね」  そうぼやくと、袁紹は放置されている賽を手にとって掌中でふりふりと転がす。  一刀や猪々子、斗詩らとやっているときはとても楽しかったなと、袁紹は当時を思い出す。大抵一刀が負けて罰を受けることが多かった。 「少し、真似してみようかしら?」  この遊び、各人で少しやり方が異なる。  文醜ならかなり危険な位置で成功すれば次の人物に不利なところを取る。  顔良の場合は、慎重であり、気付きにくいが大胆な取り方をしていたりと強かだった。  一刀はその度に臨機応変にやっていたが逆にその手法の判断を間違えて失敗することが多かった。  袁紹は高貴な知力を全力回転させて勘で取っている。 「とりあえず、白蓮さんの取り方はないですわね……」  それぞれの特徴がでる取り方の中で、公孫賛だけは無難な面白味に欠ける取り方をしていた。普通すぎてつまらないと袁紹は思ったのだが、どうにも本人は達成感に満ちた笑みを浮かべて満足そうにしていた。  もちろん、そんな取り方を真似しようとは思わない。 「まあ、取りあえず猪々子あたりで……。こほん。いくぜー、一か八かの賭けこそ勝負の醍醐味っ!」  文醜の口まねをしながら袁紹は木片を引き抜く、僅かに塔全体が揺れたが崩れることはなく堪えた。そのまま袁紹は最上段へと置くと、賽子を振る。  出た目を確認しながら袁紹は佇まいを正して髪をぱっぱと適当に整える。 「うわぁ、難しいなぁ……えっとぉ……なんか違いますわね。流石に斗詩さんはここまで甘ったるいしゃべり方ではありませんわよね」  若干頭悪そうな声を出した後で袁紹は頬を掻きながら眼を細める。 「やはり、ここはいっそのこと新しい取り方で考案してみるのも一興……」  手を伸ばした姿勢のまま袁紹はしばし考え込む。目の前の塔は心許ない足下のために袁紹の溜め息を受けて揺れている。  ちょっとした振動ですら倒れそうな塔、一挙手一投足に慎重さが必要な状況。そして、そんな時に限って来訪者というものは現れるのである。 「麗羽姉さまー!」  勢いよく部屋へ入ってきた少女の余波で木片の塔がぐらりと大きく傾く。そして、まるで一瞬一瞬を切り取ったかのように袁紹の視界の中でゆっくりと崩れていく。 「あああああああああっ! 何をしますのー!」 「ぴーっ!?」  思わずくわっと顔を強張らせて少女……袁紹自身の従妹である袁術の顔を見ると、彼女は泣きそうな顔で悲鳴を上げてがたがたと震え始めた。  袁紹はそんな反応を気に留めることもなく盛大な溜め息と共に肩を落とす。 「まったく……美羽さんももう少し慎ましさというものを身につけて欲しいものですわね」 「れ……麗羽には言われとうないのじゃ」 「なにか仰いまして?」 「いえ、なんでもありませんよ。麗羽姉さま」  首を傾げながら袁紹が訊ねると、袁術は過剰なまでに首を振りながら部屋の隅へと後退していく。 「あ、そちらはいけませんわ!」 「へ?」  袁紹の注意は遅く、ざざっと後ろに下がった袁術が巻物などを収めてある棚へとぶつかってしまう。揺れた棚から書物の一つが溢れ落ち、袁術はそれを頭部に受けて「ぷぎゃっ!」という奇妙な悲鳴を上げた。 「何をしておりますの美羽さんは……あら、これは」 「うう-、どうかしましたか?」 「いえ……なんでもありませんわ」  そう言いながらも袁紹は手に取った紙から目を離すことができない。部屋の隅にある棚、そこにしまったままになっていたのは一枚の地図。  大分前、賈駆が体調を崩した頃に取り寄せた商品の一つ。  その地図を見たとき、袁紹は一刀を誘って行ってみたいと思った。しかし、それは叶わぬままと今日へと至っている。 「麗羽姉さま?」 「……美羽さん、ちょっと出掛けませんこと?」 「はあ、構いませんけど」  きょとんとした顔のまま袁術が頷く。 「それでは、参りますわよ」  二人は部屋を後にして、街へと向かう。確か文醜は警邏に出ているはずである。  廊下を歩きながら袁紹は隣でおずおずと歩く袁術を見下ろすようにして聞き忘れていたことを訊ねる。 「ところで、美羽さんは何か用があって訊ねてきたのではありませんの?」 「え? あ、はい。まあ、その……七乃がおりませんので探していたのです」 「七乃さんが……ふうん、また何かしでかすつもりなのでは?」 「そ、そんなことはないはずじ――ん、おほん! ありえませんわ」  ムキになって否定してくる袁術。彼女はよほど張勲の事を信頼しているのだろう。 「なにせ、七乃が何か面白いことを思いついたのならわたくしに申さぬはずありませんから」 「まあ、そう言われてみるとそうですわね。よく七乃さんのことを把握していらっしゃるのね、美羽さんは」 「当然です。臣下のことを把握してこそ主。そうではありませんか?」 「あら、確かにその通りですわね。わたくしとしたことがうっかりしていましたわ。おーっほっほっほ!」 「ええ、ええ。そうですとも。あーっはっはっは!」  二人は喧しいほどの声で大笑いしながら廊下を歩いていく。誰も通らなかったのが幸いだったといえるだろう。  それから袁紹たちは二人だからこそわかる君主たる者の極意を語り合い、そのまま街へと繰り出してきた。  太陽の光を手で遮りながら袁術が見上げてくる。 「それでどうするのですか? どこか、行く当てでもおありで?」 「ちょっと猪々子の様子でも見てこようと思いまして」 「ぶんしゅーですか?」 「ええ。まあ、一目見るだけですけれど」  なんとなくではあるものの、袁紹は先程部屋から慌ただしく出ていった文醜がどうしているのかが気になった。  袁術が行っていた臣下について把握するという言葉に従うわけではないが、見ておきたかったのだ。 (先程は、とても真面目な様子を見せていましたけれど、猪々子に限ってそれはありませんわよね)  自分に言い聞かせながら袁紹は文醜探しへと歩を踏み出す。 「麗羽姉さまは、ぶんしゅーがどこにいるのかご存じなのですか?」 「いいえ、知りませんわ」  ただ警邏に出ているということ以外は全く知らない。だから、袁紹はこう答えるのだ。 「ブラブラと街を散策していれば自然と出会いますわよ」 「……は、はあ。そうでしょうか」 「美羽さんは心配性ですわね。この袁本初が会いたいと思えば自然と向こうから寄ってくる。そういうものですわ」 「それは……些か楽観的な気がするのじゃ。流石は馬鹿麗羽」 「はい?」 「な、なんでもありませんわ! あはは」 「でも確かに何かを……」 「き、気のせいです。あ、それよりもほら、ここは行きつけのお店ではありませんか。ちょ、ちょっとわたくし立ち寄りたいです。麗羽姉さま」  袁術が笑顔を浮かべてそう言う。  彼女が何かぼそりと呟いたようだったが、もしかしたら気のせいだったのかもしれないと思い袁紹は追求するのをやめて行きつけの駄菓子屋へと足を踏み入れる。 「相変わらず質素な風貌の店内ですわね」  古びた棚とそこに載せられた軽くつまむのに丁度良い菓子。柱や壁は他よりも若干落ち着いた雰囲気を醸し出している。  そんな風に店の内装を眺めていた袁紹の元に最近小じわが目立ち始めた中年女性が歩み寄ってくる。 「あいあい、いらっしゃいな。おや、これは袁紹さま」 「本日も失礼しますわ」 「ええどうぞ。袁紹さまは常連さんですから、あたしからすればもう娘みたいなもんですよ……あら、失礼だったかしらね」 「別にそんなことはありませんわよ。わたくしだって何度も顔を合わせていますから、親近感が沸いておりますのよ」  口もとを抑えてまずかったかなという顔をする中年女性に袁紹は口もとを吊り上げて笑う。それに続くように袁術も頷いている。 「妾にとっては七乃に近い存在なのじゃ」 「あらあら、袁術ちゃまったら嬉しいことを……嬉しいから少し色を付けさせてもらおうかねぇ」  にこにこと微笑む中年女性。笑うと目尻に皺が浮かび上がってくる。 「あら、いいんですの?」 「ええ。まさか、お姉さん同然と言われるなんて……うふふ。あたしも棄てたもんじゃないわねぇ」  何やら奥の方にあった壷の中をのぞき込みながら中年女性が嬉しそうに笑う。 「いや、妾はそういう意味で言ったわけでは……もが」  余計なことを言おうとした袁術の口を袁紹は手で押さえる。 「どうかしました?」 「いえ、なんでもありませんのよ。おほほほほ」  惚けるように笑う袁紹を見て中年女性は「そう」とだけ言って近くの壷へと向き直る。  袁紹は腕の中でモガモガ言っている袁術を解放する。 「な、何をするのですか!」 「折角喜んでいるのにそれをぶち壊しにする必要はありませんわ」 「ふん、麗羽のくせに」 「美羽さん?」 「どうなさいましたか、麗羽姉さま」  可愛らしく小首を傾げる袁術を見る袁紹。そんな彼女に中年女性が先程とは違う小さめの壷を抱えて歩み寄ってくる。 「はい、これをあげるわね」 「え? あら、これは……そうですわね、ではご厚意に甘えさせていただきますわ」 「麗羽姉さま、それはなんなのです? ちょっとわたくしには見えないのですが」 「美羽さん、お口あーん!」 「へ? あーん……んぐっ! ふぁ、ふぁひを……ん? すっぱーっ!」  袁術が悲鳴にも似た声を上げて手足をばたばたとさせながら長い金色の縦巻き髪を振り乱す。  袁紹がパブロフの犬のように開かれた袁術の口へ中年女性から貰った漬物を放り込んだのだ。  急なことに目を白黒させながら袁術が袁紹を凝視する。 「ふぇぇ……な、ななな、何を食べさせたのですか……」 「ふふ。梅干しですわ」 「しょ、しょんな馬鹿な……酸っぱかったでしゅよ?」  涙を溜めた目で上目がちに見てくる袁術に袁紹はふふんと鼻で笑う。 「これはですわね……一刀さん曰く、天の国での味付けをした梅干し、だそうですの」 「ぬしひゃまのいた国でひゅか?」  酸味によって舌が痺れるのか喋りがおかしい袁術が溜まった唾液をゴクリと飲み込む音がする。 「おや、袁術ちゃまは知らなかったのかい? あっはっは」 「そういえば、そうですわね。一刀さんが味付けについての説明をして取り扱っていただくようにと頼んだ際、美羽さんはおりませんでしたものね」  驚きに目を丸くして半泣きの袁術を見てにやにやと笑う袁紹。だが、そんな彼女も初めて食べたときは思わず一刀をひっぱたいたほどに衝撃を受けていたりする。 (まあ、わたくしの命を狙って毒をしこんだのかと思ったのですから仕方ありませんわよね)  そんなことを考えていると、梅干しの刺激を思い出し袁紹の口腔内に唾液が溢れてくる。 「ン……わたくしも頂くとしますわね」  袁紹は悶え続ける袁術を見ながら壷へと手を伸ばす。 「あ、そちらは商品の……」 「へ? ひゃあっ! な、なんですの」  何故か梅干しの果肉らしいぐにっという感触ではなく、ねちょっというねっとりとした粘液の感触が伸ばした指へと走り袁紹はそちらを見る。  中年女性が抱え壷には手を突っ込んでおらず、代わりにその細くきめ細やかな指は棚に置かれた何かが入れられている一段と小さな壷へと沈み込んでいた。 「……そちらは、蜂蜜をもとにつくった水飴でして」 「な、なんですって!」 「ひゃ、ひゃひみふっ!」  蜂蜜という単語を聞いた袁術の目が光った気がした。そして、次の瞬間には袁紹の指は生暖かい感覚に包み込まれていた。 「んちゅ……あむあむ……れろ」  蜂蜜がべっとりと付着した袁紹の指がすっぽりと袁術の口の中へと収まっていた。 「ひゃんっ! ちょっと美羽さん、わたくしのそ、そんなところを                                                               舐めてはいけませんわ!」 「あ、あまいのら……れろれろ……ちゅぱちゅっ」 「んぅっ! なんだか、ぞくぞくしますの……はうっ!」  関節部の皺の溝など隅々までを丹念に舐めてくる舌。袁術の舌は上下に動いたり指周りをなぞるように左右に這ったりと執拗に袁紹の指を嬲る。 「あん、もうダメですわぁっ! い、いい加減になさいな美羽さん!」 「んあぁっ!」  ちゅぽんっという音をさせて袁術の口から指を抜き出す。袁紹の指から袁術の小さな口もとへ向けて銀色の橋が架かる。  蜂蜜の粘りけがあるからか意外と頑丈な橋はねっとりかつピンと這っている。 「じゅるるる……」  何を思ったのか袁術が涎の糸を吸い込む。そして、口もとを舐め、舌なめずりすると満足そうに笑みを浮かべた。 「はぁ……甘かったのじゃ……」 「よかったですわね……おかげでふやけてしまいましたわ」  べちょべちょになった指を眺めながら袁紹は溜め息を零す。 「はいはい、手ぬぐいをもってきたからおふきになって下さい」 「できれば取りに行く前に止めて欲しかったですの」  入念に手を拭きながら袁紹は蜂蜜製水飴の入った壷を手にとって中年女性の方を見る。 「これ、買い取りますわね……お会計の際に加えてくださいな」 「麗羽姉さま……」  指をくわえてじっと見てくる袁術を袁紹は一瞥する。そして、小壷を中年女性に手渡す。 「もしかして、美羽さん。あれが欲しいんですの?」 「そ、それは……」 「どうしようかしら。わたくし恥をかかされてしまいましたし」  そう言って袁紹はふやけた指を見つめると、袁術がうっと言葉を詰まらせる。 「うう……それは申し訳なかったと思います」 「でしたら、その罰を受けていただくという約束としませんこと?」 「約束ですか」 「ええ。先程、わたくしが美羽さんにされたことを逆に美羽さんにわたくしが行います」 「……そ、それで蜂蜜が手に入るのなら」 「ただし、一刀さんの前で、ですわよ」 「そ、それはちょっと勘弁していただけませんか、麗羽姉さま」 「お断りですわ。あ、お勘定を」 「あいあい……はい、丁度ね」  中年女性に代金を渡して会計を済ませると、袁紹たちは店を後にする。その間、終始懇願する袁術に対して彼女が首を縦に振ることはなかった。  それから、服屋を見たり装飾品を打っている露店を見たりとぶらぶらと歩いていく。  そうして、練り歩いているうちに袁紹はとある場所で立ち止まっていた。  そこは袁紹も割と利用している絡繰り遊具を取り扱う店だった。どうやら彼女はいつの間にか店の前まで来ていたらしい。 「いつも通りの道筋で移動していたから……ですわね」  自然に気の向くままに歩いていたつもりの袁紹だったが、どうやら身体に染みついた習慣によって動いていたらしい。  袁紹は店を前にしながらも一歩でも踏み出そうという気が起きない。 「麗羽姉さま? どうかなさいまして?」 「いえ、なんでもありませんわ。美羽さんはこの店に寄りたいんですの?」 「麗羽姉さまに従いますわ」 「そう。でしたら、用もありませんし、今日はやめておくといたしましょうか」 「わかりました……?」  どこか訝しげな袁術を連れて袁紹は店を後にする。  なんとなく願掛けをしていたのだ。次に店へと踏み入れるときには、あの使い古した組み立て遊具に継ぐ新しい遊具を買ってもらうため、一刀が帰ってきてからだと。  改めて袁紹は気がつく、自分が一刀が帰ってきてからの予定を沢山入れていることに。 「まったく、あの男はいい加減さっさとわたくしの元に戻ってくればよいのに」 「麗羽姉さま?」 「……行きますわよ、美羽さん」 「麗羽姉さま、何だか不機嫌そうですわね」 「そんなことありませんわよ」  邪推する袁術にむっとして袁紹はつっけんどんに返す。それが機嫌の悪い証拠であることは自覚していない。  あからさまに口数の減った袁紹と様子を窺う袁術は裏路地を抜けて通りの方へと向かおうとする。  と、そんな二人の前方に通り歩く緑がかった髪の少女の姿が現れた。 「あら、いましたわね」  軽い武装をした文醜が周囲に目を配りながらキビキビと歩いている。袁紹たちはそれを物陰から遠目に見守る。 「なんだか予想と違いますわね」  てっきり欠伸を噛み殺しながら適当にやっていると思っていただけに袁紹は拍子抜けしてしまった。 「お声はかけないのですか?」 「ええ、邪魔をしては悪いですから……さ、行きますわよ」  そう言うと袁紹は警邏の勤めを果たしている文醜に背を向けて歩き始める。 「……団子屋に一直線……やる気なさそうなのじゃ」  袁術が何かをぽつりと呟いたようだったが袁紹の耳までその言葉は届かなかった。 (あの猪々子ですら真剣に職務をこなすなんて……わたくしが思っていた以上の事態ですの?)  そう考えるとなんだか不安になってくる。誰しもがきっと文醜のように一刀のためにと汗かきひたむきに頑張っている。  彼の帰宅を曇りなき晴れ渡った笑顔で迎えるために。 「…………わたくしはこのままでよいのかしら」  今まで考えたこともない疑問がささいな切っ掛けを通して袁紹の脳裏にまるで布に染み込ませた水のようにじんわりと浮かび上がってくる。  果たして北郷一刀が帰ってきたとき、自分は笑顔で迎え、今まで通りに接することができるのだろうか。  これまでの彼女なら出来る、と自信満々に断言できただろう。 「はあ……何だか調子が狂いますわね」 「さっきからどうかしたのですか、麗羽姉さま」 「別に美羽さんが気にすることではありませんの。ちょっとした私事ですから」  そう答えると、袁紹は新たな通りに出たことに気がついた。 「あら、ここは……って、あれはもしかして。ほら、美羽さん」 「どうかなさいましたか……って、七乃!」  二人の視線の先、露店が立ち並ぶ中、明らかに異質な美少女が木箱に腰かけている。その前の台座には何やら剣の持ち手部分ほどの大きさの置物のような物体が鎮座している。  それも一つや二つでなく数十個はありそうな程に大量に居並んでいる。 「七乃は何か人形のようなものを持っておりますね。麗羽姉さま」 「ええ。それにしても、あの人形。何だか、見覚えのある形姿な気もするんですけれど、少々距離が遠すぎてわかりませんわね」  割と最近見た何かに似ている気がするのだが、袁紹はそれが何であるかを思い出せない。  恐らく女性……いや、小柄な点から少女と思しき人形は、長髪で先がくるくると縦巻き髪になっていて、以前着たことのあるメイド服というものに似た格好でその胸元は非常に慎ましい感じである。  それは確かに見覚えがある。だが、袁紹にはそれがなんなのかわからない。 「七乃何をしておるのでしょうか?」 「どうも先程から立ち寄る警邏の兵士とやり取りしていますし、商売でもしているのではありませんの?」 「なんと、妾がお昼寝してる間にも七乃はせっせと汗水垂らして働いていたのですか……そうか、七乃は立派じゃのう……」  感涙にむせぶようによよと袖で目元を覆う袁術。  その姿を見て、袁紹は先程脳裏に描いた心像と重なり合うことに気がついた。 「そういうことですのね……やはり、狸ですわね彼女は」 「麗羽姉さま?」 「さあ、七乃さんの邪魔をしては悪いですし、さっさと別のところへ行きますわよ」  そう言って袁紹は従妹の腕を掴んで歩き出す、背後で幸せそうな笑みを浮かべながら商売する張勲を振り返ることなくずんずんと進む。  袁術は真実を知る必要はないだろう。少なくとも袁紹にはそれを伝えるつもりはない。 「な、何か思うところであったのですか、麗羽姉さま?」 「いえ、なんでもありませんわ。それより、食事にしませんこと、美羽さん」 「ええ、そうですね。わたくしもお腹がぺこぺこですから」  袁術が腹部に手を当てながらこくりと頷く。  袁紹も空腹を覚え始めていた。実際、日は傾き赤く染まる街並みがそろそろ夕食の時間であることを物語っている。 「さて、どこで済ますことにすべきかしら」 「ん? おお、れんじゃ。麗羽姉さま、れんがおりますよ!」 「恋……ああ、呂布さん……いえ、恋さんですわね」  ぱあっと表情を明るくすると、袁術がぱたぱたと駆け足になる。袁紹も仕方なくその後に続いて走る。  呂布は一件の屋台の前で困ったような顔をしている。 「れーんー」 「…………美羽」  呂布のふくよかな胸元にぽふっと頭を埋めるように袁術が抱きつく。 「奇遇ですわね、恋さん」 「……麗羽」 「ええ、そうですわ。ところで、恋さんはどうしてこちらに?」 「……ご飯」 「食事をしにきたんですのね。でも、屋台をじっと見たまま立ち竦んでいらしたようですけれど?」 「……セキトたちのご飯買ったらお金足りなくなった」  そう言って呂布は手に持った紙袋を見せる。 「でしたら、城に戻って取ってくればよいではありませんの」 「……恋のお金のやりくりはねねの仕事」 「ああ、あのチンクシャが……そうですの」  頬に手を添えてあらあらと呟く袁紹の小声を「ぐうう」といううなり声のような音がかき消す。 「…………おなか、すいた」  ぐうと鳴り響くお腹を押さえながら呂布はしょぼんと項垂れている。  袁紹はその仕草を見て何か保護すべきなのではという焦燥にかられ、一つ提案をする。 「では、わたくしたちとご一緒しません?」 「おお、それはぐっどあいでぃあというやつです! どうじゃ、恋!」 「…………」  呂布は黙ったままこくりと素直に頷いた。  袁紹は同程度な二人を連れて呂布が見つめていた屋台へと赴く。  だが、そこにガタイのよい大男たちが割り込んでくる。 「なんですの……割り込みだなんて」  そんな袁紹の文句も無視して男たちは屋台を殴りつける。 「おいおい、先日俺らが言ったことを忘れたのか? ああん?」 「……こ、困りますよ。そんなことされたら屋台が壊れちまう」 「うっせえ!」  ダン、と男が一段と強めに屋台に拳を叩きつけると、店主はびくりと震えて声を発せ無くなってしまう。 「おらおら、俺らの料理に変なもんまぜといて詫びすらまともに出来ないのかよ」 「時間をやったのにやったことといえば屋台の場所を変えただけ……なめてんのか!」 「ひいっ……そ、そんな、謝罪もお代の返却もしたじゃねーですか」 「うっせぇ! そんな程度で腹の虫が治まるとでも思ってんのかぁ、テメェはよぉ!」  怒声をまき散らしながら男が店主の胸ぐらを掴む。  そこまで黙って成り行きを見守っていた袁紹はツカツカと男たちの元へと歩み寄ると溜め息を零す。 「まったく、まだこのような常識がなっていない野蛮人がおりますのね」 「なんだと、このアマァ?」 「だまらっしゃい! 大の男がよってたかって一人に対して凄むなど言語道断。美しくないし、雄々しくもない、ましてや勇ましさとは遠い卑怯者ですわ!」  腕組みしたまま袁紹はかっと眼を見開いて男たちを睨み付ける。男たちも渓谷のように深い皺を眉間につくりながら袁紹を見下ろしている。  だが、彼女は一切引き下がる気はない。 「わたくしは、名家の出。こんな下等な猿を前にして逃げ出したりはいたしませんし、するつもりもありませんわ。そもそも、相手もしたくありませんの。ですから……さっさと失せなさいな!」 「そうなのじゃ、この野蛮な猿め! 妾の食事が不味くなる、とっとと何処か妾の目の届かない遠くへ行くのじゃ!」  腰に手を当てた袁術が不快そうな表情で男たちにいーっと噛みしめた歯を剥き出しにして威嚇する。 「なんなんだ、こいつら……流石に俺も切れるぜ」 「あら、やりますの? 知りませんわよ、こんなところで暴れたら警邏がすぐ飛んできますのに」 「そ、それくらいでビビると思ったか!」  袁紹の忠告には怯まず男の一人が拳を振り上げる。袁紹はそれでも目をそらさない。 (あの男なら、例え痛い目に遭おうとも正しいと思う道を突き進みますわ……)  何故か先程から白い服に身を包んだ青年の姿が浮かんでいた。男たちに強く出たのもそれが理由だった。  そして、彼ならばどんな脅しにも屈せず一歩も退かない、例え相手が屈強な男であろうとも。  勇気を胸に抱き、袁紹は男を睨み続ける。振り上げられた拳がゆっくりと袁紹へ向けて振り下ろされようとする。 「うぎゃあっ!」  悲鳴が上がった……とても野太いむさ苦しい悲鳴が。  それは袁紹のものでもなければ袁術のものでもない、殴りかかってきた男のものだ。 「…………だめ」  いつの間にか男の背後に忍び込んでいた呂布がギリギリといかつい腕を細腕でねじり上げていた。  他の男たちも呂布の動きに気付くのが遅れたのか、驚いた様子で言葉を失っている。 「いででで、おめーら、見てないでなんとかしろ!」 「はっ、そ、そうだ。おい、てめぇ! なにしやがる!」  我に返った男たちが呂布へと襲いかかろうとする。 「いい加減になさいな」 「やめぬか、この愚か者共が!」  袁紹と袁術が大声でそう叫ぶと、男たちの動きが一瞬だけ止まる。  その刹那の間に呂布は拘束していた男を地に伏せさせ、更にどこからともなく現れた二つの影が何かをして残りの男たちを昏倒させた。 「やれやれ、まだこんなごろつきがいたのかよ」 「うわあ、流石猪々子ちゃんですねぇ。……おかげで楽ができちゃいましたぁ」 「お前なぁ……」  ニコニコと微笑み手をパンと打つ張勲に対して文醜が呆れたように肩を竦める。 「猪々子!」 「七乃!」  急に現れた二人に袁紹たちは自然と笑みを浮かべていた。  意識が残っている唯一の男は縄でぐるぐる巻きにされ、地べたに座ったまま普段だったら魅力的に見える少女たちに囲まれ、がたがたと震えている。 「ひ、ひぃぃぃぃ……な、なんなんだよ、お前らぁ!」 「やはり、あなたのような下劣な者は知りませんのね。では、聞いて驚きなさいな。このわたくしこそが彼の三公を三代輩出した名家袁家の袁本初ですわ!」 「そして、同じく。袁公路なのじゃ!」 「…………」 「ん!」  袁紹と袁術が同時に呂布の胸を臂で小突き、ぽよんと弾ませる。 「…………りょほーせん」 「道理で勝てねぇわけだよ……とほほ」  がっくしと項垂れながら男は悲しみの涙で顔を濡らす。  そのまま男たちは文醜に遅れてやってきた警邏隊によって連行されていった。  それを見送った袁紹は巨大な乳房を乗せるように腕組みしたまま、ふうと息を吐き出す。 「これにて、一件落着ですわね」 「そうですね。それにしても、七乃よ。よく来てくれたのう」 「いえ。店を畳んで美羽さまの元へ帰ろうと思ったら本人がいたものですから様子を見てたんです」 「なるほど、運良く揉めているところにでくわしてギリギリ救出してくれたのじゃな。ううむ、まるで正義の味方のようじゃな」  うんうんと頷いている袁術に張勲は頭を掻きながら照れくさそうにする。 「いやあ、そんなに褒めないでくださいよー」 「……おかしいな? あたいがギリギリで駆けつけて来た時には既に落ち着いた感じで見てた気がするんだけど」 「七乃?」 「あ、あはは……いやですね、猪々子ちゃんの勘違いですよ」  じろりと睨む袁術に苦笑いを浮かべる張勲。  そんな賑やかな少女たちの元に店主やいつの間にか集まっていた野次馬が詰め寄ってくる。 「ありがとうごぜーます!」 「あら、いいんですのよ。あれくらいのことなど、おーっほっほっほ!」 「いやいや、本当に助かりました。流石は御遣い様の……お妃様です」 「ほ?」  店主の一言に袁紹は笑いをぴたりと止める。そして、言葉を失ったまま硬直する。  その代わりに別の人物が店主の言葉に反応を示した。 「そうであろうそうであろう、妾は主様に負けぬよう見習ってみたのじゃ!」 「えっ? ――――っ!?」  袁術の一言で辺りがざわつき始める。それによって袁紹もはっと我に返る。  ざわめく周囲を余所に張勲がふんぞり返っている袁術に拍手を送っている。 「わー、流石お嬢さま。一刀さんに幼女趣味疑惑を浮上させるなんて罪な御方ですねー」 「ぬふふ、そうであろう? 妾ってば罪な女であろう?」 「よっ! 男を外道に迷わせる悪幼女!」 「おいおい……これってまずいんじゃ……でも、ま、いいか。あたいは知ーらねっと」  頭の後ろで手を組んだまま文醜がのんきな事を言う。  文醜が何をいいたいのか、話の流れについていけてない袁紹にはよくわからないが、とにかく蚊帳の外であることには気がついた。 「お、おほん! おほんおほん!」 「おや、袁紹さま。どうかなされましたか?」 「わ、わたくしが一刀さんのその……妻であると?」 「おや、違いましたか? 仲良く子供向けの品を買うこともありましたから、てっきりお子を授かっている程には仲睦まじいのかと」 「なっ……ななな、なんですの、それは!」  自分のあずかり知らぬところで発展していた噂に袁紹は顔を真っ赤にして怒鳴り出す。 「どうしてわたくしが、あのような者と……どうかしていますわ」 「れ、麗羽さまもひでぇ……これじゃあ、ますますアニキの疑惑が深まっちまうな」 「ムキー! あの男のことなど知ったことではありませんわ!」 「…………でも、さっきのはちょっとご主人様に似てた」  ぽつりと呟いた呂布の言葉に辺りは水を打ったようにしんと静まりかえった。  そして、次の瞬間。爆発したように人々がわっとより距離を詰めてくる。 「な、なんですの、急に!?」  わらわらと群れてくる民衆に袁紹はたじろぐ。  皆、ごろつきに怯え、おどおどしていたときと比べて良い顔をしている。 「そうかぁ、あの正義を貫く姿勢は警邏の際に時折見かける御遣いさまに似ていたんだ」 「てことは、やっぱり袁紹さまは御遣いさまと」 「いや、しかし……袁術ちゃまのこともあるぞい」 「一体どっちとなんだろうか?」 「そりゃ、両方だろう。それくらいの器のはずだろ、御遣いさまは?」 「そらそうだ。なははははは!」  辺りは笑いに包まれ、気がつけば非常に暖かい雰囲気となっている。 「なんにしても、ありがとうごぜーますだ」 「あのごろつきどもは警邏の隙をついては悪さを重ねてたのでどうにかしないといかんとは思ってたんですわ。いや、本当にありがとうございます」  袁紹たちに感謝の言葉が降り注ぐ。  それは親しみの籠もった「ありがとう」という言葉。以前、袁紹が君主として出会った者たちが発した同じ言葉からは感じられなかった暖かさがそこにはあった。 「凄いことになってきましたね、美羽さま」 「ま、まあ、妾としてはこのくらいの反応など、と、当然のことじゃ。あーっはっはっは!」 「なんだか、この感じちょっとアニキがいるときを思い出しますね。麗羽さま」 「……そう、ですわね」  今まで顧みなかった民の声、笑顔。それがこれほどに眩しいものだったなんて袁紹は……いや、きっと袁術も知らなかっただろう。  これが袁紹たちがないがしろにし、北郷一刀とその仲間たちが守ってきたもの。 「そう……そう、これが……」  袁紹はふっと顔をほころばせて微笑んだ。それは、まるで自分も民衆の中の一部であるかのように朗らかで明るい、輝かしい笑顔。  これこそが一刀やその仲間たちが必至になって今もなお守り続けているものなのだと袁紹は学んだ。国の中で生きる民衆の温もりは命の温もりなのだ。 (一刀さんが帰ってくるまで、わたくしが守りますわ……この地に灯る火を)  この日を境に袁紹は顔良や陳宮の政務を手伝うようになる。  それは、かつてこの鄴で彼女が行っていたようなものとは違い、奇をてらうことも彼女独自で創意工夫をするようなこともない、民の事を非常に重視した君主として本当にあるべき思考に基づいたものであった。