漢中の一角、大きな屋敷の一室で『男』は待っていた 寝具に横たわり、腕も顔も痩せ衰え、余命幾許も無い事は周囲に居る誰もが知っていた しかし、その瞳だけは今だ爛々とした光を湛え、かつての『男』の姿を連想させた 部屋には十人近い人間が居るにも関わらず、しんと静まり返っていた その静寂を破るように、僅かな足音が聞こえ、『男』がかすかに視線を動かす 室内に居た全員の顔が扉に向き、それが開かれるのを待った 数秒だろうか、少しの間を空けて扉が開かれる 「若旦那……」 『男』の直ぐ側にいた年長の男が安堵した表情を浮かべる 彼に軽く頷いて、若旦那と呼ばれた青年は『男』の元へと歩み寄り、腰を下ろした 『男』の目が青年を見つけ、その口元が微かに綻ぶ 「何とか……間に合ったな……」 「親父さん……」 擦れ気味の声で自分に語りかける『男』に、青年の顔が歪む 死に行く恩人に対して何も出来ないで居る歯痒さが、全身を包み込むようだ そんな青年の心中を察したか、『男』は生来の剛毅な笑みを見せた 「そんな、顔をすんな……どうにも、ならない……事だってあるさ」 「でも、俺は……親父さんに、何も返してない」 悔しそうに唇をかむ青年を、『男』は父親のような表情で見やる 血の繋がりこそないが、『男』にとって青年は実の息子のような者だった 二年前に荒野で出会ってから『男』は青年に惜しみない愛情と商売の知識を注いだ 何時か自分の跡を継いでもらう為に、そして自分の唯一の家族の為に 青年はそれに応え、『男』が思った以上の結果を出した 青年の持つ知識はそれまで『男』の持っていたどんな知識とも違っていた 様々な意匠の衣服や見た事も無い料理、金や鉄、銅等の埋蔵場所や加工方法…… まさに『天の国』から来たような知識は、『男』の店をあっという間に漢中最大の商家へ押し上げた 今では大陸のあちこちに支店を持つ大商家だ それだけでも『男』は十分に借りを返してもらった事になるだろう 「何言ってやがる……お前は十分、返してくれたよ……」 「親父さん……」 「お前に……親父と、呼ばれてな……俺は、満足だ」 しかし『男』が本当に嬉しかったのは、青年が『男』を曲がりなりにも親父と呼んでくれた事だった 『男』は店の連中も家族だと思っている だが、本当の意味での家族を、『男』は持っていなかった だからこそ商売に精を出して、店をここまで大きくしたのかも知れない 『男』が本当に求めていたのは――家族だったのだろう 「さて……長話も、なんだ……皆、よく聞け」 自分に残された時間が少ないと知っているのか、『男』が声を大きくした その声に、室内にいた全員が『男』の方を見る 「俺は、もう死ぬ。俺の跡は、こいつを盛り立ててやってくれ」 青年に視線を向けて、『男』ははっきりとした口調で喋る この部屋にいる誰もが『男』の子飼いであり、また青年を好意的に見ている事を『男』は知っている 自分の死後、まさか青年を貶めるような真似はしないだろうが、それでも言っておくに越した事は無い 「分かりました、旦那様。以後は若旦那の為、身を粉にさせて頂きます」 「おぅ……頼んだぜ……」 再び声が擦れ始める、時間が無いのだろう ふぅ、と大きく息を吐いた『男』は青年の方に顔を向ける その瞳は大商人としての物ではなく、一人の父親としての物であった 「財産は……お前の、好きに使え……ただな、店の人間を……路頭に迷わすような……事はするな」 「……分かってるよ、『親父』」 「はは……最期に、親父ときたか……」 既に顔色は死人のそれに近い、だが『男』は心底嬉しそうに笑った 最期の最後で、『男』は本当に欲しい物を手に入れられたように笑った その瞳から一粒、涙が零れ落ち、寝具を濡らす 「じゃあな……息子よ」 「あぁ……五十年もしたら、そっちに行くよ」 「そうか……そしたら、酒でも……呑もうぜ……」 「……今から、楽しみだよ、親父」 今正に命の火が消えようとしている 部屋にいる人間は、誰もが涙をこらえ、唇をかみ締めている 青年も流れ落ちる涙をぐっと堪え、あえて軽口で『男』の最期を看取ろうとしている それが『男』には有難く、そして嬉しかった 「……俺に会ってくれて、有難うな、一刀」 そう言って『男』は静かに目を閉じた 青年――北郷一刀は、黙って頭を垂れ、やせ細った手を握った 夜空には満月が光り、雲ひとつ無い夜の事だった 異説恋姫 〜三国志×商人×天の御使い〜 北郷一刀は聖フランチェスカ学園へ通う学生であった だが、ある日、ふと気が付くと古代中国の大地に立っていた あまりに唐突な事に呆然としてしまったのは当然であろう そこへ声をかけて来たのが野盗の類であれば、運命は違った物になっていたかもしれない しかし、一刀を見つけたのは、漢中の商人であった『男』だった その後の顛末は知っての通り、一刀は『男』の元で商人として生きてきた 商業に関する知識は『男』や周囲の人間からみっちりと叩き込まれた 逆に『天の国』(現代)の知識を応用した意匠や料理は、彼らを驚嘆させる事もあった 始めは訝しげに一刀を見ていた周囲の人間も、次第に一刀の人柄に惹かれていった 今では自分達には考え付かないような事を生み出す一刀を、頼もしく思っている そして――一刀は今や大陸中に支店を持つ大店(おおだな)、屋号を<流星屋>の頂点に座っていた (これは『男』が流星を見た直後に一刀を見つけた事に因んでいる) 「ふぅ……」 自室で、一刀は眺めていた竹簡を机に置いた 内容は大陸各地の支店から集まってくる商業情報だ 商売とは情報戦である、というが一刀なりの考えである 各地の様々な情報を素早く集め、商売に反映させる その為には大陸全土に情報網を張り巡らせなければならない 幸いな事に下地はあったので、一刀はそれを拡大発展させるだけで良かった 「……作物の値段が上がってるな」 思わず頭を掻く 最近の異常気象と蝗による被害で、作物の値段は上昇する一方だ それに加えて役人の不正が横行しているのも問題だ 幸いな事に漢中においては<流星屋>の影響力が大きい為か、不正は見つかっていない だが、他の都市では役人が不正に税率を吊り上げたり、物資の横流しが見受けられる そういった事が結果的に作物相場に影響を与えているのだ 「この世界も……やっぱり黄巾党の乱は起きそうだな……」 小さく呟いて、机の引き出しを開ける そこには、この世界に来た時にバックの中に入っていた幾つかの本が入っている この本達に、一刀は本当に助けられている 『世界史』で使っていた資料集に世界地図、この二冊には本当に助けられた 三国志の時代の資料も、地下資源の事も、この二冊があってこそだ 少し色褪せ始めた資料集を手に取り、ページをめくる 「黄巾党の乱……大規模農民一揆って理解かなぁ」 規模が違うけどな、と呟いてページを眺める 確かに規模が違いすぎる 大陸各地で蜂起した黄巾軍は総数五十万を超えるだろう 日本の『関が原の合戦』の東西両軍の合計よりも多い 幸いというか、全てが合流する事は無かったが、それでも大陸中を混乱に巻き込んだのは事実だ そして、ここから三国志の時代へと突入していく事になる そういった意味では黄巾党の乱は、重要な歴史のターニング・ポイントであろう 「何か、出来る事があればいいんだけど」 黄巾党の乱を宗教戦争か、農民の蜂起かと問われれば迷ってしまう 恐らく最初は宗教戦争であったろうが、後には農民の蜂起という方が合っているだろう 日本で言えば島原の乱が近いのかもしれない 信仰心で従っている者もいれば、単に食う為に参加している者もいるだろう そうであれば、何か解決策を見出す事も可能なのだが…… 「今は何とも言えないよなぁ……」 大きく溜息を吐き出して、資料集を机に仕舞う 未来の出来事が分かるからと言って、確実にそれに対処できる訳ではない 世界は不確定要素の積み重ねによって『辛うじて』出来上がっているに過ぎないのだ 「とりあえず今は……作物の方だな」 机の上に積みあがっている報告書に目を通しながら、考えをまとめる 比較的作物相場の安定している地域で買い付け、高騰している地域で売却する 単純だが確実なやり方だし、結果的にその地域の人々の為にもなる 現代人的合理主義と商人的な利益計算、一刀の人間性が混じった策であった 「うぅ、背中が痛ぇ……」 とりあえずの仕事を終えた一刀は、街に出ていた 漢中は涼州や益州、荊州や秦州を結ぶ交通や経済の要所である <流星屋>の本店がある事もあって、経済活動はすこぶる順調だ 「今日は何処を見に行こうかな、と」 ふらふらと足の向くままに歩く一刀に、あちこちから声がかかる 「若旦那、今日はどちらへ」 「ウチの商品も見て下さいよ」 「いい馬が手に入ったんですよ、見に来てくださいな」 「若旦那、塩が手に入りませんかねぇ」 誰も彼も、一刀の顔を見れば話しかけてくる 一刀は街の名士であり、それで無くとも人柄が街中から愛されているのだろう 話しかけられる度に立ち止まり、少し話してはまた歩き出す 嫌な顔せずに周囲と笑いあう一刀を、漢中の人々は好ましく思っていた 「あの、若旦那」 少し暗い声がした方を向けば、顔なじみの男がいた 確か金融業――金貸しをしていた筈だが 「ん、どうした?」 「すいやせん、例の役人なんですが、まだ返済の方が……」 「あー……いいよ、急いでやる必要もないさ」 特に問題でもない、といった風に手を振ると、男は恐縮した様子で頭を下げる 現在の<流星屋>は、現代風に言えば大型グループ企業だ 飲食店に衣料店、金融業に運送業などを運営している 他にも鉱物資源の採掘と加工、武器の製作販売に陶磁器も扱う 貿易も勿論で、去年からはシルクロード貿易も始めた <流星屋>の裾野は広大なのだ 「さてと……今日は飲食系にしようかな」 軽く腹が減った事もあり、一刀はふらふら歩きながら、系列の飲食店に入った こうして系列店の様子を見に行くのは一刀の日課であり、また気分転換であった 現場を知らない商人は駄目だ、という『男』の口癖をよく守っている証拠でもある 「お邪魔ー」 「いらっしゃ……って若旦那、今日はどうしたんですか?」 「うん、ちょっと様子を見に、ね」 店員の一人が一刀に気付き、さり気なく店内の死角になる場所に招く 厨房で腕を振るう店主も気付いたようだが、軽く会釈する程度で料理に集中している 一刀が仰々しいやりとりを好まない事を知っているのだ それに一刀自身、店主の仕事の邪魔をする気は無い 「店の調子は?」 「千客万来ですよ」 「売れ筋は?」 「『ぷりん』ですね、『かすてら』もなかなかですけど」 「ふぅん……やっぱり女の人が多い?」 「『ぷりん』はそうですが、『かすてら』は男の方も注文されますね」 店員の返答に、満足そうに頷く一刀 プリンもカステラも、一刀がレシピを整えて売り出している物だ 一刀の携帯に入っていた料理のレシピのアプリで調理法を確認し、材料をそろえた この他にも何種類かレシピを抜き出しては店で出している お陰さまで評判は上々のようだ 「他の店も似たような物を出してるそうですが……やはり本物には」 「敵わない、か」 「えぇ、例の――調理法の買取も考えているらしいです」 店員が言ったのは、料理に対する特許のような物だ レシピを提供する代わりに、一定の使用料金を支払う 大規模になればなるほど使用料金は大きくなり、<流星屋>に入る特許料も増える これも一刀の考えた方法の一つだ 知識というのは、使いようによって幾らでも商売に反映させる事が出来るのだ 「まぁ、平穏に済めばそれが何より――?」 出されたお茶を飲もうとした一刀が動きを止める ちょいと店内を眺めて見れば、店の端の方の卓に座っている三人組が何やら言い争っていた 一刀の視線で気付いた店員が、失礼しますと断って三人組の元へと向かう 三人とも女性で、しかもここから見る限り誰も美人だ 様子からして旅人のようだが、女性だけで大丈夫なのだろうか、と余計な心配をしたくなる 興味を引かれて見ていれば、店員が来た途端に三人組の声が小さくなる うち二人は視線を彷徨わせ、一人は少し困った様子で首を傾げていた 「……ははぁ」 ピンときた 伊達に商人をやっている訳じゃない、人間観察も大事な修行だ そしてああいった動きをする人間を、一刀も沢山見てきた 苦笑しながら席を立ち、三人組の元へと向かう 見れば店員も困った顔をしていた 「困りますね、お客様……今更になって」 「す、すまん」 「もぅ……だから星殿に預けるのは反対だったのです」 「……ぐぅ」 「……風、貴女も『ぷりん』とやらを随分と食べたでしょう」 「むー、稟ちゃんだって食べたのですよ」 「そ、それは……」 「お客様」 「……」 やっぱりそうか、と一刀は苦笑を噛み殺した どうやらこの三人組、お金を持っていないらしい いや、話の流れから察するに路銀を落としたのかもしれない そして、食事をした後で気付いたという訳か まぁ、食い逃げをしない所を見ると、悪人ではないのだろう 「どうした?」 「あ、若旦那。実はこの方々が、その、お金を落としたと……」 困り顔の店員が三人組に視線を向ける 三人は、それこそ困った顔になって店員と一刀の顔を交互に見やる 「あー、俺は店主じゃないけど、この店の持ち主なんだけど……お金が無いって?」 「う……も、申し訳ない」 白い服と青い髪が特徴的な女性が引きつった顔で頭を垂れる 卓上には多数の酒瓶と皿とメンマ壷と……兎に角色々あった 昼間から酒呑むなよ、と思ったが口には出さない 連れの眼鏡の女性と、金髪の少女もこちらをちらちらと見てくる 「いや、路銀はな、あったのだ。少なくとも漢中に入るまでは」 「それで?」 「それで……この店に入って、食事をして、金を払おうとしたら……」 「無かった、と」 呆れたように言う一刀に、三人組は小さく頷く つまりは落とした訳だ 「こんな事ならやはり私が持っているべきでした……」 「まぁまぁ、稟ちゃん。星さんも反省していますし」 「反省してもお金は出てきません」 「面目ない……」 「全く……『常山の昇り竜』の名が泣きますよ」 どうしたもんか、と店員と顔を見合わせていた一刀がはじかれた様に振り返った その動きに店員は勿論三人組も驚いたような表情を見せる 「……な、何か?」 「『常山の昇り竜』って……趙雲子龍?」 「……何故、私の名を?」 これが驚かずにいられようか 目の前の女性は、かの三国志の英雄趙雲だと言うのだ この世界に飛ばされて二年半、大分慣れたつもりだったが、これは完全に予想外の展開だった 趙雲を名乗る女性は不思議そうな顔のままでこっちを見ている 一方の一刀は恐る恐るといった様子で趙雲の連れの二人に視線を向ける 「失礼ですが、お二人のお名前は?」 「私は……戯志才と申します」 「程立仲徳なのです」 流石に愕然とした 戯志才と言えば郭嘉奉孝の偽名、程立は程cの改名前の名である 三国志に関する知識は人並み程度にしかない一刀でも知っている英雄だ その英雄三人が自分の(系列の)店で無銭飲食をしている 余りにもシュール過ぎる光景に、一刀はほんの少しだけ眩暈がした