桂花の場合、文字通り叩き込まれる気がするから……華琳も頼むな
ならば、後で一刀に教えなくて済むようここで叩き込みなさい
そんな! こいつと二人っきりなんて……
桂花は私が一刀に教えるのが気にくわないようね……なら、いっそ貴方に一任しようかしら
うおっ! 出たぁ!
そんなこと、この私が許すはずないでしょ!
……そのときは華琳が一対一で教えてくれるんだろ?
え? ちょ、ちょっと――っ!
ど、どうしろっていうんだよ……俺、何にも知らないぞ
仕方ありません
風は稟ちゃんを連れて少し退席しますので後はお兄さんにお任せします
俺だって雰囲気とか少しは考えるって……いや、そうじゃなくて稟どうするんだよ?
おやおや……むう、お兄さんのケダモノっぷりでは幻想的な初夜は無理ですか
し、新婚初夜……一刀殿が優しく手を触れるもその瞳は獣のそれで……ぶはっ!
え? 風……?
民族を超えた婚姻か……そこに愛があったとしたらなお素晴らしいもんだな
要するに、お兄さんと風や華琳さまとの間で婚姻があろうと何ら問題はないってことなのですよ……
これは漢人と異民族の間で既に婚姻があった例を示すものでして
実は庶民の間では珍しいことではありませんでした
「竹林の七賢」の一人阮咸の逸話にもそれが見られます
桓帝の時代に馬騰の父子碩はかつて天水郡蘭干の尉となりましたが
後年官位を失ったためそのまま隴西郡に留まり、羌族の中で居住しました
家が貧しく妻も娶れない境遇だったため、羌族の娘を嫁に迎え、そして生まれたのが馬騰です
頼んだぞ、秋蘭
お、おい! 二人ともっ!
馬超だ! かんっぜんにあったまきた……表出やがれーっ!
ほう、いたのか……馬尿
あんだと! もう一遍言って見やがれ!
ふん、なんだ随分と尻つぼみとなっているな
馬超の武勇もたいしたことないではないか、この程度なら我が脅威とはならんな
あちらは秋蘭ちゃんにお任せするとして
風たちは、続きといきましょうかね
ふむ、馬超さんの親である馬騰さんにも少し触れておきましょうかねー
(こぼれ話)
建国当初、劉備政権は三つの集団の均衡の上に立っていた
一つは劉備の挙兵以来の古参閥、二つは荊州閥、三つは益州閥
馬超はこのどれにも属しておらず、後ろ盾となるものを持っていなかった
なまじ高位に在るだけに、いつ高転びに転ばされるかもわからぬ危険な身の上だった
折し日、彭ヨウが馬超の元を訪ねてきた。才能はあったものの傲慢な態度が疎んじられ江陽太守へ左遷された彼は馬超に劉備への不満を口にし謀反をほのめかす発言を行った
馬超は大いに驚き、何も答えず、彭ヨウが帰った後、具に彼の言葉を上奏した。これにより、彭ヨウは捕まり処刑された
曹操に「馬児死せずんば吾葬地無し」と言わしめた馬超が身の上の都合上、保身の為とはいえ密告者となった姿は痛ましい
だが、馬超の中にある身の上の不安を見透かしていたからこそ、彭ヨウも馬超の元を訪れたといえる
なお、本伝には蜀に来てから生まれた馬承が後を継いだと記されています
馬岱は平北将軍・陳倉侯まで昇進しました
なお、演義では諸葛亮の南征のとき、馬超は趙雲と交代して漢中の陽平関で魏に備え、孔明帰国後亡くなったとされています(第九十一回)
しかし、本当の死期はもう少しだけ早く、劉備よりも早い二二三年でした
そっか……馬超の親族の多くは既に失われてたんだもんな
死に臨んで、馬超さんは「一族二百余人は早々に謀殺されてほとんど尽き果て、祭祀を継ぐべき者は独り馬岱を残すのみ、深く平夏に彼のことを託したい」と悲痛な上訴を提出したそうです
いずれにせよ、馬超の帰伏は劉璋主従の抵抗の気力を失わせました
しかし、馬超の活躍はこれが最後であり、蜀に入ってからのめぼしい働きは全くありませんでした
劉備が帝位に即くと驃騎将軍・領涼州の牧・り郷侯と武官の最高位に列したものの
二二二年、四十七歳で死去しました
おおっ! 正解ですよ~ぱちぱちぱち
どうやらお兄さんも段々頭が回転してきたようですね
あ、もしかして……率いてきたのが馬超だから大勢の軍団が羌兵だって城内の連中に錯覚させるためってことか?
そうして馬超が到着してから一旬(十日)も経たないで成都城は陥落しました
この際に劉備が兵を馬超に与えたのには二つ理由がありました
一つは涼州の勇将に相応しい兵数を与えて馬超の心を把ろうと考えたからですが
さて、もう一つは何かわかりますか?
本伝に引く『典略』によりますと
劉備さんは馬超さんの到着を聞くと「私は益州を得たぞ」と言って喜んだそうです
そこで使者を送って馬超さんを留め置いて、ひそかに軍兵を与えました
そうしておいてから馬超さんを引き寄せ、兵士を引き連れて城壁の北に駐屯させたそうです
張魯の元を離れた馬超は益州を攻撃していた劉備に密書を送って帰服を願い出た
劉備は馬超を喜んで迎え入れ、これを聞いた益州牧劉璋は馬超を恐れて劉備に降伏したという
悲しみに暮れる馬超さんはやむなく馬岱さんと部下の龐悳さんらと共に張魯さんの元へ身を寄せませした
しかし、本伝に引く『典略』は「しばしば張魯に兵を借りて涼州を奪おうとしたが勝利を得られず、また、張魯の将軍楊柏たちは馬超の勇武を恐れて殺そうとしたため、武都郡から氐族の地に入り、転じて蜀へ奔った」と記されており、馬超さんが心休まらぬ日々を送っていたことがわかりますね
馬超は羌兵たちを率いて隴西・南安・漢陽・永陽の隴上諸郡を攻撃、みな馬超に呼応したそうです
そして、冀城を陥して涼州刺史韋康を殺害
以後の流れは夏侯淵殿の項で触れるため割愛とします
元々、馬超にとって韓遂は母親の敵でもあったので、その後に曹操側が細工した韓遂への手紙によって更に疑心を高めていくことになりました
結果、二人は仲違いし、その虚を突かれ敗走したそうです
ここまでの馬超のことが元で、二一二年、鄴にいた馬騰親子が曹操の手によって命を絶たれました
(注釈)六斛とは日本で行く六斗、約百十キログラム
『太平御覧』巻七百四に引く『江表伝』は「馬超は六斛の米袋を構えて馬を走らせることが出来、交馬語の際、彼は六斛の米と早々の軽量を推し量り、手取りにする機を窺った。曹操はこれを知って『危うく狡虜にしてやられるところだった』と言った」と記していたりします
もちろん、二人の様子を見ていた馬超の中には疑惑の心が生まます
曹操は今度は馬超にも韓遂と同様のことをしました
ですが、馬超はこれを好機とし、曹操を捉えようと突進しました。しかし、側らに猛将許緒が控えているのを見て、果たせませんでした
この計画の一環として、曹操さんは互いに部下を退けて、韓遂さんと馬を交わして親しく語り合ったんですね~
これが世に言う『交馬語』というものなのですよ
こっちでも賈駆か……
戦線が膠着したまま九月を迎えました
馬超は黄河以西、馮翊・京兆郡以西諸郡の割譲を要求
曹操は賈駆の勧めに従って、偽りの許諾を行い、馬超・韓遂の仲を裂こうと計画しました
異民族の兵士は、個々での武勇ではむしろ漢人に勝るが、指揮官の命令に従って勝手な行動を取らないという点では漢兵に劣るということか……
その後も潰乱していた曹操軍でしたが、校尉の丁斐が牛馬を一斉に解き放ったことで馬超の兵士は敵を追えという命令を無視、これを捕らえようと躍起になってしまいました
彼らにとって、牛馬は貴重な獲物であり、放っておく手はなかったのです。こうして、丁斐の描いた「絵」に幻惑されて肝心な敵を彼らは逃してしまったわけです
七月、曹操さんは自ら潼関から黄河を渡ろうとしました
しかし、まだ渡りきらないところで馬超さんの軍が襲いかかり、あわやの危機となります
危機一髪の曹操さんでしたが、許緒さんの奮戦で一時は難を逃れたのでした
この見え見えの動きには流石に「関中十部」と呼ばれた馬超・侯選・程銀・李堪・張横・梁興・成宜・馬玩・楊秋ら、大小の軍閥も欺されはしません
彼らは計十万の兵を率いて黄河・潼水にそって陣営を連ねました
(注釈)「虢(カク)を伐って虞を取るの計」とは……『春秋左氏伝』僖公五年のことで
晋が虢を征伐するとき、途中で虞の国を通らせてくれと依頼したところ、虞は承知
すると、晋は虢ばかりか虞まで滅ぼしてしまったというお話
えー、後に胡三省という南宋宋の学者さんも
「関中を舎てて、その西方の張魯を遠征するのは、所謂『虢(カク)を伐って虞を取るの計』であり、蓋し馬超を討とうと欲しても名文がないので、まず張魯を討つ勢いを示して馬超たちの叛乱を速め、これを理由にして彼らに塀を加えようというのだ」と指摘したそうです。要するに漢中は虢、関中は虞ということだったんですね~
そして、二一一年、華琳さま……いかん、違ったな。曹操が漢中の張魯征伐に乗り出した
当然、この場合関中を経由するのは自明の理
曹操の狙いは、実は関中諸将の討伐に在ったのかもしれんな
二○八年、馬騰が徴され、子の馬休・馬鉄を連れて鄴へと向かいました
このとき、馬超は槐里にそのまま留まり、父の部曲(私兵)を統率することとなったのです
この部曲、主体は羌兵だったそうです
演義では、董卓の残党李催・郭汜を討つ馬騰に随って出陣し、敵将李蒙を斬り、王方を捉える手柄を立てたのが初陣であるように脚色されているようだな
ちなみに、本伝所引『典暦』によりますと
この戦いの時、馬超さんは飛矢を足に受け傷を負うものの、袋で足を包み戦ったそうです
しかし、演義にはこれは記されていません
二○二年、袁紹を破った曹操より命じられた司隷校尉鍾繇と郭援の両者から協力を呼びかけられ、鍾繇を選んだ馬騰によって馬超が派遣された。その際のことですね
お兄さんの弁解は長くなりそうなので置いておくとして
馬超さんについてのお話をしましょうかねぇ
ひ、人聞きの悪い言い方はしないでもらえないか……
ふむふむ、お兄さんは性別不明な美人よりは確実な雌の群れを選んだのですねー
絶世の美女と謳われた貂蝉があれだったことを思い出したらちょっとな……
もし鄒氏がいても多分期待を裏切られる気しかしない
あら、一刀。胡弓の主は良かったの?
へえ、俺もこの世界に来ていろいろ学んできたけど未だに知らない風習とかもあるもんだな
おい! なんだその説明はーっ! あたしは認めないぞ、やり直せー!
ちなみに兄弟の年齢順に、字の一文字に孟・仲・季を用います
あと、伯・仲・叔・季・幼・稚を用いる例も多いのです
つまり孫堅さんの長男が伯符、次男が仲謀、三男の翊が叔弼と付けられたのもその一例なのですよ
曹操という男が曹嵩の長男であったのは間違いないわね
私が長女なのかどうかは……秘密よ♪
ああっ! ということは華琳さまも
姉者。我々の身近にもいるだろう? 『孟』を字に持つ御方が
ほう、そうなのか?
ちなみにこの『孟起』ですが、当時では『孟』を字に持つ人は長男でした
これは『孟』には「かしら」や「はじめ」という意味があるからなんですねー
馬超孟起
様子を……ですか
ちょっと様子を見てきただけよ……
華琳さま、一体どちらへ?
あいあい、わかりましたー
待たせたわね
それじゃあ、風、早速始めてちょうだい
う、ううむ……
姉者、少し落ち着け
また、どこかでしけ込んでんじゃねぇの?
桂花と華琳さまがおらぬようだが……
ああ、当事者だからな
こちらは我らが担当するわけだな
ええー、では、これより西涼戦について振り返ってみましょー
それじゃあ、稟の話を引き継ぐから馬騰のことからいくわよ!
その脳漿にたっぷりと刻みつけてやるから覚悟しなさい……
お手柔らかに頼む
馬超についての話でも触れてたな
……どっちにしても聞いてて気持ちの良い話ではないな
『演義』だと確か漢朝に心を寄せる馬騰が董承たちの曹操暗殺計画に加わっていたのが露見して殺されて(第五十七回)、馬超はそのあだうちのために挙兵した(第五十七回)って感じだったな
この辺りの話って曹操の姦悪を一際強調しているよな
……
…………
………………
いいのかなぁ……それじゃあ、俺たちはこれで
……うう、秋蘭
知らないわよ……ま、ほっといても回収されるでしょ
ちょっと、華琳さーん!?
え、えっとどうしよ?
こういう春蘭も可愛いのだけれど、あいにく私は忙しくてね
後は任せたわよ、一刀
ま、まあ、それはショックだろうな……
きっと秋蘭が討たれた瞬間を想像してしまったのね
さあ、姉者
姉者、食事の準備ができたから帰ろう
うむっ!
…………では、さらばだっ!
……………………
そして、最初の桂花の話に戻るってことか……ん?
夏侯淵は曹操に征西将軍に任じられ、漢中へと留守させることになったわ
そして、来る二一八年、劉備が陽平関へと進出、夏侯淵は諸将を率いてこれを拒いだ
二一九年一月、劉備軍に鹿角を焼かれてしまったわ
夏侯淵は張郃の苦戦を救おうと、自ら四百の兵を率いて馳せ向かったところを黄忠に横合いから斬り殺されてしまった……
そして、ついに益州に拠る劉備と緩衝材なしで接することになったわけか
二一五年三月、曹操は漢中の張魯征伐に向かったわ
一方で、夏侯淵は下弁の氐・羌を撃って、氐族の穀物十万斛余りを奪い、曹操と休亭で合流したわ
七月には曹操が陽平関で張魯の軍を破り、巴中へ逃走した張魯が十一月に降伏、こうして漢中を平定したのよ
曹操は令を下して「彼の地で謀反を起こして三十余年になる宋建を夏侯淵は一戦して滅ぼし、関右の地を闊歩、向かうところ敵無しだった」と称揚したそうよ
まあ、私としてもそうするのはわからなくはないわね
(注釈)小湟中は湟中のことで、金城の西で黄河に合流する湟水の両岸の地域を指す
ここから張掖郡へかけて小月氏と呼ばれる異民族が居住していてその関係で「小」が冠せられた
突っ走りぶりが本当に秋蘭とは似ても似つかないな……
まあ、武勇においてかなりのものがあるのは同じだけど
まあ、春蘭はそれで良いでしょう
謀略を巡らせる者がいる一方で、春蘭のように先陣で兵を鼓舞する者がいなくては戦には勝てないものね
さて、秋蘭……ではなく夏侯淵だけど、勝利した後、興国に軍を進め、氐王阿貴を斬り、城を屠ったわ
それを見た百頃氐の王の千万は馬超の元に逃亡し、その部下は夏侯淵に降伏したそうよ
夏侯淵は更に軍を転じて高平・屠各部族を討ち、その糧穀と牛馬を手に入れているわ
馬鹿を言うな、私ならもっと正々堂々と己の武のみで破ってみせる!
なんというか剛胆だな……秋蘭というより春蘭みたいだ
夏侯淵は韓遂軍の勢いを恐れる諸将を制してこう言ったの
「われらは千里を転戦し、今またそんなことをすれば兵士は疲れて長くは持ちこたえられない。賊は多勢とはいっても恐れるな」
そして、軍を鼓舞して出戦すると、韓遂を撃破し旗印を奪い取ったわ
それは、羌族の家族思いの情を利用するものだったわ
家族を思う情は漢人とて変わりはないわ……でも、漢人は礼教に惑わされ、時には建前のために家族を棄てることだってあるわ
だけど、羌人は情が深く、そんなことはしない
夏侯淵は韓遂らの勢いを避けるという理由もあり、その点に眼をつけて長離の羌族の集落を攻める作戦を立てたわ
夏侯淵が到着したとき、天水郡の諸県はみな降伏、韓遂は顕親県に屯営していたようだけれど夏侯淵が攻撃の気勢を示すと、軍糧を棄てて略陽城へ逃走したわ
夏侯淵が韓遂を追って、城の間近二十余里まで迫ると、諸将からすぐに韓遂を攻撃すべし、という意見や興国の氐王阿貴を討つべしなんて意見が出てきたわ
でも、夏侯淵はそれらを退け、ある作戦を立てたそうよ
ふん、珍しくちゃんと考えてるみたいね
きっと、予想外に早い魏軍の来攻に、十分な軍編成を行えないまま出兵した不利ってのを知ったからだろうな
翌二一四年、楊阜らが旧主韋康の仇を討とうと馬超討伐を計画、まず姜叙が鹵城で樊岐を翻す
すると、趙衢・尹奉らが馬超を騙し、姜叙責めに出撃させ、冀城にいた馬超の妻子をことごとく殺害したわ
二一三年、馬超が涼州刺史韋康を冀城に包囲し、殺害
夏侯淵もその救援へと向かったものの、迎撃に来た馬超に敗れたわ
馬超に呼応した汧の百頃氐の王の千万が挙兵したのを受け、退路を断たれると不味いと判断し長安へ還ったようね
流石は秋蘭だ! これは私もうかうかしておれんな!
あんたにしてはなかなかの推理じゃない
関中の状況が一段落ついてからの夏侯淵は韓遂・馬超の抑えとして長安に駐屯して
隴右の軍事に携わるようになったわ
だから、夏侯淵だけど秋蘭自身の話じゃないんだって
……いいや、それで? ここにきて涼州とかの話に繋がっていくって訳だよな?
次は、二二一年に関中へと進み、韓遂・馬超ら「関中十部」と呼ばれる少々を討伐したときのことよ
夏侯淵もこれに参加し、渭水の南岸で戦ったみたいね
そして、彼らが涼州へ逃走すると、朱霊を率いて隃糜と汧の氐族を討伐し、安定郡で曹操と会同、「関中十部」の一人楊秋を降したわ
ちなみに、商曜が斬られた後、并州は護匈奴中郎将が刺史を兼ね、太原を州治したとあるわ
そのことから考えるに商曜の率いる兵には恐らく匈奴も加わっていたと思われるわ
なかなか活躍しておるではないか
また、于禁を援けて昌豨の十余りの陣を陥し、各地の黄巾の残党を討伐して頭目を斬ったそうよ
赤壁後、南四郡を平定した劉備へ帰順した雷緒を名を受け、討伐したり、并州太原郡の商曜が叛いたということで屯営二十余を陥し、商曜を斬ったりと相変わらず転戦してたようね
そう……まあ、良いでしょう
それでは、夏侯淵の話に戻りましょう、今度は時系列に沿ってがいいわね
まず、官渡の戦いで袁紹を破った後、夏侯淵は兗・豫・徐の三州で軍糧調達に当たり、補給を絶やさなかった
これによって軍は勢いを盛り返すことができたわ
自分ではなくとも自分に関わることを話しているのを聞くのはこそばゆいと帰ったぞ
まあまあ、戻ってきてそうそう喧嘩はよそうぜ
ところで、秋蘭は?
なんだとっ!
貴様、そこになおれ! 叩き斬ってくれるわ!
あんたと違ってね
当然だろう
秋蘭は賢いからなぁ、冷静にものを見、行動するぞ
まあ、だからといって秋蘭が愚考に走ることは余り考えられないし、実際にすることもないわね
ふふ、秋蘭も普段は春蘭の抑え役をしているからああだけれど
強敵を前にすれば熱くなれる武よ
武道会でも開けば見られるかもしれないわね
珍しく良いことを言うじゃないか
確かにその通りだよな
なんだか、秋蘭とは印象が重ならないな
ちなみに、正史の夏侯淵は用兵の術に長けていたわけではないのよ
『太平御覽』を見ると、黄忠に討たれ夏侯淵が死亡した報告を受けた曹操は「軍中では用兵に長けない彼を『白地将軍』と称していた。督師たる者は自ら戦うべきではなかった。ましてや鹿角の補修に赴こうとするとは」と嘆いたのもそれを裏付けていると言えるでしょうね
『白地将軍』というのは無駄な動きばかりするという意味合いが込められているわ
まあ、それでも多くの功績を残しているのもまた事実ね
されど、演義においてはどこか黄忠の引き立て役としての印象が強まっているも事実
だから、正史での話よ
秋蘭は秋蘭、正史の夏侯淵でもなければ演義の夏侯淵でもないわ
夏侯淵妙才
(なら、今夜辺りにでも……)
それじゃあ、次の話に進もうか
あら、残念。続きはまたの機会ね
ちょ、ちょっと、あんた何どさくさに紛れて……っ!
なんだろう、正解して心からホッとした……(てか、舌打ちしたよな、今)
それで? 一体、彼らはどうしたんだ? 何か起きたのか?
…………馬鹿
でも、他の誰かでなく、華琳だったからこそ、隣で支えたいと頑張れるんだよな、俺は
いずれは誰かがやらねばならぬこと
たまたま私が動いたというだけよ……
そういった歴史を知り過去から学び、考えねばならぬこともあるわ
だからといって、人々はそう簡単にはかわれるものでもない……
それから後、結局異民族による叛乱は度々起こったわ
ただ、この執拗な叛乱の理由は『時に諸々の降羌、郡県に不在士、皆、吏人(官吏と漢人)・豪右(豪族)の徭役するところとなり、積むに愁怨を以てす』がもたらしたものだから、流石に漢人側に非があったといえるわね
これ以上は流石に話が逸れすぎてしまうわ。残念だけど、簡略化しましょう
どうしても詳しく知りたければ自分で調べるといいわ
後漢の名将班超の父班彪が護羌校尉に任じられた話が丁度該当しているはずよ
ちっ! ……正解よ
当時文化的に優位に立っていた漢人の役人や狡猾な民衆によって異民族は圧迫されたわ
彼らも人ですもの、当然不満も鬱積してしまうわ
軋轢が生じる……とか?
もちろん、異民族と漢人では習俗と言語が異ってるわ
そういった者たちが雑居すると、果たしてどうなるかしら?
そう。それもいつまでも続いたわけではなかっみたいね
前五四年、匈奴に内紛があり呼韓邪単于が前漢に降った
これによって、羌族も孤立、一部は帰順して中国西北の辺境に移住するようになったわ
じゃあ、そのままって……あれ?
いわゆるチベット系民族ってことだな
も、もちろん、私だって同じよ!
……はあ、それで涼州兵の主力でもあった羌族の話よね
これは、あんたがいた時代でいう青海省を中心として中国の西北方一帯に居住した遊牧民族のことを指すわ
えっと……秋蘭でいいのかな?
それじゃあ、訊ねましょう
この章でもう一人、少しだけ注目した人物がいたわ
一刀、貴方にはわかるかしら?
ああ、それでいいと思うな
あと、華琳は華琳ってのには同意だよ
んもう、時間通りに向かえば姿がなくてショックだったんだから
この傷ついた漢女心……もちろん、ご主人様が癒してくださるんでしょう?
とーうとう、見つけたわよん、我が麗しの君ーっ!
ぐ……っ、それはそうだけど……
だって、雛里の答えは正解なんだろ?
言うに事欠いて、負け惜しみですってぇ!
く、くるなぁぁぁぁぁっ!
あ~ん、お待ちになってぇん♪
えっとだな……それは……
まるで囮とされた家畜とそれに夢中になった敵兵ね
いい気味よっ!
あわわ……ご主人様
そんなことないさ。あれはただの負け惜しみだよ
あ、あわわ……もしかして、出過ぎた真似をしてしまったのでしょうか?
負け惜しみは見苦しいぞ、桂花。はっはっはーっ!
くぅーっ! ぬけぬけとよくもまあ、そんなことをほざけるわね!
はっはっは、流石は雛里だなぁ
俺が言いたかったことを代弁してくれるとは、ありがとな
なっ!? あ、あんた!
……匈奴、ですよね?
なら言ってみなさいよ、李牧が一体、どんな相手に対して行ったのか?
それもわかっているのでしょう?
答えられなかったらそれはもう口で言えないような罰が待っているわよ?
わ、わかってるさそれくらい
そういえば、韓遂を攻める際に華琳さまが用いた放牧や兵の指揮を駆使した策
あれは戦国時代に李牧が使用したのと同じだったのだけど、どうせあんたはわかってないんでしょう?
おまけ