玄朝秘史  第三部 第四十六回  1.帰還  成都への到着が遅れたのは主に象たちのせいであった。  美以たちが用意してくれた象は、馬などを帯同していない一刀たちにとっては運搬の用に非常にありがたいものであったが、なにしろ大きく、さらにはよく食べる。成都側としても慣れないものであるため、受け入れの準備がしたいと連絡が届き、一行は草の豊富な地域を巡りつつ、ゆっくりと成都に近づくこととなった。当然、病人は先に成都に送られたが、雛里は数日で体力が回復したのか、軍中に戻ってきていた。  そして、別れの時が先送りされた二人は、ただひたすらにお互いを貪りあっていた。  甘く据えたような匂いが籠もる天幕の中で、男女はその肉を絡ませ合い、その膚をこすりあい、その汗を混じらせる。 「こんなっ、まいば、んっ、では、兵たちが、不審に……っ」  男に貫かれ、背をのけぞらせながら、彼女は甘い声を無理矢理に抑えて、そんな恨み言を呟く。  ならば、わざわざ忍んで来なければいい、などというのは野暮の極みだろう。彼女は他人に噂される恥ずかしさで自らを留められないくらい、それを望んでいるのだから。 「俺の天幕から嬌声が漏れてても、気にする兵なんていないよ」 「そ、それは……ふ、普段の一刀様のなさりよ……ああっ」  愛紗の膚の上で指を滑らせ、一刀が腰をくねらせる。その動きのなんと巧みなことか。なんと多彩なことか。この調子で剣を振れるなら、この人に勝てる者などこの世に誰もおるまいと愛紗は確信している。  しかし、おそらくは体を動かすことにかけて、彼の才能は閨に集中しているのだ。そのことを、悲しんでいいのか喜んでいいのかすら、いまの彼女にはわからない。なにしろ、その才のおかげで、口にも出せぬほどの快楽にみまわれているのだから。  張りのある乳房が揺れ、引き締まった腰が痙攣し、助けを求めるように、白い指先が伸ばされる。  その全てを包み込んでくれる人がいることの、なんという安堵、なんという幸福。  指を絡め、足を絡め、乳房にむしゃぶりつく男の体温を感じ、愛紗は圧倒的な安心と快楽の中で意識を手放した。 「……何度、したでしょうか」 「んー。俺は今晩は三回かな」 「ならば、私はその倍、あるいは三倍でしょうか」  男の胸に顔を埋めながら、愛紗は言う。もちろん、彼女自身、そんなことはわかるはずもないのだ。わかりやすい男の絶頂とは異なり、自分でもどれだけ達しているか、彼女にはわかっていなかった。  それでも、間違いなく、一刀よりはるかに多い。 「私は、おかしいのではないですか?」 「は? なにが?」 「その、こんなに……求めてしまって」  おずおずと問いかけた答えは、大きな笑い声であった。 「わ、笑い事ではありません」  いや、すまんすまんと言いながら笑い続ける一刀に向かって、愛紗はかみつくように叫ぶ。 「この間など、美以に、いま発情期かなどと訊ねられたのですよ!?」 「ああ、あの娘たちは本当にあるからね。発情期」 「そうなのですか。そのあたり……って違います。そういう話じゃありません」  思わず振り上げた拳を、男の肩に落とす。力どころか、自然と垂れる速度より遅くしたつもりだが、彼は苦鳴をあげた。 「いてっ」 「あ、加減はしているつもりなのですが……!」  真っ青になって彼の肩を見ようと体を起こす愛紗。その形いい乳房が揺れ、男の膚をこする。一刀はその乳房を掌で包み込むようにして持ち上げた。 「あっ……」 「冗談だよ、大丈夫、大丈夫」 「もうっ」  ゆっくりと鼓動にあわせるように乳房の上で動かされる指。敏感な突起に触れぬよう、しかし、感触だけは伝わるよう、じっくりと揉み込むようにされて、体の芯でおさまりかけていたうずきが燃え上がるのがわかる。 「おかしくなんてないよ、愛紗」  彼女の欲情の昂ぶりをわかっているのだろう。それをさらに引き出すように、一刀は身体全体を使って彼女を愛撫し始める。 「俺も愛紗が欲しいんだから」  ぐいと抱き寄せられる。そうなってしまえば、もう抵抗は無意味だ。 「……はい」  二人は再びお互いへと没頭し始める。  そうして、南蛮の領域を出た頃の予想より十日ほど遅れて、彼らは成都の城壁をその目にしていた。 「なんだか賑やかですね」 「賑やかと言うか、騒々しいというか……。象を見物に人が出てるのかなあ」  門の前にはずらりと居並ぶ蜀の兵。その背後には、鈴生りに成都の人々が集まっている。そんな様子を眺めて、流琉と一刀は会話を交わす。 「桔梗め、派手すぎではないか?」  もちろん、この対応ぶりには先頭集団にいる愛紗も困惑気味であった。 「ふむ。たしかに……。とはいえ、凱旋ではあるのだから、これもありであろう?」  一方の星は落ち着いたものだ。だが、彼女は辺りを見回して目を細める。 「とはいえ、これでは象をかえって刺激してしまうかもしれんな。美以たちによく言ってこよう。ここは任せてよいか?」 「それはよいが……。私が最初に入ってしまうぞ?」 「いまさらその程度でおたついてどうする、美髪公殿」  楽しげに笑ってさっさと後ろ――数頭の象と、それに乗る美以以下の南蛮兵――のほうへ向かう星の背を見やった後、まさにそのあだ名にふさわしい美しい黒髪を振り振り姿勢を戻した時、それは起こった。  第一拍はまず、耳を聾せんばかりの太鼓の音。 「なんだ!?」  どろどろと続く太鼓に鋭い笛の音が混ざり、金物の打つ音がさらに和する。  まず思ったのは張三姉妹が来ているわけでもあるまいに、という事だった。だが、そんな驚きを他所に勇壮な楽は続いていく。  軍楽には全て意味がある。たとえば、君主が親率する場合、たとえば、凱旋の時、たとえば仇敵を討ち、国に益をもたらした場合の楽。  それでいえば、今回のこれは、国の中でも第一の将が出立、あるいは帰還する時のためのものだ。  たとえば、魏の夏侯惇を迎える楽。たとえば、呉の周瑜を送る楽。そして、かつての彼女を……。  耳慣れた楽の音に心奪われていた愛紗の意識に、その声が突き刺さるように響いた。 「我らが蜀軍筆頭、関将軍、ご帰還!」  発された大音声の主は、相変わらず酒の瓶を腰に吊った女傑、厳顔。兵たちの作る列の間、門の真ん前に立ち、荊州から帰還する愛紗たちを迎えるのは、留守居の将たる彼女の役目だ。  だが、彼女は――桔梗は、いま、なんと言った? 「白眉を打ち破っての堂々のご帰還、謹んでお喜び申し上げる!」  手を合わせ、膝を折る。その礼のなんたる見事さよ。すっと落ちる体のなんと美しいことか。  だが、いま、それに注目するのはただ一人、愛紗のみであったろう。他の者は、手を振り、口からは声をあげ、足を踏みならすのに忙しかった。 「万歳! 万歳! 我らが将軍万歳!」 「関将軍万歳!」 「美髪公万歳!」  その轟々と響く歓呼の意味するところは明白であろう。  迎える兵たちはそれでも規律を保ち、民たちが愛紗たちの通り道に転がり出ぬよう注意していたが、帰還する兵のほうはそうもいかない。  当初顔を見合わせ、戸惑いを見せていた兵たちは、都の人間たちの喜びぶりを見、そして、彼らの発する声を聞いて、ようやくのように事態を呑み込み始めた。その影に、成都と連絡を密に取り合っていた雛里が各部隊に配していた部下たちの後押しがあったことを後に知らされ、愛紗は苦笑するしかなかった。  いずれにせよ、事情は定かではないにしても、ここに示される事実は明白であった。  関雲長が、蜀に帰参したのだ。  2.祝意 「よっ! 一刀殿」  乱れつつある集団の中、せめて自分の部隊だけでも収拾しようとやっきになっていた一刀は少し離れた所からそう声をかけられて顔をあげた。  わーわーとお祭り騒ぎのようにはしゃぎまわっている蜀兵の向こうに、三頭の馬をひいた女性の姿があった。  栗色の髪を後ろでくくり、長く伸ばす彼女こそ、その名も高き涼州の錦馬超。 「あらら、翠じゃないか。なんでここに?」 「あれ、翠さん?」  同じように彼女に気づいた流琉も近くから会話に参加する。翠は、浮かれ騒ぐ兵を片手で押すだけで馬が通れる空間をつくり、一刀たちに近寄ってきた。 「うん。まあ、色々あって。その話もしたいんだけど……」  辺りを見回す仕草に、一刀も頷く。彼は親衛隊をまとめていた流琉を見た。 「流琉。どうやら、俺たちは退散したほうがよさそうだ。親衛隊と母衣衆を連れて下がれるかな?」  流琉はしばし考えていたが、周囲に集まりつつある部下たちの姿を見て、自信ありげに頷いた。 「はい。大丈夫でしょう。熱狂してるのは蜀の人たちですし。よかったら、兄様と翠さんが先導してくれませんか?」 「ん。じゃあ、ええと……翠、案内してくれるか?」 「ああ。了解」  そうして、三人は翠の愛馬にまたがり、魏軍の兵たちを連れて、その狂乱の渦の中から抜け出るのであった。 「ははあ、翠が報せを持ってきたのか」  流琉に兵を任せ、一刀と翠はそのまま馬を操って、二人、成都の郊外を進んでいた。一刀がまたがるのは紫燕、翠が乗るのは黄鵬だ。  成都の周囲はどうやら荊州への討伐軍と愛紗の帰還が相まってお祭り騒ぎらしく、仕事も休みにして町中に人が集まってしまったようで、彼らが進む辺りは見渡す限り人気がない。 「うん。なんか中原がえらい大変らしいって聞いて、あたしがみんなを代表して洛陽まで行ってみたんだ。まだ蒲公英とかは金城についてなかったけどさ」  彼女の話によると、金城まで来たところで華北、中原での白眉の乱の成り行きを知り、ひとまず事態をしっかり把握すべきと翠が中央に赴くことになったらしい。 「みんなで軍ごと南下しちゃえとか無茶苦茶なこと言うのもいたけど、まあ、あたしだけのほうがはやく動けるし、さすがに洛陽まで行けば色々わかるだろうと思って」  そう主張したのはほぼ間違いなく雪蓮だろう。一刀はそう予想して苦笑する。結局、兵のほとんどは金城に、一部は長城においてあるらしい。馬の大半は長城のあたりで冬越しさせる予定であるとか。 「それで、洛陽についてみたら、ともかくおおかたは事が収まったって聞いてさ。桃香さまにも頼まれて、成都に使者にたったってわけ。一刀殿もこっちから帰ってくるって聞いたし」  へへっと照れたように笑う翠に一刀は実に嬉しそうな表情を浮かべた。彼女が会いたいと願ってくれた気持ちが伝わったからだろうか。  それにしても、と翠はその眉をへの字にして訊ねかける。 「いつの間にか愛紗まで一刀殿のところに行ってて、でも、結局、白眉が終わったら蜀に戻ることになったっていう話だけど、一体どういうことなんだ?」  一刀はそれに対して、涼しい顔でさらに問いを重ねる。 「翠はどう聞いているの?」 「どうって……。大陸の一致協力のために魏に一時的に『貸し出されていた』愛紗が白眉の終結をもって蜀に帰陣したって、そんな感じ。桃香さまも最初から諒承済みの、敵を欺くための計略って話だよな。でも、これっておかしいだろ。なんだか、色々反発もあったようだし」 「うん。ごまかしだよ。愛紗が陥れられそうになったのを俺が手を貸した結果、こういうことになったってのが本当。白眉が終わるまでって約束はたしかにあったけどね」 「陥れられるって……。いや、あたしは訊かないほうがよさそうだな」  翠は目を丸くし、左に――つまりは男のほうに身を乗り出して来たが、思い直したのか身を戻す。黄鵬が文句を言うようにいなないた。 「どうかな。でも、微妙な話だしな……。いずれにせよ、一時的な預かりで、いまは蜀に戻ったっていうのは事実だよ」  民の中にも経緯を疑っている者は多いだろう。あるいは、裏切ったと感じている者も、国全体で見ればまだまだ多数派に違いない。  ただ、ずっと間近に接してきた成都の人間たちは、愛紗の為人を知っている。身近に感じてきた将軍を信じたい気持ちがあるだろうし、純粋に帰還を喜んでもいるのだろう。  益州は白眉の被害が少なかっただけに、三国全体を覆っていた乱による暗い雰囲気が晴れる、そのこと自体を喜んで、多少の怪しい出来事には目を瞑っている面々もいるかもしれない。  いずれにせよ戦は終わったのだ。多少のうさんくささは忘れて、いまは平和を祝いたい、という空気が醸成されているように、一刀には思われた。  華琳も桃香も、これに乗じて多少強引でも押し通すつもりだろう。一刀もそれには反対するつもりはなかった。 「それに、愛紗のおかげで勝ったのも事実だし」  そう呟く一刀の横顔を、翠はじっと見つめていた。 「ふうん……」  従妹が常に浮かべているような悪戯っぽい笑みをわずかの間だけ浮かべたのを、彼女自身意識していたのか否か。軽く鼻を鳴らすようにして、翠はその視線を前に戻した。 「まあ、いいや。愛紗や桃香さまがそれで納得してるなら。それに一刀殿も」 「うん。ありがとう」 「な、なんだよ、急に」  あたたかな男の礼に、まごつく翠。 「いや。なんとなく」 「なんだよ、それ」  彼女はしばし怒っていいのか呆れていいのかわからないというような微妙なふくれっ面をしていたが、ふとなにかを思い出したように話し始めた。 「……ああ、そうそう、肝心の北伐だけどさ、涼州はあたしたちが完全に制圧して、あとは、それぞれの豪族たちをどう処遇していくかかな。韓遂とかには、西涼が建つって話はしたんだけど。でも、それも現状じゃ、ただの空約束だからさ。これからどうしていくか……」  これまでずっとやってきた事の報告だけあってすらすらと出て来る言葉に、一刀が何度か確認をし、さらに内容は詳細になっていく。  結局、二人は心配した流琉が探しに来るほど長い時間、お互いが離れていた間の出来事を語り合っていた。  夕暮れの中を、三人は馬に乗りながら進む。 「もう、私に任せっきりで消えないで下さい。この子が兄様たちの馬の匂いをかぎつけなかったら、兵を出さないといけませんでしたよ」 「ごめんごめん」  ぷぅと頬を膨らませながらも麒麟を優しくなでてやる流琉に、翠も一刀も二人して謝る。夢中になっていたとはいえ、たしかに居場所も知らせずにいたのは彼らの過ちであった。 「あ、そうだ。一刀殿」  申し訳なさげに笑っていた翠は、話題を変えようとしたのか、三人の中で真ん中に位置する一刀の方を向いて、今度は優しい笑みを浮かべた。 「おめでとう」 「ん?」 「いや、蓮華と穏に無事子供が生まれたって」  言葉にならない呻きが、男の喉から漏れる。両手が手綱からはなれて持ち上がり、どこにそれを持っていっていいのかわからないように揺れる。 「おお……」  流琉と翠が聞き取れたのはそれくらいであった。だが、彼の内に歓喜が駆け巡っていることはわかる。わなわなと馬上で震える様子に、二人は顔を見合わせ、小さく吹き出した。 「ほら、手綱とらないと落ちるぞ」 「……へ? わ、ごめん」  翠が横から手を伸ばし、紫燕の手綱をひいて歩みを落とす。つんのめるようにして前に体を押し上げようとしていた一刀はそれに反応してしっかりと鞍に腰を下ろした。 「おめでとうございます、兄様」 「うん。おめでとう、一刀殿」 「う、あ、えーと、うん。ありがとう」  二人からの祝福に、一刀は頭を下げる。その後で、まだ呆然とした表情をはりつけたまま、彼は何度か大きく深呼吸した。  しばらくしてから、男は頭を振り、二人を見た。 「翠、流琉」 「うん?」 「はい」  一刀は片手を口元に持っていき、くい、と杯を呷る仕草を見せた。 「一杯、つきあってくれよ」  二人は一も二もなく頷き、そうして、彼らは笑いさんざめきながら、兵たちの待つ陣へと進んでいくのであった。  3.岐路  夜半、すっかり酒に酔い寝入ってしまった翠と流琉に布をかけてやってから、一刀は一人天幕を抜け出した。  天幕といってもこれまでのような移動の時に携帯するものではない。成都の宿営地に作り付けの、半永久的な天幕である。中にいる限り実に居心地がいいが、酒に火照った体を冷やすには向いていない。  男は夜風を膚に受けながら、ゆっくりと歩き始めた。  待ち合わせをしていたわけではない。気配を感じたわけでもない。  だが、彼の足はそこに向かっていたし、彼女はそこで待っていた。  葉の落ちたけやきの大木の下にたたずむ黒髪の女性に、一刀は手を振る。 「やあ、愛紗」 「こんばんは」  そこで彼女は首を傾げた。黒髪が夜の乏しい光の中で、ぬめるように揺れた。 「その……。なんと、お呼びすべきでしょうか」 「一刀でいいんじゃないかな」  距離を詰めながら屈託無く笑う顔に、愁いを帯びた微笑みが返る。 「呼び捨てというわけにはいきませんから、一刀殿とお呼びします」 「……ん」  返事は一拍遅れる。そのことに、女は救われたような心地がしていた。 「蜀勢は祝宴の最中じゃないの?」 「あまりにも飲まされすぎて一度潰れまして。少し寝てすっきりしたので、戻らずに出て参りました。桔梗や星につきあうのはいくらなんでも無理です」 「まあ、ねえ……」  今日の成り行きを考えれば、酒を注がれるのはどうあっても愛紗となるだろう。飲んべえどもと同じだけ飲もうとすれば壊れてしまうのがおちだ。 「それにしても申し訳ありません。こちらが勝手に始めてしまって。本来は一刀殿たちを歓待すべきだというのに……」 「いやいや、構わなくていいよ。主役はどう考えても愛紗だろう」  この状況では魏軍などおまけにすぎない。出奔したと思われていた彼女が戻ってきたというばかりではなく、荊州の決戦で挙げた武功を考えても、やはり彼女が主眼となるのは間違いないことであった。  だが、愛紗はそれを聞き流し、なんでもないことのように訊ねた。 「幾日ほど、こちらに?」 「華琳に釘を刺されてさ。ちゃんと荊州の始末をつけてこいって。だから、朱里が漢中に戻る時に俺もそこに居て、それで帰還ってなるかな」  翠と話した結果、北伐の面々にも、一度長安に集まってもらう予定になっていた。そのためにも、漢中に一刀がいるのは都合が良い。金城から多少馬を回してもらえることになったので、長安からの帰還はかなり捗るだろう。 「ふむ、そういう段取りですか」 「うん」 「では、数日後に漢中に発ち、そこで待機という形になりましょうか」 「そうなるかな。荊州との連絡は水路のある漢中の方が便利だし」 「はい」  二人は淡々と予定を語り合う。これまでもしてきたことである。  だが、その時とは立場が違う。  今回は、共に動くのではないのだから。いま話されているのは、あくまで一刀の予定であった。  二人の予定では、ない。 「誰を連れて行くつもりですか?」  その問いかけを口にするのに、愛紗は何度か口を開き、そして、閉じていた。そのことを一刀も知っていたが、なにも反応は示さない。 「流琉と翠がいるから」 「いえ、星を連れていってください。ついでに鈴々も。雛里は本人次第ですが、朱里と話したいこともありましょうから、行くかもしれません」 「星たちを?」  こくりと頷いて、愛紗はその意図を告げる。 「桃香様がお戻りになるはずですから、彼女たちには漢中で桃香様を出迎えてもらいます。私は……桔梗と、ここに残りますので」 「ふむ」  君主が帰ってくるのだから、武将が迎えに出ることは不自然ではない。  しかし、もちろん、それをあえてする必要も特にはない。漢中ではなく、成都でも出迎えはできるのだから。  だから、それには他の意味もあるのだろう。そのことに気づかぬほど一刀は鈍感でもなかった。  彼の瞳に優しい光が揺れるのを見て、くしゃりと愛紗の表情が歪む。右手を伸ばしかけ、しかし、それを左手が押さえる。胸の前で手を組むようにして、彼女は顔をうつむかせた。 「私は弱い女です」 「……弱さを知る人は、強い人だよ」  涙声ではない。愛紗は泣いていない。それでも、一刀は胸ふさがれる思いであった。 「それにいつも強くある必要もないんじゃないかな」 「そういうわけにもいきませんよ。なにしろ私は、蜀軍の筆頭なのですから」  振り払うようにして手を開き、愛紗は顔をあげる。わずかな光の中で見えるその美しい顔に、悲しみの痕跡はない。あるのは、ただ、透明な笑顔と、決然とした意思だけだ。 「そうか」 「だから、ここでお別れです」  言って、慌てて彼女は大きく手を振る。 「いえ、個人の関係を絶ちたいというのではありません。ありませんが、しかし……」 「わかってるよ、愛紗」  なだめるようにして一刀は言う。彼もまた彼女に腕を伸ばしたくて、それでもできないことはわかっていた。 「明日からは……公務にて」 「うん」  そう、けして、関係が断ち切られるわけではない。  彼らは明日も会うし、今後も親しくつきあうだろう。恋を語らうことも、愛を誓い合うことも、膚を重ねることもするだろう。  それでもなお、その関係性は決定的に変化せざるをえない。  いま、一刀は華琳の客将であり、愛紗は桃香の臣なのだ。 「さようなら、一刀様」 「さようなら、俺の愛紗」  二人は手を振って別れ、そして、別々の方向へ歩き出した。  どちらも振り返ることなく。  4.将来 「大きくなったなあ」  それが半年ぶりに見た娘に対する一刀の第一声であった。  なにしろ、別れの時は桔梗に抱かれるばかりであった我が子が、部屋の中を跳ね回っているのだから当然かもしれない。つかまり立ち程度はしていても、このように自在に動く姿はみたことがなかった。  千年は、子供部屋として与えられた小さな部屋の中、父親に見せつけるようにくるくると回転している。たまに片足立ちになったりするのは、自分の体の動きを理解しようとしているかのようだ。 「ほんに。いまでは、つかまりながらならば、階段も下りられるくらいで」 「それは……かえって危なっかしくないかい?」  歩くのに疲れたか、はいはいに移行して膝に寄ってきた娘を一刀は抱き上げる。その腕にかかる重みもだいぶ違う。  そのことを一刀は嬉しくも寂しくも思った。毎日抱き上げていれば、このように感じることはあるまい。 「女官たちもいてくれますからな。一人にすることはありません」 「まあ、しかたないか……というか、それが子供ってもんか」 「そうですな」  父親の腕の中でぐずりだした千年を桔梗が抱き取り、胸に抱き寄せる。その柔らかな重量感に安心したか、母にしがみつくようになる千年。  もちろん、一刀は拗ねた。 「そういえば、千年にまた妹が出来たとか?」  桔梗の胸のうちでうつらうつらしだした千年は、やがて本格的に寝てしまった。娘を寝台に運んでやりながら、桔梗が訊ねる。 「ああ、うん。二人ね。孫登と陸延だね。幼名とかはまだ決まってないみたいだ」  蓮華と穏、二人の産んだ子供はどちらも女の子であった。男が少ないと少々寂しい一刀であった。 「ふふ。これからも随分増えましょうなあ」 「ま、まあ、たぶん」  あはは、と笑って一刀は桔梗の横に並ぶ。寝台の上でくーくーと小さな寝息をたてている娘の顔を、二人はじっと見つめた。  それ以上、なにか言葉を交わす必要はなかった。愛しい人は側にいて、お互いの血を引く娘はなんとも平和に眠っている。  その無言の時間の、なんと豊かであることか。  だが、一刀はその沈黙を破らずにはいられなかった。 「桔梗はさ」 「はい?」  我が子を眺める優しい笑顔の女性に、一刀は訊ねる。 「桔梗は、この娘の将来のこととか考えている? 武人にするとかそういう……」  驚いたようにのけぞり、そして、桔梗は大きな胸を揺らして、呵呵と笑った。 「おやおや、親ばかが過ぎましょうぞ。千年はまだ二つ。まだまだ幼子です。大きゅうするのが先というもの。無事育ってくれれば、後はなんとでもなりましょう」  桔梗は体を戻し、そして、ふむ、と首をひねった。髪にさしたかんざしがしゃらりと音をたてる。 「そうですな、せめて十(とお)。そこから考えることでしょうな」 「うん……。それもそうだ。ごめん、変なこと言って」  一刀は桔梗の言に大きく頷く。桔梗の言うことの方がよほど現実的なのは間違いない。だが、桔梗の方はかえってその一刀の態度になにか考えるように目を細めていた。 「悩まれておいでですな」 「悩みってほどじゃ……」  言いかけて、一刀は口を濁す。 「いや、そうだね、たしかに悩みかもしれない」  彼は首を振り、そして、独り言のように話し始めた。 「俺はこれからいろんな事をする。華琳を支えながら、あるいは、一人の男として。やらなきゃいけない。俺がやらなきゃいけないことがあるんだ。だが、それが……」 「それが?」 「それがこの娘に苦労を背負わせることになるんじゃないかと……ね。魏とか蜀とかそういうことではなくて……北郷一刀の娘というだけで、いろんな事を背負わせることになるかもしれない」  桔梗は黙っていた。表情といえるものを全て失ったその顔に、一刀は言葉を失った。  だが。 「ぷはっ」  耐えきれなかったのだろう。ひくひくと動いた口の端がめくれ、大きく吹き出す桔梗。  体を折って腹を抱えて笑う姿に、一刀は別の意味で言葉を失う。 「な、なにを世が滅びようとするような顔で考えておられるかと思えば、そ、そのような! なんとまあ!」 「え、いや、だって……」  笑い声を収め、桔梗は一刀を身振りで部屋の隅へ招く。眠る娘の側でこれ以上大声をあげるのは避けたかったのだろう。  桔梗は一刀と共に部屋の壁によりかかり、夢でも見ているのか寝台の上で手足を動かしている千年を眺めながら肩をすくめた。 「そのようなこと、我が娘に生まれた時より、もはや逃れられぬさだめでありましょうよ」 「それは……」 「もちろん、北郷一刀の子であることも、千年の業」  しかし、と桔梗は意地悪な笑みを浮かべる。 「損のみがあるとどうして思われます?」  桔梗は歌うような調子で続ける。 「厳顔の子であることで、損も得もあるでしょう。北郷一刀の子であることで、得るものも失うものもあるでしょう。けれど、その悪いところばかり見てもどうしようもありますまい」  彼女は手をあげ、そのまま部屋をゆっくりと示した。 「このような部屋を与えられ、滋養のあるものを喰える環境にあるそのことが既に千年の幸運でありましょう。我らの娘ならばこそこのように手厚く世話をされておるのですぞ」 「うん……」  彼女の言うとおりだ。  いかに戦乱の世が終わり、白眉の乱も治まったとはいえ、貧富の差が消失したわけではないし、治安が悪い地域もあれば、飢餓に襲われる土地もある。それを解消すべく一刀たちが努力しているわけだが、全てを手当できているかといえば疑問だ。  母が食べるものもなく、乳が出ずに我が子を間引かねばならない事態も、けして遠い世界の話ではない。ただ、一刀や桔梗たちが恵まれているだけで。  うつむいた彼の様子に桔梗はやれやれと一度ため息をついた。 「それに、やらねばならぬことなのでしょう。違いますか?」 「それは、その通りだ」  さすがにこれには即答する。その態度に、うん、と桔梗は大きく頷いた。 「それに、その決意の底に、千年への思いがないとは思えませぬな。千年への、そしてワシへの思い。それを捨て去って愚かな大義にとりつかれるような男にワシが惚れるとお思いか?」  くすくすと笑いながら、彼女は訊ねる。一刀はそれに答えて小さく笑い、そして顔を引き締めた。 「そうだね。あの娘を守りたい。その思いが根底にあることは確かだよ。千年も、他の子供たちも。それに、桔梗や他の愛する人たちも守りたい。大事にしていきたい。そのために、俺が選んだ道がある」 「ならば、なにをぐだぐだ抜かしておりますか」  そこで桔梗は拳を握り、顔の横に構えて見せた。 「それとも、一喝してきついのをくれてやりましょうか。すっきり目がさめましょう」 「ははっ。それは勘弁してくれ」  言って一刀は手を大きく振る。ふざけたようなやりとりの中で、彼はぽつりと漏らした。 「ごめん。甘えてたね」 「ふふ。甘えるなら甘えるで、もそっと、こう、艶めかしく頼みたいところですな」  それもそうだ、と腰に回ろうとする手を、一度はたいて、しかし、二度目のそれを桔梗は拒否しない。 「ところで、俺がなにをするつもりか訊かなくていいの?」 「話したければもちろん聞かせてもらいますぞ。しかし、ワシからは訊ねません。人が己の道を示すには、第一に行動。言葉で語るは、所詮戯れのようなものですからな」  抱き寄せた体の豊かさと柔らかさを味わいながら囁くと桔梗もまた彼の胸板に指を滑らせてその感触を味わいながら答える。 「それにワシとて、いちいち許しを得たりはしますまい?」 「それもそうだ」  そうして、二人は信頼の籠もった行為を交わし合う。  5.鈴々 「おい!」  その呼びかけの鋭さに、一刀に同行していた母衣衆は思わず武器を抜こうとした。  けれど、一行が振り向いた先にいた人物が武器もなにも持っていないことを確認して、彼らは得物を収める。  それでも警戒だけは解いていない。なにしろ、目の前にいるのは、あの張翼徳なのだ。 「じゃなかった、えっと、その……」  だが、とてつもない武威を持つはずの少女は、しどろもどろになって両手をなにやらこねくりまわしている。今日は普段の服ではなく、市井の女の子が着ているような丈の長い服を着けているだけに、ただの女の子がもじもじしているようにも見える。 「やあ、張将軍」  手振りで母衣衆を数歩下がらせて、一刀は体ごと振り返った。彼女とはいずれ話し合う予定であった。こんな町中での邂逅は予想外だが、余計に話をこじらせたくない。警戒されるような行動は慎むべきであろう。  だが、そんな様々な判断を別にしても、一刀は彼女と話してみたかった。  とはいえ、その場所は成都でも賑やかな通りのど真ん中であった。ここで足を止めるのは通行の邪魔だ。既に幾人かは彼らを避けて歩いている。  一刀は周囲を見回すと、斜め前にあった横道に入るよう身振りで促した。少女は素直に頷いてついてくる。  静かな裏路地で、二人は向き合う。真昼の日差しが周囲の家屋に遮られ、ちょうどいい明るさになっていた。 「久しぶりだね。今日はまたかわいらしい服だ。よく似合ってる」 「似合ってる? この服が?」  着慣れていないのか、彼女はびよんびよんと服の裾を引っ張って持ち上げてみる。わずかに青みがかった白い服は、彼女の快活さを包み込んで、年齢相応の可憐さを引き出している。 「うん。とってもかわいいよ」 「服が?」  こてんと首を傾げるのに、一刀は苦笑して否定した。 「いやいや。そりゃ、服もかわいいけど、元がかわいいから、服も似合うんだよ。服だけかわいくても駄目なんだぜ。服に着られてる感じになっちゃうからね」 「そ、そうなのかー……」  感心したように頷く将軍の姿に、一刀はほほえましくなる。彼は、季衣や流琉を相手にする時と同じように兄貴風を吹かしそうになる自分を心の中でたしなめた。 「って違うのだ。謹慎は解いてもらったけど、まだ武器を持ったりするのは許されてなくて、それで、おしとやかにしておけって言われて、こんな格好させられてるのだ。別に鈴々はかわいく見られたくてやってるわけじゃないのだ」  たしかに普段の服とは違い、いまの姿では大きく動けば腰布がまくれあがってしまうだろう。常にそんな格好でいる武将ならそうしないで動く術を会得しているかもしれないが、この少女がそんな器用なことが出来るかは怪しいところであった。 「そうなの? でも、かわいいのは悪いことじゃないよ。将軍の魅力を引き出しているってことだからね」  この服を選んだ人間は、きっと彼女のことが大好きなのだろう。一刀はそう思う。そうでなければ、こんなにも彼女に似合うものを選べないだろう。あるいは、愛紗が選んだものかもしれない。 「うー」  小さな顔を真っ赤にして、彼女は呻く。虎――もしくは虎縞の猫――の顔を模した飾りが彼女の頭で揺れる。 「なんだか恥ずかしいことを言う奴なのだ」 「ははっ。それはよく言われる」  片眼を瞑って冗談めかして言うと呆れたような顔で見られた。この反応も慣れっこではあるが純真そうな少女にそれをされるのは正直堪える一刀であった。 「そうじゃないのだ。今日はそんなことを言いに来たんじゃないのだ」  はっと気づいたように彼女は表情を変え、一刀の方に真っ直ぐに向き直る。 「えーと、その、お前をたたきのめそうとして謹慎させられてたけど、お姉ちゃんから連絡が来て、自由になったのだ」 「大赦があったから、色々と不問になったらしいね」  うまくやってくれたものだと一刀は華琳に感謝している。大赦は実のところ、今回のこの件だけを狙っているのに違いない。そうでなければ、華琳が大赦など出すはずがないのだ。 「うん。それで……その」  なにかを言いにくそうにするその赤毛の少女を、一刀は不思議そうに見ている。話をしにきたのなら、まずは愛紗の名前が出てきそうだが、そういった様子もないのを疑問に思っていたのだ。  だから、彼女が取った行動は、一刀にとっては予想外のことであった。 「ごめんなのだ!」  そう言って、深く頭を下げられるのは。 「その、お前のこと、斬ろうとしたこと、その……」 「ああ、そうか」  愛紗が帰ってきたこと、そして、最終的に無罪放免となったこと。  その裏にあるものを、彼女がどう捉えているかはわからない。愛紗に聞いているかもしれないし、あるいは桃香から言い含められているかもしれない。  しかし、誰に言われたとしても、自分の行動に間違いがなかったと思えば、この少女は頑として従わないだろう。省みて、そこになんらかの錯誤があったと感じたからこそこうして謝っているのではないか。  一刀にはそう思えた。  だから、それを率直に受け入れることこそ、彼女に応えるやり方なのだとすぐにわかった。 「うん、わかった。謝罪を受け入れるよ」  ずっと頭を下げ続ける少女にそう告げると、赤い頭がぱっと持ち上がり、にかっと元気な笑みが向けられた。 「ありがとうなのだ」 「うん」  そのあまりに直接的な感情の爆発に、一刀のほうがなんだか嬉しくなってしまう。そうして、彼女はお腹がすいたから、お昼を食べに行くのだ、と彼を誘った。 「ん……。じゃあ、この店知ってるかな?」  桔梗に聞いた酒の美味い店を覗きに行く途中だった一刀は、彼女にその店の名前と、聞いていた場所を告げる。すると、 「うん。知ってるのだ。メンマがおいしい店なのだ」  という返答。 「あ、ああ。そう」  その説明に、目論見の全てがばればれであることを悟る一刀であった。 「それから」  一刀と並んで歩き出した少女は、付け加えるようにそう言った。 「これからは、鈴々のこと、鈴々って呼んでいいのだ」 「お、嬉しいな。ありがとう。じゃあ、俺のことは……」  真名をくれることにも慣れてきている。ここで躊躇えば、この少女の場合、侮辱されたと感じるだろうと一刀は悟っていた。だが名前で呼んでくれと言う前に、鈴々が元気に手を振り上げる。 「これからは、お兄ちゃんって呼ぶのだ。あの春巻き頭がそう呼んでたのだ」 「春巻きって……季衣か?」 「うん、そう!」  季衣は『兄ちゃん』なんだけど……と思いつつ、鈴々の笑顔を見つめ返すと、まあ、そんな細かいことはどうでもいいか、と思えてきてしまう一刀であった。  6.相酌  その夜、食事の後に連れてこられた二軒目の店を見て、星は楽しそうに目を細めた。 「ほう、この店ですか。なかなかお目が高い」  彼女が目にしているのは、もちろん、桔梗から一刀が聞き出し、そして、鈴々と共に下見に訪れた店であった。昼と夜では出すものも空気も違うだろうが、昼間の時点でなかなかに美味しいものが出てきていたので男の方も期待していた。 「さっきのところも美味しかったけどね」  味を思い出しているのか舌鼓を打つ一刀に、星が肩をすくめる。 「たしかに実に美味でしたな。しかし、あれは成都でも有名な高級料理店。金を注ぎ込んだだけの味を出してもらわねば困ります。その点ここは値段は張らぬまでも実に美味い酒を出すのですよ」 「そうなんだ。紹介してもらった甲斐があるな。俺も楽しみだよ」  笑い合い、二人は店に入る。先に伝えてあったとおり、店の奥、他とは衝立で区切られた卓に入った。  ここならば、人の気配はわかっても、会話は外に漏れないだろう。 「それで、今日はなにが狙いですかな?」 「狙い? いや、そういうのはないよ。ただ、戦も終わったしね。北伐でもお世話になったし、荊州でももちろん頼りにさせてもらったし、南蛮にもつきあわせたことだし、ゆっくり酌み交わしたいと思って」 「ふむ」  頷きつつも、星は意味ありげな流し目を対面の一刀に向ける。値踏みをするようなその視線に、男は蛇に睨まれた蛙のような心境になる。しかし、告げた言葉は真実でもある。  だから、一刀は店の人間が酒とつまみを持ってくるまでなんとか耐えることが出来た。 「さ、楽しもうか」  ひとまず酒を注ぎあい、飲み始める。もちろん、星のつまみはメンマだ。一刀の方は乾し肉を炙ったものを細く割いたものをつまんでいた。  しばらくは、何ごともなく、二人で酒を楽しむ。前評判通り、なかなかの酒が揃っていた。一刀は片っ端から注文し、調子を早めてしまった気配があったが、星はそれになにも言わずついてきていた。  一刀が自分の酔いに気づき、杯を呷るのを抑え気味にした頃、ふと、彼は星がかじり続けるつまみに目をやった。 「結局、なんだっけ、南蛮の竹はもってこられなかったね」  伝説のメンマとやらもおかげでお預けだ。だが、経緯を考えるとどうしようもない面はあった。 「ああ、しかたないでしょう。雛里があの状況では」  星も一刀の内心の意見に同意なのか、そう残念そうでもなく言う。 「まあ……」  蜀にいるなら、機会は何度もあるよな、と言いかける一刀に割り込むように、星が吐き捨てた。 「それに、あれは所詮言い訳ですからな」 「え?」  だが、それ以上、星は言葉を重ねない。沈黙の中、別の話題に移り、一刀は釈然としないまま、酒を注いだ。  結局、それが気になり続けた一刀は、星が淡々と杯を重ねているところに切り出してみる。 「さっきの、言い訳って……?」  じろり。  底冷えのするような視線が睨みあげるようにやってくる。それを真っ直ぐに受け止めて、一刀は星が突き出す手の中の杯に酒を注いだ。 「今回、貴殿についてくることで、さらに貴殿を知ろうとしたのですよ。南蛮大麻竹はそのための言い訳に使わせてもらいました」  それはそれで目当ての一つではありましたが、と星は続ける。 「成都から南蛮なら、そう遠くはない。いつでもいけることですからな」  一刀はそんな彼女の態度に漏らさずにはいられない。 「俺の?」  自分のなにが知りたいというのだろう。あるいは、知ってどうするというのだろう。そのあたり、本人には理解しがたい面があった。 「そんなに興味深いかな?」  星はそれには答えない。ただ、独り言のように、彼女の口から低い声が飛び出てくる。 「そのくせ、貴殿の心底を探るためにどうすればいいかと考えている間に、雛里の体調不良を見逃してしまった」  その視線がどこに向かっているのか。彼女はだんと杯を机に叩きつけた。 「あれは! 明らかに私の失敗です!」 「いや、それはどうだろうな……」  実際の所、南蛮の気候と戦疲れを考えればどうやっても雛里は倒れていただろう。たまたま一刀が気づいただけで、星の失策であるなどと決めつけることはできないだろう。 「結局、無駄な策を弄して、愚かさをさらけだしたというわけですよ」  自嘲気味に呟く彼女は、一刀と視線を合わせようとしない。  ああ、そうか。一刀は気づいた。これが愛紗の言っていた星の変調というやつだ。  自分の望みのままに動き他者を傷つけそうになった、そのことで己を必要以上に責めて、殻に閉じこもっているのだろう。  だいたい、いまの姿勢からしてそうだ。先程まで一刀に真っ直ぐに対していたのに、机に叩きつけた杯を抱え込むように体を傾けている。無意識に他者との対話を否定する姿勢であろう。 「星らしくないよ」  どう切り込もうかと考え、結局、一刀はこう言った。なるべくきつくならないように笑顔を浮かべて。  だが、それに対する反応は激烈であった。 「私らしい? 私らしいとはどういうことです?」 「え?」 「いつでも飄々としていて? なんでもからかう種にする女ですか。そうですか?」 「星、ちょっと……」 「貴殿が! この私の、趙雲子龍のなにを知っているというのか!」  立ち上がり、彼に対して指を突きつけている星を見上げながら、一刀は低く、彼女の真名を読んだ。 「星」  店中に響き渡る声にざわつく客たちの気配に気がついたのか、彼女は怒りの表情を収め、すっと座り込む。 「……すみません」  ざわめきが収まるまで、しばし二人は沈黙を守り、そして、再び星が口火を切った。 「しかし、実際、貴殿がなにを知っております? 袁本初の前に風前の灯火の伯珪殿を見捨てたことですか? 風と稟の旅の道連れとしてですか? 蜀の将軍としての私ですか?」  先程よりは声を抑えて、しかし、彼女は再び彼を指さす。 「貴殿は、なにも知らない。なにも知らないくせにっ」  一刀は、その仕草に、まるで子供が泣いているような印象を受けた。  たしかに、俺は彼女を知らない。  彼がそう思ったのも不思議ではないだろう。 「そうかもしれないね」  一刀は星の杯――ひびが入っていた――をひょいと取りあげてから、それに驚いている星の顔を覗き込んだ。 「たしかに俺は君のことを知らない。戦場での活躍は知っていても、普段どうしているかも知らない。でも、それは君も同じはずだ」  彼女は一刀を知らない。  一刀をこの世界に生かしてくれた人物だというのに。 「俺を知りたいと言い、俺の志を知りたいと言い。その一方で自分を知らないと罵るの?」 「私は……」  星が何ごとか言おうとするのを、一刀は首を振って遮る。 「俺は、俺の志を君に示したはずだ」 「それは……はい」 「俺にも教えてくれたっていいだろう」  長い沈黙。  その間、彼女がなにを考えたのか。一刀にはわからない。  その間、彼が彼女の中になにを見つけたのか、星にはわからない。  ただ、彼女は小さく頭を下げた。 「……酔いすぎました。今宵はどうかご勘弁を」 「うん。ごめん。俺も変なこと言った」  帰り際、男は女に訊ねる。 「……また飲んでくれるかな?」 「……良い、酒ならば」  それがどういう意味か、一刀には判断がつかなかった。 「知らない、か」  到着の翌日から用意された部屋は、以前成都に滞在した折のものと同じであった。あの頃に比べれば蜀の面々ともつきあいは深くなったが、それでも知らぬ事はたくさんある。 「まあ、そうだよな」  寝台に寝転がった一刀はそんなことを考えていた。  そして、最初、彼はそれを空耳と思った。  星と飲んで返ってきたのでもかなりの時間である。その上、眠れずにごろごろしていたというのに、訪ねてくるような人間がいるだろうか。  だが、いつまでもやまない音に、彼は立ち上がり、扉に向かう。  警戒しつつわずかに開けてみれば、大きな飾り紐のついた帽子が見えた。 「あれ?」  見覚えのあるそれに開け放ってみれば、思った通りの少女がそこにいる。 「雛里?」 「は、はひ」 「どうしたの、こんな時間に」  ともかく廊下は暗いだろうから、と招き入れてみれば、なにやら包みを彼に差し出してくる。 「あの……その、看病……」 「ああ、南蛮の?」 「はい。それで、その、お礼を……」  包みは、一刀へのお礼の品であるらしい。顔を真っ赤にしておずおずと差し出してくる様子に一刀は微笑み、ゆったりとした動作で彼女を必要以上に刺激しないようにしながら、それを受け取った。 「開けていい?」 「はい」  開けてみれば、こんがりきつね色に焼かれた焼き菓子がそこにある。こちらにも焼き菓子はあるが、これはどう見ても一刀のよく知る西洋菓子に見えた。 「へー。クッキーだよね、これ。こんなもの、どうやって?」 「はい。流琉さんに習いまして」 「そっかー」  たしかに流琉ならば知っているはずだ。わざわざ流琉に聞いてまで作ってくれたお菓子のお礼に一刀はほくほく顔になっていた。  そこに、真剣な顔で雛里は切り出す。 「それで、もう一つお願いというか、お話があるんですが、いいでしょうか」 「うん?」 「世界地図を……見せて欲しいんです」  蜀の大軍師の一人、鳳に比せられる知恵者の顔で、彼女はそう言った。      (玄朝秘史 第三部第四十六回 終/第四十七回に続く)