恋姫†無双小劇場  「短冊に込められた想い」  それは少し蒸し蒸ししたものからカラっとしたものへと属性変更し始めた暑さにじっとりと汗をかき始めた頃のこと。  気がつけばもう、あの多くの犠牲と悲しみを乗り越えてたどり着いた孫呉の勝利から長い年月が経っていた。  北郷一刀は次から次へと生物の循環のように出てくる汗をうっとうしく感じながらも大都督として内務に軍事にと多忙な日々を送っていた。  そんなある日のこと、朝議にて定例ともいえる一刀たちによる呉王である蓮華への報告が行われていたときのことである。 「えっと……治安の問題は解決、治水工事の方も順調って報告が上がってるな。城郭の整備も大分進んでるようだし、今月は多方面で成果が出てるみたいだぞ」 「この揚州だけでなく、荊州の内政も滞りないという話ですから、これで一区切りがつくと見ていいと思います。また、軍事の方も問題はありません。また、思春さんや祭様が蜀軍とともに出ていた五胡の偵察では特に動きは見られず、すぐに変化はないだろう、とのことです」  一刀の言葉を補足するように亞莎が告げる。玉座に腰を下ろしたままの蓮華は二人の言葉を聞いて静かに頷くと、表情を緩める。 「二人とも、お疲れ様。私たちに課せられた宿題も大分片付いてきたようね。これも貴方たちの頑張りがあってこそよ」 「お褒めにあずかり光栄だね。でも、蓮華も頑張ってると思うよ」 「そ、そうかしら?」 「ああ、今じゃすっかり孫呉の王としてふさわしくなってる。俺にはそう見えるよ」 「ふふ、ありがと」  そう言って微笑む蓮華の顔は誰かに似ていて一刀はなんだか懐かしさを覚えた。  と、そんな一刀たちの下へ普段ののほほんとした笑顔を困惑の表情で上塗りした軍師が駆け込んでくる。 「あの~、すみませぇん」 「あら、穏。どうしたの?」  陸遜こと穏。  念入りに育てた亞莎が一人前となってからは、自分にできることをするといってこれまで得た知識を後進へと伝える側に回っている。どうやら亞莎の教育をする中で何か見えたらしい。  そんな穏は女子握りをした両腕で弟子の数倍はあるであろう巨乳をぐにぐにと圧縮しながら困ったような顔をしている。 「実はですね、小蓮様のお勉強を見ていたんですけど、途中でちょっと目を離したら逃げられてしまいましてぇ。皆さんは見ておりませんかぁ~」 「あー、残念だけど俺たちはちょっと知らないな」  そう言って蓮華たちを見ると、同意するように頷いている。 「うー、小蓮さまってばどこにいってしまわれたのやら……」  一刀たちの反応に肩を落とした穏は「失礼しました」と言ってとぼとぼと立ち去っていった。 「穏さまも大変そうですね……」 「教え子が小蓮の真似して逃亡癖を身につけちゃってるらしいしな」 「小蓮には後で私から言っておいた方がよさそうね。まったく、あの娘はいつまでたっても……」  重々しい溜め息混じりの蓮華の愚痴に一刀は微苦笑を浮かべる。 「でも、穏さまならきっと多くの原石を磨き上げますよね」 「そうだな。何しろ、ここにその結果が実在するんだから」 「え? わ、私ですか!? そんな、私なんて、まだまだで……とてもそんな」  一刀の指摘に照れた亞莎は顔を袖で隠してふるふると首を振る。 「あら、そんなことはないわよ。亞莎は立派に国を支えてくれているわ。そうだ、あなたの娘も、穏の元で学ばせてみるというのはどうかしら?」 「お、それいいな。亞莎の子供だからな、きっと才能としては申し分ないだろう」  子供に余計な期待をかけてはいけないとわかりつつも一刀は娘が将来有望であろうと思わずにいられない。所謂親バカである。  亞莎は二人の話を聞きながら何やら考える素振りを見せる。 「うーん、そうですね。確かに、言葉や文字もわかるようになりましたからそろそろ勉学の方も……」 「孫登も少しずつだけど習わせているし、他の娘たちと一緒なら呂琮も安心できるんじゃないかしら」 「そうかもしれませんね」  母親同士の会話に耳を傾けながらも、一刀は気がつけば娘たちもすっかり成長したものだなと感傷に浸る。  そこで、一刀はふとあることを思いつく。 「あのさ、亞莎。やっぱり呂琮も大分おっきくなったもんだよな」 「え? あ、はい。そうですね、今では皆さんの子供とも遊び回ってますし……それが、どうかなさいましたか?」 「ふむ。なあ、蓮華」 「なにかしら?」 「話は変わるんだけどさ、アレ、もうそろそろいいんじゃないか。頃合いだろ?」 「……ああ、あれね。そうね、それじゃあ、みんなの予定を合わせてみるとしましょうか」 「えっと、何のことなのか私にはさっぱりなのですが……?」  蓮華と一刀の顔を交互に見ながら困惑している亞莎に「秘密」とだけ答えると、一刀はその場を後にするのだった。  † 「うわぁ……」 「すごいです」 「風が吹くと、心地よい音がしますね」  一刀の娘たちがある者は口々に感想を述べ、またある者は夜風に吹かれてさらさらと流れる笹の葉の音色に耳を傾けている。  今、一刀はそれぞれの母娘たちとともに近くの竹林を訪れていた。普段から、小蓮や善々と連れ立ってきている場所。ここはまさに今宵の行事にはぴったりだった。 「すごくわくわくするのー」 「うんうん! たんざくにおねがいごとってはじめてだからすごく楽しみ」  空は墨汁を撒いたように黒く染まり、その上に宝石をばらまいたかのように輝きが散りばめられている。そんな星の下、娘たちは初めての行事に胸を躍らせて楽しげに会話に花を咲かせている。  そんな様子に一刀をはじめとした保護者陣は頬を綻ばせる。 「あはは、みんな興味津々って感じですねぇ」  穏はにこにことした顔で、今にも鼻歌でも奏でそうなほどである。いや、彼女だけでなく、ここに来た亞莎、明命、祭、思春、小蓮……そして、蓮華。皆、ご機嫌だった。  緩やかな風にそよそよと流れる絹のような髪を手で梳きながら蓮華が一刀の顔を見る。 「それにしても、貴方もまた急に思い出したものね」 「いやぁ、そろそろみんな大きくなってきたしこういう行事のこと、理解できるだろうなって思ってさ」 「ふん、貴様にしては良い判断だな」 「懐かしいですねぇ……七夕に短冊」 「なんだかんだでお猫さまへの願いが通じたのには驚いたのです」 「やはり、明命はそんな願いだったのですね……」  各々の感想はさておいて、一刀は広範囲に繁殖している笹を眺めながら満足げにうなずくと誰にともなく語りかける。 「さて、それじゃあ、各自好きなところに短冊を吊してみようか」  一刀がそう言うと、子供たちが我先にと散らばるようにして竹林の奥へと駆け出していく。母親たちは皆、注意をしながらその後を追いかけていった。  そうして、それぞれの母子が短冊を吊しにいったのを見送った一刀は、彼女たちに続くように共に残っていた小蓮と連れだって短冊を持って適当な笹を選びに向かうことにした。  小蓮は非常にご機嫌な様子で一刀の腕に腕を絡めて寄り添うようにしている。  相も変わらず小ぶりな乳房ではあるがその感触はしっかりと一刀の肘に当たっている。 「んふふ~、これっていわゆるでぇとってやつよね」 「そこまで大層なものでもないと思うけどな、偶々二人で短冊吊しにいくってだけのことだし」 「むう、一刀ってばなんでそんな冷めた反応なのよ!」  小蓮が頬を風船のように大きく膨らませて上目で一刀を睨んでいるのだが、愛くるしさのせいで全く迫力はない。  一刀は人差し指でぱんぱんに膨れた小蓮の頬をぷにぷにといじりながらにやりと口端をつり上げる。 「小蓮は大抵積極的だからな、流石に慣れてきた」 「ええー、慣れって……そんなぁ」 「もう少し、攻めの種類を増やすことだな」  がっくりとうなだれる小蓮の頭をわしゃわしゃと撫でながらも一刀はしてやったりと笑みを浮かべる。本当の事を言えば、慣れてなどおらず、たまには意趣返しをしてやろうという魂胆に基づいた一刀の演義だったりする。 「ほら、それよりも着いたぞ」 「ここにくるのも久しぶり。善々をよく連れてきたりはしてたけど……こうして夜にってのはあまりなかったし、以外といいかも」 「そうだな、何だか風の通りも良いし、凄く涼しい。上を見上げれば星空も透き通って見える。やっぱり、七夕にくる場所がここで良かったと思うよ。以前にも言ったけど、紹介してくれてありがとう、小蓮」 「えへへ。でも、本当は一刀と二人だけで来たかったんだよ。なのに、一刀ってばみんなでって……」 「あのときは悪かったって。そのうち今度は二人で来よう」 「約束」  そう言うと、小蓮は小指を立ててずいっと一刀の方へと尽きだす。一刀は苦笑を浮かべながらもそれに自分の小指を絡ませる。 「よし、約束だ」 「でも、もし来るなら夜よねぇ……人目がある方が一刀が燃えるって言うなら別だけど」 「何の話だよ……」  いやに目を爛々と輝かせ、夜目でも利くのではと思わせるような小蓮の様子に一刀は頬を掻きながらため息を零す。  小蓮は一刀の反応など気にもせずけろっとした顔で答える。 「もちろん、ここで一刀と性交を――」 「なんでそれ前提で計画立てようとしてるんだよ!」 「だってぇ、いい加減私も一刀の子供を授かりたいんだもーん!」 「そう言われてもこればっかりはなぁ……」 「だ・か・ら、その分、たーっぷり一刀に愛してもらうのー。短冊にだって書いたんだから、一刀の子供が欲しいって」  そう言って小蓮はいつの間にか吊していた短冊を一刀に見せつける。  確かに、とてつもない情念がこもっていそうなほど強い文字で子供を祈願する文が書かれていた。 「もし、なんだったら今夜からでも……」 「あー、俺他のみんなの様子見てくるよ」 「あ、ちょっと! 一刀ー!」  両腕を振り上げてむくれている小蓮から逃げるように一刀は竹林の中を駆け始めるのだった。  †  小蓮の追跡を振り切った一刀は、弾む肩と胸をゆっくりと落ち着かせながら歩き始める。  周囲を見渡す余裕が出てきた一刀は前方に呂蒙母娘を見つけた。  呂琮は何やら小さな瞳をぎゅっと瞑ってなにやら祈っており、亞莎がそれを微笑まし下に眺めているようだ。  一刀は呂琮の邪魔をしないように物音を立てないよう注意しながら近づくと、亞莎の隣に立つ。 「もしかして、もう終わってる?」 「はい。今は願い事が叶いますようにってお祈りしてるところなんですよ」  亞莎はそう言うと微笑を浮かべたまま呂琮の姿を愛おしげに見つめる。一刀もそれにならい微笑ましく思いながら黙って呂琮の様子を見守る。  今いる娘たちの中でも年少組にあたる呂琮は他の誰よりも真剣に願っているようだ。 「おねがい、おほしさま……」  彦星と織り姫のことを思い描いているのだろうか、呂琮の表情は子供独自の柔らかさがある。 (我が娘ながら可愛いなぁ……ううむ、俺って親ばか?)   一刀は、ことあるごとに娘たちの可愛さを再認識しては同じことを考えている。そして、それがこれからも続くであろう事を彼自身自覚しているし、娘を嫌うことなど毛頭考えにない。  愛娘の姿にデレデレの一刀の耳元に亞莎の口が寄せられる。 「ありがとうございます。一刀さま」 「ん? どうしたんだ、急に」 「いえ、今日はこうして連れてきて頂いて感謝してるんです」 「なんのことはないさ、みんなで来てるんだ、別に俺が感謝される謂われはないよ」  そう言って見せると、亞莎は口下を裾で隠しながらにっこりと笑う。  昔と比べれば一刀を眩しいと言って顔を見ようとしないなんてことは殆どなくなったし、口ごもることも減った。しかし、どうやら一刀を崇拝する姿勢は未だ健在であったらしい。  よく見れば赤く染まった頬を綻ばせながら亞莎が小さく首を振る。 「いえ……一刀さまは本当にお優しい方なのだということを知っていますから」 「いや、なんのことだ?」 「呂琮がこうして出掛けられるようになるまで待ってくださっていたのですよね?」 「ははは、まさかそんな」  頬を掻きながら一刀は苦笑を浮かべる。  亞莎の指摘は実のところ図星だった。呉の娘たちの中でも最も幼い呂琮が七夕という行事に参加しているのを理解できる年齢になるまでは他の母親と相談して行事を開催する時期を待っていたのだ。  申し訳ないと思っていた一刀に対して、彼女たちは笑顔で了承してくれた。皆『行くときは亞莎の子供も一緒に』と断言し、一刀はそのことに対して非常に感謝していた。  そんな経緯を知って知らずか指摘してきた亞莎に一刀が戸惑っていると、呂琮が顔を上げて一刀たちの方を見る。 「あれ、ととさま、きてたの?」 「ああ。どうだい? 満足いくまでお願いできたかな?」 「うん! おほしさまにね、おねがーいって言ったの」 「そうか、ならお星様もきっと琮のお願い、聞いてくれるかもしれないな」 「ほんと!? わーい!」  眼鏡を外したときの亞莎の面影がある顔で呂琮が満面の笑みを浮かべながらぴょんぴょんと跳ね回る。 「それじゃあ、私たちは先にさっきの場所に戻るとしますね。さ、行きましょう、呂琮」 「うん!」  呂琮は元気よく頷くと差し出された亞莎の手を取る。 「あ、なあ、さっきの話はどうやって……?」 「ふふ……それは、秘密です」  そう言って微笑み空いた手で眼鏡の位置を直すと、亞莎は呂琮の手を引いて歩きだした。  首を傾げながらも二人の姿を見送った一刀は、暫くして少し離れた場所に夜の闇に溶け込み素そうな漆黒の髪をした二つの影を見つけ、そちらへ向かうことにした。  並んでいるのは母娘である。もっとも、親の方もそれほど上背がないためどちらかというと姉妹に見ようと思えば見えなくもない。  そんな事を思いながら近づいていた一刀は、二人が何かに夢中になっていることに気がつき足音を忍ばせる。 「にゃー! なのー」 「うんうん、にゃーですね」 「……ふにゃあ」   一刀がのぞき込んでみると、しゃがみ込む明命と周卲に挟まれるように地に伏せている黒い塊があった。  ほんのりとした灯かりに照らされたそれは、よく見れば自由気ままの代名詞ともいえる生物。そして、何よりもこの母娘の眼を釘付けにするだけの魅力を持っている存在。  そう、猫である。  猫はのほほんと寝転がるように伏せ尻尾を垂らしたまままったりしながら眼を細めている。それをじっと熱い視線を向けて見つめている明命と周卲はとても幸せそうにほわほわとした笑みを浮かべている。 「どうしたものか……」  声を掛けるべきか邪魔せずにそっと去るべきか一刀が悩み始めたところで明命がびくっと肩を撥ねさせて立ち上がる。 「か、一刀様! いつから、ここに」 「いや、つい今し方来たばかりだよ。ただ、あまりにも二人して猫に熱中してるようだったから」 「それなら、声を掛けてくださっても……というか、まったく気配に気づけませんでした。鈍っているのでしょうか」  眉根を寄せて困ったような顔をする明命に一刀はくくっと笑いを噛み殺しながら答える。 「長い付き合いだからな。猫に夢中になってる明命に気配を気づかせないで近づくくらいは、な?」 「むう……一刀様だけができることとはいえ、やはり納得いきません。今度鍛え直します」 「あの、それはいいけどさ、なんで俺をじっと見つめてるのかな? いや、そんな期待するような瞳を見せられても俺は参加するのはできれば避けたいと思うんだけど」  いつぞやのように顔に落書き……いや、地獄を見るのはもう御免とばかりに一刀は眼を逸らして苦しげに首を振る。  それでも明命はぐっと距離を詰めて一刀の顔を上目遣いでのぞき込む。 「だめ……ですか?」 「くぅ、俺がそういうのに弱いと知ってやってるだろ……」 「あはは、それじゃあ」 「わかったよ。そのうちな、そのうち。俺だって忙しいんだから」  にぱっと笑顔になる明命に肩を竦めながら一刀はそっとため息を吐く。正直、また酷い目に遭うのかと思うと一刀の気は重くなる。 「にゃんにゃん、にゃんにゃにゃ~ん。どうですかぁ、おねこしゃまぁ」 「ふにゃぁ」 「……ま。いいか」  未だ興味を猫に夢中で、その喉元をこしょこしょとくすぐっている愛娘の笑顔。それだけで一刀の心は十分に癒やされていた。その効果の程はと言うと、明命との訓練だろうとなんだろうとどんとこいと一刀が思わず口走りそうになってしまいそうなほどである。 「にしても、卲もだけど、明命も相変わらず猫好きだよな」 「もちろんです。お猫さまの愛らしさは不滅ですから!」  両拳を胸の前で女握りした明命が満面の笑みを浮かべて頷く。猫とじゃれていたから若干興奮気味なのか鼻息も荒い。 「今の時点でも大分明命に似てる感じだけど、卲はこの先もっと似てくるんだろうな」 「そうかもしれませんし、もしかしたら一刀様に似てくるかもしれません。でも、ですね」 「ん?」 「暗部に関わるようなことは余りしてほしくはないです」  そう告げた明命の瞳はとても真剣で、だけど暖かみのある色合いをしている。一刀にはこれが親の目というものなのだろうと直感した。  恐らく、明命は身をもって体験しているからこそ、あらゆる部署の中でも相当過酷な任務を任されることの裏側には娘を携わらせたくないのだろう。一歩間違えば命に関わる可能性だってあるのだからそれも仕方ないだろう。 「明命も親心ってやつを持ったんだな……って、そりゃ母親だから当然か」 「おや……ごころ」  どこか感慨深げに明命が呟く。 「他のみんなもだけど、やっぱり昔とは少しずつ変わってる。子供のことを見て、一緒に成長している」 「そうですね。不思議と周卲から学ばされることもありますし、まだまだなんでしょうか」 「ああ。俺たちはまだまだ親としても人としても未熟なんだろう」  そして、だからこそこうして家族団欒を過ごして人というものを知っていくのだろうとも一刀は思う。 「何にしても、卲が明命と一緒に猫とほのぼのとした時間を十二分に満喫できる。そんな世の中にしたいもんだな」 「そのためにも、頑張りましょうね。一刀様」  そう言って明命が微笑む。その時、風が巻き起こり笹の葉のようにさらさらと明命の髪が風に靡く。それはとても綺麗で、一刀は絶対にこの宝物を失わせないと密かに固く心に決めるのだった。  †  土を踏みしめながら一刀はなんとなく前回の七夕のときのことを思い出していた。  それは昔、まだ戦乱の世であったころのことだった。たまたま時間がとれたということで少女たちと共にこの竹林へと赴いて短冊を吊したことがあった。 「もうあれから数年……時が経つのは早いもんだ」  気がつけば一刀も父親となり、子供も成長している。 「そういえば、琮や卲の願い事は親に似ていたな」  そう呟くと、一刀は当時の亞莎と明命の願い事を思い出す。 『もっと知識を得て、皆さんの役に立てるように。あと、美味しいごま団子が作れますように』 『気絶するくらいにお猫さまをもふもふできますように』 (こっそりと見ただけだから曖昧だけど、確かあってるはずだよな)  そして、それぞれの娘の願いは母親譲りといったものだった。 『いっぱい、おべんきょうして、母さまのようにみんなをしあわせしたいの。あと、ごま団子を作れるようになりたい』 『おねこしゃまとなかよくなれますように。もふもふぎゅーってしたいです』  微笑ましくも彼女たちがあの母親たちの血を受け継いでいることがわかる願い。一刀はそこに何とも癒えない感慨部位傘を覚える。 「それに比べて小蓮は相変わらず俺に関してだったな……でも、それだけ想われてるってことなんだよな」  なんとなくそう呟いた瞬間、一刀の体温が一気に上がる。 (く、口に出すと存外恥ずかしいものだな……)  一人で自爆した一刀は、暫く夜風を浴びて頭を冷やすと次の親子を探して歩き出した。  †  風にながれて宙を舞う笹の葉を避けるようにして歩く一刀は二つの人影を発見する。 「お、あれは祭さんと柄……おーい!」  前方に祭と黄柄を見つけた一刀は、手を振りながら二人の下へと駆け寄っていく。一刀の姿に気がついた黄柄がぶんぶんと手を振り返している。 「あ、父様!」 「おお、一刀。どうじゃ、楽しんでおるか?」 「はは、七夕らしさは楽しめてる……のかな」 「そうかそうか、それはなによりじゃな」  いつものように両手を腰に当てて快活な笑い方をする祭に一刀も微笑を浮かべる。  そんな二人の間に挟まれるようにして立っている黄柄がぷりぷりと怒った様子で一刀を見上げる。 「父様父様! 聞いてくださいよ、母様ときたら、短冊にお酒のことを書こうなんておっしゃるんですよ」 「…………さ、祭さん。それはいくらなんでも」  呆れ混じりに一刀がジト目を向けると、祭がむっとした顔をする。腰にて当てた手と相まって不満がありありと伝わってくる。 「なんじゃ、この老いぼれのささやかな願いすら否定することはなかろう」 「母様のことを思って忠告しているんです!」 「どうしたのじゃ、黄柄。そんなにムキになって、そんなに気にいらぬというのか?」 「至極当然です。だって、母様の飲酒量と言ったら酷すぎます。絶対に後々お体に触るに決まってます。母様……、柄はあまり早くに母様と死別したりなどしとうございません」 「む。それは、その……すまんのう」  歴戦の勇将黄蓋と言っても流石に愛娘の悲しそうな顔には勝てないらしく、祭は頭を掻いて気まずそうな表情を浮かべている。  一刀は頭が下がりっぱなしの祭を見て口元をにやつかせながら彼女の肩に手を置く。 「これは、祭さんの負けだね。にしても、相変わらず、子供には勝てなさそうだね、祭さんは」 「ふん。これでも黄柄たちの相手をして少しは加減は覚えておるわ……」  腕組みした祭が頬を染めながらちろりと視線を向けてくる。 「なら、今度は柄をつれて街にでも行こうか三人でさ。でも、きっと黄柄とじゃれてるうちにそこら中から子供が集まってくるだろうね」 「…………儂にあのときと同じ轍を踏ませようと考えておるのか」 「今の祭さんなら大丈夫でしょ。さっきの祭さんの言葉じゃないけど、子供の相手出来るようになったし」 「ふ、だといいんじゃがな」 「あの……お二人とも、仲が良いのは大変よろしいのですが、短冊つけるのを手伝ってはもらえませんでしょうか?」 「……あ」  態とらしい慇懃な言葉をかけられて漸く娘のことを思い出した一刀と祭が視線を向けると、頬をぱんぱんに膨らませた黄柄が半分涙目になって両親を睨みつけていた。  この後、憤然とした娘のご機嫌を取りながら短冊の取り付けを行ったが、その光景はとても和やかなものだった。  それから少し話をした後、一刀は祭と黄炳の元を離れ暫く歩くことにする。  すると、一刀の視界に一組の親子が映り込んできた。 「はい、よくできましたね」 「うん。いっぱい、いーっぱい、お願いしてみたのぉ」 「うふふ、陸延のお願いが叶うといいですね」  腕の中に抱きかかえた陸延がきゃっきゃと笑うのに対して穏が母性的な柔らかな表情を浮かべて優しげに言葉を交わしている。  一刀はのんびりとした口調がそっくりな親子の下へと軽やかな足取りで近づいていく。  すると、一刀の姿に気がついた二人がにこりと微笑み、穏の腕から降りた陸延が一刀の方へとてとてと走り寄ってくる。 「どうやら、もう短冊は吊したみたいだな 「ととしゃま、七夕で笹に短冊を吊すなんてしらなかったのですぅ」 「まあ、そうだろうな。元々、七夕自体はあったけどこっちじゃ笹まではしてなかったらしいし」 「それはてんのくにでの風習ってことですかぁ?」 「そうですよぉ。わたしもお父さんに教えてもらって驚いたものです」  そう言って穏が陸延に微笑みかける。確かに今の陸延は目を輝かせ、かつて一刀が日本での七夕の風習について説明したときに穏が見せていた自分の知らないことをしって喜びに満ちた表情をしている。 (親子ってのはどこか似るもんなのかな)  陸延を見ながらそんなことを考える。確かにどの娘もそれぞれ母親とどこか似ているところはある。そこまで考えた一刀は、不思議と自分の要素が薄いことに気がついたが怖いので考えるのをやめた。 「ふふ、心配しなくてもだんな様のお子ですよ~」 「え、いや、なんでわかったの?」 「これでも長いつきあいですもの、一刀さんの考えくらい顔を見ればわかりますよぉ」  ふふ、と可笑しそうにしている穏に何の言葉も出ず一刀はただ頭を掻くことしかできず口ごもってしまう。 「でも、ちょっと悲しいです。他の男性との可能性の憶測を立てられるなんて」 「……ごめん」 「うふふ、そんなに申し訳なさそうに頭を下げないでください。ちょっと嬉しくもあったんですから」  確かにどこか喜色の混じる声色であることに気がついて一刀が顔を上げてみると、穏の顔は言葉通りどこか嬉しそうだった。  穏は耳にかかった髪をかき上げると、一刀に顔を近づける。 「不安になったってことは、それだけわたしと陸延が愛されてるってことですから」  瞬間、暖かくて柔らかい物が一刀の口に触れた。ちょうど陸延からは見えないようにしているあたり、穏の計算なのだろう。  刹那の間を挟んだ後、穏の顔が一刀から離れていく。 「の、穏……」 「これで安心しましたか?」 「あ、ああ。十分すぎるほどにね」 「そうですか……それじゃあ、陸延。戻りましょうか」  そう言うと、穏は首を傾げている陸延の手を取って歩き始めた。 「俺は、もう少し他のみんなのも見てくるよ」 「かしこまりました~、ごゆっくりどうぞ」 「また後でね、ととしゃま」 「おう、いい子にしてるんだぞ」  手をひらひらと振る陸延に一刀も手を振り返して応える。陸延同様に手を振っていた穏は一刀と目が合うとくすりと悪戯っぽい笑みを浮かべる。 「先ほどの失言、他の方の前でしたらどんなことになるかわからないので気をつけてくださいね」 「……あ、ああ」  穏の言葉にがくりと肩を落とした一刀は気を取り直して次の親子の下へと向かうのだった。  †  口もとにのこるほんのりとした温もりを指でそっとなぞりながら、一刀は黄蓋親子、陸遜親子のことを思い描く。  黄蓋親子は他と違い、娘が母親と真逆ともいえる性格に育っている。 「でも、その根底は似てるよなぁ……」  遠い日になりつつある過去の七夕を再び思い出してくすりと笑う。 「確か、祭さんの願いは」  顎に手を当ててゆっくりと思い出すのはあの日の短冊。聞き慣れない行事を楽しむ彼女は願い事をするのも楽しんでいた。 『若い連中が儂を追い越せるように。後、良い酒が手に入るように。それと、もう少し子供の相手が上手くなるように』  マジ過ぎやしないかとつっこみを入れそうになるほど真剣に書かれた願いには一刀も苦笑したものだ。だが、その娘の短冊がそれに答えるようなものだったことには一刀も驚いていた。 『母様がもう少しお酒の量を減らしますように。あと、いつか母様を超える勇将になりたい』  母の望みと娘の希望が重なり合うのは、どこか幻想的ですらあり、一刀は人知れず感動していた。 「親子の絆なのかな。穏の方もばっちり繋がってたし」  穏がかつてした願い。 『この世の未知なる領域を知り、新知識との出会いがたくさんありますように』  まことに彼女らしい内容である。一刀も、おおよそ予測していた通りでやっぱりなとまるでクイズに正解したような満足感を得たものだった。  そして、その娘である陸延もまた母親と娘の奇妙な一致を見てきた一刀の予想通りの願い事だった。 『まだまだしらないことがいっぱいだから、たくさんのごほんがよみたいです』  近いうちに新しい本でも買い与えようかなどと考えながら一刀は一つの懸念事項に行き当たる。 「そ、そういえば……まさかとは思うが延まで穏のように知識とあっちが連結してるようなことにはならないだろうな」  屈折した性癖まで受け継がれているのではという不安が一刀の仲を過ぎる。 「だ、ダメだ。それだけはダメだ……ああ、もうやめやめ!」  これ以上考えると変な想像があふれ出てくるだけだと悟り、一刀は考えることを止めた。  † 「お、あっちにいるのは述に思春か」  一刀の視線の先に移ったのは、つややかな黒髪をお団子にしてシニヨンキャップをつけている母子の姿。母を憧れとしてその背を追いかける娘は今も母とおそろいの紅い服を着ている。  一刀と仲良く並んでいる二つの後ろ姿との距離が縮まるにつれて二人の会話内容が聞こえてくる。 「ほら、甘述。しっかりと結ばないと風に飛ばされてしまうぞ」 「は、はい。んしょ……よいしょっと」  甘述は背伸びをして賢明に腕を伸ばして必死に短冊をつけようとしている。限界ギリギリまで身体を伸ばしきっているためか、その小さな身体はぷるぷると震えている。 「……ほれ、頑張れ」  無愛想な声で思春が応援の言葉をかける。その表情は声の割に穏やかで母性に満ちあふれている。そして、その手は甘述の視界から外れた辺りで枝を持って娘の補助をしている。 (とてもあの思春とは思えないな……)  頑張る娘の可愛らしさと中々見せてくれない母の顔を浮かべている妻を見て一刀は口元がほころぶのを押さえ切れなくなっているのを自覚しながら歩み寄っていく。 「よし、もう少しだぞ! 頑張れ、述」 「あ、父上……きゃっ!」 「おっと。よそ見は行かんぞ、甘述」  一刀の方に気をとられてよろめいた甘述の身体を思春が受け止める。さすがに軍事を統括する立場になったとはいえ現役で戦場を駆け回るだけはあり、反応速度は相変わらずの素早さだった。  思春の対応に感心と安堵の念を抱きながら一刀が側に寄っていくと彼女の刃物のような鋭い瞳でじろりと睨まれる。 「貴様……邪魔をするとはどういう了見だ」 「いや、悪かったって。俺はただ思春と述が可愛いかったから家族の一員として混ざろうとだな……」 「…………ふん。相変わらずだな」 「思春はすっかりお母さんが板についたって感じだけどな。うん、なんか可愛いような綺麗なような……おかげで、何だか胸の辺りがむず痒くなったよ」 「なっ!?」  一瞬で顔を赤く染めた思春が先ほどまでとは正反対なほど目を丸くする。ほめられるコトへの免疫は未だにないらしく言葉に詰まり一人でぶつぶつとなにやら呟いている。 「き、貴様は……いつまでたっても軟弱な言葉をやめんのだな……」 「さて、俺も少しだけっと」  甘述を見守りながら一刀は思春とは反対側から笹をつまむ。  「うんしょ、うんしょ」 「お、あと少しか、頑張れ」 「うむ。いいぞ、その調子だ、甘述」 「ちちうえー、見てください! 上手にできました」  そう言って見せて暮れた短冊には子供の割には堅い印象をもった文字で願い事が綴られている。 『母上のように立派で責任感のある人になりたい。あとは孫登やみんなと仲良しでいられますように』  子供らしさがある反面で真面目な願い。そこはお堅い面の中に女の子らしさを持っていた甘述の母に通ずるところがあるのだと一刀は口もとを綻ばす。 『今まで以上に忠実に任務をこなせるように。あと、蓮華さまたちを支え、また共に歩んでいけるように』  思春が昔した七夕の願い事だ。  後半の願いが、仕える主である蓮華に限定していないあたりがうっすらと見せる彼女のデレなのだと当時の一刀は察してにやにやしたものだ。そして、思春に胸元を掴まれて冷や汗をかいたのも良い思い出だ。  そんなことを思い出して微苦笑を浮かべていた一刀は甘述が何か言いたげな顔で見つめていることに気づきすぐに微笑みかける。 「おお、よくやったな。偉いぞ、述。よーしよしよし」  一刀は飼い主が投げた球を咥えて戻ってきた犬のようにじゃれついてくる甘述の頭をわしゃわしゃと撫でる。甘述も気持ちよさそうな表情で一刀に身を任せてはにかむ。 「なんだか、こういう風にしてるとやっぱり、俺と思春って夫婦なんだって思えるな」 「ああ……そうだな。って、それは……いや、違わないな」  条件反射で反論しそうになった思春だったが、すぐに苦笑混じりの溜め息を吐いて肩を竦めた。  一刀は珍しい彼女の反応に眼を丸くするが、すぐに「ああ、子は鎹ってこういうことなのかも」と内心で大いに納得する。  自己完結した一刀は二人の元を後にして竹林の中を悠然と歩いていく。  最後に回ってきた場所。そこには、現孫呉の王と恐らく次期王となるであろう子供が笹と対峙している姿があった。  何故か周囲には重い空気が漂い、緊迫感に満ちている。 「一体、なんなんだ?」  眉をしかめた一刀が誰にともなく呟いたのを切欠としたかのように蓮華が動き始める。 「み、見てなさい、孫登。短冊はこうして吊すの……あ、あれ、何故かしら」 「…………母さま?」 「ち、ちがうわよ。ちょ、ちょっと待ちなさい。おかしいわね……久しぶりだからやっぱり忘れてたのが原因? いえ、今はそんな悠長に理由について考察している場合ではなくて」  なにやら蓮華が手に短冊を持ったままわたわたとしている。服の背がばっくりとあいた彼女の後ろ姿を孫登は心配そうに見つめている。 (一体、何やってるんだ蓮華は……)  孫登に眼を暮れず必至になってぶつぶつと独り言を呟きながら笹と格闘している。一刀としては声を掛けるのも野暮だと思いじっと彼女を見守る事にする。 (それに、短冊と笹の間で苦戦する蓮華がふりふりと揺らしてるお尻をもう少し眺めていたいしな)  無論、こちらの方が理由としてはかなりの比率を占めていたりする。 「くっ、そ、そんな馬鹿な。これも違うというの……ど、どうしたら。そうだ、一刀に……いえ、ダメよ。孫登の前で情けないところなど見せたら母としての威厳が……」 「あ、父さま」  暫く蓮華が悩み込んでいる間に、漸く孫登が一刀の存在に気付いて駆け寄ってくる。蓮華は未だ自分の世界に入っているのか一刀たちには全く気付いていない。  一刀は孫登をそっと抱き上げると、顔の高さを合わせて孫登に訪ねる。 「なあ、登。一体何があったかわかるか?」 「うん。あのね、孫登が短冊を上手く吊せなかったの……そしたら、母さまがね、代わりにやるって言ってね。でも、できなくてね」 「あー、うん。なんとなく察したよ。説明ありがとう、登」 「どういたしましてー」  どうやら娘の前で母親らしく颯爽と良いところを見せようとしたものの、上手くいかず一人で四苦八苦して現在に至ると言うことに違いないと一刀はあたりをつける。 (そもそも短冊つけること自体、母親として頼れる姿になるのだろうか……)  根本的な部分に関して甚だ疑問ではあるが、一刀もこのままにしておくのもどうかと思いいい加減声を掛けることにする。 「おーい、蓮華」 「お、おかしいわ……こんな簡単なことなのにできないなんて。やり方を忘れちゃったのかしら? そんなわけないわよね……だって、一刀との大切な思い出なんだから記憶から抜け落ちてるわけないもの」 「あの、蓮華さん……」 「ひっ!? な、なによ、一刀。急に現れたりしたらびっくりするでしょ。あ、私じゃなくて孫登がよ」 「いや。さっきからいたんだけどね。というか、孫登はここ」  顔を紅潮させて慌てふためく蓮華に一刀は抱っこしたままの孫登を見せる。 「…………」 「…………」  二人の間に何とも言い難い時間が流れる。痛いほどの沈黙、それが幾重にも重なり限界になろうとしたところで第三者が声を上げた。 「ねー、父さま。短冊のつるしかたを教えて」 「あ、ああ。いいよ。それじゃあ、蓮華にも確認して貰おうか」  教える、でなく確認と言ったのはもう手遅れかもしれないが、念のため蓮華の尊厳を保守しようという一刀なりの気遣いである。  蓮華もそれはわかっているらしく頷いてくれたが、何ともいえない表情なのはいかんともし難い。  一刀は、いつまでたっても可愛らしい妻に鼻の下を伸ばしながら短冊の吊し方を孫登に教えていく。 「で、こうして……だよな?」 「え? え、ええ。そうよ、それで合っているわ」 「えっと……こうかな?」  一刀の腕の中にいる孫登が子供独特の不器用さを見せながらも綺麗に短冊を吊す。  それを眺めていると、風に揺られる孫登の短冊の片面が見える。丁度願い事が書かれた面のようだ。 『母さまの守る幸せを登も守れますように』  それを見て、一刀の目頭が僅かに熱くなってくる。 (そうか……やっぱりみんな親の背を見て育ってるんだな)  かつての七夕で蓮華がした願い事を思い出しながら一刀は熱くなった目頭を指で抑える。 『皆が幸せに暮らせるよう頑張れますように』  それが蓮華の願い事だったはずである。彼女らしい真面目で真っ直ぐな願い事に一刀も彼女を支えようという想いを一層強くしたものだった。 (そういえば、あの時急な用事で雪蓮と冥琳は来れなかったんだっけな)  他に全員が揃って自由に動ける時間が当時は貴重だったため、そのまま二人を抜きにして七夕の行事を行ったことを思い出す。  同時に、その際に用事を終えた雪蓮が帰ってきた一刀たちを恨めしげな目で見ていたことも脳裏を過ぎる。 『えー、なんで私たちを待ってなかったのよぉ』  そう言った雪蓮は不満を一片たりとも隠そうともせず全力で黒い瘴気を放っていた。 (あのとき、雪蓮が手に負えずに困っていた俺たちに変わって冥琳が宥めてくれたのも今となっては懐かしいな) 『やれやれ……流石に仕方のないことでしょ、雪蓮。なに、来年参加すれば良いだけの話じゃないか』 『ちぇっ、折角面白そうだと思ってわくわくしてたのになぁ』  そう言って渋々と頷いた雪蓮が『早く来年にならないかなー』などと未練ありありな様子で冥琳に連れられて部屋を後にした時、一刀も来年こそは一緒にと思っていた。  だが、結局その翌年の七夕を雪蓮が迎えることはなかった。 (まあ、もっとも俺たちもあの後は七夕どころじゃなくなって今の今まですっかり来ることもなかったんだよな)  一刀がそうした昔と今という時間の交錯に浸っているうちに孫登が短冊を結い終えていた。 「できたーっ!」 「お、上手いじゃないか、登。……誰かさんよりよっぽど上手だ」 「むーっ!」 「あだっ」  ぼそりと呟いた後半の言葉がどうにも本人の耳に届いたらしく、一刀は蓮華にぽこりと頭をはたかれた。もっとも恥ずかしがってのものであるため痛いというよりはこそばゆい。  思わず一刀が身体をよじったことで孫登が腕をすり抜けて落下する。焦る一刀だったが、孫登は難なく地面に着地し、そのまま突然竹林の中を吹き抜ける風に誘われるように駆け出した。 「あ、孫登。どこにいくの!」 「どうしたんだ、急に」  慌てて二人も孫登の後を追いかける。  少し走ったところで孫登はピタリと制止し、何かを見上げている。 「ねえ、あれってなんなのかな?」  孫登の言葉に促されるようにして一刀と蓮華もそちらへ視線を向ける。そこには少し風化して古びた短冊が二つほど仲良く揺れていた。見ると、願い事もちゃんと書かれているようで間違いなく七夕の用の短冊であることがわかる。 「一体誰が……あ、ああ……」  短冊の一つを手に取った一刀は、すぐにその内容と書いた人物を理解して納得がいったと頷く。 「どうしたの、一刀?」  不思議そうにのぞき込んでくる蓮華と一緒に短冊に書かれた文に眼を通していく。  二つの短冊。そこにはそれぞれ自由奔放に走らされた筆と几帳面に一糸乱れない筆でそれぞれに願い事が書かれていた。 『お酒がたらふく味わえますように……あと、あの子たちが将来国を治める頃には平穏な刻が訪れていますように』 『雪蓮の酒への執着が薄まるように。それと雪蓮と共に後進たちを見守れるのなら言うことなし』  微苦笑を浮かべながら俺と蓮華は肩をすくめる。 「あの二人らしいな……」 「本当よね……にしても、姉様もお酒はないでしょうに」 「でも、きっと二人の願いは成就されてるよな」 「そうね……そうだといいわね」  酒に関してはともかく優しさに満ちた二人の願いはちゃんと叶っている。  今、一刀たちは平和という物を実感している。そして、それを守りたいからこそ、彼らは奔走する日々を送っているのだ。  そいて、そんな青年たちを冥琳は雪蓮と共に一刀がいたのとは違う天の国から、時に笑い、時に呆れながら見守っていることだろう。そう一刀には思えるし、信じている。 「優に想像可能過ぎるな。にしても、二人も今夜は短冊を吊しているのかな……」  白く輝く満天の星々が長江のごとく雄大に流れている夜空を眺めながら一刀はぽつりと零す。 「んー、そもそも、あっちに笹はあるのかしら」 「俺はあると信じるよ」 「どうして?」 「だって、その方が面白いじゃないか」  不思議そうに小首を傾げる蓮華に対して一刀はゆっくりと微笑みかける。 「それに……場所は違えど雪蓮や冥琳と一緒にこの七夕という日に同じ時間を過ごせていたらそれって凄いことだろ? 俺はそういう奇跡のようなこと、あるって信じたいな」 「そうね。そんな奇跡なら起こってくれるといいわね」  どこか暖かみのある声でそう返すと、蓮華は一刀の肩に頭をころんと乗せて寄り添う。一刀は黙って彼女の肩を抱こうと腕をそっと伸ばす。 「へーちょ、へーちょ」  奇妙な声に驚いて一刀はぱっと手を引っ込める。音の発生源を見ると、陸延が鼻を啜っている。 「あらあら、鼻水が出ちゃってますねぇ。はい、ちーん」 「おい、北郷! そろそろ戻るぞ。蓮華様も、大分夜も更けてきましたので帰りましょう」  満足したのか大人しくなっている子供たちの横で思春が手を振って呼んでいる。 「それじゃあ、行こうか」 「ええ。そうしましょうか」 「そういえば、今年の蓮華や思春たちの願い事が同じだったのには驚いたよ」 「あら? そうなの……ふふ、でもむしろ同じになっても変ではないわよね」  可笑しそうにくすくすと笑う蓮華の顔を見ながら一刀も笑う。 『子供の無病息災』  多種多様の言葉でその願いがかけられた短冊がこの竹林には少なくとも六つはあるだろう。 (またな、二人とも)  一刀と蓮華は孫登を真ん中にしてそれぞれ手を結ぶ。  そんな仲むつまじい三人の背後で風に吹かれた短冊がゆらゆらと揺れている。 『頑張れ、男の子』 『我等が見守っているのだからしっかりとな』  風を受けて乱れる髪を空いている手で整えながら一刀は振り返る。 「どうしたの?」 「いや、なんでもないさ。それより、早く戻ろうか」  そう言って踵を返すと、一刀は妻と娘と繋がったままゆっくりと歩き始める。  これからも守り続けなくてはならない愛すべき家族の元へと。