玄朝秘史  第三部 第五十一回 後編  5.質  ちゅるんっ、とすぼめた口に麺が姿を消す。ぷりぷりとした皮に包まれた水餃子が、同じくらい柔らかそうな張りのある唇に呑み込まれる。きつね色に焼き上げられた肉が、白い歯でぷつりと噛みちぎられる。  様々な料理がどんどん口の中に収まり、消えていく。  一刀は目の前に並ぶ五人の女性たちの食べっぷりに、今更ながらに感心していた。  五人のうち三人は彼より随分と背が低く、少女と言っても通じるだろう。残りの二人も大柄というわけでもなく、卓に所狭しと並べられていた皿の上の品々が、一体どこに収まっているのか不思議でならない。卓上も表面が見えないくらい皿が並んでいたというのに、いまや空しく隙間が目立つ。  だが、皆の健啖ぶりは見事なもので、見ているだけで一刀は嬉しくなってしまう。一足先に十分食べ終えた彼は皆の様子をにこにこと眺めていた。 「ねえねえ、お兄ちゃん。もう少し頼んでいい?」  拉麺の汁を飲み干し、ぷはあ、と息を吐いた鈴々が自分の周囲を見回して訊ねてくる。 「ああ、いいよ。おかわり? それとも別のものを頼もうか?」  懐の財布の重みを確認して、まだ大丈夫と一刀が答えると、もう一人の少女が鈴々と彼の間に割り込むようにしてくる。手に持った鹿肉の塊を振り回しながら、季衣は楽しげに言った。 「兄ちゃん、じゃあ、ボクも!」 「季衣はそれを食べ終えてからでいいと思うけど……」  彼女の横で呆れたように顔をしかめるのは流琉。この面々の中では少食に分類されてしまう少女だ。なにしろ、残る二人は猪々子と恋なのだから。 「まあ、アニキがいいって言うならいいんじゃね?」 「それはそうなんですけど……。本当にいいんですか、兄様」  ばりばりと鯉の唐揚げを食べている猪々子に言われて、流琉が申し訳なさそうに彼を見上げる。鈴々と季衣は、彼女たちの話など聞かず、菜譜の取り合いをしていた。 「うん。もっと食べたいなら流琉も頼んだらいいよ」 「んじゃ、あたいも頼んでいい? アニキ」 「もちろん」  よっしゃ、と菜譜の取り合いに参加する猪々子。店の人に菜譜を頼んだらいいのに、と思いつつ、きっとあれも楽しんでいるのだろうと流琉と一刀はあえてなにも言わない。とはいえ、彼らの座る場所は通りに面している――彼女たちが美味しそうにぱくつく様子は、店の宣伝にもなるのだ――こともあり、あまり激しくなったら止めるつもりであった。  ふと、一刀はそれまで黙々と鶏の香草詰めを食べていた恋のほうを見やった。幸せそうに食べている彼女を見ながら、彼は考える。 「兄ちゃんに兄様にアニキにお兄ちゃんか……」 「……んぅ?」  視線に気づいたのか、恋がきょとんと彼の方を見上げる。もぐもぐと口を動かしながら、不思議そうに首を傾げる。  一刀は手を伸ばし、恋の肩をぽんと叩く。 「よし、恋。試しに俺のことを兄くん(あにくん)と……ふげばっ」  途端、彼の姿が、座っていた腰掛けの上から消えた。 「兄様っ!?」 「あーっ、兄ちゃんになにしてんだよ!」  流琉と季衣が血相を変えて叫ぶ。彼女たちの視線の先で、男は地面に転げ落ち、その前に黒衣の少女がふんぞり返っていた。 「うるさいです。恋殿になにを吹き込んでいるですか!……いやいや、それどころではないのです」  仁王立ちしていた音々音は身を屈め彼の耳元で小さく、だが、鋭く告げる。 「緊急事態です」 「なに?」  その強張った声に、一刀は脇腹の痛みを忘れる。そもそも勢いだけで、それほどの打撃ではなかったようだ。 「華琳がお前と、そこの親衛隊長二人、それに恋殿を呼んでいます。……急ぎです」  一刀はそれ以上聞くこともなく立ち上がり、ぷうと頬を膨らませている季衣と流琉、何ごとか感じたか既に席を立っている恋に視線を飛ばした。その表情の厳しさに、季衣と流琉が一様に驚いたようになり、一つ頷く。 「悪い、鈴々、猪々子。俺たちを華琳が呼んでるらしい。二人は食事を続けてくれて良いよ」  悪いけどお勘定はこれで、と一刀は懐から財布を出し、猪々子にそのまま預ける。それからすぐに踵を返し、彼らは恋に抱え上げられたねねの先導で、飛ぶように走り去った。 「なんだか、慌ただしいのだ」  いきなりの展開に眉をへの字にして鈴々は呟いた。 「んー」  猪々子はどこか宙を睨みながら、がしがしと頭をかいた。 「あたいらもいってみっか?」 「うん。お腹も八分目だし、気になるのだ」 「だな」  二人は頷き、ともかく残っているものを急いで平らげ始めた。 「落ち着いて聞いてちょうだい」  たどり着いた先は、高級官吏の邸が建ち並ぶ一角であった。警備隊、親衛隊入り交じる兵たちの中で、一刀は華琳から声をかけられる。その前に彼の姿に気づいた真桜が泣きそうな声で一刀の名を呼んで話し始めようとしたが、華琳に制止されていた。  一刀は周囲を見回す。  警備隊の人間が二、三十。親衛隊が百はいる。その上、彼が一緒に来た四人は別としても、華琳と真桜の他に斗詩や華雄まで来ている。さらには、華琳の横に顔を真っ青にした稟が立つ。  なんにせよ、大事であるらしいことはよくわかった。なにより、集まっている人間の間に漂う緊張感が違う。戦場の如く空気が張り詰めていた。  彼は二、三度大きく深呼吸してから華琳に答えた。 「わかった。何ごとだ?」  華琳はちらっと数軒先の邸を見、それから稟をいたわるように見つめてから一刀に向かいなおした。真っ直ぐに見上げてくる視線に、彼は思わず後じさりかける。  そこにあったのは、怒り。  途方もない憤怒が、彼女の中で燃えさかっていた。だが、それを表に出そうとしてない。そして、それが向かう先が自分ではないことも彼にはわかる。  そのことが一層彼に恐怖を感じさせた。  彼女はゆっくりと、わかりやすいように音節を区切って言葉を発する。 「阿喜が人質に取られたの」  稟が、顔を伏せた。  6.賊  男は、よろりと後じさり、へたりこむかに見えた。 「兄様っ!」 「兄ちゃん!」  横にいた季衣と流琉が彼を支えようと手を伸ばす。しかし、予想に反して彼は膝に力を込め直し、その体勢を立て直した。季衣と流琉、二人の手がおずおずと戻される。 「経緯は?」 「私の過ちです。私が……」 「稟」  かすれた声で問いかけるのに、ばっと顔をあげ、喘鳴のように言葉をつむぐ稟。彼女を遮るようにして、華琳は名を呼んだ。 「私が話すわ」 「……はい」  唇を噛みしめ、稟は頷く。華琳は努めて彼女の体の震えを見ないようにしながら、一刀たちに話しかけた。 「稟の親戚夫婦が洛陽に来るというのは知っていた? 阿喜の顔を見に」 「あ、ああ。それは聞いていたよ。俺も挨拶する予定だった」 「ええ。それでその夫婦だけど、今朝洛陽に着き、そのまま稟と阿喜と一緒に洛陽を周り、滞在予定のあの邸に落ち着いた」  華琳は指を差す。先程彼女が視線をやった邸であった。 「昼時になって阿喜を夫婦と乳母に預けて、稟が邸を出たところで、賊が侵入。いまは、全員を人質に取って、立て籠もっているわ」  簡潔に顛末を述べる華琳の声は静かで落ち着いている。その裏に激情が流れていても、いまは、一刀たちを落ち着かせるべくそうしてくれているのだ。彼にはそのことがよくわかっていた。 「白眉の残党かなにかでしょうか?」  おずおずと、流琉が訊ねるのに、華琳は小さく首を振った。 「わからない。いま、秋蘭たちが背後関係があるかどうか探っているわ。私見では、ただの金目的だと思うけどね」 「ただし、賊には武の心得があるだろう。兵士くずれかもしれんな」  付け加えるように華雄が言うと、後から来た面々から疑問の視線が飛ぶ。それには、相変わらず青い顔をした稟が答えた。 「従弟夫婦は素人ですが、ついていた乳母というのは、華琳様につけていただいた親衛隊所属の二人なのですよ」 「とはいえ、もし阿喜たちを先に人質にとられていたら、いかな親衛隊といえども従わざるを得ない。……もう少し状況がわからないと断定は不可能よ」  慎重な華琳の言葉に、周囲が頷く。一刀は落ち着かなげに瞳をきょろきょろ動かしながら、華琳に確認した。 「要求は?」 「百万銭相当の金銀財宝と、逃走用の馬車。でも、最初に駆けつけた真桜が機転を利かせてくれてね。責任者が来るまで交渉は出来ないと引き延ばしてくれたわ」  一刀を見て涙目になっている真桜を、彼は見る。安心させるように頷きかけると、よけいに泣きそうになっていた。 「責任者……華琳はいま、ここに来ているな。交渉を始める予定か?」 「まずは稟とあなたに揃ってもらいたかったの」 「そうか」  一刀は娘の母親を見つめ、稟は我が子の父親を見つめ返した。 「少し二人で話しても?」 「ええ」  華琳の許しを得て、一刀と稟は邸と邸の間、路地の一つに進む。入り口に流琉と季衣が立ち、誰も邪魔をしないようにしてくれていた。  彼らは二人並んで立っていた。お互いの顔を見るのは辛すぎた。一刀の手が稟の肩に回る。  細い肩だ、と彼は思う。  震えているのは、しかし、どちらだったろうか。 「稟、これから俺が言うのは残酷なことかもしれない。動揺して間違った判断をしていると思うかもしれない。だが……」 「わかっています。要求を聞くなんて以ての外、でしょう」  一刀は目を剥いた。  たとえ、自分が同じ事を言おうと思っていたとしても。 「稟……」 「私はあなたより、よほど深く政の世界に生きているのですよ。見くびらないでいただきたい。それに、要求を全て聞き入れたとしても、解放されるとは限らない。奪い返すほうが早いでしょう」  きらり、と稟の眼鏡が光る。そう言って彼を見上げる彼女の顔に、弱々しくも笑みが刻まれていることに、一刀は胸をつかれた。 「そうだな、ごめん」  二人は見つめ合う。くしゃりと稟の顔が歪み、一筋、涙が流れた。 「でも、一刀殿、もし、もし……っ」  そのまま、稟は一刀の胸に飛び込んだ。すがりつくように彼の服を掴み、ぎゅうとその手が絞り上げる。 「大丈夫だ、稟。ここには大陸でも有数の人材が集まっているんだ。なんとか……なる。華琳がそうしてくれる」  一刀は彼女を抱きしめながら、そう慰める。おそらくは、自分自身に言い聞かせるためにも。 「そう……。それがあなたたちの結論なの」  季衣たちに華琳を呼んでもらい、二人は立て籠もり犯の要望を聞かず、突入することを望んでいることを語った。魏の覇王は感情を表に出さず、彼らに対する。 「ああ。警備隊長としての経験から言って、一度成功した犯罪は何度も起こる。もしここで要求を聞き、人質が解放されたとしても、真似をする人間が続々出て来る。それを許しちゃいけない」 「政治に携わる身として、法を貫徹することが重要と考えます。まして、華琳様が賊の言うことに耳を傾けることなどしてはいけません。私は、素早い突入を……くっ……望みます」  二人は時に言葉に詰まりながらも、意見を変えることなく語った。華琳は腰に手を当ててしばらく宙を睨み、そして、背後をちらりと見た。おそらくは、そこに揃っている武人たちのことを考えたのだろう。  結局、華琳は頷いた。 「いいでしょう。ただし、今回は私がそれを提案し、あなたたちが諒承したとそういうことにしましょう。いいわね?」 「いや、しかし、それは……」 「そうしておきなさい。ね?」  華琳は一歩近づき、二人の腕を軽く叩いた。その思いやり溢れる動作に、一刀と稟はそれ以上反駁できなかった。 「……わかった」 「はい」  華琳はそれから、ふっと小さく笑った。誇らしげな、実に誇らしげな笑みだった。 「それにしても、あなたたち、橋玄さまと同じ道を選ぶのね」 「橋玄さまって華琳の恩師だったよな? 同じ道って?」 「橋玄さまの御子様が人質にとられた事件があったのよ。突入をしぶる洛陽の警備陣を、橋玄さまは叱りつけたというわ。我が子一人を助けるために国賊の好きにさせてなるものか、とね」  だが、その時、人質にとられた橋玄の子は、賊ともろともに死んだ。その部分について同じことを繰り返すつもりは華琳には毛頭無かった。 「一刀、稟」  彼女は二人の恋人の手を握り、そして誓った。 「助けてみせるわ」  と。  7.突入  戻ってみれば、なにやら騒がしかった。猪々子と鈴々、さらにはどこで聞きつけたのやら白い仮面をつけた雪蓮までが気炎をあげるのを、周囲――特に斗詩が必死で止めているという情景に、一刀たちは揃って呆れ、しかし、どこか力が抜けたような表情を浮かべた。  それは見ようによっては笑顔に似ていた。 「なにしてるの?」 「ああっ。すいません、すいません」  慌ててぺこぺこと謝る斗詩。だが、さすがに三人が現れると鈴々たちも声を抑えた。 「話は聞いたぜ、アニキ。あたいも力になりたいんだよ」 「そうなのだ!」 「私もそう。手伝わせて、一刀」  皆、真剣な顔であった。彼女たちも戦乱をくぐり抜けてきた経験豊富な武人たちである。成すべき事はわきまえていた。 「それはわかるが……」  一刀は困ったように華琳に目を向ける。誰を呼び、誰を呼ばないかは華琳が判断したのだろうし、彼は彼女の判断を信用していた。そこは稟も同じだったろう。 「皆、協力したいと?」  華琳の言葉に、三人だけではなく、全員が頷く。 「いいでしょう。ただし、勝手をやられてはかえって賊を利すことになる。全員に申し渡すわ。これからこの現場に居る限り、所属がなんであれ、全て私の指示に従ってもらう。少しでもそれが出来ないという者は、疾く立ち去りなさい」  否を唱える者は、一人としていなかった。 「よろしい」  華琳は一つ頷くと、賊の制圧を優先させるという方針を明らかにした。これに衝撃を受けている人間は多かったが、横に立つ一刀と稟の表情を見て、なおも反対の声をあげる者は出なかった。 「雪蓮。兵を率いて周囲を固めて。賊に見えないよう少し離れて……でも、誰も近づけぬよう、逃げ出せぬよう、しっかりと。城攻めの包囲網と考えておやりなさい」 「了解。任せて」  雪蓮は魏の兵たちと打ち合わせを始める。華琳の命ともあって、兵たちも彼女の言に従ってきびきびと動き出していた。 「鈴々。頼みがあるわ」 「なんなのだ?」 「紫苑を連れてきて。あれの弓の術がいまは必要なの」 「わかったのだ!」  素直に頷いて、鈴々は駆け出す。あっという間にその小さな体は皆の視界から消えていた。 「真桜、邸の構造を確認。季衣や斗詩と相談して、門や壁が破れるかどうか考えて」 「はいなっ」  矢継ぎ早に指示を下し、真桜が書き上げた邸の図面を前に華琳はさらに細かい作戦を命じていく。  そうして紫苑が鈴々に連れられてやってきたあたりで、焦れきった賊が交渉の開始を要求してきた。 「賊の人数を確認するため、私が一度だけやつらと話す。その間、皆は準備を急げ。私の合図で突入よ」  号令一下、全員が動き出す。その中で、ぴったりと寄り添う一組の男女だけが動かない。一刀と稟は役割を与えられていないのだ。 「一刀、稟」  その二人に華琳は改めて言った。 「約束するわ」  華琳が門前に現れた途端、なんでえ子供かよと嘲った賊の一人は、仲間に思い切り叩かれて口をつぐんだ。彼女の姿を知る者と知らない者が混じっていたのだろう。 「覇王様直々のお出ましとは、俺たちも出世したな」 「くだらないおしゃべりにつきあうつもりはないわ。要求は馬車と金銭でいいのかしら?」  傲然と華琳は言う。どうでもいいかのような態度は、賊たちが望んでいるものを体現してみせたものだ。その間、華琳は観察していた。  人質は五人。稟の従弟夫婦、親衛隊の二人、そして、阿喜。いずれも生きていた。殺しては人質の意味がないとはいえ、それを確認したことで、安心したのは事実だ。  だが、大人たち四人のうち三人は厳重に縛られている。唯一阿喜を抱く女は従弟夫婦の妻のほうだろう。しかし、彼女も足を縛られ、その縄は夫の体につなげられているように見えた。 「ああ。そうだ、ちょうどいい。あんたが乗る馬車をくれ。あれだろ。武器をとおさねえようになってんだろ。うん、それだ」  話しているのは賊の一人。見える場所にいる賊は五人で、大人の人質につき一人がついている。全員が刀を押し当て、いつでも殺せる体勢にあった。問題は話をしている頭目格の男が短めの槍――手槍を持ち、それを阿喜につきつけていることだ。 「ふむ。私の車が欲しい? なかなか大胆なことを言うわね」  感心したように、華琳は笑った。その笑い声の華やかさと艶やかさは、あまりに場違いで、賊たちが揃って驚いた顔で彼女を見るほどであった。 「でも、残念だけど、それは無理。あなたたちが選べるのは二つ。ここで投降するか、それとも死ぬか」  笑いを収めた彼女の言葉は、一転、物理的な痛みを感じるほどに冷たかった。 「猶予は五つ数えるまで。さあ、決めなさい」 「な、なにを言ってやがる!」  動転する賊の言葉など頓着せず、華琳の手がすっと上に伸びる。五本の指が開かれ、涼やかな声がその口から漏れる。 「五」  おい、なに考えてるんだ、と言う賊の言葉に、華琳は反応しない。 「四」  指が一本畳まれる。男たちは顔を見合わせた。 「三」  ふざけるんじゃねえ、と頭目は槍を阿喜の首元につきつけた。その怒号に刺激されたのか、彼女は火がついたように泣き出す。 「二」  それは言い切られていたが、一、という言葉はまだ口の端にも上っていなかった。だが、ひょうと空気を切り裂くものがあった。  頭目の目に、矢羽が生えていた。それとは反対の方向に血しぶきが飛び、頭蓋を突き通して鏃がはみ出た。 「一」  言い終えた途端、いくつかの事が同時に起きた。  頭目が槍を抱えたままどうと倒れ、阿喜を抱える女の前髪を何本か切った。  巨大な鉄球が、土壁を破砕した。  なによりも重い鉄鎚が、壁の木組みを突き破った。  振り回された大円盤が、日干し煉瓦を吹き飛ばした。  回転する槍が、全てを巻きこんで大穴を開けた。  壁に開いた四つの穴から、四つの影が飛び込んできた。その影たちは獲物に飛びかかる獣のように地を蹴り、四方から賊めがけて走り寄った。  斬山刀が一人の胴をひきちぎりながら吹き飛ばし、  丈八蛇矛が男の得物と腕を切り裂いた後で頭を砕き、  金剛爆斧が賊の体を文字通り両断し、  方天画戟が串刺しにした人間の体をどこか遠くへ放り投げた。 「終わり」  華琳が宣言し、全ては終わった。  8.解決  誰もが泣きながら笑っているようだった。  怪我をしたのは、親衛隊の二人と稟の従弟だけだった。だが、兵のほうは人質になった時に賊に殴られていたからだったし、従弟のほうは賊が倒れる間際に刀がかすっただけで、軽い手当をしてもらって、いまも近くで妻と抱き合っている。  賊の死体が片付けられ、皆が喜びあっている中、隣の邸の木の上から降りてきた紫苑は憂い顔であった。彼女は興奮しながら話している一刀と、それをはいはいと相手してやっている華琳の前に来ると、困ったように顔をしかめた。 「ごめんなさい、一刀さん、華琳さん」  悲しそうにわびる女性の姿に、一刀と華琳は彼女がなにか誤解しているのかと感じた。それほどに苦しそうな表情であったからだ。だが、稟がひっしと抱きしめている阿喜と、それをねぎらう皆の姿が視界に入らぬはずもない。  華琳は一刀と顔を見合わせると、紫苑に微笑みかけた。 「なにを謝る必要があるの。すばらしい手腕だったじゃない」 「言い終える前とは聞いていましたが、少し先走りすぎてしまいましたわ」  声音からして、本気で彼女は反省している様子であった。その裏に、複雑な感情が隠れていることを、二人は察する。  怒りであり、恐怖であり、同情であり、苦しみでもある。  それは、子を持つ母として、あるいは当然の感情であったかもしれない。  もう一度、二人は顔を見合わせる。華琳が何か言う前に、一刀が紫苑の手を取っていた。 「いいや、紫苑。俺は感謝している。君がいてくれたから、解決したんだ。大変なことを任せてしまって申し訳ない。でも……ありがとう」  彼は彼女のもう一方の手も取って、拝むようにそれを持ち上げる。一刀は敬意を込めて、その手の甲に口づけた。 「この手が、救ってくれたんだ」  紫苑は、自らの膚に熱い雫が落ちるのを感じた。  その純粋な謝意に、ようやく紫苑はわだかまりのない笑みを返すことが出来た。 「ねえ、紫苑」 「なにかしら、鈴々ちゃん」  しばらくして、皆が宮城に移動しようというところで、紫苑は横から声をかけられた。長大な丈八蛇矛を担ぐ赤髪の少女と一緒に歩調を緩め、彼女は最後尾近くに移動する。 「鈴々、よくわからないのだ」 「わからない?」  少女は難しい顔になって考え込んでいる様子だった。紫苑は彼女が言葉を見つけるまでゆっくりと待っていた。 「だって、えっと、人質になってたのは、お兄ちゃんの子供なんでしょ?」 「そうね。稟さんの親戚も」 「二人には、お金くらいあるはずなのだ」 「ああ、そういうこと……」  鈴々の言いたいことを察して、紫苑は小さく頷く。突入を強行したことが、人情として理解しづらいというところだろう。たしかに、蜀ならばこのような形での解決はなかったかもしれない。賊をそのまま逃すことは論外にしても、まずは人質の安全を優先させるだろう。  たとえば交渉のうまい者を選ぶとか、あるいは一度要求を受け入れておいて、油断したところを襲うとか、やり様はあるかもしれない。  今回の突入は素早いが、しかし、手放しで褒められるわけではないと、この少女は考えているのだろう。 「今回は……うまく行ったからいいけど、ちょっと危ないと思うのだ」 「たしかに、危ういわね」  紫苑は頷き、しばし考えた。  鈴々の言いたいことも、華琳が、そして、一刀たちが狙ったことも理解出来る。さらには彼女自身の思いも相まって、彼女の頭の中は千々に乱れていた。 「あのね、鈴々ちゃん」  その思考をまとめようとするように、彼女は声をひそめて少女に語りかけた。 「あの時……木の上からやつらを狙っていた時、わたくしは考えていたわ。璃々だったらどうしよう。あの子が傷つけられそうだったなら、わたくしは矢を射ることが出来るだろうかと」 「それで?」  相手がなかなか言葉を継がないのを、鈴々は子供特有の焦れた調子で促した。 「わたくしは、急ぎすぎてしまったわ。あの賊どもが憎くて憎くて、そうして気持ちが急いて、一拍早く矢を放ってしまった。実の子でなくとも、それだけ思うことなの」  まして実の子であるならば、どれだけ恐れ、どれだけ苦しかったろうか。言外に示されたものにうちのめされたように、鈴々は黙り込んだ。 「たとえ華琳さんがやったにせよ、今回の事を許した一刀さんと稟さんは、すごい人よ」 「すごい?」 「あの人たちは、あれで、もう二度と阿喜ちゃんも、他の子供も襲われなくしたの。子供を人質にとっても意味がない。そう示すことで、彼らを狙う者はいなくなるのだから」  子供を人質にしても躊躇無く突入するならば、人質をとって相手と交渉しようなどとは考えない。それを賊に示しただけでも十分な効果なのだと紫苑は説明してみせた。  その上で子供を救えたのは、まさに紫苑も含めた皆の努力の結果で、また別の事なのだ。 「……効果はわかったのだ。でも、なんだか……その、難しいのだ」 「そうね。難しい。それでも、彼らは選んだ」  言いながら、紫苑は視線を巡らせる。集団の中央、皆に守られるようにして歩く男女とその子供に彼女の注意は向かった。 「あの人は、選んだ」  子供をあやす男の姿を見ながら、紫苑は繰り返す。  その様子を見上げ、そして、彼女と同じく一刀のことを見て、鈴々は眼を細める。  紫苑と鈴々。二人は、その後宮城に着くまで言葉を交わすことはなかった。  ただ、前を行く人物を凝視するその顔に、それぞれになにごとか言い表し様のない表情が浮かんでいるのは共通していた。  9.疑問  冬の風を遮る木立に囲まれた、こぢんまりとした庭。  そこが洛陽の宮城内で桃香が見つけた憩いの場であった。  十歩も歩けば三方を囲む木立に行き当たり、もう十歩も行けば庭の境となる列石群に行き当たってしまう。  そんな狭い庭であるために、特になにかに使われるということもなく、桃香が好きに独占できるのも大いなる利点であった。 「なんだかこうするのも久しぶりだね」 「はい、そうですね」  そんな庭に唯一ある四阿の中で、彼女はゆっくりと茶杯を傾けている。その脇にはそのお茶を淹れてくれた月が控えている。 「月ちゃんも座ってよ」 「いえ、給仕がお仕事ですし」 「いいからいいから」  かつて蜀にいた頃の経験からあまり抵抗しても意味がないと悟っている月は、苦笑を浮かべつつ、桃香の横に座る。 「最近忙しい?」 「いえそれほどでも……。ああ、でも、この数日は、みんな城内にいますから……」  慣れている月に比べれば多少危なっかしい手つきながらも、彼女の杯に茶を淹れてくれた桃香に頭を下げて、月は答える。  阿喜の人質事件以来、桃香をはじめとした重要人物は全て宮城内に留められ、城下での活動は厳重に管理されることになっていた。警備体制の見直しが終わるまでと華琳は宣言していたが、いずれにせよここ何日かは皆が宮城内におり、『めいど』をしている月は仕事が増えているのだろう。 「そっかー」 「でも、詠ちゃんも戻ってきてくれていますし、雪蓮さんと冥琳さんが天宝舎を見ててくれるので……」  にこにこと月は話す。仕事の話を楽しそうに話す彼女の事を見て、桃香は嬉しそうに微笑んだ。 「それより、桃香さまのほうが窮屈ではありませんか?」 「んー? そんなことないよ。ちょうどいいかも」 「ちょうどいい、ですか?」  いかに広いとはいえ、他人の国の城である。閉じ込められていれば、居心地はよくないかもしれない。そう考えていた月は、そんな桃香の答えに目を丸くした。 「最近、私、立ち止まって考えることが多いんだ」 「立ち止まる……?」 「あ、後悔してるとかじゃないよ?」  不安そうに自分のことを見つめてくる月に、桃香は大げさに手を振って否定する。沈んでいるわけではないので、そう誤解されると困るのだ。 「これまで……特に、三国の争乱の時は、ただただ必死だったでしょ? でも、最近は落ち着いて、色々と考えられる。だから、自分でも意識して考える時間をつくるようにしてるの」  月は興味深げに桃香が話すのを聞いている。桃香は、その様子に照れるようにしながら、話を続けた。 「それで、特に最近、色々考えるようになったんだ」 「最近、ですか?」  最近と言うからには、そこになにかがあったのだろう。月にも色々とあったが、桃香の場合はもっと様々な経験をしているだろう。そこになにか見つけたのかもしれない。 「たぶん、黄巾の乱と同じような白眉の乱を、前とは……義勇軍としての経験とは違う、三国の一つの王として体験したってのが大きいんじゃないかな」 「違う見方になった、ということでしょうか?」 「そうかも。ううん。それを見つけたいんだろうね」  うんうん、と頷きながら桃香は呟く。おそらくは、思考を追うように話し、言葉を補うように考えを巡らせているのだろう。 「成都を出て、荊州で戦って、洛陽に来て」  桃色の髪を持つ女王は、自分の辿ってきた道を、噛みしめるように言った。囁くような、祈るような声で。 「いろんな事を見て、いろんな人に会って」  月は桃香を見つめる。その横顔を、じっと見つめる。 「それでもわからない事がいくつもある。その中でも、一番わからないのは……」 「わからないのは?」 「漢朝って……なんなんだろうねえ……」  しみじみと、彼女はそう言った。問いかけているようにも、独り言のようにも思える口調で。  月には――漢朝の混乱を収めるために都に入りながらもさらなる壊乱を導いた人物であり、漢朝の帝をすげ替えた当人である彼女には、なにも言えなかった。      (玄朝秘史 第三部第五十一回 終/第五十二回に続く)