玄朝秘史  第三部 第五十三回  1.成都  益州、成都。  天府の国と称されるほど豊かな平原の中にあり、冬でも温暖なこの都は、しかし、一年の多くを霧や雲に覆われている。  蜀犬吠日――蜀の犬は太陽を見ると驚き怪しんで吼える、転じて、見識の狭い者は立派な行いを見てかえってそれを非難する――そんな言い回しすら出来てしまう程だ。  だが、蜀の都に住む人は、それを自らの故郷に対する侮辱と感じるだろう。たしかに温かく湿度が高いために、霧も雲も多い。それでも、その向こうに日があることは知っているし、感じられもする。冬ですら厳しい寒さにさらされず穏やかに過ごすことを、彼らは自慢に思っているのだ。  なによりも、天に太陽がなくとも、地に彼らの敬愛する大徳、劉玄徳があれば、なんの問題もない。  ない、はずである。しかし……。 「桃香様が洛陽に残られるとはどういうことだ!?」 「私にかみつかれてもな」  城内の一角で、黒髪の女性がまさにつかみかからんばかりに問い詰める。だが、詰め寄られたほうの女性は金の刺繍のほどこされた白い着物を軽やかに翻しながら、相手から距離を取った。美髪公の動きをかわせるのも当然、そこにいるのは常山の昇り龍。 「星。愛紗をからかっとらんで説明せい。ワシも心配しておったのだからな」  壁にもたれて二人を見ていた桔梗が、笑いながらも真剣な調子で声をかける。その声に、愛紗は我に返ったか自分の席に戻り、星もまた、桔梗と愛紗に対する位置に戻った。 「愛紗が聞いてくれないのが悪いのではないか。まあ、ともかく、朱里や紫苑からの連絡によればだな……」  星は、これまでの経緯をざっと説明してみせる。桃香が大使として洛陽に残りたがったこと。それを知った朱里が鈴々を連れて洛陽に向かったこと。最終的に大使としてではなく、翠の西涼建国に協力するという建前で桃香が洛陽に残り、しばらくの間、朱里が洛陽と漢中を行き来する形になったこと。  帰還する焔耶と共に洛陽を出た朱里からの早馬が漢中にたどり着いたところで、星はこれらの報せを持って、成都へと戻ってきたのであった。 「結局、朱里は桃香様をお戻ししようとして、説き伏せることができなかったということでいいのか、それは」  なぜか桃香が洛陽から戻ってこない、という連絡だけを受けていた桔梗は、呆れたように言って足を組み替える。その着物の裾から、張りのある太腿が覗いた。 「だろうな。そもそも本気で桃香様が望んだら、あのちびっこ軍師殿が異を唱え続ける事は難しかろう」 「まあ……頑固だからな、ああ見えて」  星の推測に、愛紗は困ったようにため息を吐く。だが、その表情は柔らかなものであった。 「それにしても年末までか」  桔梗は髪にさしたかんざしを指でいじりながら、そう呟く。乱の後始末に王が漢の都に出向くのは、まだわかる。だが、それが長期に亘るとなれば、国内も動揺するだろう。民への影響を考えると、年末というのはぎりぎりと思えた。 「朱里もそのあたりなら……と判断したのだろうな。西涼にせよ、白眉にせよ、桃香様が華琳殿の近くにいることで捗ることもある」 「それはそうだが……。しかし、何故洛陽にこだわられるか」 「こだわる?」 「おうよ。桃香様とて一国の王。統治者が己の都を離れて他国に逗留することの不自然さ、不便さがわからぬはずもない。だというに残るというなら、洛陽でなければ、と考えておられるのであろうさ。なにか求めるものがあるか、そこでしかなせぬことがあるか……」  桔梗の言葉に、愛紗と星は顔を見合わせる。彼女たち三人は視線を交わし合った後で、それぞれに考えに沈んだ。 「我らに明かして下されば、手伝うこともできようが……」 「さて、そこよ。はたして確固たるものがあってのことか、あるいは、あの方特有の勘か」 「ご本人もわかっておられぬと? ふうむ……」  桔梗との遣り取りに、愛紗は感心したかのようにうつむく。桃香自身、模糊としながらもなにか惹きつけられるものがあるというのはありそうな話に聞こえた。 「だが、それでは時間がかかりすぎる……。いや、しかたないか」  求められるものが得られるかどうか、あるいはなにを求めるか桃香自身が理解出来るかどうか、それもわからない状況で彼女を遠く離れた帝都に置いておくのは、愛紗としては実に心配だ。  だが、それを邪魔するわけにもいかない。朱里たちが納得したように、まずは年末まで待ち、それから桃香と話してみるしかあるまい。 「桃香様のなさり様はともかくとして……。他に不安がないでもない。私のこともあったからな」 「朝廷か」 「しかし、愛紗を取り込もうとした連中は排除されたのではなかったか? 一刀殿の免官と引き替えに」  星の指摘に、愛紗は苦笑して頭を振る。美しい黒髪がふわりと揺れて、空中に紋様を描いた。 「謀をもっぱらにする連中があやつらだけならば、な。だが、短い経験ながら、どうもそうではないと思う。別の企てをする、あるいは、全く違う思惑をもった集団がごろごろといる。そういう場所だ、あそこは」 「自ら学んだ教訓というわけか。ふん。いまいましい教えよな」  呆れたような桔梗の言葉に、愛紗はますます顔を苦らせる。 「もちろん、朱里や雛里はすでに承知のことだろうがな」  それでも念のため、桃香に加えて紫苑と朱里、それに一刀に書簡を送ろうと考える愛紗であった。そこで、ふと愛紗は星の様子に気づいた。いつもなら、心配性の愛紗をからかう彼女が、なぜか深く考え込むように腕を組み、眉間に皺まで寄せている。 「どうした、星」 「ん……いや、な」  応じる声も歯切れが悪い。桔梗も不思議に思ったのか、身を乗り出した。 「洛陽にしかないもの、という話で思ったのだ。洛陽にいる人間をこそ求めておられるのではないだろうか、と」 「人を?」 「うむ」  そこで、彼女はいつも通りの表情に戻る。人の悪い笑みを浮かべたその顔に。 「たとえば北郷一刀とかな」  がたんっ。 「桃香様が!?」  音を立てて立ち上がったのは愛紗。その顔はなにを思ってか、紅潮してしまっている。あまりの反応の激しさに桔梗と星は目を丸くし、そして、顔を見合わせて、にやりと唇を歪めた。 「おやおや、美髪公殿はなにをお考えか?」 「いや、だって、一刀さ……殿といったら、お前……」 「稀代の女たらしだな」  桔梗にからかうように訊ねられ、思わず呟く愛紗は、星の断言に絶句する。だが、それに続いた言葉は、さらに彼女の予想を超えていた。 「事実、ここにいる三人、共に男としての一刀殿に惚れておろう?」 「なっ、せ、星!?」  いつもと変わらぬ、しかし、凛と美しい笑みではっきりと宣言する星。その様に、さすがの桔梗も声には出さぬまでも、ほうとため息のようなものを漏らしていた。 「が、それはそれ。個人としてあれに惹かれているのとは別に、私は、あれを脅威と思っている」  その声の鋭さに、部屋の空気が変わった。桔梗は何かを探るように星を見つめ、愛紗は瞳を閉じて額に手を当てる。  桔梗の視線を真っ向から受け止める星と、なお彼女の真意を見透かそうとする桔梗が睨み合うような格好になったところで愛紗が顔をあげ、会話が再開する。 「なにを考えているか、はっきりと言え、星」 「先程も言った様に、私はあれに……否、あの人間の行く末に惹かれている。一人の人間としてみれば、それは楽しみであり、実に興味深いものだ。どこまで化けてくれるか、そう、実に楽しみだ。しかし、将としての立場をとれば、一転それは恐怖となる」  翠は笑いでも漏れそうな程楽しげに言いながらも、最後で、その調子を一変させる。硬質の声で続ける彼女に、桔梗も愛紗も圧倒されるかのような思いでいた。 「曹孟徳と劉玄徳は相容れない。しかし、北郷一刀はさらに異なる」 「一刀殿と桃香様は……相容れることはないと?」 「さあ、そこよ」  星は、どこか中空をその指で指す。あるいは、それは東北方、洛陽をこそ指していたのかもしれなかった。 「北郷一刀という人間は、曹孟徳に政を学んだがために、その手法や傾向に大きく影響されているものの、どこか違う。それはその出自のためかもしれんが、なんにしても、華琳殿に近しく、それでいて決定的に違う。それが結実した時生まれるものを、私は恐れる。だが……」  ひょい、と彼女は肩をすくめた。軽やかに、だが、どこか艶っぽいその動き。 「それを桃香様がどう受け止めるかまでは、いかな私とて読み切れんよ」  星は、そのまま独り言のように続ける。 「一刀殿に悪意はない。あの方はあの方の信じる道を行く。桃香様もそれは同じこと。その道が交わるか否か、それを見極めようとしているのかもしれぬと、まあ、これは単なる当て推量に過ぎんがな」  垂れた袖をぱたぱたと振り、自分の話は終わりだと示す星。その様子に、愛紗と桔梗はなにも言わなかった。  あるいは言えなかったのかもしれない。  彼女たち二人も、星とどこか推察を同じくしていたがために。  2.志慮  そんな当の一刀はと言うと、廊下を歩いていたら、横合いから出てきた腕に引っ張られて、小部屋に引きずり込まれていた。  小さく声をあげるほど慌てたものの、自分を引く手から漂ってくる香りが馴染み深いものだと気づいて安堵する。 「なにか用かい? 華琳」 「なんだつまんない」  気づかれたと悟って、彼女はぱっと手を離す。男はよろけつつも彼女のほうへ向き直った。金の髪を揺らす大陸の覇王がそこにいる。 「で、なんの用事だい?」 「そろそろ落ち着いた頃かと思ってね」  試すような笑顔で訊ねかけられる。華琳の側にいるということは、こういうことだ。急な話題を切り出されても、そこにあるなにかを感じとって、適切に応じなければいけない。それは大変だが、誇らしいことでもあった。なにしろ、彼女はその相手にならできると信じて話しかけてきているのだから。 「そうだな、白眉の後始末も一段落したし、遠征の疲れもすっかり抜けたよ。華琳に貸してもらった邸もすばらしかったし」  翠たちとの休養から帰ってきたばかりの彼は、礼を兼ねてそう告げた。そういうことだろうと推察したのだが、相手の反応を見る限り、間違っていないようだった。 「そ。では、そろそろあなたの覚悟を見せてもらう頃合いかしら」 「覚悟?」 「あんな手紙を送ってきておいて、なにも考えていなかったでは済まされないでしょう?」 「ああ……。それはそうだな」  呆れたように言う華琳に、一刀はしっかりと頷く。そういえば、さっぱり話題に出なかったから一蹴されたかと思っていたが、彼女は時機を見計らっていてくれたらしい。 「あなたは協力してくれと書いてきたわね。共に守り、そのために備えてくれと。では、私はなにをすればよいかしら? そして、あなたは私とこの国のために、なにが出来るのかしら?」 「うん。そうだな……」  両手を広げながら、軽快な口調で訊ねる彼女の様子は、重大事を話しているとは思えない態度だろう。しかし、その芯には、実に硬く、強いものがある。彼は唇を湿らせ、言葉を押し出した。 「まず、前提から話そう。手紙にも書いた通り、俺のような人間がどこかから現れるかもしれない。それは、この世界の外からの干渉だと思ってくれていい」  彼女と彼以外には人のいない小部屋といえども、大声で話すことではない。一刀は言葉を選び、声を抑えた。 「あなたという実例がなければ、私だって信じない話だったでしょうね。仕組みやらはわかっているの?」 「いや、詳しくは……。だが、起こりうることはわかっていて……。まあ、そのあたりはまた改めて話そう。何度か話さないと、俺も説明できないと思う。ともあれ、俺のような、他の世界から来た人間が現れたとして、それが世を乱すとは限らない」  華琳は彼の言葉を噛みしめるようにして顎に拳をあて、ふむと呟いた。 「でも、天師道はそうだったのよね?」 「ああ、そうだ。でも、彼女たちだって、ただのアイドル……歌姫としての活動をしているだけなら、あんなことにはならなかったはずだ。実際、そうだったら、俺たちは個人的に天和たちを応援するだけで終わっていただろう」 「それはそうでしょうね」 「しかし、結局のところ、天師道は人々を煽動して、白眉の乱を引き起こした。俺は、他の世界から来る人全てと敵対したいとか言うつもりじゃない。だが、彼らがこの世界に悪い影響を与えるならば、それはちゃんと対策しておきたいと思っているんだ」 「たとえば乱を起こすというような?」 「うん、そう」  そこで一刀は一度言葉を切り、少し視線をさまよわせる。 「うん。だから、そうだね。基本的には、備えておくってことになるだろうね。そのために大陸を平和にし、世界を平和にする。白眉だって、本当に平穏な状況なら、いくらなんでもああも大量の人々が煽動されたりしなかったろうから」 「それは、あの書状にも書いてあったことよね。私の下で、この大陸も、海の果てにあるという大地のいくつかもまとめあげると」  規模の大きい話よね、と華琳はくるりと目を回す。呆れたような仕草ながら、興味深いと思っているだろうことは、一刀にも感じ取れた。 「目指すところはそれでいいとして、具体的にはなにをしようというのかしら? たとえば、まず来年では? この三年では?」 「そうだな……」  華琳はけして、一刀の提案に乗ったわけではない。そのことを、彼はいまようやくのように理解していた。彼女は賛成も反対も明確には示していない。  それよりもまず、成し遂げるならまずやるべきことがあるはずで、なにをどう推し進めていくかを示して見せろと言っているのだ。  これは、一刀を信じていないというわけでも、彼の――聞きようによっては狂ったと思えるような――予想を否定しているわけでもないだろう。ただ、予期される事態に対して彼女は彼女なりの考えを抱くだろうし、国を率いる者として一刀の案を丸呑みするわけにもいかない。  彼が彼の思うとおりの事を成したいのならば、それなりに実現性があり、そして、短期的、中期的に見ても益のある施策を示してみせる必要があった。  いま、彼女はその機会を与えてくれている。ならば、それを生かす以外にない。  一刀は唾を飲み込み、改めて胆に力を込めた。 「基本的には、富国強兵策ってことになる。なにしろいまある三国がしっかりしてくれないことには、どうしようもないからね。遠隔地については……そこに俺たちの力が及ぶようになってから考えるしかないだろうな。もどかしいけど」 「具体的には?」 「いくつか案はある。あるけど、まだ俺の中でしか出来上がっていなくて、どこまで実現出来るかはよくわからない。皆に検討してもらうべきかどうか迷っていたんだ。それでいいなら話すよ。ええと、まずは……」  吶吶と話し出す一刀の様子をねめつけるようにしていた華琳が、濃い青の瞳を煌めかす。まるで内側から光を放つかのような眼光に、一刀は思わず言葉を止めた。 「いえ、いまじゃなくていいわ」 「そ、そう」 「そうね、明日の午後にでも、その案とやらを聞かせてもらうことにするわ。桂花たちも同席で」 「……わかった」 「ああ、そうそう。あなたから言って、詠や冥琳、音々音たちを呼んでおきなさい。せっかくの頭脳、生かしてもらわないとね」 「了解」  普段の調子でそう言いつけて、さっさと小部屋を出て行く華琳。一刀も最後は普通の調子で返答することが出来た。しかし、一人取り残されたところで、壁にもたれかかり、息を吐く。  緊張からか、集中からか、額に浮いていた汗を拭ってから、彼もその場所を離れようとした。  その時。 「一つ言い忘れていたけれど」  ひょいっと覗き込むようにして華琳の姿が再び現れる。 「迷っていようがなんだろうが、あなたがそれをすべきだと信じ、そして、実際にこの国を良い方向に持って行けるというならば、胸を張って主張なさい。たとえ、当人に色々と思うところがあろうともね。態度すら曖昧なら、誰もついていきはしないわよ」 「……すまん」  華琳の指摘に一刀は一つ息を呑み、そして、素直に頭を下げる。その様子に小さく肩をすくめ、彼女は意地悪い笑みを浮かべた。 「まあ、あなたが堂々と主張したとしても、私や皆がそれを受け入れるかどうかはまた別の話だけれどね」 「そりゃそうだ」 「せいぜい、興味を惹く提案を期待しているわ」  そう告げる彼女の顔は、先程までの意地の悪さはどこへやら、実に透明な笑みに彩られていた。  3.懸念  男は手の中で弄んでいた竹簡から顔をあげ、大きく息を吐いた。 「駄目だな、こりゃ」  一刀はそんな風にため息を吐くが、実はそれは内容の話ではない。自分が先程からずっと同じところで立ち止まり、そして、まるで進んでいないことに気づいたのだ。  華琳に告げたとおり、素案は既にあった。そして、いま、彼の手の中にある竹簡には、たたき台となる原案も形となって記されている。それなのにぐるぐると考え、逡巡してしまっているのは、これらの案そのものではなく、その先にあるものを考えてしまうからだろう。  彼が仕上げた案自体は、問題ではない。国を富ませ、精兵を育てる力となることだろう。  しかし、彼が見ているのはそこだけではない。これらの策が実行された後、未来の人々に犠牲を強いることになるのではないかと憂えてしまうのだ。  とっくにそれは覚悟していたはずなのに。  結局、彼はもう一度ため息を吐いて、手の中の竹簡を丸め始めた。 「よし、別の懸念を解消してからにしよう」  そうして、一刀は机の上に広げられた竹簡の全てを丁寧に畳んでしまい込むと、頭を振り振り、自分の部屋を出るのだった。  彼には、このところ、一つ気がかりがあった。  戦にも政にも関わらない。そして、危急のことでもない。いや、あるいは、そう思い込もうとしているのかもしれないこと。  だが、彼のこれまでの人生経験上、悪い予感ほどよく当たるし、悪いことにはさっさと直面するほうがいいのだ。ことに人間関係においては。  そういうわけで、彼は夕暮れ迫る町の中を探し回っていた。脳裏には、今日の昼間に会った斗詩との会話が流れている。 「おかしいと思うんですよねぇ……」 「斗詩もそう思うのか」  この二人が話題にするとなれば、麗羽か猪々子しかない。そして、麗羽はいまのところ華琳との仲がうまくいったことで有頂天になっていた。つまりは、猪々子の話である。 「ええ。でぇとは嫌じゃなかったみたいなんですけど……」 「そう……。それはありがたいけど……なあ」  阿喜の件で二人に力を貸してもらったこともあり、また、一刀自身が涼州から帰ってきた斗詩たちと共にを過ごしたかったこともあり、三人は時間をやりくりして、とある夜に遊びに出ていた。猪々子たちにとっての『でぇと』である。  それ自体は斗詩も言っているようにうまくいったはずだ。冬の冴え冴えとした星空の下、星と同じように地上に輝く夜景を眺められる丘の散策は、斗詩はもちろん猪々子も気に入っていた様子であった。  丘の一角にある小さな滝が月に煌めく様も、その滝の裏側に隠された水晶の生える洞窟も、楽しんでくれたようであった。なにしろ、あの猪々子が綺麗すぎて触れないよ、と水晶を持ち出そうとしなかったくらいである。  だが、良い雰囲気になった途端、猪々子が逃げるようにして消えてしまったのは解せなかった。  それを気にしていたのか、斗詩はわざわざ一刀を探して、話に来ていたのだった。 「文ちゃんが私に気を回して、一刀さんと二人にするとかってないと思うんですよねぇ。その……三人で楽しむならわかるんですけど……」 「……うーん。女性は、ほら、色々あるだろ?」 「そういう時期じゃありませんよ」  一刀が歯切れ悪く訊ねるのに、斗詩は苦笑いして答えていた。 「それに、一刀さんが……ええと、体だけを求めてるんじゃないって文ちゃんは当然わかってますよ」 「まあ……そうだよな」 「だから、おかしいって思うんですよね」  体を重ねることは大事だが、それだけが必要というわけではない。そういう経験は既に何度もあるのだから、そんなことを気にせずに、時を共に過ごしてくれることのほうが大事だ。  そもそも、猪々子が斗詩を一刀に任せて一人になるという事態が異常でもある。 「うん。猪々子と話してみるよ」 「はい。私も出来れば探ってみたいんですけど、たぶん、一刀さんのほうからがいいんじゃないかと……」 「うん。またなにかあったら相談するよ。ありがとう」  そんな会話を交わしたのが、華琳に会う前の事。その時は数日の内になんとかすればいいと考えていたが、いまは、なにか急き立てられるものがある。  あるいはこれは逃避行動なのかもしれないと思いつつも、一刀は彼女の姿を探す。夕飯の時間には少々早いが、彼女のことだから、何か夕食前にぱくついていてもおかしくないと食べ物屋を中心に。  そして、彼は見た。家路を急ぐ人々が目立つ通りの中、立ち食いの拉麺をすすっている短髪の女性を。 「おお、アニキー!」  気づいたらしくぶんぶんと手を振ってくる彼女に、彼も同じように手を振り返す。そうして、彼は近づいて、こう誘った。 「やあ、猪々子。晩ご飯を一緒にどうかな」  彼女はもちろん賛成した。 「なに、ここ。餃子ばっかりじゃん」  一刀に連れられてやってきた店で、他の客たちの皿を見た彼女は、不思議そうに一刀に言う。彼のお薦めは、要は季衣や流琉たちの薦める店でもある。外れはないと知っているが、妙な気分だった。茹で餃子に焼き餃子に揚げ餃子と調理方法は違っても、見事に餃子ばかりなのだ。 「うん。餃子専門店だよ」 「へー、餃子に特化するなんて大胆だな」  奥の座敷に通され、一刀は菜譜の端から端まで指して、全て持ってくるよう頼んだ。猪々子ならぺろりとたいらげるとわかっているのだ。 「元々は点心の屋台をやってたんだけどね。餃子が美味くてさ。どうせなら、餃子の店を出したらいいよ、って言ったら、親爺さん、本当に餃子の専門店はじめたんだよね」  店員が去ってから、一刀は秘密を打ち明けるように体を前に傾け、猪々子の顔の側で囁いた。彼女が目を丸く見開く。 「アニキが言ったのかよ!?」 「俺のいた世界では特定の料理にこだわる専門店ってあったからね。餃子専門店もあったし、こっちでもやりようでちゃんとうまくいくと思う」 「でも、心配だからって、みんな連れてきてんだろ? いまみたいに」 「まあね」  にやりと笑って問い詰めると、一刀は頭をかく。その仕草に猪々子は肩をすくめるしかなかった。 「そりゃ、あたいは美味いもん食えるなら文句はないけどさ」  二人の前に、続々と皿が運ばれてくる。ぷりぷりの皮に包まれたものを茹でた水餃子、湯(たん)で煮込んだ湯餃子、棒状の焼き餃子、まん丸な揚げ餃子、ふんわりと蒸し上げられた蒸し餃子。さらには餃子の皮を揚げたせんべいのようなもの、これも皮をつくる米粉を固めて焼いた餅。 「さ、食べてくれ」 「おう、食うぜーっ」  二人は猛然とかぶりついた。  唇に滑り込むようななめらかな水餃子をかみ切ると、中からとろけた脂が飛び出てくる。熱々の脂とそれに絡まった野菜の味を感じて、一刀は思わず微笑む。見れば、猪々子もまた美味しそうに顔を崩していた。ぱりぱりに焼き上げられた焼き餃子をかじりとり、中で繋がっていた肉の塊をすするようにして口にする。 「うんまぃなあ。そりゃ、アニキがそそのかすはずだよ」 「そそのかすってひどいなあ」  言い合いながら、二人の手は止まらない。蒸し餃子をわふわふと味わい、様々な野菜や肉の出汁が染みこんだ湯餃子をつるりと呑み込む。まさに至福の時であった。  そんな中で、揚げ餃子を口に入れた途端、猪々子が助けを求めるように口を開いた。 「うわっ、なんだこれ、皮が辛いぞ!」 「ああ、そういうのもあるよ。もちろん、中が辛いのだってあるぜ」  一刀は彼女に米の甘みの出た餅を渡す。それやせんべい状の皮揚げは、辛みやきつい味のものを和らげるのにちょうどいい。 「色々あんだなあ……」  そう言って感心しつつ、次々と手を出していく猪々子の姿になんだか安心したような気持ちになる一刀であった。  4.回答 「あー、食った食った」  城に戻る帰り道、一刀と連れだって歩きながら、猪々子はぐるぐると腕を回す。お腹いっぱいで、体を動かしたくなるのだろう。 「俺もかなり食べたなあ」  腹のあたりをなでながら、一刀もそんなことを呟く。今晩は酒をあまり飲んでいなかったので余計かもしれなかった。 「なあ、アニキ」  人通りが絶えた辺りで、ふと猪々子が彼のほうを向いた。彼の目を覗き込むようにして、意外な言葉を吐く。 「あたいに訊きたいことあるんだろ?」 「うん。あった」  その言い方に、彼女は驚いたような表情になった。 「訊かなくていいの?」  彼女の問いかけに、一刀は思案げな顔。ちらと背後を見るような素振りをして、彼は逆に訊ねた。 「餃子、美味かったろ?」 「ん? ああ、そりゃ美味かったよ」 「俺も美味かった。それに楽しかった。食事の楽しさってのは、一緒に摂る相手によって変わる。俺は猪々子と食べてると楽しい。それでいいんだと思う」  そうして、彼は笑いかける。 「まあ、望むらくは、猪々子も楽しんでくれていれば、ってことだけど」 「そりゃ……楽しいけど」 「じゃあ、それでいいんじゃないかな」  にこにこしている彼の事を、じぃと疑うように彼女は見ていた。 「ごまかしてないか? アニキ」 「そんなつもりはないんだけどなあ」 「あたい、はっきりしないのって、なんか、こう、むずむずすんだ」  とんとん、と指で胸を突きながら、猪々子は一刀の事を見上げるようにする。その仕草が意識してはいないのだろうか、妙に艶っぽくて、どきりと彼の胸が高鳴った。 「だから、はっきりしてよ。なにを訊きたかったのさ?」 「んー」  そこまで言われては、彼としても後に引けない。いまさら言葉を飾っても仕方ないだろうと、ずばり口にした。 「俺に抱かれるの、避けてるだろ。なんで?」 「やっぱそれだよなー」  頭の後ろで腕を組み、猪々子は一人得心したようにうんうんと頷く。それから、にっと笑って彼の事を見た。 「ん、まあ、いいや。そうはっきり訊かれたら答えないとな。でも、ここじゃなんだな。アニキの部屋いこ」 「了解」  屈託無く笑う彼女の姿に、一も二もなくそう答える一刀であった。 「んー、どこから始めればいいのかなー」  部屋についた猪々子は、一刀の座る卓のへりにお尻をひっかけるようにしながら宙を睨む。次に出てきた言葉は、さすがの一刀も口をぽかんとあけてしまうようなものだった。 「要するにさ、アニキのちんこが悪いんだよ」 「おいおい」  落ちた顎をなんとか戻し首を振ると、猪々子も対抗するようにぶんぶんと首を振った。 「いや、だからさ、ちんこの張り型あるだろ? 真桜が作ってる奴」  彼女の言葉に理解が追いついてきたのはいいが、内容が内容だけに一刀は少々脱力する。 「あー、あるな。型とったやつ」 「あれ、なんていうか……女同士で楽しめるやつもあるの知ってる?」 「まあね」  責める側が穿く形のものも、いわゆる双頭のものも、真桜は開発しているはずだ。なにしろ、主な出資者は華琳なのだから。  そのこと自体については、そもそも自分の男性器が型を取られてたくさん作られている時点で考えても無駄だと諦めている。  一刀が色々と感慨に浸っている一方で、猪々子は話を続けている。 「北伐でさ、あたいら、随分長いこと涼州に行ってたろ?」 「うん」  なんとなく言いたいことがわかるような気がしたが、猪々子の調子に、一刀は思わず頷く。 「で、斗詩といやらしいことする時に、それ使ってたんだよ」 「光栄……と思って良いのかな、それ」 「そりゃそうだろ。他の男のなんて使えねーよ。斗詩だって嫌がるし」  憤慨したように言う猪々子の様子に少しおかしくなりながら、一刀は確認する。 「まあ、それはわかった。で……なんだ、長いこと使ってたから、飽きた……とか?」 「ばっか、違うって」  おずおずと恐れを込めて訊ねたものを一蹴され、一刀は面食らう。 「じゃあ……なに?」  本物より真桜の発明品のほうがいいなどと言われたらどうしよう、と頭の隅で考えつつ、その考えをあえて直視しないようにして、彼は訊ねた。 「逆だよ、逆。だから、その、なんだ。はまっちゃいそうだったんだって」 「へ?」 「そりゃ、斗詩としてるんだからさ、気持ちよくないわけないけど、でも、ちょっと気持ちよすぎるんだよ」 「えー……と?」  目尻を真っ赤にしながら早口で言う猪々子についていけず、彼は間抜けな声を出していた。座っていなければ、すっ転んでいたかもしれないな、と一刀は奇妙に冷静な部分で考えていたりする。 「だ、か、ら」  猪々子は手を振り回しながら、彼のほうへ身を乗り出す。 「アニキのちんこが悪いんだって!」  その手が、びしっと彼を指す。その指先は、一直線に彼の股間へと向かっていた。 「まあ、なんだ、まとめると」  くらくらする頭を振り振り、一刀は猪々子の言い分を整理してみた。 「北伐の間に俺のものを模した道具を使っていたら、あまりにも気持ちよくてはまり込んでしまいそうだった、と」  こくん、と素直に頷く猪々子。彼女がそんな動作をすると、元々が柔らかで丸い顔がよけいに幼く見えるような気がする一刀であった。 「それで、本物に触れるのを避けていると、そういうこと?」 「まあ……そうかな、うん」  言われて気づいたとでもいう風情の猪々子を見ながら、一刀は腕を組む。 「でもさ、それは斗詩相手だからじゃないのかな。猪々子にとって、斗詩は特別だろう?」  言った途端、ぎろりと睨みつけられた。その殺気すら込められた態度に、一刀の動きが固まる。 「なあ、アニキ。アニキってば、あたいを莫迦にしてる?」 「え、いや、ちょっと待ってくれ。そんなことはないよ」 「そりゃ、あたいにとって斗詩は特別だよ。この世で一番大事で、大好きで、斗詩がいなかったらどうしようって思っちゃうよ。でもさ」  ばんっ、と彼女は卓を叩く。その動作に如実に苛立ちが現れていた。 「それで気持ちいいのは当然だって、さっきも言ったじゃん」 「す、すまん」 「それだけじゃ説明できないものがあるから、焦ってんだろ」  だいたいさ、と彼女は肩をすくめる。 「麗羽様も、アニキも特別だぜ?」  彼女のさも当たり前というような一言に痺れるような衝撃を受けている一刀に一言たりとて発する間を与えず、彼女は言い放つ。 「そうでなかったら、こんな悩むかよっ!」  5.結論 「じゃあ、問題はないじゃないか」  しばらくの沈黙の後、一刀は神妙な顔つきで、そう切り出した。 「え?」 「俺は猪々子にとって特別な男なんだろう?」  戸惑う猪々子に、彼はにっこりと微笑みかける。男くささと悪戯っぽさの同居した笑み。 「だったら、思い切りはまっちゃえばいい」 「いや、だからだな……」  なにか違うだろと思いながら、彼女は言いつのろうとする。だが、続いた言葉に、声を呑んだ。 「それに、俺にとっても猪々子は特別さ」 「で、でもさ」  ぽかんと口を開けた猪々子が己を取り戻し、反論しようとするのを、一刀は急かしもせずに待っていた。 「そりゃ、特別だけど」  彼女にしては珍しく、口ごもりながら続ける猪々子の首筋は、わずかに朱に染まっていた。 「これが恋なのかどうかって、よくわからないんだよ」 「恋?」 「うん。あたい、その……恋ってものがよくわからなくて」 「恋がわからない、か」  ふっと一刀の唇に笑みがのった。先程までの表情とは違う、明らかに面白がっている笑い方。それに猪々子はかちんと来たようだった。 「百戦錬磨のアニキには、そりゃおかしいかもしれないけどさっ!」  拗ねたように叫ぶ彼女に待て待てと手を掲げる。 「俺にだってわからないよ」 「え?」 「恋がどんなものなのかなんてわからないよ」 「いや、だって……アニキ……」  あれだけの恋人たちがいて、なにを言っているのだろう、と誰もが思ったろう。だが、だからこそ、一刀は言うのだった。 「だって、それぞれに抱く気持ちは違うからね」  さらりと言ってのけ、彼は彼女の事を指さした。 「たとえば猪々子を好きな気持ちと、斗詩を好きな気持ちと、麗羽を好きな気持ちはそれぞれに違う。大小とかじゃなくて、違うんだ」 「え? いや、それって違くね?」  違わないさ、と彼は首を振る。 「恋かどうかなんて判断する必要もないってこと」  彼は立ち上がり、話を続ける。猪々子は彼の言葉を考えようとしているようだったが、どうにも納得できないようでもある。 「要は、その相手をどれだけ大事に思うかだよ。それと、その相手に、どれだけどきどきできるか、かな」 「どきどき?」  よくわからないという顔をしている彼女の手を、彼は取る。そのまま力を込めて、猪々子の体をその腕に抱き留める一刀。 「ほら、いまだってどきどきしてる」  胸に耳をつける格好で抱きしめられ、猪々子は聞く。  一刀の鼓動を。  たしかに強く脈打つ彼の胸のとどろきを。 「アニキ……。ごまかそうと、してねえよな?」 「してないよ。恋であるかどうかにこだわる必要はないって、そう言ってるだけ」  猪々子は笑みを浮かべた。咲き誇るような笑みを。  だが、その笑みをひっこめ、思い出したように彼女は呟いた。 「なあ、アニキ」  これまでとは明らかに調子の違う声に、一刀が猪々子を覗き込むようにする。 「あたいなんかに構ってていいの?」 「は?」 「だって……明日、アニキには大事な会議があるって麗羽様が」 「……ふむ」  心配そうな彼女を抱きしめる腕に力を込めて、一刀は考える。それから、両手で彼女の肩を掴んで、距離を取る。 「猪々子」 「な、なに?」  至極真剣な声に、思わずどもる猪々子。彼女の碧に近い青の瞳をしっかりと見つめて、一刀は告げた。 「俺はお前を愛してる」 「い、いきなりだなあ、もう」 「いきなり、なんじゃない。いつも思ってることだよ。本当は毎日だって、愛してるって告げたいくらいだ」 「……うー、まあ、そりゃ、嬉しいけど……」  照れもせずに明言する一刀に、猪々子はもじもじと体を動かそうとする。しかし、彼に肩に手を置かれているため、ろくに動くことも出来ない。 「お前のことを愛しているし、斗詩も、麗羽も愛してる」 「う、うん」 「華琳も、蓮華も、愛紗たちも、それにみんなが生んでくれた子供たちも、大事でしかたない」 「堂々と言い放てるあたりすげーよな、やっぱり」 「うん、まあ、そこはね」  呆れの入った言葉を、わずかな苦笑で受け流し、一刀は一言一言力を込めて語った。 「ともかく、俺は皆を愛しているし、だからこそがんばれるんだ。たしかに、明日の会議は重要だけれど、案は出来てるし、そこに挑む力をくれるのは、俺の大事な人……猪々子との、この時間なんだ」  猪々子は黙っている。黙って、彼の言葉を聞いている。言葉だけではなく、その後ろにある思いも、きっと彼女は受け止めている。 「だから、俺は、お前を愛する。わかった?」 「……うん」  しばらく後で、彼女はただ一言、そう答えた。  6.内助 「はっ、はっ、はっ、はっ……」  犬の喘ぎのような声が喉から漏れる。そんな声を出したいわけでもないのに止める事が出来ない。  彼女は武人である。それなのに自分の体の制御が出来ていない。そのことに、とてつもない違和感とほんの少しの恐怖を感じる。 「どうした、猪々子。まだちんこなんか使ってないぜ?」  男の手が、彼女の小ぶりな胸を揉み潰すようにしてくる。それは苦痛として受け止められるはずなのに、なぜか体中に電気でも走るような衝撃として受容された。快楽にごく近い衝撃。 「ひゅふっ、はっ……」  返事が出来ない。視界がちかちかと途切れ途切れに光る。男の舌が乳首をこすりあげ、同時に下の肉芽もつねりあげられた途端、彼女は三度目の絶頂に至った。  そのことを認識しつつも、猪々子は自分の状態に合点がいかない。そもそも、一度目の絶頂も、二度目のそれも、まだ続いているというのに。  嵐のような快楽があらゆる方向からやってくるというのに、さらに持ち上げられるような感覚はなんだろう。アニキはいったいなにをあたいにしているんだ?  恥ずかしくて嬉しくて楽しくて面白くて幸せで愛おしい気持ちの中で、彼女は考える。  そういえば、以前にもこんなことがあった。そう、あれは、はじめて『アニキのちんこ』に貫かれた時だ。斗詩と三人での戯れではなく、一人の女として抱かれた。  子を孕んでくれと請われたあの時。  事前に目の前で麗羽との情交を見せつけられたり、隣室に斗詩がいたりと特殊な環境であったからそうなったのだと思っていた。  でも、違う。  これがこの男の本気なのだ。  猪々子が一対一で彼と事に及ぶ機会は実に少ない。斗詩といちゃつくのが好きだし、彼もそれを好んでいると思っていた。たまたま彼女が酔っ払って甘えたい時くらいが、二人きりの機であった。  だから、一刀はこういうやり方をしてこなかったのだろう。斗詩と一緒の時に動けないほど感じさせられては皆で楽しめないし、甘えたい時は緩やかなものがいい。  しかし、いま、一刀は彼の一切をぶつけてきていた。  撫で、こすり、舐めあげ、噛まれる。  普段なら快楽に結びつかないようなことにさえ、彼女の体は震え、背筋を法悦が這いのぼる。  口づけだけで腰が抜けそうになるほど追い込まれたときに、悟るべきだったのかもしれない。  一刀は本気で彼女を夢中にさせようとしている。  彼は言った。 『はまっちゃえばいい』と。  そして、彼女の服を剥いた後で、こうも言ったのだ。 『安心して。もし、猪々子が俺のものにはまっちゃったなら、お前が満足するまでいつでも、いつまでも相手してやるから』とも。  連続する絶頂の中、彼女はようやくのように、理解していた。玩具にはまりそうだなんて言っていた自分の愚かしさを。  まして、彼はその男性器を彼女に触れさせてもいない。触れさせてくれない。  時折、雷光のようなもので白く潰れてしまう視界をなんとか動かして、彼女はそれを探そうとする。  猪々子に覆い被さるようにしている彼の下腹で、それは屹立している。彼女のおへその上あたりに赤黒い怒張が揺れている。 「ア……ニ、キ」  意味のある単語が、嬌声の中に混じる。それが出来たことに自分でも驚きを禁じ得ない。 「何だい、猪々子。……欲しいの?」  優しい声で訊ねられた途端に、その感触を思い出した。斗詩の操る硬いそれが、自分の体を割り開く感覚。敏感な部分をこすりあげ、大きく開いた首が、彼女のひだをひっかける感覚を。  だが、あれは違う。  あれは、そんなに冷たいはずがない。 あれは、手で動かすものじゃない。  あれは……アニキとつながるためのもの。  こくこくこくこくと、彼女は何度も首肯する。しがみつく手に力を込めて、彼の体を引き寄せようとする。  一刀はその勢いに驚いたようにしていたが、小さく微笑んで、体をずらす。彼女の腰を掴み、少し持ち上げて、彼は宣言した。 「いくよ」  熱いものが彼女に触れる。ぐじゅり、と彼女の汁と彼の汁が混ざり合いながら、それを覆い、肉と肉を繋ぐ。  中に溜まっていた蜜を押しのけて、それが自分の中に入ってくるのを、彼女は感じた。  ああ、違う。これはちがう。  思い描いていた以上の存在感が、彼女を満たす。そして、彼の腰が打ち付けられ、膚と膚がこすれあった途端に、彼女の視界は灰白の光の海に沈んだ。  そうして、思考とは無縁の、ただただ幸せな世界へ意識が飛ぶ直前、彼女は悟っていた。  既に自分は溺れきっていたのだと。 「アニキ……?」  ぼんやりと視界が戻った時、暗闇の中に灯る唯一の光を彼女は認めた。それに照らし出されている男の横顔も共に。 「ん……。ああ、ごめん。起こしちゃったかい?」  細い声に気づいた彼が振り向いて笑みを向ける。 「アニキは……寝ないの?」  彼女は目をこすりこすり訊ねる。ただでさえ朝まで間がないはずだ。まして、男のほうが、よほど体力を使ったはずなのに。 「ちょっと気になっちゃってね」  猪々子はひょこひょこと近づいて、彼の手元を覗き込む。細かい字の書かれた竹簡を認めて、彼女はうげえと声をあげる。 「やっぱりあたいを構ってる暇なかったんじゃないの?」 「いや、もう出来てはいるんだよ。ただ、なんというか……」  体を椅子に預け、こめかみをこする一刀は、そう語尾を濁す。その様子に、彼女は小首を傾げた。 「不安?」 「まあ……そうだ」 「出来良くないの?」 「いや」 「あのぷりぷり軍師に怒られそうとか?」 「ぷりぷり軍師って……ああ、桂花か。どうだろうな。いくら桂花でも役に立つことには反対しないと思うよ」  不安になる要素を並べ立てても、ことごとく否定する彼に、猪々子は口を尖らせる。 「自信あるんじゃん?」 「まあ……実行するまでには段階が必要だろうけど」 「じゃあ、なにが不安なのさ?」  ますます首をひねって、彼女は低い声で訊ねる。 「……なんだろうな。たぶん、俺自身に対してかな」 「自分に?」  その言葉に、彼女は考え込む。言った当人は苦笑を浮かべていた。 「なあ、アニキ」 「ん」  答えた途端、背中を思い切り叩かれた。猪々子とて武人であるから、十分以上に手加減はしているはずだが、なにしろ元々の膂力が違う。痛みというよりは、電撃のような衝撃と共に、一刀は肺の空気が全て飛び出した気がした。  げほげほとむせかえった彼に、慌てて背中をさする猪々子。 「い、いきなりだな」 「でも、気合い入ったろ!」  ごまかすように彼女は言い張る。 「ばーんとやりなよ! あたいがついてるって」  彼はまじまじと彼女のことを見る。白い膚が、灯火に照らされて、奇妙な陰翳を作り上げていた。 「うん。そうだな、猪々子もついてるもんな」 「そうだよ!」 「でもさ、猪々子」 「なに?」  きょとんと彼の顔を覗き込む猪々子に、一刀は何気ない口調を装って告げた。 「素っ裸のままなのはどうなのかな」 「う、うっせ! アニキの莫迦!」  指摘された途端赤面する彼女があまりにかわいらしかったためだろうか。あるいは、彼女自身に込められた『気合い』が発する熱に導かれてのことだったろうか。  二人は朝までの延長戦にもつれこんだ。 「義務教育制度の創設、中原及び華北、涼州の植林事業、全土の国勢調査、塩引の紙幣化、駅伝制の拡充……ねえ」  配られた資料の最初の部分に書かれた提案の数々を読みあげ、彼女はわずかに疑わしげに呟いた。金の髪を揺らす彼女の名は曹孟徳。その横には桂花、稟、風のおなじみの三軍師に加えて、冥琳、詠、音々音と知謀の士が勢揃い。彼女たちも同じように資料をめくりつつ、面白がるような、あるいはなにかを計算するような表情を浮かべている。 「お題目は立派だけど、さて、中身はどうなのかしらね? 私たちの興味を惹くような提言があればよいのだけれど」 「まかせてくれ」  きつい物言いにひるむことなく、一刀は自信たっぷりの声で言い切った。その様子に、軍師たちの幾人かが目を丸くした。  華琳は彼の事をじっと観察する。緊張はしているのだろう。張り詰めた表情はしているものの、その立ち方からして、体に余計な力は入っていない。なによりも、その目に力があった。  いい顔だ。  彼女は思う。  様々なものを背負い、しかし、それを苦にしていない顔だ。おそらくは、誰かに、いや、幾人もの人間に背中を押されているのだろう。  これでこそ、と密かに誇りに思いつつ、しかし、いつもこうであってくれればと思わずにいられない華琳。 「では、聞かせてもらいましょうか。……あなたの望む未来のための策を」 「ああ」  短く、しかし、はっきりと彼は頷く。 「それじゃ、まずは……」  自らも資料を手に取り、彼は皆に向かって、そう声を張るのだった。  7.巡幸  建業の町は沸き立っていた。  人々は大通りの両側にずらりと並び、いまいまかとその時を待っている。列をなしている人々を狙って、即席の屋台や、売り子がほうぼうに出て、さらに人口密度を上げていた。 「二の姫様はまだかっ!?」  場所取りに失敗したのか、先程から列の後ろで背伸びをして通りを窺っていた男が焦れたように叫ぶ。 「おいおい、二の姫様って、仲謀様はもう呉の女王だぞ」 「そ、そうだけどよ、つい」  彼らの言葉通り、皆が待つのは、孫家の次女、呉の女王、孫仲謀に他ならない。  臨月の頃より、民の前にはほとんど姿を現していない彼女が久しぶりに町中に姿をさらすとあって、人々は楽しみでしかたないのであった。なによりも、今日は彼女だけではなく、さらにもっと期待を集める人物が出て来る予定であった。 「あっ、いらしたぞ!」 「おおっ!!」  道の向こうから、天蓋のみで壁のない、開けた形の馬車が近づいてくると、人々のざわめきはいっそう高まった。  そして、ついに天蓋車の中央に座るその人影が人々の目に触れる。  孫家らしい赤基調の衣服をぴしりと着込み、桃色の髪を振りながら、周囲に柔和な笑みを振りまく人こそ、この国の女王だ。  そして、慈愛溢れる笑みをたたえる彼女の腕に抱かれている赤子こそ、人々が心待ちにしていた、この国の後継者、孫登。  母子の姿を認めた群衆は、一瞬押し黙り、次いで爆発したように歓声を響かせた。  呉の王とその後継ぎの通過に人々はいつまでも歓喜の声をあげ続ける。 「まったく、港につくまでで大騒ぎね」  城下を通り過ぎ、係留されていた御座船に乗り込んだ蓮華は、疲れたように漏らす。その側で、片眼鏡の女性が困ったように微笑んでいた。 「みな、たのしみにしておりましたから……」 「まあ、それはわかってるけど。でも、登の耳が悪くなるんじゃないかとひやひやしたわ」 「ここほど人が集まることはもうないと思いますが……。王女殿下のお体には差し障りのないよう、注意いたします」  主の言葉にきびきびと答える亞莎。まだ生後数ヶ月の赤ん坊である。無理をさせるわけにはいかない。  そんな生真面目な反応に、蓮華は笑って何ごとか言いかけたが、もう一人の人物が部屋に入ってきたことで、それは呑み込まれた。 「蓮華様。姫様はお休みになりました。いまは乳母と警護の人間をつけてあります」 「ありがとう、思春」  簡潔に報告してくる黝い髪の武人に、蓮華は礼を述べる。思春のいつもきつい表情がわずかに緩んだ。 「ごめんなさい。私がもっと上手ならいいんだけれど、どうも寝かしつけるのは苦手で……」 「いえ、問題ありません」  間髪を容れずの返答に、蓮華が微笑む。思春にも座るよう促して、自分も床に固定された椅子の背にもたれかかった。 「それにしても大変よね。登も私の子に生まれたばかりに、生まれてすぐに顔見せの旅に出ないといけないなんて」  彼女とその娘は、一月ほどをかけて江水を遡り、巡幸を行う予定であった。目的はもちろん、後継ぎたる娘のお披露目である。最終的には国内だけではなく、帝都たる洛陽にも赴く。  国内向けには――雪蓮を失ったとはいえ――孫家の堅固ぶりを示し、対外的には、後嗣の誕生を認めさせる狙いだ。  ただし、洛陽にまで行くのは、政治的な理由だけでもない。姉も友も都にいるし、なにより娘は父親に会うべきだと蓮華は考えていた。 「そのあたりも王家の務めかしらね」  自分で結論づけ、くすくすと笑う。亞莎と思春はそんな主を温かな瞳で見ていた。 「さて、寝てくれたのなら、その間に少し仕事を済ませておきましょう。次のお乳の時間までね」 「はっ」  悪戯っぽく言う主に、二人は声に力を込めてそう応じるのだった。 「国内のことの大半は、年末までだし、留守番の小蓮に任せられるとして……頭が痛いのはあれね」  いくつかの案件を片付け、出港の許可を求めてきた船長が出て行った後で、蓮華は腕を組んでそう呟いた。思春も亞莎も彼女の意を汲んで、厳しい表情で頷く。 「一刀を持ち上げ、漢を貶めていたあの冊子。……穏に見せられたときは、正直、なにを大げさに騒ぐのだと不思議に思っていたものだけれど」  彼女が言うのは、華琳が著した『魏史大略』と共に配布されていた冊子のことだ。光武帝から始まって、歴代の帝はもちろん、現在の漢の治世を批判する一方、天の御遣い――北郷一刀をその批判されるべき乱れた世の救い主として持ち上げた過激な書物。 「……あれの作者が、稟だというのなら、それはたしかに大事(おおごと)だわ」  冊子に記されていた著者名は戯士才。一刀や星が見ていたのなら、それがかつて稟――郭奉孝が名乗った偽名だとすぐにわかったことだろう。しかし、呉の人間がそれを知るわけもない。彼女たちがそれを知るに至ったのは、明命が洛陽近くに潜み、数多くの情報からそれを掬い上げたが故だ。 「稟がそんなことを独断でするわけがない。まして、華琳の著作と共に配るなど、黙ってやれるわけもない……。と、すれば」 「全て、曹魏の意思」  鉄のような声で断言する思春に、蓮華も強張った顔で同意を示す。二人の視線は、片方だけの眼鏡の奥で瞳をきらめかせる亞莎に向かった。 「何のためであるか、推測できるか、亞莎」 「いくらかは」  訊ねられ、彼女は一つ大きく息を吸ってから答えた。自分を落ち着かせようと努力しているのだろう。その声は普段より低く、ゆっくりだった。 「しかし、確証はありません。出来れば、明命と話をしてから申し上げたく」 「ふむ。多少の目星はついていると?」 「はい。ですが、まとまっていない部分が……」  袖を持ち上げて、申し訳なさそうに顔を隠す軍師に、しかし、蓮華は満足げに頷いてみせる。 「いえ、いまはそれでいいわ。また新たな情報が入ってくるかもしれないし、まずはよく考えて……穏とも意見を交わして、進言してちょうだい。重要事ではあるけれど、これだけに構っているわけにもいかないのだから」  優しい口調でそう告げた後、わずかに首を傾げる蓮華。 「しかし、これは華琳の打った布石のうちの一つに過ぎないのではないかしら?」 「……おそらくは」 「なにがあっても対応できるよう、注意しておきましょう」  主の不安に、亞莎は同調し、思春は力づけるように答える。 「そうね。小蓮にもくれぐれも気をつけるよう書簡を出しましょう。亞莎。あなたの名前も併記させてもらうわよ。それから、思春。軍のほうは頼むわね」 「はっ」  その時、部屋が大きく揺れた。船が岸壁を離れたのだ。大きな揺れは一度だけで、後は小さなものになったが、動いているのを示すように、揺れ自体は続いている。 「どんな航路となるかしらね……」  揺れにもびくともせず灯り続ける灯火を見上げ、蓮華は呟く。  その言葉に、答える者はいなかった。      (玄朝秘史 第三部第五十三回 終/第五十四回に続く)      [第四部予告]  ――ついに帝に推戴される一刀 「我が盟友、北郷。曹操は、ここにあなたが帝位につくよう進言申し上げる」  彼はなにを望み、なにを選ぶのか。 「お父様、お母様。月はこうして生きております」  一方、涼州では董卓が再び立ち上がる。  ――春の佳き日  色とりどりの花が、洛陽の都に咲き乱れる。その数、実に五十。  結ばれる絆と、ぶつかりあう思い。 「私が一刀さんを止める!」 「……君は誤解しているよ」  そして、準備は着々と進んでいく。  ――真の三国時代のはじまり 「恋を倒した後、『俺に逆らう者はいるかあっ!?』って見得を切るのはどうかしら」 「無理だよね! しかも無茶苦茶悪人っぽいよね!」 「恋、がんばる」 「がんばらないで!」  北の地で実力者たちがふざけあっている最中、南方に一通の書簡が届く。そこに書かれた言葉が、彼女に決意を促した。 「たとえ偏覇といわれようと、私はこの地を守ると決めた!」  三人の皇帝がここに鼎立し、三国時代が幕を開ける。  ――緊迫する情勢  諸葛亮は上奏する。 「あと五年のうちに、かの国は南下を始めるでしょう」  陸遜は言上する。 「私たちが見逃されてるのは、もう一年か二年ですね〜。その間に決断しないと、どちらからも攻められることになりかねません」  郭嘉は宣言する。 「いつでも」  ――そして、漢中に鬼が出る  踏み割ったのは片眼鏡。全てを捨て去り、彼女は挑む。 「まずいですっ! 人解が、開くっ!」  敵と味方の血にまみれて狂喜する姿こそ、悪鬼にふさわしい。 「さくよ、さく、さく、あかいはな」 「ちるよ、ちる、ちる、あかいはな」  己の真名すらも武器として、血と泥にまみれ、彼女は勝利を目指す。  ――友たちが、愛する人々が、思いをこめてただ戦う。 「蜀漢……万歳!」  鳳士元の突撃はなにをもたらすか。 「今日は死ぬにはいい日だ!」  華雄の剛撃は、燕人張飛に届くのか。  ――決着の時、来たる 「愛紗、俺はこの星を獲るぞ」 「似合いませんよ。ご主人様」  彼女が信じたもののため。  彼女を信じる者のため。  砕かれた偃月刀は、再び立ち上がる。  玄朝秘史 第四部『故郷』  この秋開始予定