玄朝秘史  第三部 第五十四回  1.政 「義務教育、ですか」  一刀の話を聞いた紫苑は戸惑ったような表情で唇に手を当てた。その横では、彼女の主でもある桃香が目を丸くしている。  ちなみに桃香の護衛役の鈴々は、難しい話は自分の役目ではないと、横の芝生で鍛錬を始めていた。離れているというのに、丈八蛇矛が切り裂く空気のうねりが届いてくるように感じる。 「うん。それで、学校をつくってるっていう蜀のことを聞こうと思って」  四阿につくりつけの卓に資料を広げながら、一刀は驚いている二人にそう笑いかけた。 「教育の義務化かー。すごいこと考えるねぇ」  驚愕から立ち直ったか、桃香が感心したように呟く。蜀でも理想としては、多くの民に教育を施すことを考えていたものの、義務とまで踏み込んではいない。否、その発想はなかったと言っていいだろう。 「考えるっていうか、俺がいた国では既にあった制度だからね」 「それをそのまま……というわけではないのでしょう?」 「さすがにそれじゃ実状には合わないし、うまく働かないからね。華琳たちと話し合って、いまのところ、数えで六歳から十歳の間……五年間の制度にしようと考えているよ」  それでも、まだ本決まりというわけではないけれど、と一刀は断りを入れる。 「ふむふむ。ええと、どういう基準?」 「一家の仕事の頭数と数えられるより前ってことかな。十二歳とかだと、畑仕事に組み込まれてるだろ? ずっとではないかもしれないけど、農繁期は間違いなく教育を受けている暇はないだろうし」  大人と同じだけの作業が出来ずとも、子供に期待される仕事というものは存在する。幼い子供たちの子守だけでも、家族にとっては十分な役割だ。それらの子らまで勉学のために家族から引き離すわけにはいかない、と一刀は言っているのだった。 「あー、確かにねえ。私もその頃には、いっぱい莚編んでたよ」  桃香はうんうんと大きく頷いてみせる。 「もちろん、年齢の高い子供たちが高等教育を受けられるような施設もおいおい考えていく予定だけどね。まずは、基本的な部分で広めていこうってことになっていて」 「本格的に考えておられるようですわね。かなり労力が必要なのではありませんこと?」 「たしかにね。まず教育するほう……教師の育成から考えないといけないから。でも、まあ、長い目で見れば、国を富ませる方向に働くだろうって判断でさ」  紫苑の問いかけに、一刀は少し難しい顔で頷く。実際、予算や人員の手配については、未解決の問題がまだまだあるのだった。それでも、紫苑のほうは、なにかうらやましいものでも見るように、一刀のことを見ていた。 「でもでも、うちもまだ始めたばかりだし、参考になるかな? それに、いますぐ答えられるかどうかも……」 「うん。その辺りは、これにまとめてきてるから、答えられるところだけ、答えてくれたらありがたいかなって。どうかな?」  蜀の女王の不安そうな物言いに、一刀は一巻きの竹簡を掲げる。それを受け取った桃香は巻かれた竹簡を広げ、紫苑と共に確認する。二人で頷き合った後、彼女は一刀に向かって言った。 「うん、わかった。国元にも送って、資料をまとめてもらうね。ちょっと時間かかっちゃうかもしれないけど……」 「ありがとう、助かる。それから、もう一つ。こっちは質問というよりは交渉なんだけど……」  軽く頭を下げ、男は別の資料を卓の上から取りあげる。その話題に移ろうとしたところで、あたりに大きな声が響いた。 「あれー、朱里なのだー」  鈴々の驚いたような声に、三人の視線が揃ってさまよい、小柄な姿がこちらに近づいてくるのをほとんど同時に認めた。 「あら、朱里ちゃん」 「朱里ちゃーん、こっちこっちー」  桃香が立ち上がり、ぶんぶんと勢いよく手を振る。朱里は応えて手を小さく振り、丈八蛇矛を小脇に抱えた鈴々とひとくさり言葉を交わしてから、四阿へやってきた。 「洛陽に戻ってきてたんだね」  一刀が言いながら席をあけてやると、朱里はぺこりと頭を下げ、被っていた帽子をとって卓に着く。ちりちりと首元の鈴が涼やかな音をたてた。 「はい、つい先程」 「あ、そうなの? 知らせてくれれば迎えに出たのに」 「いえ……。しばらくは出入りも激しいですし、毎回お手数をおかけするのもどうかと」  桃香が残念そうな顔で言うのに警護の兵はいますから、と苦笑して、彼女は目の前に広がる資料の数々を見回した。 「ところで、お話の邪魔をしてしまったでしょうか?」 「いや、そんなことはないよ」 「あ、そうだ。一刀さん。さっきの学校の話とか、朱里ちゃんにも聞いてもらった方がいいんじゃないかな?」 「ああ、そうだね。でも……旅疲れは大丈夫かな?」  いいことを思いついた、というように明るい声で言う桃香に、一刀は少し心配げに朱里を見る。小さくても元気いっぱいの鈴々などもいるが、朱里はそういった面々と違って線が細い。気にかかるのも当然だろう。しかし、蜀の誇る大軍師は真剣な調子で首を振った。 「大丈夫です。馬車で来ましたから」 「そっか。じゃあ……」  再度、魏が進めていく予定の義務教育政策の概要と、蜀における学校の運用具合についての話を繰り返す一刀。朱里も桃香と同じように驚きを秘めつつ協力の約束をした後で、話は先程彼が言いかけた内容へと移った。 「漢の全土で国勢調査を行おうと思うんだ」 「国勢……ですか?」 「戸数、田畑の広さ、職業の有無……民がどう生きているか、全般的に調べるんだ」 「戸数調査はこれまでもしておりますわね」 「そこは税の基本ですから。とはいえ、実態とかけ離れている場合も多いんですが……」  紫苑が視線を向けるのに、朱里が頷く。国家の財政の基本となるのは税であり、この時代においては、戸別、人別にかけられる税となる。各地域での人数の把握は国家としての基礎でもあった。  だが、精確な調査を行うには時間も金もかかる。ことに、戦乱の後ともなれば、混乱が続いてなかなかに実態が掴みにくかった。 「特に黄巾以後はそうだよねぇ。逃げちゃった人もいれば、入ってきた人もいるし。出来るだけ調べてはいるけど」  彼女たちの言葉に応じて、一刀は、いくつかの書簡を見せる。そこには、実施する予定の調査項目と、そのために派遣される中央の官吏の数、諸国がそれを代替する場合の補助金の額などの試案が示されていた。 「全土で、一気に把握しようということでしょうか? 三国ではなく、漢朝主導で」 「うん。三国の動乱も終わったし、白眉も終わった。西涼も出来るし、北伐で領地も広がった。そろそろやっておくべきだろうと思って。実質は三国がやるわけだけど、公益性から考えて、名目上は漢がやることにしておいたほうがいいと思って。ああ、中央の官吏を派遣するってのも、あくまで名目だから気にしないで」  一度読み通し、ぱらぱらとめくりなおして紫苑が訊ねるのに答えた一刀の言葉に、まだ文章を精査していた朱里が眉を顰める。 「しかし、それでは透明性が確保できないのではありませんか?」 「そこは、俺たちが蜀や呉を信頼してるから。でも、国の全員がそうってわけじゃない。中央の――いや、魏の人間だと思われる調査員を送り込んでもめごとを増やすつもりはないよ」  男は肩をすくめ、すらすらと答える。おそらくは既に想定していた問いであり、答えだったのだろう。  税は国の根幹である。だから、その基となる情報を押さえられることは、国力を丸裸にされるに等しい。ことに、一刀が提案するような詳細な情報は、戦乱の最中なら、大金をもをって遣り取りされても不思議ではないものなのだ。  それを調べるのに、中央の人間を出せば、魏一国が情報を独占すると誤解されかねない。それは事前に避けるつもりだと、彼は言っているのだった。 「一刀さんが私たちに了解を取り付ける役目?」  じっと文面に目を落としていた桃香が顔をあげ、今度は一刀の事を見つめる。彼は小さく肩をすくめて応じた。 「まあ、もとはといえば、俺が提唱したことだし」 「そっか」  どうかな、と彼女は二人の仲間たちを見る。 「……時間が必要ですね。すぐに対応するというわけにはいきません」 「ですね。春……は無理でしょう。夏くらい? 朱里ちゃん」 「はい。そのあたりでしょう」  紫苑と朱里は言葉を交わし合い、結論を出す。それを受けて、桃色の髪を持つ女性が小さく笑った。 「じゃあ、来年半ばくらいの実施なら賛成。それが私たちの答えかな」 「了解」  明るく、しかし真剣な声に、一刀も軽快に頷く。そうして、冬の光さす午後、丈八蛇矛が振られる庭の片隅で、大陸の行く末を左右する決定が重ねられていくのだった。  2.成長 「どこの店に行こっか、流琉」 「この間、華琳様が選んで下さったお店は除外だよね?」 「どうだろー。同じ店で兄ちゃんに見立ててもらって違いを楽しむのもありかも?」 「あ、そっかー」  そんな事を言い合いながら城門から出て来るのは、赤毛を高く結い上げた快活な少女と、それに比べればおとなしそうに見える少女の組み合わせ。門衛たちが直立不動で見送るその姿こそ、曹魏の誇る親衛隊の双璧、季衣と流琉。  それに続いて門をくぐるのは、穏やかな笑みたたえた北郷一刀。さらには少し機嫌を損ねてでもいるのか頬を膨らませながら歩く鈴々が続く。 「つい誘っちゃったけど、今日は桃香の護衛はいいのかな?」  行く先を議論している季衣と流琉を眺めながら、一刀は横に並んだ鈴々に声をかける。 「ん? うん。お姉ちゃん、今日は朱里となんだか用事があるから、ずっとお城の中にいるんだって。だから、鈴々は暇なのだ」 「ふむ。あ、そういえば……」  華琳が桃香に世界地図を見せるというのが、今日だったような……と彼は思い出す。朱里はそれについているのだろう。なにか、いい刺激になるだろうか。そうであれば、わざわざ持ってきた甲斐もあるかもしれないな、と眼を細める一刀。  それから男は思考をその場のことに引き戻し、おずおずと訊ねた。 「で、なんでむくれてるのかな?」 「今日は服を買いにいくんだよね?」 「うん。そうだね。季衣たちの服が、みんな小さくなっちゃったようだから」  このところ、季衣と流琉の二人組は成長著しく、ぐんぐんと背が伸びている。白眉の一件でしばらく離れていた季衣と再会した時、一刀はそれを実感した。一緒にいたせいで流琉の方の変化には気づけなかったもののの、改めて見てみれば、彼女も身長や、手足が伸びているのだった。  放っておくと服がつんつるてんになってしまうので、華琳や一刀が折を見て服を新調する機会をつくってやることにしていた。 「鈴々も洛陽滞在が長くなりそうだし、と思って誘ったんだけどね」  季衣や流琉と鈴々なら、年も近いし、趣味もそう遠くないだろう。同じ店で服を選べるはずだと彼女も誘ってみたものの、この様子ではあまり興味がなかったのだろうか、と反省する一刀。  しかし、鈴々はそんな一刀の懸念を一蹴する。 「うん。それ自体はいいのだ。鈴々も洛陽の服屋さんをみてみたかったし、お出かけは楽しいのだ。だけど……」 「だけど?」  そこで彼女はびしりと指を差した。相変わらず楽しげに話に花を咲かせている季衣たちに向けて。 「春巻きたちはいつの間にか大きくなってるのに、鈴々は全然背が伸びていないのだ! ずるいのだ!」 「あー」  実に悔しそうな声に、彼は奇妙な声で応じるしかない。  一刀の記憶を辿ってみれば、この世界に帰還した頃、三国会談で遊んでいるのを見た時の三人は、ほとんど差がなかった。  その頃に比べれば、実は三人共に成長しているのだが、それぞれの体つきに差異が生じているのも確かだ。  現状、背の高さで言えば、季衣、流琉、鈴々と並ぶ。一方で、子供っぽいころころとした体型から抜け出て、女性らしい優しい曲線を描くように変化している点では、流琉が一歩先んじている。  鈴々はいずれの面からも――わずかなものではあるものの――後れを取っていた。 「ふふん。だから、前から言ってるだろ。ちびっこはちびだーって」 「季衣、ちょっと」  話を聞きつけた季衣が得意満面という様子で、鈴々をからかう。流琉が止めたのも、かえって鈴々の怒りをかきたてたに違いない。 「むーっ!」 「なんだよ」  歯をむき合い、睨み合う二人。二人が得物に手を伸ばそうとする前に、男は間に割って入った。おろおろとこちらを見上げる流琉を安心させてやりたかったというのもある。 「こらこら」  足を止めている二人の肩を押し、それまでの進行方向へと押しやった。彼に抵抗するつもりもなく、ずりずりと押し出される二人。 「季衣も鈴々もいまのちょっとの差くらいで喧嘩しないの」  ちょっとじゃないよー! という声が聞こえるが、彼はそれを無視する。 「いずれは春蘭や愛紗に並ぶと思えば、そんなの誤差みたいなちっぽけなものじゃないか。そうだろ?」 「む……。ま、まあ……」 「お兄ちゃんはいいこと言うのだ」  一刀が語る未来予想図を想像して気をよくしたのか、二人の表情が和らぐ。そのまま、未来の自分たちについての口論に入る季衣と鈴々。だが、それは先程までのような緊張感とは明らかに温度が違う、じゃれ合いのようなものに変わっていた。 「でも、兄様」  声をひそめて、耳打ちするのは流琉。彼女は真剣きわまりない顔で続けた。 「私たちが秋蘭様くらいになるという保証はないですよね? 風さん……うーん。いえ、華琳様くら……むぐっ」 「しっ! 死にたいのか、流琉!」  必死の形相をした男の手が彼女の口を押さえつける。彼は彼女を守る様に抱きかかえながら、四方に何度も目をやっていた。  こうして彼は愛しい少女を救ったのであった。 「ねえ、兄ちゃん、これ着ないとだめ?」 「むー、すーすーするのだー」 「もう、二人とも。せっかく買ってもらったんだから、そんな文句言わないで……」  赤、黄、白と色とりどりのひらひらとした格好の季衣、鈴々、流琉に囲まれるようにして歩きながら、一刀はほくほく顔であった。  なにしろ三人とも武将であり、動きやすい格好を常にしているため、裾が広がった、華美な服装を見られることは滅多にない。それがまとめて目に出来るというのだから、彼としては実に眼福であった。  そもそもこれらの服にしても、一刀が無理に着せたわけではなく、必要なものを買い終えた後の季衣と鈴々がじっと見つめているのに気づき、着てみたらと勧めてみた結果なのだ。  着てみれば、予想以上にかわいらしく、それぞれの少女らしさを引き出していて、一刀に金は俺が出すと即決させるのに十分であった。すぐ脱いでしまおうとするのを、せめて城に戻るまでと説得してみたが、本当に嫌だったら、けして着てくれなかっただろう。  そんな照れ屋なところも、かわいいと思う一刀であった。  ただ一つ気になることがあるとすれば。 「流琉は季衣と色違いでよかったの?」 「はい? ええ、もちろん」  季衣の服は基調の赤に、右側にだけ縦に格子柄が走る意匠なのだが、流琉はその色違いで白の中を赤の格子が彩る。単体でも十分かわいいものだったが、別のものでもよかったのに、と思ったのだ。 「んー。流琉はもっとわがまま言っていいと思うけどなー」 「そうですか? 言ってるつもりですけど」  まるで不満そうな様子もなく、こてんと首を傾げる流琉。それに対して口を尖らせて抗議したのは彼女ではなく、他の二人であった。 「あー、兄ちゃん、それじゃボクたちがわがままみたいじゃーん」 「ぶーぶー、なのだ」 「まったく、こういうときは仲が良いんだから」  たまんないな、と肩をすくめる男の様子に、皆が笑い、そして、三人の少女たちは彼を囲むようにして足を止めた。 「でも、ありがとうね、兄ちゃん」 「うん。ありがとうなのだ!」 「ありがとうございます。兄様」  次々にお礼を言われ、驚いたようにしていた彼は、すぐに笑みを浮かべる。素直に笑い、素直にありがとうと言える少女たちを、彼は本当に楽しそうに見つめ返したのだった。  3.天与の才 「読み違えた、読み違えた、読み違えた……」  夜半、宮城の廊下を急ぎ足で進む影が一つ。  その小柄な人影はぶつぶつと同じ事を呟きながら一つの扉の前にたどり着くと、小さく音を立て、来訪の意を示した。 「あら……?」  扉を開いたのはしなやかな動作の艶やかな女性、黄漢升。内側からの灯りに照らし出された訪問者は、色の薄い髪をした少女、蜀の大軍師諸葛孔明。 「どうしたの、朱里ちゃん」 「少し話をしたいのですが、よろしいですか」  部屋に迎え入れ、声をかけたところで、紫苑は朱里の表情をじっと見て、声の調子を変えた。 「ええ。璃々はもう寝ているし、つきあうわよ」  茶か酒か、と湯飲みと酒杯を持ち上げて訊ねた紫苑に対し、驚くべき事に、朱里は酒を望んだ。  それで部屋の主は確信した。これは相談ではなく、ただ考えをまとめるために自分に話をしに来たのだと。そして、紫苑は聞き役に徹することにした。 「今日、華琳さんに、『世界地図』を見せてもらったんです」 「ああ、一刀さんが持ち込んだという? 桃香様がご覧になるのではなかったの?」 「もちろん、桃香様もご覧になっています。ただ、私も見る機会がありました。それも非常に衝撃的だったのですが……」  朱里は紫苑に対して、世界の大きさを説明してみせる。だが、それ自体は実際には問題ではないと彼女は言った。その広さや果てを知ることは、概念として実に重要で、覚悟や気概を変化させることはあるだろう。しかし、近々に脅威となる類ではない、と。 「その後、一刀さんが持ち込んだものは他にもあると聞きました」 「他?」 「はい。いくつかは桂花さんや稟さんたち……軍師陣に与えられ、いくつかは真桜さんに分けられたのだとか。今日の午後は、真桜さんが譲られたという冊子を見せてもらっていました。ずっと」 「ずっと? それはよほど興味深かったのね」  紫苑の問いに、朱里はきっぱりと首を振る。その勢いで、首元の鈴が鳴るほどに。 「違います」  しばらくの沈黙。重苦しいそれを破ろうと紫苑が口を開こうとしたところで、朱里はぼそりと呟いた。 「理解、できなかったんです」 「え?」 「全てではありません。理解できるものもわずかにはありました。しかし」  ちゃぷちゃぷと音がする。それが、自分が注ぎ、朱里が右手に持つ酒杯がたてるものだと、紫苑は気づいた。 「真桜さんはそこから既にいくつかの機構を実用化してみせています。つまり、私などの理解とは、雲泥の差」  震えている。朱里の小さな体が震えている。まるで極寒の地に置かれたように、彼女は震えている。  だが、それをもたらしているのは、寒さなどではけしてない。彼女の内側からわき出るもの。 「読み違えました。魏で警戒すべき天才は、二人だと思っていました。真桜さんはすばらしい技術者ですが、そこ止まりだろうと。違います。あれこそ世に二人と現れぬであろう天与の才」  その名は、恐怖。  彼女の顔を青ざめさせ、その体の動きを引き起こすそんな感情が、同時に彼女の舌の動きを後押ししていた。 「いいですか、紫苑さん。一刀さんは天の国の絡繰の原理をこの世界に持ち込みました。彼自身が理解しているかどうかは別として、真桜さんにならわかるであろうと書き記してきたんです。そして、その期待に、彼女は応えている。でも、私にはわからない!」 「で、でもね、朱里ちゃん。真桜さんは長い間それを解読しているのではないかしら? 一日読んだだけなら、わからなくても……」  戦場でも、軍議の場でもないのに声を荒らげる朱里の様子に、紫苑は一度自分の杯を飲み干して、喉に湿り気を与えてからなだめるように言った。 「……そうですね。そう考えるのが正しいのでしょう。嘆いていてもしかたありませんし」  しばらく考え込むようにしていた朱里が、諦めたように呟く。その言葉を発する彼女の瞳を覗き込んで、紫苑は背筋に寒気が走った。そこに宿る光は、あまりにも、暗い。 「しかし、苦境に変わりはありません」 「それについては……我が国にだって、力ある人がいるじゃない」 「『戦術の天才』稟さんに同じく『戦術の天才』雛里ちゃんが当たり、『万能の天才』華琳さんを私が抑えられたとして……もし、万が一そんなことが出来たとしても」  到底ありえないことだと言うように、朱里の唇の端はくいとあがっている。 「真桜さんに伍する才は、この世にいません」  ほう、と朱里は息を吐く。それから、彼女は大きく息を吸い、長い長い息を吐いた。 「そして、何より恐ろしい事に、魏は、これらの技術を秘匿するつもりはないのです」 「はい?」  さすがにひっくり返った声で紫苑は訊ねる。先程までの激情が嘘のように、朱里は淡々とそれに答えた。 「いずれ用意が出来れば、つまり、よほどの人間でなくても扱えるようになれば、これらを蜀や呉に供与することを妨げるつもりはない、と華琳さんは明言していました」  もちろん、現状で表沙汰にすることではなく、桃香と朱里相手だからこそ話したことであろう。だが、王同士がそれを約していれば、それが実現しないと考える理由はない。 「わかりますか? たとえそれらの技術を受け入れ、自分たちのものにしたとしても、呉もまたそれを手に入れている。さらに、魏は我らに数倍する資金と労力をそこに注ぎ込むでしょう」  そこで始めて朱里は自分の杯を口元に持っていった。ちろりと舌を伸ばし、表面をなめとるようにする。 「蜀は……我が国は、このままでは、引き離される一方となります」 「なにもそこまで悲観的になることはないのじゃあないかしら?」  頬に手を当て思案げに呟く紫苑のことをじっと見上げるようにして、朱里はしばらく黙った。 「紫苑さん」  臙脂色の瞳が光る。かたり、と杯を置いて、静かな声で朱里は訊いた。 「崑崙って知ってますよね?」 「ああ、真桜さんが作ったっていう、調理器具よね? 小型でも火勢が強いから便利だとか……」 「じゃあ、涼州で掘り出されているという、燃える水については知っています?」 「ええ、翠ちゃんからなんとなく……」  一つ頷き、朱里は続ける。 「その燃える水……石油と呼ばれているんですが、それを使った改良型崑崙を見せてもらいました」  その様子を、朱里は説明する。これまでの崑崙よりは大型だが、それは燃料貯蔵部分まで構造に組み込んだためであった。機構そのもので言えば小型化していると言える。 「石油を使うのも少ない量で、とてつもない火勢です。あれは、すぐに炉に応用可能でしょう」 「ええと、つまり?」 「つまり、より質の良い鉄器が大量生産できるということです。大量の木材を使うこともなく」  その意味を考え、紫苑は腕を組む。困ったような表情がその顔に浮かんでいた。 「農耕具も、武器の質も上がる、ということですわね」  それがもたらす効果は考えるまでもない。国を富ませ、兵を強くすることに直結するものだ。 「ええ。しかも、石油を掘り出す土地は、翠さんたちではなく、袁家……袁紹さんのほうが握っているんです」 「え?」  さすがに意味が理解出来ず、彼女は聞き返す。なぜ、袁家が涼州の土地を持っているのか。  まして、北伐の後で。 「西涼が建国されても、長城の管理はしばらく袁家が担いますが、それとは別に、石油の出る土地は、袁家に譲られてるんです。最初の北伐の褒美として」 「え? でも、あの時は……。ああ、もしかして」  北伐にまつわる経緯を思い出し、紫苑は目を宙にさまよわせた。朱里の言葉がそれを裏付ける。 「そうです。石油は、翠さんたちが鮮卑を討ちに戻ってから、出た」  それらの条件も北伐関連の約定の中で出てきていたはずだが、石油というものの重要性を理解していない時点では、見落としていてもしかたない。実際、当時それを重要と考えていたのは、大陸の中でも一刀くらいのものだったのだから。 「魏は……いえ、一刀さんはこれも蜀にも呉にもわけてくれるでしょう。対価は必要ですが、手に入れることは出来る。しかし」  血を吐くように、彼女はそれを言う。あるいは、自らの心を傷つけたがるように。 「それでも、距離は縮まない。縮みようがない」 「それは、でも……しかたないのではなくて? 資金が潤沢で、耕地も広く、人口も多い。魏が優勢を保つのは、避けようがないことでしょう?」 「ええ、わかっています。わかってるんです」  そう、わかっていないはずがない。広さでも負け、人の数でも負け、それがもたらす富でも勝ち得ない。それはわかっていたはずだった。  それでも――。 「ただ、どこかで……いつか打開する術も見つかるのではないかと考えていた自分に気づいてしまったんです」  言って、朱里は杯を取り、一気に呷った。そんな自暴自棄な飲み方は酒好きの紫苑としては止めたい気持ちでいっぱいであったが、一方で、どう言ってやればいいかわからないでもいた。 「そんな甘い自分に」  唇を噛みしめ、自らを責める少女に対して紫苑が出来たのは、彼女の体をかき抱き、彼女の不安を、彼女の苦悩を、共有すると態度で示してやることだけであった。  4.断金  天宝舎の裏にある開けた場所。そこには真桜特製の新型絡繰が据え付けられていた。  下部にとりつけられた炉で暖められた水が上部の球体に送られ、回転する。外見だけ見れば、呉の宮廷で密かに作られた蒸気機関の試作品にそっくりだ。  その球体を開き、汚れた衣類を押し込んだ後、横についた弁を開いた女性は、雪のように白い仮面で隠された顔に、呆れたような表情を張り付けた。 「ほんとーに、これで綺麗になるのかしらねえ?」 「まあ、様子を見ていればいいだけというのだから、見ていようではないか」  蒸気洗濯機の炉に薪をくべながら、火の様子を見ているのは、こちらも鬼面を被る女性。ただし、色は闇のように黒い。  ごうんごうんと熱水が球体に入りこみ、排気口から蒸気を噴き出して回転し始めると、熱波を避けるために、両者共に一歩退いた。蒸気が噴き出すのは彼女たちがいる側とは垂直方向で直接に受けることはないが、しゅーしゅー音をたてながら回転する球体からはなるべく離れたくなるのが普通の心情であろう。 「とりあえず、危なそうなら、逃げるからね」 「……うむ。そうしよう」  念のため、もう一歩ずつ退いて、二人は観察を続ける。回転がそれ以上早くなることを止め、安定した様子になったところで、雪蓮が話題を変えた。 「ところで、この間、華琳と二人で飲んだ話したわよね?」 「ああ、聞いた。一刀殿を独り占めするなどと考えるなと蓮華様に伝えておけと暗に言われたとかなんとか」  王と王であった者が交わすにしては、ろくでもない会話だな、と冥琳は吐き捨てた。その様子に少し笑ってから、雪蓮は声の調子を改めて言った。 「でね、あの後色々考えていたんだけど」  蒸気の噴き出す音に、紛れるように彼女は言う。隣にいる冥琳にしか、その声は聞こえないだろう。たとえ、近くに誰かが紛れ込んでいたとしても。 「一刀の『教導』は予想していたより早く終わっちゃうのかも」 「ふむ……」  冥琳は手に持っていた最後の薪を炉に放り込んで、腕を組む。 「一刀殿に大権を譲る時が予想以上に早く来る、か……」 「華琳自身がその後どうするのかわからないけどね。一刀が外向き、華琳が内向きってのもありそうな展開だし。その逆ももちろんあり得るわね」 「大陸制覇、か」  大陸と言ってこの地の人々が思うのは、三国に加えて南蛮、あるいは匈奴の土地がせいぜい。その先ともなればおとぎ話に等しい。しかし、一刀と華琳、この二人の意識は違う。それは雪蓮、冥琳共通の認識であった。  そのために、華琳は北郷一刀という男を育てようとしている。その了解もまた共有している。その上で、彼女たちはなにを思うか。 「中央で得た情報と、良馬をさらって凱旋と行きましょうか?」  からかうように、しかし、舌なめずりしそうな声音で、雪蓮が囁く。冥琳もまた、重々しく頷いた。 「ふむ。それもよい……と言いたいところだが、冗談でかける命はない」 「ちぇーっ、つまんなーい」 「本気でやるならば、いくらでもかけてやるさ」  ぶーと口を尖らせる雪蓮に、冥琳は涼しい顔で肩をすくめる。 「ほんと?」 「当たり前さ」  あどけなさすら感じる仕草で訊ねる雪蓮に、冥琳は微笑みをたたえて請け合う。それは、断金と人に言わしめる絆を十分に感じさせるものであった。 「一刀を裏切っても?」 「その必要があるならば、な」  残酷なほど冷静な様子で言い切って、しかし、冥琳は首を振る。長く美しい黒髪が、その背で舞った。 「だが、冗談はともかくとして、動く必要はないと私は考える」 「そう? いま動かないと蓮華を鍛えるのも難しくならない?」 「この世代だけを考えれば、それは正しい。だが、そう焦ることもあるまいよ」  楽しむような冥琳の呟きを、雪蓮はわけがわからないという顔で受け止める。それに応じて、彼女は講義でも始めるかのような口調で先を続けた。 「一刀殿から得た情報によれば、いずれ、南北の生産力は逆転する」  南方、ことに揚州、荊州の潜在的な生産力はすばらしく高い。温暖な気候も、豊かな水も、それを保証する。ただ、現状では人が足りなすぎ、混乱がひどすぎ、技術が足りなすぎる。 「いつになるかはわからぬが、天の世界の技術を取り込むことに成功すれば、その歩みはさらに早くなることだろう。数世代……おそらくは、我らが五世の孫に至れば、北方と伍するだけの力を得るだろうさ」  遠く遠く、はるか先を見るように、その瞳は細められている。そこに至って、親友の意を理解したか、雪蓮の口元にも面白がるような笑みが形作られた。 「それに、魏は……否、北方の全ての土地は、一刀殿の血筋が継ぐ。形はどうあれな。であれば、同じ血を引く呉の王が、中央の乱れを制するため出張る機会もあるかもしれん。まあ、これは、裏返しの干渉の危険もある話ではあるが……」  血が近ければ、王位継承の問題が生じる。これはどの国にとっても問題であるが、逆にそれを突き、自らに利することも可能となる。実に危ういが、利用価値もあるものであった。 「蓮華の血統なら大丈夫よ。あの子、堅実だし」 「ふむ。そうだな。それに、南北はまだ逆転していない。北が南の魅力に気づいた頃には、南には冒しがたい力が付くはずだ」 「それまでは、長江の守りと、自ら律することで生き延びる、か」  んー、と白面の女性は伸びをする。その豊かな胸がぶるんと震えた。蒸気洗濯機は彼女たちの前で安定して回転し続けており、何ごとも起きないが故に、少々飽きも来ている雪蓮であった。 「まー、正直、そんな予想とかさっぱり超えて、一刀がとんでもないことしでかしてくれちゃうような予感もないではないんだけどねー」 「たしかに。あの方がからむと予測不可能だからな」  はあ、と小さくため息を吐いた冥琳は己の仮面を抑える。それは彼女の内に秘める無力感を示すに十分な仕草であった。 「なにしろあの華琳殿からして、一刀殿が絡んだ途端、私にも理解できん事をし始める」  だが、それに対して、彼女の親友はからからと笑って答える。 「愛しちゃってるのよ」 「業の深い事だ」  言う冥琳の視界の隅、ずっと遠くを、かわいらしい『めいど服』を来た二人の女性が歩いて行く。月と詠――董卓と賈駆。彼女たちもまた北郷一刀を愛し、そして、ごく稀にだが周公謹の予測すら軽々と超えていく人物だ。 「業の深い事だ」  繰り返す声は、しかし、どこか先程より皮肉が抜け、さっぱりとしている。彼女は一つ大きく頷き、いま対しているものに注意を戻した。  その視線の先で、球体がその回転をどんどんと遅くし、いまにも止まろうとしている。その最後の一押しに、近づいていた雪蓮が弁をきゅっと閉じた。 「爆発しなかったわね」 「残念そうに言うな」  雪蓮のいかにもつまらないという様子の言葉に苦笑しつつ、彼女は呟くのだった。 「さて、どんなものが出て来るやら」  と、実に楽しげに。      (玄朝秘史 第三部第五十四回 終/第五十五回に続く)