「無じる真√N68」  木々のさざなみがさらさらと風に乗って流れていく。  そんな中、ずれた眼鏡の蔓を指で押し上げながら導士服の男がふうと溜め息を吐く。  毒矢を放たせたのは彼の計算通りだった。しかし、あの体勢で刺さるとは思わなかった。  少女を庇った小覇王の命が取れると踏んでいただけにこの結末は実に味気ないものだった。 「まさか、河に落ちてしまうとは……」  眼下に広がる水流を眺めながら導士……于吉は「ふむ」と考え込むように顎元に手を添える。  そして、ほんの数秒ほど考えると目を閉じて背後に倒れ込んだ白装束の死屍累々の山へと振り返る。  孫策と少女一人を仕留めるためだけに多くの兵士を損失してしまったのだが、于吉は無表情で白装束たちを見下ろしながら溜め息を零す。 「追跡は必要ありませんね……というより、私自身が濡れるのは勘弁賜りたいものです」  やれやれと肩を竦めると、于吉は眼鏡の奥、にやけ顔に張り付いた鋭利な瞳を鈍く光らせる。 「それよりも今はまだすべきことがあるわけですからね……さっさと済ましてしまいましょうか」  そう言うと、于吉はぶつぶつと呪詛のような呪文のような言葉を呟き、まるでそれによって呼び寄せられたかのように気配などなかった木々の影から白装束たちが姿を現す。 「さて、それでは作業に映りましょうか」  于吉がそう呟き、白装束たちに指示を出そうとすると、木陰からゆらりと陽炎のように揺らめきながら何者かが姿を現す。  于吉がそちらを見ると、それは彼と同じ意匠の導士服を着た左慈という少年だった。 「おや、どうしたのですか左慈。確か、下邳を治める木偶に成りすまして機を待っていたはずでは?」 「ふん。あの男が何を思ってか俺のところにきやがった!」 「ほう……あなたの態度から察するに、北郷一刀のことですね? まさか襲撃されてすごすごと逃げてきたと?」  そう訪ねると、左慈が苦虫をかみつぶしたような顔で言葉をつまらせる。それを見て于吉は口もとに手の甲をあてて笑う。 「珍しいですね、あなたともあろう者が重要人物とはいえ格下の相手にそのような――」 「黙れ! それ以上、何かほざいてみろ……絶対に許さんぞ」 「おお怖い……。と、冗談はここまでにして、何か事情があったようですね」 「華雄とかいう木偶が予想以上の力を見せてきた」 「華雄……ああ、短命かつ薄命の。確か、関羽に切り捨てられるか孫策、孫堅辺りに討たれるかして表舞台からは退場する……そのような者が左慈を退けたと」 「違う! それは断じて違う! あの木偶が粘ったせいで、奴らの手勢が揃っちまったんだ。いいか、決してこの俺が木偶ごときにしてやられたわけではないぞ。たまたま、奴らの方が手持ちの札が多かったというだけの話だ」 「まあ、そういうことにしておきましょうか。うふふ」 「気味の悪い笑みを浮かべるな、このゲイ野郎」  悪態を吐く左慈だが、その表情は鬼ごっこで最初に呆気なく捕まった子供のようにむっとしつつも拗ねているようである。 「それで? そう言うそっちはどうだったんだ」 「ええ、小覇王の息の根は止めましたよ」 「……なら、死体はどうした」 「実は河に流れていったので確保できなかったのです」 「はぁっ!? おい于吉、本当に貴様の考えた策は大丈夫なんだろうな!」  もの凄い剣幕で睨み付けながらつかみかかってくる左慈に于吉は微苦笑をしつつ宥める。 「落ち着いてください、左慈。毒矢は確かに彼女に刺さったのです。どう考えても助かりようはないでしょう」  それに孫策は少女を抱きながら河へと転落した。孫策自身は毒が回って岸までたどり着けないだろうし、少女が自分よりも大きい孫策の身体を背負って自由自在に泳げるとは到底思えない。  もし仮に名医と呼ばれる者が彼女たちが流されているところに通りかかったとしても、二人を河から救い出すことがまず不可能である。  それらの理由から確信を持って答えた于吉から目をそらすと左慈は空を睨み付ける。 「ふん。だといいがな」 「心配性ですね。あなたは」 「こんな異常な世界をやつに作らせてしまった……つまり俺たちは失態を犯したんだ、再びそんなことにならないよう慎重にもなるに決まっているだろうが」 「まあ、それは確かにそうなんですがね」  左慈が苛立つのもわからなくはない。ようやく外史へと入りこみ直接的な行動を起こすことができるようになったとはいえ、于吉たちは既に数手遅れている。 (ですが、遅れているからこそ慌てずに着実な手を考えるべきなのですよ……左慈)  于吉は地面をだんだんと踏みつけている左慈に苦笑を漏らしつつも、腕組みをして目を瞑る。 「ふむ……それはともかくとして、左慈の方に動きがあったのでしたら……」 「次の手を変更するのか?」 「いえ、多少の手違いはありましたが、概ね予定通りでよいでしょう」  そう答えると、于吉は目を開きそこかしこに倒れたままの白装束たちを見る。その口もとには笑み。とても歪で邪悪な笑みである。 「左慈の情報通りだとするのなら、きっとこれから面白くなるでしょうね。既に我々が打った楔はしかと作用してこの外史に影響を及ぼし始めているのですから」  †  徐州での孫策たちと導士らの間に起こった動きがあったのと同じ頃、曹操から逃げ、荊州という新たな地に留まり、荊州刺史劉表の信頼を得て新野に駐屯していた劉備にも動きがあった。  まず、ことの始まりは劉備が荊州へとやって来たという話を耳にした者たちが彼女の元へと集まり、日に日に少しずつではあるが劉備軍の兵力は増してきたところからである。  そうして日々増える人々のために一層の頑張りと努力を見せる劉備たちであったが、近隣の賊討伐などを行ってはいるものの、今のところはさほど戦の影響もなく、この荊州に於いて彼女たちにはそれまでの慌ただしさが嘘のような平穏な一時が訪れていた。  そんなある日のこと、一仕事終えた劉備と諸葛亮の元に関羽がやってきた。 「桃香さま、本日は風呂の準備ができているそうです」 「え、ホント? じゃあ、偶にはみんなで一緒に入ろっか」 「そうですね、汗もかいちゃいましたから洗い落としましょう。ね、愛紗さん」 「うむ。朱里の言う通りだな」 「はいはい! 鈴々もお供するのだ」  関羽や諸葛亮と入浴に関する話をしていると、土煙を巻き上げんばかりに激走してきた張飛が着替えを抱えたまま、歯を剥き出しにしてニヒヒと笑いながら劉備の側らに立つ。  関羽は肩を竦めて「どこで聞きつけてきたのだか」と呆れた様子で笑っている。  劉備はそんな義妹たちのやり取りを見て笑みを浮かべながら直ぐに着替えの準備を始めると、先だって歩き出す。 「さーて、それじゃあしゅっぱーつ!」 「にゃー! いざ、お風呂なのだ!」  和気藹々とした様子でそのまま入浴と勤しむ四人。  途中、泳ぐ気満々の張飛を関羽が嗜めたり、諸葛亮が新しく配合した石鹸についての紹介をしたりと様々な話に花を咲かせたりしながら普段の疲れを癒やそうとうきうきとした様子で浴場へと足を踏み入れた。 「やたー、おっふろー!」 「鈴々ちゃん、走ったら危ないよ」 「ふふ、鈴々ちゃんは元気出だねぇ」 「こら、鈴々! まずは身体を洗わないか」  関羽に注意されて張飛は身体を洗い始める。他の者も横に並んで彼女に続く。   髪の短い二人、特に張飛から身体を洗い終えて浴槽へと入って行く。それ続いて諸葛亮、関羽よりも先に劉備が浴槽へと入湯していく。 「ふう……気持ちいい」  湯船につかりながら劉備はそっと自分の二の腕を撫でる。やはり、少しだけぷにぷにとした感触が増している。指で押すとぐにっと陥没するくらいに柔らかい。  それを見て溜め息を零しながら隣でくつろいでいるほんのり赤ら顔の諸葛亮に声を掛ける。 「ねえ、朱里ちゃん……最近さ、あまり動く事ってないでしょ」 「ええ、そうですね」  唐突な語りかけだったためか、諸葛亮は首を傾げながらぽかんとしている。  劉備は再度溜め息を零すと、湯船から出て未だに身体を洗っている関羽の後ろへと忍び寄る。 「愛紗ちゃんはこれだけくびれとかも締まっててよく引き締まった身体してるでしょ」 「ひゃんっ! な、何事ですか!」  背後から劉備に左右の横腹を撫でられた関羽が身体をくねらせながら抗議の視線を向ける。劉備はそれを無視して、自分の腰から臀部にかけてをなぞりながら諸葛亮に見せる。 「わたしなんて、今まで以上に動くことが減ったからお尻にもこんなにお肉ついちゃって……」 「は、はわっ、あの、なんと申せばよいのか……」 「確かに、お姉ちゃんのお尻おっきくなった気がするのだ」 「でしょー。はぁ……まいったなぁ……腿にもお肉はついてるし」  ぷりんとした丸い桃尻と腿の肉を揉んでは劉備は重々しい息を吐き出す。そんな彼女に身体を洗い終えた関羽が優しげな笑みを見せる。 「大丈夫ですよ、豊かになったとはいえ……そんな太ったという程では」 「愛紗ちゃん! 豊かにってそれも太ってるって認めてるんじゃない! もう、怒るよ!」 「ちょ、ちょっと桃香さま……な、何を……そのわきわきとさせた手はなんなんですかっ!?」 「愛紗ちゃんだってお肉ついてるでしょっ! ほら、また一段と大きくなってるじゃない!」  劉備はかっと眼を見開くと、手ぬぐいで申し訳程度に隠されていた関羽の乳房を露出させて鷲掴みにする。  浴場の床にはらりと手ぬぐいが落ちるが、関羽はそれに気付かないほどに驚いているのか口をぱくぱくと開閉させている。  その間にも劉備は彼女の背後へと回り込んで白に朱の混じった鋭角的な線を描いている双丘を豪快に掴む。 「ほら、見てよ二人とも! この大きなおっぱいを!」 「ちょ……あんっ、そんなに刺激を与えるような揉み方は……だめぇ……ちょっ、んっ」 「前から手のひらに収まりきらない感じだったけど、さらに溢れる面積が広がってる」  そう言って劉備は関羽の乳房に宛がっている手を前方から身体の方へ引く。すると、むにゅんと関羽の乳房が変形して直径で子供の頭部くらいなら余裕でありそうな柔肉が劉備の手のひらから溢れ出る。 「ん……い、痛いですよ……と、桃香さま?」 「はぁ……はぁ……おっぱいは大きいくせにこっちはきゅっと締まってる」  息を荒げながら劉備は片手を乳房から離して腰のくびれをなぞらせ、そこから前方へとすべらせていき、へそに指を宛がいながら腹部を揉む。 「あひゃひゃ、な、なんですか、今度はぁっ!?」 「みて、この腹筋。筋肉質な人みたいにごつごつしてないけど、適度な堅さと柔らかさを兼ね備えてるんだよ!」  瑞々しい肌にうっすらとできた線を指でなぞる。  綺麗に中央で区切られたそこは男のようにごつごつとしているわけでなく、女性らしさを持ちながらも戦士としての一面も持ち合わせた程よく鍛えられた柔らかい筋肉がついている。  劉備は試しに指で関羽の腹部についている肉を摘もうとするが余分なところがないためあまり上手く掴めない。 「うう……ずるいなぁ、愛紗ちゃんは」 「そんなに摘もうとしないでくだ……んぅっ、ちょっと胸はもういいではありませんか」 「あ、ごめんごめん。お腹を摘んでたからつい逆の手も」  いつの間にか関羽の乳房の先端にある突起をくにくにと摘んでいることに気付いて劉備は乳房を弄っていた手を離す。  ちょっとこりこりしてた気もしたが、劉備はとっとと次の箇所に着目する。 「ふぁっ!?」  僅かに手のひらがこすれた際に関羽の口から嬌声にも似た声が漏れるが劉備の耳には届かない。 「んー、お尻はそこそこぷりぷりしてるよね。でも、ただ大きいんじゃなくて良い形に整うように締まってる」 「そんなところを念入りに触らなくても……んっ、んぅぅ」  腰回りをぐるりと一蹴するように片腕を絡ませて拘束した状態のまま劉備は空いた手で関羽の臀部をゆっくりと撫でたりつついたり揉んだりと色々試しながら検証していく。 「いいなぁいいなぁ……」 「ん……はぁ、はぁ……だ、黙ってないで二人も……桃香さまを止め」  そこまで言ったところで関羽の言葉が途切れる。不審に思った劉備も少し冷静になってそちらを見ると、何故か真剣な表情で親の敵でも見るような目で関羽だけでなく劉備までも睨んでいる。  劉備は張飛と諸葛亮の恨めしげな視線の意図がわからず困惑しながら声を掛ける。 「えっと、なんで二人はわたしまで睨んでるのかな?」 「いえ、そうやって絡み合ってるお二人を見ていると、桃香さまも桃香さまだなと思いまして」 「え?」 「愛紗は確かにばいんばいんなのに締まるところ締まった格好いい体型なのだ。でも、お姉ちゃんだって丸っこいけどふくよかで、やっぱりばいんばいんで女の子の中でも特別女の子っぽい体系なのだ」 「え? そ、そうかな……えへへ」  張飛の言葉が嬉しくて、つい表情を緩めかける劉備だったが二人の冷たい眼差しに硬直する。  二人は未だ厳しい視線を劉備たちに向けながら重々しい声色で言葉を紡いでいく。 「確かに愛紗さんはまた一段と素敵な体型となりましたね」 「でもね……お姉ちゃん、お姉ちゃんも」 「体型が良くなってる点では同罪!」諸葛亮と張飛の声がぴたりと重なりあう。 「えっと、いやそのね……別にそういうつもりじゃなかったんだよ、本当にね余計なお肉がついたから嘆いてたんだよ?」  何やら流れが予期せぬ方向へと向かいつつあると察した劉備は頬を掻きながら弁明しようとするが、二人にはまったく通じない。 「桃香さま……自覚のあるなしはともかくとして、わたしたちのような者にご自分の豊満な肉体を見せつけながら他者を羨むようなことをおっしゃる……そういうのを何というかわかりますか?」  湯船から出ながら諸葛亮がぼそぼそと喋る。未だ濡れたままの前髪で隠れた目元が暗く、非常におどろおどろしい。 「さ、さあ? 何かな」 「それはですねぇ……皮肉っていうんですよ」 「ひ、ひぃぃ! ちょ、ちょっと待ってごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」 「にゃーっ! おしおきなのだー! お姉ちゃんと愛紗ばかりおっぱいおっきくなるなんてふこーへーなのだー!」 「ちょっと待て、私は関係ないだろう!」 「いいえ、ゆるせません。ですから、そのおっぱいに隠された秘密を探らせてくださーい!」 「ひ-、ごめんなさーい……って、これは自然の摂理で別にわたしたちが悪い訳じゃ……って、いやぁぁぁぁ!」  この日、二つの妙な悲鳴があがっていたが、一体何があったのかは当事者たちしか知らない。  これは後に事情を知るものたちの間で『皮肉の嘆』もしくは『桃肉の嘆』と呼称されることになるが本筋とはまったく関係ない。  その皮肉の嘆というちょっとした出来事から暫くの時が経過したある日のこと、劉備の元へ急に劉表の使いがやってきた。  何かと思いながら迎えると、その使いの女性は物腰柔らかな態度を崩さずに劉表が呼び出しているという報告をした。 「ということになります。ご同行、願えますでしょうか?」  傍に居た関羽が一段と厳しい表情を浮かべて劉備に目配せする。劉備は使者に気付かれぬよう小さく頷いて見せる。 「……あら、どうかなさいましたか?」  穏和な様子の女性は耳に掛かる紫がかった長髪を掻き上げながら伺い立てるように劉備を見る。  劉備は咳払いをすると、関羽か視線を戻して頷いて見せる。 「あ、いえ。もちろん呼び出しには応じますよ。愛紗ちゃん、随行をお願いね」 「御意」  関羽はただ静かにそう言って首を縦に振った。  翌日、使いとしてやってきた女性に誘われて劉備たちは襄陽へと赴くこととなった。  政事や何かしらの話を行う際には劉備の補佐をしてくれる諸葛亮に護衛の関羽だけでなく、張飛までもが同行していた。  荊州に流れ着いたとき、劉備の最も傍に居た者たちが揃って新野を後にしたということになる。その事実が劉備の中にある緊張感を無性に高めていた。 (もしかして、すごく大きな事がまってるんじゃ……)  使者が訪れてきたときの関羽の気構えと良い、気をしっかりともって当たらないといけないことなのだろうと劉備は思い、内心戦々恐々ながらも勇気と度胸を奮い立たせる。 「あの……どうかなさいました? もしや、お加減でも」 「あ、いえ。なんでもありません……えっと、その」 「黄忠です。字は漢升……よろしくお願い致します。劉備さん」 「いえ、こちらこそ。短い間ですが仲良くできるといいですね」  劉備が笑いながらそう言うと、黄忠は大人びた顔を綻ばせてにこりと微笑み返してくれた。  その後、襄陽へと到着した劉備たちを待ち受けていたのは病床について長らく経った劉表だった。  劉表は今でこそ病に冒されて弱りつつあるが、これまでは他の地の諍いにはなるべく干渉せずに荊州を守り治めてきた人物である。  他勢力に攻め込まず殻に籠もるのが昨今の世において良い選択なのかどうかはともかく、劉表は清潔な政治家であり、『漢の忠臣』と行っても過言ではないほどに真面目に政治に取り組んでいた。  劉備は、そのような人物が何故自分を呼んだのかがよくわからない。  もしかしたら、劉備の元に人とその心が集まり始めていることを危惧して暗殺でもしかけるつもりなのかとも考えたが、それならば関羽、張飛の動向を行わせるはずがない。 「えっと、劉玄徳参りました。その……この度はお呼び頂きありがとうございます。それで、一体どういった御用なんですか?」  たどたどしく礼をした劉備が、早速呼ばれた理由について切り出すと、劉表は咳をしながら劉備の前に座り、ふうと一息吐いて事情を話し始めた。  劉表が語った内容は至って単純で率直だった。 『荊州刺史劉表の後継者となってほしい』  非常に自然な喋りに反して重い内容に劉備の背筋が一層強くピンと張る。関羽は依然として沈黙を貫いたままだがほんの僅かに眉がぴくりと吊り上がっている。張飛の方は驚きを隠すつもりが無いのか、目を丸くしている。  その一方で、諸葛亮と黄忠は微塵も表情に変化が現れていない。それが何を意味するのか劉備は薄々気づきながらも劉表の願いに対して返答をする。 「大変光栄なことですけど、流石にお受けできません」 「理由はお聞かせ願えますか、劉備さん」  嘆息する劉表に変わって黄忠が問いかけてくる。  劉備は、黄忠でなく劉表を真っ直ぐ見つめながら自分の偽らざる本心を語る。 「劉表さんにはお子さんがいるじゃないですか。それに、黄忠さんもそうですけど、色んな人が周りにいて皆さん力があります。なのに、余所から来たわたしに突然任せられるというのでは国中に困惑が広がると思います」  そこで一拍あけると、劉備は胸の中に渦まく感情を声に滲ませてしまわぬよう細心の注意を払いながら言葉を続ける。 「それに、わたしたちを受け入れてくれた劉表さんのご恩に報いるため、お護りしたいと思っています。ですが、ここで劉表さんの後継をお譲り頂いてはこの土地に住んでいるみんなが混乱に飲み込まれてしまうんじゃないでしょうか」 「混乱……ですか?」 「ええ。もしかしたら、不満を覚えた誰かが農業をやめてしまうかもしれない。そうなれば、国の経済に影響が出ます。そうして国全体が貧しくなれば略奪を働く人が出てきます……徒党を組んで賊とならざるをえなくなるかもしれません。また、納得がいかない臣下の方が反旗を翻すかもしれません。ますます、国は荒廃してしまいます」 「……劉備さん」 「結果として国を衰弱させ、多くの人の涙を見ることになるのなら、それは恩を仇で返すことになるとわたしは思います。だから、わたしはお受けするわけにはいかないと申したんです」  そこまで喋りきると、劉備は内からわき出てくる思いを全て吐き出したことに満足し、今度は相手側の反応を冷静に待つよう心がける。 (怒るかな……悲しむかな……でも、わたしには大勢の民のことを考えるととても)  だが、予想外なことに劉表は愉快そうに大笑いする。あまりにも笑いすぎて劉表は咳き込む。そして、にこりと嬉しそうに微笑んだ。 「どうやら、劉表さまはますます劉備さんをお気に召したようですわ」 「え? あの……今の話は聞かれてましたか?」  黄忠の言葉に唖然とする劉備はあんぐりと口を開いたまま劉表を見る。劉表は本当に喜びに満ちた顔で語り始める。  曰く、劉備に人心が集まる理由がよくわかった。  曰く、民をそれだけ思えるのならやはり任せるべきである。  劉備は断りの言葉を受け入れない劉表たちに戸惑いを覚え、諸葛亮の方を見る。彼女は劉備の視線に気がつくと微笑みかける。 「いいんじゃないでしょうか。お受けになってはどうですか、桃香さま」 「え、朱里ちゃん?」 「実はですね……あ、ほら、聞こえてきませんか」  耳に手を当てながら諸葛亮が外の方を指さす。劉備もそちらへ耳を傾けると、何やら声のようなものが外から壁を通して微かに聞こえる。  何か祭りでもあるのだろうかと劉備が思っていると、意外なことに黄忠が戸を開けて劉備を促す。 「一度、外をご覧になってみてください」 「外? ……な、なにこれっ!?」 「どうしました、桃香さま。なっ!?」 「うわー、すごいのだ!」  劉備三姉妹が目にしたのは、街の全てを埋め尽くさんばかりに集まった人の群れ、その全てが劉備 の姿を見て喚声を上げている。  呆然とする劉備に黄忠が柔らかく笑いかける。 「既に民は皆、劉備さんがご就任なされるのを待ち望んでいるんですよ」 「そんな……どうして」  そこで劉備ははっと気がつく。ここにきて劉表との会談を始めてから抱いていた疑惑。それが核心へと変わったのだ。  劉備は座ったまま自分の方を見ている諸葛亮のあどけない顔をじっと見つめ、ごくりと唾を飲み込む。 「もしかしたら考え過ぎなのかもしれないけど、これって朱里ちゃんがしたことかな?」  諸葛亮は両手を強く握ったまま瞼をゆっくりと下ろすと静かにこくりと頷いた。 「……はい」 「なんで? こんな……」 「これだけではありませんよ。孔明ちゃんがしたことは」 「他にあるというのか? 朱里、これはどういうことなのか、説明して貰おうか」  関羽が怒気の混じった声で諸葛亮を問いただす。清廉潔癖な彼女からすれば諸葛亮の主君にすら知らせず秘密裏に行動していたことが許し難いのだろう。  しんと静まりかえり緊張感に満ちた室内にありながら涼しい顔の諸葛亮は普段の彼女と違いどこか大人びた風格を漂わせている。  関羽の気迫に怯んで瞳を開いたりもせず、冷静に堂々と胸を張ったまま答える。 「全ては、あの桃香さまの嘆きを聞いた日の夜に考えました」 「嘆きって……ああ、お風呂の!」 「お風呂?」 「黄忠殿はお気になさらなくて結構。というか、朱里、お前はあのやり取りからこんな大それた事を考えたのか!」  ちょっとしたじゃれ合いの中のほんの一言二言から多くの人間を動かしたとしたら劉備は諸葛亮という人物を見誤っていたことになる。  劉備が思っていた以上の大器、常人では達し得ぬ才知、発想を諸葛亮は持っている。そのとき、かつて知り合った青年が言っていた単語をふと思い出した。 「伏龍」 「何かおっしゃいましたか?」 「ううん。なんでもないよ。それより、朱里ちゃん。本当にあのときのわたしの言葉だけでこんなことをしたの?」 「決定的だったのはそうですね。ですが、元々桃香さまの説得を依頼されていましたので」 「依頼だと?」 「はい。劉表さん、そして黄忠さんから桃香さまの首を縦に振らせてくれと。そこで桃香さまが頷くしかない状況を考えていたんです」 「そこに先日の桃香さまの発言か」 「はい。いい加減、戦乱の世にありながら落ち着いた生活をしていることに何か思うところがあったようでしたので、頃合いと思い予てより準備を進めていた策を決行しました」  劉備は未だ動揺と困惑と入り交じった感情の行き場を探しながらも諸葛亮から目を離し、もう一度大衆の方を見る。 「劉備さま!」 「新君主さまー!」 「劉玄徳万歳!」  あちこちから起こる歓迎の声、確かにそれは劉備の心を大きく動かすのには十分である。だが、諸葛亮は気になることを言っていた。 「ねえ、朱里ちゃん。いま表でわたしの名前を呼んでいる人たちだけじゃなく、他には何を……ううん、誰に何をしたの?」 「そうですね。そこについても説明をさせていただいた方がいいですね」  そう言うと、諸葛亮は深呼吸をする。劉備は民衆に向かって手を大きく振っている張飛の頭をそっと撫でながら諸葛亮の言葉を待つ。 「まず、劉表さんの元にいる諸将の皆さんには劉表さんを通して説明していただきました。一部の方々は劉表さんの考えを見越して動き始めていたようですがこちらから先手を打つことで封じました」  劉表が自分を指さしてにこにこと微笑んでいる。その様子から諸葛亮の説明に間違いはないらしいことがわかる。 「次に、そこにおられる黄忠さんが偶々こちらを訪れていたそうで劉表さんが御自分の意思を語り、また黄忠さんもそれに同調しました。そして、わたしの方へと連絡をくださり、桃香さまを荊州刺史の座につかせるための打合せを行いました」 「元々、私は長沙太守を務める韓玄の元におりますが、劉備さんのお噂はかねがね聞いておりました。太守韓玄は未だ渋っておりますが、民の多くは劉備さまの来訪を望んでおります」 「劉表さんから教えてもらったんですけど、黄忠さんは本当にギリギリまで悩んでいたそうです。とても義理堅い方だそうで……仮にも主君である韓玄さんと桃香さまを苦渋の秤に掛けたそうです」 「そうだったんですか……」  ずっとにこやかで母性的な笑みを向けてくれていた女性の内面が複雑なものであったことを知り、劉備の中にも複雑な想いが生じる。  言葉をなくした劉備に対して黄忠が独特の暖かい笑顔を浮かべる。 「あなた方を連れてこちらへ来るまでは正直なところまだ迷っておりました。ですが、先ほどのお答えを聞き決心がつきました。この黄漢升、劉備さまのお力になりたいと思いますわ」 「黄忠さん……」  礼を取る黄忠になんと答えればよいものかと劉備は口を開けたり閉めたりして言葉に迷う。  重いわけではないが、とても深い深い沈黙が流れる。それをうち破ったのは黄忠でもなければ劉備でもない。 「騙されてはなりません。桃香さま」 「愛紗ちゃん?」  関羽が青龍偃月刀のように鋭く美しい瞳で黄忠と対峙する。その表情は劉備ですら余り見たことが無いほど真剣を超えた別の領域のものだった。 「騙すとは、また人聞きの悪い言葉ですわね」 「黄忠殿には申し訳ないが、私には信用しがたい。劉表殿については民のことも含め信用に足ると考えてもよいだろう。だが、お主には先の言葉が本心からのものである証明がない」 「証明が必要なのね」  小さく息を吐き出すと、黄忠は眉一つ動かさずに自分を凝視している関羽の顔を見る。 「それならば、こうしましょう。私は一度長沙に戻り太守韓玄に話をつけます。そして、いくらか裂ける兵力を連れて戻ってくる。それで、いかがかしら」 「ふん。その引き連れる軍が我らを襲撃しようというものだとしたら我々はとんだお笑い者だな」 「はわわ、一触即発です」 「うーん、愛紗の言うこともわかるけど、この黄忠のいうことも信じたいのだ……」  先程までの冷静さを失いおろおろする諸葛亮と黄忠の母性に惹かれたのかいつものように単調な考えに及ばず頭を抱える張飛。  どんよりとした曇天のような空気が室内にたちこめている。この重々しい雰囲気の中、劉備は関羽の肩に手を置いて微笑みかける。 「取りあえず、黄忠さんにはそうしてもらおうよ。もし、約束が反故にされるならそのときはそのときで、ね?」 「まあ、桃香さまがそう仰るのなら私には口を挟む権利はありませんので」 「もう、どうしてそういう言い方になるかなぁ」 「なるほど、やはり関雲長は義に厚き忠臣なのね。羨ましいわ、それだけ全てを捧げられる主君と共にいれるなんて」 「いやいや、それほど立派な存在ではないさ……こんな私など」 「え? 愛紗ちゃん、何か言った?」 「いえ、なんでもありません。では、黄忠。貴殿が約束を違えぬ事、期待させてもらうぞ」 「ええ、ご期待に添えてみせますわ」  そう言うと黄忠は劉表と劉備に一礼して強く美しい足取りで去っていった。その後ろ姿を見送る関羽の瞳には先程まで気付かなかったが追慕の色が見え隠れしている。  一体、彼女たちの間に何があるのか、劉備は気になったものの関羽に対してそのことを口にすることはできそうになかった。 「さて、それはそうと朱里。今回は諸将や民衆への工作を自己判断で行ったわけだが」 「……そうですね。愛紗さんの憤りもわかりますし、反論をする気もありません」 「愛紗、あんまり朱里のことを責めるのも可哀想なのだ」 「だが、だからといって甘くするわけにもいくまい。流石にことが大きすぎる。もし、どこかで躓いていたら我らも含めて窮地に追い込まれていたかもしれぬのだぞ」 「う……それは、そうだけど」 「愛紗ちゃん。朱里ちゃんはわたしたちのことを……ううん、わたしのことを思って動いてくれた、きっと朱里ちゃん自身も辛かったと思うよ。心を鬼にしていろいろやってたんじゃないかな」  こんな世の中なのだ、正攻法のみが全てではない。時にはこういった変化球気味のやり方もありなのかもしれない。今の……曹操に見せられて現実の一部を知った劉備にはそう思える。 「それにさ、結局被害は出なかったんだよ。もし、勢力を拡大させようって考えて曹操さんが今、涼州の馬騰さんたちにしているように武力行使に出ていたら沢山の人が亡くなっていたはずだけど、こうして話し合いで済んだから命を落とす人もいなかったんだもん。その点では朱里ちゃんの手腕に感謝しなきゃ」 「桃香さま……ありがとうございます」 「でも、できれば相談して欲しかったよ。話せると思ってもらえなかったからなんだろうけど、やっぱりちょっと悲しいもん」 「ごめんなさい、桃香さま。とても気が逸ってしまっていたんです。それに桃香さまの嘆きがどうしても忘れられなくて。こうして勝手に動いてしまったことについては如何なる罰でも受ける心づもりでいました。なんなりと申しつけください」  そう告げて頭を垂れる諸葛亮の顔には疲れが見えていることに劉備は気がついた。 「ううん。罰だなんて……それよりも朱里ちゃん、いつもありがとうね」 「え?」  劉備は顔を俯かせながら諸葛亮の頭を胸に抱き、淡黄色した絹のような髪に顔を埋める。今思えば反董卓連合が解散してからというもの諸葛亮と鳳統が政に軍事にと忙しなく動いてくれていた。  その二本の支柱のうち片方が欠けた今、諸葛亮の負担は更に増していることだろう。  劉備はそれがわかりながらも、自分ではその負担のほんの僅か程度しか軽減させてあげられないことを酷く気にしていた。  そのうえ、徳の劉備として知れ渡る彼女には印象悪化の恐れがあるため関わることが出来ない工作などの面に関しては全てを彼女に任せるしかないという状態であり、心優しく純粋さが残る諸葛亮には精神的な面での負担も相当かかっていることだろう。  そういった様々な事に対する申し訳なさから劉備は自然と涙していた。 「きっと、今までにいっぱいっぱい自分の心を殺してきたんだよね。ごめんね……ごめんね」 「桃香さまの目指す世界を現実のものとしたいと思うから頑張れるんです。だから、桃香さまは前を見て、未来へ向けて進んでくださればそれでいいんです」 「うん……わたし、頑張るね。絶対、みんなが笑えるような世界を手に入れてみせる」  何度も頷く劉備、暫しの間熱い抱擁を続ける彼女たちを見守っていた関羽が劉備の側らに立つ。 「さて桃香さま。それではこれからどうしますか?」 「そうだね。一度、新野へ戻ろうか。ちゃんと報告しないといけないし、なによりお仕事が残ってるからね」  そう言って立ち上がった劉備は、共に立とうとする諸葛亮の頭をぽんと撫でる。諸葛亮は理由がわからず不思議そうに劉備を見上げている。 「桃香さま?」 「後のことはわたしたちだけでも出来るから、朱里ちゃんと鈴々ちゃんはここで劉表さんの傍にいてあげて」  劉表がまだ健在である以上、何か仕掛けられる可能性は無いとは言えない状況であるために対策として残す……という意味合いは大きい。  だが、残ることによる苦労もあって大変だろうとは思う反面、少しは普段の仕事から解放してあげてもいいだろうという劉備なりの思いやりの方が理由として主だったりする。 「御意」 「まかせるのだ」 「お前は何を任されたかわかっていない気がするが、まあいい。頼んだぞ、鈴々」 「応!」  元気よく頷く張飛の頭を関羽は慈しむような顔でわしゃわしゃと撫でる。そして、劉備の方を向くと緩みかけていた顔を引き締めた。 「さあ、行きましょう。桃香さま」 「うん、そうだね。それじゃあ劉表さん、失礼します」  劉表が手を振って答えてくれるのを見て礼をすると劉備と関羽は新野へ向けて出発するのだった。  劉備が新野へ行って仕事を片付け戻るのと、劉表の命数が尽きるのが先か。劉備としては出来れば前者で合って欲しいと思うところである。  そして、その劉備の思いは半分叶うこととなった。  新野での仕事を片付け、共に期待というもの、古参の将兵を連れて襄陽へと劉備が戻ってきたとき、丁度劉表が危篤状態となっていた。 「劉表さん……滑り込みだったけど間に合いましたね。また顔を合わせられてよかった」  胸に手を当て劉備はなんとか笑顔をつくる。だが、その口端はぷるぷると痙攣して無理しているのは周囲にばれていてもおかしくはない。  それでも誰に何も言わずじっと二人を見つめている。劉表の最後だから、そして二人の主君の間に入れる者がいなかったから。  そうして朧気な劉表と見つめあっていると、劉備の手が弱々しい力で握られる。 「……あ」  最後の瞬間がもうすぐそこなのだと劉備は実感する。  自分の手に熱がこもったように思えた途端、劉表の手のひらに込められていた温もりがまるで薄れていく。それはまるで劉表が劉備へと体温を注ぎ込んでしまったかのようだった。  この力が抜け、温かさが消えゆく変化こそが、命の灯火の消えゆく瞬間なのだ、『人の死』というものなのだと劉備は確信する。  今まで戦場で見てきた『死』とは違った形の生々しさがある。それよりもなによりも人の命が失われることが如何なる感情をもたらすのかを一層強く感受することができる。 「劉表さん、今までお疲れ様でした。貴方に負けないよう精一杯頑張るつもりです」  ゆっくりと、まるで子供に昔話を聞かせるように劉備は丁寧に語りかける。気のせいか劉表が笑みをつくって頷いたように見えた。  劉備はぎこちなく笑い返して劉表の手を両手で握りしめる。 「だから……だから、ゆっくり……おやすみなさい」  長い人生においてはそれほど多くの時間ともにいたわけではない。それでも、劉備の頭には色々なことが浮かび、自然と彼女の言葉に嗚咽を混ぜる。  そんな彼女の手から完全に力が抜けきった劉表の手が抜け落ちる。 「……ありがとう」  聞こえるか聞こえないかの境界の声でそう呟いて劉表の目元が光る雫が流れ落ちた。腕は者が倒れるようにぱたりと寝台の上へと倒れ込み、完全に事切れたことを物語っている。  劉備はじっと見つめていた。安らかな表情を浮かべている。諸葛亮から後で聞いて知ったことだが、劉表は後継者問題にいたく悩まされていたのだという。  子供の母親が別であることも含め後継を決めるとなれば内輪もめとなるのは必至、遠からず悲惨な末路を辿ることもあり得たといえる。 (そのことを言わなかったのはなんでなんだろ……)  劉備を身内事を話すほどまでには信頼していなかったのか、はたまたそのことを言えば劉備が覚悟よりも同情心を優先して頷くと思ったのだろうか。  その答えを知ることはもうできない。 「でも、わたしが引き受けたことできっと悩みはなくなったんですよね」  劉備は、そう信じたいと穏やかな顔で永久の眠りについた劉表を見て思った。  大きく深呼吸をして、劉備は室内に集まった者たちを見渡す。 「劉備殿、劉表さまの遺言でございます」 「ええ、生前に話は承っていますよ」 「では、この荊州のこと、お引き受け頂けると!」  劉備は数秒沈黙する。それは劉表に対する黙祷、劉備はこれより引き継ぐことを決心している。しかし、だからこそ最後にもう一度だけ劉表に断りをいれたかった。 (全力を尽くします)  その誓いを心の内で済ますと、劉備は大きく頷いて見せる。 「劉表さんが守ってきたこの荊州。この劉玄徳が引き継ぎ、及ばずながら尽力する所存です」  そう宣言すると臣下たちが感嘆の声を漏らし、平伏する。劉備は天を仰ぎ深呼吸をすると、諸葛亮、関羽、張飛を近くに招き寄せる。 「これより、我らが主君、劉玄徳が荊州刺史となる」 「異論はありませんね?」 「あるなら鈴々が相手になるのだ」  そう啖呵を切った三人に対して皆一斉にあらかじめ連取したかのように綺麗に首を横に振った。  こうして、劉備は劉表の後を継ぐことになった。期せずして劉備軍は大陸の群雄割拠の中に再浮上した。徐州時代に戻るどころかそれ以上となった。  †  劉表の葬儀が行われてから数日経ったある日のこと、襄陽へ向けて大軍が進軍してきているという情報が劉備たちのもとへと届いた。  呉の孫策か、蜀の劉璋かはたまた異民族や南郡に残っている誰かなのか、などと考えたが、劉備たちは直ぐに一人の人物へと行き着いた。 「やっぱり、あの人だよね」 「でしょうね。はてさて、攻めてきたのかそれとも本当に帰順しにきたのか」 「とにかく行ってみるしかないね!」  劉備は関羽と頷き会うと直ぐに城壁へと登っていく。そこには既に張飛と諸葛亮が城外を眺めていた。 「二人とも、どう? やっぱりあの人なの?」 「旗印からすると、おそらく」 「それにしても結構な大軍なのだ……」 「これは予想以上だな」  目の前には何万いるかわからないが相当な数の将兵がぞろぞろと集っている。  劉備はすぐにでも迎えに出ようと駆け出そうとするが、襟首を掴まれて絞め殺される鶏のような声を上げて尻餅をついた。 「いたた……なにするの、愛紗ちゃん」 「もう少し様子見をしてからの方が良いでしょう。どうも見たところ本人も姿を見せておりませんし、使者が来る様子もありません。ひょっとすると罠ということもあり得ます」 「そうですね。下手に城門を開いてなだれ込まれた立て直しようがありません」 「うーん、鈴々はそんなことないと思うのだ……あれ? あそこ、城壁の側に誰かいるのだ」  額に対して垂直に手を添えながらあちこち遠くを眺めていた張飛がややあと声を上げた。  劉備たちもつられるようにしてそちらを見るがあまりよくわからない。 「確かに何か小さい影が動いてるけど……」 「はっきりとは見えませんね」 「何言ってるのだ。子供なのだ、女の子がいるのだ!」 「よくわるね鈴々ちゃん……」  ぷくっと頬を膨らませて抗議する張飛の身体能力に諸葛亮が驚きを通り越して呆れている。 「しかし、確かに鈴々の言う通り幼い少女ですね。一体あのような場所で何をしているのか……」  関羽がそう呟いたとき、幼女と思しき影が動く。どうやら、劉備たちの方を見上げているようだ。 「ねーねー! お姉ちゃんたちー」 「どうやら我々に呼びかけているようですね」 「おーう、どうしたのだー!」 「あのね、あのね! 璃々ね、りゅーびさまって人を呼んできてほしーの」  小さな身体をぱたぱたと撥ねさせながら一生懸命声を掛けてくるその姿は見ていて微笑ましい。だが、陽のある相手の名前を聞いて関羽たちが首を捻る。  そんな彼女らを置いておいて劉備は口もとに両手を添えて腹から叫ぶ。 「わたしが劉備でーす! 何か御用ですかー!」 「うん! えっとね、あのね、おかーさんにね、約束をはたしにきましたよーってつたえてほしいっておねがいされて、璃々ここに来たの」 「母親ですか……よもや、彼女が?」  訝しむような顔でそう呟く関羽に張飛が賛同する。 「きっと、そうなのだ。あの髪の色、よく似てるもん」 「とにかく聞いてみればわかるよ。おーい、ちょっといいかなー」 「なーにー?」 「璃々ちゃんの、お母さんのお名前はなんていうのかなー?」 「お母さんはね-、黄忠っていうのー」  未だに微動だにしない大軍の方を指して璃々が答える。それを見て、安堵の息が四つ重なる。 「当たりだな」 「やっぱり、黄忠の子供だったのだ」 「ということは、約束通り帰順しに来たということでいいんですよね?」 「そうだね。いつまでも待たせちゃ悪いし、何より璃々ちゃんをあんなとこにいさせるはもっと不味いからさっさと行こっ!」 「あ、桃香さま、そんな先頭をきって行かなくても我々の後に続けばよいではないですか。完全に安全というわけではないのですよ」  背後で関羽が何やら叫んでいるが劉備はそんなもの無視して城門へと向かい、直ぐに開けさせる。  すると、城壁の側で立っていた少女が劉備の方へと駆け寄ってくる。 「あ、りゅーびさまー」 「いらっしゃい、璃々ちゃん」  そう言って笑みを浮かべながら璃々の頭を撫でていると、劉備の視界に一際大きな胸の女性の姿がすーっと滑るようにして入りこむ。 「お待たせしました、劉備さま。約束通り、帰順しに参りましたわ」 「黄忠さん、お久しぶりです。お子さんがいたなんて知りませんでしたよ」 「というか、お主、どこから現れた……」 「子供を見守るのが親の務め、ですから」 「近くにいたのなら、黄忠が声をかけてくれればよかったのだ」 「ふふ、はじめてのおつかいはこっそりと見守りたいものですから」 「なんだか、楽しそうですね。まあ、それよりもこんなところではなんですし中へどうぞ。えっと、あっちで待ってる他の方々は別に案内を出しておきますね」  そうして、劉備たちは黄忠と璃々、側近と思しき人物を連れて城内へと案内する。  移動しながらも劉備は逸る気持ちを抑えきれずに黄忠に話しかける。 「それにしても、凄い数でしたね。もしかして長沙から全ての将兵を連れてきちゃったんですか?」 「まさか。そのようなことはありませんわ。ただ、説得に戻ったところ、長沙だけでなく他三郡も同意しまして、結局荊州南部四郡が劉備さまの元につくこととなったのです」 「そ、それは凄いことになったな……」  本気で驚いているのだろう、関羽の声が若干上ずっている。劉備はというと、驚きのあまり声が出ない。諸葛亮も同様。張飛だけが璃々と何か話していて聞いていない。 「劉備さまの名声は轟いておりますから」 「はは、なんだか恥ずかしいな。それで、そちらの方は……?」  黄忠に尋ねながら彼女の隣を歩く人物の顔を劉備はのぞき込もうとする。 「ッ!?」  だが、直ぐに顔を逸らされてしまう。気のせいか、若干頬が紅く染まっている。  それより何よりもその人物の端整な顔立ちは先ほど一瞬だけみた際には男性の印象を受けたが、長いまつげ、きめ細やかな肌、無造作に見えてよく手入れされた髪は女性らしさを備えている。  なによりも、胸に携えた立派な双丘が紛う事なき女性であることを物語っている。 (それにしても……不思議な髪だなぁ)  女性の髪は黒に一部白が混じっている非常に特徴的なものである。だが、それがまたよく似合っているのは彼女の中性的な印象によるものなのだろうか。 「あの……貴方は?」 「あっ……う……そのっ」 「えっと……?」 「おい、貴様。桃香さまが訪ねているのに無視をするつもりか?」 「なんだと、お前に何故そのように驕慢な態度を取られねばならんのだ!」  劉備が話しかけてもごにょごにょと口ごもっていた女性がきっと目を鋭利にして関羽を睨み付ける。関羽は女性の気迫を真正面から受けてにやりと高圧的に笑う。 「ほう、いきなり楯突くつもりか?」 「ちょ、ちょっと愛紗ちゃん!」 「……冗談ですよ。これで、少しは緊張もほぐれただろう?」  悪戯な笑みを浮かべると関羽はさっと黒髪を靡かせながら前を向き直る。女性の方は拍子抜けした様子でぽかんと口を開けたまま立ち止まってる。  劉備と黄忠は互いに顔を見合わせるとくすくすと笑いながら女性の肩を叩く。 「さ、いつまでもぼうっとしてないで行きましょう」 「あ、はい。くそ……とんだ恥をかいてしまった。……うう」  がっくりと項垂れた女性を連れた劉備たちは玉座の間へと到着すると、すぐに互いの立ち位置へとついて自己紹介を始める。 「えっと、もうわかっているとは思うけど。劉備、字は玄徳。劉表さんの後をつがせてもらいました」 「関雲長。劉玄徳が義の刃、そのうちお目に掛けることもあるだろう。よろしく頼む」 「鈴々は張飛、字は翼徳なのだ。璃々も黄忠もおっぱいもよろしく頼むのだ」 「お、おっぱ……」  女性がガクリとずっこけそうになる。自己紹介をしていないからとはいえ、流石にそれはないと思うが、やはりそこが目に付くのだろう。 「なんで……紫苑の方が大きいのにどうしてワタシが……」 「あ、あの……わたしも自己紹介しても」 「ええ、構いませんわ。ほら、いつまでもぶつぶつ言わないの」  微笑を浮かべながら黄忠が声を掛けると女性が我に返って身を縮こまらせる。 「取りあえず。おほん、諸葛亮、字は孔明と申します」 「では、改めて。黄忠、字は漢升。以後お見知りおきを。真名は紫苑と申しますので、呼ぶときはそちらでお願いしますわね」 「ああ、こちらこそよろしく頼むぞ」 「あのね、璃々はね璃々って言うの!」 「うん、璃々ちゃんもよろしくね」  満面の笑みを浮かべながらぴょんぴょんと撥ねて自己主張する璃々に劉備は微笑みながら頷く。  そして、最後の一人の方を見ながら劉備は黄忠へと訊ねる。 「それで、こちらの方は?」 「蜀にいる知人の元にいた者なのですが、偶々私に会いに来ていまして」 「まさか、それで強引に連れてきたのか?」  先程からもじもじと気恥ずかしそうにしている人物の様子からするとそれもあり得なくないように思える。  そんな劉備たちの内心を察したのか、黄忠がくすくすと笑いながら訂正をする。 「いえ、違うんです。実は、劉備さまのお姿をその……絵で見てから一度お会いしてみたいと」 「絵?」 「劉備さまが荊州を治めることになるということで、一応人相くらいはと思い用意したものですわ」 「何故そのようなことを?」 「劉備さまは内面もそうですけれど、見た目もまた魅力的ですから。きっと、説得する上での手札になりますでしょう?」  可愛い、綺麗などのような褒め言葉は女の子である以上劉備とて嬉しい。しかし、郡を動かすほどの外見という言われ方は流石に恥ずかしく、劉備は一瞬で顔を真っ赤に染め上げる。 「ふふ、そしてようやく念願叶ったわけです。ほら、自己紹介をしないと」 「あ、その……ワタシはぎ、魏延。字は文長といいます。りゅ、劉備さま、お会いできて後裔でありますからして……」 「あの、そんなに緊張しなくてもいいんですよ?」 「は、はい!」  びしっと背筋を張って固まる魏延。一体、劉備に対してどのような印象を持ってるのか気になるところである。  二人の間に関羽が入って魏延から劉備を守るような体勢をとっている理由もまたしかり。  しかし、何はともあれこうして劉備は大きな変化と貴重な出会いを果たすこととなった。この先、彼女を待つのはどのような運命なのか、それはまだ不明であるが少なくとも心強い味方を得ることができたことできっと多少の苦難は乗り越えることができるだろう。